2022年5月29日日曜日

生まれて来た目的


人生で最後にして最大のイベントは何でしょう?

それは死です。



死と聞くと、何か重苦しく、怖いようなイメージを持っている人が多いです。

肉体から自分が離れるだけです。

死ぬ時は、見た目ほど苦しくないようです。



死後も、変わりなく意識は存続しています。

肉体から解放され意識は、新たな世界が広がっているのを認識します。

その世界があの世(霊界)です。



死とは、元いた霊界に戻るための自然現象です。

肉体がなくなるので、食べることも、休息も必要なくなります。

具合が悪いところも、不自由なところも、全て消えてなくなります。

肉体からの欲求や情報が全くなくなり、今までにない軽快感を味わいます。



霊界は思念の世界です。

想像するのが難しいかもしれませんが、思い描いたものが、直ぐに目の前に現れるようになります。

お金がたくさん欲しいと思えば、大金が目の前に現れます。

ただ、物を買う必要がないので、価値は全くありません。

地上の肩書も失われます。

どんな高い役職の人でも、周りと同じ1人の人間になります。



肉体がないために、魂が剥き出しになります。

本性が露わになり、何を想っているのか一目瞭然です。

何も隠し立てすることができません。

それが真実の世界と言われる所以です。



話は変わりますが、学生の時に、1つ年を取るとどうなるでしょう?

自動的に1つ上の学年になります。

もし、同じ学年に留まらなければならないとしたらどうでしょう?

そのままでいるのは嫌です。

早く上の学年に行って、新しい経験をしたくなります。



霊界も同じです。

上の世界に行って、新しい経験をしたくなるようです。



霊界は、完全なヒエラルキーの世界です。

全てが霊性によって決まります。

優しく、思いやりがあり、親切心に富む人ほど、上の世界に行くことになります。



上に行くほど、慈愛に溢れています。

けれども、そこまでの霊性に達していない人にとっては、居心地が悪いようです。

自分の思念と合わないのを感じるからです。



ヒエラルキーの頂点に存在するのは「神」です。

けれども、神は独立している存在ではありません。

神は宇宙全体であり、宇宙全体が神です。

私たちも神の一部です。

神の心を持っています。

しかしながら、表現する媒体(自我)が不完全なために、神の心を完全に表現することができません。



自分のいる世界は、どれくらい神の心を表現できるかで決まります。

しばらくすると、今よりも上の世界に行きたくなるようです。

しかし、どんなに行きたくても、その世界に自分が相応しくなければ行くことはできません。

相応しい自分になるためには、成長するしかありません。



困難や障害を乗り越えること、他者のために奉仕をすることで、人は成長します。

地上では生きて行くために、お金が必要です。

お金を得るために、労働しなければいけません。

家事も対価のない労働です。

人や社会や家族のために何かをすることで、生活が成り立っています。

生きていること自体が、成長につながっています。



霊界は地上と違います。

霊界は、肉体の束縛や、人間関係の煩わしさから解放された快適な世界です。

困難や障害が取り除かれている分、地上よりも成長しにくいと考えられます。

誰かのために何かをすることで人は成長しますが、何もしなくても生きて行けます。

奉仕をする意欲に乏しければ、何もせずに過ごしても良いことになります。

それでは成長しません。

このままではいけないことに気付いて、自分を変えようとするのですが、霊界にいたままでは困難です。



自分を大きく変えるために、地上での経験がどうしても必要になります。

奉仕をする意欲を湧き上がらせるような人生が計画されます。

その計画を了承して、母体に宿ります。



もしかしたら、心身に大きな障がいを持って生まれるかもしれません。

大きな障がいがあれば、人の手を借りなければ、生きて行けません。

誰かに奉仕をしてもらう経験を、来る日も来る日もすることになります。

長い時間をかけて、人によって生かされている、1人では生きて行けないという想いを魂に刻んで行きます。

そして、自分が受け続けている奉仕を誰かに返したくなりますが、それもできません。



寿命が来てあの世に行く時が来ます。

肉体はなくなり、自由に何でもできるようになります。

地上時代に蓄積されていた、誰かのために何かをしたいと言う想いを、心ゆくまで表現できるようになります。

魂に刻んでいた想いにより、周りとの調和を大切にしながら生きるようになります。

地上の経験は、あの世に行った時に、奉仕の気持ちを湧き上がらせることにつながると思われます。

このように自分を変えるための計画は、地上でしか得られない経験によって、成就されて行きます。



この世に生まれると、本当に大切なものが視えなくなります。

地上の経験によって、視えなくなった大切なものが明らかになります。

愛より大切なものは、この世界に存在しません。

そのことに気付いた人は、全体のために、より自分を活かせるようになっています。



霊界を離れ、この世に生まれて、さまざまな経験をしているのは、魂を大きく成長させるためです。

全体のために自分を活かす悦びを知り、神の心を自然に表現できるようになれば、地上に生まれる目的の大半は果たされたと考えられます。

地上で学ぶことのなくなった魂は、自律的に霊界で成長するようになり、上の世界へと行けるようになります。



2022年5月22日日曜日

信じることの大切さ

今から、10年位前のことです。

山道を車で走っていると、大きな犬2匹が道端を歩いていました。

周囲に飼い主の姿は見当たりません。

どうやら野良犬のようです。



最寄りのコンビニまで行き、ドッグフードを買って、その犬たちに与えました。

お腹が空いていたのでしょう、ムシャムシャと一気に食べてしまいました。

2匹の犬は、30㎏以上ありそうなクリーム色のオスのラブラドールと、それより小さめのメスのラブラドールでした。



妻は飼い主のいない犬猫を保護して、新しい飼い主を探す活動をしています。

何とか捕獲して、譲渡できないかと言う話になりました。

慣らすために、次の日から餌を与えに行くことになりました。

ラブラドールは、人のことが大好きな犬種です。

けれども、触ろうとすると、吠えて威嚇しながら、逃げてしまいます。



毎日餌を与え続け、1ヶ月くらい経った頃に、同じ動物愛護団体の人と共に捕獲することになりました。

1人が捕まえて、もう1人が首輪をかける段取りだったそうですが、大きな犬ですので、噛まれたら大けがをする可能性があります。

隅に追い詰めて、突進して逃げようとしたところをヘッドロックをして妻が捕まえたそうです。

首輪がかけられ、捕獲は無事成功しました。

もう1匹のメス犬は、すんなりと保護することができたそうです。



抵抗して噛まれてもおかしくない状況ですが、捕まえた瞬間に大人しくなり、従うようになったそうです。

ヘッドロックされた時に、危害を加える力ではないことを感じ取ったのかもしれません。



2匹を獣医の元に連れて行き検診してもらったところ、病気はありませんでした。

年齢は5,6歳とのことでした。

繁殖犬としてブリーダーに飼われていて、何らかの事情があって捨てられたようです。

人間の身勝手さに憤りを覚えますが、これは決して珍しい話ではありません。

大きな体を維持するために、食べ物を確保するのも大変だったろうと思います。

良くぞ山の中で生き延びていたと、声をかけたくなりました。



オス犬を「ジョン」君、メス犬を「レノン」ちゃんと名付けました。

2匹合わせて、ジョン・レノンです。

私の家で、ジョン君を保護することになりました。



ジョン君には、強い人間不信がありました。

餌もあり、寝床もあるので、いくらかは安心したでしょうが、心を開いてはいませんでした。

家には、保護犬から家族になった親子の3匹がいました。

母犬のしろはジョン君と同じ山を放浪しているところ、保健所に捕獲されて、私の家で引き取ることになりました。

1歳に満たなかったのですが、その時に妊娠していて2匹の子を産みました。

我が家のしろ

この3匹は、家の中で当たり前のように人と触れあい、遊んで、甘えて来ます。

そんな犬たちの姿は、ジョン君にどう映っていたのでしょうか。

今までに見たこともない光景だったと思います。

部屋の中にある自分の小屋から、じっと眺めていました。



見ていて気になったところがありました。

ジョン君は大型犬であり、飼い犬は柴犬位の中型犬です。

ケンカをすれば、勝負は明らかです。

ところが、メス犬の1匹に追い立てられて、体格に優るジョン君は逃げ回っていました。

大きな体格に見合わず、自信がないように見えます。

どうしてだろうと思いました。



両者の間には、決定的な違いがありました。

家の犬は、母犬や人間の愛情を受けて育ちました。

しかし、ジョン君は商売の道具として扱われ、満足な愛情を受けて来なかったと思われます。

自信のあるなしは、性格的なもの以上に、受けて来た愛情のあるなしに関係しているのではないかと思いました。



自分に自信がないと言う人がいます。

そんな人たちの中には、ジョン君のように十分な愛情を受けて来なかった人がいるのではないかと思いました。

幼い時に受けた愛情は、時を経て、生きる力、自分を支える力になると思います。

人も動物も、愛情を持って育てれば、それだけで自信を持って生きて行けるのかもしれません。

ふと、そんなことを思いました。



当然のことながら、犬にも感情はあります。

捨てられたこと、裏切られたことは判っていて、人に対して怒りや哀しみの感情を持っていると思います。

それだからこそ、最初は人が信じられずに、威嚇していたのだと思います。



不信感を取り除き、怒りの感情を鎮めるのは、しつけや指導ではありません。

人間が裏切っておいて、人間が指導したりしつけるなんて、おこがましいような気がします。

ジョン君は、家の犬たちの様子を見ながら、自然に学んで行きました。

「人間は心許せる存在だよ」、「信じられる存在だよ」と、3匹の犬たちから教えてもらったと思います。

元々は、人のことが大好きな犬です。

愛情を受けずに、人に裏切られ、つらい思いをして、信じられなくなっていただけです。

少しずつ心を開いて行き、他の犬たちと一緒に散歩をしたり、遊ぶようになりました。



その後、ネット上でジョン君の飼い主を募集したところ、応募がありました。

東京在住の若いご夫婦でした。

ご主人はプロのスポーツ選手で、チームのリーダー的存在でした。

奥様は心がきれいで、とても優しい人でした。

ご家族にジョン君は加わりましたが、しばらくすると劇的な変化を見せました。

ご主人の力強いリーダーシップに安心し、奥様の明るいオーラに傷ついた心が癒されたのでしょうか、人間不信は完全に払拭され、愛情を求めるようになりました。

山で見つけた時とは、別の犬のようになりました。

お二人とも、ジョン君に心から信じてもらえる人だったのです。



動物の譲渡は人間の手によって行われます。

しかし、保護した動物と新しい飼い主のマッチングは、霊界によって行われていると思います。

霊界は、ジョン君がどのように生きて来たのかを知っています。

そして、これ以上ない人と巡り合わせてくれたと考えています。

偶然などではありません。

愛情を必要としている犬には、愛情に溢れた家族が導かれて来ます。

元気を必要としている家族には、元気を与える犬が導かれて行きます。

双方の目的が合致する犬がモニター上に現れた瞬間に、「この犬だ!」と思わせるインスピレーションが、新しい家族になるべき人に吹き込まれていると思います。

インスピレーションを受け取った人は、一目ぼれのような状態になります。

幸せになった動物たちを見ていると、そんな霊界の導きをひしひしと感じます。


家で保護していた時のジョン君

愛は何よりも大切です。

いくら愛を与えようとしても、相手が受け取ってくれるわけではありません。

まず信じてもらわなければいけません。

信じてもらうことで、心と心はつながり、初めて愛が伝わります。

信じ合うことなしに、愛し合うことはできないのです。

信じてもらおうとするのではなく、信じてもらえる人間に自分がならなければいけないと思いました。


新しい飼い主さんの家で寛ぐジョン君(奥様のサイトより)

前半で受けることができなかった愛情を、後半で取り戻すことができました。

人を信じ、大好きになって、ジョン君は霊界へと旅立つことができました。




2022年5月15日日曜日

あの世の存在が証明されない理由


「あの世はない」

「天国とは闇を怖れる人のおとぎ話に過ぎない」

著名な英国の物理学者である、スティーブン・ホーキング博士は、生前そう語っていました。

下のグラフは、あの世があると思っている人がどれ位いるのかの調査結果です。(公益社団法人ホスピス財団のホームページより)

