2020年6月28日日曜日

お金の価値


命の次に大切なものは何か?

お金と答える人も多いでしょう。

綺麗ごとではなく、お金がなくては生きて行けないからです。



地上を去った後に待ち受けているのは、思念の世界です。

そこでは自分が欲するものが直ちに具現化します。

想像するのが難しいのですが、車に乗りたければ目の前に車が現れ、食べ物が欲しくなれば目の前に食べ物が現れます。

お金がなくても、欲しいものが手に入る世界です。

けれども、移動するために車は必要ありません。

肉体がないので、食べる必要もありません。

お金で買う物は、霊界での生活に必要ないものばかりです。




当たり前のようにあるお金は、地上だけの特殊な存在です。

この世を去れば、消えてなくなってしまうお金に、多くの人は捉われ過ぎています。

お金にまつわる犯罪は、日常茶飯事のように起きています。

人を殺してしまうことさえあります。

お金に捉われるあまり、生まれてきた目的をすっかり忘れて、道を踏み外してしまう人がたくさんいます。




大昔の人は、物々交換をして生活していたようです。

それに不便さを感じたために、物と等価になるお金が考案されました。

最初のお金は貝であり、そのため関係する漢字(財、買など)には貝が入っています。
貝貨
その当時は、その日の暮らしが成り立てばそれで良かったので、物を溜め込むことはありませんでした。

ところが、お金が現れて溜めることが可能になりました。

お金がたくさんあれば、物的に贅沢な暮らしが出来るので、蓄財するようになったと考えられます。




お金がなければ生活できません。

しかし、あり過ぎても良くないようです。

お金に喜びを感じてしまうと、本来味わうべき悦びに無関心になってしまうようです。

たくさんのお金があれば、安心感は得られるかもしれません。

しかし、それ以上のものは何も得られません。




気に入った物を買ったり、旅行に行ったり、食事に行くのは、確かに喜びを感じます。

しかし、その喜びはどれも地上的なものです。

ひと時のものです。

私たちが、本来味わうべきなのは、永続な悦びです。

それは、魂から湧き上がる、霊的な悦びです。




霊的な悦びとは、一体どんなものでしょうか?

例えば、満員電車の中で、つり革に掴まれず、困っているお年寄りがいて、席を譲ったとします。

その時に、ちょっとした満足感のような、うれしさのようなものを感じることはないでしょうか。

それが、霊的な悦びです。

自分がしたことで人に喜ばれた時、あるいは人や動物や社会のためになったのを実感した時に内から湧き出るもの、それが霊的な悦びです。

人は、自分がしたことが役に立って、喜んでもらうと、自身も悦びを感じるようになっていると考えられます。




何故、そのようになっているのでしょうか?

この世に生まれて来た目的は、自分を成長させるためです。

人のために役に立つと、自然法則の働きによって、成長するようになっています。

人のために役に立つことで悦びを感じるのは、悦びを通して人を成長させようとする意図があるからです。

悦びを感じることで、神は自らの心(愛)を顕現させようとしています。




地上的な喜びを追い求めても、虚しさを感じるのはどうしてでしょう?

