2017年11月26日日曜日

今を生きる



「今を生きる。」

良く使われるこの言葉は、過去に捉われず、未来を心配しないで、今この一瞬を大切にして生きるという意味と解釈しています。

言葉にするのは簡単ですが、これはなかなか難しいと実感しています。

人は、過去の記憶に縛られやすく、将来に対し不安を抱いてしまいやすい生き物だと思うからです。



過去に捉われてしまうと、何故いけないのでしょうか?

それは、今の自分に、少なからず影響を与えてしまうと考えられるからです。

何かを精一杯しようと思っても、過去に捉われていると、力を出そうとしても出せません。

生きていれば、誰にでも失敗はあります。

しかし、過去の失敗に捉われてしまうと、今、何かに挑もうとしても、二の足を踏んでしまうかもしれません。

もし、過去に裏切られた経験があれば、同じような経験を恐れるあまり、今、出会った人が信じられずに、友好関係を結べなくなってしまうかもしれません。

過去に捉われてしまうと、今が変わってしまい、その先の人生に大きな損失が生じてしまうのは間違いありません。



また、未来のことを心配し過ぎるのも良くありません。

自分の力を、出し切れなくなってしまうからです。

何かをやろうとする時に、どのような結果になるのかは事前には判りません。

上手く行かなかった時のことを想定して備えるのは当然です。

しかし、上手く行かない時のことばかりを考えてしまうと、そこから派生して生じるであろう事態をまた心配してしまい、際限がなくなってしまいます。

失敗するかもしれないと思うのは良いのですが、失敗したらどうしようと思ってしまうと、好ましくない感情に支配されてしまいます。

不安や怖れが生まれれば、今を精一杯生きようする力が、内から湧いて来なくなってしまいます。



全ての人の人生の目的は、自分(魂)を成長させるためです。

人それぞれに、人生で困難や障害が立ちはだかりますが、それは乗り越えて行くことで自分(魂)が成長して行くという自然法則が存在するためです。

この世に生まれた人にとって、困難や障害が立ちはだかるのは避けられません。



人生には、人それぞれに大まかなシナリオがあります。

シナリオは人智を超えたものによって立案され、それに沿ってさまざまな出来事が訪れます。

目の前に立ちはだかった困難や障害は、必ず乗り越えられるようになっています。

それは、乗り越えられる困難や障害だけが自分の前に生じるように、自然法則の働きによって計られているからです。



本当の自分(魂)は、目の前に起きた出来事を乗り越えることによって、自分が成長することを知っています。

人生のどこかで、その出来事が起きて、乗り越えて成長することを誓って、この世に生まれて来たからです。

しかし、地上の人間には、もう1つの自分(自我)が存在しています。

もう1つの自分は、そのことを知りませんので、頭であれこれと考えてしまいます。

「魂なんて存在するはずはない。死んだら終わりで無になる。」

そう考えてしまえば、出来事は運、不運として片付けてしまい、人生は不公平で、不平等なものに思えてしまいます。

そして、もう1つの自分は、自分を守るために、安全で楽な方向に進んで行こうとします。

「やっぱり無理だ」

「失敗したらどうするんだ。恥をかくぞ」等々、躊躇させたり、止めさせようと頭の中で囁いています。

乗り越えようとする本当の自分と、躊躇するもう1つの自分の間で、せめぎ合いが起こり、その状態は、精神的な葛藤として自覚されます。

では、どちらに進んで行けば良いのでしょうか?

本当の自分の想いに従い、乗り越えて行く方向に進んで行くのが正解です。

自分が成長し、生きている意味の1つを成就させることになるからです。



全ての事象は、自然法則の働きにより生じていて、偶然は何1つありません。

自然法則とは、神の摂理です。

私たちは、神の摂理の働きによって、成長する方向、神に近づく方向に導かれていると考えられます。

人生の出来事も、神の摂理の働きにより生じていて、その目的は私たちを成長させるためと考えられます。

人生の(困難や障害を伴う)出来事を乗り越えて行くことで成長して行きますが、もし、乗り越えて行けない出来事が起きたならば、目的から外れたことが起きたことになります。

神の摂理の働きは完全無欠と考えられます。

目的から外れるような出来事は、決して生じないはずです。

従って、今回は絶対に無理と思うような出来事が起きたとしても、神によって乗り越えられることが保障されていると考えられます。



シルバーバーチの霊訓には、取り越し苦労はするなと、何度も書かれています。

取り越し苦労とは、もう1つの自分の想像により生み出される不安や心配や怖れの感情であり、その感情は霊力の流入を妨げてしまい、乗り超えられるはずの出来事が、乗り越えられなくなってしまう可能性があると考えられます。