全体の42.4%の人が、あの世があるのかないのか決めかねると答えています。

男性に比べて女性の方が、あの世の存在を信じているようです。

年を取るほど、信じている人が少なくなる傾向にあるようです。

多くの人があの世の存在に懐疑的なのは、客観的に証明されていないためと考えられます。



もし、あの世があるとすれば、魂も存在するはずです。

しかし、魂はこの世のどんな電子機器をもっても、感知することはできません。

その理由は簡単であり、この世のもの(物質)とは次元が異なるからです。

悲しみや喜びを機器で測れませんが、それと同じ理由です。

測れないからと言って、感情の存在を否定する人はいません。



魂やあの世の存在を否定する人は、生命とは肉体であり、脳波が平坦になったら全てが終わると思っています。

現実は、終わりになることはありません。

新たな環境で、生命活動は続いています。

けれども、そんな人は意識があるので、この世を生きていると錯覚してしまいます。

自分の身に起きている変化について理解ができません。

(地上の人に)しゃべりかけても無反応です。

物に触ろうとしても、指が素通りしてしまいます。

景色が薄ぼんやりとして、はっきりと視えません。



ふと、周囲を見回すと、自分の存在を認識している人たちがいます。

良く見ると、先に逝った人たちです。

しばらくの間、再会の悦びを分かち合います。

その人たちから、もうこの世の人間でないことを告げられるでしょう。

地上では、自分の葬式が挙げられて、動かなくなった肉体が荼毘に付されます。

それなのに、依然として意識があります。

骨になった自分を見て、自分の本質は肉体でなかったことに気付きます。

このようにして、起きたことを少しずつ理解して行き、新しい世界での生活が始まって行きます。

それでも現実に起きていることを頑なに否定し、この世に生きていると思い続けるのなら、新しい環境に馴染むことはありません。

いわゆる地縛的な状態となります。



こんな面倒なことが起きないためにも、あの世の存在が客観的に証明されて、死に備えることができれば良いのにと思う時があります。

証明されれば、それにより恩恵を受ける人もたくさんいます。

大切な人を失い悲しみや苦しみに打ちひしがれている人に、あの世の存在が証明され、そこで故人が生きていて、また会えることが判れば、どれほど癒されるでしょう。



しかし同時にリスクを伴います。

あの世で生きているのなら、自分もそこに行きたいと思うかもしれません。

逢いたい気持ちを抑え切れなくなり、行動に移す人もいるでしょう。



災難が降りかかり、精神的に追いつめられた人がいます。

もし、そんな人にあの世があることがはっきりと判ったら、つらいこの世に別れを告げてしまうかもしれません。



あの世は素晴らしい世界のようです。

食べて行くために働く必要はなくなります。

煩わしい人間関係も一切なくなります。

嘘のように生きるのが楽になります。

その様子がはっきりと判ったら、この世を生きているのが馬鹿らしくなり、さっさとあの世に行ってしまう人も少なくないと思います。

人間は、それほど強くありません。

あの世のことが判るほど、死の誘惑に負けてしまう人が多くなると考えられます。



人は、学び成長するために、この世に生まれて来ています。

この世で遭遇する出来事を乗り越えること、人や動物や社会のために奉仕をすることで成長して行きます。

強く、優しくなるためです。

成長するために、生まれる前に計画されていた出来事が起こりますが、そのことはすっかり忘れています。

ぎりぎりまで追いつめられたとしても、何とか乗り越えて行くと誓って、この世に生まれて来たのです。

そうとは知らずに、あまりにもつらくて、死の誘惑に負けてしまったら、どうなるのでしょうか?

待っているのは暗闇です。

死ぬ直前のつらい状態はそのままです。

大きな過ちを犯してしまったことに気付くことになります。

そして、深い後悔に襲われます。



およその寿命は決まっています。

この世に生まれた目的を無事に果たしたら、自然に肉体から魂が離れて、あの世に行くようになっています。

目的を果たさないうちに、自分の意志であの世に行くことは、自然法則に反しているので、絶対に許されないのです。

どんなにつらくても、その時が来るまで、生きなければいけません。



どれ位の間、暗闇に閉じ込められるのかは、自然法則(神)によって厳格に計られます。

何よりも行動を起こした動機が問われますが、人に良くしたり、世の中のために貢献した人は、(功罪が相殺され)その分短くなると考えられます。

暗闇から抜け出した後は、後悔を晴らすために、もう1度この世に生まれて来ることになるでしょう。

罪を償うために、前生以上に、死の誘惑を伴うような出来事を経験する人生を歩むことになると考えられます。

自然法則の働きによって、そのような顛末が待ち受けています。



無知ほど恐いものはありません。

あの世があることがはっきりと判ってしまったら、このような自然法則の働きなど知らずに、そちらに行こうとする人が後を断たないような気がします。

そう考えると、自然法則の働きを知らない人がいるうちは、あの世の存在は証明されない方が良いのかもしれません。

先が見えていない方が、この世にしがみついて生きようとすると思います。



ところで、前述の調査結果の中で、1つ疑問に感じたことがありました。

それは、年を取るほど、あの世の存在を信じなくなることです。

死が近づくほど、あの世を身近に感じるようになると思っていたので意外でした。

その理由は定かではありませんが、霊界からの働きかけもあるのではないかと思いました。

死んだ後のことが気になり、あれこれと考えるよりも、残り少ない人生を有意義に生きることの方がずっと大切なので、敢えて信じさせないようなインスピレーションを送っているような気がしています。



誰もがあの世に行きます。

冒頭のホーキング博士もそこにいます。

不自由な肉体から解放され、さぞ感激されたでしょう。

想像もしていなかった世界が広がっていて、神の法則が働いていることがはっきりと判り、きっと驚嘆されたと思います。



あの世の存在は、今のところ証明されていません。

自然法則の働きを知らずに、過ちを犯してしまうことがないように、証明されるべきものではないと思います。




2022年5月8日日曜日

神の目的


以前は、神の存在を信じていませんでした。

信じていないよりも、関心がなかったと言う方が正確かもしれません。

神は、宗教に関わる人たちがこだわっている概念であり、一生関係ないだろうと思っていました。

存在を確かめようがないものを、信じることはできませんでした。



シルバーバーチの霊訓と出会い、初めて神について思いを巡らすようになりました。

今は神の存在を信じています。

神とは法則です。

神の心が法則となって顕現しています。


法則が働いているのは、誰もが知っています。

有名なのは、万有引力の法則です。

もし、この法則が働いていなければ、地面に立つことはできず、空に向かて石を投げても落ちて来ることはありません

地球が太陽の周りを回ることもなく、生命は誕生しなかったでしょう。

法則によって、宇宙は経綸され、秩序が保たれています。



全ての自然現象は、法則の働きにより起きています。

生まれるのも死ぬのも、自然現象の一環です。

病気もそうです。

神を信じる、信じないにかかわらず、人生のあらゆる局面に法則は働いています。



人は肉体だけの存在ではありません。

肉体を動かしているのは精神です。

その高次に、霊(魂)が存在しています。

精神とは、真の自分である霊(魂)と肉体の間に介在している媒体です。

霊(魂)、精神、肉体の3つが連動しながら、私たちは地上を生きています。



霊、精神、肉体、存在している次元はそれぞれ違います。

働いている法則も、それぞれ違います。

精神的次元の法則が働いて、精神に変化を起こします。

物質的次元の法則が働いて、肉体に変化を起こします。

例えば、褒められたら笑顔になるのもそうです。

褒められたらうれしくなるのは、精神的次元の法則の働きによるものです。

うれしいと笑顔になるのは、肉体的次元の法則の働きによるものです。

褒められたら笑顔になるのは、2つの次元の法則が同時に働いた結果です。

そして、原因に対して同じような結果が起きるのは、因果律という霊的次元の法則が働いているからです。

根底にあるのは霊的次元の法則ですが、それぞれの次元の法則が密接に関連し合いながら、現象が起きています。



法則を創ったのと、私たちを創った存在は同じです。

その存在を、神と呼ぶことにします。

私たち人間には、自由意志が与えられています。

自由意志があるため、望ましくない方向に進んでしまうこともあります。

進み続けないために、法則が働いています。

法則に反した行いをすると、因果律の働きにより、苦しみや痛みを伴う現象が起こります。

苦しみや痛みを感じるのが嫌なので、最終的には法則に従うことになります。

神は法則によって、私たちを意図する方向に導いています。



霊的真理を学ぶ中で、理解に苦しんだことがあります。

それは「あなた自身も神」と書かれていたことです。

自分が神であるはずがないと思い、少し混乱しました。



別のところでは、こうも書かれていました。

「良心とは内在する神のモニター(監視装置)」

良心は確かに存在しています。

間違ったことをしようとすると、心の中で何かが訴えているのが判ります。

訴えを言葉にするならば「してはいけない」になるでしょう。

心に強いブレーキがかかるのを感じる時があります。



溺れている人がいたら、助けなければと思います。

棄てられた子猫がないていると、何とかしてやりたくなります。

それも、自分の中に良心が存在するからです。

神は、良心という形となって、私たちの心に顕現しています。

身の危険を顧みずに助けようとする人がいますが、その人を通して、神の心が顕現しています。



行動するのか、しないのかを決定しているのは、自分です。

その自分を地上的な自我(以下自我)と呼ぶことにします。

精神的次元に形成された自我は、物質的次元の肉体や外部環境から大きな影響を受けています。

そして、安全に快適に地上を生きることを志向しています。

溺れている人を助けようとして、二の足を踏んでしまうのは、自我の働きによるものです。

良心の声に抵抗し、時に無視をします。



私の身に起きた苦痛を伴う出来事も、良心の声がしていたのに、自我が適当な理由を付けて、無視してしまったために起きました。

良心に従わないと、痛い思いをする。

自らの経験を通して、自分の中に良心という神がいると思うようになりました。


約300年前に作られたストラディヴァリウス

バイオリンの名器にストラディヴァリウスと言うのがあります。

名手が弾いたら、素晴らしい演奏になります。

素人である私が弾いたら、聴くに堪えない雑音になります。

どんな素晴らしい楽器を持っていても、それを表現する人の技術が未熟であれば、特性は活かされません。



私は神を宿しています。

しかしながら、表現している自分(自我)があまりにも未熟なために、神の心とは程遠い表現になっています。

時に、真逆の怒りや嫉妬を表現してしまうこともあります。



楽器を弾くのは、一朝一夕には行きません。

演奏技術を身に付けるためには、日々、練習しなければいけません。

練習することなしに演奏の上達がないように、経験することなしに魂の成長はありません。

未熟な私が、完全(神)に近づくために、相応の経験をして行くことになります。

地上でしか起こり得ない出来事を経験するために、計画的に生まれて来たのです。



強くなるために、困難や障害を経験しているのかもしれません。

優しくなるために、悲しみや苦しみを伴う経験をしているのかもしれません。

さまざまな出来事を経験することによって、魂は鍛えられ、学び成長し、より神に近い心を表現するようになって行きます。



神の心は愛です。

魂と魂を引き付ける力が愛です。

神は、物質的にばらばらになった個と個を、愛の力によって、再び1つにさせようとしています。

そのために法則は働いています。



自我が取り払われ、完全な神の心を表現するようになるのには、永遠の時が必要です。

1つになるまで、私たちは果てしなく生き続けます。


2022年5月1日日曜日

カルマについて


「カルマ」と言う言葉を知ったのは、今から27年前です。

地下鉄サリン事件が起こり、主謀者が被害者は「カルマを清算するために死んだ」と言っていました。

得体の知れない宗教団体の教祖が、無茶苦茶なことを言っていると、その時は思いました。



それから10年の月日が流れ、霊的真理と出会いました。

カルマは宗教が作り出した、架空の概念ではないことを知りました。

自然法則の働きによって、実際に生じています。

私自身に起きた出来事を通して、因果律の働きとカルマの存在を実感しました。



自然法則に反した行いをすると、自動的にカルマが生じます。

カルマは自然に消滅するものではありません。

何かしらの苦痛を伴う結果を生じさせます。



病気や障がいの多くはカルマによって生じると思われていますが、自然法則に反した行いをしていたとは限りません。

さらなる魂の向上を志願して、病気や障がいが生じる身体に宿ることもあります。



ある日突然、降って湧いたように出来事が起きて、それが苦痛を伴うものであれば、カルマの存在を否定できません。

私たちが知ることのできるのは、この世の人生だけです。

原因が全く判らないのであれば、生まれる前にあるのかもしれません。



もし、死んだら終わりと考えるのなら、カルマなど存在しません。

起きること全てが偶然です。

運が悪かったと諦めるしかありません。



死後にも生があります。

生まれる前にも生があります。

そのことを認められるなら、偶然ではなく、生まれる前に何か原因があって、因果律の働きによって、この世に結果が生じていることを認められるはずです。



カルマの解消は、償いであると同時に学びです。

自然法則の働きを、苦痛を通して学んでいます。



霊的な法則を、言葉で表現するのは難しいです。

神の摂理は愛です。

愛を表現するのを妨げることは、自然法則に反しています。



疑うこともそうです。

地上では人の心の中が判りません。

どうしても疑ってしまいます。

神が求めているのは信じることです。

信じなければ、魂はつながらず、対象に愛を表現することができません。

疑うことにより、望ましくない結果が生じます。

そのことは、今、起きている戦争を見れば明らかです。

疑いから怖れが生まれ、怖れから逃れるために、力によって屈服させようとしています。



神の摂理に反する行いに対して、苦痛を伴なう結果が生じます。

今の苦痛は相手のせいと思ってしまうと、それが新たな怒りや憎しみを生じさせることになり、さらに苦痛が増長されることになります。

その想いを行動によって表現すれば、攻撃的なものとなり、それにより新たなカルマが生じて、それが苦痛となって自分に返ってきます。

悪循環を断ち切るためには、他者のせいにするのを止めなければいけません。



カルマが解消されないうちは、学ぶことができずに、苦しむことになります。

どうしようもなくなった時に、魂が目覚め、真実がひらめきによって提示されるかもしれません。

「苦しみの原因は自分にあり、自分自身が変わらなければ続くことになる」

そのことを学んだ瞬間、自分が変わり始め、苦しみから解放されて行きます。



全ての出来事は、自分を成長させるために起きています。

自然法則の働きによるものであり、そこに神の意志が反映されています。



カルマが解消されるまで、成長が許されません。

償いが終わるまで、自分が変ることが許されません。

自然法則の働きを学ぶことが許されません。



例えば、人を裏切り、貶めた人がいたとします。

その行為は自然法則に反しているので、どこかで因果律が働いて、苦痛を伴う結果が生じます。

今生で生じなければ、次の地上の人生に持ち越されます。



ある日、何かに裏切られることになるかもしれません。

原因が過去の人生あり、因果律が働いていたとは思いません。

人や社会を恨んだりします。

あるいは、運命を呪ったりするかもしれません。

その想いが、自分の成長を妨げることになります。



愛を表現すること(誰かのために何かをすること)で、人は成長します。

憎しみや恨みを抱いているのに、他者に愛を表現することができるでしょうか?