それは、自分が成長しないものを追い求めているからです。

生まれて来た目的を成就していないからです。

成長して行く過程で、魂から湧き出る、深い悦びを感じることが出来ます。




いくらお金を持っていても、自分の成長とは関係ないので、満足することが出来ないようになっています

満足することが出来ないので、際限なく求めてしまう人が多いのです。

たとえ、巨万の富を手に入れたとしても、霊的な悦びを感じることは出来ません。




お金によって、霊的な悦びを得る、唯一の方法があります。

それは、必要としている人に分け与えることです。

人のために活かされた時、初めて霊的な価値が生まれるからです。

役立てたいと願い、分け与えることで、悦びが生まれます。




お金をたくさん蓄えている人がいると、その分、足りなくなる人が出て来てしまいます。

足りない人に蓄えている人が分け与えることによって、その価値は最大限に発揮されます。

物的な財産は少なくなりますが、目に視えない霊的な財産が増えることを、多くの人は知りません。

どちらの方が、永続性があり、価値のある財産なのか、言わずと知れたことです。




にわかには信じられませんが、世界の富豪の8人の資産が、貧困層36億人分の資産と同じという話があります。

その真偽はともかくとして、誰が見ても明らかな富の偏在があるのは確かです。

ただ、富を築いた人は、こう言うかもしれません。

「私には才能があり、努力もしてきた。社会からお金と言う正当な対価をもらって当然である。それをどうしようと勝手だ。」

それは、地上的に見れば正論です。

しかし、霊的には、極めて貧しい意見となります。

人のために活かすために才能があり、それよって得た財産も、また人のために活かすためにあると考えられます。

今までしてきた努力は無駄にはなっておらず、自らの成長として報酬を得ています。

才能が神から与えられたのであれば、それによって得たお金も、神が望むように使わなければなりません。




物的な財産をたくさん蓄えていた人が、この世を去り霊界に行くとどうなるのでしょう?

その財産が、人や動物や社会のために活かせなかったことを後悔することになります。

遺した財産によって、争いが起きるようであれば、後悔はさらに大きくなるでしょう。




富める国が、そして富める人が、さらに富を増やすことばかりを考えています。

富を増やそうとしている国や人ほど、霊的な事実に無知であり、無関心です。

物的な豊かさを追い求めても切りがありません。

真の豊かさ、悦びは得られません。

残念ながら、この状況は一向に変わる気配がありません。




コロナウィルスの流行は、収束する気配を見せていません。

富を追い求める国、貧富の差がある国、社会的な格差が大きい国ほど、甚大な被害が出ている様に見えます。

地上の危機的な状況は、霊的に危機的な状況を反映している様です。

大きく変わらなければならない国や人ほど、大きな苦痛を味わっている様に見えます。

何かが間違っているけど、それが何だか判らない。

そんな人たちがほとんどかもしれません。

物質的に大きな変化が起きて、危機的な状況に追い込まれることで、霊的に目覚めます。

目覚めることで、間違っていることに、はっきりと気付くことが出来ます。

気付くことによって、初めて変わることが出来るのです。




コロナウィルスは、人の動きを止めました。

それによって、物の動きが止まり、お金の動きも止まりました。

お金の動きが止まると、多くの人に行き渡らなくなります。

お金が行き渡らなくなれば、食べることもままならず、生きて行くのが不安になります。

世界中の人が、そのことに気付いたと思います。




地球上の生命は、物的には独立していますが、霊的にはつながっています。

実はひとつなのです。

全身に十分な血液が循環していなければ、健康ではいられません。

ひとつひとつの細胞に当たる生命も、必要なものが十分に行き渡っていなければ、健全でいることはできません。

富の偏在は、肉体において血液が貯留し、滞っているのと同じ状態です。

必要なものが行き渡らなくなり、多くの生命を危うくさせています。

お金は血液と同じで循環させるべきものであり、留めて置くべきものではありません。




今の地球は、想像している以上に不健全なのかもしれません。

あまりにも不健全になったために、因果律が作動し今回の現象が引き起こされ、健全さを取り戻すことになるのかもしれません。

国や地域の間に、医療体制や知識に著しい不均衡が存在しているので、それが原因となり、ウィルスは拡がって行くと考えられます。

ウィルス流行によって、世界中の不均衡、不平等なものが露わになり、それが目に留まるようになり、良心によって正されることになると思います。




自然界の中に、健全さを保つような仕組みが、予め創られていたと思われます。

人間の力ではどうすることも出来なかったので、その仕組みが作動し、外部の力によって健全さが取り戻されると考えています

どのような形で取り戻されるのか判りませんが、相応の苦痛を伴うことは覚悟しなければいけません。

必要としている人に必要なものを行き渡らせ、地球環境を最優先するようになれば、ウィルスの脅威から免れることが出来ると考えられます。




世界中で戦争のために使われているお金(軍事費)を、必要としている人たちに回すことが出来たのならば、飢えに苦しむ人はいなくなるでしょう。

蓄えられているお金を、住む家のない人たちに回せたのなら、全ての人に安心して眠れる場所が提供されるでしょう。

お金は人のために回すことで、霊的な価値が生まれます。

それ以上の価値はあるのでしょうか。



2020年6月21日日曜日

差別とは?


