2015年12月20日日曜日

苦しみは自分を変えて行く



私が中学1年生、確かホームルームの時だったと記憶していますが、女性の担任が元同僚だった男性教師について話をしました。

その教師は、クラブ活動の指導中に首を骨折してしまい、首から下が完全に麻痺して動かなくなってしまったそうです。

担任は、「若いのに、本当に可哀想だった」と、しみじみと話をしていたのを覚えています。

そんな話を聞いても、全く知らない人だったので、別段、何も感じませんでした。



十数年の時を経た、90年代のある日、地元に新しい美術館が出来たと耳にしました。

その美術館に展示してあるのは、草花の水彩画とそれに添えた詩でした。

作者は口に絵筆を咥えて、絵や文字を書いていると聞きました。

そして、元教師で、学校での事故で、手足が麻痺して動かなくなってしまった人だと聞いて、もしかしたら、中学生の時に担任から聞いた、あの先生のことかもしれないと思いました。

予感は、当たっていました。

画家の名は、星野富弘さんと言います。



1946年生まれの星野さんは、子供の頃から、人一倍運動能力が優れていて、地元の大学を卒業した後、体育教師になりました。

赴任した中学校で、体操部の指導中、跳び箱を使った空中回転の着地に失敗をして、頚椎を折ってしまったそうです。

九死に一生を得ましたが、手や足は全く動かなくなってしまい、教師になって2年目の24歳で辞めざるを得なくなりました。



20代前半の若い男性が、いきなり首から下が動かなくなれば、どう思うのでしょうか?

想像するだけでも恐ろしいものがあり、同年代の私であれば、自分の人生は終わったと思うに違いありません。

悪い夢でも見てるような気分になり、現実に起きたことを認められないかもしれません。

星野さんは、学生時代に体操や登山で心身を鍛えていましたが、人に負けないと思っていた「根性」と「忍耐」は、過酷な現実を前にして、1週間で吹き飛んでしまったそうです。

そして、絶望の淵に沈んだまま、何回も死のうと思ったそうです。



星野さんに残されている死ぬ手段は、舌を噛み切ることと、何も食べないで餓死することでした。

舌を噛み切ろうと何回もしたそうですがだめで、食事を摂らずに餓死を試みましたが、やはりだめであり、後にこう語っています。

けがをして、もう一生首からしたを動かすことができないのだと分かった時に、「俺はもう生きている価値はない」と思いました。
夜は、「次の朝には死んでいたらいいのに」と思いながら寝るのですが、いつもどおりの朝が来て、看護婦さんが脈や血圧を測ると正常値なのです。食事を抜けば死ねるかと思って幾日か抜いてみたのですが、腹が減って減って・・・・・次の食事を腹いっぱい食べてしまいました。あの時のご飯、うまかったなあ。
その時、「いのちというものは、俺とは別にあるんだ、俺がいくら生きることをあきらめても、いのちは一生懸命生きようとしているのだ」と思いました。私の努力でいのちがあるのではなく、「いのちが一生懸命俺を生かしてくれている」と気づいたのです。
「自分は今、やさしくて大きなものに生かされているんだ、死にたいなんて、いのちに申し訳ない」、そう思いました。  『いのちより大切なもの』より