怒りや憎しみや恨みの感情が生じているうちは、成長ができなくなります。

その感情は、自分の行為により相手に与えた感情と同じものであり、同じ大きさになります。

怒りや憎しみや恨みの感情は、自らのカルマによって作り出されている可能性があります。

周りのせいではなく、身に起きた出来事の原因は自分自身にある可能性があります。



神の叡智は完璧です。

罪を自覚させ、改めるような出来事を生じさせます。

償いに過不足はありません。

カルマが大きいほど、その感情が強くなり、長く続きます。

感情に苛まれ、苦しむことが、過去の行為の償いとなっています。



感情が消えて行き、苦しみから解放されたのなら、償いが終わる時が来たのです。

人を苦しめることになる、過去に自分がしていた行為は、絶対にしないという心境になります。

このようにカルマは解消され、最後に学びへとつながっています。




2022年4月24日日曜日

問われる時が来る


若い時は、何で生きているのかが判りませんでした。

頑張って何かを成し遂げたとしても、死んでしまえば同じだろうと思っていました。

それでも、周りの人は頑張って生きているように見えました。

どうしてそんなに頑張れるのだろう?と、不思議に思った覚えがあります。



霊的真理を知り、生きている目的が判りました。

目的は1つであり、自分を成長させるためです。

本当の自分、生命の本質は目に視えない「魂」です。

頑張ろうとするのは、魂が成長しようとしているからだと思います。



ところで、魂の成長とは何でしょう?

平たく言えば、強く、優しくなることだと私は思っています。

魂の資質には、思いやり、優しさ、寛容、協調などがあると言われています。

全て、愛が形を変えたものです。



完全な人は、地上のどこにもいません。

誰もが、どこかに欠けている部分があるはずです。

欠けている部分を、身に付けるために、地上に生まれて来ます。

そのための計画が立てられ、およその人生が決まります。

欠けている部分や、身に付ける手段は、人それぞれ違います。

一人一人の人生が違うのは当然です。



例えば、優しさに欠けている人がいたとします。

そんな人は、地上に生まれて、自分の力ではどうすることもできない、窮地に追い込まれる経験をするかもしれません。

絶体絶命になった時に、救いの手が差し伸べられれば、優しさの意味が身に沁みて判ると思います。

自分がされたことを、今度は人にするようになるでしょう。

寛容さに欠けている人であれば、既に身に付けている人の元に生まれて、間近で学びながら、自らも実践して行くようになるかもしれません。

あるいは、不寛容な行いによって、苦痛を伴う結果が生じて、改めて行くかもしれません。

協調性に欠けている人であれば、自分勝手な行動により大失態を犯して、大変な思いをする中で、周りと足並みを揃えることを覚えるかもしれません。

十分な資質を身に付けているのに、それを表現する強さに欠けている人がいたとします。

そんな人は、逆境に生まれたり、逃げることのできない困難や障害に遭遇し、それを克服して行くことで、魂の強さを身に付けて行くのかもしれません。

欠けている部分を身に付けるために、最適な経験をすることになります。



人生のどの時点で、どんな経験をするのかは、誰にも判りません、

それは突然であり、思いもよらぬ出来事かもしれません。



出来事が起きた時に、何で自分がと思います。

原因を探しますが、生まれる前に計画していたことであれば、見つかるはずはなく、偶然としか思えません。



「(若い時の)苦労は買ってでもしろ」と言う諺があります。

その人の成長につながり、先で活かされるからです。

分岐点に差し掛かった時に、楽な方ではなく、敢えて苦しい方に進んで行くこともあります。

苦しい方を選ぶことが、計画されていたのかもしれません。

後で、成長する機会を逃したと、後悔したくないからだと思います。



人生は死後も続いています。

霊界に行くと、視点が全く違って来ます。

苦しくて仕方なかった出来事は、何かを学んで、自分を成長させるために起きていたことが判ります。



現実は変えられません。

周りを変えることもできません。

変えることができるのは自分だけです。



苦しみや痛みは、自分が変わるための触媒としての役割を果たしています。

もし、不運を嘆いたり、運命を呪ったり、怒りをぶつけているのであれば、変わろうとする力が奪われてしまっています。

いつまでも変われないために、苦しみが続いてしまいます。



苦しみは絶対的なものではなく、主観的なものです。

自分が成長することで、苦しみに対する閾値が高くなり、感じにくくなるはずです。

出来事が起きた目的が成就されたのならば、苦しみから解放されるはずです。



受け入れることが、変わるための前提条件です。

目的があって起きていると、強く信じて下さい。



起きた出来事を、どのように考えるのかは自由です。

偶然と思うのも、不幸と思うのも、不公平と思うのも自由です。

しかし、そう思うと様々な感情が生じて苦しむことになります。



その考えが間違っているのかもしれません。

間違いを正すために、苦しみが生じているのかもしれません。

偶然でも、不幸なことでもありません。

自分が変わるために、自分が了承した上で、起きている可能性があります。

不公平だと思うのは早合点です。

霊的な学びや成長が得られることで、完全な公平が保たれています。

成長することが、生きている目的そのものです。



死んだ後に、この世の人生が問われます。

自分が行ったこと、言ったこと、思ったことは、全てオーラに刻み込まれています。

生まれてから死ぬまでの全人生を振り返る時が来ます。

後悔したくないと思うのは、その時が来るからです。



不幸な出来事と決めつけ、いつまでも嘆き悲しんでいる自分、運命を呪っている自分を見て、いたたまれない気持ちになるかもしれません。

望ましい方向に変わると自分自身が決めていたのに、それを妨げてしまう感情に支配されて、計画通りに行かなかったことに愕然とするかもしれません。



全ての出来事は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則は完全な叡智により創られ、完全な愛が表現されています。

全ての生命は、自然法則の働きによって、完全(神)に向かって進化しています。

完全(神)に程遠い、未熟な私たちが進化するために、苦しみや痛みを伴う出来事を経験することのできる地上に生まれる必要があったのです。

人生が変わるほどの出来事は、人間を変えるために起きているのかもしれません。





2022年4月17日日曜日

勇気が怖れを打ち消す


人にはたくさんの感情があります。

できれば喜びだけを感じていたいものですが、そんなわけには行きません。

怒りや悲しみなど、負と言われる感情を感じる時もあります。


中でも厄介な感情は「怖れ」です。

心配も不安も、取り越し苦労も、元は怖れから生じていると考えられます。



どんな時に、怖れは生じるのでしょうか?

自分に何らかの不利益を被る可能性があると想像した時に生じると思います。

肉体的に傷つくかもしれない事象、例えば戦争を体験している時、あるいは起きそうな時に生じると思います。

天変地異を怖れることもあります。

精神的に苦痛をもたらす人に対して怖れを感じる時もあるでしょう。

失敗を怖れることもあります。



頭の中が怖れでいっぱいになる時があります。

病気の人は、この先どうなってしまうのかと、怖れを抱くことがあります。

銃弾や爆弾による攻撃を受けていれば、死への怖れは強烈なものになります。



怖れに支配されると、思考が停止し、何も考えられなくなります。

生きる力も奪われてしまいます。



怖れは、肉体と密接に関連した、自己を守るためにある地上的な感情です。

死ぬと肉体がなくなります。

それに伴って、肉体に関わる怖れから解放されます。

天国と呼ぶのは、心配、不安などが取り払われた世界だからだと思います。



誰も、肉体的にも精神的にも傷つきたくありません。

苦痛を与えるものを怖れ、避けようとします。

しかし、避けられない出来事に遭遇することもあります。



病気になり、リスクを伴う手術を受けなければいけない時があります。

戦争で大切なものを守らなければいけない時があります。

責任のある仕事を任される時もあります。



そんな時はどうすれば良いのか?

使い古された表現になりますが、「勇気」を出して臨むしかありません。

押しつぶされそうになる自分を救ってくれるのが勇気です。



勇気は、困難に立ち向かって行く意志です。

意志なので、勝手に生まれて来るものではありません。

能動的に出すものです。



以前、私は怖れを感じる状況に追い込まれました。

その時、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会いました。

「乗り越えられない困難(試練)は与えられない」

この一節を、強く信じることによって勇気が出ました。

勇気という力が、怖れを打ち砕いてくれました。



もし、生存率50%の手術を受けるとしたらどうでしょう。

半分の確率で死んでしまうのであれば、死への怖れは相当なものになります。

勇気を出さなければ、とても臨めるものではありません。

最初の一歩を踏み出させる力が勇気です。



けれども、こんな疑問が生じるかもしれません。

乗り越えられない困難は与えられないのであれば、もし手術を受けて死んでしまったとしたら矛盾しているのではないか?



肉体を失う可能性があることは、大きな怖れを生じさせます。

苦しみや痛みを伴うものであれば、なおさらです。

肉体が失われたとしても、本当の自分は全く失われません。

次の世界へ移行するだけです。

霊的に大切なのは、肉体にかかわることではなく、肉体を持つがゆえに生じる怖れを、克服しようとすることです。

乗り越えられないとは、死んでしまうことではありません。

怖れに負けて、前に進んで行けないことです。



極限に近い怖れを克服している人がいます。

ポーランドに、マキシミリアノ・マリア・ゴルベ(1894~1941)と言う神父がいました。

自らが広めていた教えが、占領していたナチスの思想と反するために、捕らえられてアウシュビッツ収容所に送られました。

そこで強制労働をする中で、グループの1人が逃げ出してしまい、同じグループの10人が連帯責任を取らされることになりました。

それは水も食べ物も与えられない飢餓監房に入れて死なせるという残酷なものでした。

無作為に選ばれた10人の中に、残してきた家族のことを思い泣き出した男性がいました。

それを見ていたゴルベ神父は、その人の身代わりになると申し出ました。

周囲は驚きましたが、その願いは受け入れられ監房に入ったそうです。

一緒に入られた人たちを、死ぬ時まで励まし続けたそうです。



苦しんだ末に死ぬのが判っていれば、怖ろしくて身代わりになる気など起こりません。

それができたのは、神への全幅の信頼があったからと思います。

怖れを打ち消すだけの愛があったと思います。

霊界の存在から送られていた援助の力によって、勇気が増幅されていたと思います。



私たちは、自分を成長させるために生きています。

生まれる前に決めていた出来事を経験し、霊的に大切なことを学び、魂が成長して行きます。

地上では先が見通せず、何が起きるか分かりません。

苦痛を伴う出来事を乗り越えて行くためには、勇気を出すことが強いられます。

肉体に関わる怖れが取り払われている次の世界では、勇気を出す機会は地上より乏しいと思います。



地上で培った勇気は、次の世界で活かされます。

次の世界は思念の世界です。

思念を持続させるものが意志です。

意志がなければ何も始まらず、何も表現できません。

他者のために表現しなければ、成長することができません。

地上で発揮した勇気は、次の世界において表現しようとする意志を強固なものにします。

勇気を出すことは、次の世界での成長を促すことにつながっていると思います。



一人で生きているのではありません。

成長するために霊的な存在が付いています。

人生を分かち合っている同胞です。

勇気がどうしても必要な時には結びつきを深めましょう。

霊界の存在と共に生きていると、強く信じて下さい。

内から力が湧き出し、それが勇気となるはずです。



精神から生まれる怖れよりも、魂から生まれる勇気の方が強いのです。

どんなことが起きようとも良きに計らわれている、そして霊界から乗り越える力を授かっていると強く信じることによって、怖れを大幅に減じることができると思います。

勇気を出して進んで行けたのなら、その出来事は半分以上乗り越えています。



2022年4月10日日曜日

計画的に学んでいる


若い時は、死は遠い先のことと考えていました。

60才になった今、そう遠くない出来事であり、もしかしたら数年後になるかもしれないと思うようになりました。



霊的真理により、死の理解が深まりました。

およその寿命は決まっているようです。

人生には予め決めていた計画があるからです。

決めていた通りに生まれて、決めていた通りの出来事を経験し、決めていた通りに死んで行きます。




もし、計画がなかったとしたらどうなるでしょう?

