2021年4月25日日曜日

300万余の霊


新型コロナウィルスの感染によって、既に世界中で300万以上の人が亡くなっています。

慣れとは恐ろしいもので、すごい数字なのにあまり驚かなくなっています。

慣れが油断につながらないように注意しなければなりません。

ブラジル・北部マナウス AFP時事


亡くなった人たちは、まさか自分がコロナに感染して死んでしまうとは思ってもいなかったでしょう。

そんな人たちは、今どうしているのでしょうか?



死んだ後に辿るコースは、生前、死後の世界があると思っていた人と、死ぬと終わりだと思っている人によって違います。

私たちは死ぬと、既に亡くなっている親しい人たちと再会することになります。

死後の世界があると思っていた人は、その人たちと会うことで、もうこの世にいないことを自覚します。

死んだら終わりだと思っていた人は、再会しても、何が起きているのか理解できません、

その人たちから、この世にいないことを告げられたとしても信じられません。

自分の葬式が行われているのを見ても、夢幻のように感じます。



あると考えていた人は、しばらくすれば向こうの世界に順応します。

死んだら終わりと思っていた人は、相変わらず意識があるので、まだこの世に生きていると錯覚します。

その様子を見て、周りの人たちは死んだことを何とか理解させようとします。

しかし、思い込みが強く、何を言っても無駄だと分かると、放って置かれるようです。

どれくらい先になるのかは判りませんが、死んでも生き続けると言う現実を受け入れる日がやって来ます。



戦争や疫病が起こると、短い期間に何百万人もの人が霊界に送られて来ます。

地上に近い界層では、そんな人たちを介抱するために、慌ただしい状況になっていると推察されます。

生前から正しい知識を身に付けていれば、死んだ後、周りの人に余計な手間を取らせなくて済みます。



コロナウィルスに感染して亡くなったのであれば、呼吸が苦しかった人も多いでしょう。

しかし、死んで肉体が無くなると、嘘のように楽になります。

具合が悪かったところも全てなくなり、肉体のない軽やかさに驚きます。



死んで直ぐは、地上の習慣が残っているので、生前と同じ様な生活をしようとするでしょう。

住み慣れた家に帰り、いつもの場所で過ごす人も多いと考えられます。

もう肉体はないのに、眠気や空腹を覚えることもあるようです。



そこに、自分がいる場所をじっと見つめている人の姿を見つけるかもしれません。

苦楽を共にして来た、大切な人です。

いるのにも関わらず、自分の姿が全く視えていないことに、不思議な感覚を覚えます。

ここにいることを教えたくなるでしょう。

しかし、いくら声をかけても、気付いてもらえません。

触れようとしても、(霊体の)手が相手の体をすり抜けてしまいます。

自分がいることを知らせる術がなく、意思疎通が全く出来なくなっていることに愕然とします。



記憶はあります。

性格もそのままです。

想いも変わっていません。

肉体がないだけで、他は何も変わっていません。

しかし、地上にいる人は、そんなことに気付くはずもなく、いなくなったと思っています。



「いなくなっていない」

「遠くになんか行っていない」

「傍にいる」

「どうして判らないんだ」

そんな想いを伝えたい人たちが、今、地上近くで溢れているでしょう。



地上に残された人はどうしているのでしょう?

