2020年2月16日日曜日

信じることで愛することができる



仲の良い先輩が、ガンで奥様を亡くされました。

仕事で成功し、友人知人もたくさんいたのですが、葬式は行われませんでした。

月に1度は、研修会でお会いしていましたが、しばらくの間、姿を見せていませんでした。

明るく、社交的な人ですが、きっと誰にも会いたくないのだろうと思いました。




久しぶりに、先輩が研修会に出てきました。

いつもと変わりないように見えましたが、心の中はわかりません。

今があるのは奥様のお陰と言っても良く、苦楽を共にして歩まれた日々を思うと、かけがえのない人を失った衝撃や喪失感は、計り知れません。




親しくしていたので、自分が持っている霊的な知識を、どうしても伝えたくなりました。

しかし、霊的なことなど関心がなく、仕事でも人一倍エビデンス(根拠)にこだわっている人なので、どう受け取るのかが心配でした。

それでも、奥様も望んでいると考え、思い切って伝えてみました。

生きている」「また会える」そんな話が出てびっくりしたでしょうが、一瞬でしたが顔がほころびました。

また会えるのか?もう会えないのか? 先輩も気になっていると感じました。



また会えるのは確実です。

この世界に私たちが生きているのが真実であるように、向こうの世界で故人が生きているのもまた真実です。

何を根拠にと、いぶかしがる人がいるでしょう。

客観的な根拠が示されないのは、それなりの理由があってのことです。




この世を去る時に、親愛の想いがあれば、必ず出迎えてくれます。

向こうに行くと、それまで両者を隔てていた障壁が全てなくなります。

肉体がなくなるのと同時に五感は消滅し、霊的な感覚だけになり、今まで視えなかった姿を、はっきりと認識できるようになります。



向こうにいる人たちは、この世にいる人をずっと見続けていたので、別段、驚くことはないのかもしれません。

けれども、この世にいた人は、久しぶりに視る姿に感激するでしょう。

待ちこがれていた再会の悦びに酔いしれます。




向こうの世界のことは、向こうの人から送られて来る通信によって、一部を知ることが出来ます。

向こうに行った直後は、地上の習慣がまだ残っているようです。

肉体はもうないのに、お腹が空く感覚もあるようです。

この世でお腹が空いたら、食料を買って調理して、食べます。

想い(欲求)肉体を動かして、実現しなければいけません。




向こうは思念の世界です。

思念が直接具現化されます。

想像するのが難しいのですが、食べたいと想えば、食べたいものが直ぐ目の前に現れます。

車に乗りたいと想えば、思念によって創られた車が現れます。

お金が欲しいと想えば、いくらでもお金が現れます。

ただ向こうの世界では何の価値もないので、欲しがる人はあまりいません。

新しい環境になれたら、言葉を超えた思念のやり取りをする、いわゆる以心伝心の状態となります。




向こうの人から視えるのは、この世の人の肉体(物質)ではなく、魂(霊体)とそこから生じている思念(想い)です。

想いは、様々な色彩の光となって放たれています。

色彩から想いが知れるので、語らずともこの世の人が自分のことをどう想っているのかが判っています。




その想いに応えて、自分の想いを伝えようとするのですが、この世の人は感応しません。

全く気付いてもらえないことに、愕然とするようです。




この世の人は、五感を通して外部から情報を入手しています。

けれども思念は五感によって感じられるものではありません。

伝えようとした思念は、この世の人を素通りしてしまうことがほとんどです。




携帯電話で、自分がしゃべっている時に、相手の話を聴き取れるでしょうか?

この世の人から思念が出ている時に、向こうから送られている思念を受け取るのは難しくなります。

悲しみの思念が溢れ出ている時は、向こうの人にとっては、きっと「電波の届かない状態になっています」なのでしょう。

死んだらおしまいと思っている人は、「電源を切っている」のと同じかもしれません。

五感から入る情報が溢れ、頭脳を働かせている日常は、騒音の中で携帯電話をしているようなものです。

この世の人は、様々な要因により霊的な感度がきわめて低くなっています。

向こうの人が何も伝えてくれないのではなく、伝えようとしているけれども、この世の人が条件を整えてくれないために、伝わっていないだけと考えられます

それでは、伝えようとしている思念を、受け取るためにはどうすれば良いのでしょうか?




