2018年6月10日日曜日

性格は生き方で変わる



人には、それぞれ個性があります。

優しさ、怒りっぽさ、明るさ、暗さ、勇敢、臆病など、さまざまな性格的特徴があり、それらが組み合わさって個性となっています。



同じ親が、同じ様に子供を育てたとしても、それぞれの個性は現れて来ます。

周囲からの影響で、性格は多少変わるかもしれませんが、個性は失われないと思います。

個性は生まれた時から備わっていて、それが成長と共に、顕著になって来ると考えた方が良さそうです。



それでは、個性は何によって決まるのでしょうか?

個性を決定付けている性格は、遺伝子によって決まると言う人がいますが、科学的な証明は困難なようです。

脳によって決まると言う人がいるようですが、性格が変わるのは脳が変化したためと考えるのは無理があると思います。

人の個性は、肉体(脳)を超えた存在によって決まると、私は考えています。



人を構成しているのは、精神と肉体だけではありません。

精神の高次に、魂(霊)が存在しています。

魂とは生命そのものであり、意識的存在です。

魂に個性があり、それが精神上に性格として反映していると考えています。



それでは、生まれた時から魂に個性があるのは、どうしてでしょうか?

記憶は消去されていますが、生まれる前にも人生(過去生)があります。

そこで様々な出来事を経験をしながら、個性が形作られて来たと考えられます。



人生で想ったこと、言ったこと、行ったことの全てに因果律が働いていて、魂の様相を変化させていると考えられます。

魂の様相が個性となって、この世で顕現している考えられます。



生まれた時に、同じ個性の二人の人間がいたとします。

一人は人や社会のために、自分を犠牲にして生きて、もう一人は、道を誤り、我欲を優先し、人を犠牲にして生きてきたとします。

二人は年齢と共に変わって行き、死ぬ時は全く別の人間になっていると想像されます。



その二人が、また地上に生まれて来たとします。

前者は、優しく、思いやりのある性格の人間として生まれるでしょう。

後者は、わがままで、思いやりに欠ける性格として生まれるでしょう。

性格は偶然の産物ではなく、過去の経験や自らの行いによって、決められていると考えられます。



優しく、思いやりのある性格は、人に好感を持たれるだけではなく、表現をすれば因果律の働きによって、悦びがもたらされるようになっています。

一方、わがままで、思いやりに欠ける性格は、人に嫌われるだけでなく、苦痛がもたらされるようになっています。

人は、悦びと苦痛のどちらを選ぶでしょうか?

悦びを選ぶのに決まっています。

しかし、生まれ持った性格は一朝一夕に変えられるものではありません。

また、努力して変えられる類のものでもありません。

その性格に相応しい経験をすることによって、変わって行くと考えられます。

そして苦痛の経験は、性格を大きく変えて行くと考えられます。



わがままな性格の人が他者と交わると、反発を招いたり、疎外されたりします。

人にとってそれは苦痛であり、苦痛を味わいたくないために、無意識の内にその性格は改められて行くと考えられます。

たとえ、わがままな性格を隠したとしても、隠して生きることに苦痛が生じます。

苦痛を味わうのは、その性格神の摂理に適っていないためであり、表現すると因果律の働きにより(苦痛を伴う)出来事が生じるからです。

苦痛を味わうことで、その原因に気付くことが学びであり、改めることで魂の成長につながります。



なぜ、神は摂理に適っていない性格を改めさせているのでしょうか?

