2017年12月24日日曜日

魂の存在を信じますか?



人とは?と聞かれて、即答できる人は少ないと思います。

地球に棲む最も高い知性を持った動物が人であると、定義することには異論がないと思います。



知性は精神の産物であり、人とは目に見える肉体と、目に見えない精神から成り立っていると考えられています。

ところで、精神とは何なのでしょうか?

現代科学をもってしても、精神は未だに解明できておらず、謎だらけです。

精神は、物質的ではなく、再現性もないので、現代科学によって立証するのは不可能です。



大脳生理で、精神活動の全てを説明しようとする科学者がいます。

脳は確かに優れたコンピューターであり、思考の働きにより多くの問題を解決しています。

でも、どうしても説明できないことがあります。

それは感情です。

優れたコンピューターに求められるのは、正しい答えを導き出すことであり、感情など必要ありません。

なのに、どんな人にも感情はあります。

もし、感情を人から取り除いたらどうなるでしょうか?

ただの画一化されたロボットになり、個性は失われてしまいます。



人の個性はどの様に形作られるのでしょうか?

育った環境によって作られるのは確かです。

しかし、どんなに同じ様に育てたとしても、別々の個性が発現してきます。

生まれた時から個性が備わっていると考えた方が妥当なようです。



なぜ、生まれた時から個性があるのでしょうか?

遺伝子の違いが原因なのでしょうか?

塩基配列の違いは、肉体的な個性をもたらしますが、精神的な個性に関係しているとは、とても思えません。



個性を形作っている別の存在が、生まれた時からあると仮定した方が、合理的な説明がつきます。

別の存在が精神に反映され、個性となっていると考えれば全く無理がありません。



その存在は、科学で立証できないので認められていませんが、立証できないからと言って否定してしまのは過ちだと思います。

愛は科学で立証されたでしょうか?

立証されてないから、否定するべきなのでしょうか?



天文学の父と呼ばれるガリレオ・ガリレイは望遠鏡で木星を覗きました。

そして、木星の周りを衛星が回っているのを観察して、地動説を唱えました。

ところが、実際にその様子を見ていない宗教家や学者は、信じられずに否定し、裁判までかけました。

真実はどうだったでしょうか?

固定観念に捉われ、自分が信じられないものを否定してしまうのは、同じ過ちを犯しているように思えてなりません。



たとえ立証できなくても、証拠を見ていなくても、素直に信じなければいけないことがあると思います。

個性を形作っているのは物質的なものではなく、肉体とは別個に存在しています。

そんな単純な事象を認めるだけで、科学では説明困難なことが、納得の行く説明が可能になります。



問題を生じさせているのは、その存在と肉体が別の次元のものだからです。

人は肉体に備わっている感覚によって、この世界を感識しています。

その存在は、物質的な次元のものではないので、この世界の人は感識出来ません。

感識出来ないけれども、存在すること前提に話を進めて行きます。

肉体と目に見えない別の次元の存在、俗に言う魂が複合して、そこに精神が生まれ、人を構成しています。

3者は密接に関連し、お互いに影響を及ぼし合っています。

この世界では肉体がなければ、個性を表現できなくなり、その存在がいなくなれば肉体は存在意義を失って土に還ります。

生命とは肉体ではありません。

魂です。

魂に個性があるのです。



肉体には、物質的次元の自然法則が働いていますが、魂には霊的次元の自然法則が働いています。

肉体は自然法則の働きにより、成長し、老化して、やがて朽ちます。

しかし、魂は成長するのみであり、老いて朽ちることはなく不滅です。

この世に生まれたのは偶然ではありません。

私たちは、魂を成長させると言う、同じ目的を持って生まれてきました。



では、どのようにすれば成長するのでしょうか?

