2022年1月30日日曜日

永久(とわ)の別れ


永久の別れと聞いて思い浮かぶのは何でしょうか?

「死に別れ」という人が多いと思います。



死ぬと、肉体は全く動かなくなります。

動かなくなった肉体は荼毘に付され、骨だけになります。

今まであった肉体がなくなると、存在自体がなくなってしまったと思う人も少なくありません。

そんな理由から、永久の別れと思ってしまうのも、仕方がないかもしれません。



人間を構成しているのは肉体だけではありません。

肉体を動かしているのは精神であることは、誰もが知っています。

その精神を動かしているのが、さらに高次に存在する魂です。

人間は、肉体、精神、魂(霊)の複合体です。



魂は生命そのものであり、その人の本質です。

死んで肉体は骨になっても、意識は変わりなく存在しています。

「完全にいなくなった」と誤った認識をすると、無用な苦しみに襲われてしまいます。


「遠いところに行ってしまった」と言う人がいますが、それも正しくはありません。

亡くなった人がどうしているのか?

自分が死んだ時のことを考えれば、容易に想像が付きます。

大切な人を放っておいて、遠くに行ってしまうでしょうか?

「どうしているのだろう?」

「大丈夫だろうか?」

きっと、気になるのではないでしょうか。

肉体がないだけで、他は生前と何も変わっていません。

親愛の想いがあれば、傍にいたくなるのは、自然の成り行きです。



視えなくなったけど生きている。

たったそれだけのことですが、信じるのはなかなか難しいようです。

今まで目に視える世界が全てだと思っていた人が、急に魂の存在を信じなさいと言われても戸惑うだけです。

証明されない限り信じないのは、理性を持つ人間であれば当然なのかもしれません。



愛は目に視えず、存在を証明することもできません。

それでも、ほとんどの人は存在すると思っています。

愛が存在しているのを信じている人であれば、魂の存在も信じられるはずです。

なぜなら、愛が生まれる場所も、感じる場所も魂だからです。



亡くなった人の肉眼は失われているために、地上の人の肉体は視えません。

しかし、肉眼に変わって霊的な眼が見開かれて、魂が視えるようになります。

魂から生じている地上の人の想いは、手に取るように判るようになっています。

一方、地上の人は、亡くなった人の想いが全く判らなくなっています。

両者の状況は正反対です。



遠いところに行ってしまうわけなどありません。

物理的な制約がなくなり、生前よりも近くにいられるようになります。

「死者の力~津波被災地「霊的体験」の生死学~」(高橋 原、堀江宗正著 岩波書店)という本があります。

遺族の霊的体験をインタビュー形式でまとめたものですが、その中にこんな一節があります。

「夫を亡くした女性は、心のなかに夫がいて、話しかけると答えてくれるような感じがし、メッセージを受けたと喜んでいる。たまに気配を感じ、見守られていると思う。彼女は、どちらの家系の先祖も熱心に拝んでいる。『誰も死んでいない、人の魂は死後どこにも行かず、生きている人たちと一緒にここにいる』と話す(70歳女性、2014年談)」

魂の存在を否定する人は、この文章を読んで、悲しみの果ての妄想あるいは錯覚と片付けようとするでしょう。

けれども、この人以外にも同様の経験をしている人がたくさんいます。

多くの人が霊的体験によって、悲しみや痛みが癒されています。

誰にでも起こっている現象ですが、それを感じ取れるかどうかの差と考えられます。



「魂でもいいからそばにいて~3・11後の霊体験~」(奥野修二著 新潮文庫)には、数多くの霊的現象が書かれています。少し長くなりますが、その中の1つを引用します。

「津波で逝った(長男)の康生くんがそばにいると感じたのは、震災から2年経った頃だという。あの子は言葉は思い出すのに声が出てこない。幼稚園で撮ったビデオを見ればいいのに、怖いのと見れば悲しくなるのがわかっているから見ることもできない。康ちゃんどうしているんだろう、逢いたいなあ…、由理さんのそんな思いが頂点に達した時だった。

「2013年のいつでしたか、温かくなり始めた頃でしたね。あの日、私と中学生の娘と主人と、震災の翌年に生まれた次男の4人で食事をしていたんです。康ちゃんと離れて食べるのもなんだから、私が祭壇のほうを振り向いて、『康ちゃん、こっちで食べようね』そう声をかけて『いただきます』と言った途端、康ちゃんが大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が、いきなり点滅したかと思うと、ブーンって音をたてて動いたんです」

          
窓際にプラスティック製のその車が置かれていた。由理さんがスイッチを入れると「ガガガガ、出発進行!」という機械の音声が聞こえる。もちろん勝手に動くことはありえない。

