2015年5月24日日曜日

争いは愛でしか終わりにできない その2




学生時代、歴史と言う科目が嫌いでした。

年号と出来事を、無機的に覚えていくのが苦手だったからです。

1947年に、世界で起こった出来事は何でしょうか?

答えは、100年近くにわたったイギリスの植民地支配からインドが独立した年です。

ガンジーと言う、丸いめがねをかけた小柄な指導者が、国民を率いて、非暴力という形で独立を果たしたことは知っていました。

しかし、圧倒的な力の差のある国に対して、非暴力により、なぜ独立出来たのかは謎でした。



マハトマ・ガンジーは、政治家というよりも、神の摂理を知る偉大な霊覚者だと思います。



ガンジーについて、簡単に説明をします。

1869年、インド北西部のポールバンダールに生まれました。

小学校時代は、怖がりで、内気な少年だったと言われています。

13歳の時に、ヒンズーの教えに従い結婚し、18歳で法廷弁護士となるため、イギリスに渡ります。

帰国後、しばらくしてイギリス領であった南アフリカに向かい、弁護士活動を始めます。

そこで、有色人種への差別を目の当たりにして、インド人コミュニティーの人権活動に携わります。

その後、帰国して、イギリスの植民地支配が多くのインド人に、貧困や不当な差別など、深刻な不利益をもたらしている状況を憂い、独立運動を始め、国民を率いる指導者となります。

イギリスから独立を果たした翌年、ヒンドゥー教徒の銃弾により亡くなりました。

その功績を讃え「インド独立の父」と呼ばれています。



ガンジーは敵対する者に対して、今までにない非暴力、不服従という、全く新しい戦略を取りました。

私の知る限りでは、他の国々は戦争あるいは革命によって独立をしています。

人民が立ち上がり、支配している国と武力で徹底抗戦し、撤退させています。

当然ながら、双方の血は流れ、多くの人命が失われてしまいます。

独立を果たし平和は戻りますが、その傷跡は後世にまで深く残ります。



独立前のインドは、数百年にも及ぶイギリスの支配に疲弊し、不信感に溢れていました。

そこへ登場したのがガンジーであり、イギリスへの不服従と非暴力を唱え、先導者となっていきました。



支配されている者が、命令や規則に不服従でいるならば、支配者は容赦なく力を行使して従わせようしてきます。

相手を脅してきたり、痛めつけて、恐怖を与えて、従わせようとするでしょう。

数え切れない人々が、暴力を受けて傷つき、あるいは投獄されて自由を失いました。

ガンジー自身も何回も投獄されていますが、怯むことなく、非暴力を貫き通しました。

そんな姿に勇気付けられ、人民もその教えに従いました。



いくら非暴力でいても、居座って支配している国は、出て行かないと誰もが思います。

やはり、力には力で対抗しなければいけないと、常識として考えます。

ある時、親交の深い歴史家が「あなたは聖書やバガヴァット・ギーター(ヒンドゥー教の聖典)に精通しておられるようですが、こと歴史に関しては何もご存知ないようですね。暴力に頼らないで自由を獲得した国は、過去においてひとつもないのですよ」と、ガンジーに問いかけました。

すると、ガンジーは「あなたは歴史について何もご存じないようですね。歴史についてまず知っておくべきことは、あることが過去に起こらなかったといって、それが、将来、絶対に起こらないとは限らないことです。」と、微笑んで穏やかに答えたそうです。



そして、こうも語っています。

「この驚きに満ちた時代においては、あるものごとの考えが「新しい」というだけで価値がないとは、だれも言わないでしょう。

また難しいから不可能だという考えも、時代の精神に合いません。

以前では夢想すらできなかったことが、今では普通に見られるようになり、『不可能』がどんどん『可能』になっています。

今日わたしたちは、暴力の領域においてなされている驚異的な発見に、たえず驚かされています。

けれどもそれ以上に、非暴力の領域においても、夢にも思わなかったことや不可能に思えることが、はるかに多く発見されるようになると、わたしは断言します。」



私の解釈が正しいのか分かりませんが、“暴力の領域おいてなされている驚異的な発見”とは、おそらく原子爆弾を指していると思われます。

“非暴力の領域においても、夢にも思わなかったことや不可能に思えることが、はるかに多く発見されるようになる”とは、世界で起きている争いは、武力行使をせずに、神の摂理に従い、お互いを認め合い、許し合うこと、同胞としてお互いを思いやることで解決され、恒久的な平和につながっていくことを発見していくだろうと、予言していると思われます。

