2018年11月11日日曜日

苦しみの原因


今から10年近く前のことですが、私は数か月の間、歯科医師としての仕事が出来なくなりました。

時間を持て余していたので、心身障害者施設にボランティアに行くことにしました。

仕事に復帰してからも、その施設に通い続け、入所している人、そこで働く人と仲良くなり、たくさんのことを学ぶことが出来ました。



入所者の中に、M君という20代前半の男性がいました。

M君は、脊椎に重度の奇形があり、下半身が不自由であり、車いすで生活をしています。

知的障害はなく、意思の疎通に問題はありません。

M君は、他の人たちと交わることはあまりせず、ベッドの上で一人でテレビを観ていることが多かったです。

他の入所者と団体生活を送る中で、自分の思う通りに行かないことも多いようであり、不平不満を口にしたり、ため息をついて嘆いている姿を良く目にしました。

時に、自暴自棄になり、自分の手に噛みついて、怪我をしていたこともありました。

見るからに、生きているのがつらそうで、深い孤独を感じているようでした。



M君には双子の弟がいました。

一卵性のため、弟さんはM君と見た目はほとんど変わりなく、同じ奇形による障害を持っていました。

いつも不満そうで暗い表情をしているM君とは違い、明るく快活で、わずかに残された指の機能で電動車いすに乗りスポーツを楽しんでいました。

時々、M君の元を訪ねて来て、愚痴を聞いてやり、励ましているようでした。

見た目は瓜二つで、障害も同じなのに、対称的な性格で、全く違う生き方をしているのに、少し驚きました。



の違いは、心理学的には障害を受け入れているか、いないかの差と説明されるのかもしれません。

しかし、2人を見ていて、ついこんなことを考えてしまいます。

もし、人の性格が脳によって形成され、環境によって変化するのであれば、遺伝的に全く同じで、同じ両親の元で育って来たこの兄弟は、もっと似ていても良いはずではないか?

それなのに、これほどまで性格が違うのは、どうしてなのか?



性格を脳の働きで説明しようとする科学的な試みは、ことごとく頓挫しています。

科学的に証明されていない魂の存在を認めたらどうなるでしょうか?

魂とは思念が生じるところです。

その思念を具象化するのが精神であり、具象化されたものを地上で具現化するのが肉体です。

性格とは精神上に形成された自我の個性であり、自我とは魂から生じた思念を表現する媒体です。

性格は脳によって決まるのではなく、思念が生じている魂によって、大まかに形作られていると言えます。

遺伝的、環境的に同じにもかかわらず、二人の性格が違うのは、宿っている魂が全く別物だからではないでしょうか。



M君の病気(障害)の原因は何なのか?

