2015年2月23日月曜日

うつ病の人へ



若くしてガンを発病された男性のブログを拝見しました。

ネット上で、その男性がインタビューアーとなり、ガンの経験者の闘病記を聞かれていて、生の動画で配信されていました。

自分の経験、そして他のがん患者さんの経験を発信し、ガンで悩み苦しむ人に役立てようとしている姿に、とても感心しました。




その中で、興味深い発言がありました。

インタビューを受けていたのは、若い女性でした。

彼女は、きわめて悪性度の高いガンでしたが、幸い初期で発見されて、手術をして経過は良好のようです。

ガンが見つかる前には、PTSD(心的外傷後ストレス障害)による、重症のうつ病を患っていたそうです。

会社も休職し、「この世から消えてなくなりたい」と、自殺願望があったそうです。

重症のうつ病により、ただでさえも生きているのがつらい時に、ガンに侵されていると分かったら、どうなるのでしょう。

普通は、心の重荷がさらに重くなり、耐え切れなくなってしまい、自殺をしてしまう可能性があるのではないかと考えてしまいます。

もし、本気で死にたいと思っているのであれば、ガンは渡りに船であると、考えてもおかしくありません。

しかし、ガンと告知されて、逆に彼女は猛烈に生きたいと思ったそうです。

そして、何と、うつ病は治ってしまったそうです。

ガンを告知され、うつ病が完治するのは、どうしてなのでしょうか?




現実には、ガンを告知されて、うつ状態となり、自らの命を絶ってしまう人は、少なからずいると思います。

病気に悩み、苦しみ、疲れ果て、将来を悲観して、そこから逃れるために死を選んでしまうのかもしれません。

日本において、年間約2.5万人の人が自殺をしていますが、うつ病などの精神疾患を抱えていた人も少なくないと思われ、深刻な社会問題の1つとなっています。

もし、うつ病が医療行為(薬剤)で治る病気であるならば、もっと多くの命が救えてもいいはずです。

うつ病は、脳内の神経伝達物質がうまく働いていないために起こると言われていますが、薬により神経伝達物質をコントロールすれば、病気が治るわけではありません。




すべての病気には明確な原因があります。

しかし、現代医学では肉体を対象としているために、目に見えない精神の病気についての原因解明は、きわめて困難と思われます。

うつ病は、肉体(脳)の病気ではありません。

精神そして魂に、深く関わっている病気と考えられます。




うつ病の本態は、不自然な生き方や考え方により、心のエネルギーが浪費され枯渇しかかっているために精神が働かず、それに伴って、過去に生じていた、悲しみ、怒り、恐怖、不安、あるいは言葉にならない想い(感情)が、表在化されている状態だと思います。




うつ病に罹った人は、一様に生き苦しさを訴えています。

ひどい人は、何もしてないのに、極度の疲労感を感じて、人によっては息をするのも苦しく感じてしまうほどであり、経験した人でなければ、このつらさは理解できません。

家の中で、じっといしているのにもかかわらず、疲労感がなくならないのはどうしてなのでしょう。

それは、心が動いて、活動をしているからだと思います。

身体は安静にしていても、心は休むことなく常に動いているので、心の疲労を感じていると思われます。




人は食物を摂取して、エネルギーに変えて、身体活動をしています。

それは肉体に限定されたものであり、心を活動させるエネルギーは、食事により補給されません。

その証拠に、食事をしないでいても、心の活動が抑制されるわけではなく、むしろ空腹感がある方が、精神活動は活発になるようにも思えます。

つまり、肉体を動かしている力(エネルギー)と、心(精神)を動かしている力は、全く違う種類のものと考えられます。




地上的概念である、文字や数字を媒介とした、会話や仕事、計算や論理的思考などは、大脳の活動によるものであり、肉体(物理)的エネルギーは必要です。

しかし、美しい旋律を聴いたり、絶景を観て、感動しているのは、脳の働きではありません。

悲しみの想いは、脳が生み出しているのではありません。

愛する想いも、脳が生み出しているのもではありません。

その想い(思念)は、どこから生まれるのでしょうか?