あまりに突然だったので、現実とは思えません。

死に目にも会えずに、いきなり骨(遺体)になって帰って来れば、信じられるはずもありません。



しかし、いくら待っていても何も連絡もありません。

家に帰って来ません。

少しずつ死んでしまったことを受け入れて行くしかありません。

それに伴い、悲しみが押し寄せて来ます。

感情を抑えられなくなり、涙となって溢れ出します。



向こうにいる人は、そんな様子を見ていて、傍に寄り添いたくなります。

しかし、悲しみの感情は地上の人を包み囲んでいるバリアのように感じられ、容易に傍に近づけません。

悲しみの感情を、自分にはどうすることも出来ないので、ただ傍観するしかありません。



今いるのは、思念の世界です。

地上にいる人の肉体はおぼろげにしか視えません。

しかし、想いは手に取るように判ります。

地上にいる人はその逆です。

肉体は視えますが、五感に触れない想いは判りません。



何とかして、自分の想いを伝えられないかと思います。

地上の人が、能力の確かな霊媒のところに行けば、代わりに伝えてもらうことができます。

それが無理ならば、地上の人の魂に直接、想いを投げかけて伝えるしかありません。

上手く行くと、地上の人の心の中に何かが突然、浮かび上がります。

それが精神上で具体化されれば良いのですが、何なのか判らないまま、受け流されてしまうことがほとんどです。



向こうの世界から想いは、インスピレーションの形を取り伝えられます。

せっかく伝わっても、思い付きとして片付けられてしまいます。

そんなむなしい試みが、何度繰り返されているのでしょうか?

成否を決めるのは、自分の存在を信じてもらえるかどうかにかかっています。



地上では、悲しむことよりも、生きることの方が優先されます。

悲しんでいる暇さえない人も、きっと多くいるでしょう。

そんな状況は、向こうにいる人たちには好都合かもしれません。

生きることに意識が向かい、悲しみのバリアが弱くなった時を見計らって、自分の想いを伝えようとしているかもしれません。

その想いが愛であれば、心の中がパッと明るくなり、何かあたたかいものが拡がって行くのを感じられるかもしれません。



向こうに行った人にとっても、意思疎通ができなくなるのはつらいものです。

しかし、いつでも地上の人に寄り添えます。

想いも判ります。

地上の人のような、悲しみはありません。



自分を想う思念が届いた瞬間、寄り添っているでしょう。

もし、地上にいる人の意識が、自分以外に向いている時には、どうしているのでしょうか?

今いる世界に、意識が向いていると思います。

そこに拡がっているのは、生命力が鮮やかな色彩となって、光り輝いている世界です。

言葉を介さずに、想いが通い合います。

煩わしい人間関係もありません。

食べるために、働く必要もありません。

精神的、肉体的に大きな負担となっていたものが、ことごとくなくなっています。

実に快適な世界です。

けれども、地上の人はそんなことなど知らないために、この世に生きていられなかったと嘆き悲しんでいます。



「まだすることがたくさんあったのに」

こう思う人もいるでしょう。

夢に向かって進んでいた人、果たすべき約束があった人、守るべきものがあった人もいるでしょう。



全ての現象は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則に則って、地上を去ったのです。

神が創った自然法則に則って起きたことで、不公正が生じるはずはありません。

ここに、シルバーバーチの言う「埋め合わせの原理(法則)」が働いていると考えられます。



私たちは、大切なことを学び、霊的に成長するために、地上に生まれて来ました。

地上的な経験はできなくなりましたが、霊界でそれに代わる経験を通して、同等の学びや成長が得られると考えられます。

違う形での夢、果たすべき約束が生まれると考えられます。



守るべき人が、生きるのが大変な状況になってしまうこともあるでしょう。

そんな人たちを、霊界から守り導くのも大切な役割となり、成長につながると思います。

失うことによって生じた苦難を、もがきながらも乗り越えようとする過程で、地上の魂は成長し、霊的に報われることになります。

自分が地上を去ったことで、不公正がないように完璧に計られていることを知り、安心すると共に、宇宙を経綸している大いなる存在に感謝するでしょう。



ところで、亡くなった300万を超える人は、寿命だったのでしょうか?

シルバーバーチの霊訓の中に、事故でご主人を亡くした夫人とのやり取りがあります。

そこに偶発的に見える事象で死んだ人と、寿命との関係が書かれています。

最も理解しにくい文章の1つですが、書いてみます。

夫人「主人が亡くなったとき私は、これも宿命だったと信じる用意はできていたので、そのことをある方を通じてあなたに伝えてもらいました。するとあなたは、これは事故(アクシデント)だとおっしゃったのです。私は、アクシデントと法則とが同居できるはずはないと思いました。」

シ「私がアクシデントだと言ったのは、神が過ちを犯したという意味ではありません。法則の内側にもさらに別の次元の法則が絡んでおります。その事実を、これから可能なかぎり判りやすく説明してみましょう。私が申しあげたかったのは、ご主人はあの日に死ぬ運命ではなかったということです。」

