2022年12月25日日曜日

霊的真理とこの1年

 

早いもので、今年ももうすぐ終わろうとしています。

コロナの流行が続く中で、ロシア軍のウクライナへの侵攻が起きました。

不穏な空気に包まれ、長く感じられた1年でした。



戦争は言うまでもありませんが、コロナも人災だと思います。

人間の過った行いに対して、何かしらの因果律が働いて、コロナウィルスが発生したのではないかと考えています。

もしそうだとすれば、その過ちを改めない限り、流行は収まらないと思います。


中国の発電所(出典:カベージニュース)
地球温暖化の被害を受けた北極海のシロクマ

人間の過った行動で、地球環境が危機的な状況に陥っています。

私たちは、そのことに気付いているのですが、行動を改めようとしません。

そのために、罪もない動物たちが、多大な被害を被っています。



人間は最強です。

いかなる動物も、人間を制御することは不可能です。

2020年春、コロナウィルスが流行し始めました。

すると、未知のウィルスに恐怖を抱き、街から人は消えました。

道路を走る車は少なくなり、飛行機も飛ばなくなり、工場も稼働を停止しました。

ほとんどの人が家の中でじっとしていました。

この生物とも言えない、極小のウィルスが、人間を制御する力を持っていたのです。



その結果、何が起きたでしょうか?

CO₂の排出量は、産業革命以降、最も減少したそうです。

わずかの間でしたが、世界中の都市の空気が澄み渡り、空が青さを取り戻しました。

緊急事態宣言下の東京
これが本来の姿です。

今までが、異常だったのです。

異常に慣れ切ってしまい、何とも思わなくなってしまっていたのです。




霊的に最も進化しているのは人間です。

その人間が、地球全体のことを考えていません。

自己中心的な行動をして調和を乱し、環境を壊し続けています。




利己的な行いは、自然法則に反しています。

その報いは、因果律の働きによって、人間に返って来ます。




自然法則は、あらゆる事態を想定して創られています。

人間が原因でこのような事態に陥った時、人間の行動を制御するウィルスが大流行するように、自然法則が創られているような気がします。




生きて行くために、本当に必要なものは、それほどありません。

けれども、多くの人が必要のないものまで欲しがります。

ウィルスの流行と言う大惨事を経験して、魂が目覚めた人はきっと多くいるでしょう。

魂が目覚めれば、今までの価値観が一変します。

物質的なものから、霊的なものに意識が向かうようになります。

お金や物に捉われない生き方をするようになります。

自己中心的な考えから、全体のことを考えるようになります。

多くの人の意識を変革するのも、ウィルスの流行という自然現象の中に組み込まれていた目的の1つのような気がします。




流行が始まって、もうすぐ3年です。

コロナにも慣れて、普段通りの生活をするようになってきました。

もし、コロナの流行にそのような隠された意図があるのなら、以前と何も変わらずに行動をしていると、もっと強烈な自然現象が起きるかもしれません。

想像したくもありませんが、感染力が強く、致死率が高く、ワクチンも効かないようなウィルスが、因果律の働きによって出現するのではないかと危惧しています。

あの時と同じように、人間を震え上がらせ、家に籠らせるような流行が起きない限り、地球温暖化を根本的に止められる手段はないような気がします。





出典:読売新聞オンライン
ウクライナで起きている戦争が終わる気配はありません。

1人の人間の自由意志の行使によって、ここまで世界が変わってしまうことに驚きました。

なぜ、こんな取り返しのつかないことをしてしまったのでしょうか。




一線を越えて行動に移してしまった理由は、「強い怖れ」だと思います。

人間が信じられなくなると、他者に怖れを抱きます。

そして、自分を守ろうとします。

過剰に自分を守ろうとするあまり、攻撃につながってしまったように思います。




目に視えるものが全てで、死んだら終わりだと思っているのでしょう。

そんな人は、好きなように生きようとします。

富や権力を得ることに快感を覚えるようになります。

地上でしか意味のないものを必死に守ろうとして、利己的な行動を取ってしまいます。




自分の行いに、自然法則が働いていることなど、知る由もありません。

どれくらいの人を苦しませ、悲しませ、人生を狂わせてしまったのかも知りません。

因果律の働きからは、何人たりとも逃れることはできません。

償いが待っているのを知っていたら、恐しくてできるはずはありません。




人間は肉体を超えた存在です。

霊的な存在であり、霊力によって生かされています。

そして霊的につながっています。

国や人種の違いなど、全く関係ありません。




ヒーリングをするたびに、そのことを実感しています。

霊力とは生命力そのものであり、湧き出し、流れて行くものです。

国も人種も関係なく、人だけでなく動物たちにも、ヒーリングの力は届きます。

それは、私たちは霊的な存在であり、目に視えないつながりがあるからです。




霊的な無知により起きるのは、戦争だけではありません。

貧困や飢餓もそうです。

全ての人間は地球を生きている同胞であり、物的に持てる者が持たざる者に分け与える責務があるのを忘れているからです。




世の中で起きている事件もそうです。

自らの命を絶ってしまう人も、後を絶ちません。

この世の人生で終わりではない、乗り越えられない出来事は決して起きない、そして自らの行いに自然法則が働いていることを知っていれば、踏み留まることができたのかもしれません。