ガンジーはもともとヒンドゥー教徒でしたが、イエス・キリストの言葉に深く感銘を受けていたと言われています。

特に、「右のほほを打たれたら左のほほを差し出せ」というマタイの福音書の一節に衝撃を受け、非暴力の根底には、その言葉があったと思われます。

共感、忍耐、信頼と、苦しみを喜んで受け入れる態度を取ることで、服従させようとする相手を変容させられるという、サティヤーグラハという教えを実践していました。

いかなる状況においても、笑みやユーモアを絶やさなかったガンジーの表情や言動の中に、支配者に対する怒りや憎しみの感情がないことが窺えると思います。

銃弾を打たれ、倒れた時の最後のメッセージは、「マーラ、マーラ、マーラ」であり、その意味は「わたしはあなたを許します、あなたを愛します、あなたを祝福します」と言われています。



武器を持ち、容赦なく暴力を振るってくる相手と、非暴力で対峙するのは、口で言うほど簡単ではないと思われます。

殴られたり、蹴られたり、脅されたり、そして苦痛の中で、恐怖や不安に感じずにいるのは、きわめて困難と考えられます。

銃口を突き付けられ、死の恐怖から免れるのは、不可能に近いと思われます。



非暴力とは、相手との闘いではなく、自分の恐怖や不安との闘いであると思われます。

ガンジーは「真の非暴力は、混じり気のない勇敢さがなければ実践できません。」とも、言っています。



銃を突き付けて脅す人は、脅される人の中に恐怖を見つけたなら、目的が達成され安心するでしょう。

しかし、不安や恐怖を見つけ出せないのならば、今度は自分が不安になります。

脅した相手に、自分へ向けた憐れみや愛を感じたのなら、畏れを抱き、それ以上の手出し出来なくなると思います。

憎んで暴力を返してくるものには、容赦なく攻撃できますが、憐れみや愛を向けてくる相手には、その中に神の存在を感じるため何もすることはできません。

ガンジーはそのことを十分に承知していたと思われます。

どんな仕打ちを受けても、怒りや憎しみを持たなければ、それ以上の行為を相手はできず、自分は護られることを、確信していたと思われます。

そのために、不安や恐怖から、完全に解放されていたと思われます。

真理に従っていれば、全てが良い結果になることを、それまでの経験から確信し、自信を深め、他の人に伝えて行ったのだと思います。



ガンジーは強い信念と、高い行動力と、抜きん出た指導力を兼ね備えた偉人であるのは間違いありません。

しかし、インド独立を成し得たのは、彼の教えに賛同する、圧倒的な数の国民がいたからです。

普通の人たちが、武器を持つ支配者に、悠然と素手で立ち向かい、死の恐怖に打ち克ち、非暴力により支配者はインドから撤退していきました。



もし、怒りを愛の想いに変えられたなら、攻撃してくればくるほど、大きな愛の想いを相手に向けられることになり、相手は撤退せざるを得なくなります。

自分を愛する者を攻撃することは、神の摂理である因果律の働きにより、出来ないと思われます。



ガンジーが偉大なのは、インドを独立国家としたとともに、神の摂理が間違いなく働いていること証明したからです。

普通の人たちであっても、信念によって、怒りや憎しみを抑え、愛に変え得ることを証明したからです。

争いは、自己変革により根本的に解決できることを証明したからです。



人は神からの(生命)力により生かされています。

神から流れ込む力は愛ですが、人間の魂が未熟なために、時として怒りや憎しみの想いに変わってしまいます。

上流から流れてくる水が清くても、流れる土地が清くなければ、水は汚れてしまいます。

怒りや憎しみは、愛が人を通して変化したものです。



生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。

そこから、何らかの想いが生まれ、その想いを肉体で表現しようとします。

倒れている人を見たら、助けようとする想いが生まれて、手を差し伸べて起こすこともあります。

愛する人を喪ったら、悲しみの想いが生まれて、涙を流します。

人に裏切られたら、憎しみの想いが生まれて、報復してしまうかもしれません。

どんな想いを抱いたとしても、人に知られることはなく、行動に移しさえしなければ問題ないと考えてしまいます。

しかし、神の摂理は、目に見えない想いにも働いていて、摂理に反した怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの想いには、因果律により相応の結果が生じると思われます。