今から20数年前のことです。

仕事でアメリカに行き、フロリダからボストンまで飛行機で移動しました。

国内線であり、周囲を見渡したところ、日本人はおろかアジア人もいませんでした。

離陸してしばらくすると食事の時間になり、30代位の女性CAが後席から配り始めました。

直ぐ後ろまで来て、次だと思っていたら、私の横を素通りして、1つ前の人に食事を配ろうとしていました。

慌てて、自分のところがまだだと伝えたところ、謝りもせずに、何事もなかったかのように食事を手渡しました。
本文とは関係ありません
相手はプロであり、うっかり忘れてしまったとは考えにくい状況でした。

これはもしかしたら「差別」ではないかと思いました。

生まれて初めての体験で、あっけに取られていました。

こんなにも平然と、表情も変えずにするのかと驚くと共に、心の闇のようなものを感じて、うすら恐かった覚えがあります。

アメリカは自由で平等な国と思っていましたが、嘘だと思いました。

もちろん、そんな人たちばかりがいるのではありません。

多くの人たちは気持ち良く歓待してくれました。






黒人男性が白人警官に殺されて、アメリカ各地でデモが起きています。

最近は、人種差別と言う言葉を聞く機会が少なくなったと思っていましたが、想像している以上に根深いものがあるようです。




いったい差別とは何なのでしょうか?

人は、肌の色が白い、黒い、黄色いと、その違いを識別しています。

そこに、優劣の意識が入った瞬間、差別が生まれると考えられます。




差別とは地上的な概念です。

私たちが死んだ後に行く霊的な世界には、差別など存在しません。

肌の色などなく、周囲には同類の人しかいないために、優劣など存在しないからです。

地上は、霊的な世界とは大きく異なります。

自分と違う人たちばかりがいます。

同類の人だけしかいない霊的な世界の生活はお互いが深く判り合えているので、快適そのものです。

しかし、地上にいる私たちは、自分と違う人たちに囲まれながら生きています。

そのため、判り合えないために生じる苦痛を味わうことになります。

そんな地上にわざわざ生まれて来るのは、苦痛から大切なことを学び、魂を成長させるためです。

違う者同士が、互いを認め合い、許し合うことに、大きな意味があると考えられます。




自分と違う人たちの中で暮らすのは、肉体によって思念が隠されてしまうために、何を考えているのか判りません。

何をされるのか判らないと、怖れを感じます。

そのため自分を守りたい欲求がどうしても生じてしまいます。

守りたい欲求が高じると、自分と違う人が傍にいると安心できなくなります。

出来れば傍にいて欲しくないと思うようになります。

安心を得たいために、違う人を排除しようとする気持ちが生まれる時があります。

その気持ちが、差別的行為の原因になっていると考えられます。




地上に生まれると、自分を表現するため、そして守るために、地上だけに存在する自我(以下自我)が形成されます。

成長するのに従い、自我の働きは強くなって行きますが、それは正常な発達と考えられます。

幼い子供は、自我が発達していません。

自分を守るものがない無防備な状態ですが、その代わりに差別的な意識もありません。

差別的な意識は、違う人を排除しようとする過程で生まれ自分を守ろうとする自我の働きが強い人ほど生じやすくなると考えられます。




日本は単一民族なので、人種差別は少ないと言われています。

実際は、様々な差別が存在しています。

良く聞くのは、女性差別や障がい者差別ですが、分かりずらい、見えにくい差別もたくさんあります。

若い女性が良く「キモイ」と言っているのを見かけますが、これも一種の差別です。

言葉の中に、排除の意識が感じられるからです。

見た目で判断し、気嫌いしてしまう傾向は誰にでもありますが、その延長線上に差別が存在していると思います。




人が差別をする、もう1つの理由は何でしょうか?

