2022年2月27日日曜日

意志を持つ


「生きている」とはどう言うことなのでしょうか?

心臓が動いていれば生きていると、多くの人は考えています。

心臓が止まり、肉体が全く動かなくなったら、死んでいるとみなされます。



生の対極にあるのが死ではありません。

肉体と結合していた「生命」の分離が死です。

荼毘に付されて骨だけになっても、生命は変わりなく存続しています。



生命は肉体と次元の異なるものです。

生命の本体を「魂」と呼ぶことにします。

魂は生命力によって活動をしています。

生命力とは、宇宙を創造し、動かしている神的なエネルギーです。

内から湧き出るものであり、同時に外から流れ込むものです。

生命力が湧き出して、外部に流れて行くのを、ヒーリングをしている時に実感しています。



魂に生命力が供給されて、私たちは生きています。

そうではない、食べた物がエネルギーに変わって生きていると言う人がいるでしょう。

それは肉体の話です。



肉体に指令を与えているのは精神です。

精神が疲れている時に、食物を摂ったとしても、回復するわけではありません。

精神は肉体とは別のエネルギーが供給されています。

魂が受け取った生命力が変換されて、精神的活動のエネルギーになっています。

また、病気やケガを治している自然治癒力も、同じ生命力が変換されたものです。



人間を構成しているのは、「魂(霊)」と「精神」と「肉体」です。

3者の関係は、犬ぞりに似ています。

人が魂であり、犬が精神であり、そりが肉体です。

人の指令によって、犬が働いて、そりが動き始めます。

魂から思念が生まれて、精神が働いて、肉体が動き始めます。



思念は、精神を動かしているエネルギーと言えます。

素となる力は大始源である神から供給されます。

神は独立した存在ではありません。

宇宙が神であり、神は宇宙です。

宇宙全体が神的エネルギーで創られ、満たされています。

私たちは神を構成する一部であり、全体の一部として霊的につながっています。

魂は宇宙全体(神)から無尽蔵にある力を受け取ることができます。

しかしながら、未熟な精神や肉体がボトルネックとなり、大幅に制限を受けています。



精神から不安や心配や怖れ、取り越し苦労が生じると、霊的な通路が塞がれて、生命力を受け取りにくくなってしまいます。

感情で精神的なエネルギーが消耗された上に、生命力が受け取りにくくなってしまうと、活動するエネルギーが不足してしまいます。

その状態が、うつ症状となることもあります。

ヒーリングによって強制的に生命力を注入することによって一時的に症状は緩和しますが、状態が変わらなければ、ぶり返してしまいます。



生命力は個々の魂で思念(意志)になります。

意志は精神により具体化され、肉体によって具現化されます。

意志が生まれて、それによって精神が働いて、肉体に指令が出されて動く、これが正常な状態です。

ところが現代社会では、意志がないままに、精神だけが働かされて、肉体が動いています。

犬ぞりで言うと、人の指令がないまま、犬があてどもなく走っているようなものです。

不安になり、途中で走るのを止めてしまうかもしれません。



意志がないまま、精神だけが活動しているのは、極めて不自然な状態です。

魂から精神、精神から肉体へと変換されているエネルギーの循環が上手く行きません。

そのような3者の調和が乱れた状態が続くと、心身に病気として反映されることもあります。



意志があれば、精神はそれに追随します。

大始源より生命力が流れ込み、それに伴って精神にもエネルギーが供給されます。

意志を失ったまま、精神だけが活動をしていると、次第にエネルギーは枯渇して行きます。



健やかに生きるために、何らかの意志を持った方が良さそうです。

意志があることで、健全なエネルギーの循環が始まります。



夢や目的を持つことは、意志を持つことであり、生命力が流れ込みます。

願いを抱くのも、意志を抱くことになり、生命力が流れ込みます。

○○になりたいと願いを抱くと、実現するために精神が働き出し、時間がかかるかもしれませんが、具現化する方向に向かいます。

ささやかでも良いのです。

例えば、朝起きた時に「心穏やかに生きたい」と願えば、精神が働き出し、具現化する方向に向かいます。

意志がなければ、何も始まりません。



意志を持つことは、生きる推進力となります。

ただ問題が1つあります。

人間にはどんな意志を持っても良い、自由が与えられています。

神の意志(自然法則)に反する意志を持つことも許されます。

その意志に対しても、神のエネルギーは流れ込みます。



ロシア軍のウクライナ侵攻(CNNより)