世の中をより良くするため、いらぬ苦痛を生まないために、霊的真理を伝えることは、想像している以上に重要だと感じています。

霊界は真理の普及を何より望んでいます。

何故なら、地球の隅々まで真理が行き渡り、実践したのならば、世の中を悩ませている全ての問題は立ちどころに解決するからです。




伝えようとする意志を持ち、それを行動に移さなければ、地上では何も始まりません。

僅かではありますが、このブログを通して伝えられたことに感謝しています。

来年は、霊界に祈りながら、新しい扉を開けてみようと思います。








2022年12月18日日曜日

大切な人を亡くした先輩との会話


私には恩人がいます。

その人は、4学年上の大学の先輩で、同じスタディーグループ(歯科医師の勉強会)に入っています。

私は16年前に行政処分を受けて、3ヶ月間仕事ができなくなりました。

代わりに診療してもらえる先生を探しましたが、なかなか見つかりません。

困っていた時に、その先輩に相談したところ、免許を持っていて主婦をされている奥様を通わせると言ってくれました。

東京から新幹線で1時間以上をかけて来てもらいましたが、窮地にいる私たちを気遣って、無償で診療をして下さいました。

それにより、患者さんは他院へ散逸せずに済み、医院を存続させることができました。

今、仕事ができているのは、先輩ご夫婦のお陰と言っても過言ではありません。



それから、しばらく経ってからです。

奥様が血液のがんになり、入院して治療を受けていると聞きました。

聞いた瞬間、あの時の恩を返すために、ヒーリングをして差し上げようと思いました。

けれども、先輩はアメリカの大学院を卒業し、EBM(科学的根拠のある治療)に特別こだわっている人でした。

証明することのできない、この力の存在をどう受け止めるか心配でしたが、勇気を出して申し出たところ、了承してもらいました。



早速、ヒーリングを行ったところ、痛みが和らいで良く眠ることができたと、奥様からうれしい返答がありました。

しばらく続けて行っていましたが、心労のためでしょう、今度は先輩が脳内出血で倒れてしまい、手術を受けることになりました。

心配した奥様は、ご自分の代わりに先輩をヒーリングして欲しいと連絡がありました。

自分のことより、周りを優先する人でした。



先輩は無事退院して、仕事に復帰しました。

しかし、奥様は病気の進行が止まらず、病状は悪化の一途を辿りました。

一縷の望みをかけて、骨髄移植を受けるためにアメリカに渡りましたが、その先でご家族の願いもむなしく、お亡くなりになりました。

残念で、悔しかったです。

優しく、思いやりがあり、誰からも好かれる人ほど早く逝きやすい、そんな法則のようなものを改めて感じました。



先輩のアメリカ留学を勧めたのは奥様でした。

小さなお子さんもいて大変だったでしょうが、夢を叶える後押しをされていました。

仕事の成功は、奥様がいなければあり得ません。

先輩にとって奥様は、精神的な主柱であると共に、同志であり、親友のような存在だったと思います。

そんな奥様を亡くした先輩の想いは、私には想像も付きません。



大勢のスタッフを抱えた法人の経営者でもある先輩は、休むことなく働かなければいけませんでした。

疲れて家に帰って来ても、優しく迎えてくれる人はいません。

真っ暗な部屋の電気を、溜息をつきながら付ける、先輩の姿が思い浮かびました。

本当におつらかったと思います。



今月の始めに勉強会がありました。

その帰りに先輩と一緒になり、歩きながらこう尋ねました。

「奥様が亡くなって何年経ちますか?」

「もう5年だけど、実は俺、結婚したんだ」

意外な答えにびっくりして、おめでとうございますと言うのを忘れてしまいました。

相手の方も、配偶者との別れがあったそうです。

60歳を越えての再婚に、既に独立しているお子さんたちは強く反対されたようですが、それを押し切ったのは何か理由があるはずです。



先輩は、人があまりしていない経験をしています。

ご両親が拵えた数億円の借金を、ご自分が働いて返済しています。

返済が終わったらアメリカに渡り、日本で初めて専門分野の認定医を取得しました。

そして、東京で最も有名なビルの1つにクリニックを開業しました。

ご自分の力によって、ご自分の人生を切り拓いて来ました。



そして、奥様を亡くされました。

こればっかりは、自分の力でどうすることもできません。

何もする気が起きず、部屋の中でじっと物思いに耽る先輩の姿が思い浮かびます。

変えようがない現実と向き合う中で、何を思っていたのでしょう。



これまでの先輩の生き方を傍で見ていて、こう思うようになったと考えています。

「このままじゃいけない」

現状を変えたいと願った先に、出会いが待っていたと思います。



結婚したと聞いたすぐ後に、奥様のことが思い出されました。

「先輩が脳内出血をした時に、自分ではなく○○(先輩の下の名前)にヒーリングをお願いしますと頼まれました」と話しました。

そして「憎まれっ子、世にはばかるの逆で、奥様みたいな優しい人が早く逝ってしまいます」と言いました。

先輩は「そんなことを言われると涙が出ちゃうじゃないか」と言っていました。



別れを乗り越えたから、結婚することができたと言う人もいるでしょう。

私はそうではないと思います。

乗り越えられない自分をどうにかしたくて、活路を見い出すために、思い切って結婚されたと思いました。

それが先輩らしいのです。



その後、私はこう言っていました。

「奥様は全然許しています」

そのことは、先輩が気にしていたことであり、奥様が伝えたかったことなのかもしれません。

そして「先輩の幸せだけを願っています」と続けました。

1人では何もする気が起きない、先輩らしくない姿を見ていた奥様は、何とかしてやりたいと思っていたのに違いありません。



肉体を失っても、支えてやりたい気持ちは変わりません。

「このままじゃいけない」と思う先輩の気持ちを、奥様はご自分の想いを投げかけることによって、後押しをしていたような気がします。

地上を生きて行くために、必要な人と出会わせ、一緒になるように導いていたのかもしれません。



他の女性と親しくなるのを、傍で見ている奥様が嫉妬をしないのかと思う人もいるでしょう。

幸せを願う純粋な想いに、嫉妬は相容れません。

そんなことに捉わないれ人だからこそ、早く逝くことが許されたと思います。

「○○(先輩の下の名前)を、どうぞよろしくお願いします」と、その女性に想いを送っているような気がします。

先輩らしく生きる姿を見届けたい、その想いだけだと思います。



先輩は、この人生を選択しました。

同じ経験をしても、どのような選択をするのかは人それぞれです。

正しい、間違っているなどありません。

どんな選択をしても、許してくれるでしょう。

許せないような人であれば、早く逝くことも許されないと思います。



信号待ちをしている時、「奥様はいなくなってなんかいません。」と、少し強い口調で言いました。

亡くなって間もない頃に同じことを伝えたのですが、その時と同じように「ありがとう」と返ってきました。

その言葉には「俺もそう思いたいけど、その証拠を見せてもらったわけではないので、お前のように信じることはできないよ」という想いが込められているように感じられました。



魂の存在が信じられなくても、仕方がありません。

けれども、生命の本質は魂です。

魂は不滅です。

これは変えようがない事実なのです。



人は霊的な存在です。

感度の差こそありますが、誰もが霊的な感覚を持っています。

誰かが傍にいるのを、ふと感じる瞬間が、先輩にもあったはずです。

見守られているような感覚もあったはずです。

根拠はないのに、また会えるような気がする時もあったはずです。



想いがある限り、離れ離れになることはありません。

魂と魂で結ばれた人にとって、死は無力です。

魂から生まれる力が愛であり、磁力のようにお互いを引き付けます。

別れていないどころか、奥様にとって先輩は生前よりはるかに身近な存在となっています。



向こうに行くと、地上で学び得たことを活かす生活が始まります。

肉体がなくなり、より一層、誰かのために、何かをしたくなります。

残してきた人が一段落ついたのを見届けると、自分がやりたかったことをするようになります。

今いるのは、想いがことごとく叶えられる世界です。

思う存分、何かをしてあげられることに、奥様は深い悦びを感じているでしょう。



先輩が肉体を失った瞬間、奥様と同じ次元の存在となり、はっきりとその姿が視えるようになります。

そして、満面の笑顔でこんなやり取りをするのかもしれません。

「この日が来るのを、ずっと待ち望んでいた」

「私もよ」

「ところで、何で俺を置いて先に逝ったんだよ。大変な思いをしたんだぞ」

「全部知っているわよ。私がいなくなることが、あなたのために必要だったからなの」

「俺のために必要だった?」

「そう、あなたのためなの。決めていたことなの。悲しんだ分、苦しんだ分、あなたは大きく成長したのよ。神様がいて私たちは同じ方向に導かれているの。」



もしも、そんなやり取りがあったとしたら、そう言えばあの時イクミも同じことを言ってたなと、思い出してくれるのかもしれません。





田坂広志さんと言うビジネススクールの塾長が興味深い話をされています。1時間を超える講演になりますが、お時間が許す方はご覧になって下さい。(字幕は誤字が多いです)

2022年12月11日日曜日

思い通りにならないこの世を生きる


私は歯医者をしていますが、仕事の難しさを感じる時があります。

全力を尽くしても治療が上手く行かないことがあり、思い通りにならないもどかしさを覚えます。

また、患者さんとの意思の疎通が十分に図れていないと、後で問題が生じることがあります。



この世では、思ったことを肉体を働かせて、具現化しています。

けれども、肉体は不完全な媒体であるため、思い通りになるとは限りません。

この世では、思ったことを言葉で伝えています。

伝えてもらわないと人の思いは判らず、伝えないと自分の思いを判ってもらえません。



霊界は思念の世界です。

想い(思念)は肉体を介さずに具現化されます。

この世のように、思い通りにならないことはありません。

想いは相手に直接伝わります。

言葉を交わさなくても、お互いが判り合えています。



そんな快適な世界に別れを告げて、大変なこの世に生まれて来たのは、自分を成長させるために他なりません。



私の仕事の話に戻ります。

治療をする時は、理想とするイメージを頭の中に思い描きます。

手を動かしてイメージの通りに再現しようとしますが、完璧に再現できたと思えたことはありません。

それが私の技術の限界と言えます。



大切なのは、より技術を向上させ、理想に近づけたいと努力することだと考えています。

シルバーバーチの霊訓に、こう書いてあります。

霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。

仕事の技術を向上させることは、より質の高い奉仕につながり、自分を成長させる大切な機会となっているはずです。



仕事で患者さんに人工の歯(冠)を入れています。

私が理想と考えているのは、お口の中で調和が取れていて、自然な歯です。

ところが、患者さんの中には、できるだけ白い歯を希望される人もいます。

どれくらいの白さなのかは、私には判りません。

客観的に知るために、「シェード」とういう器材を用います。

20色あるシェードを歯に当てて、それを患者さんに鏡で見てもらい、希望の白さを選んでもらいます。

この行程を踏むことにより、後で問題になることはありません。

意思の疎通を図るのには労力を伴います。

勇気がいる時もありますが、判り合えるために必要です。

歯の色を決めるためのシェード

私の仕事に限ったことではありません。

例えば、料理もそうではないでしょうか。

美味しい料理を作るのには、腕を磨かなければいけません。

意思の疎通を計り、食べる人の好みを知っておくことも大切です。

生活して行く上で、理想に近づけるために努力が必要なこと、意思の疎通を図らなければならないことは、いくらでもあります。



霊界に行くと、何もしなくても生きて行けます。

けれども、ただ生きているだけでは成長することはできません。

誰かのために、何かをすることで、人は霊的に成長します。

何かをしようとする「意志」が存在しなければ、何も始まらないために、成長することはできません。



霊界と違いこの世では、心の中で思ったことを具現化(表現)するために意志が必要です。

伝えようとするのも、知ろうとするのも、意志が必要です。

精神的、肉体的に労力を要するこの地上的な作業は、意志を培うのに好都合と考えられます。



この世では、自分と違う人と接しながら生きています。

自分の思い通りに人はなりませんし、思い通りにするものでもありません。

自分とは違う他者の生き方や考え方を認めて、協調して生きようとすることで、霊性が発揮されます。



私たちは不完全な存在です。

そのために、過ちを犯したり、失敗をします。

許さなければならない場面に満ち溢れています。

それができなければ、(法則に反した)怒りなどの感情が生まれ、苦しむことになります。

「寛容」という霊性の神髄を、この世で培っています。



人生には計画があります。

その計画に従って、出来事が起きます。

望まない出来事が起きれば、思い通りにならない人生に憤りを感じたり、嘆く人もいるでしょう。



次の世界が、私たちの本来の住処であることを忘れてはいけません。

そこで自分に足りない資質を自覚したのです。

足りない資質は、魂にまで響く体験を通して、身に付けるしか方法はありません。

身に付けた資質は、次の世界で活かされます。



思い通りにならないのがこの世です。

自らの意志を強くし、霊性を高めるために、志願して生まれて来たのです。

何もしなくても生きていられる霊界で、誰かのために何かをすることのできる素養を身に付けるために、この世で相応しい経験をする必要があったのです。






2022年12月4日日曜日

違いを認める


世の中には、自分とそっくりな人が3人いるといると聞いたことがあります。

根拠のない話と思っていましたが、以前、そこにいるはずのない私の姿を見て驚いたと言う人がいました。

もしかしたら、他人のそら似を超えた人が、本当に存在しているのかもしれせん。



死んで霊界に行くと肉体はなくなります。

周りにいるのは、外見ではなく、魂がそっくりな人たち(類魂)です。

同じようなことを想い、互いに判り合えています。

天国と言われる所以がそこにあります。



この世はどうでしょう?

