2019年3月31日日曜日

最愛の子を亡くした人へ


子供は親を選んで生まれて来ると言われていますが、本当なのでしょうか?

私は本当だと思っています。



もしそうであれば、どの子供も愛情深く、優しい親を選んで生まれて来るような気がします。

しかし、この世にはそんな親ばかりでないのは、昨今の子供をめぐる痛ましいニュースを見れば明らかです。



子供への愛情が不足した親の元に生まれれば、寂しい思いをするのは判っています。

しかし、そんな親に育てられた子供でも、同じ様な親になるわけではありません。

寂しい思いをしたので、自分の子供には同じ思いをさせたくないと、愛情深く育てている人はたくさんいます。

寂しく、つらい思いをした人の方が、人は何を求めているのか、何が大切なのかが、良く判っているのかもしれません。

自らが経験して大切なものを学び取るために、あえて望まない親を選んで生まれて来ることもあると思います



私たちは、何度も地上に生まれて来ていますが、中には初めての人もいます。

初めてであれば、当然のことながら、人間としてまだ何も学んでおらず、成長度も低いと考えられます。

そんな人は、愛情深い親の元に生まれ、手厚く保護されながら、育てられるような気がします。

何度か生まれて来た人は、その分、人間として成長を重ねています。

成長した魂ほど難易度の高い人生を選びますが、それは易しい人生からは得るものが少ないからです。

さらなる成長をするために、望まない環境を志願して生まれて来る人も、少なからずいると思います。

学ぶことがなくなったのなら、地上に生まれて来る必要はなくなり、霊界で向上進化するようになります。



人生には、およそのシナリオがあります。

シナリオがある理由は、効率良く学び、成長するのに都合が良いからと考えられます。



この人生で果たすべきことは、生まれる前に決まっています。

同時に、この世を終える時も決まっています。



世の中には、100歳を超えても元気に生きている人もいます。

一方、幼くして亡くなってしまう子供もいます。

そんな子供を見て周囲の人たちは、これから先の人生で楽しいことも一杯あっただろうにと嘆き悲しみます。



親にとって、子供を失うことは、計り知れない衝撃をもたらします。

地上には、数多くの悲しみや苦しみが存在しますが、最も過酷な試練の1つであるのは間違いありません。

お腹に宿していたお母さんは、身も心も引きちぎられる思いになると察せられます。



早く地上を去ることが予め決まっていたのであれば、親になる人も決まっていたはずです。

何を基準に、親になる人が決められるのでしょうか?

その衝撃に耐えて、試練を乗り越えられる人でなければ、親になることは絶対にありません。



それでは、試練を乗り越えられる人であれば誰でも良いのでしょうか?

そうではないと思います。

大切な教訓を学ぶことを求めている親の元に生まれて来ると考えられます。

親自身に子供を亡くすシナリオが存在し、そのことを承知していたはずです



そんな恐ろしいシナリオなど、承知するはずはないと思うかもしれません。

しかし、何よりも自由意思が優先されるこの世界で、本人の承知していないことが無理にシナリオに組み込まれるようなことはありません。



また、そんな記憶など、どこにもないと言う人もいるでしょう。

事前にそのシナリオを知っていて、平穏に生きられる人はまずいません。

地上に生まれる人はそこまで強くないので、神の配慮により、その記憶は意識に上って来ないようになっていると考えられます。



承知した理由は2つあると思います。

1つは、別れは永遠のものではなく、いづれまた再会するのが判っているからです。

もう1つは、別れている期間は、とても悲しく、生きているのも苦しいほどになりますが、それと引き換えに魂の成長を手に入れることが出来るからです。



こんなつらい想いをしてまで、魂の成長などしなくても良いと思うかもしれません。

しかし、私たちが生きている目的そのものが、魂を成長させることです。

成長しなくても良いのであれば、居心地の良い霊界でずっと過ごしていれば良いのであり、悲しみや苦しみの存在する地上にわざわざ生まれる必要などありません。

人は、さまざまな経験を通して、成長して行くように定められているので、地上に生まれて来るのです。



何度も生まれ変わり、地上での人生を過ごす中で、格段の成長を果たすため、そして最も大切なことを学ぶために、死んでしまいたくなるような過酷な経験に挑戦しているのが、今生なのかもしれません。

