2019年10月13日日曜日

苦しみは魂を浄化する


人生100年と言われるようになりました。

周りを見ても、90歳を超えて元気に暮らしている人は少なくありません。

そして「終活」と言う言葉を頻繁に聞くようになりました。

死ぬまでに、身辺整理をして、やりたいことをして、心残りのないように生きることを指していますが、一昔前に比べて、死に対して暗くて、恐いイメージは少なくなったように感じています。

しかしながら、多くの人にとって、死んだ後のことは依然空白のままです。



霊的真理により、私の空白は埋まりました。

無になるのではなく、魂として生き続けることを知って、死は恐いものではなくなりました。

次に行くのは、嘘、偽りの存在し得ない真実の世界です。

これまでに得た知識と実体験から、想像している世界が待っていると確信しているので、今は待ち遠しく感じています。



この世の経験は、次の世界において活かされます。

正確に言えば、次の世界でより個性を発揮して生きるために、この世でさまざまな経験をしています。

人生において、悦びもあれば、苦しみもあります。

悦びばかりであったら、どんなに良いかと思いますが、そんなわけには行きません。

両方があって、それぞれが際立ちます。

苦しみがなければ、悦びの真の意味は判りません。



水に溺れたとしたら、大変な苦しみを感じます。

なぜ、苦しみを感じるのでしょうか?

苦しくなることで、肉体に危機的な状況になっていることに気付きます。

もし、何も感じなければ、酸素欠乏状態になっても気付かずに、最悪の場合は死んでしまいます。

肉体の異変を知らせて、守るために、苦しみは存在しています。



自分の夢が叶った時や、親切にされた時など、精神的な悦びを感じます。

一方、つらい出来事があった時は、苦しみを感じます。

もし、他者に酷い仕打ちをされたのなら、怒りや憎しみなど様々な想いが湧き上がり、胸が苦しくなってしまいます。

そんな時、怒りや憎しみに任せて、やり返したらとしたらどうでしょう?

気持ちは一瞬、晴れるかもしれませんが、後味の悪さは残ってしまいます。

たとえ、相手に非があったとしても、良心が咎めるようなことをすれば、後悔します。

それでは、怒りや憎しみを感じても、やり返しもせずに、苦しみに耐えなければならないのでしょうか?



