2021年9月26日日曜日

真の幸せ


宇宙には、どれ位の数の星が存在するのでしょうか?

地球が属している太陽系には、小惑星や彗星を含めると何と約5000個の星が太陽の周りを回っているそうです。

太陽系のある銀河系には、約2000億個の恒星があると言われています。

従って、銀河系にはざっと1000兆個の星がある計算になります。

NASAの最新の研究によると、宇宙には2兆個もの銀河が存在するそうです。

つまり、宇宙には1000兆×2兆個の星が存在することになります。

眩暈がするようなスケールの大きさです。



深遠な宇宙から見れば、地球はとても小さなユニットです。

ユニットを構成する全ての生命は、運命共同体のはずです。

それなのに、人間は傷つけ合い、動物たちを虐げています。

地球環境を破壊しています。



宇宙の彼方から、すでに未知の生命体が訪れているかもしれません。

地上に降りて来ないのは、同じ星の中で傷つけ合い、自分の住む星を汚している人間の姿を見て、友好関係を結ぶ気になれないせいかもしれません。



地上にいると、どうしても視野が狭くなってしまいます。

人間は多くのことを知っていると思っています。

けれども、全体から見れば何も知らないのに等しいのかもしれません。



視野が狭くなっているのは、空間的なものだけではありません。

時間的な視野も狭くなっています。

この世界に生きている時間が、全てだと錯覚しています。



視野が狭くなった地上の人は、過った考えに陥りやすくなります。

生きているうちに、せいぜい好きなことをしようと思います。

お金をたくさん蓄えようとしたり、地位や権力にこだわる人もいます。

そんな人たちが多くなると、世の中は殺伐として、諍いや対立が生じやすくなります。

全体のことなど考えなくなってしまいます。



生命は脈々と続いています。

生まれる前にも、死んだ後にも、生きる世界は存在しています。

目的があって、その世界を離れて地上に生まれて来たのです。

いざ生まれると、そのことをすっかり忘れてしまいます。



目的が分からずに、ただ漠然と幸せになろうと、生きている人は多いと思われます。

幸せになろうと生きるのは、決して間違いではありません。

しかし、幸せの意味や、なるための手段を、視野が狭くなっているので、取り違えています。



旅行に行って楽しければ、幸せを感じます。

おいしいもの食べたり、好きな物を買ったりすれば、幸せを感じます。

お金が入れば、幸せを感じます。



死んだ後に、私たちが赴く世界は、思念の世界です。

そこでは、好きなところに瞬時に移動することができます。

肉体はないので、食べる必要はなくなります。(地上に接した界層では、その習慣が残されています。)