また、過去生で過ちがあり、一刻も早く償って、再び成長して行くために、この人生を歩んでいるのかもしれません。

いづれにしても、魂を成長させるためであり、奥深くの自分は承知しているはずです。



生まれる前に全く関係のない魂が子供となり、早く亡くなるとしたら、関わり合いはこの世を生きていた日々しかないことになります。

もし、失った悲しみがあまりにも深いのであれば、それ以上のつながりがあるのかもしれません。

血のつながりだけでなく、魂のつながりがあり、親子になる必要があったのかもしれません。



早すぎる死は、偶然起きたのではありません。

不運や不幸でもありません。

そこには霊的な目的が必ずあります。

けれども、その目的は今生では判らないかもしれません。

大切なのは、悲しく、苦しくても、自分なりに精一杯生きることです。

そうすれば、この別れの目的が成就されて行くはずです。



こんな目的のある親子もいるのではないかと思い書いてみました。



ある子供が突然の事故で亡くなります。

その親は、気が狂わんばかりの悲しみに襲われます。

しかし、悲しみや苦しみに悶えながらも必死に生きる日々は、平穏無事に子供が生きている時よりも、はるかに大きな魂の成長をもたらしています。

寿命が来て次の世界に行った時に、人生で最悪の出来事が、自分を最も成長させていたことに気付きます。



死んでしばらくすると、生まれる前にいた住処に戻ります。

霊界は完全な界層社会であり、霊性の高さによって行くべき住処が自然に決まります。

前にいた住処には、親友や恋人(夫婦)よりもはるかに判り合える、親しい間柄の魂たちが想いを共有しながら暮らしています。

その中に、この世から帰って来るのを、首を長くして待っていた、親密度の高い魂がいます。

ところが、この世から帰って来た魂と自分との間に、霊的な隔たりが生じているのを感じます。

逃げ出したくなるようなつらいこの世を、必死で生き抜いたことによって大きく成長し、前にいた住処よりも、1つ高い界層に行けるだけの資質を身に付けていたようです。

霊的な隔たりを感じた魂は、早く追い付いて、同じ想いを共有するようになることを、強く望むようになります。



同じ想いを共有するためには、どうしても地上での経験が必要です。

神により創案されたは、前世で子供を亡くした親が今度は子供として生まれて、追い付こうとする魂がその親となる人生です。

子供に与えられたシナリオは地上を早く去ることであり、親に与えられたのは子供を失うシナリオです。

この最も過酷なシナリオを承知したのは、魂を成長させるためであり、大切な教訓を身に付けて、その先で想いを共有しながら暮らすためです。



つまり、元々親しい間柄の魂が親子になったのであり、早く亡くなった子供は、親よりも成長していたと言うことになります。

子供なのに大人に感じられたり、自分よりも優しく、思いやりに溢れていたのは、そのせいなのかもしれません。



早く亡くなったのは、親を悲しませるためではなく、成長を願ってのことです。

親しい間柄の魂であれば、共に生きた日々は天国にいるような幸せに満ちたものになりますが、喪った時は形容しがたいほど強烈な悲しみとなります。

底の見えない深い悲しみ、悶えるような苦しみには、魂を目覚めさせ、大きく成長させるという、深甚な意味があります。



先に逝った子供は、生まれる前にしていた約束の記憶を完全に取り戻しています。

現実に打ちのめされている地上の親を見て、こう伝えているでしょう。

「約束していた通りにこっちに来ただけだよ!」

けれども、深い悲しみに包まれた親に、その想いが届くことはありません。



見守られて育った子供は、今度は地上にいる親を見守る立場になっています。

過去に同じ経験をしているので、想いを共有しながら、導くことが出来ます。



自分の死によって、どうしても学んでもらいたい大切なことがあったはずです。



もし、たった1つ願いを叶えさせてくれるとしたら、何を願うのでしょうか?

