2022年4月24日日曜日

問われる時が来る


若い時は、何で生きているのかが判りませんでした。

頑張って何かを成し遂げたとしても、死んでしまえば同じだろうと思っていました。

それでも、周りの人は頑張って生きているように見えました。

どうしてそんなに頑張れるのだろう?と、不思議に思った覚えがあります。



霊的真理を知り、生きている目的が判りました。

目的は1つであり、自分を成長させるためです。

本当の自分、生命の本質は目に視えない「魂」です。

頑張ろうとするのは、魂が成長しようとしているからだと思います。



ところで、魂の成長とは何でしょう?

平たく言えば、強く、優しくなることだと私は思っています。

魂の資質には、思いやり、優しさ、寛容、協調などがあると言われています。

全て、愛が形を変えたものです。



完全な人は、地上のどこにもいません。

誰もが、どこかに欠けている部分があるはずです。

欠けている部分を、身に付けるために、地上に生まれて来ます。

そのための計画が立てられ、およその人生が決まります。

欠けている部分や、身に付ける手段は、人それぞれ違います。

一人一人の人生が違うのは当然です。



例えば、優しさに欠けている人がいたとします。

そんな人は、地上に生まれて、自分の力ではどうすることもできない、窮地に追い込まれる経験をするかもしれません。

絶体絶命になった時に、救いの手が差し伸べられれば、優しさの意味が身に沁みて判ると思います。

自分がされたことを、今度は人にするようになるでしょう。

寛容さに欠けている人であれば、既に身に付けている人の元に生まれて、間近で学びながら、自らも実践して行くようになるかもしれません。

あるいは、不寛容な行いによって、苦痛を伴う結果が生じて、改めて行くかもしれません。

協調性に欠けている人であれば、自分勝手な行動により大失態を犯して、大変な思いをする中で、周りと足並みを揃えることを覚えるかもしれません。

十分な資質を身に付けているのに、それを表現する強さに欠けている人がいたとします。

そんな人は、逆境に生まれたり、逃げることのできない困難や障害に遭遇し、それを克服して行くことで、魂の強さを身に付けて行くのかもしれません。

欠けている部分を身に付けるために、最適な経験をすることになります。



人生のどの時点で、どんな経験をするのかは、誰にも判りません、

それは突然であり、思いもよらぬ出来事かもしれません。



出来事が起きた時に、何で自分がと思います。

原因を探しますが、生まれる前に計画していたことであれば、見つかるはずはなく、偶然としか思えません。



「(若い時の)苦労は買ってでもしろ」と言う諺があります。

その人の成長につながり、先で活かされるからです。

分岐点に差し掛かった時に、楽な方ではなく、敢えて苦しい方に進んで行くこともあります。

苦しい方を選ぶことが、計画されていたのかもしれません。

後で、成長する機会を逃したと、後悔したくないからだと思います。



人生は死後も続いています。

霊界に行くと、視点が全く違って来ます。

苦しくて仕方なかった出来事は、何かを学んで、自分を成長させるために起きていたことが判ります。



現実は変えられません。

周りを変えることもできません。

変えることができるのは自分だけです。



苦しみや痛みは、自分が変わるための触媒としての役割を果たしています。

もし、不運を嘆いたり、運命を呪ったり、怒りをぶつけているのであれば、変わろうとする力が奪われてしまっています。

いつまでも変われないために、苦しみが続いてしまいます。



苦しみは絶対的なものではなく、主観的なものです。

自分が成長することで、苦しみに対する閾値が高くなり、感じにくくなるはずです。

出来事が起きた目的が成就されたのならば、苦しみから解放されるはずです。



受け入れることが、変わるための前提条件です。

目的があって起きていると、強く信じて下さい。



起きた出来事を、どのように考えるのかは自由です。

偶然と思うのも、不幸と思うのも、不公平と思うのも自由です。

しかし、そう思うと様々な感情が生じて苦しむことになります。



その考えが間違っているのかもしれません。

間違いを正すために、苦しみが生じているのかもしれません。

偶然でも、不幸なことでもありません。