「『このおもちゃ、勝手に動くの?』どうやったってスイッチをオンにしないかぎり動かないのに動いたのです。その時みんな『アッ、康ちゃんだ』と叫びました。『康ちゃん、こんなとこさ、遊んでんだ』そう思ったらうれしくて仕方がありません。それから何日か経ったある日、主人が次男をお風呂に入れていた時でした。『康ちゃん、もう一回でいいからママにおもちゃを動かして見せて』心の中でお願いしたんです。そしたらまた動いたんですよ『康ちゃん、ありがとう』こんな近い距離で私たちを見ているんだ。そう思った時、昔から私に『笑って、笑って』とひょうきんな顔をしたのを思い出しましてね、そうだ、私も笑わなきゃだめだ、頑張らなきゃだめだと思ったのです。

奥のキッチンから、長女が料理しているのか、カタカタと音がする。由理さんは、すっかり冷たくなったお茶をすすった。」(『ママ、笑って』より)




ここまではっきりと現象を見せてくれるのは稀でしょう。

康ちゃんの伝えたい強い思い、お母さんの知りたい強い思いに共感した霊界の存在の助けが加わって物理的現象が起きたと考えられます。

何よりうれしかったのは、「笑って」という想いをお母さんに伝えられたことだと思います。

近くにいると信じてもらえた瞬間、お母さんの魂に自分の想いを託したイメージを吹き込んだのです。

そのイメージを元に、想いを感じ取ってもらうことができました。

久しぶりにお母さんの心からの笑顔が見れて、きっと安心したでしょう。

何らかの現象が起きた時には、そこに向こうの人の想いが込められています。

言葉では伝えられないので、想いを感じ取って欲しいのです。



愛があるからこそ、いろいろな方法で地上の人に存在を示したり、想いを伝えようとしています。

残念ながら、そのことに気付かないのがほとんどです。

運よく気付いたとしても、気のせいや思い付きとして片付けてしまいます。

こんなにも近くにいるのに、自分の想いをどうしても伝えられない。

向こうにいる人の想いを知ることのできないつらさは、地上の人に想いを伝えられないつらさの裏返しです。



泣きじゃくっている子供に、何を言っても無駄な時があります。

感情で心が一杯になっている人に、存在に気付いてもらうことも、想いを感じ取ってもらう余裕もありません。

悲しみのオーラが壁のように感じられ、近づけなくなります。



重苦しい肉体から解放されて、自由に何でもできるようになっています。

物理的な制約がなくなり、近くにいられるのを喜んでいます。

しかし、そのことが全く判らない地上の人は、いなくなったと嘆き悲しんでいます。

両者の想い(波長)があまりに違うために、接点はほとんどありません。



同じ屋根の下で暮らしながら、心が全く通い合っていない人がいます。

法律的に1番近い関係である夫婦でも、お互いの都合でそうしている人たちもいます。

別れとは、想いが通い合わなくなり、つながりが断たれた状態を意味します。

触れ合うほど近くにいたとしても、霊的には別れています。

死んだ後に、再会することもないでしょう。

そんな人こそ、永久に別れているのかもしれません。

同じ次元で生きているか、いないかは関係ありません。



死は永久の別れと思っている人がいますが、とんでもない誤解です。

誤解が苦しみを生んでしまいます。

肉体はなくても、心は失われていません。

視えなくなっても生きている、想いは変わっていないと、強い意思を持って信じることが必要です。

信じることは愛することです。

魂は再びつながり、愛せない苦しみから解放されます。



愛は魂を引き合う力です。

死によって、その力はいささかも失われないので、引き裂かれることはありません。

親愛の想いで結ばれている人たちに別れは存在しません。





2022年1月23日日曜日

人生を比べない


世界1の金持ちは、ジェフ・ベゾス氏というアメリカ人です。

ネット通販で有名なアマゾンの創業者であり総資産は何と19兆円で、ニュージーランドの国家予算に匹敵するそうです。

個人が所有するには、あまりにも大きな金額です。

ある調査によると、富豪の上位8人の総資産の合計は、世界の人口の下位半分(約39億人)の総資産と同じだそうです。

自分の才能と努力で会社を大きくして来たので、とやかく言うつもりはないのですが、その何分の1かを、天災や飢餓などで苦しんでいる人たちに分け与えたのならば、どんなに喜ばれるだろうかと、つい思ってしまいます。