残念ながら原因は解明されていません。

判っているのは、全ての病気に必ず原因が存在すると言うことです。

インフルエンザが発症したのであれば、その前にウィルスが感染しているはずです。

胃潰瘍になったのであれば、その前に心的ストレスがかかっていたのかもしれません。

M君の病気は遺伝的なもので生まれつきです。

と言うことは、病気の原因は受精以前にあったことになります。

受精以前に原因があるのならば、受精以前にM君は存在していなければなりません。



そんなことはない。

今、生きている世界が全てであり、生まれる前に存在しているはずはないと言う人もいるでしょう。

もしそうであれば、M君の遺伝子に偶発的にイレギュラーが生じたと結論付けるしかなく、原因が解明されることは未来永劫ありません。

全くの不運だったのです。

そんなM君に、自分の身を嘆いたり、不平不満を口にするのを止めなさいと言っても、無理なような気がします。



生まれつきの身体障害の原因は、前世にあることが多いと考えています。

この社会で罪を犯したら、法律によって裁かれて、償わなければいけません。

この宇宙には、永遠不滅の自然法則が働いています。

法律は掻い潜ることが可能ですが、法則は絶対に不可能です。


法則の根幹を成すのは因果律です。


自分のやったことは、必ず自分に返って来ます。

自然法則に逆らって過ちを犯したならば、相応の苦痛の経験をして、償わなければいけません。



前世で何かの罪を犯して、その償いとして身体障害が与えられた可能性があります。

あるいは、さらなる成長を志願して、重い障害のある身体に宿ったのかもしれません。

そのどちらかだと思いますが、記憶はなくても、M君はそのことを承知して生まれて来ているはずです。



自然法則(因果律)は、自分の言ったこと、行ったこと全てに働いていて、寸分の狂いもなく結果(現象)をもたらします。

言動だけではなく、自分の想っていることにも働いています。

自分の障害を恨めしく思ったり、健常者を妬んだりすれば、たとえ口に出さなくても苦しみがもたらされます。

M君を苦しめているのは、身体障害そのものではなく、障害や人に対して自然法則に反した想いを抱いているためと考えられます。

障害が自分を苦しめているのではなく、自分の想いが自分を苦しめていることに、まだ気付いていないようです。

同じ障害のある弟さんを見ていると、そのことが良く判ります。

M君にとって身体障害は大きな苦しみをもたらしていますが、弟さんはそうではないようです。

M君の様な想いを抱いていないので、弟さんは苦しまずに済んでいると考えられます。



自然法則に反した行いは、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬など、自然法則に反した想いが生じることから始まります。

もし、M君が前世で過ちを犯していたならば、必ずそんな想いが先行していたはずです。

想いを生じさせないようにするのには、言って聞かせても無理であり、自分自身が痛い思いをして、因果律の働きを学ぶしか方法はないようです。

償いとは、苦痛を味わうだけではなく、魂から生じる想いを根本から変えて行くためにあると考えられます。



介助される様子を見ていて、ある思いが強くなって来ました。

M君は日常生活をするのに当たり、常に人の助けが必要です。

自力での移動は困難であり、食事をしたり、排せつするにも介助が必要です。

人の助けがなければ、1週間も生きて行けないでしょう。

一人では生きて行けない、人の助けによって自分は生かされていることを、常に感じながら生きていると言えます。

自然法則に反した利己的な想いが湧き上がりやすい性格は、感謝の気持ちが生まれるような行いを一生涯に渡り受け続けていることにより、自然に変わって来るかもしれません。



弟さんも、健常者が想像もつかないような苦労をしながら生きていますが、それに耐えられる魂であり、日々の苦労はさらなる成長を促していると考えています。

相互扶助が何より大切であり、人から受ける施し(愛)ほど尊いものはないことを、一生をかけて学んでいるのかもしれません。

受けた施しはしっかりと魂に刻み込まれて、来世において、今度は施しをする立場となり、今生はそのための極めて強力な動機付けになっているような気がしています。




困難や障害は、この世界に多くあります。

しかし、それが苦しみとなるかどうかは別次元の問題であり、魂からどの様な想いが生じているかによって決まります。


苦しみは、自分を成長させています。

成長することによって、想いが変わって来ます。

想いが変わることによって、初めて苦しみから解放されます。


この世を生きて行くのは、決して楽なものではありません。

苦しみから解放されるための、永続的な営みであると考えられます。

1つの苦しみから解放された時に、人は何かを学び、成長しているはずです。





2018年10月28日日曜日

霊的な世界に不幸は存在しない



人は死んだらどうなるのか?

長い間、この問題は人間を悩まして来ました。

答えは、2つに1つです。

生命とは肉体であり死んだら無になる。

死んでも何らかの形で生命は存続している。

そのどちらも客観的に証明されていません。

これだけ文明が発展したにもかかわらず証明できないのは、生命は物質的なものではないので科学的手法では探究できないからです。

そして、今の段階で結論が出てしまうと、不都合が生じてしまうからだと思います。



命が限られたものと意識すればこそ、日々を一生懸命に生きるのかもしれません。

もし、死の後にも生は続き、素晴らしい世界が待っていることが判っていたとしたら、この世に生まれて来た意味も知らないまま、そちらの世界に行ってしまう人が続出するかもしれません。