お父さんは既に他界していて、病室での介護は、お母さん一人に任されました。

自分の息子が、首から下が全く動かせない重度の障がい者となってしまった時の、母親の気持ちは、他の人にはとても理解できません。

しかし、星野さんは自分の現状に対する怒りの持って行き場がなく、「何で産んだんだ」と、お母さんを怒鳴ってしまったそうです。

それを聞いたお母さんの胸は、きっと張り裂けそうだったと思います。

入院当初の、介護するお母さんの様子を、こう語っています。

24歳でけがをして入院していた時、膀胱に留置カテーテル(管)を入れて尿を排泄していました。
最初の頃ですが、留置カテーテルに点滴と同じ細い管を接続していて、管が詰まってしまうことがよくありました。私は体が麻痺しているので、普段は尿意を感じません。
しかし、管が詰まり膀胱が大きく膨れてくると、体じゅうに汗が噴き出て、気づいた時には心臓の動悸が激しくなり、息が上がり、大変な状況になっています。そんな時は看護師さんを呼んで、管を洗浄してもらうのですが、とにかくよく詰まるので、そのたびに苦しい思いをしました。その時も看護師さんを呼んだのですが、忙しいのかなかなか来てくれません。
苦しがっている私をみかねて、母は、私の尿道につながっていたカテーテルを口にくわえ、息を吹き込んだり吸ったりして管の詰まりを取ってくれたのです。母は時々それをしてくれました。息子の苦しむ姿を見ていられず、思わず体が動いたのかもしれません。
母にしかできないことだと思います。  『いのちより大切なもの』 より

病室での星野さんとお母さん


つらい闘病生活を続けていましたが、星野さんにとって一番堪えたのは、治る見込みのない怪我であり、この状態が一生続くということだったと思います。

絶望的とも言える日々を過ごしていた星野さんは、受傷から2年経って、ある看護学生から口で文字が書けるかやってみましょうと言われました。

言われるままに、口にマジックペンを咥えて、「ア」という一文字を書いてみました。

手足の自由を奪われ無力だと感じていた星野にとって、たとえ汚い文字であっても書けたことは、予想外の大きな喜びであり、前に踏み出すきっかけとなりました。
初めて口で書いた文字
私たちは、当たり前のように手を使って字を書いていますが、星野さんは首から上に残された機能を使って書かなければいけません。

単純だけれども、難しい作業を、日々病室で繰り返していました。



そんなある日、見舞いの人にもらった花に目が留まりました。

改めて見ると、その色、その形の美しさに、驚かされ、すべてのものが神様が作ってくれたと思ったそうです。

花には一つとして余分なものも、足らないものもなく、色も形も調和を持っていて、そういうものを素直に写していれば、いい絵が描けるんじゃないかと考え、花を先生だと思って絵を描いてみようと思い立ち、花の絵を描き始めたそうです。

下の絵は初期の作品ですが、無我夢中で描いている様子が、伝わってくるようです。
百日草 (1975年)

入院は長期に及びました。

その間「あれがなかったら俺の人生は違っていた」と、何度も思ったそうです。

病室の天井を眺めながら、何のために生きているのだろう、何を喜びとしたらよいのだろう、これからどうなるのだろう、と思ったそうです。



ある日、大学時代の先輩が病室に見舞いに来て、三浦綾子さんの「塩狩峠」という本を貸してくれました。

内容は、北海道の鉄道員の話であり、連結器が外れて、暴走し始めようとする列車を、自分の身体を車輪の下に投げ入れて列車を止めて、乗客の命を救ったという実話です。

自分の身を犠牲にして、人を救うというところに、もの凄く惹かれたそうです。

主人公である鉄道員はクリスチャンであり、三浦綾子さんの小説を次から次へと借りて読んで、キリスト教に興味を持ち、それから2年後に、病室で洗礼を受けたそうです。



口で繊細な花を描くのは、並大抵の忍耐力と集中力はで務まらないと思いますが、マジックペンから絵筆に変えて、その後も、病室でたくさんの水彩画を描き続けて行きます。

そして、入院から9年目、描き溜めた絵が60枚になった頃、ある人から意外なことを言われます。

知り合いの身障者センターの所長さんから、展覧会をやってみないかと勧められたそうです。

星野さんは、とても人に見せられる絵ではないと、当初はしりごみます。

しかし、お母さんと二人三脚で描いた絵を通して、福祉で一番大切な心のつながりを紹介したいという所長さんの熱意に打たれ、承諾します。

1979年、初めての展覧会が開催されることになります。

どうせ見てもらうなら、ただ単に口で描いた絵を見てもらうという展覧会ではなく、ひとりの人間の「生きざま」の紹介をしてみてはどうかと言われ、初めて書いた文字、未完成の初期の絵も展示することに決めたそうです。