アフガニスタンの赤ちゃん

そんな大金を持っている人たちを、羨ましがる人は少なくありません。

人は何かと比べてしまう生き物です。

同期入社の人の昇進が自分よりも早ければ、悔しく思う人もいるでしょう。

自分より綺麗な人を見ると、羨ましがる人もいるでしょう。



どんなに資産を蓄えても、死ねば手放さなければいけません。

肩書きは、個の一部を表す地上だけの記号に過ぎません。

死んだ後に残るのは、その人の本質である魂です。

肉体に代わって、魂の美醜が露わになります。

地上にいる時に大金持ちだった人が霊性に目覚めた時に、自分が蓄えていたものを、他者のために有効に活かせなかったのを、大いに悔いることになると思います。

得たものを、人に分け与えてこそ価値が生まれることを知るからです。




地上に生まれて来た目的は、自分を成長させるためです。

目的を果たすために、最適な人生が立案され、それを了承して生まれて来ます。

過去の人生において、悔いを残すようなことがあって、それを晴らすために生まれて来ることもあるでしょう。

摂理に反した行いをして、償いのために生まれて来ることもあるでしょう。

より自分を成長させるために、限界まで追い込まれる出来事を乗り越えて行く人生を志願することもあるでしょう。

それまで培ってきた資質を活かして、人や動物や社会のために何かをするために生まれて来ることもあるでしょう。



目的は誰一人として同じではありません。

それぞれの人生も、当然のことながら違って来ます。

相応しい肉体と環境を選んで生まれて来ます。

心身に障がいを抱えて生まれて来た人は、果たすべき目的の1つがそこにあると考えられます。

こんな環境を選ぶはずはないと思う人もいるでしょうが、目的に辿り着くために、その環境を経験する必要があったのかもしれません。

偶然や運が入り込む余地は全くなく、あらゆることが無限の叡智により勘案された結果です。



目的を果たすために、人生は粛々と展開して行きます。

私の場合、40代半ばで大きな出来事が一時期に集中して起きて、人生が大きく変わりました。

計画があり、目的が存在することを、その時に確信しました。

こうしてブログを書いているのも、目的の1つと思われます。



計画があると同時に、人には自由意志が与えられています。

誘惑に負けたり、わがままにより、計画とは違う方向に進んでしまう可能性があります。

計画を思い出せない地上の人のために守護霊が付いて、沿うように導いています。



平凡な人生で、目的なんか見当たらないと言う人がいるかもしれません。

地上の人生の目的とは、大切なことを学び、成長することです。

特別なことをしていなくても、今までの経験から、たくさんの教訓を学んでいるはずです。

自分がしたことが誰かに喜んでもらえたのなら、成長につながっているはずです。

些細なことを積み重ねながら、少しずつ目的を果たしています。

そして、今日まで平凡であったとしても、明日、人生を変えるよう出来事が起きるかもしれません。



取り返しのつかない出来事が起きると、自分の人生はもう終ったと思う人もいるでしょう。

運が悪いのではなく、眠っている魂を目覚めさせるために、衝撃的な出来事が必要だったのかもしれません。

終わりではなく、そこから目的を果たすための人生が始まるのかもしれません。



「何で自分だけが」と叫びたくなるような出来事が起きることがあります。

人は地上と霊界の間を行き来しながら成長していますが、地上に生まれてからの記憶しかありません。

何事もなく過ごしている人が、過去生で同じような経験を既にしているのかもしれません。

あるいは、来生で経験することになるのかもしれません。

今生でと思った人が経験していることになります。



あらゆる出来事は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則は、生命の進化を目的として創造されています。