魂がそっくりな人と出会うことは、まずありません。

周りにいるのは、自分と違う人ばかりです。

さまざま相違から、争いが起きることもあります。



どうしてこんな世界に生まれ来たのでしょうか?

判り合えるのが難しいこの世界を生きる中で、学ぶことがあるからだと思います。



霊界では、魂から生じた思念は直ちに具現化されます。

地上で思念は、精神上に作られた地上的な自我(以下自我)で具体化され、肉体によって具現化されます。

無意識下で、その過程を繰り返しながら、人生は営まれています。



自我は、肉体と密接な関係にあります。

自我は、より安全で快適な生き方を志向しています。

そのために、自分と違う人が周りにいると防御的になり、不安や怖れを感じることがあります。



魂の様相は自我(精神)に反映され、性格となって顕れています。

よって、魂が似ていなければ、性格も似ていることはありません。

性格はその人の個性です。

さまざまな魂がいる地上では、多様な個性が生まれることになります。



自分と違う人に出会い、不安や怖れを抱いた時に、自我の働きによって、その人から遠ざかろうとします。

中には、遠ざかるのではなく、安心を得るために、対象となる人を変えようとする人がいます。

言動によって無理に変えようとすれば、軋轢が生じます。



親が子に、こう変わって欲しいといくら頑張っても、なかなか変わるものではありません。

変わったとしても、自我(精神)の一部と考えられます。

魂は、自らの意志、経験によって変わって行きます。



正当性を主張し、間違いを改めるように要求するとどうなるでしょう?

客観的に間違いを証明できるものであれば、もしかしたら改めるかもしれません。

けれども、証明できないようなこともたくさん存在し、その場合は争いになる時があります。



例えばですが、ある事故がきたとします。

当事者の1人は、相手(加害者)を許すことができません。

もう1人は、許すことができます。

許せる人を見て、許せない人は「許すな」と、主張するかもしれません。

許せない人を見て、許せる人は「許してやれ」と、主張するもしれません。

このようなことは、どちらが正しい、間違っていると証明できるようなものではありません。

両者の違いは、魂の違いに根差していると考えられ、自分の思う通りに相手を変えようとしても、無駄な努力に終わります。



                              

相手を変えようとするのは、自我の働きに他なりません。

自我の働きにより出た言動に、相手の自我は反応し、その働きがより強くなります。

自我により防御されて、相手の心(魂)に届くことはありません。

魂から生じた想いを伝えれば、自我は反応せずに、相手の魂に届くかもしれません。

その想いが愛に基づくものであれば、自らの力で、魂は変わって行くかもしれません。



相手を変えるのは困難です。

違いを認められる自分に変わるしかありません。

そうしない限り、不安や怖れや怒りは解消されないでしょう。



自分と違う人たちと接しながら生きるのが地上です。

自我の働きを鎮めて、違いを認め合うことが求められています。

認め合わなければ、傷つけ合うことになり、痛みを経験することになるかもしれません。

痛みを経験することで、認め合うことの大切さを学ぶことになりますが、その前に気付くのに越したことはありません。



同じになろうとする必要はありませんが、同じにさせようとするのも間違っています。

自分しか変えることはできません。

変えるのが難しいと感じたのなら、変われるように祈れば良いのです。

その祈りが、神の心を表現し、魂の成長につながるものであれば、叶えられるはずです。



相手を認められるようになると、相手から認められるようになります。

信じられるようになると、信じてもらえるようになります。

自然法則(因果律)はそのように働いています。



認めること、信じることは、神性の表れです。

認め合い、信じ合うことなしに、人(魂)と人(魂)はつながることはできません。

つながることなしに、愛し合うことできません。

神の意志の通りに、霊的に1つになって行くことは叶いません。



物しか視えないこの世界で、目に視えない大切なものを見つけ出すために、地上に生まれて来たと考えられます。

そのために、さまざまな出来事を経験することになります。

苦しみ、悲しみの極みで、眠っていた魂が目覚めます。

目覚めた魂が、それまで視えなかった大切なものを見つけ出します。



見つけたものは、かけがえのない財産となります。

死んで持っていけるのはそれだけです。

生まれる前より魂が豊かになり、霊界においてより自分を活かせるようになっています。




2022年11月27日日曜日

神性を信じる

霊界と地上の違いは何でしょう?

たくさんありますが、霊界では周りに自分と似通った人たちしかいないのに対して、地上では自分と違う人たちに囲まれている点を私は挙げます。 

もう1つは、霊界では想ったことが直ぐに相手に伝わるのに対して、地上では伝えようとしなければ伝えられない点です。



地上では、自分とは違う生き方や考え方の人たちと接しながら生活をしています。

そんなことから、相手のことを理解できなかったり、自分のことを理解してもらえなかったりします。

また、何かを伝える時には、心の中にあるものを言葉に変換して、身体を使って表現しなければいけません。

言葉という媒体を介しているので、完全に伝えるのは不可能です。

たとえ上手く伝えられたとしても、相手に受け入れてもらえるとは限りません。

わかり合えるのが難しい世界に生きていると言えます。



私も時々失敗をします。

相手はこれを望んでいるだろうと思い行動すると違っていることがあり、意思の疎通が十分に取れていなかったと反省することがあります。

コミュニケーションをしなければわかり合えない世界にいることを忘れてはいけません。



今は、メールなどでコミュニケーションをすることが多くなっています。

文字だけでは、細かな想いや考えまで伝えられません。

便利にはなりましたが、意思の疎通は以前より難しくなっているように感じられます。



意思の疎通が取れなければ、相手を理解することはできません。

相手の意図が理解できないまま、自分に不利益な行動をされたらどうでしょう?

「どうしてこんなことをするのだろう?」と思います。

そんな時、地上的な自我(以下エゴ)が働き出すかもしれません。



エゴは自分を中心に考えます。

自分の思っている通りにならなかったり、考えていた行動を相手がしなかったりすると憤りが生まれる時がありますが、それはエゴの働きによるものです。

その感情をぶつけてしまうと、因果律の働きにより、相手から同じような感情が返って来る可能性があります。

するとエゴの働きがさらに強くなり、より強い感情をぶつけてしまうかもしれません。

些細なことからエゴの働きが徐々に強くなり、争いに発展してしまうことも、決して少なくありません。



そうならないために、どうすれば良いのでしょうか?

