2019年3月17日日曜日

私たちには神が宿っている


3月は合格発表のシーズンです。

神社に行くと社殿の近くに、合格祈願の絵馬が所狭しと掛けられているのを目にすることがあります。
40年近く前になりますが、私も受験の時に合格のお願いをしに行きました。

そこには神様のような存在がいて、願いを聞いてくれて、場合によっては叶えてくれる、漠然とそんなことを思っていたように記憶しています。



では、本当に神様は願いを叶えてくれるのでしょうか?

「どうぞ私を〇〇校に合格させて下さい。」と祈ってみても、合否を決めるのは、どう考えてみても試験の結果です。

お願いしながらも、そんな都合の良い存在なんかいるはずはない、あくまでも自分の実力次第だと、どこかで思っていました。



文化や宗教は国や地域で違いますが、世界中の多くの人が、目に見えない大きな存在がいて、この世界に大きな影響を与えていると考えています。

人を守ってくれたり、願いを叶えてくれると信じている人もたくさんいます。

その大きな存在を、多くの人は「神」と呼んでいます。



それでは、神は空の上にいて、私たちのことを見下ろしているのでしょうか。

そうではないようです。

実は、私たちの中にも神が宿っています。



何を根拠にそんなことが言えるのかと、訝(いぶか)しがる人がいるでしょう。

そんな人に質問したいのですが、良心とはいったい何なのでしょう?

ちょっとでも悪いことしようとすると、心の中で咎める何者かです。

親や先生から教わったからでしょうか?

そうではなく、初めから自分に備わっています。

良心とは、善悪を瞬時に判断する、私たちの中に宿っている神と言えます。



道端に捨てられ泣いている子猫を、可哀想だと思い拾って来る小さな子供がいます。

可哀想だと思う気持ちは、どこから生まれるのでしょうか?

心の中に自然に生まれて来るのではないでしょうか。

子猫を助けようとするのは、生まれながらにして神の心である愛が宿っているからと考えられます。



では、どこに神は宿っているのでしょうか?

真の自分である魂です。



魂とは生命の本質であり、神が創造した神の一部です。

全ての生命は神の一部として、霊的につながっています。



人体を思い浮かべて下さい。

人体の中には、膨大な数の細胞があり、その1つ1つは生きています。

1つ1つの細胞は、人体を構成する一部であり、何らかの役割を持っています。

元々は1つの細胞だったのが、細胞分裂を繰り返し、いろいろな役割を果たす細胞になって行きます。

1つ1つの細胞は、全体のために寄与していて、全体によって生かされています。



私たち人間も動物も植物も同じです。

地球上の全ての生命は、元々は1つです。

それぞれに役割りがあって、全体のために寄与しています。

人体に無駄なものがないように、地球上の生命にも無駄なものは何1つありません。

害虫と言われるような生き物でも、自然界で何らかの役割りがあって存在しています。

もし、地球上に人間だけしかいなくなったらどうでしょう。

呼吸が出来なくなり、食べ物もなくなり、死に絶えてしまいます。

全体があまりにも大きすぎて、細部しか見られないので、役割が判らず、1つだと言う実感が湧かないと考えられます。



神は完全なる愛であり叡智です。

もし、神が完全なる愛で、全ての人に宿っているのであれば、この世に怒りや憎しみもなく、戦争は起きないのではないかと思う人もいるでしょう。



全ての魂は、神を宿しています。

しかし、個々の魂の進化の程度によって、顕現の仕方も大きく変わって来ます。

より進化した魂ほど、より多くの神性が発揮されています。

人間には自由意思が与えられています。

自由意思は進化の程度によって規制を受けますが、神の心に適った想い(愛)を表現をする人もいれば、神の心に反した想い(怒りや憎しみなど)を表現する人もいます。

前者は魂の進化が促され、後者は妨げられますが、神は良心を顕現させて、自由意思を持つ人間が過った方向に進んで行かないようにしています。



地上の人間は、魂から生じている想いを、(地上の)自我と言う媒体を通して、肉体を使って表現しなければいけません。

自我は、地上の環境から自己を守ろうとするため、どうしても利己的になってしまいます。

そのために、魂が神性を発揮しようとしても、地上の自我により妨げられてしまいがちです。

捨てられた子猫を拾って来た子供も、大人になるのに従い自我が大きくなり、自分を優先してしまうために、見て見ぬふりをしてしまいます。



魂に神が宿っているのは確かです。

しかし、利己性のある自我を通すことによって、神性の表現は大幅に抑制されてしまいます。

与えられた自由意思によって、神の心に反した怒りや憎しみを表現してしまうこともあります。

地上の人間(魂)は未熟であり、自我があるために、神が宿っていても、望んでいない戦争が起きてしまいます。



神は法則(摂理)としても、この世界に顕現しています。

戦争によって苦痛が生じるのも、苦痛を味わうことによって怒りや憎しみではなく、友愛を表現するようになって行くのも、神の法則の働きよるものです。

お互いを認め合い、全体に調和が生まれ、ばらばらになっている生命が1つになって行くのも、同じ法則の働きによるものです。





ところで、神に向かって合格を祈るのは無駄なことなのでしょうか?

無駄になるのか、ならないのかは、祈りの動機によります。

例えば、卒業して良い会社に就職して、安定した暮らしをするためと言うのであれば、動機は利己的なので、祈りは届かないのかもしれません。

人や社会のために自分を役立てるために学びたいので合格させて下さいと祈れば動機は利他的なので、効力を発揮するかもしれません。

注意しなければならないのは、心の底から湧き上がる想いでなければ、何回祈ったとしても言葉を羅列しているのに過ぎず、効力はないと言うことです。

真の動機が何なのかは、祈る前に全て知れています。

個々の魂が進化し、1つになって行くのが、神の望みと考えられます。

自らが成長するため、他者のために自分を活かそうとする祈りであれば、神の望みに適っているので絶対に無駄にはなりません



自分の中に宿ってる神が目を覚ませば、その祈りは自然と神の望みに適ったものになり、実現する方向に向かって力が与えられると考えられます。

実現しようとする中で、個の進化が図られ、全体の進化にも寄与していることになります。