「もう1度会わせて下さい」ではないかと思います。

その願いが叶ったとしたら、力の限り愛しい我が子を抱きしめるでしょう。


今の悲しみは、この身体で抱きしめてやることが出来ない現実から生じています。

愛を表現することが出来ないのは、どうしてこれほどまでつらいのでしょうか?

それは、魂に神が宿っているからです。

神の心である愛を表現することを、魂がしきりに求めているからです。

人は、愛を表現することによって成長し、神の心に少しずつ近づいています。



悲しみを知らない親は、子供に多くを求めてしまいがちです。

しかし、深く知っている親はそんなことはありません。

子供に求めるものは一切なくなり、愛を与えることだけを望んでいます。

愛を与えられなくなったことが、これほどまでの悲しみや、苦しみを生み出すのは、この世界で最も大切なものが、愛を与えることだからです。

最も価値のある真実を手にするために、どうしてもこの経験が必要だったのです。



先に逝った子供は、もうその真実を手にしています。

子供がすでに持っていた資質を、自らが身に付けて想いを共有するために、地上でこの過酷な経験を今しています。






この世の死は、向こうの世界での誕生です。

夢にまで見ていた瞬間が訪れます。

あの日のままの姿で待っていた、最愛の我が子を力強く抱きしめます。


抱きしめた瞬間、今生の別れはこの時のためにあったことを悟ります。

そして、二人の間にあった約束を思い出し、無事に果たせた安堵感に包まれます。



今の二人は知っています。

愛することこそが、最高の悦びであることを。

生きる意味は、愛し合うことであることを。



過ぎて見ると、全てが懐かしく思えます。

地上の親子を超えた、霊的な絆で結ばれている魂が、お互いの成長のために、この選択をしていたのです。

身も心も引き裂かれるような別れは、悲しみを通して愛することの尊さを魂に刻み次の世界でより強く結ばれるためにあったのです。




想いが共有された二つの魂は、それまでいた住処よりも1つ上の境涯に、手を取り合って向かいます。

新しい世界で、より高い愛で結ばれた、悦びの日々が始まります。


最大の試練を乗り越え、学び終えた二人に、悲しい別れはもう必要ありません。






参考ページ:「早世した子供たち」
     
      「お母さんへ」










2019年3月17日日曜日

私たちには神が宿っている


3月は合格発表のシーズンです。

神社に行くと社殿の近くに、合格祈願の絵馬が所狭しと掛けられているのを目にすることがあります。
40年近く前になりますが、私も受験の時に合格のお願いをしに行きました。

そこには神様のような存在がいて、願いを聞いてくれて、場合によっては叶えてくれる、漠然とそんなことを思っていたように記憶しています。



では、本当に神様は願いを叶えてくれるのでしょうか?

「どうぞ私を〇〇校に合格させて下さい。」と祈ってみても、合否を決めるのは、どう考えてみても試験の結果です。

お願いしながらも、そんな都合の良い存在なんかいるはずはない、あくまでも自分の実力次第だと、どこかで思っていました。



文化や宗教は国や地域で違いますが、世界中の多くの人が、目に見えない大きな存在がいて、この世界に大きな影響を与えていると考えています。

人を守ってくれたり、願いを叶えてくれると信じている人もたくさんいます。

その大きな存在を、多くの人は「神」と呼んでいます。



それでは、神は空の上にいて、私たちのことを見下ろしているのでしょうか。

そうではないようです。

実は、私たちの中にも神が宿っています。



何を根拠にそんなことが言えるのかと、訝(いぶか)しがる人がいるでしょう。

そんな人に質問したいのですが、良心とはいったい何なのでしょう?

ちょっとでも悪いことしようとすると、心の中で咎める何者かです。

親や先生から教わったからでしょうか?

そうではなく、初めから自分に備わっています。

良心とは、善悪を瞬時に判断する、私たちの中に宿っている神と言えます。



道端に捨てられ泣いている子猫を、可哀想だと思い拾って来る小さな子供がいます。

可哀想だと思う気持ちは、どこから生まれるのでしょうか?

心の中に自然に生まれて来るのではないでしょうか。

子猫を助けようとするのは、生まれながらにして神の心である愛が宿っているからと考えられます。



では、どこに神は宿っているのでしょうか?