あってはならない愚かな戦争が始まりました。

見知らぬ人間が、いきなりドアを蹴破り、土足で家の中に入って来て、大切な人が殴られている、侵略されている国の人たちはそんな心境だと思います。

過った意志を行使する者がいる限り、苦痛、怒り、憎しみ、悲しみ、業しか生み出さない、この様な悲劇は繰り返されます。

自分以外の人間を信じられなくなってしまった独裁者の終わりの始まりですが、代償が大きすぎます。

無知が酷すぎて、霊界も憂慮していると思います。

苦痛を感じ、救いを求めて真理に辿り着く人がいて、健全な方向に進んで行くと信じるしかありません。




平和な世界にするためには、人を脅かし傷つける行為は絶対に許さないと言う明確な意志を1人1人が持つことが必要です。

その意志は伝播しながら、具現化して行くと思います。



2022年2月20日日曜日

不安や怖れを意思(志)で打ち消す


コロナ禍ですが、今週末、私が所属する歯医者の勉強会が創立されて30年になり、記念講演会が開催されました。

大人数の前で話すのは、この年になっても緊張します。

何とかならないものかと、いつも思います。



この緊張感はどこから来るのでしょうか?

人間には、霊的な自我と地上的な自我が存在しています。

霊的な自我は、奥底にある意識であり、本当の自分とも言える存在です。

地上的な自我は表に出ている意識であり、肉体を使って霊的な自我を表現するためにある媒体です。



何かをやろうとする時に、上手く行くのだろうか?失敗したらどうしようと、先のことを考えて不安になることがあります。

緊張や不安や恐怖は、地上的な自我から生じていると考えられます。

また、過去のことを思い出して、怖れや不安が生まれるのも、地上的な自我の働きによるものと考えられます。



そんな感情などなくてもよさそうですが、そうは行きません。

断崖絶壁の上に立ち、恐怖を感じなければ、誤って落ちてしまうかもしれません。

地上の環境から肉体を守るために必要なものです。



不安は、将来を頭で予測することにより生じます。

その感情が生じると一種の苦しみを感じるので、何とかしてその状況から抜け出そうとします。

肉体的な苦痛を感じると回避しようとしますが、それと同じで不利益を被らないようにするためにある、防御的な感情の一種なのかもしれません。



頭の中が真っ白になるという状態があります。

不安が極度に亢進して、理性がマヒした状態と考えられます。

どんなに経験があったとしても、想定外のことが起きる可能性があります。

地上は不完全で不確実な世界であり、何が起きるのか判らないので、不安は付きものと考えられます。



人間は肉体、精神、霊(魂)の複合体です。

精神は肉体に指令を出しています。

右手を挙げろと精神が指令を出さない限り、右手は挙がりません。



霊(魂)は精神の上位に存在しています。

霊(魂)からは、本当の自分の想いや願望が生じています。

それを精神を働かせて、具現化しようとします。



地上的な自我は、精神上に形成されていると考えられます。

そこから生じている不安や心配、緊張や怖れなど感情は好ましいものではないようです。

シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「霊的なものにとって恐れるということが何よりも強烈な腐食作用を及ぼします。恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。」