行き当たりばったりで、混沌とした人生になるはずです。

我欲のままに、生きようとするかもしれません。

そうならないのは計画が存在するからであり、そのことを奥底にいる自分が自覚しているからと思います。




生まれて来た目的は、自分を成長させるためです。

人間は、肉体、精神、霊(魂)から成り立っています。

肉体的な成長は20才前後で終わりますが、霊的な成長に終わりはありません。

さまざまな出来事を経験することで、多くのことを学び、人は成長して行きます。




本でいくら学んでも、自転車に乗れるようにはなれません。

実際に、自転車にまたがって、転んで痛い思いをしながら、乗れるようになります。



人生における学びも同じです。

自らが経験しなければいけません。




知っているのと、経験するのでは大きく違います。

病気がつらいのは誰もが知っています。

どれくらいつらいのかは、病気になって初めて判ります。

戦争はいけないと誰もが口にします。

けれども、爆撃や銃撃を受けて命の危険に晒された人でなければ、本当の恐さは判らないと思います。

経験しなければ判らないこと、学べないことがいくらでもあるようです。




小学校で、計算や漢字を教わりました。

教わったことは、その後の日常生活で活かされています。

将来のために、苦労して学んでいたと言えます。




いくら苦労して学んだとしても、死んでしまえば意味がないように思えます。

死後も人生は続いています。

次の世界で、この世で学んだことが活かされます。

正確に言えば、次の世界で自分をより活かすために、この世に生まれて、さまざまな経験をしています。




こんな疑問を持つ人がいるかもしれません。

もし、次の世界があるのならば、そこで学べば良いのではないか?

この世に生まれて来る必要があるのか?




この世では、自分と違う人たちに囲まれながら生きています。

自分の想いを言葉や行動に変換して、肉体によって伝えています。

想っていることが違う上に、正確に伝わらない世界に、私たちは今います。




そのために、誤解や軋轢が生じやすくなります。

時に、それが争いに発展することもあります。

争いを避けるためには、互いを認め合い、許し合わなければいけません。

意識していなくても、この世で協調や寛容の精神を学んでいます。




次の世界に行くと、周囲にいるのは自分と霊的に似通った人たちばかりです。

想っていることが、そのまま相手に伝わります。

誤解や軋轢が生じる原因が、完全に取り払われています。

人間関係においてストレスフリーな世界であるがゆえに、この世より寛容や協調の精神を学ぶことが難しくなります。

戦争もありません。

平和な世界であるがゆえに、平和の意味や価値を学ぶのが難しくなります。




戦争と平和、病気と健康、等々、この世には両方が存在しています。

両方が存在しているために、平和や自由(健康)の意味や価値がはっきりと判ります。

比較対象するものがない次の世界では、霊的に大切なことが際立たないのです。





生まれて来たのは、この世でしか学べないことがあったからです。








プラモデルには設計図があります。

もし、設計図がなければ、製作者が意図した通りに、完成させるのは難しいでしょう。




人生にも計画があります。

魂に必要なことを、効率よく学ぶために、最適な計画が立案されます。

もし、計画がなければどうなるのでしょう?

学びは偶然に支配されて、極めて非効率なものとなります。

創造者が意図した通りに、人間を完成して行くのは、極めて困難になります。




全てが完璧な叡智の働きにより計られています。

学ぶことがあれば、この世に何回でも生まれて来ます。

繰り返されるこの世の人生で、どこかで経験しなければならないことを、今しているのかもしれません。

今生で学んだ人は、もう同じ経験をする必要はありません。

未だの人は、次に生まれた時に経験するかもしれません。

完全な公正が保たれています。




楽しい経験ではなく、苦痛を伴う経験でなければ、霊的に目覚めません。

私は逃げ出したくなるような、屈辱的な経験をして目覚めました。

深刻な病気になったり、強烈な別れを経験して目覚める人もいます。

目覚めた魂が、霊的に大切な何かを見つけます。

それが学びです。

学びとは、魂に元々備わっている神の叡智が、経験によって表に出て来る自然現象なのかもしれません。




計画に従って人生は粛々と展開して行きます。

予定されていた出来事を経験することで、予定されていた学びを得て、成長したのならば、この世に生まれて来た意味が成就されたことになります。





2022年4月3日日曜日

心の痛み


仕事で毎日のように虫歯の治療をしています。

ご存知のように虫歯は痛みを伴います。

ひどくなると夜眠れなくなったり、日常生活に大きな支障を来すこともあります。

痛みに耐えられなくなって、来院する人も少なくありません。


もし、痛みを感じなかったとしたらどうでしょう?

虫歯が進んでも気付かず、最終的には歯を失ってしまう可能性があります。

痛みは、身体に異変が起きていることを知らせる大切なシグナルと言えます。



甘いものが好きだったり、ブラッシングを疎かにすると虫歯が生じます。

痛いのは嫌なので、多くの患者さんは甘いものを控えたり、ブラッシングを丁寧にするようになります。

痛みを通して、誤った生活習慣を正していると言えます。



苦痛を感じるのは肉体だけではありません。

心も感じます。

他者から傷つくような言動を受ければ苦痛を感じます。

自分で自分を責めてしまっても苦痛を感じます。



人が傷ついたり、殺されたり、街が壊されたりしているのを見ても、心に痛みのようなものを感じます。

どうしてなのでしょう?



悪いことをしてはいけない、嘘をついてはいけない、人を傷つけてはいけないなど、やってはいけないと思うのは、親から教えられただけではありません。

人は、生まれながらに良心が備わっています。

良心とは、私たちに顕現している神です。

人を傷つけるのは自然法則に反した行いであり、自分の中にある良心が痛みを感じていると考えられます。



人は霊的な存在です。

肉体は別々であっても、霊的につながっています。

そのつながりを通して、無意識のうちに想いを受け取っています。

言葉を交わさなくても、人の想いを察する時があるのはそのためです。

人が感じている苦痛を、自分のことのように感じることがあります。



NASA(RF)の画像

宇宙空間から見れば、地球は1つの美しい生命体のようです。

どこを探しても国境線などありません。

人間が勝手に作った国という概念によって、無用な争いが起きています。



今日、コロナウィルスが地球全体に広がっています。

ウィルスに国境は存在しません、

人間同士はつながっていて、一体であることを物語っています。



戦争は、全体の一部が深い傷を負ったようなものです。

遠く離れていても、全体の一部で起きていることに変わりありません。

霊的につながっているので、痛みを感じると考えられます。



国、人種、言語、宗教などが違っていても、人は同じものを愛しく思い、同じものを悲しみ、同じものを恐れます。

人間の本質は、同じ魂だからです。

その魂に神が宿っています。



神(良心)の声を無視して自然法則に反した行いをすると、因果律が働いて、苦痛を伴う事象が生じます。

そこから免れるためには、自然法則の働きを学んで、従うしかありません。

苦痛を通して、神が望んでいる方向に、私たちは導かれています。

一時的に悪い方向に進んだとしても、最終的には正しい方向に進んで行きます。

私たちの中にいる良心(神)が、悪い方向に進んで行くと、心に痛みを覚えるからです。



過去よりも現在の方が、総じて霊的に進化しています。

それに伴い、人や動物を傷つけることに対して、より心の痛みを感じるようになっていると思います。

何が正しいのか、過っているのかが、以前よりもはっきりと判っている人が多くなっているはずです。



私たちにできるのは、戦争が早く終わるのを祈るくらいなのかもしれません。

その祈りは霊界に届いています。

霊界の人たちが手をこまねいているはずはなく、あらゆる手段を講じて終わらせようとしています。

戦争に関わっている人たちに、良心の呵責を生じさせるような思念を吹き込んでいると思います。

それにより、銃の引き金を引きたくない、ミサイルのボタンを押したくない衝動にかられるでしょう。

上官の命令に逆らって、良心の声に従っている兵士も出て来ていると信じています。



戦争は誰にも知られる事実です。

しかし、世界には誰にも知られず、助けを求めている人たちがたくさんいます。

私の子供の頃から、飢えや疫病に苦しんでいる人たちがいました。

最初に知った時「可哀想だから、何とかしてやりたい」と痛みのようなものを感じました。

時が経ち、その事実が当たり前のようになると、何も感じなくなって行きました。

それは、とても恐いことだと思います。



自分だけ、自国だけが、平和で豊かであれば良いと言う時代は終わろうとしています。

個のことばかりを考えている限り、人間を悩ませる事象が次々と生じます。

全体で考えない限り、根本的に解決しないでしょう。



個は全体のために存在しています。

全体のために何かの役割を果たすように、個が創られています。

ミクロからマクロに至るまで、個と個が協調することで、全体に調和がもたらされます。



私たちは霊的に1つです。

生命はつながっています。

心の痛みは、そのことを教えていると思います。



2022年3月27日日曜日

戦争で亡くなった人たち Ті, хто загинув на війні

 

無用な涙が戦争によって流されています。

どれ位の人たちが、次元を異にして生きなければならなくなったのでしょうか。

この現実は到底受け入れられないでしょう。

生命の尊厳を踏みにじり、未来までも破壊してしまう、こんな愚かな行為はありません。



敵の攻撃を受けて、一瞬のうちに肉体から離れて(死んで)しまった人の多くは、そのことに気付いていません。

逃げ惑っていた人は逃げ惑い、戦っていた人は戦おうとしています。

しばらくして見慣れた人間が横たわっているのを見つけるかもしれません。

良く見ると自分です。

なぜ、ここで寝ているのだろうと思います。



駆けつけて来た家族が、「自分」を見つけて号泣します。

自分はここにいるのに、動かなくなった自分がそこにいて、家族が泣いている、状況が理解できません。

家族に呼びかけても、聴こえていません。

体に触れようとしても、手が素通りしてしまいます。

今までと、全く様子が違います。



周囲を見渡すと、生前親しくしていた、既に他界した人たちの姿があります。

皆、微笑んでいて、自分を歓迎しているようです。



ようやく、その時のことを思い出します。

あそこの場所で、撃たれて死んでしまったのかもしれない。

客観的な状況と記憶から、自分はもうこの世にいないことを徐々に自覚して行きます。



肉体はもうありません。

けれども、弾を受けた時の衝撃が幽体にも及んでいるのでしょうか、痛みのようなものを感じます。

予期せずに、肉体から引き離された魂は、少なからずショックを受けています。

次の世界には、そんな人たちを看護する施設のようなものがあり、連れて行かれます。

そこで手厚い看護(愛)を受けながら、少しずつ魂は癒されて行きます。



次の世界は、地上とは比較にならないほど、全てに渡って配慮が行き届いています。

忘れられたり、いい加減に扱われる人はいません。

親が生き残り、1人で逝った子がいたとしても、不安や寂しさを感じさせないような最善の配慮がなされます。

直ぐに最適な人がかけつけて、その子を慈しみながら面倒をみます。

1人ぼっちになることはありません。



肉体がないだけで、何も変わっていません。

意識が向くところに瞬時に移動します。

1番大事な人のところに赴くのは、ごく自然な成り行きです。



しかし、地上の人の悲しみのオーラが、近寄ろうとする人の障壁になります。

生きていて、傍にいることを何度も伝えますが、無反応です。

肉体を失うことで、地上の人に想いが伝えられなくなったことに愕然とします。



死によって、地上の生活は終わります。

次の世界に移行し、新たな生活が始まります。

地上に接した幽界にしばらくいた後に、生まれる前にいた霊界に戻ります。



しかし、戦争によって無理やり次の世界に移った人は、しばらくの間は戻りたいとは思わないでしょう。

地上にいる人が気になり、やり残したこともあるからです。

そのために、どうしても意識が地上に向きます。

地上の人が深く悲しんでいたり、自分を必要としているのを感じたのなら、放っておいて行く気にはなれません。



全ての現象は、自然法則の働きによって起きています。

戦争で死んだとしても、そこには自然法則の働きがあります。

起きること全てが、神の管理下にあると言うことになります。



神は完全なる叡智であり愛です。

完全な公正が行き渡っています。



予定されていたよりも早く地上を去ったとしても、それに対して「埋め合わせ」があります。

この世で経験できなかったことを、霊的に親しい人が代わりに経験することによって、学びが共有され、成長が得られると考えています。

その人は、先に逝った人の分まで生きていることになります。



傷ついた魂が癒された後に待っているのは、苦から解放された世界です。

そこにいるのは、霊的に類似した、想いを共有する人たちばかりです。

この世よりはるかに平和で快適な世界です。

この世にいたかったと思うことは、まずありません。

いたかったと思うのは、残して来た人のことを想う時です。



※感受性の強い人は、影響を受ける可能性があるので、画像を見ないようにして下さい。


写真の男性はキエフに住むセレヒー・ペリビネスさんです。

奥さんと子供2人を、ロシア軍の攻撃で失いました。

セレヒー・ペリビネスさん(New York Times)

ご家族の死を、twitterに投稿されていた下の写真を観て、初めて知ったそうです。

言葉がありません。

「ここで何が起きているのか知るべきです」と訴えていますので、載せることにしました。

亡くなったセレヒー・ペリビネスさんの家族

インタビューでは冷静に対応をされていましたが、心の中で何を思っているのか窺い知れません。

何の罪もない自分の家族が、このような形で死んでしまうはずはない、醒めない悪夢を見続けていると思っているのかもしれません。

戦争が起きると、このような惨劇が、いつ自分の身に降りかかってもおかしくありません。

いとも簡単に、人が死んでしまいます。




大切な人を亡くした人たちに伝えたいことがあります。

この文章を読んでいるのであれば、きっと霊界の導きによるものです。

Мені є що розповісти людям, які втратили своїх близьких.