真の自分である魂です。



魂とは生命の本質であり、神が創造した神の一部です。

全ての生命は神の一部として、霊的につながっています。



人体を思い浮かべて下さい。

人体の中には、膨大な数の細胞があり、その1つ1つは生きています。

1つ1つの細胞は、人体を構成する一部であり、何らかの役割を持っています。

元々は1つの細胞だったのが、細胞分裂を繰り返し、いろいろな役割を果たす細胞になって行きます。

1つ1つの細胞は、全体のために寄与していて、全体によって生かされています。



私たち人間も動物も植物も同じです。

地球上の全ての生命は、元々は1つです。

それぞれに役割りがあって、全体のために寄与しています。

人体に無駄なものがないように、地球上の生命にも無駄なものは何1つありません。

害虫と言われるような生き物でも、自然界で何らかの役割りがあって存在しています。

もし、地球上に人間だけしかいなくなったらどうでしょう。

呼吸が出来なくなり、食べ物もなくなり、死に絶えてしまいます。

全体があまりにも大きすぎて、細部しか見られないので、役割が判らず、1つだと言う実感が湧かないと考えられます。



神は完全なる愛であり叡智です。

もし、神が完全なる愛で、全ての人に宿っているのであれば、この世に怒りや憎しみもなく、戦争は起きないのではないかと思う人もいるでしょう。



全ての魂は、神を宿しています。

しかし、個々の魂の進化の程度によって、顕現の仕方も大きく変わって来ます。

より進化した魂ほど、より多くの神性が発揮されています。

人間には自由意思が与えられています。

自由意思は進化の程度によって規制を受けますが、神の心に適った想い(愛)を表現をする人もいれば、神の心に反した想い(怒りや憎しみなど)を表現する人もいます。

前者は魂の進化が促され、後者は妨げられますが、神は良心を顕現させて、自由意思を持つ人間が過った方向に進んで行かないようにしています。



地上の人間は、魂から生じている想いを、(地上の)自我と言う媒体を通して、肉体を使って表現しなければいけません。

自我は、地上の環境から自己を守ろうとするため、どうしても利己的になってしまいます。

そのために、魂が神性を発揮しようとしても、地上の自我により妨げられてしまいがちです。

捨てられた子猫を拾って来た子供も、大人になるのに従い自我が大きくなり、自分を優先してしまうために、見て見ぬふりをしてしまいます。



魂に神が宿っているのは確かです。

しかし、利己性のある自我を通すことによって、神性の表現は大幅に抑制されてしまいます。

与えられた自由意思によって、神の心に反した怒りや憎しみを表現してしまうこともあります。

地上の人間(魂)は未熟であり、自我があるために、神が宿っていても、望んでいない戦争が起きてしまいます。



神は法則(摂理)としても、この世界に顕現しています。

戦争によって苦痛が生じるのも、苦痛を味わうことによって怒りや憎しみではなく、友愛を表現するようになって行くのも、神の法則の働きよるものです。

お互いを認め合い、全体に調和が生まれ、ばらばらになっている生命が1つになって行くのも、同じ法則の働きによるものです。





ところで、神に向かって合格を祈るのは無駄なことなのでしょうか?

無駄になるのか、ならないのかは、祈りの動機によります。

例えば、卒業して良い会社に就職して、安定した暮らしをするためと言うのであれば、動機は利己的なので、祈りは届かないのかもしれません。

人や社会のために自分を役立てるために学びたいので合格させて下さいと祈れば動機は利他的なので、効力を発揮するかもしれません。

注意しなければならないのは、心の底から湧き上がる想いでなければ、何回祈ったとしても言葉を羅列しているのに過ぎず、効力はないと言うことです。

真の動機が何なのかは、祈る前に全て知れています。

個々の魂が進化し、1つになって行くのが、神の望みと考えられます。

自らが成長するため、他者のために自分を活かそうとする祈りであれば、神の望みに適っているので絶対に無駄にはなりません



自分の中に宿ってる神が目を覚ませば、その祈りは自然と神の望みに適ったものになり、実現する方向に向かって力が与えられると考えられます。

実現しようとする中で、個の進化が図られ、全体の進化にも寄与していることになります。








2019年3月3日日曜日

夢は人を成長させるためにある


この世界にはリアリティがあります。

色彩があり、明暗もあります。

人の声、風の音など、多種多様な音が存在しています。

固い、柔らかい、熱い、冷たいなどの、触感があります。

全てに存在感があるので、今いる世界が実在と、誰もが思って疑いません。





死んだ後に私たちが行く世界は、どうなのでしょう?

