2019年11月10日日曜日

信じる



日本では1年間で63万組が結婚し、22万組が離婚をしているそうです。

この数字から単純に計算をすると、3組に1組以上が離婚していることになり、思っていたより多いのに驚きました。



離婚をする当事者から、相手のことが信じられなくなったと言う話を良く聞きます。

信じることで、お互いの距離は縮まり、人と人は結び付くことが出来ます。

信じられなくなれば、気持ちは通じ合わなくなり、離れて行くのは当然かもしれません。



信じる対象は人とは限りません。

神の存在を信じている人もいれば、信じていない人もいます。

どちらを選択するのかは個人の自由ですが、信じていないからと言って罰が当たることはなく、信じているからと言って特別な計らいがあるわけでもありません。



神は、高いところから見下ろして、私たちを監視しているような存在ではありません。

自然法則として顕現しています。

自然法則とは、目に視えない「決まり」です。

信じる信じないに関わらず、「決まり」公平に働いていて、私たちを意図する方向に導いています。



神によって創造された私たちの中にも、神が存在しています。

赤ちゃんを見て可愛く感じたり、弱いものを助けようとしたり、嘘を付きたくないのは、生まれながらにして自分の中に神が存在しているからです。



話は変わりますが、スポーツ選手が表彰台の上で「自分を信じて頑張って来た」と答えているのを見かけます。

良く考えてみると、自分が自分を信じることになり、おかしな気もしますが、そこに大切な事実が隠されていると思います



人間には、2つの自分がいると考えられます。

1つは外部に顕在している自分であり、もう1つは内部に潜在している自分です。

外部に顕在している自分とは「地上的な自我」(以下自我)であり、内部に潜在している自分とは、本当の自分である「魂」と考えられます。




人間は、魂(霊)、精神、肉体により構成されています。

ちょっと強引ですが、人間を会社組織に例えてみると、社長が魂で、社員が精神(自我)で、肉体が会社になります。

社長が指令を出して、それに従い社員が動いて、会社が運営されています。

もし、社長が指令を伝えても、社員が従わなかったとしたら、会社組織として健全な運営は出来ません。



最上位に位置する魂から生じた想い(思念)は、精神上に形成された自我を経て、肉体により具現化されています。

魂と自我が協調的に働いている時には、本来の自分が表現されています。

しかし、自我の働きが強くなり過ぎると、魂から生じた思念(想い)は、肉体で具現化されにくくなります。

道端で捨てられて、鳴いている子猫がいたとします。


可哀想だから何とかしてやろうとする想いは、魂から生じています。


世話が大変で、餌代もかかるし、旅行にも出かけられなくなると、自我は瞬時に思考をします。


両者の間でせめぎ合いが生じ、内面的な葛藤として認識されます


子供の頃は自我の働きが弱いので、魂から生じた想いに素直に従って、猫を家に連れて帰ってしまいます。

大人になるのに従い、自我の働きが強くなり、見て見ぬふりをするようになります。



溺れている人がいれば、助けようとする想いが、魂から生じます。

助けに行ったら自分も溺れてしまうと、自我は計算し予測します。

魂から生じた思念をそのまま肉体で表現したら、自分に危険が及んだり、不利益を被ることに対して、自我は抑制的に働いています。

この世を、安全に効率良く、快適に生きようと思考をしているのが自我であり、そのため自己保存的、防御的、利己的、打算的な性質を帯びていると考えられます。



困難な状況に置かれると、「もうだめだ」と諦めようとしている自分がいます。

それとは別に、何とかして乗り越えようとしている自分もいます。

諦めようとしているのが自我であり、乗り越えようとしているのが魂です。

「自分を信じる」とは、顕在している自我が思考を止めて、潜在している自分(魂)を信じることと考えられます。



潜在している自分(魂)には神が内在しています。

従って、自分を信じるとは内在している神を信じることに通じます。

神のエネルギーは無尽蔵です。