Якщо ви читаєте цей текст, то це завдяки керівництву світу духов.




どうか、怒りや憎しみに燃えて生きるようなことはしないで下さい。

誰も望んでいません。

生きる目的にはなりません。

あなたが苦しむだけです。

苦しむためではなく、愛し合うためにご家族と出会ったのです。

罪を犯した人間は、神の法則により、厳格に裁かれます。

Будь ласка, не живіть з гнівом чи ненавистю.

Ніхто не хоче.

Це не мета життя.

Просто скуштуйте страждання.

Ми зустрілися не для того, щоб страждати, а щоб любити один одного.

Людина, яка грішить, суворо судиться за законом Божим.



今、死の意味を見つけるのは困難でしょう。

いかに大きな存在だったのかを知り、茫然とするばかりかもしれません、

これから悲しみや苦しみは続くでしょう。

それに対して霊的な報いが与えられることだけは覚えておいて下さい。

そうでなければ、神の公正は保たれません。

Знайти сенс смерті зараз буде важко.

Я вражений розмірами існування.

Смуток і страждання триватимуть і надалі.

Пам’ятайте, що ви можете бути духовно винагороджені за це.

Інакше справедливість Божа не буде дотримана.



人間の本質は魂です。

姿は視えなくなっても、ご家族は存在しています。

記憶も性格も愛情もそのままです。

Суть людини - це душа.

Навіть якщо ви цього не бачите, ваша сім’я все одно існує.

Спогади, особистості та почуття залишаються тими ж.



魂を引き付け合う力が愛です。

愛で結ばれているご家族に別れはありません。

今も一緒です。

どうぞ信じて下さい。

Любов - це сила притягувати душі.

Немає прощання з родинами, пов’язаними любов’ю

я поруч з тобою.

Будь ласка, повір мені.




数十年後に死が訪れます。

その時、ご家族と再会します。

怒りや憎しみは人間を変えてしまいます。

変わってしまったあなたには会いたくないでしょう。

生きる意味を見失い、ボロボロになりながらも、生きて来たあなたと会いたいはずです。

全て失ったとしても、死なないで下さい。

Смерть прийде через десятиліття.

Возз’єднався з родиною.

Гнів і ненависть змінюють людей.

Я не хочу, щоб ти змінився.

Ви захочете зустрітися з вами, які жили, навіть якщо ви втратили з поля зору сенс життя і стали пошарпаними.

Не вмирай, навіть якщо втратиш їх усіх


2022年3月20日日曜日

戦争がいけない理由


今から30数年前、レンタカーを借りて冬の福島県の山村を旅行していた時のことです。

道路には雪が積もっていましたが、車にはチェーンの備えがありませんでした。

慣れない雪道を恐る恐る走っていましたが、案の定タイヤが滑り出し、車を制御できなくなりました。

センターラインをはみ出して、そのまま対向車に向かって行きました。

ぶつかると思った瞬間、対向車の人が急ハンドルを切って、ご自分の車を路肩の雪の中に突っ込ませました。

それにより衝突が避けられました。

車から降りて駆け寄ったところ、幸いなことにケガもなく、車も壊れていませんでした。

運転していたのは初老の男性でした。

良くあることだよみたいな感じで、咎められることもなく、笑みを浮かべながらその場を立ち去って行きました。

寛大さと言うか、心の余裕みたいなものをその時に感じました。



同じ時期の東京でのことです。

大きな駅の階段の端で、うずくまっている人がいました。

その人をよけながら、たくさんの人が通り過ぎて行きます。

気にはなりましたが、私も通り過ぎました。

予定があるので、関わっていられません。

他にたくさん人がいるので、誰か助けるだろうと、考えていたのかもしれません。

声をかける心の余裕がなかったと思います。



数日前の深夜に、大きな地震がありました。

携帯から警報音がけたたましく鳴り、思わず身構えました。

経験がない私には良く判りませんが、近くで銃声や爆発音が聞こえる中で、平静を保っているのは困難と思われます。

張状態に陥ってしまうでしょう



戦争は、心の余裕をことごとく奪ってしまうと考えられます。

負傷して倒れている人がいても、自分の身が危なければ、放って逃げるしかありません。

攻撃を受ければ、逃げるのに必死で、周りが見えなくなります。



銃を手にして、戦わなければならなくなったとしたら・・・。

敵と出くわしたら、早く引き金を引かないとやられてしまいます。

倒したとしても、その後に何を思うのでしょうか。

正当防衛だったとしても、人を殺したことに変わりありません。

その時の光景が頭から離れず、私自身はトラウマになる気がします。



人間には、2つの自分がいると考えています。

潜在している自分と、顕在している自分です。

前者は、本当の自分(魂)であり、霊的な自我と呼ぶことにします。

後者は、パーソナリティーであり、地上的な自我と呼ぶことにします。

さまざまな局面で、両者の間で葛藤が起きて、勝った方の行動を取ることになります。



恐れや不安があると、自分を護るために、地上的な自我の働きがどうしても強くなります。

それに伴って、霊的な自我の働きが弱くなります。

霊的な自我には神が内在し、それが良心となって顕現しています。

しかし、良心の声は恐れによって搔き消されてしまいます。

1度止めかけた引き金を引くことになります。



侵略して来る人間も同じく、良心があります。

本当は、人など撃ちたくないはずです。

本当は、街など壊したくないはずです。

止めさせようとする良心の声を聴いているはずですが、命令に背くことは許されません。

その声を無視して、ミサイルのボタンを押すことになります。


戦争が終わった後に待っているのは、怒りや憎しみや悲しみを通り越し、虚無感かもしれません。

喪ったもの、壊されたものの大きさに、茫然とするでしょう。

もし家族が死んでしまったらどうでしょう。

助けてやれず、自分だけが生き残ってしまったと、罪悪感を抱いてしまうかもしれません。

侵略して来た人間も、命令に従ったとは言え、自分がした行為が正しくなかったことに気付けば、相当な罪の意識を感じることになるでしょう。

良心に背いた行いをしてしまうために、消し難い後悔や罪悪感が生じてしまいます。

予定されていない不用な感情で、多くの人が苦しむことになります。



爆破された建物や街並みを見れば、受けた被害の状況が判ります。

体に包帯を巻いていれば、傷を負っていることが判ります。

しかし、心の傷を負っていても、誰にも判りません。

戦争に関わった人は、目に視えない傷を負っていると思って間違いないと思います。



さまざまな経験を通して、自分に足りないものを学び、成長するためにこの世に生まれて来ています。

その目的を果たすために、予定されているシナリオがあります。

守護霊の導きを受けながら、シナリオに沿うように人生を歩んでいます。

寿命が来たら霊界に戻り、学び得たものを活かす生活が始まります。



そのシナリオをことごとく破壊してしまうのが戦争です。

予定されていた通りに行かなくなり、地上生活が中断されてしまう人もいます。



他者に奉仕をしたり、困難や障害を乗り越えることで魂は成長します。

しかし、戦争によってその機会が奪われます。

後悔の念や罪の意識に苛まれてしまうと、自由闊達な魂の表現が妨げられ、本来の生き方ができなくなります。

絶望感や虚無感からは、成長しようとする気持ちは生まれません。

怒りや憎しみや恨みを抱いていれば、人のために何かをする気持ちにはなれません。

地上の人の成長を著しく阻害してしまうことになります。

子供を殺害されて入隊した女性(ウクライナ)


急死した人の多くは、自分の置かれている状況が判っていません。

意識があるために、まだ地上にいると思っている人も少なくないと考えられます。

もう地上の人間ではないのに戦闘状態が続いている霊や、無理やり肉体から引き離されてショックを受けている霊で溢れています。

その霊を説得したり、癒すために、数多くの霊が自分のいる境涯を離れて、幽界に赴いていると考えられます。

地上だけでなく、霊界も大混乱に陥れるのが戦争です。



戦争は自然災害とは、全く違います。

自由意志により引き起こされます。

止めることもできたはずです。

良心の声が負けてしまったのです。

その代償は大きすぎると言わざるを得ません。



目に視えないけれども、生命はつながっています。

この事実はヒーリングをしていると納得できます。

面識のない人でも、世界の裏側にいる人でも、人間でなく動物でも、ヒーリングは成立します。

つながりを通して、生命力(霊力)が届けられます。



身体のどこかに、激しい炎症が起きていればどうでしょう。

一部で起きているので、自分には関係ないと言う人はいません。

遠い国で起きている出来事であれば、自分には関係ないように思えるかもしれません。

全ての人は霊的につながっていて1つです。

従って、人類全体がこの結果を享受しなければいけません。



戦争ほど、多くの人の人生を狂わせてしまうものはありません。

成長のために立てられた計画を、台無しにさせてしまいます。

人類全体の進化を妨げてしまう、最も愚かな行為と考えられます。


2022年3月13日日曜日

霊的につながっている


人間には何個の細胞があるのかご存じでしょうか?

およそ37兆個もの細胞があります。



極めて小さな細胞の中には、下記の図に示すように、いくつもの器官があります。

それぞれの器官には、それぞれの役割りがあります。

たった1つの器官が欠けたとしても、細胞は正常に機能して行けません。

細胞(動物)の模式図


その細胞が寄り集まって、脳、心臓、肺、筋肉、血管などの組織が造られ、人体を構成しています。

それぞれの組織は、それぞれの役割りがあります。

目的があって存在していて、1つとして無駄なものはありません。



地球も全く同じです。

多種多様な生命がいますが、それぞれの役割りがあります。

全体にとって必要であり、無駄なものは1つもありません。

ミクロからマクロに至るまで、全ての創造物は目的を持って存在しています。



無限ともいえる宇宙において、地球は最小の単位です。

1つの星の中で完結しています。

そこに生きている全ての生命は、運命共同体です。

生きている地球


それぞれの生命が、自らの役割を果たすことによって、全体に調和がもたらされています。

お互いが、お互いのために存在していると言えます。

従って、生命に優劣などありません。



けれども、人間は生命の中で、1番優れていると思っています。

高度な文明を手に入れているので、知性は優れているでしょう。

一方、周りのことを考えず、身勝手な振る舞いをしているのも人間です。

そのために、地球環境が大きく変わりつつあります。

何の落ち度もない数多くの生命が、人間のせいで大きな被害を受けています。


他の生命にとって人間は、全体の調和を乱しているガン細胞のような存在かもしれません。

何がそうさせているのかと言えば、人間(自分)さえ良ければという利己的な考えです。

そして、物質に捉われて、生命の本質やつながりが視えなくなっているためです。



地球上の生命は、それぞれが独立して存在しているように見えます。

しかし、霊的につながっています。



例えば、動物と植物です。

動物は酸素を吸って二酸化炭素を吐き出し、植物は二酸化炭素を吸収し酸素を放出していて、補完関係にあります。

自然界には、植物→草食動物→肉食動物→微生物が分解→養分を植物が吸収→草食動物というような食物連鎖があります。

どれ1つが欠けても、生命を存続させることは不可能です。



犬を飼っています。

私は犬に住むところと食べ物を与えています。

その代わりに、犬は私を守ろうとし、癒してくれます。



お互いに、何かを受け取り、何かを与えています。

生命は他の生命とつながりながら生きています。

霊的なつながりとは、生命のつながりです。

切っても切れません。

お互いがお互いのために生きる、それが神の意志です。



ほとんどの生命は、自然法則に従いながら生きています。

しかし、人間には自由意志が与えられているので、法則に背くこともできます。

人間が法則に背いたために生じる代償を、運命共同体である他の生命たちも享受しています。


間違っていると気付いていながら、ずるずると流されています。

自分たちの生活を優先してしまうために、現実に目を瞑っています。



全生命が調和をしながら生きて行く方向に進んでいます。

それなのに、今、人間同士の間で激しい争いが起きています。

30年前に逆戻りしてしまったような気がします。


キエフのアパート(ユニセフより)
最も進化しているはずの人間が、他の生命が決してしない、残酷な行為を平然としています。

無用な痛み、無用な傷、無用な死、無用な破壊、無用な怒り、無用な憎しみ、無用な別れ、無用な悲しみが生まれています。

これほどの悲劇が、今の時代に起きるとは思ってもいませんでした。

全て無知から来ています。

霊的な責任が問われることを知っていたのなら、こんな愚かな行為はできないでしょう。

待ち受けている償いがどんなものになるのか、想像も付きません。


キエフの親子(Wo.koriaより)