絵を描きながら思っていたことを二・三行の言葉にして絵に添えましたが、「書きはじめて私は、また自分の弱さやみにくさをさらに知らされるような気がした。本当の気持ちは書くことができず、自分を繕ってしまうのである。どんな冒険に立ち向かうよりも自分をさらけ出すことのほうが、ずっと勇気が必要なのではないかと思った」と、後述しています。

この展覧会は、多くの人々に感動を与え、反響を呼んで、作品は一人歩きをし始め、星野さんとお母さんの二人だけのものではなくなって行きました。



9年という長い入院生活を終えて、生まれ育った村に戻り、豊かな自然に囲まれた環境で、その後も絵を描き続けて行きました。

身の回りの世話や絵の製作の介助は、それまでお母さんがやっていましたが、大きな転機が訪れます。

1982年に、教会を通して知り合った昌子さんと結婚することになり、その役が引き継がれました。

重度の身障者との結婚は、介護の大変さや、経済的な面を含めて、苦労の絶えない人生になるかもしれません。

若い女性には、到底受け入れられないような気がしますが、昌子さんは星野さんからのプロポーズの言葉を聞き、こう思ったそうです。

愛する気持ちが大きくなってきたときに
逆の祈りをしている自分に気づいたんですね。
もうほんとにそれが大きくなって、
愛することをやめさせてくださいというような・・・・・・ 
         ~星野さんへ宛てた手紙より~

星野さんと昌子さんは、出会うべくして出会ったとしか思えません。

新たな気持ちで意欲的に絵を描いて行きますが、絵具の調合一つにしても、星野さんが納得できる色を作るまでに、昌子さんの苦労があったことを考えると、二人の共同作品と言ってもいいのかもしれません。



日々の生活で触れる自然の中に、驚きがあったり、発見があったりして、それを見つけた時の悦びを絵と詩で表現していったと思われます。

動くことの出来ない星野さんは、その場所から動くことのない花に対して、特別な感情を抱いていたのかもしれません。

動きはなくても、そのありさまは刻々と変化し、しっかりと生きている花の様子に、共感したのかもしれません。

花の想いの様なものを、五感を超えて感じ取っていたのかもしれません。

花を通して、自然の摂理を教えられ、魂が慰められていたのかもしれません。
                 


星野さんは、今でこそ穏やかそうな表情をされていますが、そこに辿り着くまでには、長い時が必要だったと思われます。

動こうとしても、動けないのは、想像をはるかに超えた苦難です。

自由に動ける人を見て、羨ましく思わないでいられるはずもなく、強い不満や劣等感は、根強く居座っていたと推察されます。

不満や劣等感が募っていくと、怒りや憎しみ、嫉妬の想いが生まれ易くなります。

そんな想いが内にあると、絵の中に正直に現れてしまい、人の心に触れる絵にはならないと思います。



醜い想いを抱いてしまうと、自然の摂理が働いて、苦しくなってしまいます。

自分の想いにより、自分が苦しんでしまう様子を、こう表しています。

「私は悲しい心をもって生まれてしまったものだと思った。
周囲の人が不幸になったとき自分が幸福だと思い、
他人が幸福になれば自分が不幸になってしまう。
自分は少しも変わらないのに、幸福になったり
不幸になったりしてしまう。
周囲に左右されない本当の幸福とはないのだろうか。
自分が正しくもないのに、人を許せない苦しみは、
手足を動かせない苦しみをはるかに上回っていた。」
  『星野富弘 ことばの雫』 より



苦しまずに済むためには、自然の摂理に適った物事の捉え方をしなければいけません。

星野さんの心が変化していく様子です。

「長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて通ってきた。
そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持ちを持つようになっていた。
しかし、(車椅子に付けた)小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが、私の気持ちを、とても和やかにしてくれるようになったのである。
こんな小さなことにも喜べるんだったら、私は、体は動かないけれども何か自分で楽しく生活できることも出てくるんじゃないかと、そんなふうに思いました。
人も皆、この鈴のようなものを、心の中に授かっているのではないだろうか。
その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることはなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。
いやだと思っていたものが、美しく見えるようになった。
・・・・・それは、心の中に、宝物をもったようなよろこびでもありました。