死の先がどうなっているのか判らず、恐怖を感じるからこそ、自らの意思で行ってしまう重大な過ちが抑止され、人は苦しくても生きようとするのだと思います。

どんなにつらくても生き抜いたその報酬として、新しい世界で悦びが待っています。



この世に生まれて来た目的は、魂を成長させるためです。

自分に足りない部分を、経験を通して、補うためです。



それぞれの人生には、大まかなシナリオ(青写真があると言われています。

シナリオに沿って人生は展開して行きますが、その意図は効率良く魂を成長させて、必要なことを学ぶためと考えられます。

また、過去生での神の摂理に反した行いに対し、それを償うためのシナリオが用意されることがあり、苦痛の経験によって魂は浄化されます。



私事ですが、人生にシナリオが存在し、偉大な叡智が働いていることを認識したのは、今から十数年前のことです。

ある朝、左手から病気を癒やす力が出ていることに気付きました。

そして、数週間後に霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会いました。

ほどなく人生の試練がやって来ました。

人生を大きく変える3つの出来事が、わずか1ヶ月の間に立て続けに起きて、鈍感だった私も偶然でないことを悟りました。



全ての事象に偶然はなく、因果律の働きによって起きています。

2011年3月11日、東日本大震災が起きました。

一万五千人を超える人が犠牲になり、まだ行方不明の人も数千人います。

地震はどうして起きたのでしょうか?

これも因果律の働きにより起きたのであり、プレートテクトニクスにより内部に歪が生まれ、巨大なエネルギーが溜まっていたのが原因であり、歪が元に戻りエネルギーが解放された結果として、地震が起きたと考えられます。

地球は動的なもので絶えず変化していて、その変化が地震となって現れたと考えらます。

神が人類に警鐘を鳴らすためではなく、物質的次元に原因があったと考えらます。



ところで、津波で亡くなった人たちは、皆、亡くなることが予め決まっていたのでしょうか。

いろいろな考えがあるようですが、私は決まっていたとはどうしても思えません。

もし、予定されていたとしたら、決められていた通りにそこに住み、津波に襲われるためにその場所にいたことになります。

人には自由意思があります。

どこに住もうと、どこに行こうと自分自身で決めることが出来ます。

津波で亡くなることを前提にその場所に住んだり、行ったのではなく、自由意思によってそこに住み、その場所に行き、その時、物質的次元で因果律が働いて地震が発生し、津波に襲われたと考えています。

交通事故のようなアクシデントにしか思えない事象でも、様々な次元の法則が働いた結果として起こるようです。

地球的規模の物質的次元の因果律が働いて、その場所にいた人が犠牲になったのであり、霊的次元に原因は存在しないと考えています。



過去生でのカルマを清算するために、犠牲になったと考える人もいますが、そうなのでしょうか?

津波に襲われて亡くなったのは一瞬だと思われます。

もしカルマであれば、償いのためにもっと長い間苦痛を味わなければならないはずです。

そして、苦痛の取り払われた死後の世界に行くことが清算になっているとは、どうしても思えません。

学び、成長するためにこの世に生まれて来るのに、それを中断させることを、神が計画するはずはないと考えています。



人間の過った行為によっても、地上生活の中断を余儀なくされる人たちがいます。

2001年9月11日、ニューヨークにあるワールドトレードセンターにテロリストたちに乗っ取られた旅客機が衝突しました。

このテロで亡くなった人たちが、もしカルマの清算のために犠牲になったのであれば、神が承認した上で起きたことになります。

殺人と言う重大な摂理に反した行いを、神が計画していたことになります。

それは絶対にあり得ませんので、あくまでもテロリストの自由意思によるものであると考えています。



地上には、自分に全く落ち度がないのに、この世を生きるのを中断される人がいますが、その人たちの人生が道半ばで終わってしまうのは、あまりにも不公正で不公平です。

シルバーバーチは、大自然の中核をなす法則として「埋め合わせと懲罰」が存在すると言っています。

罪もない人たちが支配者の横暴な振る舞いによって犠牲になったり、人間が動物に対して間違いを犯した場合(動物実験などで)は、その犠牲になった人や動物に埋め合わせの法則が働くようです。

