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2017年4月16日日曜日

霊的な病気について



現代医学でも、多くの病気は、精神(心)と密接な関係があると考えるようになってきました。

昔から、胃潰瘍はストレスにより起こることが知られていましたが、現在は、高血圧症やぜんそく、アトピー性皮膚炎なども、精神的な要因によっても引き起こされると言われています。



一般的に、人間は目に見える肉体と、目に見えない精神から成り立っていると考えられています。

実際は、精神の上位に魂(霊)が存在しています。

3者は密接につながり、連携しながら活動しており、魂が精神を支配し、精神は肉体に命令を下しています。

原因が未だ明らかにされていないガンや膠原病などの病気は、目に見えない魂(霊的次元)に、根本原因があると考えています。



では、なぜ霊的次元にある原因が、心身に変化をもたらすのでしょうか?

肉体は、口から入る食物によってエネルギーを摂取して活動していますが、目に見えない魂と精神は、それとは別系統の生命力(霊力)によって活動しています。

魂は、生命力の始源(神)とつながっていて、絶えず生命(霊)力が流れ込んでいます。



私たちは、この世でさまざまな出来事を経験します。

出来事が起こると、さまざまな想いが生まれます。

悦び、悲しみ、怒りなどの想いは、魂から生じていて、精神を経由して、肉体で言葉や表情あるいは行いとなって表現されています。

想いは、肉体で表現される元となる力であり、魂から精神、精神から肉体へと、それぞれの次元に変換されながら流れて行きます。

3者が一直線で結ばれ、肉体に滞りなく力が行き渡って、(肉体的)表現がされている状態が健康と考えられます。



生じた想いが、そのまま肉体で表現されているのであれば、病気になりにくいと思われます。

しかし、想いとは全く違うものを、精神(自我)が命令し、肉体で表現し続ければ、3者の間に、不調和が生じてしまうと考えられます。

具体的に言えば、憎しみを抱いている人に、愛情表現を続けたら、想いと行動が一致していないので、心身を病んでしまう可能性があります。

動物が大好きな人が、殺処分を開始する機械のボタンを毎日押し続けたとしら、病気になってしまうと思います。



また、自分の想ったことが言い表せなかったり、行動が出来なかったりしても、不調和が生じてしまうと考えられます。

他者から、精神的、肉体的暴力を受け続けて、何も言い返せなかったり、逃げ出せなければ、内に想いが滞ってしまい、病気になり易いと思います。

生じた想いが小さなものであっても、長い間、押し殺し続けてしまえば次第に大きなものとなり、不調和が生じて、病気になり易いと思います。



大変稀ですが、熱心なキリスト教信者に聖痕(スティグマ)が現れることがありますが、強い想いが、肉体上に変化を起こしていると考えられます。

その現象は、想いは肉体上に変化を起こす力であることを、物語っていると思います。

魂から生じた想いは、肉体的次元で表現されて、解放されています。

しかし、何らかの理由によって、表現されなければ、霊的次元に滞ってしまいます。

肉体は魂(霊)を表現している媒体です。

霊的次元で起きている変化は、肉体的次元の変化として反映されます。

表現されなかった想いは霊的次元の変化として、肉体的次元において組織を変化させたり、機能異常を起こしていると考えられます。

肉体上の病気と言う、別の形となって、想いは表現されていると考えられます。



今、日本人の2人に1人がガンになります。

高齢化社会になったとは言え、医学が発達した現在、この割合はあまりにも多いと思います。

一般的に、発ガン物質や放射線、あるいは遺伝因子によって細胞分裂時のコピーミスが起こり、無秩序に増殖を繰り返すようなガン細胞が生み出されると言われています。

タバコを吸ったり、放射線を被爆するとガンの発生リスクが高まるのは、周知の事実です。

最近の研究で、ガンになり易い性格(気質)があるらしいことが判ってきました。

L・テモショック、H・ドレイアというアメリカの心理学者が、150人以上のメラノーマ(悪性黒色腫)患者を面接し、その約4分の3に、以下のような共通の性格的特徴があることを認めたそうです。

1.怒りを表出しない。過去においても現在においても、怒りの感情に気付かないことが多い。

2.ほかのネガティブな感情、すなわち不安、恐れ、悲しみも経験したり表出したりしない。

3.仕事や人づきあい、家族関係において、忍耐強く、控えめで、協力的で譲歩を厭わない。権威に対し従順である。

4.他人の要求を満たそうと気をつかいすぎ、自分の要求は十分に満たそうとしない。極端に自己犠牲的になることが多い。

メラノーマ(ガン)になった人は、怒りの感情に気付かないことが多く、怒りなどのネガティブな想いがあったとしても表現しない傾向がありそうです。

つまり、怒りや恐れなどが生じても、上手く表現できずに、内に溜めてしまった人が、ガンになり易いと言えます。

もう一歩踏み込んで、内に溜まっていた想いが、ガンを発生させる原因となっていると考えるのは行き過ぎなのでしょうか。



ガンの本体は霊的次元に存在する、表現されなかった想いであり、長い年月をかけて蓄積した怒りなどの(摂理に反した)想いが、攻撃的で暴力的な細胞に変化させる力となっている可能性があります。

そのために感情と連動していて、強い怒りや憎しみが生じた時には、活性化してより攻撃的な組織に変化すると考えられます。

強い恐怖や不安なども、ガンの元となる想いであるため、怖れや不安を感じた時には連動して、ガンは活性化すると考えられます。



多くの人は、肉体に起こった変化に恐怖や不安を感じて、病変を消滅させようとしますが、その行為が攻撃的で暴力的であるため、ガンを活性化させていると思います。

もし、何者かに攻撃をされれば、自己を守るために、反撃に出ると思いますが、同じことがガンに起きていると思います。

こちらから攻撃をすれば、因果律の働きにより、さらに攻撃的な組織に豹変する可能性があるので、厳重な注意が必要です。

霊的次元の想いが、肉体次元の病変となって反映されていることを忘れてはいけません。

消滅させようとする攻撃的な想いを抱いたならば、その想いがより攻撃的な組織に変えてしまう力になると考えられます。

抗ガン剤を投与したり、放射線を照射して消滅させようとしても、攻撃性が増してしまうだけであり、一時的に病変が縮小したように見えても、より強い攻撃的な組織となって、失地を回復して来るのは目に見えていると思われます。

ガンと闘おうとする想いは、ガンに生命力を与えてしまっています。、

ガンと闘えば、自分と闘ってしまうことになり、損傷を受けてしまうのは自分です。

ガンを消滅させようとする行為は、因果律の働きで、全て自分に苦痛として返って来てしまいます。

ガン患者さんは、肉食をしてはいけないと言われていますが、屠殺された時の、恐怖や怒りなどが残留思念として肉の中に残っていて、それが内に溜まっている想いに影響を与えていると仮定すれば、うなずけるのではないでしょうか。