物は消滅し、お金は価値を失います。

従って、そのようなことに幸せを感じていた人は、次の世界に行くと幸せを感じられなくなります。



どんなにお金があっても、高い地位を得たとしても、真の幸せを感じられないのは、際限がないからです。

そして、つかの間のものだからです。

真の幸せとは、永続性のあるものです。

次の世界に行っても、失われないものです。



永続性のあるものとは、霊的なものです。

例えば、ある人から大好きな物をプレゼントされたとします。

大好きな物であっても、時と共にどこかへ行ってしまうこともあるでしょう。

しかし、プレゼントを渡してくれた時の、その人の想いは心に遺ります。

時と共に、失われることはありません。

想いは霊的なものであり、永続性があるからです。




幸せになろうといくら努力しても、幸せにはなれるものではありません。

真の幸せは、探したり、求めたりするものではないからです。



誰かに喜んでもらった時に、幸せを感じます。

何かを成し遂げた時に、幸せを感じます。



自然法則の働きによって、人は他者のために尽くしたり、困難や障害を乗り越えることで成長します。

人は成長する行いをした時に、幸せを感じるようになっています。

全ての人は、幸せを感じたいと思っています。

神(自然法則)は、幸せを感じることを通して、成長を促しています。

成長して行く過程で得られる悦びの中に、真の幸せがあります。



この世の人生には、成長するための出来事が起きるようになっています。

そのために、人生のどこかで乗り越えなければならない出来事が必ず起きます。

他者のために奉仕をする機会が必ず訪れます。



地上では視野が狭くなっているので、目の前に起きた出来事の意味が判りません。

そのために、幸、不幸として片付けてしまうこともあります。

全ての出来事は自然法則の働きにより起きています。

偶然の入り込む余地は、全くありません。



宇宙を経綸している自然法則を創ったのは神です。

自然法則には神の心が顕現しています。

神の心は愛です。

全ての出来事は、神の愛が反映されています。

どんな過酷な出来事であったとしても。



苦しい思い、つらい思いをして乗り越えて来た人が、成長した悦びの中に真の幸せを感じるように、自然法則は創られています。

完全な公平が保たれていたことを知った瞬間、視野が一気に拡がります。

神の存在をありありと感じ、その限りない愛に感謝せずにはいられなくなります。






2021年9月19日日曜日

苦しみは進化を促す


毎日、仕事ではたくさんの指示を出しています。

忙しかったり、急いでいたりすると、その指示が適切でないこともあります。

指摘されると「ああ、そうか」と気付いて、言ってくれたことに感謝するようにしています。

しかし、自尊心が邪魔してしまい、そう思えない時もあります。



地上には、数多くの肩書が存在します。

会社組織であれば、社長、専務、常務、部長、課長などがあります。

肩書が上位の者から、下位の者に命令や指示が伝えられます。

もし、上位の者が下位の者に間違いを指摘されたり、注意されたりするとどうでしょうか?