苦しい時に踏み出す1歩は心細いものだけれど、
その1歩の所に、くよくよしていた時には想像もつかなかった世界が広がっていることがある。」
『星野富弘 ことばの雫』 より

苦しい思いをしたくないので、そんな想いが湧かない様な物事の捉え方をするようになり、自然に苦しさから解放されていったのかもしれません。

最初の一歩を踏み出すのは、口で言うほど簡単なものではなかったと思います。

でも、踏み出さない限り、同じ場所に留まったままです。

勇気を出して、踏み出した先にあったのは、気付きそうで気付かない大切なことであり、そんな宝物を、いくつも手にして行きます。

そして、それまで気にも留めなかったありふれた日常の中に、ささやかな悦びを見つけていくことで、心が次第に穏やかになっていったのかもしれません。



 
人は、ただ生きているのではなく、目的があってこの世を生きています。

さまざまな人生経験を通して、自分を成長させるためです。

楽しい経験では、成長にはつながらず、出来れば避けて通りたいような困難や障害を、もがきながらも乗り越えていく過程で、強く成長していきます。

苦しみや悲しみの経験は、決して無駄なものではなく、大切な宝物を手に入れ、自分を成長させるためにあります。

そんなものを手に入れるより、楽しい人生の方が良いと思うかもしれません。

もし、この世だけで終わってしまうのであれば、そう考えても仕方ありません。

しかし、死んで消えてなくなってしまう訳ではなく、次の世界で新しい生活が待っています。

新しい生活をするのに、知っていなければならない、守らなければならない、きまりのようなものがあり、それをこの世で学んでいます。

楽しいだけの人生は、学校を遊んで過ごしたことになり、卒業してから苦労することになります。

苦しみの多い人生は、苦労して多くのことを学んだことになり、成長した大きな喜びに包まれ、活かす機会が与えられます。



この世では、肉体しか見えないために、それぞれが独立した存在のように見えますが、次の世界に行くと肉体はなくなり、真の自分(魂)だけになり、途方もなく大きな存在とつながり、共に生きていることに気付きます。

途方もなく大きな存在から、生命力をもらって生きていることを実感します。


ところで、人は植物に親しむ気持ちがありますが、どうしてでしょう?

人も植物も共に自然の一部であり、「生命」と言うつながりを感じているからだと思います。

野に咲く花と、似せて造られた花を観て、どちらが綺麗でしょうか?

野に咲く花は、生命の輝きがあり、調和という美がありますが、人が造ったものに輝きはなく、美しさは足元にも及びません。

植物も動物も、途方もなく大きな存在から、生命力を受け取って生きています。



受け取っている生命力は、愛を帯びています。

花を美しく感じるのは、生命力が愛を帯びているからです。

同じ力が人間にも流れて、愛を表現しようとしますが、肉体があり、この世を生きるもう一人の自分がいて、思うようにできません。

途方もなく大きな存在は、この世でさまざまな出来事を経験させて、障壁となるものを取り除き、愛を表現させようとしています。

 
 