膠原病の原因についても、未だに不明です。

膠原病は、外敵から守るためにある免疫機能が、自己を外敵とみなして攻撃している病気です。

私たちは(この世だけの)自我を作り、自分(魂)を守っています。

他人から、攻撃されても自我が壁となり、自分(魂)を守っています。

ところが、自我の未発達な幼少期には、他者からの攻撃により、容易に自分(魂)が傷つけられてしまいます。

未発達な時期に傷つけられると、それを防ぐために、自我の壁を高く張り巡らして、自分(魂)を守ろうとします。

また、愛情が不足していると、安心感が得られないために、守ろうとする意識が強くなり、自我を強固に作り上げていきます。

幼少期に自分(魂)を傷つけられたり、愛情が不足して、自我を強固に作り上げて行った人が、何らかの出来事により、自分を責めてしまう想いを抱き続けた時に、膠原病が生じてしまう可能性があると考えています。

霊的次元での様相は、肉体上に病態として反映されています。

自分(魂)を守るべき自我が、自分(魂)を責めてしまっている霊的次元での様相が、自己を守るためにある免疫機能が、自己を攻撃してしまう肉体的次元の病態として表現されていると考えられます。



内に滞った(摂理に反した)想いがあると、怒りや恐怖などの想いは生じやすくなります。

苦しくなるのは判っているのに、自分を責めてしまうこともあります。

それが常態化してしまい、魂の成長を著しく妨げてしまうほどになると、因果律が作動して、霊的次元の様相が肉体的次元の病気として表現されると考えています。

霊的次元で起きていることを、人は認識出来ません。

肉体的次元の変化として表現され、五感で判るようになって、はじめて気付くと考えられます。



では、ガンや膠原病になったらどうすればいいのでしょうか?

もちろん、全てのガンや膠原病が、霊的次元の原因によって生じているわけではありません。

けれども、もし霊的次元に原因があれば、その原因となっている想いを抱かないようにするのが、病状を安定させるために有効と思われます。

ガンを患っているのであれば、心穏やかに過ごすのが何より大切です。

怒りなどの想いが沸き上がらないように、寛容な気持ちを心がけた生活を送るべきと考えられます。

過去の出来事から生じていた強い恐怖や不安は、長い間、封印されたままになっていて、命にかかわる病気であるガンの恐怖や不安として表出していると考えられます。

ガンになって怖いのは、死ぬかもしれないと思うからですが、死ぬかもしれないと思うほどの出来事によって生じた想いが、内に溜まっていたのかもしれません。

恐怖や怖れを覚えても、時を経て過去の想いが表に出てきていると考えて、過剰に反応しないのが賢明と思われます。



疫学的な研究は存在しませんが、膠原病の人は、自分を責めてしまう、性格的傾向があると推察されます。

無防備な時に、愛を受けるべき人からの言動によって、魂が深く傷つけられ、それでも、要求や期待に応えようと、必死に生きてきた人がなり易いと考えられます。

期待に応えられなかった時や、愛を受けるべき人に激しく叱責された時に、強い自責の想いが生じてしいたと考えられます。

期待に応えようとする欲求が強く、達成できないと自分で自分を責めてしまう方向に向かいやすいことを自覚した方が良いと思います。

期待に応えようと必死になっている自分は、本当の自分ではありません。

人のことを気にし過ぎないように、強く自分を戒めて下さい。

自分を責めても、良いことは何1つありません。

人を責め過ぎてはいけないように、自分自身を責め過ぎてもいけないのです。



過去に生じていた想いがあるために、本当の自分(魂)の想いが表現できなかったり、自分の成長を妨げている想いが生じ続けている時に、病気が起きると思います。

霊的次元の病気とは、内にある想いに気付き、苦痛により魂が目覚めて成長し、その想いを解放するためにあります。

あるがままの自分でいられ、成長して行けるようになるために、霊的な病気は存在すると考えられます。



表現されずに滞っている想いは、魂から精神、精神から肉体へと行き渡っている生命力の流れを、阻害しています。

滞っている想いがあるために、本来の自分の想いが表現しにくくなってしまいます。

魂を成長させるような、愛情を表現をしようとしても、成長を妨げている想いが内にあると、その影響を受けて出来にくくなります。



物質的な力では、霊的な病気は治せません。

霊的な病気を根本的に治すためには、想いを解放したり、生じさせないようにするしかありません。

想いを解放させるには、解放させる想いを向けるしかありません。

生じさせないようにするには、自分に想いを向けるしかありません。

その想いは、愛です。



おまじないのようですが、

鏡の中にいる自分に向かって、「あなたのことが大好き」と、言ってみて下さい。

出来事が起きた当時の自分の写真を見つめながら、「もう大丈夫だから」と、その時の自分を安心させるように声をかけて下さい。

毎日、続けていると何らかの変化があるかもしれません。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」



2016年11月13日日曜日

不治の病について その3



病気の治療は、原因を突き止めることから始まります。

もし、原因を見つけられなければ、病気を根本的に治すのは不可能と思われます。

残念ながら、現代医学で原因が突き止められずに、根本的に治せない病気がたくさんあります。



人間は、肉体、精神、霊(魂)から成り立っていて、それぞれの次元に病気の原因は存在します。

しかしながら、医学は霊(魂)の存在を認めていません。

従って、霊的次元に原因がある病気は、原因不明とされてしまい、医学は有効な治療手段を持ち合わせていません。

原因不明の病気を根本的に治すためには、霊的な原因を見つけ出さなければいけないと思われます。



霊的次元の原因は、大きく2つに分けられると考えられます。

1つは生まれる前からあった原因と、もう1つは今生で生じた原因です。

生まれる前からあった原因に関しては、この世を生きている私たちには知りようもなく、また予め病気になることが決まっていたので、対応は難しいと考えられます。

今生で生じた原因については、しかるべき対応をすれば、病気は軽快してくる可能性があります。



今生で生じた主な霊的な原因として、私は過去の出来事から生じていた、表現できずに内に溜まっている「想い」と考えています。

もし、溜まっている想いが解放できたなら、肉体上の病気は癒されてくると思います。



想いを解放するとは、どのようなことなのでしょうか?