苦しみや痛みや悲しみを感じている人を見ると胸が痛みます。

私たちには、良心と言う神がいるからです。

そして、霊的につながっているからです。



破壊された建物は、人間の力で建て直すことは可能です。

しかし、人間が負った傷は、元通りにはなりません。

肉体の傷も、心の傷も、癒すことができるのは神の力だけです。



神の力である愛を、私たちを通して与えることはできます。

けれども、できることは限られています。

国を逃れて来た人に、温かい食べ物や寝具を提供する団体を援助するくらいかもしれません。

生き延びるのに精一杯で、何も言えない人たちに代わって、この侵略は絶対に許されないと声を上げることもできそうです。

世界から見放されていない、自分たちの思いを判ってくれていると感じてもらえたなら、ほんの少しでしょうが不安や怒りは和らぎ、この苦境を生きて行く力になると思います。(在日ウクライナ大使館にアクセスし、翻訳サイトを利用することで、ウクライナ語のメッセージを送ることができました。)

ささやかであっても、世界中の人が行動することで、良い方向に向かって行くと信じています。



戦争が起きている時、人間の進化は止まっているような気がします。

人間同士が信頼関係でつながった時に、初めて次の段階へと進んで行けると思います。




2022年3月6日日曜日

信じることによって恐れを克服する


ウクライナの首都キエフ(APより)

戦争(侵略)が起きてしまいました。

どれほどの血や涙が流されるのでしょうか。

一刻も早い終結を強く望みます。

原因はいろいろ考えられますが、根本に「恐れ」があるのではないかと思います。



人は、自分の精神や肉体に危害を加えようとするものに対して恐れを感じます。

恐れは本能とも言えるものであり、地上を生きて行く上で、なくてはならない情動の1つと考えられます。



しかし、恐れが過剰に生じてしまうと、健全に生きて行くことができなくなります。

心に余裕がなくなってしまい、自分を護ることで頭が一杯になります。

高じてしまうと、周りが信じられなくなり、被害妄想的になってしまうこともあります。



過去に強い恐れを抱いた体験があるとトラウマとなり、後で現れることもあるでしょう。

あるいは、過去生での体験が現生で呼び覚まされ、得体の知れない恐ろしさを感じることもあるでしょう。

いずれにせよ、過去の体験が今の恐れと結びついているのは間違いありません。



シルバーバーチの霊訓には「あなた方には恐れるものは何1つありません。」と書かれています。

イエス・キリストは「からだを殺しても、たましいを殺せない人など恐れてはなりません」と言っています。

しかしながら、その境地まで至るのは、並大抵のことではありません。



賢人が恐れを戒めているのは、霊的な通路を塞いで、生きる力を奪ってしまうからです。

精神の活動が妨げられ、硬直化してしまうからです。

地上を生きて行く上で、恐れは必要なものですが、過剰にならないようにコントロールしなければいけません。


暗闇が恐い人がいます。

何かが潜んでいて、襲われるのではと想像をしてしまう人もいます。

何も見えなければ、人は恐れを抱いてしまいます。


昔の人は、雷を恐れていたようです。

天上で神様が怒っているように感じた人もいたようです。

今の人は、放電と言う自然現象が起きていると知っています。

何が起きているか判らないと、恐れを抱いてしまいます。



さまざまな人が、同じ平面で生きているのが地上です。

自分と違う人と交わり、判り合えないと、恐れを抱くことがあります。



また、地上では人の本質(魂)が、肉体により視えなくなっています。

どんな人なのか、何を考えているのか判らないと、恐れを抱いてしまいます。



地上ではさまざまな出来事が起こります。

いくら考えても、原因が全く判らない時もあります。

物質を介しているので、結果が直ぐに現れないのも、その一因として考えられます。

また、生まれる前に予め決めていたことが、何の前触れもなく起きることもあります。

因果関係が判らなければ、偶然として片付けるしかありません。

いつ、何が起きるのか判らないこの世界に、恐れを抱いてしまうこともあるでしょう。



このように、地上は判らないことだらけです。

そのために、どうしても恐れが生じてしまいます。



そんな世界に生きている私たちが、恐れをなくすためにはどうすれば良いのでしょう?

信じることが必要になって来ます。



何を信じれば良いのでしょうか?

人を信じることが必要です。



他の人が何を考えているのか判りません。

歪んだ心の人がいるのも確かです。

そのため、不用意に傷つけられたり、騙されたり、裏切られたりします。



そんな人の中にも神がいます。

神は良心として顕現していますが、エゴ(地上的な自我)に負けてしまうと、過ちを犯すことになります。

良心とエゴのせめぎ合いの中で私たちは生きていて、そのどちらかを選ぶかで行動が決まります。

良心が負け続けると、次第に心が歪んで行きます。

けれども、結局は神の法則である因果律によって、痛い思いをしながら心の歪みは正されて行きます。

どんな人の中にも、神がいると信じて下さい。



すべての人は同胞であり、霊的につながっています。

学び成長することを目的に、地上に生まれて来た仲間なのです。

エゴに負けて、目的が果たせなくなっている人がいるだけです。



そして、この世界を信じることです。

全ての出来事は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則を創ったのは神です。

私たちを悦びの世界に導くためです。

たとえ谷底に突き落とされるような出来事であっても、霊的には上へと引き上げられています。

這い上がって行く過程で、相応の成長が得られています。

出来事を経験することで、何かを学んでいます。



困難な問題が起きても、因果律の働きによって、いずれ解決されて行きます。

全てに渡って、神の意志が働いているからです。

良きに計らわれていると信じて下さい。



そして、自分を信じて下さい。

この世界も人間も、神が創った、神を構成する一部です。

私たちの魂には、神が宿っています。

自分を信じるとは、自分の中にいる神を信じることです。

困難や障害を乗り超えて行く力が秘められています。

自分を信じると、自分の中にいる神とのつながりが深まり、生命力が流れ込み、恐れや不安はどこかへ行ってしまいます。

乗り越えられない出来事は、決して起きないと信じて下さい。



人、世界、自分を信じるのは、口で言うほど簡単ではありません。

けれども、物質に覆われて本質が視えなくなっている地上で生きて行くために、どうしても必要です。

生まれて来た目的の1つは、霊的なものが全く視えなくなるこの地上で、信じることの意味と大切さを学ぶためと思われます。

信じることで恐れに打ち克ち、前に進んで行かなければいけません。

神は、慈しみ合い1つになることを望んでいます。

信じることなしにはつながらず、それは叶いません。



「信じる者は救われる」という言葉が聖書にあります。

意味を調べてみると、イエス・キリストを信じる者は天国に行けると書かれていました。

それは間違いであり、死後の生は全ての人に与えられたものであり、天国のような境涯に行けるのかどうかは、その人の魂で決まります。

信じることで、恐れから来る苦しみから救われると言いたかったのではないでしょうか。



この戦争(侵略)は、主謀者が人や世界が信じられなくなり、恐れが生じたために起きたのではないかと考えています。

自分しか信じられないために、相手を力によって屈服させ、恐れから逃れようとしているように見えます。

その行為は、明らかに神の摂理に反しています。

地上にいる人の良心(神)が許すはずはありません。

思うように行かなくなり、自分さえも信じられなくなった時、耐え難い恐れや不安に襲われるでしょう。

そこから逃れようとして、自らを破滅させようとする行動を取る可能性があります。



信じることで、全てが解決されるはずなのに、残念でたまりません。

こんな平和で美しい国を破壊している代償は、あまりに大き過ぎます。

ウクライナのリウネにある「愛のトンネル」(朝日新聞GLOBEより)


2022年2月27日日曜日

意志を持つ


「生きている」とはどう言うことなのでしょうか?

心臓が動いていれば生きていると、多くの人は考えています。

心臓が止まり、肉体が全く動かなくなったら、死んでいるとみなされます。



生の対極にあるのが死ではありません。

肉体と結合していた「生命」の分離が死です。

荼毘に付されて骨だけになっても、生命は変わりなく存続しています。



生命は肉体と次元の異なるものです。

生命の本体を「魂」と呼ぶことにします。

魂は生命力によって活動をしています。

生命力とは、宇宙を創造し、動かしている神的なエネルギーです。

内から湧き出るものであり、同時に外から流れ込むものです。

生命力が湧き出して、外部に流れて行くのを、ヒーリングをしている時に実感しています。



魂に生命力が供給されて、私たちは生きています。

そうではない、食べた物がエネルギーに変わって生きていると言う人がいるでしょう。

それは肉体の話です。



肉体に指令を与えているのは精神です。

精神が疲れている時に、食物を摂ったとしても、回復するわけではありません。

精神は肉体とは別のエネルギーが供給されています。

魂が受け取った生命力が変換されて、精神的活動のエネルギーになっています。

また、病気やケガを治している自然治癒力も、同じ生命力が変換されたものです。



人間を構成しているのは、「魂(霊)」と「精神」と「肉体」です。

3者の関係は、犬ぞりに似ています。

人が魂であり、犬が精神であり、そりが肉体です。

人の指令によって、犬が働いて、そりが動き始めます。

魂から思念が生まれて、精神が働いて、肉体が動き始めます。



思念は、精神を動かしているエネルギーと言えます。

素となる力は大始源である神から供給されます。

神は独立した存在ではありません。

宇宙が神であり、神は宇宙です。

宇宙全体が神的エネルギーで創られ、満たされています。

私たちは神を構成する一部であり、全体の一部として霊的につながっています。

魂は宇宙全体(神)から無尽蔵にある力を受け取ることができます。

しかしながら、未熟な精神や肉体がボトルネックとなり、大幅に制限を受けています。



精神から不安や心配や怖れ、取り越し苦労が生じると、霊的な通路が塞がれて、生命力を受け取りにくくなってしまいます。

感情で精神的なエネルギーが消耗された上に、生命力が受け取りにくくなってしまうと、活動するエネルギーが不足してしまいます。

その状態が、うつ症状となることもあります。

ヒーリングによって強制的に生命力を注入することによって一時的に症状は緩和しますが、状態が変わらなければ、ぶり返してしまいます。



生命力は個々の魂で思念(意志)になります。

意志は精神により具体化され、肉体によって具現化されます。

意志が生まれて、それによって精神が働いて、肉体に指令が出されて動く、これが正常な状態です。

ところが現代社会では、意志がないままに、精神だけが働かされて、肉体が動いています。

犬ぞりで言うと、人の指令がないまま、犬があてどもなく走っているようなものです。

不安になり、途中で走るのを止めてしまうかもしれません。



意志がないまま、精神だけが活動しているのは、極めて不自然な状態です。

魂から精神、精神から肉体へと変換されているエネルギーの循環が上手く行きません。

そのような3者の調和が乱れた状態が続くと、心身に病気として反映されることもあります。



意志があれば、精神はそれに追随します。

大始源より生命力が流れ込み、それに伴って精神にもエネルギーが供給されます。

意志を失ったまま、精神だけが活動をしていると、次第にエネルギーは枯渇して行きます。



健やかに生きるために、何らかの意志を持った方が良さそうです。

意志があることで、健全なエネルギーの循環が始まります。



夢や目的を持つことは、意志を持つことであり、生命力が流れ込みます。

願いを抱くのも、意志を抱くことになり、生命力が流れ込みます。

○○になりたいと願いを抱くと、実現するために精神が働き出し、時間がかかるかもしれませんが、具現化する方向に向かいます。

ささやかでも良いのです。

例えば、朝起きた時に「心穏やかに生きたい」と願えば、精神が働き出し、具現化する方向に向かいます。

意志がなければ、何も始まりません。



意志を持つことは、生きる推進力となります。

ただ問題が1つあります。

人間にはどんな意志を持っても良い、自由が与えられています。

神の意志(自然法則)に反する意志を持つことも許されます。

その意志に対しても、神のエネルギーは流れ込みます。



ロシア軍のウクライナ侵攻(CNNより)

あってはならない愚かな戦争が始まりました。

見知らぬ人間が、いきなりドアを蹴破り、土足で家の中に入って来て、大切な人が殴られている、侵略されている国の人たちはそんな心境だと思います。

過った意志を行使する者がいる限り、苦痛、怒り、憎しみ、悲しみ、業しか生み出さない、この様な悲劇は繰り返されます。

自分以外の人間を信じられなくなってしまった独裁者の終わりの始まりですが、代償が大きすぎます。

無知が酷すぎて、霊界も憂慮していると思います。

苦痛を感じ、救いを求めて真理に辿り着く人がいて、健全な方向に進んで行くと信じるしかありません。




平和な世界にするためには、人を脅かし傷つける行為は絶対に許さないと言う明確な意志を1人1人が持つことが必要です。

その意志は伝播しながら、具現化して行くと思います。



2022年2月20日日曜日

不安や怖れを意思(志)で打ち消す


コロナ禍ですが、今週末、私が所属する歯医者の勉強会が創立されて30年になり、記念講演会が開催されました。

大人数の前で話すのは、この年になっても緊張します。

何とかならないものかと、いつも思います。



この緊張感はどこから来るのでしょうか?