病気は、心身の調和が乱れ、不都合が生じた状態です。

調和を乱す原因がどこかに存在し、その結果としてさまざまな身体症状が表れます。

人は、身体、精神、霊(魂)から構成され、病気の原因はどこかの次元に存在しています。

医学は唯物的であり、身体(物質)を対象としていますので、霊的次元に原因があると思われる病気は不明とされてしまいます。



ガンは、変異した細胞が秩序なく増殖していく病気です。

あらゆる角度からガンを調べてみても、未だに原因は掴めず、よって治療は対処療法しかありません。

科学では認められていない霊(魂)に、根本原因があると思われます。



ガンを患っている人の多くは、過去の出来事から生じた想いが、表現できずに内に滞っていると思われます。

内にある想いは、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、貪欲など、摂理(愛)に反する想いです。

怒りや憎しみの想いを、言葉にしてみて下さい。

攻撃的で破壊的なものになると思われます。

その想いを、外に向かって表現したのなら、他者を傷つけたり、争いが起きてしまいます。

外への表現は、自分自身に不利益をもたらすことになるので抑えてしまいます。

外に表現できなければ、その想いは内に留まることになります。



過去のどこかに、強い想いを生じさせたイニシエーションとなる出来事があり、その後も同様な想いが生じていたと思われます。

人生に影響を与えてしまうほど、想いが大きくなってしまったため、因果律の働きで、肉体上に攻撃的で破壊的なガンが表現されたと思われます。

内なる想いは五感に触れず、自我により覆い隠され、全く気付かれなかったために、見える形となって肉体に表現されたと思われます。



想いが「原因」であり、目に見えるガンは「結果」ということになります。



この世を生きている目的は、自分(魂)を成長させるためです。

苦難や障害を乗り越え、人や動物や社会に奉仕していくことで成長していきます。

内にあった想いは、苦難を乗り越えたり、奉仕をして、成長しようとする魂の欲求を妨げていたと思われます。

とても根深く、大きくなってしまい、自分では解放できなかったと思われます。

予定していた通りに自分(魂)を成長させるためには、その想いを解放し、本来の自分を表現しなければいけません。



ガンが生じた目的は、無秩序に増殖し肉体を死に至らせるためではなく、内にある想いを解放させるためです。

偶発的な遺伝子のコピーミスではなく、自然法則が働いた結果として、ガンは生じていると考えられます。



ガンは(肉体的)生命を脅かすものであり、それまで気にも留めなかった、死と向かい合うことになります。

死に向かい合うことで、生きる意味を問うことになります。

今までのように、頭でいくら考えても答えはでません。

その問いかけは、奥底に潜んでいた魂にまで響いて、揺り起こしていきます。

眠っていた魂が目を覚まし、本当の自分が姿を現します。

本当の自分は、とらわれていた内なる想いに気付きます。



ガンの苦痛には、摂理に反した想いを抱き続けた償いとしての意味があります。

同時に、魂を目覚めさせ、本当に大切なものに気付かさせます。

本当に大切なものに気付くと、想いは変わっていきます。

同情、気遣い、労り、感謝などの想いに変わっていくと、魂のありさまも愛を帯びたものになっていくと思います。

根強い(愛に反する)想いは、魂と間に親和性を失い、流れ込む生命力により解放されていきます。