肩書にこだわる人であれば、素直に受け取れないかもしれません。

人によっては感情的になり、怒り出す人もいるでしょう。



そんな感情は、自我によって生み出されると考えられます。

自我には、「霊的な自我」と「地上的な自我」の2種類あると考えられます。

私たちが普段意識しているのは地上的な自我(以下自我)です。

霊的な自我は、肉体が無くなったら、つまり死んだら表現される、潜在している自我と言えます。

自我は、快適かつ安全に生きようとするものであり、地上的なもの(金銭、肩書、名誉、容姿等)にこだわる傾向があります。

もし、肩書が下位の者から何かを言われて、反発を感じるのであれば、それは自我の働きによるもであり、地上的なものにこだわっている証拠です。



地上に生まれた人に、完全な人はいません。

霊界に行くと、真の自分が露わになり、未熟さや欠点が自覚されるようになります。

少しでも完全に近づくために、自分の未熟さや欠点を、あえて前面に出して地上に生まれると考えています。

わがままなことを自覚したならばわがままな部分を、不寛容なことを自覚したならば不寛容な部分をパーソナリティーとして生まれて来ると思います。



わがままや不寛容は、自然法則に適っていません。

わがままな部分が地上で表現されると、周囲との調和を乱す結果が生じることになります。

反発を買って、孤立してしまうこともあるでしょう。

因果律の働きによって、苦痛となって自分に返って来ます。



地上には、さまざまな人がいます。

自分にない美点を持った人もいれば、欠点を持った人もいます。

自分と違う人たちと共に生きるのは大変なことです。

しかしながら、美点を吸収し、欠点を改められるという、良いところもあります。



人と共に生きていると、自分の欠点を指摘されることがあります。

中には、傷つけようとしたり、優越感を持ったり、自尊心を高めようと、他者の欠点を責めるような人もいます。

そのようなエゴから発せられた言葉には、耳を傾ける必要はありません。



それとは別に、自分の欠点が表現されると、自らの良心に従って、過ちを指摘してくれる人がいます。

言われるとドキッとして、侮辱されたような、プライドを傷つけられたような気持ちになる時もあります。

そんな時は、改めるべき自分の欠点が、周囲にいる人を通して、指摘されているのかもしれないと思うようにしています。

言葉などの五感を通して、気付かせてもらっているのかもしれません。



自我の働きの強い人ほど、自分を守ろうとする意識が強いために、欠点を指摘されると反発すると考えられます。

自分を守ろうとするあまりに、指摘した人を非難することもあるでしょう。

何か理由を見つけて、指摘されたことを否定しようとします。



未熟さや欠点を正して、成長するために、地上に生まれて来たのです。

自分の未熟さや欠点が他者に表現されると、因果律の働きにより、他者から正すための言動が返って来ます。

真実を突いている言動ほど、耳が痛かったり、堪えたりします。

素直に受け入れられないかもしれませんが、それは今生で正すべきところかもしれません。

苦しみや痛みが生じるかもしれませんが、ありがたく受け止めた方が良いのかもしれません。



否定したり、怒りが生まれたとしたら、自我が反応していると考えられます。

そんな反応をしがちなのは、自我は変化を望まないからです。

否定したり、怒りでごまかせば、自分が変わらなくても済むからです。



変わろうと思っても、人はなかなか変われません。

そこで、神は苦しみや痛みを創造したと思います。

そして、苦しみや痛みを強く感じられる肉体を創造したと思います。

同時に、さまざまな人が生きる地上に、何度も生まれる自然法則を創造したと考えられます。



苦しみや痛みの究極の目的は、自分を変えるためです。

苦しみや痛みが生じたのであれば、変わるべきところが自分にあるはずです。

それが、否定や怒りに転化されてまうと、その目的は果たされなくなります。