たちが、この世に生まれて来た目的は、魂を成長させるためです。

この世は極めて不完全な世界なので、不公正、不公平、不平等に思えることが、往々にして起こります。

それに耐えることも、魂の成長につながっているのは確かです。

けれども、自分が苦しい思いをしているのに、相手が平然としていれば、心穏やかにいるのは困難です。



身体を傷つければ、法律に触れて、裁かれます。

法律の入らないところで、傷つけられたり、痛手を被ったとしたら、裁きを受けることはありません。

地上の法律が入らないところにも、自然法則は行き渡っています。

全宇宙に普遍的に働いていて、何人たりとも逃れることが出来ません。

原因に対して、寸分の狂いもなく結果が生じます。

自然法則に背く過ちを犯したのならば、結果として相応の償いが必ず生じます。



しかし、過ちを犯しても、償うことなく死んでしまう人もいます。

それでは、やはり不公正に思えてしまいます。

肉体は消えてなくなっても、生命の本質である魂は、全く変わりなく存続しています。

今生で犯した罪は、魂にしっかりと刻み込まれています。

この世で、言い逃れをしたり、嘘を付いたりして、ごまかすことは可能です。

しかし、次の世界においては不可能です。

真実が露わになり、自然法則に照らし合せて、その罪を償なうことになります。

人に苦痛を与えたのであれば、同等の苦痛を味わなければならず、そのためにもう1度地上に生まれて来る時があります。



相手の罪が暴かれ、償ったとしても、引き続き苦しみを感じながら生きて行かなければならないのであれば、やはり不公正さを感じてしまいます。

その苦しみにも、自然法則は働いています。

魂の成長という形で、埋め合わせが計られています。

地上的なものを失った分、それに見合った霊的なものが得られています。




どんなに不公正に思えたとしても、霊的に視れば完全な公正が保たれています。

そのことはこの世ではなかなか実感できません。

しかし、次の世界に行くとはっきりと自覚され、自然法則を創った偉大な存在を強く感じると共に、感謝するようです。

確かな知識を得ることで、苦しみは軽減されるはずです。

何故なら、苦しみは叡智(知識)を身に付けるために存在するからです。




生まれる前に決めていたことが予定通りに起きて、苦しみが生じていることがあります。

自分が変わり、成長して行くために、あえて苦しみを享受する人生を、自らが決めている場合があります。



苦しみは、自分を変えるための触媒です。

嘘を付いて、他者に苦痛や損害を与えて、罪を逃れて償うことなく亡くなった人がいたとします。

嘘を付くのは、神の法則に反した行いであり、次の世界に行くと自分の犯した罪と与えた損害に向き合うことになります。

そして、犯した罪を償わない限り、成長することが許されないことを知ります。

成長が許されないのは、牢獄に入り自由が許されないよりも、はるかに堪えることだと思います。

生きる目的を奪われたことになるからです。



犯した罪を償い、自分を変えるために、もう1度この世に生まれることになると思います。

嘘を付くのは良くないと親にどんなに言われたとしても、法律に触れて懲罰を与えられたとしても、本性は容易に変えられるものではなく、変わらなければ過ちは繰り返されます。

人生のどこかで、嘘を付くことで深刻な出来事が起こり、大きな苦痛を味わうことになると考えられます。

精神的に追い詰められ、魂が目覚めて、霊的な苦痛を味わう中で根本から自分を正すことになります。

外部の力ではなく、自然法則の働きによって、内部から変わって行きます。



溺れている人は、苦しくてそのままではいられません。

必死に泳いで岸に辿り着いて、深呼吸をして、初めて苦しみから解放されます。

自分が変わらなければ、苦しみはそのままです。

外部に何かを求めても、苦しみから逃れることは出来ません。

怒りや憎しみを、外部に向けても何も変わりません。

自分が変わった時に、苦しみから解放されます。

昔、許せずに苦しんでいたことが、何も思わなくなっている時があります。

それは自分が成長し、寛容さを身に付け、許せるようになったからと考えられます。



魂が不完全であるために、苦しみが生まれると考えられます。

不完全な魂が、苦しみの経験を通して、法則の働きを得心しながら、少しずつ完全(神)に近づいて行きます。

苦しみがあるのならば、どこかに不完全なところがあり、変えて行くことになると思います。

完全に近づくほど、苦しみから解放されて行きますが、完全になるのには無限の時が必要なので、私たちは永遠に生き続けなければならないようです。



地上的な苦しみは、時に耐えがたいほど大きなものになりますが、それだけ自分を大きく変えることが出来ます。

次に行く世界は、地上的な苦しみから解放された、とても快適な世界です。

しかし、成長と変化を望む魂とって、最適な環境ではありません。

自分を大きく変えるために、次の世界での生活に見切りを付けて、苦しみの存在するこの世に生まれることを決意し、勇気を出して飛び込んで来たと考えられます。

この世の苦しみは自分を変えるめに存在し、次の世界に行くと目的を成就した悦びに変わるはずです。






家の近くに、それほど大きくない河が流れています。

ところどころが淀んでいて、ゴミも浮いています。

昨晩(10月12日)ですが、大きな台風が通り過ぎました。

今朝、犬を連れて河に沿って散歩をしましたが、河の流れはいつもと同じでしたが、護岸の草は流れに沿って倒されていて、水量の多さ、勢いを物語っていました。

良く見ると、河の水は驚くほど澄んでいました。

激しく降った雨が河に流れ込み、濁流となって、淀みやゴミを一気に押し流してしまったようです。



人生においても、濁流のように押し寄せた出来事に翻弄されてしまうことがあります。

苦しみながら、もがきながらも、どうにか乗り越えられた後に、心の中のあった淀みの様なもの、染み付いていたものが一掃されて、心の軽さ、清々しさを感じることがあります。

苦しみは自分(魂)を浄化させている。

いつにない清らかな河の流れを見て、そんなことを感じました。




この台風で亡くなられた人のご冥福と共に、被災された人が一刻も早く以前の暮らしを取り戻すことを祈ります。






2019年9月29日日曜日

傷つきやすい人



世の中には様々な人がいます。

怒りっぽい人、涙もろい人、良く笑う人、恐がりな人、心配性な人、優しい人、性格的特徴は、実にバラエティーに富んでいます。



人に酷いことを言われたり、されたりしても、あまり堪えない人もいます。

その逆に、すぐに心が傷ついてしまう人もいます。

これは性格的な違いではなさそうです。

個々の感受性の差によるものと考えられます。



感受性とは一体何でしょうか?