夫人「では私たちは何日に死ぬということまで決まっているわけではないということでしょうか?」

シ「非常に難しい質問です。というのは、それが決まっている人もいるからです。」

夫人「もし主人が私以外の女性と結婚していれば因果律もまったく別の形をとったはずです。もしかしたら、あの日のあの時刻に死ぬという結果を生み原因も起きなかったかもしれないーこの考えは考えすぎでしょうか?」

シ「いえ、私は考えすぎだとは思いません。人生はすべて法則によって支配されております。天命、宿命、運命ーこうした問題は何世紀にもわたって思想家の頭を悩ませてきました。では、真相といえば、法則の内側にも別の次元の法則が働いているということです。宇宙は何人にも動かしがたい基本的な法則がまず存在します。ただし自由意思が原因となってそれ相当の結果が生じます。それは絶対に避けることができないということです。お判りですか?」

夫人「判ります」

シ「さて、ご主人はあの日に地上を去って私どもの世界に来る必要がなかったという意味においては、あれは偶発的な事故でした。しかし、それでもなおかつ、因果律の働きによるものでした。」

夫人「原因の中にすでにあの事故が発生していたということでしょうか?」

シ「その通りです。私が言っているのは、あの日に他界するように運命づけられていたという意味ではないと言うことです。」



コロナウィルスの感染によって亡くなった人はどうなのでしょうか?

その日に、亡くなることが決まっていたわけではないと考えられます。

人類全体に因果律が働いた結果としてウィルスが流行し、全体の一部として個が感染し、その個が持っている肉体的、霊的次元の原因に、さらに因果律が働いた結果として、地上を去ることになったと考えています。



生命は永遠に続きます。

地上で学ぶことがなくなるまで、霊界との行き来を繰り返します。

死とは、元いた世界に回帰する自然現象であり、決して不幸なことではありません。



全ては計られています。

先に逝った人は、霊界に戻るのに相応しい魂であったのに違いありません。



2021年4月18日日曜日

新型コロナウイルスの流行について 追記


春になれば、以前の生活に戻れると思っていましたが、その考えは甘かったです。

新型コロナウイルスは勢いを増して拡がっています。

これまでに、世界で300万人以上が亡くなっています。

一刻も早い終息を願うばかりです。



ウィルスの流行は自然現象の1つです。

全ての現象は因果律の働きより起きているので、何かしらの原因があるはずです。

シルバーバーチはこう言っています。

「そもそも人間の生命を奪うようなビールスが発生するということは、人類の生き方がどこか間違っていることの証拠です。人類の生き方は地上のすべてに反映するのです。生き方を正せば、そういう克服できない問題は生じなくなります。人類の行動と環境との間には不離の関係があるのです。」

人類の生き方が間違っているとウィルスが発生すると明言しています。

地球は人間だけのものではないのに、我が物顔で振舞っているのが間違っていると思います。

具体的には、人間が踏み込んではいけない地域に進入し、未知のウィルスの宿主となっている動物と接触してしまったことが原因と考えています。



コロナウィルスと同じ種類にインフルエンザウィルスがあります。

その発生源は鳥です。

水鳥がインフルエンザウィルスを運んで来て、農村にいるアヒルや豚やニワトリなどの家畜に感染し、変異したものが周囲にいる人間に感染すると言われています。

出典:flickr; Rikki’s Refuge

もし、アヒルや豚やニワトリを人間が食べなければ、インフルエンザウィルスは限られた生態系の中で閉じ込められたままです。

そう考えると、人間が自然環境を守り、動物の肉を食べなくなれば、新型コロナウィルスだけでなく、インフルエンザ、エイズ、エボラ出血熱等の、人類を悩ますウィルスの流行は起こらないと考えられます。