自分は他者を良い方向へ変えるため、他者は自分を良い方向へ変えるために存在しています。

それぞれの人に、神が内在しています。

内在する神が発現することにより、他者を良い方向に変えて行きます。



不寛容を正すために生まれて来た人がいたとします。

地上でその部分が発揮されると、他者の失敗が許せなかったり、欠点を責め立てたりするでしょう。

少なからず周りの人につらい思いをさせることになります。

いつの日か、自分が大きな失敗をする出来事が起きて、因果律の働きにより今度は周りの人から許してもらえなくなり、責め立てられることになります。

絶体絶命の状況に追い詰められ、命運を握る人から、寛大な心をもって許しを得られたとしたらどうでしょう。

感謝すると共に、許すことの大切さを学ぶでしょう。

追い詰められた苦しみの中で、大切なことを学ぶ機会が訪れます。

一連のことが、人が進化することを目的として、計画的に起きていることがあります。



肉体的な苦しさは、精神的な成長を促します。

精神的な苦しさは、霊的な進化を促します。

魂が進化をすると、それまで感じていた精神的な苦しさが感じられなくなります。

進化するほど、苦しみから解放されて行くことになります。



進化するほど神の心が表現されるようになり、苦しみではなく悦びが感じられるようになります。

より深い悦びを感じたいために、人は苦しみのある地上に生まれて来ます。

地上の苦しみは、自分が変わり、進化を促すためにある触媒です。


「苦しみ」エゴン・シーレ 1912年


2021年9月12日日曜日

人生の伴走者


東京オリンピック・パラリンピックが終わりました。

当初は、コロナ禍での開催を疑問に思っていました。

いざ始まると、持てる限りの力を出し切り、良い結果が出た時の選手の歓喜の姿に、素直に感動しました。

中でも印象的だったのは、パラリンピックの女子マラソン(視覚障がいクラス)で、金メダルを取った道下美里選手の笑顔でした。



インタビューで、「最強の仲間と伴走者がいたので、ここに辿り着いた。」と答えていました。

この競技に出場する選手は視力が失われているので、伴走者が付いて一緒に走ります。

伴走者は、選手に進路を指示したり、ラップタイムや他の選手の情報を伝えたりしています。

今回のオリンピックでも、ラストスパートをかけるタイミングを計っていたのは伴走者であり、道下選手がそれに応え、最高の結果を得ることができました。



競技中だけではありません。

道下選手は、練習で毎月600~700Kmも走っているそうです。

当然のことながら、伴走者も同じ距離だけ走っていることになります。

これだけの距離を走れるのは、選手と伴走者は同じ目的に向かって進んでいる同志という思いがあるからでしょう。

そんなこともあり、優勝した歓びを分かち合い、感謝の言葉が自然に出たのだと思います。



伴走者には、1つのルールが課せられています。

それは、選手の前を走ってはいけないということです。

前を走ると、選手を助けた(助力)とみなされて失格することがあるので、前に行かないように、常に注意を払っています。



この競技を知って、あることを思い浮かべました。

地上の人と守護霊との関係です。

守護霊は、生まれた時から死ぬ時まで、生涯に渡り1人の地上の人に付いています。

選手がコースから外れそうになった時に、伴走者がコースに戻しますが、それと同じように、地上の人が予定していた人生のコースから外れそうになった時に、様々な手段を駆使して、元に戻そうとしています。



伴走者は言葉で指示を伝えていますが、守護霊にはそれは出来ません。

言葉を超えた思念で伝えています。

それがインスピレーションとなって地上の人に伝わっています。

もし、何の考えや、脈絡もなく、「こうしてはいけない」、「こうしなければいけない」そんな衝動が心の中に生まれたのなら、守護霊から思念が伝わって来たせいかもしれません。