相手の意図が理解できなかったとしても、信じる必要があります。

そんな簡単には、人を信じられないと言う人もいるでしょう。

騙されたり、裏切られたりした経験のある人ならばなおさらです。



地上では、魂(本質)が肉体に隠されています。

本性は判らなくなり、嘘や裏表などが存在するようになります。

なので、信じられずに警戒をしてしまうのも、仕方がないような気もします。

それでも、信じようとしなければ、好ましい方向に向かって行くことはありません。




宇宙は神が顕現したものです。

私たち人間も、宇宙の極小の一部です。

神の心(神性)を表現しようとする存在です。

けれども、(表現媒体が)未熟なために、利己的になったり、嘘を付いたり、過ちを犯したりして、神の心とは程遠いことを表現しています。



地上では神性が表現されている人と、そうでない人がいますが、どんな人にも神が宿っているのは確かです。

神が宿っているからこそ、人を助けようとしたり、世の中のために役に立とうと思う気持ちが生まれます。



相手の神性を意識するようにしましょう。

エゴに意識を向けてしまうと、自分のエゴの働きも強くなり、好ましくない感情に支配されることになります。

被害妄想的になり、時に怒りが生じ、それが憎しみへと変わって行くかもしれません

相手の神性を信じることで、霊的な意識が強くなると同時にエゴの働きは弱くなり、良い方向へと向かうはずです。



信じなければ、接点は生まれません。

接点がなければ、互いを知ることができません。

お互い知ることができなければ、認め合うことはできません。

もちろん、許すことなどできません。



今、起きている戦争は、相手のことを許せなくなっています。

ひどいことをしておいて、許すことなど到底できないと言うでしょう。

許せないようなことをする人は、自分に宿っている神に裁かれ、相応の報いを受けることになります。

エゴに意識を向けるのではなく、神が宿っていると強く信じることで、許す方向へと向かって行くはずです。



自分にも神は宿っています。

どんな状況に置かれたとしても、相手を信じることは可能です。

なぜなら、神は信じることを望んでいるからです。

信じることなしに、神の心が表現されることはないからです。



多くの怖れ、不安、怒りが、信じられないことから生まれています。

相手にも神が宿っている、そして自分にも神が宿っていると信じることで、エゴの働きが抑えられ、それらの感情は鎮まって行くはずです。



霊界と違って、地上は完全に判り合えない世界です。

そんな世界に生きているからこそ、信じることが必要になります。

信じることで、物的な障壁が取り除かれて、人と人はつながることができます。

そのつながりを通して愛が行き渡り、神の意図した通りに、私たちは1つになることができます。










2022年11月20日日曜日

苦しみが変化をもたらす


先天性無痛無汗症という病気があります。

名前の通り、痛みを感じず、汗もかかない遺伝性の疾患です。

身体に痛みを感じないのであれば、良いことじゃないかと考える人もいるでしょう。

ところが、そのことが命に関わります。

事故などで大きな傷を負ったとしても、痛みを感じなければ、自分に何が起きているのか判らず、出血死してしまうかもしれません。

私は歯医者をしていますが、痛みを感じなければ虫歯になっても気付かず、放置されてボロボロになってしまう可能性があります。

痛みは誰もが感じたくないものです。

けれども、身体の異常を知らせるために、なくてはならないものです。



痛みを感じるのは肉体だけではありません。

精神(心)も痛みを感じます。

傷つくことを言われれば、心に痛みを感じます。



病気になり苦痛が生じているのは、何か原因があるからです。

同じように、何か自分に原因があって、精神的な苦痛が生じることがあります。



全ての行為に、自然法則(以下法則)が働いています。

法則に反した振る舞いをすると、苦痛を味わうことがあります。

たとえばわがままな言動をした時です。



神の心は愛です。

その心が、法則に反映されています。

わがままな言動は利己的な行為であり、神の心(愛)に反しています。



人の心には、良心と言われる神が宿っています。

わがままな言動をすると、咎められたり、仲間外れにされることがありますが、それは他者の心の中にある神の部分が反応しているからです。

法則の働きによって、苦痛として自分に返って来ると、慎むようになります。

意識する、しないに関わらず、地上にいる私たちは心身に感じる苦痛を通して、法則の働きを学んでいます。



もし、苦痛を感じなければどうでしょう。

怪我や病気が見過ごされてしまうように、法則に反した行いをしても気付くことはありません。

「嘘は泥棒の始まり」と言われますが、知らないうちに大きな過ちへとつながって行く可能性があります。



このように、地上における苦しみや痛みは、神の心(法則)に適った生き方や考え方をするように、現状から変化することを促していると考えられます。

けれども、変化することに抵抗するものがあります。

地上的な自我(エゴ)です。

エゴは肉体と密接に関連しています。

そのために、安全で楽な方向を指向し、変化をすることを好みません。



自分の未熟さを指摘されて、プライドが傷つけられ、憤りが生じることがあります。

それもエゴの働きによるものです。

苦しみや痛みを感じると、無意識に自分を変えようとしますが、エゴが正当化する言い訳を見つけると、変わるのを妨げてしまいます。



世の中には、周りが変わるのを期待したり、強要する人がいます。

そんな人ほど、自分を変えようとしないものです。

自分が変わらずに、周りを変えようとする行為はエゴの働きによるものであり、法則に反しているので上手く行きません。

エゴから出たものは、相手のエゴを呼び覚まします。

苦しみや痛みを伴う結果として、結局は自分に返って来ます。

人だけではなく、国家にも同じことが言えます。

今、起きている戦争も、周りを力により変えようとするエゴが原因で起きているような気がします。

苦痛となって、自らに返って来ることになります。



相手の言葉が神の部分(良心)から発せられたものであれば、自分の神の部分(良心)に響きます。

苦しみや痛みを感じる時もあるかもしれませんが、真摯に受け止めるべきです。

受け止められずに正当化している自分がいたとしたら、それはエゴの働きによるものです。




勢い良く流れる川の中で、立ち止まっているのは大変です。

法則の働きは、川の水の流れのようなものです。

留まっているのを困難にさせ、自然の流れに従うことを促しています。

頑なに従わなければ、(法則に逆らっているので)苦しみや痛みが続いてしまいます。



私たちは、神の力である生命力によって生かされています。

その力は、私たちを変容させる力でもあります。

その触媒として、苦しみや痛みが存在していると考えられます。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「ある段階以上に進化をすると(中略)苦しみを感じず、幸せを感じるようになります。難しいことですが真実です。苦しみを何とも思わない段階まで達すると、どんな環境にも影響されなくなります。」

何度生まれ変われば、そのような境涯に達するのかは判りませんが、苦しみは魂の進化(成長)と密接不可分の関係にあるのは確かです。



霊訓には「乗り越えられない困難は与えられない」と書かれています。

もしかしたら「乗り越える」とは「変わる」ことなのかもしれません。

自分の中で何かが変わった瞬間、苦しみや痛みが和らいでいるのかもしれません。

苦しみや痛みが魂を成長させ、自分を変えるために存在しているのであれば、当然そうなります。



変わるために、勇気や意志が必要な時があります。

それこそが、この世の経験を通して、私たちが高めている資質と考えられます。

私たちが死後に赴く霊界は、思念の世界です。

勇気や意志がなければ、何も始まらない世界です。

高められた資質は、取り巻く環境を良い方向に変えて行くために、如何なく発揮されることになります。



霊界は、地上のような苦しみや痛みや悲しみが取り払われています。

極めて居心地が良いのですが、自力で自分を変えるのには困難な世界です。

自分を大きく変えるために、苦しみや痛みや悲しみを経験することのできる地上に、自らが志願して生まれて来たと考えられます。






2022年11月13日日曜日

人生は続いている


人は死後も生き続けます。

残念ながら、そのことを客観的に証明する手段はありません。

今は、それで良いと思っています。



人は成長するために生きています。

楽しいだけの人生では成長は叶いません。

困難や障害を乗り越える中、他者への奉仕をする中で、人は成長して行きます。



地上の人生には、学び成長するためのシナリオがあります。

シナリオに沿って、さまざまな出来事が起きます。

あまりのつらさに、現実から逃げたくなるような出来事も起こります。



そんな時に、あの世があることが証明されていたらどうでしょう?

現実から逃れて、そちらに行ってしまう人が続出してしまうような気がします。



人の寿命は予め決められています。

その時が来るまで、生き続けなければいけません。

自分の行為には、法則が働いています。

自らの意思で地上の人生を中断してしまう行為は、法則に反しているので許されません。



私たちは、肉体を携えた魂(霊)です。

肉体が有する五感以外に、霊的な感覚も持ち合わせています。

けれども、五感から入る情報が圧倒的に多いために、霊的な感覚から入る情報に気付きにくくなっています。



霊的な感覚が弱くなっている地上の人の多くは、視えている世界が全てだと思っています。

それは事実誤認です。

肉体を失った後に待ち受けている世界が、私たちの本来の住処です。



本来の住処を離れて、この地上に生まれて来たのは偶然ではありません。

明確な目的があってのことです。

しかし、生まれる前のことは、意図があって思い出せないようになっています。



この世が全てと思い、感情に捉われて苦しい思いをしている人がいます。

(出来事が起きて)自分はもう終わったと嘆く人もいるでしょう。

理不尽さに憤りを覚える人もいるでしょう。

運命を呪う人もいるでしょう。

人を妬んでしまう人もいるでしょう。

それらの感情は、適切な知識がないために生じています。

この人生で終わりではありません。

計画された通りに出来事が起きています。



お金や地位や名誉と言った地上的なものに捉われ、大切なものを見失っている人は少なくありません。

捉われたまま、あの世に行く人もいます。

死んだ後に、この世の人生を振り返る時が来ますが、そんな人は、成長に乏しい意味のない人生だったことに気付いて愕然とします。



今度は成長すると誓って、再び地上に生まれて来ることになるでしょう。

成長するためには、大切なものを自分で見い出さなければいけません。

見い出すための出来事が組み込まれた人生のシナリオが立案され、相応しい環境に生まれることになります。



当初は、前生と何も変わっていません。

再び地上的なものを追い求めることになりますが、多くを手に入れ有頂天になっている時に因果律が作動して、予定されていた出来事が起こります。

その出来事は病気かもしれません。

生命を脅かすような病気になれば、これまで必死に追い求めていたものは何の役にも立たず、意味がないことに気付きます。

不安や孤独に襲われている時に、勇気付けられたり、励まされたら、生きる力が湧いて来るでしょう。

心身が弱っている時に、優しく介抱してもらえれば心が安らぎます。

経験を通して、大切なものに気付くことになります。



病気になり、生き方が大きく変わった人がいます。

そんな人は、魂が目覚めて、目に視えない大切なものに気付いたと思います。

病気になって大切なものに気付いたのではなく、大切なものに気付くために病気になったと考えられます。

最悪のタイミングで最悪の出来事が起きたように見えて、霊的には最善のタイミングで最善の出来事が起きています。



物語の1つの章を読んだだけでは、内容を理解することはできません。

前の章から通して読んで、初めて内容を理解することができます。

私たちが認識しているのは、物心がついてから現在までの自分です。

このわずかな期間で全てを判断しようとするのは、1つの章だけを読んで物語全体を理解しようとするのと同じです。




偶然としか思えない出来事は、生まれる前に原因(目的)があったのかもしれません。

原因が判った方が納得しますが、死後の生が証明されないのと同じで、成長にとって有益でないために、知らされないと考えられます。

たとえ知らされたとしても、自尊心が傷つけられるのを嫌い、都合の良いことしか信じないのであれば、受け入れるのは困難です。



霊的に大切なことは、頭で理解するものではありません。

魂にまで響く出来事を経験して、魂が得心するものであり、そこから新たな成長が始まります。

そして、この世の先に待ち受けている世界で活かされることになります。







2022年11月6日日曜日

あの世で成長するために


自分の想いを伝える時はどうしているのでしょうか?

当たり前ですが、言葉にして相手に伝えています。

霊界に行くと、肉体はなくなります。

思念(想い)は言葉と言う媒体を介さずに、直接魂に伝わるようになります。

地上は、精神と肉体を働かせて、自分の想いを言葉に変換しなければいけない、煩わしい世界なのです。




人から発せられる言葉の本質は、言葉そのものではありません。

そこに内在している概念や想いです。




人間も全く同じです。

人間の本質は、目に視える肉体そのものではなく、内在している魂です。



地上に生まれた目的は、魂(自分)を成長させるためです。

困難や障害を乗り越えて行くことで、魂は成長して行きます。



地上の人生には、魂を成長させるためのおよそのシナリオがあります。

それに沿って出来事が起こりますが、その多くは苦しみや悲しみを伴います。


普段、運動をしていない人が10キロを走るとどうなるでしょう?