想いは魂から生まれていて、精神を経由して指令となり、肉体で表現されて完結します。

想いは、肉体的表現の素となる力と言っても良いと思います。

何らかの理由で肉体的表現が出来なかった想いは、消えてなくなるものではなく、内に溜まっていくと考えられます。

そして、時を経て因果律の働きにより、肉体上に変化を起こす力になり得ると考えています。

肉体上に起きた変化が病気であり、自分の内面に変化が起きていることを、この世の人に認識させています。



肉体上に変化を起こす想いは、自分の身に起きた出来事を、理解できなかったり、認められなかったり、許せなかった時に生じていると考えられます。

その想いは、自然法則(神の摂理)に反するものであり、魂が未熟なために生じてしまいますが、病気には償いとしての一側面があると考えられます。

(今生で原因が生じた)霊的な病気は、想いが溜まったため、自然法則の働きにより生じるものですが、実は、その想いを解放するための手段にもなっていると思われます。



理解に苦しむところですが、説明して行きます。

魂とは生命そのものであり、本当の自分です。

生まれたての赤ちゃんは魂で生きていますが、この世を生きているうちに、もう一人の自分(自我)を築き上げて行きます。

その自我を、本当の自分だと錯覚している人は、この世に数限りなくいると思います。

自我は、この世でより良く生きるため、本当の自分(魂)を守るために存在していますが、自我が強くなってしまうほど、本当の自分から生まれた想いを遮ってしまい、外に表せなくなってしまいます。

従って、自我が大きく、強い人ほど、自分の想いを内に溜めてしまう傾向にあると考えられます。



病気には苦痛が伴います。

病気の苦痛には、身体の異常を知らせる以外に、魂を目覚めさせると言う大切な目的があります。

魂が目覚めると、自我が後退し、それまで隠されていた想いが外に現れてきます。



病気は苦難であり、魂を成長させています。

肉体上に変化を起こす想いは、過去の出来事を理解できなかったり、認められなかったり、許せなかったために生じていますが、その後、さまざまな人生経験により、魂は成長しています。

若い時に看過できなかった出来事が、年を取ると些細なことに思えてくるのは、魂が成長した証拠だと思います。

最大の試練とも言える病気は、さらに魂を成長させて、理解できなかったことが理解され、認められなかったことが認められ、許せなかったことが許せるようになる時が訪れます。

成長した魂と、溜まっていた想いとの間に親和性がなくなると、自然法則の働きにより、想いは解放されて行くと思います。



つまり、想いは因果律の働きで肉体上の病気になりますが、その病気が魂を目覚めさせ、成長させて、想いを解放して行くと考えられます。

肉体は魂(想い)を表現する媒体であるため、溜まっていた想いが解放されたのなら、肉体上の病気は癒されると考えられます。

病気には魂を浄化させる目的があり、自分の成長を妨げていた想いという不純物を取り除くためにある触媒と言えます。

何らかの原因があって、病気になったのは間違いがないのですが、多くの人は肉体上の変化という結果しか見ていません。

肉体上の変化を元に戻すことに全精力を傾けてしまい、霊的な原因があることに気付けません。



人生のどこかで、成長を妨げている強い想いが生じていた可能性があります。

子供の時に、魂にまで響くような深刻な出来事がなかったのか、まず検証して行く必要があります。

子供の時は精神が未熟なために、感情にならなかったり、上手く肉体的表現が出来ないからです。

徹底的に、追い詰められた出来事は、なかったでしょうか?

その時に、誰にも頼ることが出来なかったのではないでしょうか?

助けを求めて、泣き叫びたくても、それが出来なかったのではないでしょうか?

そんな経験があれば、強い想いが生じていて、表現できずに、滞った可能性があります。

自我に隠されたまま、潜伏していたのですが、大きな問題が生じていたと考えられます。

その想いがあるために、人生で遭遇する出来事から同様の想いが生まれていて、徐々に大きくなり、自由意志による決定に深刻な影響を与えていたと考えられます。



大きくなってからでも、生き方や考え方を変えてしまうほどの、衝撃的な出来事はなかったでしょうか?

強い想いが生じていたにもかかわらず、自我により封じ込めてしまったのではないでしょうか?

封じ込めた想いが、後の人生に深刻な影響を与えていたかもしれません。



人生には、およそのシナリオがあります。

この世で、魂を成長させるためのシナリオです。

想いが溜まっているために、自分を成長させる、シナリオに沿った決定を、妨げていた可能性があります。

人や社会のために役に立つ機会が巡ってきても、人や社会を忌み嫌うような想いが溜まっていれば、行いに移すのは容易ではありません。

予期した方向に進めずに、魂の成長が得られなければ、この世を生まれた意味を成就出来なくなります。

内にある想いを解放して、本来の自分を取り戻し、シナリオに沿った人生を歩むために、この時期に病気になる必要があったと思われます。



過去の出来事から生じていた、自分の想いに気付くことから始めなければなりませんが、多くの人は自分の頭脳(自我)が優先されているために、なかなか気付けません。

また、感情に捉われていても、気付くのは困難です。



思考が停止し、感情のさざ波が治まり、頭が空っぽになった時に、隠されていた想いは浮かび上がって来ると考えられます。

私は休みの日に、家の掃除をします。

無心になって廊下を拭いている時に、過去にあった出来事の情景と、その時に生じていた想いが浮かび上がって来るのを感じる時があります。

すっかり忘れていたのに、どうしてなのかと思いましたが、自我に隠されていた想いが表在化して来たと考えています。

運動している時にも、過去に生じていた想いが出てくるのを感じる時があります。

座禅を始めてしばらくすると、身体が揺れてピシャリと叩かれるのは、無心になり想いが表出してきたからなのかもしれません。



想いは本来、精神で指令となり、肉体により表現されるものですが、自我の働きが強くなっていると、それがスムーズに出来なくなると考えられます。

シルバーバーチの言う、肉体と精神と霊(魂)の不調和とは、そんな状態を指すのかもしれません。

想いが溜まったとしても、弱いものであれば、自然に解放されたり、スポーツや趣味、おしゃべり等の別の肉体的表現に伴って、外に出されることもあると考えられます。

しかし、強い想いであれば、ストレス解消と言われるようなことをしても、解放するのは困難と思われます。



その強い想いが、知らずに成長を妨げていたのかもしれません。

愛の表現を妨げる、怒り、憎しみ、恨み、妬みなど、神の摂理に反する想いなのかもしれません。

人生のシナリオに立ち向かっていく勇気を萎えさせてしまう、怯え、恐れ、不安の想いなのかもしれません。



そんな想いを解放するにはどうすれば良いのでしょうか?