辞典で調べると、「環境内の事象の変化を刺激として感受する能力を感度、刺激に対して興奮しやすい性質」と何やら難しいことが書かれています。

私は、他者の言葉や行いを通して、そこに込められた「想い(思念)」を認識する能力だと考えています。



感度の高いラジオは、低いラジオに比べて、電波を強く受信します。

人も同じで、感度の高い人は目に視えない想い(思念)を強く受け取り敏感に反応し、感度の低い人は鈍感で思念に影響されにくいと思います。



想い(思念)を受け取っているのは、肉体(五感)ではなく魂です。

受け取りやすい人は、霊的な感覚が鋭敏であり、他者から放たれている思念を遮るものが少ないと考えています。

思念を遮るのものとは、地上的な「自我」であり、魂を取り囲むように存在していると考えられます。



自我とは、精神上に作られた、思念を表現するための媒体です。

同時に、他者からの放たれた思念を、直接、魂(霊)が受けるのを防ぐ、バリアのような役割を果たしていると考えています。

自我と言うバリアが厚い人は、外部からの思念の影響を受けにくいのですが、魂から生じている自分の本当に想いは表現されにくくなり、自我が希薄な人は、外部からの思念の影響を受けやすいのですが、自分の想いは表現されやすいと考えられます。
       
       