世界中でワクチンの接種が始まりました。

血栓等の副反応に注意を払わなければなりませんが、ウィルスの流行を終息させるのに、最も有効な手段であるのは間違いありません。

高齢者施設に優先して接種しているヨーロッパでは、施設での老人の死亡数は激減しています。

最も接種が進んでいるイスラエルでの調査では、発症を94%予防し、重症化が92%防げたと報告しています。

一刻も早いワクチン接種が望まれますが、これは一時的な対処療法に過ぎず、根本的な解決にならないかもしれません。



このウィルスには変異が起きるからです。

変異するとワクチンが効かなくなったり、1度感染した人が再び感染する可能性があります。

ウィルスが人間の体の中で増殖する際、コピーミスが起きると変異すると考えられています。

変異はミスで起きているのではないと思います。



ウィルスの増殖は自然現象です。

自然現象は自然法則に則って起こります。

自然法則を創った存在を「神」と呼ぶことにします。

もし、自然現象にミスがあったとすれば、神が創った法則の働きにミスがあったことになります。

それはあり得ません。



神が創ったこの宇宙は、あらゆる事態が想定されています。

ある原因が発生した時に、因果律が作動して、ある現象が起きる、自然法則はその様に創られていると考えられます。

突然変異と言われる自然現象も、偶然ではなく何らかの原因があって、自然法則に則って起きています。

変異を起こす自然現象の中に、神の意図が隠されていると思います。



隠された意図とは、人間が過った方向に進んで行くのを修正するためと考えています。

もし、ウィルスの流行がワクチンによって簡単に封じ込めることが出来たらどうでしょう?

何も変わらずに、しばらくすれば元の生活に戻ります。

変異が起こることで、難しくなったらどうでしょう?

生き方や考え方を、変えざるを得なくなります。



ウィルスは人と人との接触によって伝搬して行きます。

完全に接触を断てば、ウィルスは拡がることはありません。

しかし、仕事をしなければ生きて行けず、世の中も回って行きません。

この世界は、何かしら人と関りを持たなければ、生活を営めないようになっています。

今、求められているのは、生きて行く上で必要のない行動をなるべくしないことです。



多くの人は、これまで普通にしていた行動を控えるようになりました。

例えば旅行です。

海外や長距離の旅行をする人は、めっきり少なくなりました。

身近にあるもので、楽しみを見つけようとする人も多くなって来ました。

このことは、人間が移動をする時に出している二酸化炭素の量を減らすことにつながっています

極めて深刻な地球温暖化の進行が、新型コロナウィルスの流行によって強制的に抑えられているように思えます。(2020年は第2次世界大戦後最大の二酸化炭素排出量の減少)



また、ウィルスの感染は、アルコールの出る飲食店で頻繁に起きていることは、各国の共通した認識です。

アルコールを飲むと、ウィルスに対する恐怖心や警戒心が弱まり、理性的な判断が出来なくなるので当然でしょう。

多くの人は、外でお酒を飲むのを控える様になりました。



旅行をするのも、お酒を飲むのも、人生の楽しみの1つです。

私たちが普通にしていることです。

しかしながら、地球上には食べるものも食べられず、餓死している人たちがいます。

世界各地で紛争が起きています。

貧しい国で起こる紛争は、飢えと深く関わっているようです。

空腹が続くと、人のことなど考えられなくなり、争いが起きやすくなります。



自分が働いて稼いだお金で何をしようと自由です。

しかし、働くことも出来ずに、空腹にじっと耐えている人たちがいます。

そんな人たちのために、自分の楽しみの一部を犠牲にして、分け与える気持ちが求められているのかもしれません。

今回のウィルスの流行は、物質的に豊かな国の人たちの行き過ぎた享楽への戒めと、物質的に貧しい国の人たちへ意識を向ける意図が込められているような気がします。



ウィルスの感染者数の多い国は上から順に、アメリカ、インド、ブラジルです。

どれも貧富の差が激しい国ばかりです。

コロナウィルスの怖さや、感染を防ぐための正しい知識も持ち合わせていない人たちが感染の危険に晒されながら生活しています。

啓蒙を怠たり、健やかに生きる権利が侵さている人が多い国ほど、ウィルスが拡がっているような気がします。




私たちは、1人1人が独立した存在のように見えます。

宇宙から見ればどうでしょう?

地球は1つの生命体のように見えます。

出典:NASA

個々は独立した存在ではありません。

全体の一部として生命はつながっていて、何かしらの役割を担っています。

例えば、道端に生えている1本の雑草はどうでしょう?