自分が変わるために、自分が了承した上で、起きている可能性があります。

不公平だと思うのは早合点です。

霊的な学びや成長が得られることで、完全な公平が保たれています。

成長することが、生きている目的そのものです。



死んだ後に、この世の人生が問われます。

自分が行ったこと、言ったこと、思ったことは、全てオーラに刻み込まれています。

生まれてから死ぬまでの全人生を振り返る時が来ます。

後悔したくないと思うのは、その時が来るからです。



不幸な出来事と決めつけ、いつまでも嘆き悲しんでいる自分、運命を呪っている自分を見て、いたたまれない気持ちになるかもしれません。

望ましい方向に変わると自分自身が決めていたのに、それを妨げてしまう感情に支配されて、計画通りに行かなかったことに愕然とするかもしれません。



全ての出来事は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則は完全な叡智により創られ、完全な愛が表現されています。

全ての生命は、自然法則の働きによって、完全(神)に向かって進化しています。

完全(神)に程遠い、未熟な私たちが進化するために、苦しみや痛みを伴う出来事を経験することのできる地上に生まれる必要があったのです。

人生が変わるほどの出来事は、人間を変えるために起きているのかもしれません。





2022年4月17日日曜日

勇気が怖れを打ち消す


人にはたくさんの感情があります。

できれば喜びだけを感じていたいものですが、そんなわけには行きません。

怒りや悲しみなど、負と言われる感情を感じる時もあります。


中でも厄介な感情は「怖れ」です。

心配も不安も、取り越し苦労も、元は怖れから生じていると考えられます。



どんな時に、怖れは生じるのでしょうか?

自分に何らかの不利益を被る可能性があると想像した時に生じると思います。

肉体的に傷つくかもしれない事象、例えば戦争を体験している時、あるいは起きそうな時に生じると思います。

天変地異を怖れることもあります。

精神的に苦痛をもたらす人に対して怖れを感じる時もあるでしょう。

失敗を怖れることもあります。



頭の中が怖れでいっぱいになる時があります。

病気の人は、この先どうなってしまうのかと、怖れを抱くことがあります。

銃弾や爆弾による攻撃を受けていれば、死への怖れは強烈なものになります。



怖れに支配されると、思考が停止し、何も考えられなくなります。

生きる力も奪われてしまいます。



怖れは、肉体と密接に関連した、自己を守るためにある地上的な感情です。

死ぬと肉体がなくなります。

それに伴って、肉体に関わる怖れから解放されます。

天国と呼ぶのは、心配、不安などが取り払われた世界だからだと思います。



誰も、肉体的にも精神的にも傷つきたくありません。

苦痛を与えるものを怖れ、避けようとします。

しかし、避けられない出来事に遭遇することもあります。



病気になり、リスクを伴う手術を受けなければいけない時があります。

戦争で大切なものを守らなければいけない時があります。

責任のある仕事を任される時もあります。



そんな時はどうすれば良いのか?

使い古された表現になりますが、「勇気」を出して臨むしかありません。

押しつぶされそうになる自分を救ってくれるのが勇気です。



勇気は、困難に立ち向かって行く意志です。

意志なので、勝手に生まれて来るものではありません。

能動的に出すものです。



以前、私は怖れを感じる状況に追い込まれました。

その時、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会いました。

「乗り越えられない困難(試練)は与えられない」

この一節を、強く信じることによって勇気が出ました。

勇気という力が、怖れを打ち砕いてくれました。



もし、生存率50%の手術を受けるとしたらどうでしょう。

半分の確率で死んでしまうのであれば、死への怖れは相当なものになります。

勇気を出さなければ、とても臨めるものではありません。

最初の一歩を踏み出させる力が勇気です。



けれども、こんな疑問が生じるかもしれません。

乗り越えられない困難は与えられないのであれば、もし手術を受けて死んでしまったとしたら矛盾しているのではないか?