両者が緊密な関係であれば、衝動も感じずに、無意識に行動に移していることもあると思います。



視力を失った選手の代わりに、伴走者は周りの状況を把握しています。

地上に生まれた人も、霊的な視力を失っています。

何のために生まれたのか、どんな人生を歩むのか、いつ死ぬのかも分からなくなってしまいます。

霊的に盲目になってしまった地上の人が、生まれて来た目的を果たすために、守護霊は付いています。



人生の要所で、正しい選択をするように働きかけています。

けれども、地上の人の自我が強くなってしまうと、働きかけが上手く出来なくなってしまいます。

欲に溺れたり、誘惑に負けたりして、道から外れてしまう時があります。

外れていることに気付いたり、その先で痛い思いをして、元に戻って来ることを期待して、守護霊は地上の人をなすがままにさせることもあります。

中には、死ぬまで元に戻らない人もいるでしょう。

そんな人は、死後に人生を振り返る時が来て、後悔することになります。

後悔を晴らすために、今度は道を外れないと決意をして、誘惑の待ち受ける地上に、再び生まれることになると考えられます。



マラソンでは、伴走者の走力が選手より高くないと、足を引っ張ることになります。

同様に、守護霊の霊格が地上の人よりも高くないと導くことはできません。

しかし、高すぎてしまうと波長が合わなくなり、インスピレーションは上手く伝わらず、導くのは難しくなると考えられます。

従って、守護霊として付くのは、地上の人と同じ類魂の上位にいる者と考えています。



選手が疲れてきて、苦しそうにしていれば、伴走者は「がんばれ!まだ走れる!」などと、声を出して励ましたり、気持ちを鼓舞しているでしょう。

地上の人が困難な状況に陥り、だめかもしれないと思いかけたのなら、守護霊は乗り越えさせようとして、必死に思念を送っているでしょう。

思念はエネルギーです。

受け取った瞬間、内から力が湧いて来るのが感じられるかもしれません。



選手に走ろうという気持ちがなければ、伴走者は必要ありません。

同様に、地上の人に何もする気がなければ、守護霊はお役御免です。

何かをしようとする意思に協調して、守護霊も動き出します。

迷っている時には、一歩を踏み出させようと後押をしているでしょう。

「何とかなる」「上手く行く」そんな前向きな気持ちが生まれたのなら、それは守護霊から思念が届いていたのかもしれません。



選手が走り出したら、伴走者も一緒に走り出します。

止まったら、一緒に止まります。

守護霊も同じです。

地上の人が動き出したら、守護霊も一緒に動き出します。

止まったら、動き出すまで、じっと待っています。



競技では、途中で歩く選手も、立ち止まる選手もいます。

疲労が限度を超えたり、体調が悪くなったのであれば、やむを得ません。

再び走り始める人もいれば、途中で棄権する人もいます。



人生は苦しくても棄権はできません。

立ち止っても良いでしょう。

動けるようになったら、前に進むしかありません。

進もうとする意思に守護霊は連動し、一歩を踏み出させようとしています。



止まっているのも、決して楽ではありません。

むしろ苦しみを感じます。

何故ならば、人は成長するように定められているからです。

苦しみを通して、成長する方向に進むように促されているからです。



死は、地上の人生のゴールです。

悲劇ではなく、苦しみからの解放です。

先に逝った人たちが待ち受けていて、ゴールを祝福してくれます。

そして、守護霊の存在に気付くでしょう。

地上から解放された喜びを共に味わいます。

やがて、地上の人生を振り返る時が来ます。

惜しみない援助を与えてくれたこと、予定されていた人生を歩むために導いてくれていたことが、はっきりと判ります。

目的を果たし、予期していた学びや成長が得られたことを知り、感謝の気持ちが湧き上がります。



たとえ存在は感じられなくても、守護霊が守り導いてくれていることを、強く信じましょう。

一人ぼっちになっても、守護霊だけはいます。

人生の主役は地上の人です。

責任は地上の人が負います。

従って、進む方向を決めたり、表立って助けることは許されません。

頼ってしまうと成長につながらないので、存在が感じられなくなっていると考えられます。

成長するために生まれて来た、地上の人の人生を並走しています。



目をつむりながらでは、怖くて歩けません。

走るのは、想像している以上に怖いはずです。

伴走者を絶対的に信じていなければ、思いっ切り走ることはできません。

両者は信頼と言う絆で結ばれています。

ちなみに、選手と伴走者を結ぶロープのことも「絆」と呼ぶそうです。


伴走者が右手に持っているのが「絆」(読売新聞より)


地上にいる私たちは、守護霊をもっと信頼して、怖がらずに、勇気を出して、思いっ切り人生を走らなければいけないと思います。



2021年9月5日日曜日

目的を果たした人が逝く


去年の3月、私の母親が亡くなりました。

脳梗塞で倒れて右半身が完全に麻痺し、言葉もしゃべれず、ベッドの上での生活を強いられました。

それまで病気もせず、元気に動き回っていたので、つらかっただろうと思います。



コロナが流行し始めた頃であり、危篤状態にならない限り面会は許されませんでした。

病院から連絡があり、家族が集まりました。

極めて親しい人の死を、目の当たりにしました。

意識がなくなり、呼吸が荒くなって来ると、こちらまで苦しい気持ちになりました。

同時に、死がすぐそこまで迫っているのを感じました。

徐々に呼吸が小さくなり、ついに止まりました。

全ての動きがなくなり、医師により死亡が宣告されました。

霊的真理を知る前の私でしたら、この瞬間、母と言う存在が消えてなくなってしまったと思ったでしょう。

「魂となって生きている」と言われたとしても、根拠のない慰めと聞き流したでしょう。

今の私は、不自由な身体から解放され、どこでも好きなところに行けるようになっているのが判っています。

先に次の世界に行っただけなので、また会えることも判っています。

霊的真理により無用な悲しみや苦しみを感じずに済んだのですが、そんな自分が薄情のようにも思えました。



ツクツクボウシの鳴き声も聴こえなくなり、夏が終わろうとしています。

セミが地上で生きている時間はせいぜい1、2週間です。

それまで何年もの間、地中で暮らしていますが、その生態は良く判っていません。

中には、17年間も地中にいるセミもいるそうです。

地中のアブラゼミ

セミは、地中の生き物だと思います。

捕食される可能性のある地上にわざわざ出て来るのは、地中にいたのでは繁殖できないためと考えられます。

短い時間で子孫を残すために、自由に飛べる羽を持ったと思います。

もしそうであれば、私たちが知っているセミは「特殊な姿」と言えます。

けたたましく鳴き続けるセミですが、最後の生命の叫びを聴いているような気がします。

目的を果たしたセミは、死んで行きます。



人も同じです。

地上での目的を果たした人は、自然法則に従って死んで行きます。

人の寿命は予め決まっています。

100歳を超えて生きる人もいれば、生まれて直ぐに死んでしまう赤ちゃんもいます。

生まれて来た目的は、それぞれ違います。

生まれる前に立てた人生の計画は、誰一人として同じではありません。

エンドポイントも当然のことながら違って来ます。



ところで、早く亡くなる人は、優しく、思いやりがあり、誰からも好かれる人が多いと感じているのは私だけでしょうか?