どれ位の効果があるのか未知数なのですが、一つの方法がありますので書いてみます。



まず、忘れてしまいたい出来事と、もう1度、正面から向き合います。

その時、自分がどう想ったのかを、心を鎮めて見つめ直します。

それは、自分の存在を揺るがすような、強烈な想いかもしれません。

怒りにも似た、何もかも壊したくなるような衝動を起こさせる、破壊的な想いかもしれません。

どこかに隠れてじっと身を潜めていたくなる、怯えるような想いかもしれません。

いずれにせよ、言葉で言い表すのが困難な、とても大きな、強い想いだと考えられます。

想いが現れると、絶対に嫌だと、叫びたくなるような気持ちが沸き上がるかもしれません。

自我が現れて、思い出そうとするのをやめるように囁き、隠そうとするかもしれません。

今の自分が、その時の自分に代わって、表に出て来た想いを肉体的表現をすれば外に出されるはずですが、それができるような想いではないと思われます。



今の自分が寄り添って、想いを共有してやりましょう。

出来事が起きた時に近い、自分の写真があれば用意して下さい。

写真の中にいる自分をじっと見つめながら、比較的最近の出来事であれば鏡の中に映る自分の瞳を見つめながら、次のような言葉を心を込めて投げかけて下さい。

「よく頑張ったね」

「苦しい思いをさせたけど、もう大丈夫。」

「誰よりも判っているから安心して」

「大好きだよ」

かける言葉は、決まっているわけではありません。

最も親しい人が苦しんでいる時にかけてやる、適切な言葉を自分で選んで下さい。

一番大切なことは、言葉に想いを込めることです。

大切な人を助けるつもりで、真剣に想いを伝えて下さい。



あの時の自分を、今の自分が心から慰めて下さい。

あの時の自分が、かけてもらいたかった言葉を、今の自分がかけて下さい。

あの時の自分を救えるのは、今の自分しかいません。

あの時の自分は、今の自分からの愛により救われます。



あの時の自分と想いを共有して、別のかたちにして、表現してやりましょう。

想いを共有できたのなら、涙が流れ出てくるでしょう。

あの時の自分に代わって、今の自分が、想いを表現しています。

あの時の自分が、どうしても理解できなかった、認められなかった、許せなかった出来事が、苦痛を経験して成長した自分が、理解し、認め、許すことが出来たのです。

許しの涙です。

想いが、愛により涙となり、表現されたのです。



嫌悪も、怒りも、憎しみも、怯えも、いかなる想いであっても、愛により解放できます。

肉体に変化を生じさせた想いは、あなた自身へ向けた愛により、神から人にだけ与えられた涙として、解放させることが出来ます。



人は愛を学ぶため、表現するために、この世に生きています。

病気も、別れも、争いも、痛みを通して、愛を学ぶためにあります。

この世で起きる全ての問題は、想いを共有し、愛を表現することで解決します。



愛を超える癒やしの力は、この宇宙に存在しません。

あなたの愛の力で、あなたの病気を癒すことができます。



自分を救うのは、結局は自分です。

自分の中にいる神(愛)に、救われます。







2016年10月30日日曜日

不治の病について その2



人は、肉体と精神から成り立っているのではなく、精神より高次に魂(霊)が存在しています。

肉体と精神と魂が、緊密に連携して、自己表現しながら人は生きています。



病気の原因は、肉体、精神、霊のそれぞれの次元に存在しますが、現代医学の対象となっているのは肉体です。

肉体的次元に原因がある病気は、現代医学でも治癒させることが可能です。

しかし、精神的、霊的次元に原因がある病気は、病変を切除しても、薬を飲んでも、それは対処療法に過ぎません。

精神的、霊的次元の原因が解消された時点で、根本的な治癒が望めます。

外科的処置や薬で治らない病気の多くは、霊的次元に原因があると思われます。



霊的次元に原因がある病気にも、いくつかの種類があると考えられます。

1つ目は、前世での過ちが原因で、その償いのために病気になる。

もしそうであれば、過ちに見合った苦痛を味わったのならば、病気は治癒すると考えられます。

2つ目は、魂の成長のため、大切なことを学ぶために、病気になる。

もしそうであれば、魂が成長し、大切なことに気付いた時点で、病気の苦しみから解放されると考えられます。

3つ目は、決められた時期に向こうの世界に行くために、病気になる。

もしそうであれば、いかなる手段をもってしても、この世に留まることは出来ないと考えられます。

以上の3つは、この世に生まれる前に、予め決められていたことであり、医学的処置を試みたとしても、無効と思われます。



それとは別に、この世に生まれてから(霊的な)原因が生じて、病気になることがあると思います。

その原因とは、過去の出来事から生じていた想いと、私は考えています。

生じた想いを上手く表現できなかったために、内に滞り、肉体上に病気を生じさせてしまったと考えられます。



社会に生きる私たちは、法律という決まりを守りながら生きています。

破ると罰せられますが、見つからなければ咎められることはありません。

宇宙全体を自然法則が支配して、秩序が保たれています。

法則は休みなく厳格に働いていて、万物はその支配から逃れることはできません。

万有引力の法則は、物質に働く自然法則の1つです。

同様に、目には見えない霊(魂)に働いている、自然法則が存在すると思います。



神は独立した存在ではなく、全てに宿り、法則として顕現しています。

魂(霊)は、神の一部であり、神とつながっています。

神の心は、無限の愛です。

人や社会のために生きようとする欲求が起きるのは、魂が神の心を表現しようとしているからです。

良心の呵責が起きるのは、神の心に反することを、魂が知っているからです。



人は食物から栄養を摂取して生きているように見えますが、それは肉体に限った話であり、人の本
質は目に見えない魂であり、神から生命力を受け取って活動しています。

その受け取った生命力により、魂は活動し、そこから想い(思念)が生まれています。



人の言動の全ては魂に刻まれていて、死後に全人生を振り返る時が訪れます。

言動の1つ1つに、自然法則が働いて、相応の結果がもたらされます。

言動の元になっているのは、魂から生まれている想い(思念)であり、その1つ1つにも、自然法則は働いて、相応の結果をもたらすことになります。



想いには、自然法則に適った想いと、反した想いがあります。

自然法則に適った想いとは、神の心を表現しようとする想いであり、一言で表現すれば愛です。

愛を表現することで、全体が進歩し、調和が生み出されます。

自然法則に反する想いとは、愛に反する想いです。

愛に反する想いを表現すると、進歩が停滞し、調和が乱されます。

愛に反する想いとは、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などであり、人生で起こる出来事を認めたり、許したりすることが出来なかったために生じています。

しかし、表に出してしまうと外部との調和が乱されるので、精神(自我)の力で、その場で抑え込んでしまう時が多いと思われます。



抑え込んだ想いが溜まると、身体に良くないのを本能的に知っているので、早く外に出そうとします。

俗に言う、ストレス解消とは、内に溜まった想いを外に出す作業と考えられます。

運動したり、趣味に没頭したりすると、溜った想いが別の肉体的表現と共に、外に排出されると考えられます

何かを夢中になってしている時は、魂から精神そして肉体へと、間断なく(生命)力が流れているために、滞った想いが同時に外に出されると考えられます。

川に淀んだところがあっても、上流に雨が降り、水が勢いよく流れれば、一緒に押し流されてしまいますが、それと同じです。



肉体的表現をすることで、想いを外に出そうとする行為は日常的に見られます。

昼下がりのレストランに行くと女性の客が、途切れることなくしゃべり続けている光景を目にしますが、人に伝えたいことが、たくさんあると言うよりも、吐き出したい想いがたくさんあり、しゃべり続けていると思う時があります。