魂の存在を心から信じる、全てはここから始まります。

信じていなければ、向こうにいる人は存在しないのと同じです。

んなに思念を伝えようとしても、この世の人の魂に届くことはありません



この世では、心が通い合わなくても、言葉があるのでコミュニケーションは可能です。

向こうの世界は違います。

心が通い合って、初めて同調が成立し、想いが通じ合います。



この世から愛する人がいなくなれば、嘆き悲しみます。

姿は視えず、声も聴けず、触れることもできないのであれば、存在自体が消滅してしまったと錯覚しても無理はないのかもしれません。



しかし、現実は違います

人間の本質は、肉体ではなく魂です。

魂とは生命です。

識であり心です。

肉体が失われた以外、何も変わっていません。



巨大な星が寿命を迎えると大爆発を起こして、ブラックホールになると言われています。

星そのものは消えて視えなくなりますが、物質を引き寄せる力(重力)は変わらずに存在しています。

人間も同じように感じがしています。

死によって肉体は消えてなくなっても、魂を引き寄せる力は変わらずに存在しています。



魂を引き寄せる霊的な力、それが愛です。

愛が存在しなければ、宇宙は無機的なものとなり、全ての生命は孤立した存在となります。

愛によって、魂と魂は引き寄せられ、つながろうとします。



姿が視えなくなっても、愛があれば再びつながることは可能です。

そのために、どうしても必要なことがあります。

それは、今も愛されていると信じることです。



愛は魂から生じています。

愛は霊的次元の存在なので、物質的次元のこの世で証明するのは不可能です。



証明されないものは、信じるしかありません。

愛されていたのが確かであれば、それが今も継続してると考えるのが自然であり、信じることは、それほど難しくはないはずです。



心から信じることにより、魂と魂の間に「導線」が張られます。

その導線を通して、想いが通い合います。



信じることは、受動的なものではなく、能動的なものです。

証拠が示されないから信じないのではなく、たとえ証拠が示されなくても信じるように努めなければなりません。

信じてもらえない、悲しみ、苦しみ、落胆は、この世の人には想像も付きません。

あれほど想いを通い合わせていた人を、視えなくなったからと言って信じなくなってしまうのは、厳しい表現になりますが、裏切り行為です。

残された人にとって、また会えるのか、それとも2度と会えないかのかは、大きな問題です。

同じく、信じてもらえるのか、もらえないのかは、向こうにいる人にとって大きな問題です。

なぜなら、再びつながり、導くための生命線となるからです。



2度と会えないと思うと、耐え難い苦しみが生じることがあります。

その苦しみは、過った認識や考えを変えるため、自然法則の働きによって生じています。

魂そして愛が死によって、いささかも損なわれないのは真実です。

そのことを信じるよう、苦しみが促しています。

苦しみを通して、私たちを真実へと導いています。



何故、自分を置いて逝ってしまったのか?

はっきりとした理由は向こうに行かなければ判りませんが、魂の学びや成長に関わっているのは確かです。

同次元で生きている時は、余程のことがない限り、信じ合うことの大切さ気付けません。

当たり前のように享受しているからです。

あえて信じ合わなくても、肉体がそこに存在し、一緒にいれば安心感が得られます。



どちらかが先に亡くなると、当たり前のように享受していた信じ合う関係が、一時的に崩壊します。

導線はなくなり、両者の間に断絶が生じます。

そして、想いが通い合わなくなります。

向けるべき対象を失った愛は悲しみに変わり、大きな不安を感じます。



再び想いが通い合うようになるためには、この世の人に信じることが要求されます。

肉体がなくなった人は、今、思念の世界に生きています。

信じることで、この世の人の思念の中で、蘇ることができます。

それは、頭で想像したり、思い出したりする、精神的活動とは全く違います。

信じることは、神の摂理に適った霊的な行いであり、思念の世界において蘇り、つながることが許されます。



向こうの人の想いは、この世の人と同じです。

もう1度愛されたいのです。

蘇った人を、再び愛することが出来たのならば、今の悲しみ、苦しみから解放されるはずです。






この世界で最も大切なものは何でしょうか?