二酸化炭素を酸素に変えて、動物たちが生きるために、ささやかな貢献をしています。


地球上の一部の人たちがぜいたくな暮らしをしながら、一部の人が飢えて死んでしまう、これは霊的に許されることではありません。

事実を知りながら、何もしないでいるのは、神の摂理に反しています。

「人間の窮地は神の好機」と言われます。

ウィルスの流行と言う自然現象により、人間は窮地に追い込まれて、多くの人が霊的に目覚めると思います。

霊的に目覚めれば、物質的な豊かさよりも、大切なものがあることに気付く人もいるでしょう。

自分の楽しみよりも、他者の笑顔の中に、悦びを見い出す人もいるでしょう。



霊的に目覚めれば、自分の中にある良心に忠実になります。

飢えに苦しんでいる人、破壊される自然環境、生命の危機に晒されている動物たちのことが放って置けなくなります。

そんな人たちが多くなれば、今まで変わらなかった世界が変わって行くはずです。



あらゆる事態が想定されて、この宇宙は創られています。

より多くの人を霊的に目覚めさせ、地球を健全な方向に向かわせるために、人類が作り出すであろうワクチンに抗うために変異というプログラムが、予め組み込まれていたと考えています。

徹底的に追い込まれた時、人は霊的に目覚めます。

ウィルスの流行という危機的な状況によって、地球規模で霊的な浄化が行われているような気がします。

嵐が去った後に、今までと違う世界が待っているのかもしれません。



ところで、ウィルスの拡がり方を見て感じたことはないでしょうか?

ウィルスには国境がありません。

人種も宗教も文化も関係ありません。

世界中の人はつながっているので、ウィルスは隅々まで拡がって行きます。



世界全体で起きていることであれば、世界全体でどう対処するべきかを考えるべきです。

自分さえ、自国さえ良ければでは済まされません。

もし、物質的に豊かな国がワクチンによって流行を抑えることができたとしても、行き届かない貧しい国で流行が続いてしまう可能性があります。

そんな中で、ワクチンが効かないような変異が起きれば、再び世界中で流行するでしょう。

こんな時こそ、世界全体に意識を向けることが大切だと思います。



人間が利己的になってしまい、地球全体の調和を乱したために、因果律が作動して、ウィルスの流行が起きたと考えています。

もしそうであれば、利他的な行動を取ることによって、終息に向かうはずです。



人に移さないような行動をする。

世界中の人に満遍なくワクチンが行き渡るように援助をする。

自然環境を守り、温暖化が進まないような生き方をする。

小さなことでも、みんなですれば大きな変化となります。






2021年4月11日日曜日

真実は内に隠されている


「自分とは一体何だろう?」と、漠然と思う時がありました。

そんな時は、目に視える自分とは違うと、何となく感じていたのかもしれません。



「自分とはいったい何だろう」と思う意識そのものが自分です。

そんな意識は、どこで生まれているのでしょうか?

多くの人は、脳で生まれていると考えています。



ところで、人の性格はどこで生まれているのでしょうか?

世の中には、怒りっぽい人もいれば、泣き虫な人もいます。

脳内伝達物質の働き方によって、性格が決まると考えている人がいます。

アドレナリンが出やすい人が怒りっぽいのでしょうか?

そんな単純なものではありません。



意識がどこで生まれるのか、性格がどのようにして決まるのか、現代科学で解明されていません。

それは当然です。

意識や性格は、脳から生じているものではないからです。



意識は魂から生じています。

魂の様相の一部が、精神に投影されたものが、地上の人の性格となります。



地上の人間は、魂、精神、肉体の3者から成り立っています。

肉体を動かしているのは脳です。

脳に指令を与えているのが、精神です。

精神の上位に魂が存在しています。

精神は魂と肉体(脳)の間にあり、両者の橋渡しをしています。

肉体を動かす元となる思念は魂から生じています。

それが精神により具体化され、肉体で具現化されています。



ほとんどの人は、物質的な次元に生きていると思っています。

肉体は物質的な次元の存在ですが、魂は霊的な次元の存在です。

つまり、私たちは物質的な次元に生きていると同時に、霊的な次元に生きていると言えます。

死によって肉体から魂が分離すると、物質的な次元と関りがなくなり、完全に霊的な存在となります。



鏡に映っている肉体を見て、これが自分だと思っている人は多いです。

けれども、本当の自分とは鏡には映らない、意識的な存在です。

肉体は、自分(魂)を表現するための媒体に過ぎません。



地上の人間は、肉体、精神、魂から成る多元的な存在です。

私たちが発している言葉も、実は多元的です。

言葉は文字として見え、声として聞こえるので、物質的な次元の存在です。

その言葉に、次元の違う想い(思念)が込められています。



私たちが良く口にする「ありがとう」を例に挙げてみます。

「ありがとう」は感謝の意味を表す言葉です。

言葉は、地上だけに存在する、他者に意味を伝える一種の記号です。

肉体によって発せられて、五感を通して相手に伝えられます。



もし、コンピューターにより合成された音声で「ありがとう」と言われたらどうでしょう?