仕事帰りに同僚と酒を飲みに行く男性は多いのですが、職場で溜まった想いを、酒の力を借りて、吐き出し合っていると思います。

吐き出してすっきりするは、想いは内に溜めてはいけないからだと思います。

想いは、肉体的表現の元となる力であり、外に向かって表現され発散されるべきものと考えられます。



溜まった想いが弱いものであれば、自力で外に出すことは可能です。

しかし、強い想いであれば、ストレス解消と言われるようなもので、外に出すことは出来ません。

残念なことに、多くの人は精神(自我)が優位になり生きているので、溜まっている想いに気付くことが出来ません。



生きるための力(生命力)の源泉は神であり、それを魂が受け取っていて、精神で肉体を動かす指令に変換され、肉体が動いて、外に向かって表現されて完結していると考えられます。
(神→魂→精神→肉体の順に力が流れて、肉体により表現されることで外に放散される)

しかし、魂で生まれた想いが、精神(自我)でブロックされてしまうと、内部に想いが溜まってしまうと考えられます。
(神→魂→精神で止まってしまっていまい、想いと言う力が内部に蓄積されてしまう)

滞っている想いがあると、自分本来の想いを表現しようとする力の流れを、妨げてしまうと考えられます。
(神➡魂➡精神→肉体)
     想い

内部に溜まった想いにより、本来の自分の想いが外に表現されない状態が続くと、因果律の働きにより、溜まった想いが内部を変化させる力に変わると考えられます。
(神→魂→精神
      想い→肉体の変化(病気) )



自然法則に反した強い想いが溜まっていると、自分本来の想いを表現できなくなるために、予定されていた人生のシナリオに沿った、魂の成長が出来なくなると考えられます。

自分(魂)を成長させることが、この世に生まれてきた目的なので、どうにかして溜まった想いを解放させなければいけません。

自分で気付かず、自力で解放できないほどの想いであれば、因果律の働きにより、心身の病変や機能障害となって外部に現れ、五感で認識されるようになると考えられます。

つまり、不治の病とは霊的次元に原因がある病気で、肉体の変化(病態)は表現できなかった想いの反映と考えられます。



病気には苦痛が伴います。

苦痛は異変があることを自覚させるものであり、多くの人は医者の力を借りて、異変を見つけ出して、肉体上からなくそうとします。

しかし、医者は肉体上の異変を診断し、取り除き、身体的症状を緩和する治療に終始するだけであり、霊的な原因を解消しない限り、根本的な治癒は望めません。

霊的な病気は、意味もなく人を苦しめるためにあるのではありません。

内にある想い、魂のありさまの変化に気付くために生じていると考えられます。

病気の苦痛には、魂を目覚めさせるという大きな目的があり、目覚めるとそれまで自分を支配していた自我(エゴ)が自壊すると思われます。

そして、自我(エゴ)によって隠されていた、自分の想いに気付くことになると思います。



よって、霊的な病気は、自我(エゴ)に隠されていた自分の想いに気付くためにあり、自我(エゴ)と言う障壁がなくなり、心が鎮まった時に、外に現れてくると考えられます。

現れてきた想いは、言葉で表現できない、自分の成長を妨げていた想いです。

けれども、肉体のことばかりに目を向けていると、内面に意識が向かず、表に出てきた想いに気付けなくなってしまいます。

また、病気に怯えていると、不安や恐怖が想いを覆い隠してしまいます。



霊的な病気を治すための第一歩は、自分の内にある想いに気付くことだと思います。

ガンの患者さんであれば、怒りや憎しみや恨みなど、他者を攻撃して壊そうとする衝動を生み出す想いかもしれません。

膠原病の患者さんであれば、自分を責める、卑下してしまう想いかもしれません。

うつ病の患者さんであれば、不安や恐怖、萎縮させ行動を抑制させる想いかもしれません。

注意しなければいけないのは、内に隠されていた想いが表に出てきた時に、病気になって生じた想いと混同することです。

膠原病になれば、人に迷惑をかけてしまうので、自分を責めてしまいがちになりますが、過去に自分を責めてしまうような強い想いが生じていて、それが外に出て来ているだけかもしれないのです。



ヒーリングは、滞った想いを引きはがし、解放させる生命力です。

しかし、魂が成長していなければ、滞っている想いと親和性が強いために、ヒーリングをしても解放することができないと思われます。

病気を心から受け入れ、苦痛により魂が成長し、想いが親和性を失ったならば、内面的な異物となり解放されるはずです。

想いを生じさせた出来事を、許すことが出来るほど魂が成長したならば、解放されるはずです。

魂が成長して、愛で満たされているならば、想いは親和性を失い、解放されるはずです。

神の愛が円滑に流れて表現できるようになったのであれば、病気の存在意義はなくなり、肉体上の病変や機能異常は消失するはずです。

我を忘れて、愛を表現することを続けていたなら、滞っていた想いは解放され、それに伴って肉体上の病気も消失するはずです。



人や社会のために、何かを夢中にしていると、生命力がふんだんに魂に流れ込むと思います。

その時に、魂から生じる想いも、愛を帯びていると思います。

愛を帯びた生命力の大きな流れは、魂に癒着した想いを引きはがして、外に出すと考えられます。

愛の表現は魂を成長させ、想いは親和性を失って、解放されると考えられます。



過去にどうしても許せなかった、受け入れることが出来なかった出来事があり、そこから自分の成長を妨げる想いが生じていて、その想いに気付くために、病気になったのであれば、許せなかった出来事を許し、受け入れられなかった出来事を受け入れたなら、その想いは存在理由を失い、解放されるはずです。

解放するためには、魂の成長が必要であり、病気になり苦痛を経験する必要があったと思われます。

成長とは、より高く、大きい愛を表現できるようになることであり、神の摂理に反する想いが生まれなくなって行く過程のことです。

魂の成長の一過程として、病気が存在します。

霊的次元の想いを解放するための触媒が、(今生に原因がある)不治の病の正体であり、自分本来の想いを表現するためにあると考えられます。

医学では治せませんが、治らない病気ではありません。    《続く》









2016年10月16日日曜日

不治の病について その1


自分とは何でしょう?

鏡に映る肉体が、自分なのでしょうか?