目に見えない想いは、大脳ではなく、目に見えない魂から生まれています。




魂は、物理的な存在ではありませんので、科学者に否定され続けています。

確かに、万人に判るように証明するのは困難ですが、証明できないから否定するのは誤りです。

遠い昔の人に、電波が存在しているのを証明して見せるのは困難ですが、メディアが普及した現代において電波の存在を否定する人はいません。

それと全く同じことであり、魂の存在が常識となる時代は、間違いなく来るでしょう。

科学者にとって、精神(心)、意識は未だ謎に包まれたものとなっていますが、それは魂の存在を否定しているためです。

魂の存在を認めることで、心や意識について合理的な解釈が可能となります。




生きていると、さまざまな出来事に遭遇し、さまざまな想いが生まれています。

魂で生まれた想いは、精神を経由して、肉体で表現されています。

肉体は魂を表現する媒体であり、精神は想いを肉体で表現させるための、司令塔の役目を果たしています。

愛する人が亡くなると、涙を流して泣きますが、魂から悲しみの想いが生まれて、肉体で表現が行われています。

人から親切にされると、笑顔になり、「ありがとう」と言いますが、魂から喜びや感謝の想いが生まれて、精神により指令が出されて、肉体で声になって表現されています。

魂から生まれた想いを、どの様に表現するのかを決めて、肉体に指令を出すのが、精神(心)であり、肉体は精神に従い、精神は魂からの想いにより活動します。




精神(心)を活動させているのは、細胞内のミトコンドリアで作り出されるエネルギー(ATP)ではありません。

目に見えない精神は、目に見えない生命力により、維持され、活動をしています。

生命力とは、魂に流れ込む霊的な力であり、森羅万象を司る力と同じものです。

肉体を活動させる運動エネルギー(栄養)が不足すると、身体は思うように動かなくなるのと同じで、生命力が不足してしまうと、精神は思うように動きません。

生命力が不足して、精神がうまく働かなくなってしまうと、肉体に指令を出せなくなるために、身体が動かなくなってしまうと考えられます。




生命力は、魂が絶えず受け取っています。

受け取った生命力は魂で想いとなり、その想いにより精神(心)が動かされて、肉体に指令を出して、肉体を通して外部に表現され、力は内から外に向かって放散されています。




魂から生まれる想いが、喜びや、何かを成し遂げようとする前向きなものであれば、生命力はふんだん魂に流れ込み、精神(心)を動かす力となります。

悲しみや絶望、不安や怖れ、自分を責める強い想いであれば、精神を動かしているエネルギーを激しく消耗させているばかりか、魂が受け取る生命力の経路を絞ってしまっていることになります。