愛し合うこと以上に大切なものは存在しません。

そのことを学ぶために、この世に生まれ、様々な経験をしていると言っても過言ではありません。

別れ以上に、深く学ぶ経験はありません。

魂に刻み込むために、この経験が、どこかの人生で必要と考えられます。




視えなくても、想いを信じて生きる。

長い時をかけて、両者のつながりは揺るぎのないものになって行きます。

再会した瞬間、生前よりもはるかに強く結ばれていて、判り合えていることに気付くでしょう。




最も偉大な力は、愛です。

愛によってのみ、魂と魂は結ばれます。

信じ合うことなしに、愛し合うことは出来ません。

元を超えて信じ合うのは、より強い愛で結ばれるためです。





2020年2月2日日曜日

カルマについて


小学校6年生の時です。

担任の先生が、自由に好きなことを書いて良いと、1冊の大学ノートを生徒に手渡しました。

生徒が書いた文章に対し先生がコメントをして、また別の生徒に渡すことを繰り返し、クラス全員を把握しながら親睦を図ろうとしていたようです。

しばらくして、私のところに回って来ました。

書いた内容はすっかり忘れてしまいましたが、何を思ったのか、他の子が書いた文章の一部に、クラスメートのあだなをいたずら書きをしてしまいました。



後日、それが先生の目に留まりました。

ホームルームの時、普段は温和な先生が、一転して険しい表情になり「誰が落書きをしたんだ、名乗り出なさい!」と、厳しい口調で言いました。

いつもと違う張り詰めた雰囲気が教室中に漂い、怖くなってしまった私は、手を挙げそびれてしまいました。

そして、先生は名乗りでるまで授業を受けさせないと告げて、別室に集められました。

自分のせいで、えらいことになったと、大いに焦りました。

みんなは授業を受けなくて良くなったので楽しそうにしていたのですが、私はそれどころではありません。

後悔やら懺悔やら、苦しい心境に徐々に追い込まれ行きました。

どれ位の時間が経過したでのしょうか、いたたまれなくなり、ついに先生の所に「ごめんなさい。私が書きました。」と告白しに行きました。

怒られるのは判っているのに、何故かホッと安心したのを覚えています。

悪いことをして、しらばっくれていても苦しいだけ、そんなことを学んだと思います。



もし、告白しなかったとしたらどうでしょう。

確たる証拠がないので、先生も諦めざるを得なかったと考えられます。

その時は、上手く切り抜けられたとホッとしたでしょうが悪いことをしても、言わなければ何とかなる、そう思ってしまったかもしれません。

このままではいけないと、何かが訴えていました。



悪いことをしたら、苦しい思いや痛い思いをして正す、これは神の法則である「因果律」の働きによるものです。

全ての言動は、神の摂理(自然法則)に照らし合わされ、その善悪が判断されています。

神の摂理は道徳や法律とは全く違い普遍的であり、正確無比に働きます。



善因善果、悪因悪果、全て自分に返って来るのは紛れもない事実です。

しかし、全部が小学生の時の私のように、直ぐに返って来るわけではありません。

それまでの間、カルマ(業)と言う形で、魂に刻まれたままの状態となっています。

自分の意思とは関係なく、その人にとって最善のタイミングで、「結果」となって返って来ます。



人生では、降って湧いたような出来事が起こります。

記憶をたどり、原因がどうしても見つからなければ、偶然として片付けてしまうことが多いです。

そんな時は、この世に生まれる前(過去生)に原因があるのかもしれません。



過去生の原因が判れば、少しは納得出来るのでしょうが、無限の叡智の働きによって、明かされていないと考えられます。

もし、過去生で何らか過ちを犯して、今生で償うために出来事が起きているのであれば、それは思い出したくない事象であるのに違いありません。

どうしても認めたくない人もいるでしょう。

明かされるところまで、まだ人間は進化していないと考えられます。



明かされなくても、多少の推測は可能かもしれません。

もし、自分のことだけしか考えずに、我がまま放題で、差別的なことを繰り返す人生を歩んだ人がいたとします。

利己的な言動は、神の摂理に反しているためカルマとなります。

この世で神の摂理の働きが判らなくても、死んで次の世界に行くと、如実に感じられるようになります。

自分の人生は間違っていたと気付き、深く後悔をするでしょう。

そんな人は、後悔を晴らし、積もり積もったカルマを償うために、もう1度地上に生まれて来ることになると思います。

今度は差別を受ける環境に生まれ、自分がした行為を他者から受ける、そんな人生を選ぶ可能性が高いと考えられます。

利己的な言動は他者を苦しめ、差別をすると人が傷つくことが、否応なしに判るからです。



その様な人生を拒否する自由も残されています。

しかし、償いをせず、カルマが魂に刻まれたままでは、成長することは許されません。

成長して行くのは、人間の根源的欲求です。

それが許されないのは、生きる意味が大きく損なわれていることになり、耐え難い苦痛を感じると考えられます。

学校で自分だけが同じ学年に留まり、周りの友達が進級して行くのを、傍観しているような気持ちなのかもしれません。

牢獄に入れられ、身体の自由を奪われるよりも、堪えるのかもしれません。

過酷な人生になると判っていても、後悔を晴らし、成長して行くために、覚悟を決めて生まれて来るのでしょう。