生きることは、愛することに限りなく近いと思います。




私の住んでいるところは、利根川という大きな河が流れています。

上流の方なので、河原には大きな石がごろごろしています。

穏やかな流れの時は、その場所に留まっていられますが、大雨が降り濁流になると、押し流されて、川底をゴロゴロと転がっていきます。

流れが緩やかになると石は留まり、再び流れが急になると、川底をまた転がっていきます。

転がりながら、少しずつ角が取れて、小さくなりながら流されていきます。

下流に行くほど川幅が広くなり、流れは緩やかになりますが、角が取れて丸くなった石は、逆らうことなく流れていくようになります。

すっかり角が取れて、小さくなった石は、やがて海に流れ込んで行きます。

人もさまざまな出来事を経験して、余分なところやひずんだところは削られていき、自然の流れに逆らわないように、丸く、小さくなって行くのかもしれません。

途方もなく大きな存在の力の前では、どんなに抵抗しても無駄であり、素直に流れに従うしかないと思います。

その力は、愛の力だと信じて。


ふと、そんなことを思いました。



利根川と合流する渡良瀬川を見ながら、星野さんはこんなことを感じたそうです。

怪我をして全く動けないままに、将来のこと、過ぎた日のことを思い、悩んでいた時、ふと激流に流されながら、元いた岸に泳ぎつこうともがいている自分の姿を見たような気がした。そして思った。「何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか・・・・流されている私に、今できるいちばんよいことをすればいいんだ」   『星野富弘 ことばの雫』 より



身近な草花や、自然の営みの中に、やさしさや、きまりのようなものに気付いていったのだと思います。

気付いたことを、他の人たちに伝えて、励ましたり、癒したりするのが、今できるいちばんよいことだと、星野さんは思ったのに違いありません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

























2015年12月6日日曜日

人生のシナリオは自分を成長させるためにある



人生には、予め決まっているシナリオ(青写真)があると言われています。

そんなのあるわけがないだろうと言われたとしても、私はあると思います。



もし私が「あなたの人生で、大きな出来事は何ですか?」と、問われたならば、次の3つを答えるでしょう。

病気を癒す力の出現。

人生に革命をもたらした、シルバーバーチの霊訓と出会い。

人生で最も屈辱的で、つらい思いをした、仕事上の不祥事。



その3つが、わずか1ヶ月の間に、立て続けに起こりました。

偶然重なったとは、とても考えられません。

いくら鈍感な私でも、計画的に起きているとしか、思わざるを得ませんでした。



仕事上の不祥事により、追い詰められて行く中で、シルバーバーチの霊訓と出会い、貪るように読み進んで、慰められ、この世には見えない法則が働いていることを知りました。

そして、突然、出現した治癒力により、病が癒されるのを目の当たりにし、そこに秘められた意味について知りました。

3つのことは、密接に関連していて、どれ1つが欠けたとしても、今の私はないと思うと、シナリオがあるとしか思えないのです。



生まれて来た目的を果たすために、自分だけのシナリオが全ての人にあります。

今、書いているような、霊的な事実を広めるのが、私の主要なシナリオのようです。



若い頃、何のために生きているのか思い悩む時がありました。

死んで無になる存在であれば、虚無感に襲われます。

無にならないのであれば安堵しますが、肉体を超えた何かが存在していなければいけません。

もし、無になるのであれば、人生に永続的な目的などありませんが、生まれる前も、そして肉体が無くなった後も、何かが存在し活動しているのならば、生きている目的について、答えが見つけられそうです。