そうではない、目に見えない精神こそが自分だと言う人もいるでしょう。



実際は、精神よりも高次に魂(霊)が存在しています。

人は魂(霊)と精神と肉体から構成されています。

多くの人は死んで肉体を失ってから真実を知りますが、本当の自分とは精神と肉体を支配している魂です。



霊的真理では、すべての事象に偶然はなく、必ず原因があると言っています。

全ての病気にも、当然のことながら原因があるということになります。

もし、病気の原因が判らなければ、最先端の医学をもってしても根本的に治すことはできません。



魂(霊)、精神、肉体、それぞれの次元に、病気の原因があると考えられます。

例えば、感染症は細菌やウィルスなど肉体(物質)的次元に原因がある病気です。

肉体的次元の病気の原因は、医学的検査で確認できるので、それを取り除けさえすれな、治癒する可能性は高いと思われます。

精神的次元に原因がある病気として、うつ病やストレス性胃潰瘍などがあります。

うつ病に対して薬を飲んでも、精神ではなく肉体(脳)に作用するだけであり、症状は軽くなっても、治癒は望めません。

また胃潰瘍で病変を切除しても、原因がそのままであれば再発の可能性があります。

精神的次元に原因がある病気の多くのは、ストレスがなくなれば自然治癒力により快方に向かうと思われます。

現代医学により、肉体的次元の病気を根本的に治癒させることが可能ですが、精神的次元の病気は原因が同定されにくいので、治癒させるのが困難と思われます。



霊的次元に原因がある病気はどうでしょうか?

医学は、霊の存在を完全に否定しています。

世界中で人々を苦しめているガンや膠原病などの原因は、以前として不明のままであり、対処療法に終始しています。

その理由は、霊的次元に根本原因があり、現代医学の対象外だからです。



人の本質は不滅の魂であり、この世の前にも生があり、この世の後にも生は続きます。

霊的次元の病気には、この世で原因が生じたものと、生まれる前に原因が生じたものに分けられると考えられます。

生まれる前に原因が生じたものとして、過去世において神の摂理に反した想いを強く抱いたり、過ちとなる行いがあったと考えられます。

その償いとして、この世で病気になることを承知して、生まれてくることがあります。

過去世に原因があった場合は、罪の償いが終わった時点で、病気の役割は終わり、治癒に向かうと思われます。

また、さらなる魂の成長を望んで、あえて病気になる人生を選ぶ場合もあります。

そして、この世からあの世に移るために、決められていた時期に病気になる人もいると思います。

いづれにしても、生まれる前に自分自身で決めていたと思われます。

同じ病気でも、霊的次元の原因は人によって異なりますが、それぞれに明確な目的があるのは確かです。




この世で原因が生じた人には、過去に起きた出来事が深くかかわっていると思われます。

過去に起きた出来事から、さまざまな想いが生まれていて、それが根本原因になっていることが、多いと考えています。



人は悲しくなったら涙が出て、喜びを感じたら笑顔となります。

魂から生じた想いは、精神を経由して、肉体で表現されています。

それが無意識に繰り返され、日々を過ごしています。

しかし、この世ではいつでも自分の想いを表現できる訳ではなく、つらい出来事が起きても、想いを押し留めて、外に表さない時もあります。



子供の頃は、心(魂)が傷つきやすいと言われます。

それは、「自我」と言う自分(魂)を守っている精神の鎧が、まだ脆弱だからと考えられます。

幸いにして、子供は守られる立場にいるので、傷つけようとする人はあまりいません。



大人の場合は、自我が発達し、自分を守ろうとしているため、子供より深く傷つくことは少ないと思われます。

傷つけられ、魂から想いが生じたとしても、怒りや悲しみなどの感情となり、言葉や行動にして、外に表現することで解放していると思います。

しかし、子供は自分を守ろうとする自我が発達していないために、無防備であり、容易に傷ついてしまうと考えられます。

そして、幼なければ想いが生じても、上手く言葉や行動で表現して、外に解放することができません。

想いは表現されずに、心の中に滞ってしまいます。



もし、子供を守るためにいる親が、自我が形成されていない子供に対して、傷つける言動をしていたらどうでしょう?

その傷は、とても深いところまで達し、強い想いが生じていると考えられます。



この世では、想いは五感に触れるものではありません。

しかし、霊的次元では実在そのものです。

一種の力です。

その力が、肉体で表現する力に変換されています。

表現されて、外に出されない限り、想いはなくなりません。

肉体で表現されるべき力が、残っていることになります。



表現されない想いが徐々に溜まって、大きくなってしまうと、その人の生き方や考え方に、影響を与えいると考えられます。

本当はやりたいのに、ためらってしまうことがあれば、心の中に何らかの想いがあるためだと思います。

人に優しくしてやりたいのに、なぜか出来ないのは、それを妨げている想いがあるからだと思います。



この世に生まれて来たのは、魂(自分)を成長させるためです。

そして、人生にはおよそのシナリオがあり、それに沿って生きれば、予定通りの魂の成長が得られると考えられます。

魂の成長は、困難や障害を乗り越えて行くこと、人や社会に奉仕することで得られます。



しかし、魂を成長させる機会がシナリオに従って訪れても、妨げる想いが溜まっていると、自分の気持ちに反して、出来なくなってしまいます。

そうなると、予定されていた魂の成長が得られなくなってしまい、生まれて来た意味が成就されなくなってしまいます。

想いが溜まっているのは、霊的にとても大きな問題と考えられます。

しかし、そんな想いがあるなど、ほとんどの人は気付くことはありません。



肉体は魂を表現する媒体です。

表現できなかった過去の想いは、肉体上で別のかたちとなって表現される時があると思われます。

成長を妨げている想いに気付くために、神の摂理である因果律が働き、肉体上に病変や機能異常となって現れることがあります。



もし、憎しみや恨みの想いの沸き上がったなら、人はどう行動するでしょう?