苦しむために起きているのではありません。

経験を通して、学び成長するためです。

従って、悪い方向に向かっているように見えても、必ず良い方向に向かいます。

今は真っ暗闇でも、光を見い出す時が必ず来ます。



生まれる環境と、果たすべき目的を決めたのは自分です。

これまでさまざまなことを決めて来た結果として、今の自分がいます。

全て自分で決めて来たことなので、人と比べて嘆いたりするのは、明らかに間違っています。

いけないことなので、苦しくなってしまいます。

生まれて来た目的をすっかり忘れて、目の前にある世界が全てだと思い込んでいるから、比べてしまうのです。



地上では、いろいろな人に囲まれながら生きています。

肌の色も違います。

頭脳が良い人も悪い人も、身体能力が高い人も低い人もいます。

心身の障がいがある人もいます。

自分との違いは、個性の違い以外の何者でもありません。



この世界は、ありとあらゆる個性が、愛により1つになって行くことを目的として創られたと考えられます。

違いを比べるのではなく、お互いを認め合うことが求められます。

それは人間だけではありません。

全ての生き物は明確な目的があって存在しています。

地上の調和を保つために、なくてはならない存在です。



比べてしまうと、偏見や差別やいらぬ劣等感や優越感を持ったりしてしまいます。

それら全てが調和の妨げとなります。

自分との違いは個性として捉え、認めましょう。

良いところを見習い、足りないところに寛大になることで、魂の成長が促されます。



人生は比べるものではありません。

それぞれが決めて来た道を、黙々と歩いているだけです。

全容は、この世を生きている限り判りません。

死んでから明らかになります。

不幸や不運として感じていた、つらく苦しかった出来事が、目的を果たすために必要だったことに気付きます。



地上で感じていた不公平感は、霊界に行くとなくなります。

比べていた対象がいなくなり、周りとの違いがなくなるからです。



敢えて比べるものがあるとしたら、それは自分自身です。

地上に生まれる前の自分と、地上を去った後の自分とをです。

深く学び、知らずに成長していたのならば、無上の悦びとなるでしょう。



2022年1月16日日曜日

美しい光を放つために生きている


上の絵は、言わずと知れた「モナリザ」です。

ただ、作者はレオナルド・ダヴィンチではなく、ジョン・マイオットと言う現存の人です。

上手く描かれているので、本物と間違えてしまいます。



本物と偽物で違うと感じることもあります。

本物には作者の念(想い)のようなものが込められていると思います。

「魂がこもっている」と言う人がいますが、それと同じです。

偽物にはそれが感じられません。

それは、お金のために描いているからだと思います。



芸術鑑賞とは、作品に込められた作者の想いを読み取る、サイコメトリーな作業だと思います。

芸術家の多くは、インスピレーションに(ひらめき)よって創作しています。

インスピレーションの源泉は霊界です。

地上の芸術家が、霊界からインスピレーションを受け取って、それを五感で認識できる形で表現しています。

そう考えると、芸術とは霊界の美を再現していると言えるのかもしれません。

ダビンチの描いたモナリザは、この世の人、この世の風景に見えないのは、そのせいだと思います。

絵から霊気が漂っているようです。


北欧のモナリザとも言われる、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」です。

時代を超えて生きているような生々しさが感じられます。

高い技術のせいもあるでしょうが、込められた想いが、作品に生命力を与えていると思います。



音楽もそうです。

どんなに上手に歌を唄っても、心に響くとは限りません。

逆に、上手くなくても、響くことがあります。

歌に込めた想いを、聴く人が感じ取っているからだと思います。



想いを感じ取っているのは、5感を超えた感覚です。

俗にいう第6感がそれに当たると思います。

第6感とは霊的な感覚であり、インスピレーションもそこで受け取っていると考えられます。

もし、霊的な感覚が存在しなかったのなら、優れた芸術や、偉大な発見は生まれることはないでしょう。



意識が生まれるのはどこでしょうか?

脳の働きですべてを説明しようとする科学者がいますが、物質的な脳から非物質的な意識が生まれるはずはありません。

悲しみも、怒りもそうです。

脳ではなく、自我と言う意識体で感情が生まれます。

自我で生まれた感情が脳に伝わり、それに対応して脳が活動をしています。

五感から脳を介しての入って来た情報と、霊的な感覚によって得られた情報が、自我で統合されて想い(思念)が生じます。



想いを伝える、地上の媒体は言葉です。

「ありがとう」と言う言葉の本質は、感謝の想いです。

想いは直接伝えられないので、五感で判る言葉に変換しなければなりません。

地上では、面倒な行程を繰り返しながら、コミュニケーションをしています。



同じ「ありがとう」でも、感謝の想いが込もった「ありがとう」と、事務的な「ありがとう」があります。

古くから言葉には霊力が宿っていると言われ、それを「言霊」と呼んでいます。

言葉に想いというエネルギーを無意識に込めて伝えています。

地上の人は、五感を介して得られた文字としての情報と、霊的な感覚で受け取った想いを、同時に受け取っています。

メールで「ありがとう」の文字の後に😄などの絵文字を付け足して補足することがあります。

伝えられるのは文字だけで、想いまで伝えられないからです。



目に視える言葉ではなく、目に視えない想いが本質です。

人間も同じです。

目に視える肉体ではなく、目に視えない「魂」こそが人間の本質です。

肉体は、魂から生じる想いを表現するためにある、物質的な媒体に過ぎません。



人から発せられている想いは、さまざまです。

怒りや憎しみもあれば、悲しみや喜びもあります。

想いはエネルギーの一種であり、固有の振動をしています。

怒りや憎しみの想いは振動数が低く、他者を慈しむ想いは振動数が高いと考えられます。

高い振動数の想いを放っている魂ほど、進化していると考えられます。



進化の程度が異なる人たちが、同一平面で生活しているのが地上です。

さまざまな思念が飛び交い、知らずに受け取っています。

類は友を呼ぶと言われますが、放っている思念が似通っていると同調して、同じような人が集まりやすいと考えられます。

逆に、違う思念を放っている人は違和感を感じて、近づきにくくなります。



肉体は同じ地上にいます。

けれども、魂は違う波長の世界で生きていると言えます。

地上に生きていても、怒っている人は怒りの世界に、悲しんでいる人は悲しみの世界に、喜んでいる人は喜びの世界に生きていると言えます。

そして、同じ波長の世界に関心が行き、視える世界も変わって来ます。


イスラム国:日本経済新聞より
この集団は、宗教的なつながりと言うよりも、世の中に対して怒りや憎しみを持った人たちが、世界中から集まって来て、共鳴し合って、その想いが暴力的な行為となって表現されていると思います。