人間には、霊的な自我と地上的な自我が存在しています。

霊的な自我は、奥底にある意識であり、本当の自分とも言える存在です。

地上的な自我は表に出ている意識であり、肉体を使って霊的な自我を表現するためにある媒体です。



何かをやろうとする時に、上手く行くのだろうか?失敗したらどうしようと、先のことを考えて不安になることがあります。

緊張や不安や恐怖は、地上的な自我から生じていると考えられます。

また、過去のことを思い出して、怖れや不安が生まれるのも、地上的な自我の働きによるものと考えられます。



そんな感情などなくてもよさそうですが、そうは行きません。

断崖絶壁の上に立ち、恐怖を感じなければ、誤って落ちてしまうかもしれません。

地上の環境から肉体を守るために必要なものです。



不安は、将来を頭で予測することにより生じます。

その感情が生じると一種の苦しみを感じるので、何とかしてその状況から抜け出そうとします。

肉体的な苦痛を感じると回避しようとしますが、それと同じで不利益を被らないようにするためにある、防御的な感情の一種なのかもしれません。



頭の中が真っ白になるという状態があります。

不安が極度に亢進して、理性がマヒした状態と考えられます。

どんなに経験があったとしても、想定外のことが起きる可能性があります。

地上は不完全で不確実な世界であり、何が起きるのか判らないので、不安は付きものと考えられます。



人間は肉体、精神、霊(魂)の複合体です。

精神は肉体に指令を出しています。

右手を挙げろと精神が指令を出さない限り、右手は挙がりません。



霊(魂)は精神の上位に存在しています。

霊(魂)からは、本当の自分の想いや願望が生じています。

それを精神を働かせて、具現化しようとします。



地上的な自我は、精神上に形成されていると考えられます。

そこから生じている不安や心配、緊張や怖れなど感情は好ましいものではないようです。

シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「霊的なものにとって恐れるということが何よりも強烈な腐食作用を及ぼします。恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。」



怖れや不安や心配を吹き飛ばすものがあります。

それは意思(志)の力です。

2001年、新大久保の駅で起きた痛ましい事故のことを思い出します。

ホームに落ちた人を助けようて、2人の男性が亡くなりました。

助けようとする意思は、霊的な自我から生じていたと考えられます。

自分の命が犠牲になってまで、人を助けようとするのは、霊的な自我が神性を帯びているからです。



一方、地上的な自我は、自分も巻き添えになってしまうと怖れを感じさせて、肉体を守ろうします。

霊的な自我と地上的な自我の間で葛藤が起きる時はありますが、どちらか勝った方の行動を取ることになります。

助けようとする意思が、怖れを上回った結果として、この様な行動を取ったと考えられます。

助けようとする意思は愛に基づいています。

神の摂理に適った想い(愛)は、あらゆる感情を凌駕しており、不安や恐怖を打ち負かす力を持っていると考えられます。



1985年日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落しました。

墜落前のダッチロールを繰り返す機内はパニック状態になっていたと推察されます。

そんな機中で、家族に宛てた感謝の文章を書いている男性がいました。(別の記事にその文章を載せてあります)

誰もできることではありませんが、魂から生じている強い想いが、極限的な恐怖に打ち克っていたことを証明しています。



繰り返しになりますが、霊(魂)は精神の上位にあります。

地上的な自我(精神)から生じる不安や怖れは、霊的な自我の働きによって打ち消すことができると考えられます。



はっきりとした意思を持てば、望んでいない感情が生れるのを抑えられるはずです。

魂から生じている意思は、精神から生じている感情よりも強いからです。

もし、不安や怖れが湧き上がって来たのなら、それを打ち消すようない意思を思持てば良いはずです。

具体的には「上手く行かなかったらどうしよう」と考えて不安になるのではなく、「上手く行く」あるいは「乗り越えられる」とはっきりとした意思を持ちます。

それでも不安が生じてしまうのであれば、その度に自分の意思を上書きするようにすれば良いのです。



北京オリンピックが閉幕しようとしています。

どの選手も、最高のパフォーマンスをすることを望んでいます。

国の代表であり、想像を超えるプレッシャーを感じていたと察せられます。

失敗は許されないと思うと、緊張はどうしても高まってしまいます。



不安や怖れを感じながら、最高のパフォーマンスはできません。

高まった緊張から不安や怖れが生じないようにするのには、「自分を信じる」という意思を持つことが必要です。

多くのスポーツ選手が「自分を信じて臨んだ」と言っているのを聞きますが、根拠のないことではありません。

自分には神性があります。

起こること全てを乗り越えさせる力が秘められています。

信じることで神とのつながりが強くなり、乗り越える力が内から湧き出します。

自分の中に神がいると思っていなくても、自分を信じれば持てる力が出せることを、多くの人は経験的に知っています。



自分の中に神がいると、強い意思を持って信じて下さい。

そうすれば不安や怖れはなくなるはずです。

「全き愛は恐れを締め出す」と、イエス・キリストも言っています。

強く信じることができれば、神とのつながりが深まり、その愛により恐れは締め出されると考えられます。



摂理に適っている意思であれば、霊界から援助の力が届き、実現する方向に動き出します。

もちろん相応の実力がなければいけませんが、自分の栄誉のためではなく、人に勇気を与えたい、元気付けたいと願いながら臨む人は、神の摂理に適っているので、援助の力を受け取ることができると考えられます。

持ってる力以上のパフォーマンスができて、想像以上の結果が得られることになります。

そんな時は、知らずに霊力の通路になっていたと考えられます。

勇気を出すことの大切さを、その人に通して伝えたいのだと思います。

挑戦することで人は成長するからであり、それが神の望みだからです。



不安や怖れが生じたら、それを上書きするように、明確な意思を持つようにしましょう。

成長につながるものであれば、神の力が魂に流れ込み、不安や怖れは打ち消されるはずです。

今回の仕事においても、それを実践して、正しいことを再確認できました。



次に行く世界は、思念の世界です。

明確な意思(思念)を持たなければ、何も始まらない世界です。

不安や怖れを克服するために、意思を持ち続けるのは、能動的で労力を伴う作業ですが、望ましい自分になるため、望ましい世界にするために、避けては通れない過程だと思います。

不完全で不確実な世界である地上において、その力(意思)を養っていると思います。





2022年2月13日日曜日

死はこの世の卒業


日本人の平均寿命は85歳位です。

個人差はありますが、単純に計算すると生まれてから3万日経つと、そろそろ死ぬ時が近づいていると言えます。

3万日は気の遠くなるような日々に感じますが、私もすでに2万日を超えています。



これまで生きた日々の上に、今日があります。

年を取るごとに、1日の重みが増して行くように感じるのは、私だけなのでしょうか。

これから先も重みが増し続けて、臨界点を迎えて一気に軽くなる時が来ます。

ずっと先のことだと思っていましたが、少し死を意識するようになりました。



霊的真理と出会って良かったと思うことの1つに、死は次の世界に移るための自然現象と、はっきりと判ったことです。

その現象を「鳥かごから大空に向かって鳥が放たれる」、あるいは「さなぎから蝶が飛び立つ」と例えていますが、それ以上に劇的な変化と考えられます。

肉体がなくなっても意識が存在し、思念が直接伝わる世界に移った時の感動は、言葉では言い表せないと想像されます。

そんな知識を得て、死は怖くなくなりました。

むしろ、早く来れば良いのにとさえ思います。



およその寿命は決まっていますが、その時がいつ来るのか分りません。

30年後だとしたら、ずっと先のように感じられ、生き方を変えることはないでしょう。

あと1年後だとしたらどうでしょうか?

どう過ごすのか、じっくりと考えます。

仕事に追われて生きて来たのであれば、家族や友人と一緒に過ごす時間を増やす人もいるでしょう。

喧噪から離れて、自然の中でゆっくりと過ごす人もいるでしょう。

世の中のために、何かをしようとする人もいるでしょう。

長く生きられないと判っているのに、お金や地位や名誉を欲しがる人はあまりいません。

愛情や友情など、目に視えないものを大切にする人が多いと思います。



あと1週間になったらどうでしょう。

後悔がないように、わだかまりがあった人と会って、仲直りをしたくなるかもしれません。

一番好きな場所を訪れるかもしれません。

何もせずに、ただ平穏に過ごすのかもしれません。



最後の1日になったらどうでしょう。

今までお世話になった人に、ありがとうと感謝の気持ちを伝えて、別れのあいさつの代わりにするような気がします。

できれば苦しまずに、眠るように逝ければと思います。



死を意識することによって、地上的な意識から、霊的な意識に変わると考えられます。

大切なもの、価値のあるものに、限られた時間を費やすと思います。

最後にしたいことほど、本当に大切なものと考えられます。

感謝の想いを伝える、心穏やかに過ごす、そんなありふれたことが、何よりも大切なのかもしれません。



今日1日が最後だと思って過ごせば良いのですが、頭ではまだ先と考えてしまうので、なかなか難しいです。

生活して行くため、社会との関わりがあるので、そう簡単に生き方を変えるわけにも行きません。

さまざまな地上的な欲求やしがらみがあり、思うほど大切ではないことに、多くの時間を費やさなければならないのは確かなようです。



命に関わる病気になれば、そうは行きません。

否が応でも死を意識するようになります。

霊的な意識に変わり、本当の大切なものに気付き、どうでも良いものを切り捨て、生き方を変える人もいるでしょう。

自分の意思で変えるのは難しいです。

病気は、本来の自然な生き方に強制的に戻すために創造されたのかもしれません。



死は不幸な出来事なのでしょうか?

多くの人は死を疎ましがります。

秦の始皇帝は不老不死の薬を探し求めたそうですが、現代においてもそんな薬があれば手に入れたいと思う人はたくさんいるでしょう。

もし「不死」の薬が与えられたとしたら、喜ぶどころか極めて重い懲罰が課せられたように感じてしまいます。

死ねないことこそ、不幸だと思うからです。



この世は学校に例えられますが、その通りです。

死後の世界(霊界)は実社会です。

実社会である霊界で、自分をより役に立てるために、この世という学校に生まれて来ます。

学校では、国語、算数、理科、社会などの教科を学びます。

この世という学校では、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛について学んでいると考えられます。

それらは魂の資質であり、全てが愛に通じるものです。

神の心と言って良いでしょう。

自分に足りない資質を補うために、最適な出来事を経験することになります。



この世は、さまざまな魂が混在し、肉体を介して表現をしなければいけません。

そのために、判り合えず、時に争いとなります。

苦しい思い、痛い思いをしながら、信じること、勇気を出すことの大切さを学んでいます。

いくら愛があっても、それらがないと表現できません。

苦痛が取り払われている霊界では、地上ほど学ぶことはできないと思われます。



死は、この世という学校の卒業です。

しかし、誰でも卒業できるわけではありません。

あの世に行きかけて、まだ早いために、この世に帰って来る人がいます。

地上にいる人たちは、九死に一生を得たと喜びますが、本人にとって喜ばしいことなのでしょうか?