言葉そのものしか伝わって来ません。

人から心を込めてありがとうと言われたらどうでしょう?

言葉以上のものが伝わって来ます。

言葉の中に、想い(思念)が込められているからです。



人が発した「ありがとう」と、コンピューター音声の「ありがとう」の決定的な違いは、想い(思念)を含んでいるかいないかです。

想いは、魂から発せられています。

当たり前ですが、生命でない機械は言葉に想いを込めることは出来ません。

人間が発した言葉には、物質的な記号としての意味の他に、霊的な次元の想い(思念)が含まれています。

記号と思念が組み合わさった、多元的なものです。



発せられた言葉は、耳と言う感覚器官で受け取っています。

受け取った情報は脳で処理され、その意味を理解します。

けれども、言葉に込められた想いは、五感で感じ取ることは出来ません。

魂が感じ取っています。



人間が発した言葉でも、感謝の気持ちが込められた「ありがとう」と、社交辞令の「ありがとう」があります。

その微妙な違いを感じ取れるのは、私たちは霊的な存在であり、霊的な感覚があるからです。



もし、人間が肉体だけの存在だったらどうでしょう?

個と個の間で交わされるのは、機械的な情報の伝達のみです。

感情は無意味であり不要です。

ありがとうと言う、感謝の概念自体も存在しないでしょう。

魂が存在しているからこそ、私たちは喜んだり、悲しんだり、感謝したりするのです。



地上がやっかいなのは、発する言葉と、想いが一致しないところです。

思いもしていないことを口にされたり、口にしたりします。

相手に騙されたり、騙したりすることが可能です。



言葉はお粗末な思念の代用品です。

自分の想いを、完全に相手に伝えることは不可能です。

そのため、発した側と受け取った側の間に、どうしても齟齬が生じてしまいます。

地上にいる人たちが、お互いに分かり合えないのは、生き方や考え方が違う以外に、意思伝達が上手く行かないことも原因になっていると考えられます。



死んで、霊界に行くと肉体はなくなります。

言葉はなくなり、思念だけとなります。

思念が魂から魂へと、直接伝わります。

想いもしていないことを伝えることは不可能になり、意思伝達の齟齬も全くなくなります。



良く霊界は「真実の世界」と言われます。

それは、地上では嘘が存在し得るのですが、霊界では真実がそのまま表現されてしまうからです。

魂が剥き出しになり、想いが露わになるので、裏表や虚構が存在し得ないのです。



人はなぜ歌を歌うのでしょうか?

言葉や音楽という媒体を介して、自分の想いを伝えるためです。

優れた歌手は、たくさんの想いを歌に込められます。

込められた想いは、聴く人の心(魂)に響いて、共鳴させることが出来ます。



絵画はどうでしょう?

画家は、自分の想いを込めながら描きます。

込められた想いを、観る人は作品から感じ取ります。

芸術鑑賞とは、物的表現から作者の思念を読み取る、一種のサイコメトリーな作業です。

偽物はどんなに上手に描かれていても、観て感動しないのは、作者の想いが込められていないからです。



地上の人間も、霊的な存在です。

霊的な感覚は誰にでも備わっています。

しかし、肉体があるために、思念は直接伝わり難くなっています。

そのために、五感で判る言葉に変換して、肉体を介して伝えるしかありません。

別の言い方をすれば、人間はあまりにも言葉に頼ってしまったために、想いを感じ取る霊的な感覚が廃用退化したと考えられます。



目に視えるものが全てと思いがちです。

けれども、起きている現象や人が行っていることも、目に視えない意味や目的が存在しています。

私たちは、物質によって隠されている真実を探る作業を、日常的に行っています。

真実を隠すことの出来ない霊界では、その必要はありません。

地上でのその作業は、お互いが深く判り合えることにつながり、霊界において調和が促進されると考えられます。



今朝、小鳥の鳴き声を聴きながら起きました。

目覚まし時計のアラーム音は時に不愉快な気分にさせられますが、朝の小鳥の鳴き声からは、生きている歓びのようなものが感じられ、元気付けられます。





2021年4月4日日曜日

地上での目的

 