生まれたばかりの赤ちゃんは、自我がほとんど形成されていません。

魂が剥き出しの状態であり、他者からの思念に対して無防備と言えます。

赤ちゃんは、誰が見てもが可愛らしく感じます。

それは、怒りや憎しみなど、好ましくない思念が赤ちゃんに向けられるのを防ぐ、神の配慮だと思います。

もし、怒りや憎しみなどの強い思念を、無防備な魂が受け取ってしまったら傷ついてしまい、その後、何らかの影響が現れるかもしれません。

思い当たることがないのに、何かに怯えたり、過剰な反応をしてしまうことがあれば、過去に強い思念を受け取っていたのかもしれません。

理由もなく涙が流れるであれば、悲しみの思念を多く放っていた人が、傍いたのかもしれません。




子供の時に、最も必要なものは「愛情」です。

十分な愛情を受けていた人は、自分は守られていると言う意識を持つことが出来るので、心穏やかに、安心して過ごすことが出来ます、

しかし、愛情が不足している子供は、守られていると言う意識が希薄なために、不安になり、自分で自分を守ろうとします。

そのために、無意識の内に、強固な自我を形成していることが多いと考えられます。

不良と呼ばれる子供たちの多くは、幼少期に親(大人)から十分な愛情を受けていなかっために、不安感や恐怖心を抱いている可能性があると思います。

そのために、強い自我を前面に出して自分を守ろうとしていますが、その意識が過剰になると、人が怖れる行動を取ったり、攻撃的になることがあると考えられます。

威嚇や攻撃などの行動は、不安や怖れの裏返しである可能性が高いと考えられます。

もし、愛情に包まれて、安心感が得られたのならば、不安や怖れは解消し、問題となる行動は改善されると思います。

守られていると言う安心感を、物質的な力によって得ようとしている人がいます。

独裁者の多くは、常に不安や恐怖心にかられているために、強大な権力や武力を持つことに固執し、自分を守ろうとしていると考えられます

人は、外部から非物質的な侵襲を受けると、内部が傷ついてしまう恐れがあるので、非物質的な部分な自我の働きを強くして防御していると考えられます。

相手から責められたら反論し、殴られそうになったら反撃する、そんな防御的な反応も自我の働きによるものと考えられます。



一方、自我の働きが弱い人たちも存在します。

そんな人は、他者の思念を遮るものが希薄なので、その分、感受性が高くなっていると考えられます。

他者の言動に対して敏感に反応してしまい、人を傷つけるような思念をぶつけられると、容易にダメージを受けてしまう可能性があります。

それが嫌なので、人と会うのを避けたり、外部とかかわりを持ちたがらない人もいると考えられます。

子供のような、繊細な心を持った人と言えるのかもしれません。



そんな人は、温かで、優しい思念が放たれている場所は安心していられますが、怒りなど不穏な思念が放たれている場所は、不安や怖れが生じてしまうので避けたがります。

人が何を想っているのかを察知しやすく、言われなくても先回りをすることが出来るので、周りからは良く気が付く人と評価されることもあります。

人の想いが自分のように感じられるので、他者と想いを分かち合うことが出来ます。

また、言葉や行動の裏に隠された思念を感じ取ってしまうと、表と裏、本音と建て前が視えてしまい、その人の本質が判ってしまうかもしれません。

動物の想いに敏感になれば、肉が食べられなくなるかもしれません。




人の本質は肉体ではなく魂(霊)です。

そして、思念は魂から生じています。

地上の人は、五感に触れない思念(想い)を、精神の働きにより言葉や行動に変換して、五感に触れるような形にして、相手に伝えています。

伝えられた人は、どの様な想いなのかを、言葉や行動から察知することになります。

感受性の高い人は、言葉や行動から、そこに込められた想い(思念)を強く感じます。

時には、言葉や行動を伴わなくても、察知することもあると考えられます。

私たちが死んで次の世界に行くと、直接思念のやり取りをして、コミュニケーションをするようになります。

感受性の高い人は、地上にいながら次の世界に行った時と近い状態になっていると考えられます。

次の世界では、自分の周りには同類の魂しかいません。

放たれている思念も、似通ったものになるので、安心していられます。

しかし、地上ではさまざまな思念が放たれています。

感じたくない思念までも受け取ってしまい、心が乱されたり、疲れてしまったり、心身に不調が現れることもあります。



また、他者の思念を受け取り、同調をしやすいと考えられます。

怒っている人の傍にいると、イライラしてしまったり、涙を流している人の傍にいると、もらい泣きをしてしまうかもしれません。

相手から怒りなどの想いを受け取ると、同じ想いを相手に返そうとします。

つい返してしまうと、それは自分(魂)が望んではいなかったことなので、後悔してしまいます。

初めから自我の働きを強くして、好ましくない思念が入って来ないようにすれば良いのですが、それでは本来の自分とは違う想いが表現されてしまいます。

そのため、我慢してしまうことが多くなります。

想いが表現されずに溜まってしまうと、調和が乱れて、心身に症状として現れるかもしれません。



思念という霊的な波動が錯綜するこの世で、感受性の高い人が生活するのは、つらいものがあります。

しかし、その様な状況において、人や社会と関わり合いを持ちながら生きるのにも、何かしら大切な意味があるはずです。



霊的な感受性は誰もが持っていますが、五感に頼り切った生活をしているので、鈍くなっています。

頭で考えてばかりいる人は、五感を通しての情報しか認識されなくなり、目に視えるもの、地上なもので物事を判断するようになります。

そのために、誤解や差別や偏見が生まれてしまいます。

自我の働きが強くなると、打算的になり、自己を優先してしまいます。

そのために、争いが生じやすくなります。



地上の人は、言葉や行動によってコミュニケーションをしていますが、感受性の高くなれば、言葉や行動に込められた想いが正確に察知されるようになり、人と人の間に誤解は生じにくくなると思います。

言葉を超えたところで判り合えれば、怖れや不安から生じる争いも少なくなるでしょう。

の想いが判るようになると、痛みや苦しみに無関心でいられなくなり、手を差し伸べたくなります。

お互いを助け合う、好ましい世界に変わって行くはずです。

はるか先ですが、言葉を介さずに他者の想いが察知されるようになり、伝えたいことに即応してもらえる世界が訪れるかもしれません。

それは霊界に近い、居心地が良く快適な、より進化した世界と考えられます。



人の想いを察知し、応えられるのは好ましい特性です。

自分の想いを判ってくれた人は、うれしさやありがたさを感じ、今度は、自分が他者の想いを判ろうするでしょう。

他者の想いを判ろうとすれば、自分の想い(考え)を押し付けることは少なくなるでしょう。

少なくても、人の嫌がること、傷つけるようなことはしなくなります。



自我の働きを強めることなしに、外から受ける思念の影響を少なくするためには、どうすれば良いのでしょうか?

自らが、愛念を放つように心がけていれば良いはずです。

怒りや憎しみなど、好ましくない思念を放つ人がいたとしても、こちらが愛念を向けていれば、同調することも、影響されることもありません。

あらゆる思念の中で最も強いのは愛であり、勝るものは宇宙に存在しないからです。



神は、自らの中に存在しています。

神と結ばれていることを強く意識すれば、内から神の愛が湧き出し、その愛に包まれていれば、思念が入り込むのを防いでくれると思います。

また、自分を守護している視えない存在に思いを寄せて一体となり、オーラで包み込んでもらうように祈るのも良いのかもしれません。

自我ではなく、愛に包まれていれば、自分らしく生きられ、外からの思念の影響は受けにくくなると考えられます。



傷つきやすい人は心の弱い人ではありません。

感受性の高い人であり、霊的には望ましい特性であり、先駆けなのかもしれません。