肉体を失う可能性があることは、大きな怖れを生じさせます。

苦しみや痛みを伴うものであれば、なおさらです。

肉体が失われたとしても、本当の自分は全く失われません。

次の世界へ移行するだけです。

霊的に大切なのは、肉体にかかわることではなく、肉体を持つがゆえに生じる怖れを、克服しようとすることです。

乗り越えられないとは、死んでしまうことではありません。

怖れに負けて、前に進んで行けないことです。



極限に近い怖れを克服している人がいます。

ポーランドに、マキシミリアノ・マリア・ゴルベ(1894~1941)と言う神父がいました。

自らが広めていた教えが、占領していたナチスの思想と反するために、捕らえられてアウシュビッツ収容所に送られました。

そこで強制労働をする中で、グループの1人が逃げ出してしまい、同じグループの10人が連帯責任を取らされることになりました。

それは水も食べ物も与えられない飢餓監房に入れて死なせるという残酷なものでした。

無作為に選ばれた10人の中に、残してきた家族のことを思い泣き出した男性がいました。

それを見ていたゴルベ神父は、その人の身代わりになると申し出ました。

周囲は驚きましたが、その願いは受け入れられ監房に入ったそうです。

一緒に入られた人たちを、死ぬ時まで励まし続けたそうです。



苦しんだ末に死ぬのが判っていれば、怖ろしくて身代わりになる気など起こりません。

それができたのは、神への全幅の信頼があったからと思います。

怖れを打ち消すだけの愛があったと思います。

霊界の存在から送られていた援助の力によって、勇気が増幅されていたと思います。



私たちは、自分を成長させるために生きています。

生まれる前に決めていた出来事を経験し、霊的に大切なことを学び、魂が成長して行きます。

地上では先が見通せず、何が起きるか分かりません。

苦痛を伴う出来事を乗り越えて行くためには、勇気を出すことが強いられます。

肉体に関わる怖れが取り払われている次の世界では、勇気を出す機会は地上より乏しいと思います。



地上で培った勇気は、次の世界で活かされます。

次の世界は思念の世界です。

思念を持続させるものが意志です。

意志がなければ何も始まらず、何も表現できません。

他者のために表現しなければ、成長することができません。

地上で発揮した勇気は、次の世界において表現しようとする意志を強固なものにします。

勇気を出すことは、次の世界での成長を促すことにつながっていると思います。



一人で生きているのではありません。

成長するために霊的な存在が付いています。

人生を分かち合っている同胞です。

勇気がどうしても必要な時には結びつきを深めましょう。

霊界の存在と共に生きていると、強く信じて下さい。

内から力が湧き出し、それが勇気となるはずです。



精神から生まれる怖れよりも、魂から生まれる勇気の方が強いのです。

どんなことが起きようとも良きに計らわれている、そして霊界から乗り越える力を授かっていると強く信じることによって、怖れを大幅に減じることができると思います。

勇気を出して進んで行けたのなら、その出来事は半分以上乗り越えています。



2022年4月10日日曜日

計画的に学んでいる


若い時は、死は遠い先のことと考えていました。

60才になった今、そう遠くない出来事であり、もしかしたら数年後になるかもしれないと思うようになりました。



霊的真理により、死の理解が深まりました。

およその寿命は決まっているようです。

人生には予め決めていた計画があるからです。

決めていた通りに生まれて、決めていた通りの出来事を経験し、決めていた通りに死んで行きます。




もし、計画がなかったとしたらどうなるでしょう?