「終活」と言う言葉を、良く聞くようになりました。

一昔前は、死は忌まわしいものとタブー視されて、なるべく考えないようにしていたのに、随分変わったものです。

死も1つのライフイベントとして捉え、自分なりに人生のけじめを付けたいと考える人が増えていると思います。

旅先を訪れる前に、本やインターネットで現地の情報を集める人は多いです。

終活の後に訪れる世界についてはどうでしょう?

情報を集めようとする人は、あまりいません。

あるかどうかも判らないものを、考えても仕方がないと思っているのでしょうか。

死後の世界がなければ、それで良いのですが、あった場合には戸惑ってしまいます。

リスクを回避するために、知識を身に付けておいて損はありません。



地上での目的を果たした人が、生まれる前にいた世界に戻る現象が死です。

ところで、地上での目的とは何なのでしょうか?

それぞれ目的があって生まれて来ているのですが、残念ながら分かりません。

しかし、何かをきっかけにして表に出て来る時があります。



ある番組で、最も権威のある国際コンクールで優勝した女性ヴァイオリニストが、幼い時のことを話していました。

彼女は、3歳くらいの時にピアノを習い始めたそうです。

親の期待とは裏腹に、どうしても好きになれなかったそうです。

ある日のこと、おじいさんが子供用の小さなヴァイオリンを買って来ました。

それを持って、テーブルの上に立った瞬間に「私はこの楽器のソリストになる」と、大きな声で叫んだそうです。

こんな形で、地上での目的を思い出す人もいるのかと思いました。



目的に出会っても、なかなか気付かない人もいます。

野球の神様と言われるベーブルースは、幼い頃は手を付けられない、悪い子供のようでした。

親に見放されて、カトリック系の矯正施設に預けられたそうです。

自立するために洋服の仕立てを教わりましたが、そこで尊敬の出来る神父との出会いがありました。

人として大切なことを教えてもらうのと同時に、布を縫ったボールの様なものを使って野球の手ほどきを受けます。

その神父はとても体格が良く、遠くまでボールを飛ばすことが出来たそうです。

その姿に憧れたのでしょうか、ベーブルースは熱心に野球をするようになり、めきめきと上達して行きます。

噂を聞きつけたメジャーリーグの関係者が彼の元を訪れ、入団するように勧めますが、洋服の仕立て職人になると、1度は断ったそうです。

前置きが長くなりましたが、目的と出会ったとしても、その人を取り巻く環境や性格によって、直ぐに気付かない時もあるようです。



地上での目的とは、出会うべくして出会います。

運命的な出会いと感じるかもしれませんが、霊界の導きがあってのことです。

努力を厭わず、投げ出さないで続けようとするのは、生まれる前に約束していたことだからです。



多くの人は、ベーブルースは野球をするため生まれて来たと思っています。

彼にとって野球をする本来の目的は、富や名声を得るためではありません。

野球をしている自分の姿を見てもらうことで、たくさんの人に元気や勇気や夢を与えるためです。

人の役に立つ手段が、野球だったと考えられます。

才能を人のために活かすことで、自らの成長にもつながります。



もちろん、全ての人がベーブルースのように才能が与えられ、華々しい活躍をするわけではありません。

多くの人は、何らかの形で人の役に立ちながら、さまざまな出来事を経験することによって、生まれて来た目的を果たして行きます。



人生には、うれしい出来事もあれば、つらい出来事もあります。

出来事の1つ1つが、魂に何らかの影響を及ぼしています。

例えば、誰もが避けたい病気です。

ある日突然、原因も見当たらずに病気になったのであれば、予め決められていたのかもしれません。

病気の苦痛や障害に耐えて、克服しようとする中で、大切なことを学び、自分を成長させるために、その経験がどうしても必要だったのかもしれません。

地上で起きることには、霊的な目的が包含されていて、そのほとんどは自分の成長に関わっていると考えられます。



同じ成長をするならば、華々しい活躍をする人生を望む人がいるかもしれません。

人は人の表に出ている部分しか判りません。

もし、その人の全てを知ることが出来たなら、栄光の陰で苦労や犠牲がたくさんあり、今の人生で良かったと思うかもしれません。