神は、ばらばらに存在している生命(魂)を、1つにさせる意図があると思われます。

摂理に適った、優しく、思いやりがあり、寛容な性格は、お互いを認め合い、許し合い、調和が生まれ、1つになるのを促しています。

しかし、摂理に適っていない、わがままで、思いやりに欠け、不寛容な性格であれば、反発し合い、1つになるのを妨げてしまいます。

愛し合えば、直ちに1つになれます。

認め合い、許し合い、1つになるために、愛の属性である摂理に適った性格をこの世の苦痛を通して育んでいると考えられます。



愛し合うのではなく、憎しみ合えば、大きな苦痛を伴う結果が生じてしまうのは、世界中で起きている戦争を見れば明らかです。

しかし、神は罰として苦痛を経験させているのではありません。

苦痛を通して、自らの心(愛)を表現する魂に変えて、1つにさせるために導いていると言えます。



性格は個性を形作っていますが、霊的な進化の指標になっています。

優しければ優しいほど、思いやりがあればあるほど、他者に愛を表現しているので、霊的に進化していると言えます。

わがままな性格の人は、霊的に進歩の余地が大いに残されていると言えます。



生きている目的は、魂を成長させるためです。

魂の成長は、他者に愛を表現することで成就されます。

従って、利己的な性格のままでは、大きく成長できません。

そこで、もう1度この世に生まれ、苦痛を経験して、成長できる利他的な性格に変わって行きます。



生まれた時から個性が存在するのは、過去(生)から引き継がれているためと考えられます。

ただ、過去(生)と同じ個性の人間が、今生に生まれるわけではありません。

魂の個性は多面的なものであり、変えるべき面(性格)を前面に出して生まれてくるので、同じではないと考えられます。



性格を変えようと思っても変わるものではありません。

人が喜び、社会のためになる、愛を表現する生き方を心がけていれば、望まれる性格に変わって行きます。

性格を良くも悪くも変えて行くのは、自らの想いであり、言葉であり、行いです。

その人の生き方によって変わります。






2018年5月27日日曜日

自分の中にいる2つの自分 ~魂と自我~



子供の時に、死んだらどうなってしまうのだろうと考えることがありました。

死んで無になり、意識がなくなってしまうと思うと、無性に怖くなったのを覚えています。



それから年月が経過して、青春真っ盛りの二十歳前後の時です。

自分は何で生きているんだろう?と、考えることがありました。

周囲を見渡してみると、そんなことなど考えずに一生懸命生きているように見えます。

父親に尋ねてみたら、お前は幸せだからそんなことを考えるんだと一喝されました。

どうせ答えなど出ないだろうと、それ以来考えるのをやめました。



さらに20数年の時を経て、思いがけず病気を癒す力が出現しました。

ほどなくして霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、生と死について深く見つめ直す機会が訪れました。



もし、死んで全てが終わってしまうと仮定するならば、生きている意味を見出すことは極めて困難です。

無になるのであれば、生きている意味を考えること自体、無駄に思えてしまいます。

1度きりの人生であれば、苦しいよりも、楽に生きた方が良いのに決まっています。

たくさんのお金を持って、一生遊んで暮らすのを夢見ている人は多く、それだから宝くじがこれほど売れるのだと思います。

しかしながら、人は楽してばかりの人生は決して良くないと、同時に思っています。

うも相反する思いが存在しているようです。



もし、人生で困難や障害が立ちはだかったならば、避けて通れば良いはずです。

しかし、多くの人は何とかして乗り越えようとします。

そんな時に、心の中でこんなことを叫んでいるような気がします。

「自分に負けたくない」



自分に負けるとは、どのようなことなのでしょうか?

誰が、自分に負けたくないのでしょうか?



私はこう考えています。

自分には、2つの自分がいます。

1つは本当の自分であり、「魂」と呼ばれている存在です。

もう1つの自分は、精神上に作り上げた自分であり、俗に言う「自我」と呼ばれている存在です。

自分に負けたくない」とは、自分の中にいるもう1つの自分に負けたくないと言う、魂の叫びだと思います。



人はなぜ、困難や障害を乗り越えようとするのでしょうか?