うつ病は、生命力が少なくなってしまったために、今まで通りの生活が出来なくなった状態と考えられます。

悲しみや絶望、不安や怖れ、自分を責める強い想いにより、精神(心)を動かしているエネルギーが浪費されて、本来の機能が失われてしまった状態です。

想いは生じているのに、精神を動かすエネルギーが不足して思うように働かなくなり、その結果、身体が動かなくなり、生活に著しく支障をきたします。

想いと行動に、大きな隔たりがある状態となり、そのことで大いに悩み、さらに自分を責めてしまうことになります。




酸素が足りずに息切れしているのに、身体を動かすと、さらに息苦しくなります。

身体を動かすのを止めて、深呼吸をしていれば、息苦しさは徐々に和らいできます。

しかし、部屋に閉じ込められてしまい、徐々に空気が薄くなってきて酸欠状態になれば、怖くなり、あわててしまいます。

どうにかしようと、身体を無駄に動かしてまい、その結果、ますます息苦しくなってしまいます。




同じく、生命力が足りていないのに、精神(心)を働かそうとすれば、心の苦しさを感じてしまいます。

心が苦しいのであれば、まずは精神(心)を動かすのを止めて安静にしていれば、苦しさはなくなってくると思います。

しかし、理由もわからず突然、思うように考えたり、動けなくなってしまうと、どうしてしまったんだと焦ったり、不安に感じたり、怖れを抱いたりしてしまいます。

その情動が強いほど、生命力を消耗してしまいます。

酸欠状態で、激しく運動しているようなものであり、とても苦しくなります。

その苦しさが、恐怖や不安を生んで、さらに生命力を消耗してしまい、悪循環に陥ります。




生命力を無駄に使わないように、なるべく精神(心)を動かさないように、安静を保つ必要があります。

苦しさを少しでも和らげるために、心を安静にさせる環境に、しばらくの間、身を置いて、穏やかに過ごすのが、最善の方策です。

そうすれば、生命力は少しずつ満ちてきて、それに伴い心の苦しさから解放され、心身を動かすことができるようになるはずです。




精神安定剤や抗うつ剤は、不安や恐怖心などを和らげ、一時的に苦しさは緩和されます。

しかし、苦しさから逃れるために、薬剤が欠かせなくなり、依存状態となってしまう危険性があります。

薬では、うつ病を根本的に治すことはできません。




一般的に、うつ病になりやすい人は、まじめで、几帳面で、責任感が強く、人当たりが良いと言われています。

それは長所とも言えますが、周囲に気を配り過ぎたり、物事を完璧にこなそうとしたり、こだわり過ぎたりすると、心のエネルギーを無用に消耗するとともに、物事がうまく運ばなかった時に、悲観的な想いや、自己否定的な想いが生じ易くなりります。

悲観的、自己否定的な想いは、心のエネルギーを消耗するばかりではなく、魂が受け取る生命力を少なくしてしまいます。




家庭で、電気器具を多く使用し、消費電力が供給量を超えてしまうと、ブレーカーが落ちます。

これは危険を回避するための、安全装置です。

不自然な生き方や考え方をしているために、心のエネルギーが激しく消費されている状況で、生命力の供給が少なくなってしまうと、心のブレーカー装置のようなものが働いて、強制的に安静状態にさせると思われます。

心身を守るための安全弁であり、神の配慮だと思います。

もし、ブレーカーが落ちてしまったのなら、あれこれと考えたりすること自体、困難となります。

まずは、焦らずに、エネルギーが供給されてくるのを、じっと待ちましょう。

生命力は、能動的に作り出すものではなく、魂が自然に受け取っています。

その生命力が、少しずつ満ちてくるまで、心を安静にして、待ちましょう。

ガス欠で動かなくなった車は、ガソリンさえ入れれば、今まで通りに動き出すように、うつ病の人も、生命力が供給されてくれば、以前と同じ生活ができるようになると思います。

ガス欠は故障でない様に、うつ病は病気と言うよりも、心のオーバーワークにより、生命力が一時的に不足した「状態」だと思います。




心のブレーカーが落ちたのならば、心で消費しているエネルギーを少なくしてやるか、供給される生命力を多くしなければいけません。

うつ病はストレスが原因と言われますが、ストレスの本体は、さまざまな出来事や人間関係により生まれた、表現できない想いだと思います。

ストレスが溜まっているとは、表現できない想いが次々と生まれて、滞ってしまっている状態です。

心のエネルギーを浪費しながら、その想いは大きくなっていきます。

難しいことですが、出来るだけストレスのかからない環境で、心のエネルギーを温存する必要があると思われます。




心に供給される生命力を多くするのは、一朝一夕にはいきません。

ガンを告知された彼女ですが、猛烈に生きたいと思ったために、魂に生命力が一気に供給されるようになり、うつ病が治ったのだと思います。

彼女のような出来事が起こることは、まれです。

たとえ、生きたいと思うような出来事が起こらなくても、生命力は常に魂が受け取っているので、心は自然に動かせるはずです。

ただ、生命力の流れが、想いにより妨げられているため、一時的に動かなくなっているだけであり、遮っている雲が流れていってしまえば、太陽の光がまた燦燦と降り注ぐように、想いがなくなれば、生命力は徐々にみなぎってきて、動かせるようになります。