死を待つ人々の家
それと同じ様に、1人の女性の崇高な想いに共鳴する人たちが、世界中から集まって来て、病んだ人、貧しい人のために奉仕をしています。



肉体を持つ、私たちも霊的な存在です。

想いを感じる霊的な感覚があり、外部からさまざまな影響を受けています。

自分が放っている思念と同じ波長の思念に同調します。

共鳴することによって、その後の行動が変わって来ます。



いつの日か死が訪れ、肉体はなくなります。

肉体がなくなっても、生前と変わらない想いが、魂から発せられています。

遮るものはなくなり、対象となる魂に想いはダイレクトに伝わります。

以心伝心であり、伝える側と伝えられる側の間に齟齬は生まれません。



霊界はシームレスな思念(波長)の世界です。

地上とは比較にならないほど厳格に、自然法則の働きによって、同じ波長の世界に引き付けられます。

そこにいるのは、似たような思念を放っている人たちなので、安心していられます。

違う波長の世界(界層)に行くと、判り合えないので、居心地が悪いようです。



霊界では、思念が光となって魂から放射されているのが視えます。

何を想っているのかが一目瞭然であり、その人の本性が判ってしまいます。

肉体がなくなり、大きな解放感を味わいますが、見せたくなかった未熟な部分を隠せなくなり、恥ずかしい思いをするかもしれません。



未熟な自分を変えるために、多くの人は地上に生まれることを望みます。

目的を果たすために相応しい人生が立案されて、それを了承して地上に誕生します。

不幸と言われるような出来事が、ある日突然起きるかもしれません。

あるいは、未熟な部分がパーソナリティーの一部となって生まれ、それが表現される度に因果律が働いて、苦痛を伴う出来事が起きるかもしれません。

遭遇する出来事に悪戦苦闘する中で、大切な教訓を学び、自分が変わって行きます。



霊界に戻り、地上を振り返って、こう思う人も多いでしょう。

「つらかったからこそ自分が変われた」

予期していた自分になれたのなら、深く納得するでしょう。



地上を経験する度に、未熟な部分はなくなり、完全(神)に近づいて行きます。

浄化された魂は、地上に生まれる前より、美しい光を放つようになっています。



2022年1月9日日曜日

法則に従う ②


昔、判らなかったことが、今になってそうだったのかと納得する時があります。

小さい頃、わがままを言ったり、自分勝手な振る舞いを友達にしたらどうなったでしょうか?

嫌われたり、仲間外れにされます。

嘘を付いたらどうなったでしょう?

信じてもらえなくなります。

仲間外れになるのも、信じてもらえなくなるのも、子供にとってはつらものです。


仲間外れにされた理由が判らなければ、「何でだろう?」と思います。

友達から、理由を言われることもあります。

判らなければ、そのままの状態が続いてしまいます。



ようやく理由が判ると、そのままでは嫌なので、改めようとします。

改めたのなら、また仲間に入れてくれるでしょう。

そんなことを繰り返しながら、目に視えない「決まり」のようなものを学んでいたと思います。



ところで、わがままを言ったり自分勝手なことをすると、何故、仲間外れにされてしまうのでしょう?