疲労困憊してしまい、途中であきらめてしまうかもしれません。

それでも、毎日走っていれば、走れるようになると思います。

筋力や心肺機能や持久力が増して、身体が変わって来るからです。



苦しみもそうかもしれません。

苦しみは心で感じています。

苦しみは魂に働きかけ、内面の変化を促しています。

自分の中で何かが変わると、苦しみが和らぐと思います。



変わる力が、感情に転化されてしまう時があります。

病気になり、自分の運命を呪ったりすると、変わることができずに、苦しみが続いてしまうかもしれません。

自分が変わるために、病気になった可能性があります。

言葉にできない何かに気付いて、自分が変わった時に、病気が癒されているかもしれません。

変わった時に、その出来事を乗り越えているのかもしれません。



人はなぜ、苦しみを乗り越えて行かなければならないのでしょうか?

私たちの本来の住処は霊界です。

そこは思念の世界です。

地上のような苦難や障害が取り払われていて、自分のペースでゆっくりと歩んで行けます。



一方、地上ではさまざまな出来事が起きます。

歩くわけには行かなくなり、全力で走らなければならない時もあります。

肉体の鍛錬になるのは、歩くよりも走る方です。

それと同じで、肉体的、精神的に負荷がかかる地上の方が、魂を鍛錬するのに適しています。

苦難や障害はつらいものです。

逃げたくなる気持ちを抑えて、もがき苦しむ中で、少しずつ魂は強くなって行きます。



何かをやろうとする時に意志が必要なのは、地上も霊界も変わりありません。

ただ、地上では、実行するには肉体的、精神的労力を必要とし、危険も伴います。

たとえば、人が溺れていたとします。

助けるためには、肉体を使って行動しなければならず、自分が溺れてしまう怖れもあります。

それに打ち克ち、助けるためには、相応の意志が必要となります。

地上ではさまざまな出来事に遭遇しますが、それに対処して行くことで、少しずつ意志が強くなって行くと考えられます。



霊界では、地上的な苦難や障害が取り払われています。

そこで成長して行くためには、他者に愛を表現しなければいけません。

霊界において意志とは表現そのものです。

どんなに愛を秘めた魂であっても、意志がなければ表現されず、成長は叶いません。

魂を鍛錬して、意志を培うのも、地上に生まれる目的の1つと考えられます。



霊界で行われていることは、ヒーリングをする時に実感できます。

ヒーリングの力を伝えるには、初めに意志のようなものが必要です。

自分の意志によりつながりが生じます。

そのつながりを通して力が伝わります。

相手のことを想う気持ち(意志)が強いほど、流れる力も強くなるように感じられます。



奉仕することで霊性が高められます。

苦難や障害を乗り越えることで意志が強くなります。

地上でさまざま経験をして霊界に戻ると、より高く、強い愛を表現できるようになっています。



つらかった経験ほど、自分を大きく成長させていたことに気付きます。

全てが報われていることを知り、背後に感じる途轍もなく大きな存在に、思わず感謝するでしょう。


Arp248  出典NASA







2022年10月30日日曜日

1番大切なもの


「神はサイコロを振らない」

これは相対性理論を発見したアインシュタインの言葉です。

起きている現象に偶然はないという意味です。



生まれて来たのも死ぬのも、偶然ではありません。

どちらも自然現象であり、何らかの自然法則が働いた結果です。



それぞれの目的(原因)があって、人は生まれて来ます。

目的の根幹にあるのは、魂の成長です。



困難や障害を乗り越えること、他者のために何かをすることで、魂は成長して行きます。

それぞれの目的(原因)に対し自然法則(因果律)が働いて、困難や障害を伴う出来事が起き、奉仕の機会が訪れます。

偶然としか思えないのは、自然法則の働きが分からないからです。



魂の成長とは、霊性を高めることです。

より高い次元の愛を表現するようになることです。



自分を愛する、これは自己保存的な欲求です。

肉体を持つ地上の人には、多かれ少なかれ誰にもあります。

幼い時は、自分が中心です。

学校に入る頃に、少しずつ変わって行きます。

わがままを言うと、咎められたり、仲間外れにされます。

苦痛を覚えて、いけないことに気付き、周りのことを考えるようになります。



大人になると、社会のために働くようになります。

そして、結婚すると配偶者のために何かをしなければいけません。

子供ができれば、育てなければいけなくなります。

自分から他者へと意識が向き、少しずつ他者のためにしなければいけないことが増えて行きます。



他者を愛するのは、簡単なことではありません。

自分を愛する欲求を犠牲にしなければならないからです。



夕方の電車の中で、お年寄りが前に立つと、仕事で疲れていても席を譲る人がいます。

それも自分を犠牲にする行為であり、ささやかな愛を表現していることになります。

その時、ささやかな悦びが感じられます。



生活して行くために、仕事をしなければいけません。

家族のために、家事をしなければいけません。

その中に、役に立つ悦びが感じられることがあります。

人は他者のために何かをすると、自然法則の働きによって、悦びが感じられるようになっています。



その悦びは霊的なものです。

好きな物を買ったり、旅行へ行ったり、お金を通して得られる地上的な悦びとは、次元が違うものです。

自分の中にいる神が悦んでいます。



誰しも苦痛を感じたくありません。

悦びを感じたいものです。

さまざまな行動をして、その結果から生じる悦びと苦痛を通して、人は自然法則の働きを学んでいます。

そして、最終的に悦びを感じる方向に進んで行くようになります。

その方向に進んで行くことによって、人は成長して行きます。



地上では、さまざまな人間が一緒に暮らしています。

考えや価値観が違う人間と接すればいさかいが起きる可能性があります。

そうならないためには、相手のことを認めなければいけません。

過ちを許さなければいけません。

その時、自分の欲求を抑えているので、間接的に他者に愛を表現していることになります。



アウシュビッツ強制収容所に入れられた人たちは、1日に1枚のパンしか与えられなったそうです。

たった1枚のパンを、お腹を空かせた子供たちに分けてしまう人がいたそうです。

自分を犠牲にして、他者に愛を表現しているのですが、なかなかできることではありません。



「汝の敵を愛せよ」と、イエス・キリストは言いました。

罪を着せられ、十字架にかけられてローマ兵から容赦なく鞭を打たれましたが、憎むではなく、敵が赦されるように祈りました。

どれだけの経験をしたら、このような境地に至るのかわかりませんが、これ以上次元の高い愛の表現はないのかもしれません。



死んだら本来の住処に戻ります。

そこは思念の世界です。

同じような思念を放っている魂が、親和力により集まって生活をしています。



肉体がなくなり五感は消失します。

霊的な感覚しかないので、人の思念が分かるようになります。

魂が剥き出しになる世界です。



霊界には無限の界層が存在します。

高い界層にいる魂ほど霊性が高く、高い次元の愛を表現しています。

高い界層にいる魂が、低い界層にいる魂たちのために現れることがあるようですが、表現している愛により、霊性の高さがわかるようです。

高い次元の愛を表現して、悦びに満たされている姿を見ると、自分も成長して同じような悦びを感じたいと思うようになるのかもしれません。



愛は光輝であり、霊界では視えるものです。

魂で感じられるものです。

愛が視えなくなり、感じにくくなる地上に生まれるのは、さまざまな出来事を経験し、そこから生じる悦びや悲しみや苦しみを通して、1番大切なものは何かを改めて見い出し、魂にしっかりと刻み込むためです。