心は肉体とは別次元の存在であり、霊的な力により生かされています。

その霊的な力が絶たれるようなことは、決してありません。

霊的な力を受け取る魂は、霊的な力の始源の一部としてつながっていて、そのつながりは絶たれることは一瞬たりともありません。

身体の隅々の細胞まで、酸素や栄養は運ばれているように、宇宙の片隅に住む私たち一人一人は、たとえ小さくても全体の一部として、生命力の始源とつながっているので、生きる力を常に受け取っています。

生命力が供給され、滞っている想いがなくなってくれば、生き苦しさはなくなってくると考えられます。




多くの病気は、自然法則(神の摂理)に反した生き方や考え方をしているために、因果律が働いて生じていると思われます。

痛みや苦しさは、自然法則に反した償いであるとともに、自然法則に適った生き方に気付き、変えていくためにあると思われます。

病気を根本的に癒すには、自然法則に適った生き方や考え方に変えていかなければいけません。

うつ病も、他の病気と同じく、自然法則に反している、別の言い方をすれば不自然な生き方や考え方をしているために生じています。

現在の苦しみは、過去に積み重ねてきた、悲しみや怒り、不安や怖れ、自分を責める等の、表現されずに魂に滞っている想いが、表在化されてきているためと思われます。

隠されていた想いの塊が、精神の働きが弱くなってきたことにより、むき出しになってきています。

うつ病になったため、心が苦しくなったと言うよりも、今まで押し殺してきた想いが、表に出てきて意識されるようになり、苦しみを感じていると思われます。

さまざまな出来事や人間関係により生じていた悲観する想い、自己否定の想いは、精神により黙殺され、表現できないまま蓄積されていき、(精神で)抑え切れないほど大きくなり、時を経て、今、前面に溢れ出しています。





言葉や行動だけではなく、自分の想いにも責任が伴います。

悲しみや怒り、不安や怖れ、自分を責める想いが積み重なってくると、因果律が働き、表に出てきて、その想いに苦しむことになります。

過去の想いが、今の苦しみや悲しみとなって表現され、解放されています。

苦しみや悲しみは、癒しへの避けられない過程であり、徐々に解放されていけば、和らいでくるはずです。

自分の想いに気付き、想いを生じさせた生き方や考え方を正す時期が、来ていると思われます。

今までの生き方や考え方は、自然法則に反していて、自分(魂)の成長にとって、妨げとなっていたと思われます。

苦しみや悲しみは、その償いであり、そして過ちに気付くためにあり、自然法則に適った生き方や考え方に、変えていかなければいけません。




自然法則に適った生き方とは、どのようなものでしょうか?