肉体を超えた何かが、真の自分であり、生命の本質です。

多くの人は、それを魂と呼んでいます。

目に見える肉体は、自分(魂)を表現する媒体に過ぎません。

肉体は年とともに老いて、やがて朽ちますが、魂は老いることも、朽ちることもなく、成長し続けます。


私たちは、成長するために生きています。

魂が成長するためには、何らかの体験が必要になります。

人生には、楽しいこと、うれしいこともありますが、つらいこと、悲しいこともあります。

誰もが、人生は楽しく生きたいと思っています。

どちらかを選べるのならば、ほとんどの人は楽しいことを選ぶでしょう。

つらいことはなるべく避けて、楽しい人生にして行くでしょう。

楽しいことは、良い思い出になります。

しかし、そこから学ぶものは、あまりないのかもしれません。



子供の頃ですが、自転車に乗って、友達と良く遊びに行きました。

自転車には、初めから乗れるはずもなく、何回も転んでひざをすりむきながら、乗れるようになりました。

何かを身に付けるのには、多少のつらさを伴うものですが、将来、活かせると思うので、人は苦しい思いや痛い思いをしながらも、身に付けようとします。

時に、絶対に起きて欲しくない、不幸や不運と言われるような出来事が起きます。

その苦しみや痛みが大きいのであれば、それだけ価値のあるものを身に付けようとしているのであり、今はとてもつらくても、大いに活かせる機会が待っていると思われます。

そして、何かを身に付けたり、学んだりするのが、魂が成長することであり、生きている目的だと思います。



もし、人生が何も決まっていなければ、ほとんどの人はつらい方ではなく、楽しい方を選んで進んで行ってしまうでしょう。

けれども、心の奥では、楽しいだけの人生では、自分が成長しないことも判っています。

魂は、自分の足りないところ、弱いところを自覚していて、克服し、成長することを希求していますが、この世では肉体があり、誘惑もあるため、そちらの欲求が勝ってしまうと、かき消されてしまいます。

人間は弱い存在であるがために、この世で確実に成長するため、弱点を克服して行くためには、ある程度、人生が決められている必要があり、そのために、最善のシナリオが自然の摂理の働きにより用意されることになります。

生まれる前に、全てを承知した上で、魂は母体に宿ります。

この世に誕生し、シナリオに沿って人生が展開されて行きます。



シナリオに沿った出来事が、人生のどこで、どのような形で生じるのか判りません。

事前に判っていれば、心の準備が出来て良かったと思うかもしれません。

しかし、判っていて平静に迎えられる人が、果たしてどれ位いるでしょうか?

大きな病気になると判っていたら、それを回避しようと必死になるような気がします。

もし、早く死ぬことが判っていたなら、勉強や仕事や結婚もしないかもしれませんし、あの人は長生きできるのに、どうして私は早く死んでしまうのと、強い不満を抱いたまま生きてしまうかもしれません。