何でこんな良い人がと惜しまれるような人です。

「憎まれっ子、世にはばかる」ということわざがありますが、逆も真なりと思えてしまいます。

長く地上にいて、さまざまな経験をする必要のなかった、欠点や片寄りの少ない、霊的に成長した人のような気がしてなりません。



生きている時間が、あまりにも短い子もいます。

そんな子を知ると多くの人は哀れみます。

家族をはじめ、関わる人たちの悲しみ苦しみはより深いものとなります。

「命とは何だろう」「何のために生まれて来たのだろう」そんな問いが突き付けられます。



深い悲しみは、心の奥に眠っていた魂を目覚めさせます。

目覚めた魂が、問いに対する答えを見つけます。



生命とは魂です。

肉体を超えたものです。

視えなくなっても、変わりなく生命の営みは続いています。



もし、命がこの世限りのものであるならば、生まれて来た目的、生きている意味は、どこにも見つけられません。

無になってしまうのであれば、人生はうたかたの夢幻です。

人が生きている間を人生と言うのならば、生まれる前も、死んだ後も、人生は続いています。

一生懸命に生きよう、良心に恥じないように生きようとするのは、心の奥底ではそのことが判っているからです。



地上でしか経験できないことがあります。

果たすべきこと、借りを返すことがあったはずです。

そうでなければ、地上に生まれて来る必要はありません。



目的を果たした人は、地上にいる必要がなくなります。

本来の住処に戻ることができます。

そこで待っているのは、全てを分かち合っている人たちです。

地上での経験により、さらに想いが共有され、学んだことが全体のために活かされます。



地上にいるセミと同じです。

肉体を纏った地上の人は、実は「特殊な姿」なのです。

特殊な姿から、本来の姿に戻る現象が死です。



生きている時間が短くても、哀れむ必要はありません。

早く地上での目的を果たしたので、早く本来の姿に戻ったのです。

そう思えないのは、死んだ後の世界、そこでの生活が判らないようになっているからです。

この世界、この人生が全てと、間違った認識をしているからです。



死んだ後の世界が判らないようになっているのには理由があります。

地上に生まれた人は、未熟です。

未熟であるために、苦しみ、悲しみから逃れようとします。

自然法則の働きによって、苦しみや悲しみを乗り越えて行くことで人は成長します。

苦難を乗り越えて成長することが、地上に生まれて来た目的なのに、死んだ後にも生きる世界があることが判ったのならば、そちらに逃れようとする人もいるでしょう。

自らが決めていた人生を、自らが放棄するのは許されません。

先に待っているのは、苦から解放された世界ではなく、暗闇と深い後悔です。

その罪を償うために、さらに過酷な人生を歩まなければならなくなります。

そんな過ちが起こらないように、判らないようになっていると考えられます。



間違った認識をしていると、苦しむことになります。

その苦しみが魂を成長させて、真理を受け入れる土壌を整えて行きます。

死後にも生があるという真理を受け入れることによって、存在は息を吹き返し、愛せない苦しみから解放されます。

苦しみを通して、間違いは正されて行きます。



真理は光です。

太陽の光の中にいる時には目に入りません。

暗闇の中にいる時に、光り輝いています。

真理を手に入れるためには、どうしても暗闇の経験が必要なのです。



関わる人たちの成長を促すために生まれて来た人もいます。

死によって、真理を手に入れさせようとする成長した魂です。

そんな人が目的を果たして戻るのは、素晴らしい境涯に違いありません。

判ってもらえたのなら、地上に思い残すことはありません。