霊力とは生命力であり、魂を介して思念となります。

不安や心配や怖れは、想像している以上に厄介なもののようです。

乗り越えようとする思念が生じる、大きな妨げとなってしまうからです。

霊界で見守っている存在からの援助の力が届く、大きな障壁となってしまうからです。



困難や障害が立ちはだかった時の1番の障壁は、対象そのものではなく、実は自分自身かもしれません。

立ち向かっていこうとしている本当の自分(魂)にブレーキをかけている、もう1つの自分がいるからです。

人生の出来事が起きると、両者の間でせめぎ合いが必ず起こります。

自分に克つとは、本当の自分(魂)が、もう1つの自分(自我)に打ち克つことを指すと考えられます。



しかし、全力を尽くしても、期待した結果が出ないこともあります。

目に見える結果は、地上的なものです。

形となる結果が出せなくても、目に見えない最善の結果が得られていることがあります。

結果を出すのはもちろん大切ですが、その経験により、いかに成長したか、何を学んだかの方が、霊的にははるかに大切です。

また、期待した結果が出なかったとしても、それは予定されていたことであり、その先でさらに大きく成長するためなのかもしれません。



もう1つの自分は、思考によりさまざまな想像を作り出します。

その想像から不安や心配や怖れが生じてしまうと、その念が(乗り越えさせる)力の流入を妨げてしまいます。

自分(魂)を信じて進んで行けば、最善の結果が待っていますが、道をふさいでいるのは、もう1つの自分です。

もう1つの自分がいるのを意識し、それを沈めて、内側にいる本当の自分が望んでいるものを浮かび上がらせ、それに迷わず従いましょう。



過去の自分が、今の自分を作り上げて来て、今の自分の成長にとって最適な出来事が生じています。

たとえ直ぐにとは行かなくても、必ず乗り越えられるようになっています。

強く信じて進んで行けば、その先に悦びが待っています。

過去に捉われず、未来を心配し過ぎず、今を生きましょう。






2017年11月12日日曜日

愛は魂を引きつけ合う力



月が地球の周りを回っているのは、両者の間に万有引力が働いているからです。

もし、引力がなくなれば、月は周回軌道を外れて、宇宙のかなたへと飛んで行ってしまうでしょう。

目に見えない力が、地球と月の間に働いているのを、疑う人は誰もいません。



この世で人を引き付ける力を持っているのは何でしょうか。

ある人にとっては、それはお金かもしれません。

あるいは、名声や権力であったりします。

美貌も、そうかもしれません。

それらに引き付けられて集まって来た人は、対象を失ったとたんに離れて行ってしまいます。



人と人を引き付け合うものは、それだけではありません。

それは愛です。

愛は、人と人を引き付け合う引力のようなものと考えられます。

磁石のS極とN極が見えない力によって引き付けられるように、魂と魂は目に見えない愛によって引き付けられます。



なぜ、愛によって人は引き付け合うのでしょうか?

愛は1つになろうとする、神の力と考えられるからです。

もともと1つであったものが別れて、愛によってまた1つになって行く、それが神の意志と思います。



ところで別れって何でしょう?

もしも、親しくしていた人が何かの事情で遠くに引っ越してしまえば、それは別れであり、寂しいものです。

しかし、今は携帯電話があるので、声を聞きたければ、直ぐに聞くことが出来ます。

交通手段が発達しているので、また会おうと思えば、いつでも会うことが出来ます。



そばにいれば、別れはないのでしょうか?

目の前にいたとしても、別れていることはあります。

人と人の間に親愛の想いがなければ、鉄と鉄を近くに置いても引き合わないように、魂を引き付け合う力は働いていません。

いくらそばにいても、霊的には無関係です。



死は別れを意味するのでしょうか?

死んで姿は見えなくなっても、別れていません。

確かに死んでしまえば、見ることも、話すことも、触れることも出来なくなります。

携帯電話やメールをしてもつながらず、世界中どこを探しても、その姿は見つけられません。

けれども、愛がある限り別れはありません。

人の本質は、目に見える肉体ではなく魂です。

死んで見えなくなっても、魂は変わりなく存在しています。

この世とあの世の魂から放たれる愛という霊的な力により、両者は生前と全く変わらずに結ばれています。

あの世の人は、そのことが良く判っています。

残念ながら、この世の人には実感がありません。

実感がないので、魂なんて存在しないと思うのであれば、自分から別れを告げていることになります。



愛は、お互いを引き付ける力だけなのでしょうか?