怖れや不安や心配を吹き飛ばすものがあります。

それは意思(志)の力です。

2001年、新大久保の駅で起きた痛ましい事故のことを思い出します。

ホームに落ちた人を助けようて、2人の男性が亡くなりました。

助けようとする意思は、霊的な自我から生じていたと考えられます。

自分の命が犠牲になってまで、人を助けようとするのは、霊的な自我が神性を帯びているからです。



一方、地上的な自我は、自分も巻き添えになってしまうと怖れを感じさせて、肉体を守ろうします。

霊的な自我と地上的な自我の間で葛藤が起きる時はありますが、どちらか勝った方の行動を取ることになります。

助けようとする意思が、怖れを上回った結果として、この様な行動を取ったと考えられます。

助けようとする意思は愛に基づいています。

神の摂理に適った想い(愛)は、あらゆる感情を凌駕しており、不安や恐怖を打ち負かす力を持っていると考えられます。



1985年日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落しました。

墜落前のダッチロールを繰り返す機内はパニック状態になっていたと推察されます。

そんな機中で、家族に宛てた感謝の文章を書いている男性がいました。(別の記事にその文章を載せてあります)

誰もできることではありませんが、魂から生じている強い想いが、極限的な恐怖に打ち克っていたことを証明しています。



繰り返しになりますが、霊(魂)は精神の上位にあります。

地上的な自我(精神)から生じる不安や怖れは、霊的な自我の働きによって打ち消すことができると考えられます。



はっきりとした意思を持てば、望んでいない感情が生れるのを抑えられるはずです。

魂から生じている意思は、精神から生じている感情よりも強いからです。

もし、不安や怖れが湧き上がって来たのなら、それを打ち消すようない意思を思持てば良いはずです。

具体的には「上手く行かなかったらどうしよう」と考えて不安になるのではなく、「上手く行く」あるいは「乗り越えられる」とはっきりとした意思を持ちます。

それでも不安が生じてしまうのであれば、その度に自分の意思を上書きするようにすれば良いのです。



北京オリンピックが閉幕しようとしています。

どの選手も、最高のパフォーマンスをすることを望んでいます。

国の代表であり、想像を超えるプレッシャーを感じていたと察せられます。

失敗は許されないと思うと、緊張はどうしても高まってしまいます。



不安や怖れを感じながら、最高のパフォーマンスはできません。

高まった緊張から不安や怖れが生じないようにするのには、「自分を信じる」という意思を持つことが必要です。

多くのスポーツ選手が「自分を信じて臨んだ」と言っているのを聞きますが、根拠のないことではありません。

自分には神性があります。

起こること全てを乗り越えさせる力が秘められています。

信じることで神とのつながりが強くなり、乗り越える力が内から湧き出します。

自分の中に神がいると思っていなくても、自分を信じれば持てる力が出せることを、多くの人は経験的に知っています。



自分の中に神がいると、強い意思を持って信じて下さい。

そうすれば不安や怖れはなくなるはずです。

「全き愛は恐れを締め出す」と、イエス・キリストも言っています。

強く信じることができれば、神とのつながりが深まり、その愛により恐れは締め出されると考えられます。



摂理に適っている意思であれば、霊界から援助の力が届き、実現する方向に動き出します。

もちろん相応の実力がなければいけませんが、自分の栄誉のためではなく、人に勇気を与えたい、元気付けたいと願いながら臨む人は、神の摂理に適っているので、援助の力を受け取ることができると考えられます。

持ってる力以上のパフォーマンスができて、想像以上の結果が得られることになります。

そんな時は、知らずに霊力の通路になっていたと考えられます。

勇気を出すことの大切さを、その人に通して伝えたいのだと思います。

挑戦することで人は成長するからであり、それが神の望みだからです。



不安や怖れが生じたら、それを上書きするように、明確な意思を持つようにしましょう。

成長につながるものであれば、神の力が魂に流れ込み、不安や怖れは打ち消されるはずです。

今回の仕事においても、それを実践して、正しいことを再確認できました。



次に行く世界は、思念の世界です。

明確な意思(思念)を持たなければ、何も始まらない世界です。

不安や怖れを克服するために、意思を持ち続けるのは、能動的で労力を伴う作業ですが、望ましい自分になるため、望ましい世界にするために、避けては通れない過程だと思います。