目に見えるものだけがすべてだと錯覚している人間は、目に見えない自然法則の働きを無視しがちです。

人間ほど自由意志がない動物たちは、自然法則に忠実に従って生きていると思われます。

人間の頭脳は確かに優れていますが、たくさんの大切なことを動物たちから学べると、私は考えています。




動物たちは、欲を張らずに、素直に、思い悩むことなく今を生きています。

そんな動物たちには、人間のような病気はあまり見られません。




動物たちよりも人間が、一歩進んでいるところもあります。

それは、奉仕の心です。

自然法則を貫いているのは「愛」です。

奉仕の心は自然法則と一致しています。




私は、動物でもある人間の自然法則に適った生き方とは、人や社会のために、自分らしく生きることだと考えています。

人や社会のために生きることは、神の心である愛を表現していることになり、神とのつながりが深まり、ふんだんに生命力が流れ込みます。

自分らしく生きれば、想いが素直に表現され、エネルギーを消耗させている想いは、滞らなくなると思われます。

もし、そのような生き方に変えて行けたなら、病気の存在する意味はなくなり、やがて苦痛から解放されると考えています。




言葉にするのは簡単ですが、それが出来にくいのが、この世の中です。

出来にくい世の中だからこそ、病気になる人がたくさんいます。

自分が生きていくのに精一杯で、周りに目を向ける余裕など、あまりありません。

ありのままに生きようと思っても、周りの人を差し置いて、それが出来ないのが現実です。




けれども、無理をして心の力を使い果たし、自分の気持ちを抑え過ぎたために生じた想いに、今、苦しんでいるのであれば、そこから抜け出さなければいけません。

頑張り過ぎるのは、欲を張っているのと同じで、自分を追い詰めて、苦しめることになります。

薬で心を楽にさせるよりも、自分の心が、穏やかに楽になる生き方や考え方を、少しずつ見つけていった方が、永続的な癒やしにつながると考えられます。

焦らず、無理をせずに、ゆっくりと見つけて下さい。

それが自分らしい生き方であり、自然法則にも適っていると思います。

自然法則に適った生き方や考え方、苦しみの意味については、「シルバーバーチの霊訓」に余すところなく書かれています。

まだ、お読みでなければ、ご一読をお勧めします。




今、どうしても動けない人は、神の摂理の働きによって、動けなくなっているのであり、自分を責めてはいけません。

無理に、動いてはいけないと、神に言われているようなものです。

生命力が絶たれてしまうことは、決してありませんので、どうぞ心配しないで下さい。

生命力が満たされてくれば、楽になり、元の自分に戻れるはずです。

今は、ただゆっくりと、心を休めましょう。




参考ページ: 「うつ病と心のエネルギー」







2015年2月5日木曜日

憎むのではなく哀れむ


中東の地で、日本人とヨルダン人の尊い命が奪われました。

残虐な手法で、罪のない人間の命を、躊躇もせずに奪う、とても同じ人間のすることとは思えませんでした。

殺された2人の恐怖と、残された人の悲しみを思うと、怒りのようなものが心に湧き上がってしまい、危うく敵意や憎しみに変わってしまいそうでした。




少し冷静になって、考えてみました。

あれだけの残虐で卑劣な行為ですから、多くの人に怒りを通り越して、憎しみが生じてもおかしくありません。

非道な人たちを壊滅させようとする機運が高まり、国家による武力行使が行われていますが、反対する者はほとんどいません。

一見すると、世界の平和を維持するために、適切な行動のように思えます。




しかし、それは避けるべき行動であるのかもしれません。

彼らは、暴力でしか自分を表現できなくなってしまった人たちだと思われます。

その原動力となっている想いは、怒りであり、憎しみであり、恨みであると思われます。

それぞれに、その想いを生じさせた出来事が、過去にあったと思われます。

親しい人を理不尽な暴力により奪われたかもしれません。

非人道的な行為を、受けたのかもしれません。

社会から抑圧され、無視され、迫害されたと、思い込んでいるかもしれません。

内で燃え盛る想いを、暴力により表現したがっています。