相手を攻撃したりすることもあると思いますが、多くの人は、神の摂理に反するので、良心により思いとどまります。

もし実行してしまったら、因果律の働きにより、苦痛を伴う出来事になって自分に戻ってきてしまいます。

良心により思いとどまり、表現できなかった想いは、肉体を変化させる力になり得ると考えられます。

ガンは、周りの組織を破壊しながら増大していく病気です。

自己との協調や調和がなく、破壊的で、攻撃的な組織です。

表現できなかった想いは、肉体上の病態となり表現されていると思われます。

きっかけとなる出来事があって破壊的で攻撃的な言葉にならない想いが生じ、その後、それを想起させる出来事を経験しながら、その想いが次第に増大していったと思われます。



膠原病は、自己を守るためにある免疫機能が、自己を外敵と誤った認識して攻撃してしまう病気です。

自分(魂)を守るためにある自我が、自分を攻撃している、魂の様相を表現していると思われます。

自分で自分を責める想いが生じ続けているために、肉体上で自己を自己が責める病態となって表現されていると思われます。



霊的次元に原因がある病気の人の中には、子供の時に、魂にまで及ぶ深刻な出来事があった可能性があります。

そんな出来事が思い当たらないとしたら、日常的に想いを生じさせるような生活を送っていた可能性があります。



日々の関係の中で、抵抗する想い、自分を責める想い、生きるのを否定する想いが生じていたのに、幼いために表現できずに、押し殺して生きてきたのかもしれません。

伝えたいことが有り余るほどあったのに、伝えられなかったのかもしれません。

どうしても自分の想いを知ってもらいたかったのに、知ってもらえなかったのかもしれません。

絶対にやめて欲しいことがあったのに、それに気付いてもらえなかったのかもしれません。

大小の想いが、少しずつ溜まって行き、徐々に大きくなって行ったと思います。

気付かずに大きくなり、その後の人生に影響を与えていて、魂の成長を妨げていたと考えられます。



自分では想いに気付けないので、因果律の働きで、気付くかたちとなって現れたものが、霊的な病気と考えられます。

霊的な病気になったのであれば、想いに気付き、解放する時期が来ている可能性があります。



不治の病とは治らない病ではなく、医学で原因が掴めていない病であり、そのほとんどに霊的な原因が存在すると思います。

今生での原因とは、過去に生じていた、表現されなかった想いと考えられます。   《続く》



2015年6月21日日曜日

膠原病の根本原因は自責の念である



現代医学の発展に伴い、以前は手をつくしても救えなかった多くの命が救われるようになりました。

感染症、外傷、その他の急性疾患において、現代医学は計り知れない恩恵を人々にもたらしてきたのは間違いありません。

一方、弛まぬ研究が行われているにもかかわらず、原因が解明されていない病気が数多く存在し、たくさんの患者が今も苦しんでいます。



膠原病の原因究明は、ここ数十年間進んでいません。

ストレス、遺伝、紫外線などが関係して発症すると言われていますが、主因は不明であり、大きな壁に突き当たっているように見えます。

治療薬としてステロイドが登場したことにより、生命予後は以前に比べ格段に良くなりましたが、完治が期待できる病気でないために、患者に大きな精神的、肉体的負担がかかっていると思われます。



現代医学の対象となっているのは、あくまでも肉体(身体)です。

しかし、人の身体は心と密接に結びついているのは、昔から経験的に分かっています。

心身症という概念が定着したように、心に受けた影響が身体に何らかの症状として現れることが認められています。

大きなストレスを感じると、胃痛や頭痛が起こるなど、身体症状となり現れる人も多く、そんな人を最新の機器でいくら検査をしても原因は見つかりません。

精神と肉体は切り離された存在ではなく、明らかに相互に関係しており、それを否定する人は、今はいないと思います。



人を構成しているのは、肉体と精神(心)だけではありません。

科学的に証明することはできませんが、精神より高次に魂が存在しています。

魂とは、本当の自分であり、生命の本質です。

肉体と次元の異なる魂は目に見えないため、普段は意識されることはありません。

魂から生まれる想いにより、精神が動いて、肉体が働いています。

想いは川の流れのようなものであり、精神という水車を回して、肉体という機械が働いています。

魂は想いという力を精神に送り、精神は司令塔となり肉体を動かして具現化していると言えます。

肉体は魂を表現する媒体であるため、魂が存在しない肉体は役目を終えて土に還ります。

唯物的な科学が、生命の本質を解明できない事実は、生命が肉体(物質)を超えたものであることを物語っており、魂の存在を認めない限り、医学は先に進んでいけません。



病気の原因は、肉体、精神、魂(霊)それぞれの次元に存在していると考えられます。

肉体次元に原因がある病気として感染症があり、物質的な(目に見える)原因を除去すれば、完治が期待できます。

精神次元に原因がある病気の1例として胃潰瘍がありますが、心(精神)が受けた侵襲が、全身の器官や組織に症状あるいは病気として生じています。

心が受けた侵襲は、一般的にストレスと呼ばれています。

肉体にストレスが加わった時は、疲労や痛みなどで知覚できますが、心の疲労や痛みは知覚できないために、支配下にある肉体に症状となって現れることがあります。

ストレスが溜まると病気なると言われますが、溜まったストレスが原因となり、心身に症状として現れています。

ストレスが加わらない環境に身を置けば、肉体に現れた症状は改善してくることが多いと思います。



しかし、魂に原因があると思われる病気は、外部の環境を変えてストレスがなくなっても、治るわけではありません。

ストレスにより溜まった「自分の想い」が、外に出せずに溜まっている状態にあります。

霊的次元に原因がある病気とは、表現されなかった想いが内に滞って大きくなり、魂のありさまに変化を生じさせている状態と考えています。



悲しみの想いが生まれると、目から涙が流れるように、魂から生まれた想いは、精神を経由し、肉体で表現されます。

想いは肉体で表現され、それが繰り返され、この世の人生が紡がれて行きます。



ありのままの想いを、周囲に不快な感情を与えずに素直に表現できる人もいます。

しかし、怒りの想いを、ありのまま表現したら、攻撃的で、暴力的なものとなり、人を傷つけ、社会的に責任を問われるかもしれません。

泣くことは責任を問われませんが、日常生活に大きな支障を来たしてしまうかもしれません。

多くの人は相手が不快に感じたり、何かしらの問題が生じるかもしれないと考えて、想いを表現するのを抑えているように思います。

また、想いがとても強かったり、年齢的に幼かったりすると、表現するのが難しくなり、想いは魂にそのまま滞ることになります。

表現できなかった想いが徐々に溜まってくると、魂から生まれる想いにも影響を与えるようになります。

怒りの想いが溜まっている状態では、やさしい想いは生まれません。

悲しみの想いが溜まっている状態では、喜びの想いは生まれません。

溜まっている想いに影響を受けて、同様の想いが魂から生じやすくなっています。



人は他者に愛を表現することで成長していきます。

しかし、怒りや憎しみなど摂理に反した想いからは、自分を成長させる表現は生まれるはずもなく、償いが生じるような表現(言動)をしてしまいます。

この世を生きているのは魂(自分)を成長させるためであり、(摂理に反した)想いが滞っていると、生きている意味を大きく失っていることになります。



人生で起きるさまざまな出来事により、心の奥にある魂から、何かしらの想いが生まれます。

同じ出来事が起きたとしても、生じる想いは十人十色です。

人から仕打ちを受けたとしても、人生にはこんなこともあると、ほとんど想いが生じない人もいます。

怒りを覚え、高じて憎しみや恨みの想いが生まれる人もいます。

中には、相手に怒るのではなく、自分が悪いと思う人もいます。



自分が悪いと思う人は、少なからず自責の念(想い)を抱いていると考えられます。

自責の念を、人はどのように表現をするのでしょうか?