不完全で不確実な世界である地上において、その力(意思)を養っていると思います。





2022年2月13日日曜日

死はこの世の卒業


日本人の平均寿命は85歳位です。

個人差はありますが、単純に計算すると生まれてから3万日経つと、そろそろ死ぬ時が近づいていると言えます。

3万日は気の遠くなるような日々に感じますが、私もすでに2万日を超えています。



これまで生きた日々の上に、今日があります。

年を取るごとに、1日の重みが増して行くように感じるのは、私だけなのでしょうか。

これから先も重みが増し続けて、臨界点を迎えて一気に軽くなる時が来ます。

ずっと先のことだと思っていましたが、少し死を意識するようになりました。



霊的真理と出会って良かったと思うことの1つに、死は次の世界に移るための自然現象と、はっきりと判ったことです。

その現象を「鳥かごから大空に向かって鳥が放たれる」、あるいは「さなぎから蝶が飛び立つ」と例えていますが、それ以上に劇的な変化と考えられます。

肉体がなくなっても意識が存在し、思念が直接伝わる世界に移った時の感動は、言葉では言い表せないと想像されます。

そんな知識を得て、死は怖くなくなりました。

むしろ、早く来れば良いのにとさえ思います。



およその寿命は決まっていますが、その時がいつ来るのか分りません。

30年後だとしたら、ずっと先のように感じられ、生き方を変えることはないでしょう。

あと1年後だとしたらどうでしょうか?

どう過ごすのか、じっくりと考えます。

仕事に追われて生きて来たのであれば、家族や友人と一緒に過ごす時間を増やす人もいるでしょう。

喧噪から離れて、自然の中でゆっくりと過ごす人もいるでしょう。

世の中のために、何かをしようとする人もいるでしょう。

長く生きられないと判っているのに、お金や地位や名誉を欲しがる人はあまりいません。

愛情や友情など、目に視えないものを大切にする人が多いと思います。



あと1週間になったらどうでしょう。

後悔がないように、わだかまりがあった人と会って、仲直りをしたくなるかもしれません。

一番好きな場所を訪れるかもしれません。

何もせずに、ただ平穏に過ごすのかもしれません。



最後の1日になったらどうでしょう。

今までお世話になった人に、ありがとうと感謝の気持ちを伝えて、別れのあいさつの代わりにするような気がします。

できれば苦しまずに、眠るように逝ければと思います。



死を意識することによって、地上的な意識から、霊的な意識に変わると考えられます。

大切なもの、価値のあるものに、限られた時間を費やすと思います。

最後にしたいことほど、本当に大切なものと考えられます。

感謝の想いを伝える、心穏やかに過ごす、そんなありふれたことが、何よりも大切なのかもしれません。



今日1日が最後だと思って過ごせば良いのですが、頭ではまだ先と考えてしまうので、なかなか難しいです。

生活して行くため、社会との関わりがあるので、そう簡単に生き方を変えるわけにも行きません。

さまざまな地上的な欲求やしがらみがあり、思うほど大切ではないことに、多くの時間を費やさなければならないのは確かなようです。



命に関わる病気になれば、そうは行きません。

否が応でも死を意識するようになります。

霊的な意識に変わり、本当の大切なものに気付き、どうでも良いものを切り捨て、生き方を変える人もいるでしょう。

自分の意思で変えるのは難しいです。

病気は、本来の自然な生き方に強制的に戻すために創造されたのかもしれません。



死は不幸な出来事なのでしょうか?