ガンは、魂を目覚めさせ、想いに気付き、解放するためにある同胞ですが、現代医学でガンは、いかなる手段をもってしても消滅させなければいけない敵と考えます。

そのため患者にとっては、闘わなければならない脅威となり、恐怖や不安に襲われます。

知らないから恐怖が生まれ、恐怖から逃れるために消滅させようとし、消滅させようとする暴力的な想いが、ガンを暴力的にさせていくと考えられます。



怒りや憎しみなどの想いが、変異した肉体として表現されていますが、自分には変わりありません。

その想いを生じさせたのは、自分です。

そのことに気付かずに、消滅させようとする行為は、責任からの逃避であり、明らかに間違っていると思います。

想いの責任を、病気の苦痛により取らされていることになります。

摂理に反した想いを抱くことが、過ちであることを、苦痛により学んでいるということになります。



恐怖に打ち克ち、死と正面から向き合った者が、魂に目覚め、解放させる生命力を手にします。

苦痛を味わい、ぎりぎりまで追い込まれた末に、最も大切なものは愛だと気付いた瞬間、神とのつながりが深まり、生命力が流れ込みます。

その生命力が、根強く滞っていた想いを解放させます。



ガンを根本から癒やすためには、まず魂を癒さなければいけません。

魂を癒すためには、想いを解放しなければいけません。

想いを解放するためには、その想いに気付かなければいけません。



すべては魂から生じる想いから始まります。

イニシエーションとなった出来事を、見つめ直して下さい。

深い傷を与えた出来事であり、その出来事を思い出すと、今でも強い想いが生じるはずです。

生き方や考え方を変えてしまうほどの、出来事であったかもしれません。

本当の自分の想いが表現できなくなっているのは、その出来事から生じた想いに縛られているためです。

しかし、想いを無理やり引き剥がして、外に出すような訳には行きません。

許せなかっために生じた想いであれば、ガンになり苦痛を経験して償い、魂が成長した今の自分であれば、許せるはずです。

記憶はなくなりませんが、想いは解放することができるはずです。



武力ではなく、怒りや憎しみを愛の想いに変えるという自己変革により、国家や社会が変えられることが、70年近く前に証明されました。

しかし、世界中で起きている争いは、未だに武力により解決しようとしているために、治まる気配は一向にありません。

武力では、怒りや憎しみの想いを消すことはできません。

その想いがある限り、必ず争いとして表現されます。



ガンを消滅すべき敵とみなし、外力(治療)により制圧しようとしてきましたが、満足の行く結果は得られていません。

数百年前に行われていた医療行為には、おぞましいものが存在しますが、今、常識として行われている治療も、野蛮で、愚かしいものだっだと言われる時が来るのかもしれません。



人は肉体を携えた魂です。

肉体は魂の表現媒体に過ぎません。

魂の様相が肉体上に表現されています。

想いが変われば魂が変わり、魂が変われば肉体も変わっていきます。

ガンは、病変を力により消滅させるのではなく、痛みを伴いながら、愛に反した想いを、愛の想いに変えていくことで、治ると考えられます。



自分の想いに注意を払い、大切にしましょう。

可能な限り、心を穏やかに過ごしましょう。

怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの想いを抱くと、肉体上のガンに反映されてしまうと思われます。