自らの肉体を傷つけるという行為として表現してしまう人もいます。

多くの人は、そのような行為は良くないと考え、表現せずに心に留めると思います。

失敗したり、期待に応えられなかったりすると、自分の力量不足を嘆いて私も落ち込みます。

人に迷惑や損失を与えてしまうような出来事を起こしてしまうと、後悔するとともに、少なからず自責の念が生まれます。

「こんなことをしてしまい、本当に自分はどうしようもない」と、内向きな、否定する想いが自分自身を責め立てます。

しかし、人生で失敗や、迷惑をかけてしまうことは誰にでもあり、後悔や自責の念を1度も持ったことのない人は存在しません。



では、同じ出来事が起きても、自責の念を持つ人と、持たない人の差はどこからくるのでしょうか?



人は誰かに愛されていれば、護られているという安心感を持ちます。

護られているという安心感がなければ、心は不安になります。

そんな人は、外から攻めてくるものに対して、自尊心というバリアを張って、自分を護ろうとします。

一方、十分に愛を受けた人は、護られているという安心感があるために、自分を護ろうとする意識はなく、自尊心を持つ必要がないと思われます。



自分を護ろうとする気持ちが強くなると、同時に自尊心が高くなります。

自尊心が高くなると、自らに課すハードルも高くなり、自分の不完全なところが許せなくなり、完全を求めてしまう傾向が強くなります。

不完全なところを、自分の弱点として捉え、自分を護るために弱点を極力無くそうとします。

同時に、義務感がより強くなると思われます。

完璧にしなければいけないという、義務感が強くなっていると思います。

遊びのない、とても窮屈な精神状態と言えます。



そんな人が、期待していた通りに実行できなかったり、不完全なところを指摘されると、自尊心がひどく傷つけられます。

反省するのではなく、傷つけられた自尊心から、自分を責める想いが生じてしまいます。

自尊心が高いほど、自責の念に苦しむことになります。

結果として、自分を護っているものが、自分を責めているという現象が生じています。



護られているという安心感が少ない人すべてが、自尊心が高くなるのではありません。

自尊心というバリアが高くない人は、人へ気遣いや、思いやりといった気持ちを向けて、攻撃されるのを避けるようにして、自分を護ろうとします。

人のために、何かをしてやりたいと思う気持ちは、神性の表れであり、自分(魂)を成長させる思いです。

しかし、人のために何かをするには、まず自分が充足されていなければ難しくなります。

道の脇で、人が疲れて座り込んでいるので、目的地まで背負ってやろうと思っても、自分が何も食べておらず、お腹をすかしていてはその力は出ません。

1個のおにぎりを食べれば、力が漲り、背負って行けるかもしれません。

その1個のおにぎりが、自分への愛なのですが、護ろうとする想いがあるために、人に食べさせようとしています。

まず自分が満たされなければいけないのに、傷つきたくないので、人を満たそうとしています。

しかし、愛の想いから人を満たそうとしている訳ではないため、常に不安であり、出来ていないと感じると自責の念が生じてしまいます。

自分を護ろうとする想いが強いと、自分を責めることにつながってしまいます。



肉体は魂を表現する媒体であり、魂のありさまの変化は、肉体上の変化として表現されます。

魂から生まれる想いは、消えてなくなる泡のような存在ではなく、肉体で具現化していく力があります。

肉体で表現できなかった想いは、自然法則の働きにより、別の形となって肉体で表現されます。



現代医学で原因不明の病気の多くは、霊的次元に原因があると思われます。

肉体上の病態は、滞った想いと魂の関係を表していると思われます。

怒り、憎しみ、恨みなどの攻撃的な想いは、時に変異したガン細胞として肉体上に表現されるかもしれません。



膠原病も、霊的次元に原因がある病気だと思います。

肉体次元では、異物から身体を護るはずの免疫システムが正常に働かず、自分の身体を抗原と認識してしまい攻撃しています。

それは、自分(魂)を護ろうとする想いが、自責の念を生み出し、自分(魂)を傷つけているという、霊的次元で起こっていることの反映と考えられます。

想いが自分を傷つけているのにもかかわらず自覚されないために、因果律の働きにより、肉体上に病気(病態)となって表現されています。



病気を根本的に癒すためには、自責の念(想い)に気付き、想いを生じさせないような生き方や考え方に変えていく必要があると考えられます。



自分を責める想いは、自分を護ろうとする想いが強いために生まれています。

自分を護ろうとする強い想いは、護られていない不安感から生じ、自分に向けられた愛情が十分でなかったためと思われます。

受けた愛情が不足したために、自分を護るバリアとして自尊心を高くする必要があり、そのために自責の念が生じやすくなっていると思われます。



話が少し大きくなりますが、地球は、多くの生命が生きている美しい星です。

すべての生命は、協調しながら生きています。

人類は地球の生命の頂点に君臨していると錯覚していますが、生物にはそれぞれの役割があり、その価値に上下はありません。

その証拠に、地球上からすべての植物がなくなったとしたら、人類は滅亡するのは明らかです。

人類がいなくなっても、植物は何の変わりもなく生き続けるでしょう。

全てが、お互いのために生きています。

多種多様な生きものが1つの星の中で共に生きているのは、「協調」という神の摂理を学ぶためだと思います。



人間は、誰一人として完全ではありません。

足りない部分、劣っている部分を、それぞれ持っています。

不完全な人たちが集まって、この世界が出来上がっています。

それを認め合い、助けあって生きています。



生きている目的は、魂を成長させるためです。

人を助けることは、自分(魂)を成長させます。

お互いに不完全であるからこそ、助け合う機会が生まれています。

助けられた人は、感謝するとともに、今度は他の人を助けようとします。

助け合うことで、人から人へと、愛が伝わっていきます。

その連鎖が拡がっていき、個々の成長が促され、世界に愛が行き渡ります。



もっと、人に頼っていいと思います。

もっと、支えてもらっていいと思います。

甘え過ぎていると思うくらいが、ちょうどいいのかもしれません。

完全ではないので、人に支えてもらわなければ生きていけないことを、忘れてはいけません。



人を信じること

自分を愛すること

もしかしたら、少し足りなかったのかもしれません。

病気になったのは、その大切さを身を持って学ぶためかもしれません。



そして、自責の念から解放されるために、自分を許すように心がけていましょう。

病気になり、自分を大切にしている人であれば、決して難しくないはずです。