行き当たりばったりで、混沌とした人生になるはずです。

我欲のままに、生きようとするかもしれません。

そうならないのは計画が存在するからであり、そのことを奥底にいる自分が自覚しているからと思います。




生まれて来た目的は、自分を成長させるためです。

人間は、肉体、精神、霊(魂)から成り立っています。

肉体的な成長は20才前後で終わりますが、霊的な成長に終わりはありません。

さまざまな出来事を経験することで、多くのことを学び、人は成長して行きます。




本でいくら学んでも、自転車に乗れるようにはなれません。

実際に、自転車にまたがって、転んで痛い思いをしながら、乗れるようになります。



人生における学びも同じです。

自らが経験しなければいけません。




知っているのと、経験するのでは大きく違います。

病気がつらいのは誰もが知っています。

どれくらいつらいのかは、病気になって初めて判ります。

戦争はいけないと誰もが口にします。

けれども、爆撃や銃撃を受けて命の危険に晒された人でなければ、本当の恐さは判らないと思います。

経験しなければ判らないこと、学べないことがいくらでもあるようです。




小学校で、計算や漢字を教わりました。

教わったことは、その後の日常生活で活かされています。

将来のために、苦労して学んでいたと言えます。




いくら苦労して学んだとしても、死んでしまえば意味がないように思えます。

死後も人生は続いています。

次の世界で、この世で学んだことが活かされます。

正確に言えば、次の世界で自分をより活かすために、この世に生まれて、さまざまな経験をしています。




こんな疑問を持つ人がいるかもしれません。

もし、次の世界があるのならば、そこで学べば良いのではないか?

この世に生まれて来る必要があるのか?




この世では、自分と違う人たちに囲まれながら生きています。

自分の想いを言葉や行動に変換して、肉体によって伝えています。

想っていることが違う上に、正確に伝わらない世界に、私たちは今います。




そのために、誤解や軋轢が生じやすくなります。

時に、それが争いに発展することもあります。

争いを避けるためには、互いを認め合い、許し合わなければいけません。

意識していなくても、この世で協調や寛容の精神を学んでいます。




次の世界に行くと、周囲にいるのは自分と霊的に似通った人たちばかりです。

想っていることが、そのまま相手に伝わります。

誤解や軋轢が生じる原因が、完全に取り払われています。

人間関係においてストレスフリーな世界であるがゆえに、この世より寛容や協調の精神を学ぶことが難しくなります。

戦争もありません。

平和な世界であるがゆえに、平和の意味や価値を学ぶのが難しくなります。




戦争と平和、病気と健康、等々、この世には両方が存在しています。

両方が存在しているために、平和や自由(健康)の意味や価値がはっきりと判ります。

比較対象するものがない次の世界では、霊的に大切なことが際立たないのです。





生まれて来たのは、この世でしか学べないことがあったからです。








プラモデルには設計図があります。

もし、設計図がなければ、製作者が意図した通りに、完成させるのは難しいでしょう。




人生にも計画があります。

魂に必要なことを、効率よく学ぶために、最適な計画が立案されます。

もし、計画がなければどうなるのでしょう?

学びは偶然に支配されて、極めて非効率なものとなります。

創造者が意図した通りに、人間を完成して行くのは、極めて困難になります。




全てが完璧な叡智の働きにより計られています。

学ぶことがあれば、この世に何回でも生まれて来ます。

繰り返されるこの世の人生で、どこかで経験しなければならないことを、今しているのかもしれません。

今生で学んだ人は、もう同じ経験をする必要はありません。

未だの人は、次に生まれた時に経験するかもしれません。

完全な公正が保たれています。




楽しい経験ではなく、苦痛を伴う経験でなければ、霊的に目覚めません。

私は逃げ出したくなるような、屈辱的な経験をして目覚めました。

深刻な病気になったり、強烈な別れを経験して目覚める人もいます。

目覚めた魂が、霊的に大切な何かを見つけます。

それが学びです。

学びとは、魂に元々備わっている神の叡智が、経験によって表に出て来る自然現象なのかもしれません。




計画に従って人生は粛々と展開して行きます。

予定されていた出来事を経験することで、予定されていた学びを得て、成長したのならば、この世に生まれて来た意味が成就されたことになります。





2022年4月3日日曜日

心の痛み


仕事で毎日のように虫歯の治療をしています。

ご存知のように虫歯は痛みを伴います。

ひどくなると夜眠れなくなったり、日常生活に大きな支障を来すこともあります。

痛みに耐えられなくなって、来院する人も少なくありません。


もし、痛みを感じなかったとしたらどうでしょう?