歩む道が違うのは、必要とする経験がそれぞれ違うからです。

従って、人と比べても全く意味がありません。

自分のためであり、そのことを決めたのも自分です。



何故、そこまでして私たちは成長しようとするのでしょうか?

成長とは進化です。

生きている目的は進化することです。

進化するほど神の心、愛が表現されるようになります。

愛を表現することで、ばらばらになった個々の生命が再び1つになって行きます。

生命が1つになり、完全な調和の中で生きるようになるのが、神が立てた計画と考えています。

魂には神が宿っています。

成長しようとするのは、神の意思だからです。



私たちが表現しようとする愛には、2つの側面があると考えています。

1つは強さであり、もう1つは(次元の)高さです。

強い表現であっても、そこに愛が表現されてなければ何の意味もありません。

高い愛であっても、強さがなければ表現することは出来ません。



高さを求めるのか、強さを求めるのかによって、自ずと必要な経験は違って来ます。

高さを求めるのであれば、それに相応しい経験、例えば、自分が好ましく思わない人のために尽くすようになるのかもしれません。

強さを求めるのであれば、魂が鍛えられる経験、例えば、頼るものがなくなり、自力で生きる状況に追い込まれるかもしれません。



アスリートが成績を残すためには、厳しい練習を積まなければなりません。

何かを得るには、それなりの対価を払わなければならないのが、世の常です。

自らの成長のために、それに相応しい経験が必要です。



安楽な状況で、人間が変わるのは困難です。

変わる必要がないからです。

経験がもたらす苦しみや痛みによって人は変わろうとします。

同じではいられないからです。

地上に生まれる人の多くは、精神的、肉体的な苦痛を通して、変化して行くように定められていると思います。

その変化こそが、求めていた成長と考えられます。



自分が求める資質を身に付けるために必要な出来事が、神の裁量によって計画され、自然法則の働きによって生じていると考えられます。

その出来事は、不幸や凶事と言われるものかもしれません。

しかし、最悪に思えたことが、その人の成長にとって最善の出来事だったことが往々にしてあると考えられます。

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「苦難は人間から見ればいやなものでしょうが、私たち霊の立場から見れば実にありがたいことです。凶事に出会うと人間は万事休すと思いますが、私たちの目から見ると、それが新たな人生の始まりであることがあります。」

地上にいる私たちと、霊界にいる人では、出来事の捉え方が全く逆のようです。



華々しい活躍を続け、オリンピックでは金メダルが有望なアスリートが、大会を前にして生命を脅かす病気になりました。

そして、病気をほぼ克服し、選手として復活しています。

もし、病気にならずにオリンピックで金メダルを取れたならば、もちろん応援している人たちは喜ぶでしょう。

本人の挑戦や努力は、自らの成長として報われます。



それよりもずっと大切に思えることがあります。

病気を克服して復活している姿は、今苦しんでいる人たちに、どれほどの生きる力、勇気と希望を与えているのでしょうか?

そして、夢を諦めてはいけないことを教えているのでしょうか?

その貢献度は計り知れません。



彼女は無宗教でしょうが、2年前の1番つらい時にこんなことを言っています。

「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。」

病気にならなければ、この叡智は与えられなかったのかもしれません。



東京オリンピックの開催は、日に日に難しくなっていると感じています。

彼女があの舞台に立つことがあるならば、その姿を見て魂に響くものを感じる人が、たくさんいるでしょう。

人に勇気と希望と生きる力を与えるのが、地上での目的だと思います。



魂の成長とは、平たく言えば、強く優しくなることだと思います。

地上を去った後、人生を振り返る時が来ます。

最もつらく、苦しかったあの時が、自分を1番強く、優しくさせていたことに気付くでしょう。

神の公正は完全です。