人や社会や動物のために奉仕をすることで、成長して行きます。

さまざまな出来事を乗り越えて行くことで、成長して行きます。

この世界が、奉仕をする機会に溢れていて、さまざまな出来事が起きるのは、成長するためです。



全てのことが、自然法則の働きによって生じています。

自然法則の働きによって、私たちは成長するように、導かれています。



身体は同じ構造であり、同じ組成ですが、魂にはそれぞれ個性があり、それぞれの成長度があります。

あらゆる成長度の魂が、交じり合っているのがこの世であり、そこに大きな意味があります。

それぞれが違う個性なので、共存するのには、お互いに認め合わなければいけません。

この世に生まれる人は、過ちを犯さないほど、成長度は高くはありません。

自分が過ちを犯すように、他者も過ちを犯すので、お互いに許し合わなければいけません。

もし、認め合い、許し合わなければ、いさかいとなり苦痛を伴う出来事が生じてしまいます。

この世界に生まれて、苦痛を経験しないためには、自己犠牲を伴う愛を表現しなければならず、その表現を通して魂は成長して行きます。



また、この世の人には肉体があります。

肉体を養うためには食べていかなければならず、そのためにはお金が必要です。

お金を得るためには、働かなければいけません。

働くとは、何らかの形で、人や社会へ向けた奉仕をすることです。

この世を生きて行くことは、他者への奉仕につながっているので、それだけで成長していることになります。



この世では、いろいろな出来事が起こります。

うれしいことばかりであれば良いのですが、つらいことも起こります。

スポーツ競技は厳しい練習を積んでいれば、次第に上達して行きます。

しかし、どんなに練習をしても結果が伴わない時があります。

困難な出来事が起こると、人は何とかして乗り越えようとします。

乗り越えようと悪戦苦闘する中で、魂は知らずに成長しています。

神の摂理(自然法則)の働きは完璧であり、困難を乗り越えて行けば、魂の成長という結果が必ず伴っているのですが、残念ながら、この世に生きる私たちに、そのことを感識できません。




今日はクリスマス・イブです。

ホワイトクリスマスはロマンティックですが、空から舞い降りて来る雪の結晶を見る度に、その造形の美しさを感じずにはいられません。

偶然によるものではなく、自然法則の働きによって、形の異なる幾何学的な造形になります。

その自然法則も偶然生まれたのではなく、何者かによって考案されたはずです。

その何者かが、神と呼ばれる存在です。

神は自然法則を考案し、その働きによって広大無辺な宇宙を隅々まで支配しています。

神が美しい存在なので、自然法則の働きも美しくなり、その働きによって造られた雪の結晶も美しくなります。


その美しさを感じているのが魂です。

魂は美しいものを知っているから、美しいと感じるのです。

では、なぜ知っているのでしょうか?

それは、魂は神から生まれた神の一部だからです。

全ての人は、神の心を持っているからです。




クリスマス・ソングです。お時間があるようでしたら聴いて下さい。



2017年12月10日日曜日

人間関係で苦悩するのがこの世



この世を生きていている多くの人にとって、悩みや苦しみにつながっているのが人間関係です。

気心の合う人ばかりであれば良いのですが、この世には、自分と性格や考え方、価値観の違う人がたくさんいます。

この世は、一人では生きていけないようになっていて、いろいろな人たちと交わりながら生活しなければなりませんが、そのことに大きな意味があると考えられます。



誰しも、いつの日か死が訪れます。

その先に待っている世界は、この世と大きく違います。

自分が会いたいと想う人だけと会い、嫌いな人、苦手な人、親しみを感じない人たちと、会うことはなくなります。

人間関係の煩わしさから、完全に解放された世界があの世です。



では、何故、私たちはこの世で人間関係に、悩み、苦しまなければならないのでしょうか?

全ての次元を通して、私たちが生きている目的は、自分(魂)を成長させるためであり、苦しみを乗り越える中で自分(魂)が成長すると言う、自然法則の働きがあるためです。

人間関係に煩わされることのない快適なあの世よりも、性格や考え方、価値観の違う人と交わり、その中でもまれ、時に苦しい思いをするこの世の方が学ぶことが多く、魂はより大きく成長すると考えられます。

快適なあの世を離れ、この世に生まれて来たのは、より大きく成長し、大切なことを学ぶために自らが志願した結果であり、学び、成長するのに従って、この世の苦しみから解放されて行くと考えられます。