虫歯が進んでも気付かず、最終的には歯を失ってしまう可能性があります。

痛みは、身体に異変が起きていることを知らせる大切なシグナルと言えます。



甘いものが好きだったり、ブラッシングを疎かにすると虫歯が生じます。

痛いのは嫌なので、多くの患者さんは甘いものを控えたり、ブラッシングを丁寧にするようになります。

痛みを通して、誤った生活習慣を正していると言えます。



苦痛を感じるのは肉体だけではありません。

心も感じます。

他者から傷つくような言動を受ければ苦痛を感じます。

自分で自分を責めてしまっても苦痛を感じます。



人が傷ついたり、殺されたり、街が壊されたりしているのを見ても、心に痛みのようなものを感じます。

どうしてなのでしょう?



悪いことをしてはいけない、嘘をついてはいけない、人を傷つけてはいけないなど、やってはいけないと思うのは、親から教えられただけではありません。

人は、生まれながらに良心が備わっています。

良心とは、私たちに顕現している神です。

人を傷つけるのは自然法則に反した行いであり、自分の中にある良心が痛みを感じていると考えられます。



人は霊的な存在です。

肉体は別々であっても、霊的につながっています。

そのつながりを通して、無意識のうちに想いを受け取っています。

言葉を交わさなくても、人の想いを察する時があるのはそのためです。

人が感じている苦痛を、自分のことのように感じることがあります。



NASA(RF)の画像

宇宙空間から見れば、地球は1つの美しい生命体のようです。

どこを探しても国境線などありません。

人間が勝手に作った国という概念によって、無用な争いが起きています。



今日、コロナウィルスが地球全体に広がっています。

ウィルスに国境は存在しません、

人間同士はつながっていて、一体であることを物語っています。



戦争は、全体の一部が深い傷を負ったようなものです。

遠く離れていても、全体の一部で起きていることに変わりありません。

霊的につながっているので、痛みを感じると考えられます。



国、人種、言語、宗教などが違っていても、人は同じものを愛しく思い、同じものを悲しみ、同じものを恐れます。

人間の本質は、同じ魂だからです。

その魂に神が宿っています。



神(良心)の声を無視して自然法則に反した行いをすると、因果律が働いて、苦痛を伴う事象が生じます。

そこから免れるためには、自然法則の働きを学んで、従うしかありません。

苦痛を通して、神が望んでいる方向に、私たちは導かれています。

一時的に悪い方向に進んだとしても、最終的には正しい方向に進んで行きます。

私たちの中にいる良心(神)が、悪い方向に進んで行くと、心に痛みを覚えるからです。



過去よりも現在の方が、総じて霊的に進化しています。

それに伴い、人や動物を傷つけることに対して、より心の痛みを感じるようになっていると思います。

何が正しいのか、過っているのかが、以前よりもはっきりと判っている人が多くなっているはずです。



私たちにできるのは、戦争が早く終わるのを祈るくらいなのかもしれません。

その祈りは霊界に届いています。

霊界の人たちが手をこまねいているはずはなく、あらゆる手段を講じて終わらせようとしています。

戦争に関わっている人たちに、良心の呵責を生じさせるような思念を吹き込んでいると思います。

それにより、銃の引き金を引きたくない、ミサイルのボタンを押したくない衝動にかられるでしょう。

上官の命令に逆らって、良心の声に従っている兵士も出て来ていると信じています。



戦争は誰にも知られる事実です。

しかし、世界には誰にも知られず、助けを求めている人たちがたくさんいます。

私の子供の頃から、飢えや疫病に苦しんでいる人たちがいました。

最初に知った時「可哀想だから、何とかしてやりたい」と痛みのようなものを感じました。

時が経ち、その事実が当たり前のようになると、何も感じなくなって行きました。

それは、とても恐いことだと思います。



自分だけ、自国だけが、平和で豊かであれば良いと言う時代は終わろうとしています。

個のことばかりを考えている限り、人間を悩ませる事象が次々と生じます。

全体で考えない限り、根本的に解決しないでしょう。



個は全体のために存在しています。

全体のために何かの役割を果たすように、個が創られています。

ミクロからマクロに至るまで、個と個が協調することで、全体に調和がもたらされます。



私たちは霊的に1つです。

生命はつながっています。

心の痛みは、そのことを教えていると思います。