愛によって1つになって行く、それが神の目的と考えています。

その目的を達成するために、より次元の高い愛を表現する方向に導かれています。






2022年10月23日日曜日

なぜ地上に生まれるのか


生命は永遠です。

そうは言われても、物心ついてから今までの自分しか知らないので、俄かには信じられない人がほとんどです。

過去にも地上を生きた経験があるのですが、その時の記憶は、理由があって思い出せないようになっています。



死んだ後も、生命の本質である魂は存続しています。

そして、必要であれば、何度でも生まれて来ます。

地上でしか、経験できないことがあるからです。



地上と霊界の違いは、大きく2つあります。

1つは肉体があること。

もう1つは、様々な人たちと同一平面で暮らすことです。



肉体があるので、食べて行くために、働かなければいけません。

霊界に行くと肉体はなくなり、働かなくても生きて行けます。

何もしない、あるいは自分の好きなことだけをしていれば良いのですが、それでは成長することができません。

神の心である「愛」を表現していることにならないからです。

誰かのために何かをすることで、人は成長するようになっています。



地上に生まれるのは、誰かのために何かをする中で、役に立つ悦びを見い出すためです。

何もしなくても生きて行ける霊界では、奉仕をすることに悦びを見い出さない限り、成長することができません。



霊界に行くと、周りには自分と似通った人しかいません。

性格、考え方、価値観はほとんど同じです。

争いのない平和な世界です。



一方、地上では自分と違う人たちと一緒に暮らさなければいけません。

そのために、いさかいが起きやすくなります。

平和に暮らすためには、お互いの違いを認め合い、許し合うことが求められます。

地上でしかできない経験を通して、奉仕をする悦びを見い出し、平和に暮らす術を学んでいます。



成長したくなければ、地上に生まれて来ることはありません。

立案された計画に従って、さまざまな経験をすることになります。

苦しみや痛みや悲しみを感じながら、私たちは大切なことを学んでいます。

そして、決められた時(寿命)が来たら地上を去ります。



しばらくして、地上でどれだけ学び、成長できたのかを検証する時が来ます。

予定されていた成長ができたのであれば、悦ぶでしょう。

できなかったのであれば、悔しがるでしょう。

自我に負けて、霊的な罪を作ってしまったのであれば、愕然とするでしょう。



私たちは、永遠に成長して行く存在です。

予定された成長ができた人は、さらに成長しようと思います。

できなかった人は、今度は達成しようと思います。

罪を作ってしまった人は、早く償いたいと思います。



それぞれの目的に合わせた地上の人生が立案されます。

それを了承し、相応しい環境に再び生まれることになります。



いざ生まれてしまうと、目的のことなどすっかり忘れてしまいます。

忘れてしまう地上の人のために、守護霊が付いています。

インスピレーションを送って、目的を達成させるように導いています。

地上の人はインスピレーションを受け取ると、導こうとしている方向に進んで行きたくなる衝動を覚えます。



死んだ後に、地上を検証する時が来ます。

目的が達成できたのであれば、深く満足するでしょう。

前生で達成できなかったことが、今度はできたのであれば安堵するでしょう。

償いが済んだ人は、再び成長して行くことができるようになります。



どれくらい経ってからでしょうか、自分に足りない部分、未熟な部分が強烈に意識されるようになります。

その部分を、何とかしたいと言う願望が生まれます。

その願望を叶えるための人生が立案されて、再び地上に生まれて来ます。

このようにして、地上と霊界の行き来を繰り返しながら、人は成長して行きます。



大学生に足し算を解かせても意味はありません。

どうにか解けるくらいの難しい問題が与えられて、初めて実力を発揮することができます。

神の叡智は完璧です。

成長の度合いに合わせて、たとえぎりぎりであったとしても乗り越えて行ける人生が立案されます。

成長した魂ほど、克服するべき困難や障害が多い人生となるのは当然と言えます。



ヘレン・ケラー女史は3重苦でした。

生きて行くだけでも大変な状況なのに、苦労して学問を修めました。

その後の人生を、社会福祉や人権活動に捧げました。

想像を絶する障害を克服し、人や社会のために生きた、極めて成長した魂と考えられます。

もし、生まれる前にこのシナリオを提示されたのなら、ほとんどの人はしり込みをしてしまうでしょう。

生前、彼女はこんなことを言っていました。

「真の知識を得ようと望むものは、誰でも艱難(かんなん)の山を一人で登らなければならず、頂上への王道がない以上、私は曲がりくねりながら登らねばならぬことに気付いたのです。」



ある施設に、重い身体障がいでベッドの上で身じろぎもせず、1点を見つめながら過ごしている人がいました。

カルマがあったので、このような肉体に宿ったのだろうと考える人もいるでしょうが、私にはそう思えませんでした。



肉体は動かせなくても、自分に起きていることを認識しています。

どんなに酷いことをされても、抵抗できません。

苦しくても、痛くても訴えることはできないので、耐え忍ぶしかありません。

自分に起きることを、ただ受け入れるしかありません

自由を奪われ、自己表現できずに一生を終える、これほど難易度の高い人生はありません。



1人では数日も生きられません。

生涯に渡って人に助けられて生きることになれば、他者への感謝の想いは計り知れないものになると想像されます。

蓄積された感謝の想いは、霊界で誰かのために何かをしようとする強い意志に変わるでしょう。

地上で得られたものは、本来の住処である霊界で活かされることになります。



経験なしに、学びは得られません。

苦難は地上では不幸と呼ばれて、忌み嫌われます。

けれども、死んで霊的な眼が見開かれると、見方が一変します。

苦しい経験ほど、より魂を成長させています。

それにより、神の公正は完全に保たれています。



何回も生まれ、さまざまな経験を積み重ねながら、難しい人生に挑戦して、地上で学ぶことがなくなった魂は、霊界において自律的に向上進化して行けるようになります。








2022年10月16日日曜日

今を生きるために


「人生の秘訣は今を大切に生きることです。明日を思い煩ってはいけません。」

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。



「今を大切に生きる」解釈はいろいろあるでしょう。

私は、過去や未来に捉われないで生きることだと思っています。



けれども、これがなかなか難しいと感じています。

あの時こうしておけば良かったと、過去を振り返り、悔やむ時があります。

ただ、良く考えてみると、その通りにしていたら、どうなっていたのかは判りません。

誰にも判らないことを、悔やんでみても仕方がありません。



悔やむだけでなく、怒りもそうです。

例えば、ある人から仕打ちを受けて、怒りを感じたとします。

その人の自由意志によるもので、自然法則に反している行為であれば、自分が苦しんだ分、その人も苦しむことになります。

もしかしたら、忘れている、あるいは気付いていないだけで、過去の自分の言動に原因があり、時を経て返って来ているのかもしれません。

どちらにしても、因果律の働きにより、全てが公正に解決されて行きます。

そう考えると、怒っても仕方がないような気がします。



悔いや怒りを感じているのは、過去に起きたことに対してです。

それらの感情に捉われている時、今ではなく過去に生きていることになります。

割り切ることができないのが人間ですが、できれば捉われたくはありません。



この人生で終わりではありません。

死んだ後、この世とは全く違う世界で生きることになります。

そして、目的があって、また地上に生まれて来ます。

果てしなく続く生命の営みの中で、この人生の、この場面で、この決断をして、この経験をすることが、学びや成長あるい償いのために、予め決められていたのかもしれまんせん。



