2024年3月17日日曜日

この世も思念の世界


この世とあの世の大きな違いは、肉体のあるなしです。

肉体があるかないかで、コミュニケーションの仕方が大きく変わって来ます。

この世では、思念を言葉にして発しています。

発せられた言葉は、相手の五感を通して伝わって行きます。



ただ、想いを言葉にした時点で、齟齬が生じている可能性があります。

例えば「よろこびを感じている」と伝えたとしたらどうでしょう?

「よろこび」と言っても、文字にすると「喜び」、「悦び」、「歓び」、「慶び」などがあり、その意味は微妙に違います。

けれども、音声(口頭)で受け取ったとしたら、その判別はできません。



この世では、相手が発している言葉と、想っていることが違う場合もあります。

お世辞を言うことも、嘘を付いてしまうこともできます。



言葉で表現できない想いも存在します。

感極まると、言葉にできません。



人間の本質は魂です。

魂で生じた思念は、精神で言葉となり、肉体を使って表現されます。

五感を通して受け取った言葉は、精神で認識されて、相手に新たな思念が生じます。

この世では、そんな煩わしい行程を繰り返しながら、コミュニケーションをしています。



一方、あの世では、想い(思念)は直接に相手に伝わります。

言葉にする必要がないので、ありのままの想いが相手に伝わります。

嘘が付けません。

真実の世界と言われる所以です。



ところが、この世においても、言葉を介さずに想いが伝わる時があります。

言葉がしゃべれない赤ちゃんが何を訴えているのか、お母さんは察しようとします。

気心の知れた人が、何を想っているのか、分かる瞬間があります。

目を見ただけで、相手の想いが伝わって来ることもあります。



五感を介さなくても、想いが伝わって来るのは、私たちは肉体を超えた存在だからです。

思念を受け取る受信器があるからです。



その受信器により、あの世から様々な思念を受け取っています。

芸術家のインスピレーションもそうです。

音楽家がメロディーが降ってきたと表現する時があります。

それは頭で考えたものではなく、この世の人と同調しているあの世の人から送られて来たメロディーをインスピレーションとして受け取っていると考えられます。



「してはいけない」あるいは「するべきだ」と、心の中で囁いているのを感じる時があります。

そんな時は、見守っているあの世の人から、思念が伝わって来ているのかもしれません。

先(結果)が視えるので、行く末を心配しているのです。



この様に、ふと考えが思い付いたり、心の中で囁きを感じた時は、あの世から思念が伝わって来ている可能性があります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「人間の心に浮かぶ思念が全て、霊界からのものとは言いません。それは明らかに言いすぎでしょう。しかしその多くは、背後霊が精神と魂を豊かにしてあげようとする努力の反映です。」

思念を受け取って、無意識の内に行動していることは少なくないと思います。



あの世にいる人から多大な恩恵を受けているにも関わらず、物質を超えた世界が存在することを認められない人が多くいます。

そんな人たちも、喜びや悲しみ、怒りなどを感じながら生きています。

それらの感情は、明らかに物質を超えています。

存在は証明されていませんが、誰もが実感しているので、否定する人はいません。

感情の存在を認めているのであれば、物質を超えた思念の世界が存在するのを認めても良いはずです。



想い(思念)はエネルギーです。

波動となって相手に伝わります。

喜び、悲しみ、怒りなどの感情には、それぞれの波長があります。

喜びの感情を出している人と、悲しみの感情を出している人の波長が違うので、双方の想いが交わることはありません。

悲しみの涙を流している人の傍にいると、こちらまで悲しくなる時があります。

笑い転げている人の傍にいると、こちらまで可笑(おか)しくなる時があります。

もらい泣きや、もらい笑いをするのは、音叉の原理と同じで、傍にいた人の想いが伝わって来て、共鳴していると考えられます。



感情を超越した波動が愛です。

何もないところに悦びを生じさせます。

どのような感情が生じていたとしても、愛は伝わります。

怒りに震えている人をなだめ、悲しみに打ちひしがれている人を慰める力を持っています。

愛は魂から生じているので、精神(自我)から生じている感情より優っているのです。



この世で伝えてくれる人がいなくても、愛は伝わって来ています。

あの世から見守っている存在を忘れてはいけません。

いつ、どこにいても、私たちは見えざる人たちに愛されています。



神に愛されていると良く言われます。

けれども、その実感はありません。

私たち神の一部であり、つながりは永遠不滅です。

神の力によって創造され、神の力によって生かされています。

そして、神の創った法則の働きにより進化し続け、悦びの世界へと導かれています。

今、こうして生きていること自体、神に愛されている結果です。



私たちを生かしている力の本質は愛です。

その力を受け取った魂は、愛を表現したくなるのですが、この世で自己表現している媒体(自我)が不完全なために、ままなりません。

愛の表現について、シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「私の言う “愛” とは、慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために、自分の能力の範囲内で精一杯援助しようとする心を言います。愛を表現していることになります。自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために、出来る限りのことをしてあげようとする心、それが愛です。」

自分を中心に考えようとする自我に打ち克って、他者に愛を表現することは、この世に生まれて来た大きな目的の1つです。