それは、その行為が「自然法則」に反しているからです。



自然法則とは、神が定めた決まりです。

自然法則は、空間や時間を超越して働いています。

宇宙のどこに行こうとも、過去や未来のいかなる時でも、変わりなく働いています。



自然法則を創った存在は、神と呼ばれています。

神には心があります。

自然法則の中に、神の心が投影されています。

基調となっているのは「愛」です。



わがままや自分勝手な振る舞いは、他者を思いやらずに自分のことだけを考えているので、自然法則に反しています。

利己的な行いをして全体の調和を乱してしまうと、自然法則の働きによって、苦痛を伴う出来事が起きるようになっています。



全ての人は、小さな神を宿しています。

神は良心となって、私たちの心に顕現しています。

自分勝手なことをしていると、友達の心にいる神が「いけない」と認識します。

すると、いけないことをする子を咎めたり、遠ざけたりします。

自然の成り行きで、仲間外れになります。

神は友達を通して、自分勝手な子を戒めています。



「わがままはいけない」と、いくら口で教えても、どうしてなのか子供には判りません。

頭で理解しようとしても難しいでしょう。



地上を生きる私たちには、肉体や精神(地上的な自我)が存在しています。

外部から打撃や侵襲を受けて、肉体に苦痛を感じると、それを回避する行動を取ります。

仲間外れになり、精神的に苦痛を感じると、わがままな部分に気付いて、それ改めようとします。

自分だけでなく、周りの人のことまで考えるようなります。



私たちが死んだ後に赴く世界では、そのような苦痛が存在しません。

たくさんの自然法則を、効率よく学ぶために、地上に生まれて来ています。



神の叡智は無限です。

私たちは永遠の時をかけて、自然法則の働きを学んでいます。

前回のブログにも書きましたが、16年ほど前、私は重い行政処分を受けました。

苦痛の体験を通して、大切なことを学びました。

日本の医療は保険制度によって成り立っていて、国民は保険証を持って病院を受診しています。

治療費の一部を患者さんが負担し、残りを医療機関は国などに請求します。

その時に、してはいけない請求をしてしまったのです。



本当の自分(魂)は「いけない」と訴えていました。

ところが、「誰もがやっていることだから問題はない」と、表に現れている意識(以下自我)は言い訳をしていました。

もちろんですが、誰もがやっていることではありません。



魂にある良心は、瞬間的に正しい答えを出しています。

自我はその答えを、都合の良い解釈、屁理屈を考えて、掻き消そうとしています。

良心と自我の間で対立が起きますが、それを精神的な葛藤として感じています。

どちらが勝つかで、その先の行動が決まります。



自分に嘘を付くとは、魂(良心)の訴えに従わずに、自我の要求に負けてしまうことです。

それが続いてしまうと、いつしか魂の訴えは聴こえなくなり、当然のことのようになってしまいます。

指し示す方向が困難であったり、自分の益にならくても、後悔しないために、良心の訴えに従うべきです。



自然法則の働きは、誰にも止められません。

正確無比に結果が生み出されます。

因果律が作動して、自分の過ちに気付き、償うための結果(出来事)が生じます。

私に処分の決定が出た時には、すでに霊的真理を受け入れていたので、不運を嘆いたり、憤りを感じることはありませんでした。

幸いなことに、真理によって無用な苦しみを感じずに済みました。



因果律が働いていることを、苦痛の中で学びました。

誰かに教えてもらったとしても、ここまで納得はしなかったでしょう。

自分にも良心と言う神がいて、それに抗っている自分がいることも判りました。

危機的な状況になって、魂が目を覚まし、そのことに気付きました。



ばれなければ、処罰を受けることはありませんでした。

そのまま一生を終えることになります。



しかしながら、自然法則に反した行いが見逃されることはありません。

オーラにしっかりと刻み込まれています。

死んだ後に、犯した罪と向き合うことになります。

この世の人生を総括する時に思い出し、罪の意識に苛まれ、後悔をすることになります。

そうなるよりも、この世を生きているうちに結果が生じて、苦しくても償った方が良いと思います。



自然法則の働きを知らないと、平気で過ちを犯してしまいます。

SNSなどで特定の人を誹謗中諸しているのが時々ニュースになります。

法律に抵触しない限り、罰せられることはありません。

ほとんどは匿名であり、陰に隠れて陰湿な言葉を投げかけます。

初めての時、良心が咎めたはずですが、我欲に負けて文章を書いてしまったと考えられます。

同じことを繰り返してるうちに、次第に良心の訴えは聴こえなくなります。

そんなことなどすっかり忘れてしまい、やがて死ぬ時が来ます。



忘れていた数々の行為が映し出され、その時の自分の想いを思い出す時がやって来ます。

誹謗中傷をしている自分の姿を見ることになります。

その行為を受けた人がどうなったかも見せられます。(アカシアックレコードを介してと考えています)

人の心を傷つけていたのを知り、犯した罪を自覚します。

もし死んでしまったのなら、大きな罪の意識に苛まれるのは避けられないでしょう。



人は、霊的に成長するために生きています。

犯した罪を償わなければ、成長は許されません。

生命にとって成長が許されないのは、自由を奪われる以上の苦しみと考えられます。



この世で罪が償われなかったのなら、来世で償われます。

おおよその人生が計画されますが、その中に償いのための出来事が組み込まれます。

それを承知して、この世に生まれて来ます。



ある日、何の前触れもなく、予定されていた出来事が起こります。

原因は見つかるはずもなく、「何で自分が」と思ってしまうでしょう。



過去に自然法則に反した行いがないのにもかかわらず、苦痛を伴う出来事が起きることもあります。

そんな時は罪の償いではなく、魂がより高みを目指して、出来事を経験することを望んでいたと考えられます。

もちろん、生まれる前の自分は承知しています。



同じ出来事であっても、償いのための時もあれば、さらに成長するために起きている時もあります。

1つの人生で、償いと成長を同時に行う時もあると考えています。



償いのため時と成長のための時では、何か違いがあるのでしょうか?