物質は存在しない、思念の世界と言われています。

物に囲まれた生活をしている私たちにとって、それがどの様な世界なのか実感が湧きません。

思念は五感に触れず、存在を証明することも出来ませんので、そんな世界は夢幻と言われても、残念ながら反論する根拠を示せません。



それでも、思念の一部である感情は、誰もが認識しています。

悲しみ、喜び、怒りなどの感情は万人が持っていて、存在を疑う余地はありません。

存在しているのに、五感に触れないものは、他にもあります。

「愛」や「友情」はどうでしょうか?

存在を否定する人は、いないと思います。



道路を走る「車」は物的な存在です。

普段から目にしているので、言葉で説明するのは簡単です。


それでは、「愛」を言葉で説明して下さいと言われたらどうでしょう。

なかなか難しいのではないでしょうか。

上手く表現出来ないのは、この物質世界とは違う次元の存在だからと考えています。

目に視えない次元の存在を、物質次元の言葉で表現し尽くすことは不可能であり、言葉で説明しようとすればするほど、実体からかけ離れて行くように感じられます。

五感に全く触れないけれども確かな存在感があり、言葉で説明が困難なもの、それは霊的次元のものが多いと考えています。



ところで「愛」とは何でしょうか?

どこから生まれるのでしょうか?

魂を引き付け合い、1つになろうとする霊的な力が愛だと思います。

物的な脳ではなく、霊的な魂から生まれる、神の心だと思います。

愛は、霊的な存在である魂や神を抜きに、正確な説明は難しいと考えられます。



この世界では、目に視えない喜び、悲しみ、怒りなどの感情や、自分の頭の中にある概念を、表情や言葉あるいは行動にして、(五感で)判る形にして伝えなければいけません。

死んだ後に行く世界では、肉体と言う表現媒体はなくなります。

思念は魂から光となって周囲に放たれ、肉眼に代わる霊的な眼によって認識されます。

思念によって色彩が異なるため、その人(魂)がどんなことを想っているのかが一目瞭然です。

放たれる思念を隠すものがないので、ありのままの自分が知られてしまいます。

さまざまな思念が魂から放たれている中で、最も美しい色彩を放っているのが愛だと思います。

この世界においても、溢れんばかりの愛を持った人は、光輝(オーラ)のようなものを放っているのが、何となく感じられるのではないでしょうか。

この世で目に視えない思念は、霊的な世界に行くと、言葉以上の実感を伴って迫って来るようです。



想像するのが困難なことがあります。

それは、死んだ後に行く世界では、思念が直ぐに具現化されるということです。

いくつかの例を挙げます。

この世界では、どこかに行きたいと思えば、交通手段を利用して、時間と費用をかけなければなりません。

次の世界では、瞬時に移動できます。

ただし、宇宙のどこにでも移動できるわけではなく、魂のレベルに応じた範囲内になると言われています。

この世では、何かを食べたいと思えば、食料を買って料理を作らなければいけません。

次の世界では、食べたいものが直ぐに現れるようです。

ただし、死んでしばらくの間は食欲は残るのですが、肉体はなく食べる必要がなくなるので、しばらくすると無くなるようです。

この世界で、家に住みたいと思えば、建築業者に依頼をして設計して建ててもらい、その費用を働いて支払わなければいけません。

次の世界では、家に住みたいと想えば、家が目の前に現れるようです。

思念の働きによって造られるので、もちろん物質的なものではありませんが、自分が住みたいと思っていた家が、そのまま具現化されるようです。

2つの世界の大きな違いは、この世界は、思念を具現化するのに物質を介在させなければならないので、労力を要するのですが、次の世界では、思念がそのまま具現化されるので、労力が要らないことです。



多くの人は、この世界に少しでも長くいたいと願っていますが、次の世界にいる人から、この世界はどう見えているのでしょう?