元いた住処に帰れるはずだったのに、引き返して来たことになります。

再び重い肉体を纏って、学ばなければなりません。

つかの間でもあの世を経験した人の多くが、そこに留まりたい衝動に駆られたと、後に語っています。



世の中には、この世を早く卒業してしまう人がいます。

残った人は、早すぎる死を嘆き悲しみます。

そんな人は、この世に入学した時点で、すでに多くのことを学んでいたのかもしれません。

魂の資質(親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛)を、十分に身に付けている優等生が多いと感じています。

学ぶことが少なければ、学ぶ時間は少なくなって当然です。

短い期間で目的を果たして、飛び級で卒業することが許されたと考えられます。

いつ卒業するのかは、予め決まっています。

偶然はありまぜん。



世の中には、社会を経験してから、再び学校に入り直す人がいます。

それなりの目的があってのことです。

それと同じで、霊界にいる者がこの世という学校に入り直すのには、明確な目的があります。



この世で学んだことは、あの世で活かされます。

自分を活かそうとするほど、まだ足りない資質があり、学ぶべきものが残されていることを強く意識するようになります。

そこで、地上と言う学校に再び入学し、計画的に学ぶことを志願します。

学校の勉強が楽しいものではなかったように、この世で大切なことを学ぶのも楽しいものではありません。

それでも、この世に戻って来るのは、成長したい根源的な欲求が魂にあるからです。



目的を果たした時、死によって地上から解放されます。

その時は自然法則に計られているので、勝手に早めることは許されません。



死にたくないのは、学校に居続けたいのと同じです。

学生のままでは、何のために学んでいるのか判りません。

卒業して実社会で活かさなければ意味がありません。



死はこの世の卒業です。

大変な思いをした人ほど、解放された悦び、そして成長した悦びを感じるはずです。

苦労して学んだことを、活かせる時が来たのです。





2022年2月6日日曜日

人生の課題


学生時代で嫌なものは宿題でした。

次までにやって行かなければ、先生に叱られるからです。

寝てしまい、次の日の朝に慌ててやった記憶があります。

先延ばしをしても結局やらなければならないので、なるべく早くやっておくのに越したことはありません。



人生にも、やらなければいけいない課題があります。

自分に必要なことを学び、成長するために、私たちは課題を決めて生まれて来ています。

過去の人生(過去生)でやれなかったので、この人生に持ち越されている場合もあります。

内容を知ることはできませんが、宿題と同じで、楽しいものではないのかもしれません。



ある日突然、課題が訪れることもあります。

その時、正面から向き合うのか、回避するのか、決めるのは自分です。

向き合えば、大変な思いをするのが目に見えています。

回避する方が、楽で安全です。

それでも、敢えて向き合う方を選ぶ時があります。

避けてはいけないことを、本当の自分(魂)は知っているからです。



成功と失敗のどちらかになる課題もあります。

挑戦と言えるでしょう。

失敗すれば、失うものがあるかもしれません。

失いたくないので、回避する方を選んでしまいがちです。

それは、もっと大切なものを失っているような気がします。



挑戦は苦労を伴います。

精神的な緊張も強いられます。

しかし、挑戦している過程で成長が得られ、何かを学んでいます。

回避してしまえば、得るものは何もありません。



「乗り越えられない困難は与えられない」これは最も大切な真理の1つです。

それと同じで、「乗り越えられない挑戦」に出会うことはないはずです。



新しいこと、リスクを伴うことであれば、躊躇してしまうこともあります。

遠い昔、自転車に初めて乗った時もそうでした。

転ぶと痛そう、自分に乗れるのか、怖れや不安がありました。

転んで痛い思いをしながらも、何とか乗れるようになりました。

地上では何かを得るためには、怖れや不安を克服して、挑戦しなければいけないと考えられます。



挑戦するには、勇気が必要です。

どんなに意思があっても、勇気がなければ、一歩を踏み出すことはできません。

魂が成長するために、どうしても必要な資質が勇気です。

挑戦する課題が突き付けられた時は、勇気が試されているのであり、同時に身に付ける機会となっています。



回避してしまった場合、因果律が働いて、その先で新たに挑戦する機会が巡って来るかもしれません。

あるいは、そのまま人生が終ってしまうかもしれません。

あの世でこの世の人生を振り返る時が来ますが、回避している自分の姿を見たならば、思わず恥ずかしくなってしまうかもしれません。

生まれる前に決めていた課題の1つだとしたら、ひどく後悔するでしょう。

それを晴らすために、再び同じような局面に出会う人生を選択することになるでしょう。

腹を決めて挑戦するまで、その過程が続くと思います。



ところで、勇気とは何でしょう?

怖れや不安に打ち克って、前に進んで行く力と言えます。

勇気は、自然に出るものではありません。

自分を信じることにより、内から湧き出て来る霊的な力です。



それまでの経験(実績)から、自分を信じて挑戦する人もいるでしょう。

経験がない初めての時はどうでしょう?

大丈夫です。



全ての生命に、魂が宿っています。

魂は生命そのものです。

宇宙全体は神的エネルギーによって創られ、神的エネルギーによって生命は活動しています。

神的エネルギーは無尽蔵です。

私たち人間はちっぽけな存在に見えますが、魂には無限のエネルギー、無限の可能性が秘められています。



自分を信じるとは、自分の中にいる神を信じることです。

信じることにより神と強くつながり、無限の貯蔵庫からエネルギーが供給されます。

それが挑戦を成功させる原動力になります。



しかしながら、私たちが生きているのは不完全な物質的な世界です。

不完全であるがゆえに、失敗が生じることもあります。



たとえ失敗したとしても、失うのは地上的なものだけです。

立ち向かったことで、霊的な成長が得られています。



問われているのは、成功したか否かではありません、

挑戦したか否かです。



自然法則の働きによって、挑戦するべきことが目の前に現れます。

自然法則は神の心が顕現したものなので、愛を帯びています。

苦しませるため、怖れさせるために挑戦させるのではなく、学び成長させるためです。

従って、無謀な挑戦が計画されることはありません。

自分を信じて臨めば、良い結果が得られることが、神によって保障されています。

人生で現われた課題を1つ1つ克服して行く中で、魂は成長し、生まれて来た目的が成就されて行きます。



課題が現われた時、回避しても、結局、どこかで向き合わなければならなくなります。

大変なのは分かっていても、課題がさらに大きくなって後で生じたり、死後に後悔したくないのであれば、今、向き合わなければいけません。



この世だけで終わると思うと、回避してしまいがちです。

人生は果てしなく続いています。

今やるのか、後でやるかのどちらかです。

回避するのは、課題を先送りしているだけです。

内なる声は「やらなければいけない」と訴えているはずです。

やると自分(魂)が決めていたからです。



課題はどこまでも追いかけて来ます。

自分(魂)に足りないものを補うために、どうしても必要だからです。

ためらうことなく、向き合いましょう。



2022年1月30日日曜日

永久(とわ)の別れ


永久の別れと聞いて思い浮かぶのは何でしょうか?

「死に別れ」という人が多いと思います。



死ぬと、肉体は全く動かなくなります。

動かなくなった肉体は荼毘に付され、骨だけになります。

今まであった肉体がなくなると、存在自体がなくなってしまったと思う人も少なくありません。

そんな理由から、永久の別れと思ってしまうのも、仕方がないかもしれません。



人間を構成しているのは肉体だけではありません。

肉体を動かしているのは精神であることは、誰もが知っています。

その精神を動かしているのが、さらに高次に存在する魂です。

人間は、肉体、精神、魂(霊)の複合体です。



魂は生命そのものであり、その人の本質です。

死んで肉体は骨になっても、意識は変わりなく存在しています。

「完全にいなくなった」と誤った認識をすると、無用な苦しみに襲われてしまいます。


「遠いところに行ってしまった」と言う人がいますが、それも正しくはありません。

亡くなった人がどうしているのか?

自分が死んだ時のことを考えれば、容易に想像が付きます。

大切な人を放っておいて、遠くに行ってしまうでしょうか?

「どうしているのだろう?」

「大丈夫だろうか?」

きっと、気になるのではないでしょうか。

肉体がないだけで、他は生前と何も変わっていません。

親愛の想いがあれば、傍にいたくなるのは、自然の成り行きです。



視えなくなったけど生きている。

たったそれだけのことですが、信じるのはなかなか難しいようです。

今まで目に視える世界が全てだと思っていた人が、急に魂の存在を信じなさいと言われても戸惑うだけです。

証明されない限り信じないのは、理性を持つ人間であれば当然なのかもしれません。



愛は目に視えず、存在を証明することもできません。

それでも、ほとんどの人は存在すると思っています。

愛が存在しているのを信じている人であれば、魂の存在も信じられるはずです。

なぜなら、愛が生まれる場所も、感じる場所も魂だからです。



亡くなった人の肉眼は失われているために、地上の人の肉体は視えません。

しかし、肉眼に変わって霊的な眼が見開かれて、魂が視えるようになります。

魂から生じている地上の人の想いは、手に取るように判るようになっています。

一方、地上の人は、亡くなった人の想いが全く判らなくなっています。

両者の状況は正反対です。



遠いところに行ってしまうわけなどありません。

物理的な制約がなくなり、生前よりも近くにいられるようになります。

「死者の力~津波被災地「霊的体験」の生死学~」(高橋 原、堀江宗正著 岩波書店)という本があります。

遺族の霊的体験をインタビュー形式でまとめたものですが、その中にこんな一節があります。

「夫を亡くした女性は、心のなかに夫がいて、話しかけると答えてくれるような感じがし、メッセージを受けたと喜んでいる。たまに気配を感じ、見守られていると思う。彼女は、どちらの家系の先祖も熱心に拝んでいる。『誰も死んでいない、人の魂は死後どこにも行かず、生きている人たちと一緒にここにいる』と話す(70歳女性、2014年談)」

魂の存在を否定する人は、この文章を読んで、悲しみの果ての妄想あるいは錯覚と片付けようとするでしょう。

けれども、この人以外にも同様の経験をしている人がたくさんいます。

多くの人が霊的体験によって、悲しみや痛みが癒されています。

誰にでも起こっている現象ですが、それを感じ取れるかどうかの差と考えられます。



「魂でもいいからそばにいて~3・11後の霊体験~」(奥野修二著 新潮文庫)には、数多くの霊的現象が書かれています。少し長くなりますが、その中の1つを引用します。

「津波で逝った(長男)の康生くんがそばにいると感じたのは、震災から2年経った頃だという。あの子は言葉は思い出すのに声が出てこない。幼稚園で撮ったビデオを見ればいいのに、怖いのと見れば悲しくなるのがわかっているから見ることもできない。康ちゃんどうしているんだろう、逢いたいなあ…、由理さんのそんな思いが頂点に達した時だった。

「2013年のいつでしたか、温かくなり始めた頃でしたね。あの日、私と中学生の娘と主人と、震災の翌年に生まれた次男の4人で食事をしていたんです。康ちゃんと離れて食べるのもなんだから、私が祭壇のほうを振り向いて、『康ちゃん、こっちで食べようね』そう声をかけて『いただきます』と言った途端、康ちゃんが大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が、いきなり点滅したかと思うと、ブーンって音をたてて動いたんです」

          
窓際にプラスティック製のその車が置かれていた。由理さんがスイッチを入れると「ガガガガ、出発進行!」という機械の音声が聞こえる。もちろん勝手に動くことはありえない。

「『このおもちゃ、勝手に動くの?』どうやったってスイッチをオンにしないかぎり動かないのに動いたのです。その時みんな『アッ、康ちゃんだ』と叫びました。『康ちゃん、こんなとこさ、遊んでんだ』そう思ったらうれしくて仕方がありません。それから何日か経ったある日、主人が次男をお風呂に入れていた時でした。『康ちゃん、もう一回でいいからママにおもちゃを動かして見せて』心の中でお願いしたんです。そしたらまた動いたんですよ『康ちゃん、ありがとう』こんな近い距離で私たちを見ているんだ。そう思った時、昔から私に『笑って、笑って』とひょうきんな顔をしたのを思い出しましてね、そうだ、私も笑わなきゃだめだ、頑張らなきゃだめだと思ったのです。

奥のキッチンから、長女が料理しているのか、カタカタと音がする。由理さんは、すっかり冷たくなったお茶をすすった。」(『ママ、笑って』より)




ここまではっきりと現象を見せてくれるのは稀でしょう。

康ちゃんの伝えたい強い思い、お母さんの知りたい強い思いに共感した霊界の存在の助けが加わって物理的現象が起きたと考えられます。

何よりうれしかったのは、「笑って」という想いをお母さんに伝えられたことだと思います。

近くにいると信じてもらえた瞬間、お母さんの魂に自分の想いを託したイメージを吹き込んだのです。

そのイメージを元に、想いを感じ取ってもらうことができました。

久しぶりにお母さんの心からの笑顔が見れて、きっと安心したでしょう。

何らかの現象が起きた時には、そこに向こうの人の想いが込められています。

言葉では伝えられないので、想いを感じ取って欲しいのです。



愛があるからこそ、いろいろな方法で地上の人に存在を示したり、想いを伝えようとしています。

残念ながら、そのことに気付かないのがほとんどです。

運よく気付いたとしても、気のせいや思い付きとして片付けてしまいます。

こんなにも近くにいるのに、自分の想いをどうしても伝えられない。

向こうにいる人の想いを知ることのできないつらさは、地上の人に想いを伝えられないつらさの裏返しです。



泣きじゃくっている子供に、何を言っても無駄な時があります。

感情で心が一杯になっている人に、存在に気付いてもらうことも、想いを感じ取ってもらう余裕もありません。

悲しみのオーラが壁のように感じられ、近づけなくなります。



重苦しい肉体から解放されて、自由に何でもできるようになっています。

物理的な制約がなくなり、近くにいられるのを喜んでいます。

しかし、そのことが全く判らない地上の人は、いなくなったと嘆き悲しんでいます。

両者の想い(波長)があまりに違うために、接点はほとんどありません。



同じ屋根の下で暮らしながら、心が全く通い合っていない人がいます。

法律的に1番近い関係である夫婦でも、お互いの都合でそうしている人たちもいます。

別れとは、想いが通い合わなくなり、つながりが断たれた状態を意味します。

触れ合うほど近くにいたとしても、霊的には別れています。

死んだ後に、再会することもないでしょう。

そんな人こそ、永久に別れているのかもしれません。

同じ次元で生きているか、いないかは関係ありません。



死は永久の別れと思っている人がいますが、とんでもない誤解です。

誤解が苦しみを生んでしまいます。

肉体はなくても、心は失われていません。

視えなくなっても生きている、想いは変わっていないと、強い意思を持って信じることが必要です。

信じることは愛することです。

魂は再びつながり、愛せない苦しみから解放されます。



愛は魂を引き合う力です。

死によって、その力はいささかも失われないので、引き裂かれることはありません。

親愛の想いで結ばれている人たちに別れは存在しません。