すべての人、出来事を、善意に捉えるようにしましょう。

降りかかる困難や苦痛は、魂を成長させ、目覚めさせ、癒やすためにある必要なプロセスとして受けとめましょう。



相手を認め、許すという愛の想いは、争いを鎮め、平和をもたらします。

国と国の争いも、人と人の争いも、身体の中で起きている争いも、すべて想いから生じています。

力ではなく、自分(魂)の変容により、根本的に解決されます。

外を変えるのではなく、内が変わることによって解決されます。

それは万物を貫く、不変の法則だと思います。



病気は治療で治るのではなく、神の摂理に合わせることで治ります。

なぜなら、神の摂理を学ぶために病気があるからです。



神の摂理は愛です。

因果律という法則を通して、過ちを犯しては償いながら、愛を学ぶために人は生きていると思います。






参考ページ: 「ガンは愛により癒される」

2015年5月8日金曜日

先に逝った理由



私の隣のお宅の庭には、今、さつきの花が咲いています。

5年前位でしょうか、ご主人が休みの日には、欠かさず庭の手入れをされていました。

ご主人は会社務めをされていて、定年間近であり、お子さんは結婚されて独立し、ご夫婦二人で静かに暮らしていました。

物静かな方で、あまり話す機会がなかったのですが、私の飼い犬にも塀越しに良く声をかけて下さり、動物好きなので安心していました。



気が向いた時しかやらない私とは違って、朝から夕方まで、黙々と雑草をむしったり、色々な種類の花や木を植えられていました。

暑い夏の日には、麦わら帽子をかぶり、日焼けしながら庭の手入れをされていた姿が印象に残っています。

その真剣な眼差しを見ながら、趣味と言うより、何か必死に思いを込めているように感じましたが、その思いが何なのかは分かりませんでした。

長い月日をかけて、ご主人が色とりどりの花や木を植えていき、きれいな庭になっていきました。



しばらくして庭の手入れをするご主人の姿を見かけなくなりました。

そして、近所の方から病気で入院されたと聞きました。

奥さんは看病のために、家を留守にされている時間が多くなっていきました。



数か月後、ご主人が脳腫瘍で亡くなられたと聞きました。

60代前半であり、定年後の時間をご夫婦でゆったりと過ごされるはずだったと思われます。



亡くなられた後、道で会ったり、回覧板を届けたりすると、奥さんは笑みを浮かべて、挨拶されていますが、心中はどうだったのでしょうか。

以前、庭から回って、おみやげを届けにいった時に、居間で横になり休まれていました。

一人で外に出かける姿は、めったに見かけません。

まだ明るいうちに、カーテンを閉めてしまいます。

お子さんがお孫さんを連れて、時々訪ねて来て、一緒に庭で遊んだりしてますが、気のせいか、笑顔の中に、寂しさや悲しみを感じてしまいます。

大切な人を喪った悲しみ、寂しさは、いかなる喜びであっても、埋められないのかもしれません。



今、ご主人の姿が思い出されます。

土にまみれながら、手入れされている、横顔と真剣なまなざしを。

そして、こんなことをつい思ってしまいます。

健康そのものだったご主人は、この先、自分に起こる出来事など想像もしていなかったが、長く生きられないこと、奥さんと近く別れの日がくるのを、魂は承知していた。

そして、奥さんのために、何か形に残るものを遺しておきたかった。

いなくなった後、寂しさを少しでも紛らわすため、自分を感じ取って欲しいために、いつでも見える、もっとも分かりやすい形で。



ご主人は、魂の奥にしまわれたこの世のシナリオ(青写真)を無意識に垣間見て、庭に想いを託したのかもしれません。

庭は雑草も生えることなく、奥さんがきれいに手入れされていて、以前のままです。

庭の木々や花々は大切な形見となっていて、奥さんはご主人の意図をしっかりと汲み取っているように思えました。



同じことが身に起きても、生まれる想いはさまざまです。

ご主人を亡くされて、前よりも活き活きとされている奥さんの話を聞きます。

新しい伴侶を見つけて、人生を再出発された人もいます。

一方、悲しみや苦しみに襲われて、そこから立ち直れない人もいます。

同じ配偶者との死別で、どうしてここまで違うのでしょうか?

すぐ立ち直れる人は楽観的で、立ち直れない人は悲観的な性格のためだからでしょうか?

ご主人に、頼りきっていたからでしょうか?

ご主人が、心の大きな部分を占めていたからでしょうか?