考え方や価値観の違う人と接すると、一種の軋轢が生じます。

激しい個性の持ち主同士であれば衝突が起きて、時に怒りのようなものが生じてしまうかもしれません。

軋轢が生じるのは、自分が理解されなかったり、自分の意見が通らなかったためと考えられます。

しかし、裏を返せば、相手を理解していなかったり、意見を尊重しないために生じているようにも思えます。

軋轢を避けるために、相手に考え方や価値観を自分に合わせてもらうのは、極めて困難です。

自分は変えようとせずに、相手に変わってもらおうとするのは利己的な考えであり、上手く行くはずはありません。

もし、軋轢を避けたいのであれば、相手に変わってもらうより、自分が相手を理解する、尊重するように変わるしかありません。



軋轢から争いに発展している世の中の状況は、自分はそのままで、相手に変わることばかりを求めているからのように思えます。

相手に変わることを求めても、受け入れるはずはなく、反発を生んでしまうだけです。

自分のことを、ますます受け入れてもらえなくなり、両者の溝は深まって行くだけです。



相手が間違っていると決め付けてしまうのが、1番良くないのかもしれません。

決め付けてしまう人ほど自分の意見を譲ろうとせず、相手の意見にも耳を傾けないような気がします。

間違っていると決め付けると、因果律の働きにより、相手もこちらが間違っていると決め付けてしまい、両者に歩み寄りはありません。

間違っていると決め付けてしまうことから、まず解放されなければいけません。



正しい間違っているのかは、主観によるものではなく、神の摂理(自然法則)を基準に、判断しなければいけません。

個ではなく全体の利益をもたらす方、大きな悦びをもたらす方が、より正しい意見です。



自然法則(神の摂理)に適っている人は、自分の意見を通そうとする人ではなく、相手の意見を尊重する人です。

相手の意見を尊重すれば、因果律の働きにより、結局は自分の意見が尊重されることになります。



それでも、どうしても相手の意見が明らかに正しくなかったり、利己的で認められない時はどうすれば良いのでしょうか?

その意見は、長くは続かずに、いずれ淘汰されてしまうと考えられます。

自然法則に適った意見のみが、永続的に残ります。



相手の意見を無視して、頑なに自分の意見を通そうすると、後ろめたさや罪悪感を感じるかもしれません。

魂には良心が内在されています。

良心とは、自分の中に顕現している神の心です。

神の心は、あらゆる自然法則の中に現れていて、ばらばらになった違うものを一つにさせようとしています。

自然法則の働きに従えば悦びが、背けば苦痛がもたらされるのは、自らの過ちに気付いて、私たちが一つになるように導かれているからです。

相手と自分が歩み寄るのを妨げてしまう行いは、一つになろうとする良心の声に逆らうことになり、何かしらの苦痛を感じてしまうと考えられます。



シルバーバーチの霊訓を読んでいると、交霊会の参加者が、人を非難したり、咎めたりする発言をすると、途中で話を遮り、いさめる場面がありました。

咎めたり、非難するのは、対象が間違っていると決め付けているからであり、その言動自体が間違っているので、いさめられたのかもしれません。

間違っていると咎めたり、非難してしまうと、その事象はそれで完結してしまい、自らを省みることはなく、欠点に気付いたり、足りないところを補おうとする努力を放棄してしまうことになり、それでは成長が望めないような気がします。

また、相手を咎めたり、責めてしまうのは、自らの寛容性のなさを露呈しています。

自分の未熟さを承知している人ほど、相手の未熟さを咎めたりすることが出来なくなると思います。

たとえ過ちであっても、それが相手の未熟さから来るものであれば、より成長した人は認め、許さなければいけないのかもしれません。

さまざまな人(魂)が交わるこの世の人にとって、認め、許すことは極めて重要であり、咎めたり非難をすると、成長の機会を1つ失ってしまうことになるのかもしれません。



怒りや、拒絶からは、何も生まれず、何も得られません。

怒りや拒絶が生まれないような考え方や捉え方をするようになるのが、この世の学びであり、成長につながっていると思います。

意見が衝突して怒りや拒絶が生じる前に、相手の想いを探り、そこに隠された意図を見つけ出す必要があり、より成長した人がその努力をしなければいけないのかもしれません。

例えば、怒りや拒絶をあらわにしている人がいるとします。

怒りを前面に出して、攻撃的になっているのですが、その根底にあるのは恐怖なのかもしれません。

恐怖に支配されているために、信じることが出来ず、過剰に自分を守ろうとしてしまうことがあります。

過剰に自分を守ろうとする行為が、相手に恐怖を生じさせて自分を守ろうとする行為となり、それが新たな恐怖を生み出してしまいます。

その連鎖を断ち切るためには、相手に恐怖を感じさせないような十分な配慮が必要と思われます。



相手を知らないと、不安になります。

不安になるから、自分を守ろうとします。

自分を守ろうとすると、自我が強固になり、お互いが衝突してしまうことになります。

お互いを知らないことから始まっているので、こちらの方から知ろうとする努力が必要です。

そして、表面だけを見るのではなく、言動に込められた想い(真意)を知ることで、人々を悩まし、苦しめている多くの問題は解決されると思います。



あの世では、自分の想いが直接、相手に伝わります。

しかし、今いるこの世界では、言葉や行動で表現して伝えなければいけません。

お互いを知るために、コミュニケーションを取る必要があります。

意見が衝突してしまう相手とは、係わり合いになりたくないと避けるのではなく、そんな人ほど密なコミュニケーションを取って、お互いのことを知らなければいけません。

自分とは合わないと思っている人は、実はお互いに知らないだけなのかもしれません。

想い(真意)を知ろうとする努力は、この世での成長につながっていると考えられます。



お互いを知ることで、緊張が解けて、初めて信頼関係を築く土壌が出来上がります。

信じ合うことは神の摂理であり、心が通い合い、1つになれた悦びを感じます。