きっと、自分の想いが完全に伝わらない、想いや概念を実現させるのに肉体を駆使しなければならない、不自由で苦労の絶えない世界に見えるはずです。

肉体のない次の世界の方がはるかに自由で快適なので、この世界にずっといたいと思っている人を不思議に思っているはずです。



私たちは、そんな快適な世界を離れて、この世界に生まれて来ています。

何のためなのでしょうか?

それは、自分(魂)を成長させるためです。



Dream come true」 夢( 想い)は実現すると、良く言われます。

次の世界では、思い描いたことはそのまま実現しますが、この世界では、何もしないで実現することはなく、それ相応の肉体的、精神的な労力を伴わなけばいけません。

不自由で苦労の絶えないこの世界は、魂の成長にとって都合が良いようです。

想いを実現させようとすれば、自然に精神や肉体に負荷がかかることになり、その負荷が魂に影響を及ぼして、成長が促されると考えられます。

人が夢に向かって努力をするのは、結果を追い求めているだけではなく、成長につながると、奥深いところの自分は知っているからなのかもしれません。



人は誰でも幸せになりたいと思っています。

幸せとは主観的なものです。

お金をたくさん持っていることが、幸せと思う人がいます。

趣味に興じるのが、幸せと思う人もいます。

家族で団欒をするのが、幸せと思う人もいるでしょう。



「幸せになりたい」と思うだけで、人は幸せになれるのでしょうか?

きっと、なれないと思います。

幸せとは抽象的な概念です。

幸せな自分の姿を、心の中で思い描けなければ、具現化しようがありません。

思い描けて、そうなりたいと想う(念じる)ことで、初めて具現化する方向に向かって行きます。



オリンピック競技には、必ず勝者と敗者がいます。

その時の実力が優っていた者が勝者となり、勝ち続けて行けば、最終的に金メダルを手にすることが出来ます。

もし、実力が同じ位であれば、勝敗はどのようなことで分かれるのでしょうか?

私は、金メダルを取った自分を、より強くイメージ出来た者が、実現する可能性が高くなると思っています。

より具体的に、例えば表彰台の上で金メダルを首にかけている自分の姿をイメージするのも良いのかもしれません。
2018年平昌オリンピック
出典:朝日新聞Digital
けれども、金メダルを取るためには、イメージより練習が大切ではないかと考える人もいます。

イメージを抱くことが練習への何よりも強力な動機付けとなり、ただ練習するよりもはるかに金メダルを取るための現実的な練習につながると考えています。

イメージを持たないと、具現化する方向が定まりません。

より具体化して映像化する必要があると思います。



無から、有は生まれません。

具体的な想い(夢)があるから行動になり、その行動が想いを実現させて行きます。



想いは、全ての起点です。

想うことによって、実現するためのスイッチが入り、行動となります。

もしスイッチが入らないのであれば、それほど想いが強くないのか、単に願っているだけなのかもしれません。



次の世界では想い描いたものが直ぐに具現化されます。

この世界においては、物質が介在しているので時間はかかるかもしれませんが、具体的に思い描き、念じ続けていれば、具現化すると考えられます。

自分には無理だろうと思えば、その考えが具現化の邪魔をしてしまいます。

何も想わない、何の夢も抱かないのであれば、何の行動も起こせないので、何も変わることはありません。



自分を変えたいと思う人がいます。

そんな人は、どう変えたいのかを、具体的に思い描かなければいけません。

思い描いた以上の自分にはなれませんが、その姿に沿って、自然に変わって来ると思います。

思念は、現実の自分や周囲を変えて行く力だからです。



夢(想い)を実現する過程で、困難や障害は付きものです。

それを乗り越えて行くことで、魂は成長して行きます。

成長させるために、神は「夢」と言うものを私たちに与えてくれたと思います。



人は成長して行くために、いつでも夢を持っていた方が良いのかもしれません。