彼らは、同じ神を信じる、理想の国をつくりたい訳ではありません。

心の大部分を、強い憎しみや恨みの想いが占めていて、それを暴力によって表現しようとする人たちの集まりのように思えます。

世界中から、怒りや憎しみ恨みや、強い現状への不満を抱えた人たちが、吸い寄せられるように集まってきているように見えます。

法の行き届かない地域で、同じ想いに駆られた者が集団となり、憎しみや恨みを増幅させ、はけ口として、狂気とも思える行為が日常的に行われています。

そこには大義はなく、怒りや憎しみという負の感情で団結し、暴力により世の中を混乱させて、自己の存在を主張しているように見えます。

残虐な行為により人の命を奪い、その力を外に向かって誇示しています。




神の摂理に反した怒り、憎しみや恨みの想いからは、神の摂理に反した表現(行動)しか生まれません。

神の名の下に行っている行為は、神の心からあまりにもかけ離れていることが、全く分っていません。

神の名を利用した残虐な行為は、神を冒涜する最も罪深い行為の1つであることに、全く気付いていません。




神の心からかけ離れた、残虐な行いをする人であっても、その魂は神の一部であり、繋がりは絶たれたことはありません。

のどもとに刃を突き立て、切り裂こうとする前に、「本当にこんなことをして良いのか」と、内から魂の声を聞いていたはずです。

たとえ、わずかであっても慈悲の心は存在し、神の摂理に反する行為に対して、抵抗していたはずです。

残念ながら、神の声を無視して、行動に移してしまいました。




神を冒涜した行為であっても、神が怒って、天罰を加えるわけではありません。

自然法則である、因果律が厳格に作動するだけです。

後になり、自分の想いや行いを、償うための出来事が必ず生じることになります。

もし償われないうちに、死んでしまっても関係ありません。

肉体がなくなっても魂は存続し、この世の罪のすべてが刻み込まれています。

自然法則に従い、人は死んだ後に、魂に刻み込まれている、この世の想いや行いの全てが映し出されて、それを見ることになります。

自分が犯した残虐な行為が、いかに人に悲しみや苦しみを与えたかを、目の当たりにします。

罪を自覚して、深く後悔して、強い自責の念に苛まれます。

とても苦しく、いたたまれない状態になると考えられます。

まさしく、針のむしろです。

そこから抜け出すためには、犯した罪を償わなければいけません。

罪を償うために、自ら志願して、この世にまた生まれて来ることになります。

大きなカルマ(罪)を背負い、想像もできないほど過酷な人生になるのは間違いありません。




従って、いかに残虐で卑劣な行為であっても、怒ったり、憎んだり、恨んだりする必要はありません。

自然法則により、その報いを、自らが容赦なく受けるからです。

真実はそうですが、もし親しい人が同じ行為を受けたのなら、怒りの感情を抑えるのが難しいのも確かです。




憎しみの連鎖という言葉があります。

憎しみを表現してしまえば、相手から憎しみを表現される。

その表現を受けて、憎しみがさらに増して、強い表現となり、相手に返す。

さらに、強い表現となり、自らに返ってくる。

因果律の働きにより、不毛な憎しみの表現の応酬が、際限なく続いていきます。




襲ってくる相手に、反撃をするのは、自分の身を守るための正当防衛であり許されます。

殴られたら、反射的に殴り返してしまうこともあります。

ただ、憎しみやの想いを込めて殴り返したら、相手にその想いは伝わり、憎しみの想いをさらに増して、殴り返してくるでしょう。

行動(表現)の裏には必ず想いがあり、その想いが摂理に反しているのであれば、何らかの苦痛を伴う結果が返ってくると思われます。




怒りや憎しみに満ち溢れた戦場は、信じられないことですが、今の彼らにとって、自己表現が許され、心の安定が得られる場所と思われます。

平穏で、愛に満ちた世の中では、自分の想いを表現できないために不満であり、居心地が悪いのかもしれません。

戦場の中では、思う存分、自らの想いを吐き出すことができるため、身を投じる人が世界中から集まってきている様に見えます。

怒りや憎しみや恨みの想いが集団の中で増幅され、理性は失われて、残虐な行為に駆り立てられていくのかもしれません。