人生を真剣に生きるために、シナリオは記憶から消去されていると考えられます。



そのような理由から、シナリオで決められていた出来事は、何の前触れもなく起きると考えられます。

人生を変えてしまうような出来事が、突然、身に降りかかってくれば、何が悪かったのだろうと、過去を振り返ったり、周囲を見回して原因を探します。

もし、原因が見つけられなければ、何も悪いことをしていないのに、何故、自分だけがこんな目に遭わなければいけないのかと嘆いたり、運命を恨んでしまうかもしれません。

理不尽さをぶつけるところはなく、神を呪ってしまう人もいます。

しかし、人を不幸にさせるためではなく、何かを学び、自分を成長させるために起きているのであり、自分自身で決めていたことを自覚しなければいけません。



この世の出来事には、シナリオではなく、今生での自分の想いや行いが原因となり、その結果として生じたものも多くあります。

また、他者の自由意志により引き起こされたものや、周囲に因果律が働いて生じたものもあると思います。

もし、はっきりとした原因が見つけられなかったら、シナリオに従って起きた可能性があると思われます。

子供の重い病気や、身近な人の不意の死は、本人のシナリオであると同時に、周りにいる人にとっても、予定されていたシナリオであるかもしれません。

シナリオは過去世に基づいて、魂を成長させるのに最も有効な手段が選ばれ、それが生じる環境が用意されると思われます。

シナリオにある出来事は、その人の魂を成長させる最適のタイミングで起こると考えられます。



過去の過ちを清算する償いとしてのシナリオもあります。

そして、周囲の人を啓発する使命を帯びたシナリオもあります。

偉人として有名なヘレン・ケラーがいます。

彼女は、3重苦という重い障害を乗り越えて行きました。

そして、弱者の視点に立って、社会福祉の推進と啓蒙に生涯を捧げました。

きわめて成長した魂が、さらなる成長を求めるのならば、彼女のような過酷で壮大なシナリオが用意されると思います。



乙武洋匡さんは「五体不満足」という本を書いて、それがベストセラーになりました。

身体障害を1つの特徴と捉えて、普通の人よりも明るく生きているように見えます。

社会的弱者ばかりでなく、生き方に悩む人が、彼の生き様や考え方を見聞きして、励まされていると思います。

自らが重い障害にも負けない強さや明るさを見せて、出会う人たちに困難に立ち向かって行く力を与えているように思えてなりません。

人一倍、力強く、明るく生きて行けるのは、周囲の人の魂を鼓舞させるというシナリオがあり、心の奥底で自覚しているからだと思います。



外面の内側に本当の意味が隠されています。

しかし、多くの人は外面だけを見て判断していると思われます。

身体的特徴や障害、地位や肩書きなどは、その人の外面を表しているだけであり、その人の本質ではありません。

不幸にしか見えない出来事の内側に意味があり、そこに学ぶべき大切なことが隠されています。

もし、学ぶものが何もなければ、病気はいたずらに人に苦痛を与えたり、死に追いやるだけのものになります。

別れの悲しみには、何の意味もありません。

そもそも、悲しみなどなくて良いはずです。

学ぶものがなければ、戦争は果てしなく続くことになるでしょう。

怒りや憎しみが世界を支配して、憎しみ合うために生まれて来たことになってしまうかもしれません。

不可解極まりない、矛盾に満ちた世界となり、人が生きていく価値など、どこにも見出せないでしょう。

しかし、現実は違います。

(肉体的な)命にかかわる病を患ったのであれば、生きていることに感謝して、以前より人生を大切にしている人が多いようです。

愛する人を喪い、深い悲しみに中で、大切なものは見えるものの中にないことに、気付く人もいます。

戦争で街が破壊され、人が死に傷ついていくのを経験したならば、怒りや憎しみの表現がいかに愚かな行為であり、悲しみや憎しみしか生み出さないことに気付く人がいます。



いくら考えてみても、解決方法が見つからない出来事であれば、今まで働いていた頭(脳)は鳴りを潜め、それまで眠っていた魂が目を覚まします。

本当の自分が目覚め、進むべき方向を指し示します。

その方向がシナリオに沿ったものであり、魂の成長を促すことになります。

迷うことなく、そちらに進むべきです。

無我夢中で、その方向に進んで行くと、やがて道が開け、その先に学ぶべき真実を見つけた瞬間、明るい光が差し込んできます。

起きて欲しくはなかったと思うような出来事は、奥底にある魂にまで響いて、目覚めさせ、大切なものに気付かさせますが、真相は、この世で大切なものに気付くために、魂に響くようなが出来事が、シナリオに沿って生じていると思われます。