多くの人は死を疎ましがります。

秦の始皇帝は不老不死の薬を探し求めたそうですが、現代においてもそんな薬があれば手に入れたいと思う人はたくさんいるでしょう。

もし「不死」の薬が与えられたとしたら、喜ぶどころか極めて重い懲罰が課せられたように感じてしまいます。

死ねないことこそ、不幸だと思うからです。



この世は学校に例えられますが、その通りです。

死後の世界(霊界)は実社会です。

実社会である霊界で、自分をより役に立てるために、この世という学校に生まれて来ます。

学校では、国語、算数、理科、社会などの教科を学びます。

この世という学校では、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛について学んでいると考えられます。

それらは魂の資質であり、全てが愛に通じるものです。

神の心と言って良いでしょう。

自分に足りない資質を補うために、最適な出来事を経験することになります。



この世は、さまざまな魂が混在し、肉体を介して表現をしなければいけません。

そのために、判り合えず、時に争いとなります。

苦しい思い、痛い思いをしながら、信じること、勇気を出すことの大切さを学んでいます。

いくら愛があっても、それらがないと表現できません。

苦痛が取り払われている霊界では、地上ほど学ぶことはできないと思われます。



死は、この世という学校の卒業です。

しかし、誰でも卒業できるわけではありません。

あの世に行きかけて、まだ早いために、この世に帰って来る人がいます。

地上にいる人たちは、九死に一生を得たと喜びますが、本人にとって喜ばしいことなのでしょうか?

元いた住処に帰れるはずだったのに、引き返して来たことになります。

再び重い肉体を纏って、学ばなければなりません。

つかの間でもあの世を経験した人の多くが、そこに留まりたい衝動に駆られたと、後に語っています。



世の中には、この世を早く卒業してしまう人がいます。

残った人は、早すぎる死を嘆き悲しみます。

そんな人は、この世に入学した時点で、すでに多くのことを学んでいたのかもしれません。

魂の資質(親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛)を、十分に身に付けている優等生が多いと感じています。