私たちは、この人生の過ぎ去った部分しか認識できません。

従って、全体から起きたことを評価することができません。

一部分で評価してしまうために、さまざまな感情に捉われることになります。



過去に起きたことを変えることはできません。

難しいでしょうが、感情に捉われないためには、自分が変らなければいけません。

捉われていなければ、過去に生きていることにはなりません。



未来に対してもそうです。

心配や不安や怖れは、未来を想像することで生じます。

頭の中で想像したものには、実体などありません。

実体がないものに、感情を抱いても全く意味がありません。



考えたり、思ったりすることができるのは1つです。

悔いや怒りや心配や不安などの感情に捉われてしまうと、今をどう生きれば良いのかを考えられなくなってしまいます。



何もしていないと、過去や未来に意識が向かい、感情に捉われてしまいがちです。

目の前にあることをする、あるいは考えることで、意識は今に向かいます。

難しいことではありません。

散歩をする、深呼吸をする、何でも良いです。

自分の意志で、何かをしていれば、今を生きていることになります。



ただし、過去や未来のことを考えながらするのでは意味がありません。

心の中を空っぽにして、目の前にあることだけに集中をしなければいけません。

何かをしていれば、心に余分な感情が入る隙間がなくなります。



仕事に集中していたり、趣味に没頭していると、感情から解放される時があります。

歌を唄う、本を読む、料理をする、また食べるのもそうです。

重要なのは無心になってすることです。

そうすれば、今を生きていることになります。



羊の数を数えると、眠れると言われるのは、他のことが考えられないようになるからです。

能動的に何かをするしかありません。

自分の意志が存在していないと、感情に捉われてしまいます。



過去や未来のことに心が奪われてしまうのは、限られた地上の人生で無駄な時間を費やしていることになります。

起きたことから生じる感情に捉われているのは苦しいものです。

苦しみは、自分を変えるために、神が与えた触媒と考えられます。

捉われない自分に変わるように促されています。



死んだ後に赴く世界は、地上のような時間はなく、永遠の現在と言われています。

地上で表現していた自我もなくなり、ありのままの自分でしかいられません。

例えば、醜い心を抱くと、それが瞬時に容貌全体に現れて、結果として霊格が下がるのが分かるそうです。

原因が生じれば、結果がすぐに現れるので、地上のような時間の経過がないと考えられます。

すぐに結果が出るので、過去を悔いることも、未来を心配することもないと考えられます。



今を生きるように努めなければならないのは地上だけです。

過去や未来のことから生じる感情に捉われないために、自分の意志で何かをしなければいけないのは、地上での大切な修練と考えられます。



次の世界は思念が全てです。

何もしなくても生きて行ける世界において、最も重要なのは意志(思念)です。

意志がなければ活動はなく、活動がなければ成長はありません。

地上でのさまざまな経験を通して、私たちは意志を強くしていると考えられます。



小学生の息子さんを、交通事故で亡くされたご両親がいました。

道路を渡っている時に、車にはねられてしまいました。

小さかったので「横断禁止」と漢字で書かれた標識の意味が分からなかったそうです。

ご両親は、小さな子供でも分かるような標識に変える運動を始めました。

それが実を結び、全国の道路標識にひらがなで「わたるな」が加えられました。



身が引き裂かれるような悲しみや苦しみを感じていたでしょう。

交通事故で亡くなる子供、自分と同じ様な思いをする家族がいなくなって欲しいと言う強い意志がありました。

その意志により、苦しめられていた感情から少なからず解放されていたと考えられます。



最高の意志とは他者を愛することです。

他者を思いやることで、神からの愛をご両親は受け取り、魂は癒されていたと思います。

過去から解放されるためには、意志を持って今を生きるしかありません。





2022年10月9日日曜日

あの世で役に立つために


空が一層高くなり、秋が深まって来ました。

私は今、60歳なので、1番好きな季節である秋を経験できるのは、あと何回でしょうか。



その後に待っているのは、四季のない世界です。

そう言うと、変化に乏しい、単調な世界のように聞こえますが、そんなことはありません。

地上のどんな景色よりも素晴らしい、生命力の輝きに満ち溢れた世界が広がっているはずです。



肉体は年と共に衰えて行きます。

頭の回転は遅くなり、物覚えも悪くなります。

けれども、解決するべき問題が生じないわけではありません。



次の世界に行くと、肉体はなくなります。

食べる必要がなくなり、働く必要もありません。

人間関係の煩わしさから解放され、肉体の老いや病気の苦しみもありません。

この世から見れば夢のような快適な世界です。

そのことを知っているので、早く行きたいと思う時がありますが、寿命が来る時まで生きなければいけません。


あたたかい日差しを浴びながら、気持ち良さそうに日向ぼっこをしている猫を見ていると、微笑ましく、羨ましいなと感じる時があります。

それでも、1日中日向ぼっこをしていれば、退屈してしまいます。

何十日も続けるとしたら、きっと苦痛になるでしょう。



私たちは、神(全体)から生命力を受け取って生きています。

生命力は活動するために与えられているので、何もしないでいると苦痛のようなものを覚えます。

牢獄にいるのが罪の償いになるのは、そのためだと思います。



あの世に行くと、何もしなくても生きて行けます。

自分の好きなことが、いくらでもできます。



日向ぼっこと同じで、何もしないでいると、あの世でも退屈を感じてしまうと思います。

かと言って、好きなことばかりをしていても、何か物足りなさを感じようになると思います。



生きる目的は自分を成長させるためです。

困難や障害を乗り越えて行くことで成長します。

何も心配することもなく、好きなことだけ出来る次の世界はとても居心地が良いのですが、その分、成長がしにくくなります。



人には成長しようとする欲求があります。

成長が乏しい状態が続くと、ある種の苦痛を感じるようになると考えられます。

そこで、大きく成長できる、この世に生まれることを志願するようになります。

成長を期待できる、困難や障害を乗り越えて行く人生が立案され、それを了承して、最適な環境の母体に宿ります。



地上で生活するために、何かをしなければいけません。

生活するためにはお金が必要であり、そのために働かなければいけません。

結婚したり、子供が生まれると、自分以外の者のために、何かをしなければいけなくなります。




誰かのために何かをすること、奉仕をすることで、人は成長します。

地上でしかできない経験を通して、誰かのために何かをする習慣を身に付けています。

身に付けた習慣は、次の世界で活かされます。

自分以外のために何かをしなければいけない地上の経験は、何もしなくても生きて行ける次の世界において、より自然に奉仕ができるようになります。

自律的に成長して行けるような習慣を、地上で身に付けています。



子供の時、自分のことしか考えないで行動すると、友達から反発されたり、仲間外れにされたりします。

自分のことしか考えない人だけが集まったら、調和は生まれず、時に争いが起こります。

他者のことを思いやる人だけが集まったら、調和が生まれ、争いは起きません。

これらは自然法則の働きによるものであり、地上にしかない経験をしながら、他者のことを思いやる気持ち、神の心を学んでいます。



次の世界には完全なヒエラルキーが存在します。

地上ではお金や権力がある人が上に立つことが多いのですが、次の世界では消えてなくなります。

持っていけるのは自分の魂だけです。

霊性の高い人ほど、他者へ愛を表現できる人ほど、自然法則の働きによって上の世界に行きます。

水は上から下へと流れます。

上にいる者が下にいる者を思いやることで、神の愛が全体に行き渡るようになっています。



人には、上の世界に行きたい欲求があります。

そうでなければ、地上には生まれて来ないでしょう。

地上でしか経験できない、苦しみや悲しみの出来事を通して、魂は成長して行きます。

より高く、強い愛を表現できるようになった魂は、生まれる前よりも上の界層に行くことになります。

役に立つことに、より悦びを感じられるようになっています。




写真3 <a href="https://jp.freepik.com/free-photo/_2760681.htm#page=3&query=%E5%AE%B6%E4%BA%8B&position=20&from_view=search&track=sph">著作者:rawpixel.com</a>/出典:Freepik

2022年10月2日日曜日

真理を伝えるために



世界には、信じられない制度が今もあります。

インドのカーストです。

カーストとはヒンズー教の身分制度であり、昔ほどではありませんが、農村部を中心に根強く残っています。

カーストがあるために起こる事件には、いつも胸を痛めます。

先日も10代の女の子がレイプされて、生きたまま焼き殺されたそうです。

この女の子はカーストに入らない、「不可触民(ダリット)」と呼ばれる最下層に属していました。

また、ダリットに属するある若者が、カーストの上位にいる人たちの前で食事をしたというだけで殺されたそうです。

インドではこのような事件が、度々起きています。

こんな凄惨な事件が起きても、警察はまともに取り合ってくれないそうです。




約3000年前に作られた制度が、今も脈々と受け継がれています。

詳細はわかりませんが、作った人間にとって都合が良い制度だったと思います。

上位にいる者の既得権益は守られ、下位の者を服従させるための理由付けになっています。




ヒンズー教では輪廻転生の考えがあります。

それを逆手にとって、事件を起こした加害者は、こんな信じられないことを言います。

「被害者は前世の行いが良くなかったのでダリットとして生まれることになった。罪深い人間なので、このような仕打ちを受けて当然だ。」




カーストの最上位にいるのがバラモンです。

バラモンとは司祭階級の人たちであり、いわば宗教家です。

宇宙の真理に精通した人とされています。




もし宇宙の真理に精通しているのであれば、制度や階級は地上だけのものであり、必要のないものと判っているはずです。

即刻、廃止をして、真理に反した蛮行は止めるように働きかけるはずです。

そうしようとしないのは、制度があった方が自分に都合が良いからではないかと考えてしまいます。




日本では仏教が普及しています。

私も親しみを感じていますが、何を1番伝えたいのかが、未だにわかっていません。

伝えることよりも、儀式の方が大切になっているような気がします。

死後の世界に精通しているのなら、戒名は全く不要で、お墓もそれほど重要なものでないことが分かっているはずです。

「故人の魂は生きていて見守っています」と、遺族に伝えてやる方が、よっぽど大切だと思います。




ロシアはキリスト教国家です。

自国のウクライナの侵攻をどう思っていたのでしょうか?

ロシア正教のトップは、プーチン大統領と親密な関係にあり、侵攻を支持しています。

少し前に「侵攻で戦死した人の全ての罪は清められる」と言っていました。

たしなめるべき人が、権力に迎合してしまったようで、哀れみを感じます。




人は苦しい時に救いを求めます。

しかし、求めて辿り着いた宗教が間違ったことを教えていれば、害悪になります。

1度洗脳されてしまえば、そこから抜け出すのは極めて困難です。




あの世は存在しているのか?

生きる目的は何なのか?