それは、乗り越えて行くことで成長するのを、本当の自分(以下魂)が知っているからであり、成長しようとする根源的な欲求を持っているためと考えられます。

困難や障害をどうにかして乗り越えたいと思う気持ちは、頭で考えたものではなく、魂から生じていると考えられます。



う1つの自分(以下自我)は、生まれてからの経験や知識を基に作り上げて行きます。

自我は、魂から生じる想いや概念を表現するためにある媒体であり、肉体的表現を行うための仲立ちの役割りをしています。

魂から言語を超えた想いや概念が生じ、精神上に存在する自我により具象化されて、言葉や行動として肉体で表現されていると考えられます。



そして、自我が存在するもう1つの大きな理由として、この世の侵襲から魂と肉体を保護して、より安全かつ快適に生きることが挙げられます。

今、生きているのは、物的な危険に晒されている世界です。

例えば、海で誰かが溺れているとします。


それを見て、魂には神性があるがゆえに、助けようとします。


しかし、自我は「自分も溺れてしまうのでやめよう」と心の中で叫び、肉体を守ろうとします。

この世は物的な世界であるため、霊的ではなく物的な思考をしなければ、安全に生きて行けないと考えられます。


そして様々な魂が混じり合っているために、霊的な危険にも晒されている世界です。

ある人から、傷つくようなことを言われたとします。

すると、自我は「あの人の言っていることは間違っているので気にしなくて良い」と、魂に言い聞かせて守ろうとします。

自我は、物的な頭脳を使って論理的な思考をして危険を回避し、外部の環境から魂と肉体守ろうとしていると考えられます。



魂から生じる想いを表現するための媒体ですが、強くなり過ぎると問題が生じてしまいます。

俗に言うエゴは、強くなり過ぎた自我であり、そうなると魂の表現は大幅に抑制されてしまうと考えられます。

人生において、本当の自分(魂)と、もう1つの自分(自我)の間で、しばしば葛藤が起きます

安全かつ快適に生きることを優先するならば、魂から生じる想いは退けられて、自我の考えが通ります。

本当の自分の想いに忠実に生きようとするならば、世の中との間に軋轢が起きたり、困難や障害が生じたり、地上的なリスクを伴い、安全かつ快適に生きるのは難しくなります。



どちらを選ぶのかは個人の自由です。

人には「困難や障害を乗り越えることで成長する」という自然法則が働いています。

従って、魂から生じる想いに従った方が、より大きく成長すると考えられます。

想いに従うことにより、その先で障壁が生じたとしても、必ず乗り越えられるはずです。

何故なら、その障壁も自然法則の働きによって生じていて、人を成長させるために存在しているからです。



ルバーバーチは霊(魂)と精神と肉体が一直線で結ばれているのが健やかな状態と言っています。

から生じた想いや概念を、精神を経由して、肉体で表現をして行くのが自然ですが、自我が強くなってしまうと、本来の自分の想いや概念が表現できなくなり、不自然な状態に陥ってしまいます。

仮に、ある人が上手く生きようとして、心底嫌だと思うことを、自我の要求により無理に続けたとします。

その状態は、自分の想い(魂)と肉体的表現が一致していないために、(魂、精神、肉体の)3者の調和は乱れてしまい、病気になってしまうかもしれません。

自我はこの世を生きるために必要なものですが、強くなり過ぎると個の調和が失われてしまうと考えられます。



自我の働きが弱い人は、魂から生じる想いに忠実に生きていると言えます。

しかし、霊的な感受性は高くなり、人の思念が伝わりやすくなると考えられます。

守ってくれるべき自我の働きが弱いために、人の思念によって傷つけられやすく、この世を安全かつ快適に生きているとは言えないかもしれません。



この世を安全に生きようとすると、自分を守ろうとする意識は高くなり、自我が強くなると考えられます。

傷きたくない人ほど、自我と言う外壁をより高くより強固に張り巡らして行き、自分を守ろうとしていると考えられます。



この世を快適に生きようとすると、当たり障りのないように、波風が立たないように、本当の自分を表に出さなくなると考えられます。

そして、地位や名声や富を追い求めてしまいがちになり、それに伴って自我は強くなって行くと考えられます。

本音と建前、人の裏表と言う言葉がありますが、もしかしたら本当の自分である魂と、もう1つの自分である自我の関係を指しているのかもしれません。


自我の働きが弱くなると、魂に忠実に生きられるようになりますが、外部からの影響は受けやすくなると言えます。

自我の働きが強くなると、外部からの影響は受けにくくなりますが、魂に忠実に生きているとは言えなくなります。

自我の働きは弱くて、魂が強い人が望ましいのかもしれません。



守るために存在している自我が、時に魂を攻撃してしまうことがあります。

いわゆる自責の念や、自虐的な思いは、他人から傷つけられるように、自分によって自分を傷つけています。

1人の中に、2つの自分が存在しています。

もう1つの自分(自我)によって攻撃されたり、責められて、本当の自分(魂)が傷つけられてしまうことを忘れてはいけないと思います。



この世を、本当の自分の想いに忠実に生きるのは至難の業です。

より安全に快適に生きようとするあまりに、魂ではなく自我を優先させています。

しかし、それは本来の姿ではありません。

あくまでも主は魂であり、自我はそれに従わなければいけません。

真の自分だと錯覚してしまうと、人生は自我によって支配されてしまいます。

そんな不自然な状態に陥ると、因果律の働きによって、病気や深刻な出来事が生じることがあります。

この世の人にとって不幸や凶事として映りますが、支配している自我を吹き飛ばし、眠っている魂を目覚めさせるために生じていると考えられます。

魂が主導権を取り戻し、成長して行くためです。

自然な姿を取り戻すと、本当の自分の想い忠実に生きられるようになり、予期していた成長が得られる方向に進んで行くと思います。