世の中には、不幸(と言われるよう)な出来事の只中にいる人もいれば、幸せを感じながら生きている人もいます。

この世だけの人生であれば、それでは不公平であり、不平等です。

しかし、人生はこの世だけでなく、過去もあり、未来もあります。

幸せを感じながら生きている人の中には、過去(世)に同じ様な出来事を経験し、すでに学んでいて、今があるのかもしれません。

そして、これからも別の経験して、学び、成長していくことになると思います。

まだ、学んでいない人には、この先、いくつもの出来事が待っているでしょう。

この世は、さまざまな過程の人が混在し、人生の一断面を見ているに過ぎません。

他の人の姿は、過去の自分の姿であり、未来の自分の姿なのかもしれません。

足りないものを学び取り、自分(魂)を強くするために、その人にとって必要な人生を、今、生きています。

学び取ることが違えば、それぞれ人生は違っていて当然であり、自分と他人を比較すること自体が誤りです。



病気、不意の別れ、争いなど、決して経験したくありませんが、シナリオには、そんな出来事が多く含まれています。

それは、この世にしか病気、不意の別れ、戦争は存在せず、あの世では学べないからです。

あの世にないものが、この世に存在しています。

暗闇の中で、光が輝くように、この世は比較対照となるものが存在することにより、大切なことが際立ちます。

比較対照となるものがない、あの世では学びにくいのです。

喪うものがないから、学びにくいのです。

この世にしかない苦痛を通して、学んでいるのです。



本当に大切なものは、見えません。

人に教えてもらうものではなく、魂が目覚め、内から得心するものです。

何もないような人生では、魂は目覚めず、この世で大切なものが何も学べないことになります。



ブログを書いていて、私はいつも驚いていることがあります。

苦痛を与える病気も、悲しい別れも、悲惨な戦争も、そこから学ぶものは、いつも1点に集約されてしまうのです。

それは「愛」です。

目に見えない「愛」の大切さを、この世でしか出来ない体験を通して学び取っているとしか思えません。

一見すると、愛とは関係ないように見える出来事もありますが、愛を表現するためには、より強くならなければならず、勇気と、強い意志が試される時もあると考えられます。



どのような出来事も、愛により、乗り越えていくことができるはずです。

全ての苦しみは、愛により終わりにすることができるはずです。

なぜなら、愛を学ぶために、出来事が生じていると考えられるからです。



人は、いつの日か死にますが、この世でつらい思いをして学んだ人は、その時にきっと胸をなでおろすと思います。

あの世は、魂の世界です。

肉体がないために、隠し立てができません。

目に見えていた肉体(物質)が見えなくなり、目に見えなかった魂と、そこから生まれる想いが露わになります。

美しいものは美しく、醜いものは醜い、ありのままの世界であり、それは自分(魂)から生まれる想いにより決まります。

さまざま想いが光となり、魂から放たれていますが、最も美しい輝きを放っているのは愛の想いであり、醜い想いに光輝はありません。

魂は成長して行くと、高い愛を表現できるようになって行きます。

この世の出来事がシナリオに従って生じるのは、有為転変を経験して、魂が浄化され、濁りのない美しく強い光輝を放ちながら、愛を表現するためです。



愛とは1つになろうとする力であり、調和を生み出す力です。

この世では、想いが全く見えません。

苦しみ、悲しんでいる人の見えない想いを、自分のことにように感じて、共有することにより、世の中が1つになっていくと信じています。

人の想いを、自分のことのように感じるようになるには、それぞれの人が苦しみや悲しみの経験をしなければいけないのかもしれません。

楽しいことだけでなく、苦しみや悲しみを、お互いが共有する中で、強く1つにまとまって行くと思います。

この世の中で起こる出来事は、それぞれの魂を成長させ、魂と魂を愛という力で強く結び付かせ、1つになるためにあると言えます。

個だけでは調和は生まれず、全体の中で調和が生まれます。

個々の魂が、この世の出来事により磨かれて、全体に調和が生まれて行きます。

調和が生まれ、全体の美しさを増していくためには、より高い愛が求められ、そのためにシナリオが用意され、個々の魂は出来事を経験しなければいけません。



多くのことを学びながら、魂を完成させていきます。

この世は、自分に足りない魂のパーツを見つけに来ているようなものかもしれません。

少しずつ見つけながら、完成させて行きます。

誰かにありかを教えてもらうのではなく、経験をしながら見つけ出します。

何のパーツを見つけるのかは、自分でも判りません。

けれども、生まれる前の自分は、はっきりと判っています。

当てもなく探しても見つけられないため、人生の大まかなシナリオが用意されます。

シナリオには、パーツを見つけるための出会いや出来事が、散りばめられています。

不慣れな場所で、見当はずれの方向に行かないために、あの世からの導きも受けます。

出来事には、楽しいこと、うれしいこと、つらいこと、悲しいことなど、さまざまです。

楽しい出来事の時は、周囲は明るくなり、この世のものがはっきりと見えます。

つらく、悲しい出来事の時は、周囲は暗くなり、この世のものは何も見えなくなります。

暗闇に包まれ、立ち止まってしまった時に、ふと上を見上げると、美しい星空が目に留まります。

夜空にひと際輝いている星が、探していたパーツであり、宇宙の真理です。

宇宙の真理は、明るい時には見えず、真っ暗闇の時に光り輝いています。



起きた出来事により、どちらに向かうのかは、本人に任されています。

向かう方向によって、出来事の意味は、大きく変わってきます。

迷わず、自分を成長させる方向に、向かって行きましょう。

なぜなら、自分が承知していた出来事であり、覚悟を決めて、乗り越えて行く約束をしているからです。





参考ページ: 「この世の出来事の意味を知る時」