勿論、自由意思を過って行使した人には懲罰の法則が働いて、苦痛の経験による償いをしなけなければなりません。

当然のことながら、地震やテロ犠牲になった人たちも、自分に原因(非)がないので、この法則が働いていると考えられます。

もし、飲酒運転をして事故を起こして死んでしまったのなら、その原因は自らが作っているので、埋め合わせの法則は働かないと考えられますが、飲酒運転をした車によって事故に遭い死んでしまったのなら、自らに原因(責任)はないので、埋め合わせの法則が働いていると考えられます。



自分に起きる全ての出来事は、生まれる前に決まっていて、計画の通りに起きていると考える人がいます。

もしそうであれば、埋め合わせの法則が存在する必要はありません。

そもそも、カルマが生じるような摂理に反するような行いを、神が計画するはずがありません。

神が自由意思を与えたからこそ、人は過ちを犯すのであり、その過ちに対応した救済措置として、埋め合わせの法則を用意したと思います。



埋め合わせの法則について具体的には書かれていませんが、どの様なものなのか考えてみました。 

繰り返しになりますが、この世を生きる目的は、さまざまな体験を通して、学び成長するためです。

地上に誕生する魂のほとんどは、霊的に成長しているとは言えず、過ちから生じる苦痛を通して、学びながら進化していると考えています。

ところが、霊界にいる天使的な存在の中には、1度も地上に降りることなしに、高度な進化を遂げている者も存在すると言われています。

もし、それが事実であるならば、地上的な経験を通さなくても、高い霊性と叡智が神から直接授けられていることになります。

このことから、地上の人生が外部の要因によって短縮されたとしても、得られるはずであった成長と叡智が、何らかの手段によって授けられるのではないかと考えています。

れが私の考える埋め合わせの法則であり、それによって神の公正が完全に保たれると思います。



と、こんなことを考えてしまいます。

予期しない事件や事故、あるいは自然災害で亡くなったとしても、その人の心は生前と何も変わっていません。

地上にいた時の願望はそのままです。

愛情で結ばれていた地上の人とは、以前と同じ様に結ばれること強く望んでいます。

しかし、地上とは違い、言葉や行動によって愛情を表現をすることは出来なくなり、その代わりに、意念を送って守り導くようになると考えられます。

残された地上の人の幸せを願い、意念を向けて守り導くことは、自己を犠牲にして愛を表現することであり、自らの成長につながっていると思います。

また、地上でやり遂げたかったことがあれば、その志を継いでくれる人に、意念を向けて実現してもらえるように働きかけていると思います。

地上の人によって、その願望が実現したのならば、霊界にいる身でありながら、同じ経験を共有したことになり、実現した悦び共に、学びと成長が得られていると思います。



地上に残された人は、亡くなった人と直に接して学ぶことが出来なくなりましたが、失ったことから生じる悲しみ、苦しみを通して、極めて大切なことを学んでいると考えられます。

愛について、生きる意味について、故人の優れたところなど、別れの経験がなければ、深く思いを巡らせることはなかったと考えられます。

魂が目覚め、大切なものに気付いて、より大きな成長へとつながったのであれば、地上に残された人も、失ったことに対する埋め合わせの法則が働いていると考えられます。

予期せぬことで肉体を失う時ことがあっても、霊的な損失が生じないように、あらゆる次元で埋め合わせの法則が働いているので、故人のことを嘆いたり、心配したりする必要は全くありません。



神は、宇宙に起こり得る事象の全てを承知しています。

当然のことながら、人が無知や未熟さのために過ちを犯すことや、地上で起こる全事象も織り込み済みであり、あらゆる事態に備えた法則が用意されています。

あまりの理不尽さに言葉を失ってしまうような出来事であっても、亡くなった人は落ち着きを取り戻し、新しい世界に順応し、地上の人が想像しているよりも悦びに満ちた生活が始まり、埋め合わせの法則の働きにより魂は救済されて、成長を続けています。

霊的な世界にあるのは永遠不滅の自然法則の働きであり、不幸は存在しません。




「その法則が構想においても働きにおいても完璧であるからには、当然その中に人間的な過ちに対する配慮も用意されているに決まっております。埋め合わせと懲罰が用意されております。」  シルバーバーチの霊訓(7)6章より