償いは、同時に魂の学びとなっています。

苦痛を伴う経験によって、カルマに代わって神の摂理(自然法則)の働きが魂に刻み込まれて、それ以降、背くことはなくなるでしょう。

本を読むより、人から諭されるより、実体験した方がはるかに身に付きます。



カルマによる苦痛は、自分の歪みを根本から正すためにあります。

相応の償いが終わり、カルマが消滅したのなら、苦痛から解放されると考えられます。

人間のすることには限度があり、償ない切れない罪を犯すことはありません。

従って、終わりのない苦痛は存在しません。



カルマは神の摂理に反する行い、言い方を変えると愛に反する行いによって生じます。

全ての人に良心が備わっています。

良心とは、自由意思のある人間に無用なカルマを生じさせないようにする、神の監視装置です。

私が小学生の時、怒られるのが判っていても告白したのは、良心の働きによるものであり、その先で、もっと大きな過ちを犯すのを防いでくれたと思います。

さらに、地上の人には守護霊が付いています。

守護霊は、地上の人の霊的な成長を願っているので、カルマを作りそうになると阻止するように働きかけていると考えられます。

「やってはいけない!」

心の中にこんな声が響いたら、素直に従うべきです。



カルマは、霊的な負債です。

現実社会で、負債を背負ったのであれば、何とかして返さなければいけません。

もし、たくさんの負債があり、それを返して行けば、生活が苦しくなるのは当然です。

返済期間を短くするために、苦しくてもたくさんの負債を返す人もいるでしょう。

霊的な負債に利息は付きませんが、今、とても苦しい思いをしている人は、カルマの返済を少しでも早く済ませようとしているのかもしれません。



神の摂理は、機械的に働いており、その公平さは完全です。

余分に苦しめたり、罪が減免されることはありません。

よって、苦しみから逃れられるために、神に願ったとしても叶いません。



けれども、こうは考えられます。

もし、摂理に反する行いで苦しみが生じているのであれば、摂理に適った行いをすることにより相償われるのではないかと。



神の摂理に適った行いとは、神の心を表現することです。

人や動物、あるいは社会が喜ぶような行いをしたのならば、等価の罪が償われ、償いの期間は短くなると思います。

しかし、行為には常に動機が問われています。

苦しみから逃れるための行いであれば、その動機は利己的なので、純粋な奉仕として数えられないと考えられます。

苦しみや痛みの経験を通して、他者に対し哀れみや同情が生まれて、何とかしてやろうと思い行動したのであれば、それは神の摂理に適っていると思います。

他者を想う気持ちが込められていれば良いと思います。

日常生活の中でも、ごく自然に親切にしたり、優しくしたり、助けたりするのも、カルマの返済につながっていると思います。

言ったこと、行ったこと以外に、想ったことにも神の摂理は働いています。

人や動物や社会の幸福や平和を心から祈るのも、決して無駄にはならないと思います。



ある宗教の教えを信じれば、カルマがなくなるようなことはありません。

祈祷により、カルマが消滅することもありません。

自分で作ったものは、自分で返すしかありません。



カルマを解消するために、この世に生まれて来た人は少なくないようです。

この世で作った借りは、この世でしか返せないのだと思います。

霊的なことに興味がなかった私がこんな文章を書いているのも、何か理由があるはずです。

今生の役目として志願していたのかもしれませんが、過去生で何か間違ったこと伝えてしまいカルマを作り、その償いをしているのかもしれません。

それぞれの人生に、窺い知れない原因(目的)があるのは確かです。



私がボランティアで通っていた障害者施設には、身体を全く動かせないを人がいました。

身じろぎもせず、ベッドの上で一生を過ごすことになります。

その姿を見て、前世で過ちを犯したから、償いのためにこの様な身体が与えられたと思う人がいるかもしれません。

しかし、そうとは限りません。

過酷な人生を選んで、敢えて向上した魂が宿る場合もあります。

どちらにせよ、自らの学びや成長と深く関わっているのは間違いありません。



また、幼い時に交通事故に遭い、心身に重い障害が残った人がいました。

事故は因果律の働きによって起きたのは間違いありませんが、霊的次元に原因があるとは限りません。

カルマによって事故が引き起こされたと考えるのは、余りにも失礼で強引な考えです。

自分に過失のない出来事により、時に大きな苦痛が生じることがありますが、それに対して霊的な埋め合わせがあります。




原因のない苦痛は存在しません。

他者や世の中のせいにしても、怒りや恨みの想いが生まれて、余計に苦しむだけです。

不運を嘆いても、ため息が出るだけです。




現在の自分は、これまでの人生の結果です。

納得する原因がこれまでの人生にあり、いづれ明らかになります。

今は判らなくても、この苦痛は自分のためにあり、終わる時が必ず来ると、強く信じて下さい





地上の人は未熟なため、大小さまざまなカルマを作りながら生きています

それにより生じた苦痛が学びとなり、成長へとつながっています。

熟なもの同士が、苦しみや痛みを共有しながら、助け合い、励まし合って生きることに、地上に存在する大きな意味があると思います。