どんな困難な状況下にあっても、自分の中に神がいることを強く信じることが出来れば、内から力が湧き出して、必ず乗り越えられるはずです。



自分を信じようしないのも自我の働きです。

「もうだめだ」とか、「無理だ」とか、「失敗する」とか、勝手な理由付けをして、安全な方向、無難な方向に進んで行こうとしています。

弱気な自我の囁きに打ち克って、自分を信じて困難な方向に進んで行けば、乗り越える力が与えられます。

成長する方向に進んで行く人に、神そして霊界は、惜しみない援助の力を与えてくれます。



しかし、自分を信じて頑張っても、必ずしも良い結果が出るとは限りません。

人が生まれて来たのは、大切なことを学びながら、魂を成長させるためです。

奮闘努力する中で、自らの成長と言う報酬を得ています。

目に視える結果は地上的なものであり、経験を通して学びや成長することの方がはるかに大切です。



自分を信じている人は、内部に潜在している自分を信じているのであって、神を信じているわけでは限りません。

自分を強く信じて臨むと、予期した以上の結果が生まれる時があります。

それは、信じることによって、神との結びつきが強くなり、内部からの力が湧き出し、持っている以上の力が発揮されたからと考えられます。

自分の力ではないものが発揮されたと感じた時、人は思わず何かに向かって感謝をします。

その対象が神です。



多くの人は、努力すれば報われると信じています。

それは因果律の働きを信じていることになります。

因果律を創ったのは神であるので、結局は神を信じていることになります。



信じる対象は、自分以外に他者があります。

地上は、自分とは異なる人間(魂)が同じ平面に暮らす、巨大な学校です。

異なる人間(魂)との間には意見の相違があるのは当然であり、そのため軋轢や反発や争いが生じる時があります。

を信じないのは、自我の働きによるものであり、自分を守ろうとする防御反応の一種です。

従って、自分を守ろうとする自我の働きが強くなり過ぎると人が信じられなくなってしまいます。



幼い子供が、親に心身を傷つけられる、痛ましい事件が起きています。

どんなに傷つけられても、子供は親のことを信じているように見えます。

他に頼るものがないので、そうせざるを得ないと思ってしまいますが、自我の働きが未発達なために、信じることしか出来ないと考えられます。

信じない選択肢がないのです。

大人でも自我の働きが弱い人がいます。

そんな人は子供のように信じてしまうために、裏切られたり、騙されたりして、傷つくことが多くなると考えられます。



周りに同類の魂しかいない霊界では、何の努力もなしに、お互いにつながることが出来ますが、地上では信じることなしに、つながることは出来ません。

信じることから全てが始まります。

過去の経験は忘れることは出来ませんが、この世に生きて成長して行くためには、自分を守ろうとしている自我の働きに打ち克たなければいけません



信じるためには、お互いを良く知り、認め合う必要があります。

言葉はそのために創造されたので、積極的に活用しなければいけません。

しかし、その言葉によって、隔たりや憤りを感じてしまうことがあります。

冷静になって振り返ると、過去の自分の言動の中に原因が見つけられ、因果律の働きにより、自分に返って来ていることに気付く時があります。

世界中で起きている戦争も、相手を非難している当事者自らが原因を作っていることが少なくありません。

絶対に自分は正しい、間違っていないと主張している限り、自らの中に原因を見つけようとはしません。

苦痛の原因が自分にもあることに気付いたのならば、怒りは鎮まり、相手を認め、再び信じ合えるようになると思います。



それでも、どうしても信じられない人はいるかもしれません。

そんな人は霊的に無知なことが多いです。

自分の言動に対して全責任を取ること過ちを犯せば償わなければならないことを知りません。

無知なまま生きているのは、哀れむべきことです



そんな人の中にも神はいます。

神がいるので、憎んだり恨んだりしてはいけないのです。

顕在している自我は信じられないとしても、その人の中にも自分と同じ神がいることは信じなければいけません。