テロに屈しないと政治家は口を揃えて言います。

テロに屈するとは、相手の思うがままにさせたり、要求を受け入れてしまうことではなく、平穏な心を失い、怒りや恐怖の感情に捉われてしまうことかもしれません。

もし、怒りや憎しみの感情で心が支配されたならば、相手の想いに同調してしまったことになります。

相手の想いを読み取り、冷静に対応しなければいけません。

それは逃げでも、臆病な行為でもなく、最も勇気と忍耐が必要とされる行為だと思います。

相手は、こちらの想いに敏感に反応して、それに合わせて対応してきます。

世の中が、怒りや憎しみの想いで満たされていけば、不穏な空気が立ち込めていき、戦場は拡大していくでしょう。

結束して消滅させようとしても、共有する想いが神の摂理に反する怒りの想いであれば、その結果として新たな悲劇が生まれ、苦痛を経験しなければならないのかもしれません。

たとえ、武力により組織が消滅したかに見えても、怒りの想いが残っている限り、闘いは続いていくと思います。




あくまでも、神の心である愛を基調とした精神で臨まないと、最善の結果は得られません。

そんな甘い考えでは、相手が増長するだけであり、ますます被害が大きくなると言われるかしれませんが、それでも正しいと信じています。

こちらが拳を振り上げたならば、それは相手の望むところであり、迷うことなく拳を上げて戦ってくると思います。

とても難しいことですが、こちらが怒りや不安を表さずに、毅然とした態度で臨めば、因果律の働きにより、相手は殴りかかることはできません。

そのことは、20世紀半ばのインドの独立運動で証明されました。

非暴力は、受け身のように見えますが、神の摂理に適った最善の方策であり、最終的に目的は達成され、恒久的な平和につながっていくと思います。




神の法則を無視する者は、神の法則などないとこちらに思わせるような行動をしてきます。

神の名を叫びながら、実は「神などはいない。力あるものが、世の中を支配する」と、思っています。

真の姿は、暴力の中に、自らの表現を求めた、哀れな人たちです。

もし暴力で反撃したならば、彼らは活気付いて、暴力による自己表現をして返してくるでしょう。




彼らに、生命を脅かされている人たち、住む家を奪われた人たち、自由を奪われた人たち、また暴力に怯える人たちを、世界の国々は協力して救わなければいけません。

正義を守るための、力の行使は正当であり、必要です。

爆弾を投下して、ミサイルや銃を使用すれば、大きなダメージを与えることになるでしょう。

しかし、彼らにとって一番耐えられないのは、静観され、哀れみの目でみられることだと思います。

同情されたり、哀れみを受けるほど、屈辱的で、期待を裏切る行動はありません。

世界中の人たちが、彼らの行為に静かに異を唱えるとともに、哀れむ。

これほど相手の力を削ぐ行動は、存在しないと思います。

哀れむ相手には、怒りや憎しみの想いが無いため、手が出せません。

怒りや憎しみや恨みの想いの補給路は絶たれて、結束力は弱まり、力を失い、やがて自然消滅していくと信じています。




愛に根ざした想いでしか、真の平和を実現することはできないと、あらためて思います。

長い時間をかけて、苦痛を伴いながら、愛を学び、少しずつ恒久的な平和が実現していくのだと思います。




自分の想いは目に見えなくても、他者の魂に伝わっていて、影響を与えています。

携帯電話の電波ではありませんが、自らの想いは他者に向けて発信されていて、同調する魂に受信されています。

想いは、脳内に限定された実体の無いものではなく、この世において具現化する力となって働いています。

怒りや憎しみや恨みの想いは争いとなり、愛の想いは平和となって、具現化していきます。

世の中に怒りや憎しみの想いが満ち溢れないように、平和になるように、愛に根ざした想いを抱いていたいと思います。

憎むのではなく哀れむように、私は努力していきたいと思います。




「目を閉じて、じっと我慢。

怒ったら、怒鳴ったら、終わり。

それは祈りに近い。

憎むは人の業あらず、裁きは神の領域。

そう教えてくれたのは、アラブの兄弟たちだった。」



これは、亡くなった後藤健二さんの残したメッセージです。

世界の人たちに向けた、遺書のように感じます。