優劣をつけて、自分が優れていると思いたいからです。

自分は優れていると思うことで、自我が満足するからです。




一般的に優劣は、頭が良い悪い、文化程度が高い低い、容姿が美しい醜いなど、比較対象とされるものに存在します。

相手が劣っていると思うと自分が優れていると錯覚し、それにより自我の満足が得られます。

優れていると思いたい自我の働きにより、相手が劣っていると言う差別的な意識が自動的に生み出される時があります。

それは、劣っていることを認めたくない、自我の裏返しなのかもしれません




けれども、優劣を認識する対象のほとんどは地上的なものです。

死んで霊的な世界に行けば学歴、肩書き、貧富など優劣の存在するものは、跡形もなく消えてなくなってしまいます。

差別的な意識を持っていた人が霊的な世界に行くとその対象を失ってしまいます。

自分が優れているのは錯覚であり、真の自分の姿を目の当たりにして愕然とします。

魂に染み付いてしまったその習性は、直ぐに改めることは出来ません。

差別的な意識は、神の心に反するものです。

自然法則の働きによって、その意識に自らが苦しむことになります。

優劣が存在しない世界で、差別的な意識を持つこと自体、自然法則に適っていないからです。

周囲との調和を乱して、孤立することになります。

結局は、同じ意識を持つ人たちに引き付けられ、その界層に赴くことになるでしょう。

そこは、自分の方が優れていると主張し合い、互いを蔑み合う世界と考えられます。




中には、親や周囲から差別的な行為を、善悪の判断がつかないまま、無意識の内に受け継いでしまう場合もあります。

当り前のようにしている行為に対しても因果律は正確に働いて、その結果に対して責任を負わなければいけません。




差別的な行為をして、相手を悲しませたり、傷つけてしまうようなことがあれば、魂に罪が刻み込まれます。

その先で、相応の償いをすることになりますが、自分が蔑まれ、排除されるような出来事を経験することになるかもしれません。

が積もりに積もってしまえば、今度は逆の立場となって生まれ変わらなければならないかもしれません。

相手がどう感じているのか判らないのであれば、受ける立場になって、苦痛の経験を通して学ぶしかありません。




黒人男性を押さえつけている白人警官の姿は、あまりにも残酷で正視できません。

しかし、私たちの心の中にも、多かれ少なかれ警官と同じ思いが存在しているのではないでしょうか。

自分と違う人間に対し怖れを抱いて排除しようとする気持ちや、優れている人間だと思いたい気持ちが存在しています。

それによって、差別的な意識が生まれたとしても、おかしくはありません。




差別的な意識があっても行為に移さないのは、良心と言う神の監視装置が働いているからです。

神の摂理に反した行為をしようとする時に、良心の声がして止めさせようとしています。

生まれて初めて差別的な行為をする瞬間、良心が咎めているのを感じたはずです。

しかし、無視して行為に移してしまったと考えられます。

その後も、良心の声を無視し続けてしまったために、終いには何も感じなくなってしまったと考えられます。

1つ1つの差別的な行為は、自らの魂を貶めていることになります。

常態化すると魂の様相まで変えてしまい(霊性を下げてしまい)、この様な残酷な行為をするまでに至ってしまったと考えられます。



人の痛みが判らないから、差別的な行為をしてしまいます。

同じことをされたとしたら、どう感じるのか想像すれば良いのですが、自分にしか意識が向いていないので判りません。

差別主義者は、一種の利己主義者と考えられます。




差別する対象は人間とは限りません。

動物を見て、人間よりも劣っていると思うのであれば、それは立派な「異種差別」です。

劣っているから食べても良いと思うのも、明らかな差別です。

差別的な意識があるので、動物が感じている苦痛や恐怖や悲しみを判ろうとしないのです。




以上の様に、怖れによる排除の意識、優れていると思いたい気持ち、無意識に身に付いてしまった習慣、それらが単独あるいは複合して差別的な行為に至ると考えられます。

その全てが、相手を思いやる気持ちの欠如、想像力の欠如から生まれています。




愛の対極にあるのは憎しみです。

差別的な意識も対極にあると思います。

愛を表現すれば世界は1つになって行きますが、差別的な意識を表現すれば、個と個は分断され、1つになるのを妨げてしまうからです。




それぞれに違いがあるのが地上です。

違いがあるのは偶然ではなく、それぞれ理由があります。

目的があって予め決められていたことです。




差異はあっても、優劣などありません。

外側ではなく内側を見なくてはいけません。

魂がどのような光(想い)を放っているかが全てです。

最も高貴で美しい光が愛です。




どうすれば差別がなくなるのでしょうか?

結局は、人間の霊性が高まるのを待つしかないのかもしれません。

しかし、それでは遅いので、差別がいかに罪な行為なのかを、知識として広めて行く必要があります。

霊的真理が広まった分だけ、差別のない世界も広がるでしょう。