それ以外にも、魂を良い方向に変えて行く力を持っています。

イソップ物語の「北風と太陽」の日差しのようなもが愛であり、他のどんな力によっても変わらない人(魂)が、愛によって変容します。

愛を受けて、自らにも愛が湧き上がり、それを外に向かって表現したくなります。

愛は愛を表現する衝動を起こさせる力であり、表現することによって魂は成長し、変容して行きます。



あの世の魂から愛が放たれ、それがこの世の魂に伝わり、魂のありさまを変えて行きます。

伝わってくる愛により、悲しみは癒され、生きる力が生まれ、心に光が灯ります。

一瞬にして、心境を変化させる力を秘めていますが、五感を超えたものなので、この世の人は無意識の内に伝えられていることに気付けません。

しかし、あの世の人は返してもらおうと思ってはいないので、それで良いのかもしれません。



肉体はなくなっても魂は存在し、愛で結ばれている限り、別れはありません。

変わりなく結ばれていることを信じられる人は、あの世から愛を受け取ることが出来ます。

受け取った愛の力により、心があたたかくなり、安らぎを覚えます。



今生の(肉体上の)別れは、時に途轍もない苦痛を伴います。

その苦痛は、本当の自分(魂)を目覚めさせると言う神の計画の一部と考えられます。

この世に生まれて来た目的はたった1つであり、自分(魂)を成長させるためです。

困難や障害を乗り越えて行くこと、愛を表現することで、魂は成長して行きます。

神から見れば、直接的な愛の表現も、求めることも、祈ることも、信じることも、失った悲しみの涙も、同じ愛の表現なのかもしれません。

同じ成長をするのなら、悲しみの中でなく、喜びの中で成長するのでも良かったのではと思う時があります。

しかし、深い悲しみの経験から学んでいるのは、言葉にならないほど大切なものであり、実体験しなければ判らないのかもしれません。

この世で、大きな成長を望む人にとって、どうしても必要だったのかもしれません。



同じ次元に生きて、同じ経験をしても、同じ想いを共有しているとは限りません。

違う次元にいても、この世の人と同じ想いを共有することが出来ます。

この世では人の想いは見えませんが、思念の世界であるあの世は、この世の人の想いが視えます。

この世にいる人が遭遇する出来事から生じている想いを知り、同じ想いを共有しようとします。

うれしいことがあったら、我が事のように喜びます。

つらいことがあれば、同じようなつらさを感じます。

それでも乗り越えて行かなければいけないのを知っているので、励まし、力付けようとするでしょう。



別れにより、この世の人とあの世の人は、どれほど愛し、愛されていたのかを知ります。

別れほど、愛を喚起させるものはありません。

別れを通して愛の本質を学び、この世界で愛より大切なものはないことを、深く魂に刻んで行きます。



止むことない悲しみ、寂しさは、愛し続けていればこそです。

悲しむことも、愛することも、その人を想うことに変わりはありません。

この世で共に暮らし、愛し続けるのには限界がありますが、次元を異にして生きることで、純粋に想い続け、愛し続けることが出来るのかもしれません。



求める気持ちは愛です。

求め続けている限り、愛し続けています。

この世が終わる時まで求め続けたならば、一生愛し続けたことになります。

そこまで求め続け、愛し続けることは、別れなしには出来ないのかもしれません。



その想いはあの世の魂に届いています。

受け取った想いに応えるために、道を間違えないように、この世の魂が成長できるよう、想いを返して導き続けます。



次元を異にして生きてきた魂は、同じ次元で再会する時が訪れます。

次の次元に移行した魂は、流した涙により、魂は浄化され、成長していることに気付きます。

待っている魂は、お互いの愛により同じ輝きを放つようになった魂を見つけて、そっと抱きしめるでしょう。

愛し続けられたことを誇りに思い、お互いの魂を引き付け合う力が強くなっていることに驚くでしょう。





参考ページ:  「信じることで愛することができる」




2017年11月4日土曜日

成長した君へ


見違えるほど、強く成長した君を見ていると誇らしくなる。
2人で見ていた景色を、私も忘れない
雪の降る海
凍えるほど風が冷たかったね
あの時も、この時も、いつも一緒にいて励まし合っていたね
別れって突然来るけど、これは別れじゃないとすぐ気付いた。
でも、君はなかなか気付けなかったね
全て決められていたことだけど、あまりに過酷な運命だと見ていて思った。
冬の海で、1人震えていたね
寒くて寒くて仕方なかったけれど、あたたかな日差しが差し込んで来たね。
その日差しが、こちらから届く想いなんだ、それが君からまた外に放たれるんだ
どこにいても明るくしていたね
けれども心は一杯一杯だったね
もう無理しなくても、大丈夫だから
会いたいと思っていたら、会えないんだ
みんなの笑顔の中に、私を見つけ、そこにいることに、やっと気付いてもらった
さっすがだなーと思う
思っていることは、いつも一緒
願っていることも、いつも一緒
あの時と、何も少しも変わってないんだ
良く気付いてくれた
本当にうれしい
それでこそ自分が好きになった人
あの時と同じ気持ちのままでいられるんだから、すごく幸せなんだ
本当に、本当に、本当に大好きな人
楽しいことが、たくさん待ってるんだから、それまで辛抱して下さい
さっすがだよ、誇りに思ってるよ
これからも離れることはないから