学ぶことが少なければ、学ぶ時間は少なくなって当然です。

短い期間で目的を果たして、飛び級で卒業することが許されたと考えられます。

いつ卒業するのかは、予め決まっています。

偶然はありまぜん。



世の中には、社会を経験してから、再び学校に入り直す人がいます。

それなりの目的があってのことです。

それと同じで、霊界にいる者がこの世という学校に入り直すのには、明確な目的があります。



この世で学んだことは、あの世で活かされます。

自分を活かそうとするほど、まだ足りない資質があり、学ぶべきものが残されていることを強く意識するようになります。

そこで、地上と言う学校に再び入学し、計画的に学ぶことを志願します。

学校の勉強が楽しいものではなかったように、この世で大切なことを学ぶのも楽しいものではありません。

それでも、この世に戻って来るのは、成長したい根源的な欲求が魂にあるからです。



目的を果たした時、死によって地上から解放されます。

その時は自然法則に計られているので、勝手に早めることは許されません。



死にたくないのは、学校に居続けたいのと同じです。

学生のままでは、何のために学んでいるのか判りません。

卒業して実社会で活かさなければ意味がありません。



死はこの世の卒業です。

大変な思いをした人ほど、解放された悦び、そして成長した悦びを感じるはずです。

苦労して学んだことを、活かせる時が来たのです。





2022年2月6日日曜日

人生の課題


学生時代で嫌なものは宿題でした。

次までにやって行かなければ、先生に叱られるからです。

寝てしまい、次の日の朝に慌ててやった記憶があります。

先延ばしをしても結局やらなければならないので、なるべく早くやっておくのに越したことはありません。



人生にも、やらなければいけいない課題があります。

自分に必要なことを学び、成長するために、私たちは課題を決めて生まれて来ています。

過去の人生(過去生)でやれなかったので、この人生に持ち越されている場合もあります。

内容を知ることはできませんが、宿題と同じで、楽しいものではないのかもしれません。



ある日突然、課題が訪れることもあります。

その時、正面から向き合うのか、回避するのか、決めるのは自分です。

向き合えば、大変な思いをするのが目に見えています。

回避する方が、楽で安全です。

それでも、敢えて向き合う方を選ぶ時があります。

避けてはいけないことを、本当の自分(魂)は知っているからです。



成功と失敗のどちらかになる課題もあります。

挑戦と言えるでしょう。

失敗すれば、失うものがあるかもしれません。

失いたくないので、回避する方を選んでしまいがちです。

それは、もっと大切なものを失っているような気がします。



挑戦は苦労を伴います。

精神的な緊張も強いられます。

しかし、挑戦している過程で成長が得られ、何かを学んでいます。

回避してしまえば、得るものは何もありません。



「乗り越えられない困難は与えられない」これは最も大切な真理の1つです。

それと同じで、「乗り越えられない挑戦」に出会うことはないはずです。



新しいこと、リスクを伴うことであれば、躊躇してしまうこともあります。

遠い昔、自転車に初めて乗った時もそうでした。

転ぶと痛そう、自分に乗れるのか、怖れや不安がありました。

転んで痛い思いをしながらも、何とか乗れるようになりました。

地上では何かを得るためには、怖れや不安を克服して、挑戦しなければいけないと考えられます。



挑戦するには、勇気が必要です。

どんなに意思があっても、勇気がなければ、一歩を踏み出すことはできません。

魂が成長するために、どうしても必要な資質が勇気です。

挑戦する課題が突き付けられた時は、勇気が試されているのであり、同時に身に付ける機会となっています。



回避してしまった場合、因果律が働いて、その先で新たに挑戦する機会が巡って来るかもしれません。

あるいは、そのまま人生が終ってしまうかもしれません。

あの世でこの世の人生を振り返る時が来ますが、回避している自分の姿を見たならば、思わず恥ずかしくなってしまうかもしれません。

生まれる前に決めていた課題の1つだとしたら、ひどく後悔するでしょう。

それを晴らすために、再び同じような局面に出会う人生を選択することになるでしょう。

腹を決めて挑戦するまで、その過程が続くと思います。



ところで、勇気とは何でしょう?

怖れや不安に打ち克って、前に進んで行く力と言えます。

勇気は、自然に出るものではありません。

自分を信じることにより、内から湧き出て来る霊的な力です。



それまでの経験(実績)から、自分を信じて挑戦する人もいるでしょう。

経験がない初めての時はどうでしょう?

大丈夫です。



全ての生命に、魂が宿っています。

魂は生命そのものです。

宇宙全体は神的エネルギーによって創られ、神的エネルギーによって生命は活動しています。

神的エネルギーは無尽蔵です。

私たち人間はちっぽけな存在に見えますが、魂には無限のエネルギー、無限の可能性が秘められています。



自分を信じるとは、自分の中にいる神を信じることです。

信じることにより神と強くつながり、無限の貯蔵庫からエネルギーが供給されます。

それが挑戦を成功させる原動力になります。



しかしながら、私たちが生きているのは不完全な物質的な世界です。

不完全であるがゆえに、失敗が生じることもあります。



たとえ失敗したとしても、失うのは地上的なものだけです。

立ち向かったことで、霊的な成長が得られています。



問われているのは、成功したか否かではありません、

挑戦したか否かです。



自然法則の働きによって、挑戦するべきことが目の前に現れます。

自然法則は神の心が顕現したものなので、愛を帯びています。

苦しませるため、怖れさせるために挑戦させるのではなく、学び成長させるためです。

従って、無謀な挑戦が計画されることはありません。

自分を信じて臨めば、良い結果が得られることが、神によって保障されています。

人生で現われた課題を1つ1つ克服して行く中で、魂は成長し、生まれて来た目的が成就されて行きます。



課題が現われた時、回避しても、結局、どこかで向き合わなければならなくなります。

大変なのは分かっていても、課題がさらに大きくなって後で生じたり、死後に後悔したくないのであれば、今、向き合わなければいけません。



この世だけで終わると思うと、回避してしまいがちです。

人生は果てしなく続いています。

今やるのか、後でやるかのどちらかです。

回避するのは、課題を先送りしているだけです。

内なる声は「やらなければいけない」と訴えているはずです。

やると自分(魂)が決めていたからです。



課題はどこまでも追いかけて来ます。

自分(魂)に足りないものを補うために、どうしても必要だからです。

ためらうことなく、向き合いましょう。