誹謗中傷した人は、次の人生で何らかの出来事が起きて、人に非難されたり、社会から糾弾されるようになるかもしれません。

受け入れられずに、運のせいや、人や社会のせいにしてしまい、そこから何も学ぶことができないのかもしれません。

怒りなどの感情が生まれて、余計に苦しむことになるでしょう。

その苦しみが、罪の償いにつながっていると考えます。



一方、成長のためであれば、何らかの法則(叡智)を学ぶはずです。

意味や目的を見い出し、苦しみは大幅に軽減されるはずです。

出来事を乗り越えて行く中で、生まれて来た目的の1つが成就されて行きます。



人生を遠回りをしないためには、法則に従うことが大切です。

法則がどんなものなのかは、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に書いてありますので、読んで下さい。

今、その時間がないのであれば、良心の訴えに忠実に行動しましょう。

人や社会や動物のためになることを心がけましょう。

そう生きていれば間違いはありません。



2022年1月2日日曜日

霊的真理を伝える

明けましておめでとうございます。

元旦の朝、いつも犬の散歩で立ち寄る小さな神社に初詣をしました。

町内の人が集まっていて、参拝者にみかんを配っていました。

そこで、今年もこのブログが上手く書けるようにと祈りました。



神社には、神様や霊が祀られています。

「霊」とは一体何なのか?

