2018年7月8日日曜日

愛することで怒りから解放される



人間にとって、一番身近で、厄介な感情は何でしょうか?

それは怒りかもしれません。

日常生活において、いかなる時でも怒りは生まれる可能性があります。

大きな怒り、小さな怒り、人に対して、自分に対して、さまざまな種類の怒りの感情が生まれています。



人間は、生まれた感情を、肉体を使って表現しようとします。

うれしければ笑い、悲しければ泣きます。

しかし、怒りの感情を表現すると、反発的あるいは攻撃的なものとなってしまい、人間関係に支障を来してしまう可能性があります。

かと言って、怒りの感情を表に出さずにいたら内に溜まってしまい、心身に悪い影響を及ぼすかもしれません。

扱いに困る感情と考えられます。



電車の中で、足を踏まれて痛い思いをすると、怒りが生じることがあります。

自分のプライドを傷つけられると、怒りが生じることがあります。

身体的、精神的に他者に傷つけられて痛みを感じると、反射的に怒りが生じるのは、心身にこれ以上、侵襲がわらないようにする一種の防御反応なのかもしれません。

怒りにより反発することによって、相手を無意識に遠ざけようとしていると思われます。



水と油は分離します。

それと同じ様に、人間同士でも自分と違うものを感じると、遠ざけ合ってしまうことが多いと考えられます。

もし、両者が交わったならば、軋轢が生じることもあります。

異質なもの同士が出会うと、反発し合うことによって、怒りが生じることがあると思います。



並んで順番を待っているところに、無理やり割り込んでくる人がいれば、ちょっとした怒りが生じるかもしれません。

戦争により、罪のない子供たちが犠牲になっているのを知ると、憤りを覚える人もいます。

この種の怒りは、自分の中にある良心が反発して生じていると考えられます。

良心とは道徳的な概念ではなく、自分(魂)に内在している神であり、思念や行動の絶対的な基準となっています。

それに抵触する事象が起きると、自動的に怒りが生まれることがあります。



悲しみの涙を流している人のそばにいると、自分まで悲しくなってしまったり、笑っている人がいれば、自分もつられて笑ってしまうことがあります。

これは、同調が成立して想いが伝わって来たためと考えられます。

原因が見当たらないのに、怒りが生じたとしたら、怒りの想いが他者から伝わって来たせいかもしれません



この様に、一口に怒り
と言っても原因はさまざまです。

もう1度、まとめると

自己防衛的な怒り

自分と違うものに反発する怒り

良心から生じる怒り

同調による生じる怒り

となりますが、共通しているのは、どれも因果律の働きにより生じていることです。

外から何かを受けて、自分の想いに変化が生じていますが、複数の原因が絡み合っている場合もあると考えられます。



自分が受けたものが許容できないと、怒りは生じます。

しかし、その許容度は一様ではありません。

ある人にとって、どうしても許せないことが、ある人には何でもないこともあります。

それは個々の寛容性によって決まると考えられます。

寛容性は、魂の属性の一部であり、成長度(霊性)と密接に関係していると考えられます。

成長度の高い人ほど寛容であり、怒りは生じにくいと考えられます。



相手から酷いことを言われたり、仕打ちを受けて、怒りが生じることがあります。

その時に、注意深く振り返ってみると、こちらが与えたものが、因果律の働きにより、相手から返されているのに気付くことがあります。

例えば、こちらが意識せず言ったことが、相手にとって触れられたくないことであり、心が傷ついて、因果律の働きによって、相手から傷つくようなこと言い返されていることがあります。

世界中で起こっている戦争もそうです。

相手から受けた攻撃により同胞が傷ついているのは認識できますが、自分がした攻撃により相手がどれほど傷ついているのかが判らずに、報復が繰り返されています。

怒りの感情は、炎のように熱を持ったものであり、時に相手を火傷をさせてしまうかもしれません。

それは因果律の働きにより、自分自身が火傷を負うことにつながります。



怒りを鎮めるのには、許しが必要です。

許しの原動力となるのは愛です。

愛があれば、基本的に怒りは生じません。

電車の中で足を踏まれたとしても、自分が愛に満たされていれば、怒りは生じにくくなりますが、愛が足りないと、痛みを強く感じ、怒りが生じやすくなります。



この世は、自分とは異なる人たちと交わる世界です。

交わる中で反発し合うと怒りが生じます。

怒りは調和を乱すものですが、そこから生じる痛みや苦しみによって教訓を学んで、再び調和が生まれると考えられます。


怒りの力は他者と結ばれる力(愛)に変わり、神の意思である生命を1つにさせる方向に向かっていると思います。



さまざまな人(魂)が同じ平面で生きていると、理不尽な出来事が起きてしまい、強い怒りが生じることがあります。

怒りが高じると、憎しみや恨みとなってしまうことがあり、そうなると対象を許そうとしても許せるものではありません

自然の摂理を創造した神の心は愛です。

憎しみや恨みは摂理に反した想いであり、因果律の働きにより相応の苦しみが生まれますが、その苦しみが魂を成長させて、対象を許す方向へ向かわせています。

時ではなく、自然の摂理の働きによって、苦しみを生み出している想いから解放されると考えられます。



「汝の敵を愛せよ」と、イエス・キリストは言いました。

怒りを外に向かって表現すると、因果律が作動して、新たな苦しみが生じてしまうだけです。

怒りの対象に向かって、あえて愛を表現することによって、神から流れ込む愛により魂は癒されて、怒りは鎮められると考えられます。

極めて難しいのですが、怒りが強い時ほど、対象を思いやり、優しくする、その中に愛すべき何かを見つけて怒りを抑えるのが賢明です。

怒りから解放されるために、自らが対象に向かって愛を表現するしかありません。



この世にも、天国と地獄が存在しています。

その人が置かれている状況ではなく、魂のあり様によって決まります。

愛を表現しようとする人は怒りから解放されているので、この世にいながら天国のような悦びを味わうことになります。

その逆に、怒りや憎しみや恨みを表現しようとする人は、地獄のような苦しみを味わっていることになります。

対象を許そうとするのも、許さずにいるのも苦しみです。

どちらを選んでも、魂が成長することで、最終的には怒りから解放されますが、苦しみを味わっている時間は大きく違ってきます。



怒りを創造したのは神です。

神は、怒りと言う苦しみを通して、愛を表現させる方向に導いています。

認め合い、許し合うことの大切さを、怒りを通して私たちは学んでいます。