そうではなく、ご夫婦の結びつきに、違いがあるのかもしれません。



すべての人は老いてゆき、やがて死が訪れます。

肉体から解放され、次の世界へ移行していきます。

暗闇の後に、待ち受けているのは愛する人です。

悲しみはすべて喜びに変わり、夢にまで見た再会が、現実のものとなります。

先に行った人は、向こうの世界のあちらこちらを、案内してくれるだろうと思います。

そして、愛する人が、この世を去って、意外にも自分ほど悲しんでいなかった理由が分かります。

明るく、自由な世界であり、この世に残された人に目を向けない限り、悲しみはないことに気付きます。

出会いのような光輝く時を、しばらく過ごすことになります。



どれ位、共に過ごした後でしょうか、魂は次の段階に進んでいきます。

自らの魂の成長に応じた世界に赴くことになります。

この世は、さまざまな成長過程にある魂が、同じ地上(次元)に住んでいる世界です。

権力(地位)がある人、財産のある人、知性のある人たちが、強者であり、上に立ちやすい世界です。

向こうの世界は、この世とは大きく異なり、魂(霊性)がすべてを決定します。

思いやり、やさしさ、親切心に溢れた魂ほど霊性が高く、上の界層に行きます。

力とは権力や腕力ではなく愛であり、思いやりがあり、やさしいほど強者と言うことになります。

上の界層にいる人は下の界層に行けますが、下の界層から上の界層には行けません。

上の界層にいる人は下の界層にいる人の想いを理解できますが、下の界層にいる人は上の界層にいる人の想いを理解できません。

お互いの想いが分かり合える、魂(霊性)が同じレベルで、親和性のあるもの同士が、集団となり生活をしています。

たとえ婚姻関係があったとしても、霊性が違うのであれば、それそれが赴く世界は違ってきます。

しかし、向こうの世界での別れは、この世のような悲しみはないと思われます。

この世でも、類は友を呼ぶと言われるように、性格や趣味が似たもの同士が集まる傾向がありますが、向こうでは厳格に自然法則が働き、この世とは比較にならないほど、魂の似たもの同士が引き合い、結びつくことになります。

愛する者同士は、必ず再会を果たせます。

しかし、末永く一緒にいられるとは限らないということになります。



これらの自然法則から、私なりに考えてみました。




なぜ、これほど悲しまなければいけないのか?



魂と魂に親和性があり、つながりが強いためではないでしょうか。

親和性のある魂との出会いは、運命的で素晴らしいものであり、過ごした日々は幸せに満ちたものであり、共に生きる喜びを強く感じると思います。

しかし、離れ離れになってしまうと、耐えられないほどの悲しみ、苦しみを感じてしまうと思われます。




なぜ、私を残して逝ってしまったのか?



先に行った人は、残された人より、霊的に成長している魂だったからではないでしょうか。

夫婦として対等でも、年齢が下であっても、今までの人生で霊的に一歩、二歩、先に進んでいたのかもしれません。

この世で、魂の成長度を計ることはできませんが、もし、先に行った人が残された人よりも、思いやりや、やさしさに溢れ、寛容な人であれば、霊的に差があると思われます。

人生の最後近くまで、一緒に生きられたとしたら、悲しみや孤独とは無縁の日々が続いたでしょうが、霊的な差はなかなか埋められないのかもしれません。



この世に残された人から見れば、死別は悲劇です。

しかし、霊的には悲劇ではなく試練であり、悲しみを乗り越えていくことで、魂を大きく成長させるという、きわめて重要な意味があります。

先に行った人は、向こうで歩みを止めて、この試練を乗り越えていく姿を、見守っていると思います。

悲しく、つらい日々は無駄なものではなく、その差は少しずつ小さくなっていると考えられます。

そして、差が無くなった時に、神の摂理により、死が訪れることになるのかもしれません。



死の大きな意味は、残された人の魂の成長にもあると思います。

安穏の日々からは学ぶものはなく、つらいことですが、試練の最中に大切なことを、身を持って学びます。

深い悲しみは、魂を目覚めさせ、何よりも大切なことに気付きます。

愛する、愛されること以上に、大切なものはありません。

愛する、愛されること以上の、喜びはありません。

もしかしたら、先に行った人は、この世ですでに学んでいたのかもしれません。



先に行った人の本当の想いは、死によって分かるのであり、その想いこそ残された人が学ぶべきものなのかもしれません。

残された人は先に行った人の想いを学び、この世で表現して、成長していくのかもしれません。

先に行った人の想いを表現していくことで、同じ想いを共有できるようになっていくのかもしれません。

向こうでも、残してきた人の想いに気付き、共有しようとしていると思います。

もし、残された人が向こうに行き、先に行った人との間に、霊的な差があり、想いを共有できなければ、両者を結びつける力は弱いため、末永く一緒にいられないかもしれません。




先に逝った理由は、お互いが離れて本当の想いを知り、そして共有するようになり、魂が、より深く、より強く結びつき、再会の後も永続的に一緒にいられるため、と私は思います。





参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」
         
                        「向こうにいる人の想い」

                        「この世の出来事の意味を知る時」

                        「その一瞬の時のために強く生き抜く」