子供の頃、霊とは幽霊のことでした。

「四谷怪談」などの映画に出て来る幽霊は、怒りや恨みを抱いていました。

テレビでは、心霊写真を見せたり、怪奇(心霊)現象を取り上げる番組をやっていました。

いつしか、霊は怖いものと思うようになっていました。



あるテレビ番組で、霊能者が出演者のプライベートなことや、背後にいる視えない存在の姿形を言っていました。

出演者のリアクションから、嘘ではなさそうな気がしましたが、それによって霊の存在を信じたわけではありません。

私にとって娯楽の一部に過ぎませんでした。



現実社会を上手く生きようと考えていた私には、霊が存在するかどうかなど、どうでも良いことでした。

死んだ後のことなど、知ろうとも思いませんでした。

仕事さえ上手く行けば人生は全て上手く行く、そんな気がしていました。



2006年6月のある朝のことです。

左手がビリビリと痺れているのに気付きました。

体から上肢、前腕、そして指先へと何かが流れているのをはっきりと自覚しました。

何が起きたのだろう?と、少し興奮しました。



それは病気を癒す力でした。

その力の正体を知りたくて、辿り着いたのが「シルバーバーチの霊訓」でした。

「病気を治す以上に大切なのは魂を目覚めさせること」

ヒーリングの目的がそこに書いてありましたが、その意味が全く判りませんでした。



ほどなくして、自分の中心にあった仕事で不祥事が起こりました。

やましいことはしていないので、大丈夫だと思っていました。

ところが、事態は悪い方向へと進んで行きます。

精神的に追い込まれて行くのに従って、シルバーバーチの霊訓を食い入るように読むようになっていました。



約1年後、恐れていたことが現実となりました。

想定された中で、最も重い処分が下されました。

シルバーバーチの霊訓に書いてあった「因果律の働き」を思い知らされました。

明日をも知れぬ日々が始まりました。



絶望の中で、シルバーバーチの霊訓に書いてあった2つの言葉が生きる支えになりました。

それは「乗り越えられない困難は与えられない」であり、「(つらい時は)真理にしがみつきなさい」でした。



これまで経験したことのない、つらい状況が続く中で、縁のある人たちにヒーリングを行っていました。

手を当てると、霊力が流れて行き、受けている人の顔に生気が戻る様子を目の当たりにしました。

病気が癒されることに、ささやかな悦びを感じました。



未知の力が存在していることは、私の中では疑いようもない事実となりました。

ただ、霊や死後の世界の存在は、その時点では確証がないために、心から信じるのには至っていませんでした。



受けた処分に付帯して、一定の期間、仕事ができなくなりました。

その期間に仕事に関わることをする、例えば患者さんの相談に乗ったりしてしまうと、免許を失います。

完全に仕事から離れなければいけません。

何もすることのない自分がいました。



何かボランティアをしようと思いました。

体の不自由な人のためにお手伝いしたいと考え、車で20分位のところにある身体障がい者施設に行くことにしました。

そこで、朝から夕方まで、入所者の身の周りのお世話をしました。

障がいの程度はさまざまで、指の本数が少ない人から、全く身体を動かせない人までいました。

知的障がいのある人もいて、両方の障がいを持っている人もたくさんいました。



入所者の中に、20才の青年のY君がいました。

彼は小学生の時に交通事故に遭いました。

生死の境をさまよった末に、一命を取り留めましたが、重度の身体障がいと、知的障がいが残りました。

介助型の車いすで生活をしていて、動かせるのは片方の手だけです。

5,6歳程度の言語の理解力があるようで、こちらが言っていることは大体判りますが、話すことは全くできません。

親しくなり、いろいろなことを話すようになりました。



ある日、霊的真理に関する話をしてみました。

「今は体は動かせないけど、動かせるようになる時が来て、自由にどこでも行けるようになるよ」と伝えました。

意味が良く判らなかったのか、ポカンとした顔をしていました。



時々、お父さんが昼食を持って会いに来ていました。

Y君のように家族と会えたり、短い期間ですが家に帰れる人もいれば、その機会が全くない人もいます。

会いに来てくれるお父さんのことが大好きで、きっと感謝の気持ちを伝えたいだろうと思いました。

「お父さんにありがとうと伝えたい?」と尋ねると、涙を流しながらしきりに頷いていました。



見た目は違っても、本質は健常者と何も変わりません。

心身に障がいがあっても、魂とは無関係です。

1番大切なものが良く判っています。

通うようになって、そのことに気付きました。



自分の想いが伝えられないこと、受けるばかりで何も返せないのが、いかにつらいものなのかを実感しました。

「ずっと先になるけど、何でも伝えられるようになる。その時にいくらでもお父さんにお返しができるよ。」と伝えました。

すると、みるみる表情が明るくなり、大きな声をあげて喜んでいました。



真理を伝えると、喜んでくれる人がいます。

伝えることで、私自身も喜びを感じました。

霊のことなどどうでも良かった私が、霊的なことを人に伝えるようになるとは、夢にも思いませんでした。

気付かないだけで、真理を必要としている人は、世の中にたくさんいることを知りました。



それから数年後のことです。

悲惨な交通事故の様子が、ニュースで流れていました。

犯罪にも等しい加害者の運転により、幼い兄弟が犠牲になりました。

同乗して怪我をしていた、ご両親のショックは計り知れません。(詳細は伏せさせていただきます)



事故からしばらくして、ニュースでご両親の姿が映っていました。

信じられないことに、深い悲しみの中にいるご両親を誹謗中傷する人がいるのです。

お父さんの目はうつろになり、生きる気力がほとんど失われているように見えました。



何とかならないかと思い、お父さんを癒すためにヒーリングを申し出る手紙を、代理人の弁護士を通して渡してもらうことにしました。

それに「シルバーバーチの霊訓(1)」も添えました。



それから数年後に、仕事でご両親の住む街を訪れる機会がありました。

お世話になった弁護士に、その時のお礼を言いに行きました。

あいにく留守だったので、戻る時間まで街を散策することにしました。



街の真ん中に、大きな神社がありました。

境内の長椅子に腰かけて、少しの間、休むことにしました。



しばらくすると、頭の中に言葉がどんどん浮かんで来ました。

自分の思考とは明らかに違います。

考えるのではなく、浮かんで来るのです。

その内容から、事故で亡くなったお子さんから、ご両親へ向けてのメッセージであることが直ぐに判りました。

伝わって来たメッセージには、ご両親のことを想う気持ちが込められていました。

幼い子が親を慰めているのです。

その想いに私の魂も共鳴して、しばらくの間、涙が止まりませんでした。



言葉をつなげると、ちょっとした手紙のようになり、便せんに書きました。

再び事務所を訪れて、それを弁護士に手渡しました。

渡す瞬間に、同じ部屋に視えない何者かがいる気配を感じていました。



それから1週間ほど経ったでしょうか。

ご両親がニュースに出ていました。

加害者に起こしていた民事訴訟を取り下げていました。

記者会見の席でお母さんは、「(亡くなったお子さんたちと)一緒に生きている」と、明るい表情で語っていました。

それを聞いた瞬間、あのメッセージがご両親の魂に届いたと直感しました。

うれしくなり、思わず神に向かい感謝をしました。



以前、渡したシルバーバーチの霊訓を読まれていたと思います。

つらく悲しい日々の中で、魂が目覚めかけていたと思います。

お子さんたちが生きていることを確信し、それにより自分を許すことができて、加害者を許すことができたと思いました。

もし、自分が同じ立場だったとしたら、許せるのか自信がありません。

すごい人だと、思わずにいられませんでした。



奇跡のように感じましたが、霊界で立てられた計画通りに遂行されたと、今は思います。

この様なことがいくつか重なり、私自身も霊と霊界の存在を確信することになります。



このブログを開設して、多くの人と知り合うことができました。

この世には、人知れず深い悲しみや大きな苦しみを抱えている人がいて、修行の場であると改めて感じました。

やり取りを通して、実にたくさんのことを学びました。

そして、霊界の導きが存在することが、はっきりと判りました。



必要とされるのは、知識の深さではありません。

真実を伝えようとする想いです。

その想いに霊界が感応して、必要としている人が導かれて来たり、こちらから赴くようになります。

偶然ではなく、全て因果律の働きによるものです。



想いさえあれば、後は霊界が何とかしてくれます。

信頼して身を任せていれば良いのです。

逆に言うと、想いがなければ、霊界は動きようがなく、その機会は訪れることはありません。



コロナ禍ではありますが、真理を知った時の想いに立ち返り、今年は動いてみようと思います。

必要としている人がいると思います。

そこに学びもあるはずです。


ブログを観ていただいている方にとって、有意義な1年になることを願っています。