そこが宗教の核心だと思います。

ドグマ(教義)で塗り固められて、真理が見えなくなってしまった、宗教に携わる人たちを、霊界の人たちは見限っていると考えられます。




本来、宗教など必要ありません。

自分自身が神の一部です。

本気で望むなら、自分(魂)の中に仕舞われている真理を見つけることができます。




人生のどこかで、1度は魂が目覚める機会が訪れると言われています。

深刻な病気になった時、大切な人を失った時、あるいは絶体絶命の窮地に陥った時がその好機と考えられます。

その時、強力にアシストするのが霊能者の役目です。

眠っている魂に、霊力を吹き込み、目覚めさせます。

目覚めた後に、受け入れられるのが真理です。

しかし、肝心の真理を知らない霊能者が多いため、せっかくの機会を逸してしまい、霊界も嘆いていると思います。




真理の根幹をなすのは「因果律」です。

因果律の働きを知らない人が権力を振りかざして、愚行を重ねています。

動機が自然法則に適っていなければ、最終的に頓挫します。

力でねじ伏せようとしたら、力によりねじ伏せられます。




自分が想ったこと、言ったこと、行ったこと、全てに因果律が働いています。

過ちを犯したら、苦痛によって償わなければいけません。

高い立場にいて、影響力の大きい人ほど、功罪は大きなものとなるので、真理を知っておかなければいけないのですが、残念ながら全く知らないようです。




ところが、霊的なことを教える立場にいる人の多くが真理を知りません。

そのために、宗教を介さないで、直接、1人1人に真理が伝えられるように方向転換されたと考えられます。




戦争、虐待、貧困、差別など、心を痛める出来事の多くは、霊的無知から起きています。

宗教とは関係ない真理を知っている者への期待は、想像している以上に大きいかもしれません。

同時に、責任も重いのかもしれません。




必要としている人が、いかにしたら真理に辿りつけるのかが重要な問題です。

多くの人は自分に必要な知識をインターネットで見つけようとします。

さまざま情報が錯綜する中で、何が正しいのか判らないのが実情だと思います。




人には正しいもの、間違っているものを判別する直感的な能力が備わっていると思います。

背後霊も、真理に辿り着くように導いています。

辿り着いたら、これだと思わせるようなインスピレーションを送り、素通りさせないようにしていると思います。




ホームページ、ブログ、ツイッター、インスタグラム、なんでも良いので、伝えるための受け皿を作っておく必要があると思います。

内容ですが、初めはプロフィールで、次に霊的真理に辿り着くまでの軌跡でも良いと思います。

何よりも必要なのは、伝えたいと言う想いです。

その想いに霊界が感応して、インスピレーションを送ってくれると思います。

頭の中に浮かんで来たものを文字にして行けば良いと思います。

文字にしたものを、霊的真理に照らし合わせて、正しいと判断したのなら、アップすれば良いと思います。





霊界の人たちは、真理を必要としている人、受け入れる時期が来た人が判っています。

真理を伝えようとしている、地上の人も判っています。

両者をつなぐために、あらゆる可能性を模索していると考えられます。

受け皿が増えることで、必要としている人は見つけやすくなり、つながる確率が高くなります。

それによって、真理に辿り着く人が増えます。

伝えようとする人が現れなければ、霊界は導きようがありません。




それとは別に、自分の生活圏にいる人で、真理を求めていると思われる人がいたら、積極的に伝えて行きたいです。

必要なかったとしても、その後の人生で必要な時が来たら、連絡があるかもしれません。




霊的真理の実践で最も大切なことは、まだ知らない人に真理を伝えることだと思います。

伝えようとする人が、真理に適う生き方をしているほど、説得力があります。




必要としている人がたくさんいるのに、真理を伝えられる人があまりに少ないことを、霊界は憂いていると思います。

伝えられるように祈れば、霊界の計らいにより、その機会が必ず訪れます。

その時のために、自分の受け皿を準備しておきましょう。




繰り返しになりますが、霊的な知識の深さよりも、真理を伝えたい、真理で救ってやりたいという想いの強さの方が大切です。

それさえあれば、あとは霊界が何とかしてくれます。








2022年9月25日日曜日

真理で支える


40年以上の付き合いになる親友が深刻な病気になりました。

数か月から1年と余命宣告を受けたそうです。

それまで元気そのものだっただけに、信じられません。



本人は、もっと信じられないはずです。

何で自分がこんな病気になるんだと思っているでしょう。



出来事には偶然はありません。

何かしらの原因があるはずです。

しかし、私が知っている限りでは、思い当たる節はありません。

働き者の、良き父親です。



多くの病気はカルマが原因で起こり、苦痛により罪を償っていると言われます。

もし、罪の償いであるならば、病気で短期間で亡くなり、苦痛のない世界に行ってしまうのは、どこか矛盾しているように思います。

むしろ、病気にならずに、苦痛のあるこの世界を生きていた方が、償いになるような気がします。

きっと、窺い知ることのできない原因(目的)が存在していると思います。



突然、余命宣告をされても、受け入れられるものではありません。

肉体を蝕んで行く病気の苦痛と恐怖に耐えるのは容易なことではありません。

コロナ禍で家族との面会ができないのも堪えています。

精神がぎりぎりまで追いつめられる時があると漏らしていました。

そんな状況になったら、誰でも正気でいるのは難しいと答えました。



以前の私でしたら、このような病気になった人に対して、運が悪かったとしか思えずに、気の毒で、かける言葉も見つからなかったでしょう。

しかし、今は霊的真理を知っています。

必要な言葉をかけることができます。



繰り返し伝えているのは「乗り越えられないことは絶対に起きない」です。

この真理に私も救われました。



真理は普遍です。

いかなる人、いかなる状況においても適応されます。



病気の進行を止めることが難しいのに、どうして乗り越えられるのかと思うかもしれません。

こんな考えがありました。

乗り越えるとは、肉体上の病気が治ることではありません。

今、自分に起きていることを受け入れて、正面から対峙すること、そして肉体を持つために生じてしまう様々な想いを克服しようとすることだと思います。



人がしないような経験を友人はして来ました。

経験したことによって強くなっている魂だからこそ、このような出来事が因果律の働きにより起きたと考えられます。

「弱い人間はこんな病気にならない。強いから絶対に大丈夫だ。」と伝えました。

それでも、何で友人ばかりに、こんな試練が起きるのかと思ってしまいます。



友人が、1番怖れを感じているのは死かもしれません。

死は誰にでも訪れますが、未知のものだけに怖さを感じます。

生命は続いていて、この世より快適な世界で生きることになると、私は知っているので怖くありません。

けれども、この世を一生懸命に生きて来た友人は、あの世について思いめぐらすことなどなかったでしょう。



少し前ですが、仕事で来られた患者さんの中で、印象に残った人がいました。

70代の女性でしたが、お口の中にはたくさんの問題がありました。

治すのには時間も費用もかかることを説明しましたが希望されました。

患者さんは末期がんでした。

長く生きるのは難しいのに、どうしてそこまで治そうとするのかと思いました。



治療中もがんは進行し、腕はひどくむくんでいました。

お力になりたいと思い、思い切ってヒーリングの話をしてみました。

少し驚かれていましたが、了承していただき、遠隔ヒーリングをしました。

幸いなことに、むくみに改善が見られました。



お口の治療が全て終わり、私の部屋に呼んでこれまでの経過について説明しました。

時間に余裕があったので、この先に訪れるであろう「死」について話をしました。

目に視えない力の存在を実感されて、時期が来ていたのでしょうか、死んでも生き続けること、素晴らしい世界が待っていることを受け入れてもらえたようです。

「シルバーバーチの霊訓」も手渡しました。

別れ際に、満面の笑みを浮かべながら、握手を求められました。

びっくりしましたが、うれしかったです。

それから半年くらい経ったでしょうか、新聞のお悔み欄に、その人の名前を見つけました。

私が言っていた世界が現実のものとなり、肉体から解放された喜びを味わっていると思いました。



友人は少しでも長く生きようとしています。

誰もが病気が治ることを望んでいます。

私もヒーリングを行っていますが、病気の進行は驚くほど速く、食い止めるのは困難なようです。

しかるべき時期が来たら、死について話すつもりでいます。

無用な怖れや不安を持って欲しくないからです。



死は不幸なことではない。

寿命は決まっていて、その時が来たら元いた世界に戻るようになっている。

いつ来るのかはわからないが、この世での目的を果たした者が逝くようになっている。

人は永遠に生き続ける。

死んでも、意識や記憶はなくならない。

家族の傍にいられるので別れはない。

そんなことを伝えて、受け入れてくれたのなら、死に対する怖れ、やり切れない思いが少しは和らぐかもしれません。



それでも長く生きていたいと思います。

友人には大学生の娘さんがいます。

この先、就職をして、結婚もするでしょう。

一緒に喜ぶことができないと思うと、たまらなく悔しいでしょう。



こんなことを想像してしまいました。

向こうに行ったとしても、娘さんの結婚式に友人が駆けつけないわけはありません。

誰よりも喜んで、父親としての言葉をかけてやりたいはずです。

不謹慎だと怒られることを覚悟の上で、祝福するビデオレターを作っておくことを提案したいと考えています。

伝えたくても伝えられない自分の想いを、その時のために残しておいた方が良いと思うからです。

もし病気が治ったとしたら、こんなものを作っておいたよと、家族で笑い飛ばしながら観れば良いだけです。

心配をしてバカなことを言ってしまったと、私も謝りたいです。



真理を知っている者にしかできないことがあります。

この世の人生の中で、思いもよらぬ出来事に遭遇し、打ちのめされそうになっている人に真理により寄り添い、支えることができます。



余計な同情はいらない人でも、真理は必要としています。

真実であるがゆえに、魂にまで届きます。

自分だけのものにしてはいけないと思います。

お仕着せにならないように、必要としている人に届けられるべきものです。










2022年9月18日日曜日

意志(思念)から始まる


人間の心は、日々変化しているようです。

朝起きると、心が軽く感じられ、頑張ろうと前向きな気持ちになる日もあれば、心が重く感じられ、何もしようとする気が起きない日もあります。

置かれている状況がそれほど変わらないのに、どうして違うのだろう? と思います。



心が軽い時は生きる力で満たされ、重い時は不足しているのかもしれません。

私たちは生きる力、目に視えない「生命力」によって生かされています。



肉体を動かしているのは、もちろん食物を摂取して得たエネルギーです。

しかし、生命力は食物から作り出されるものではありません。



生命力は神(全体)から供給されています。

その力を受け取っているのは魂です。



地上の人間は、魂と精神と肉体の複合体です。

魂から思念が生じて、それが精神を動かす力となっています。

精神が働いて、肉体に命令が出され、外に向かって表現されることを繰り返しながら、日常生活が営まれています。



思念の素となっているのは、生命力です。

精神を動かしている力と、肉体を動かしている力は別次元のものです。

2つの次元の力により、地上の人は活動をしています。

その証拠に、食物をたくさん食べても、精神活動が活発になるわけではありません。



精神を動かしている力は、魂から供給される力(思念)に依存しています。

つまり、生命力が不足してしまうと、それに伴って精神活動は停滞するようになります。

精神活動が停滞してしまう病気としてうつ病がありますが、その根本的な原因は生命力の不足と考えられます。



それでは、生命力を十分に受け取るにはどうすれば良いのでしょうか?

宇宙は神が顕現したものです。

私たちは、宇宙を構成している極小の一部です。

神の一部として、私たちは存在しているのです。

生命は全体(神)とつながっていて、霊的なネットワークを形成していると考えられます。

そのつながりを通して、生命力を受け取って、私たちは生きています。



全体(神)との間には、いくつかの障壁が存在し、生命力を受け取るのを妨げています。

最も大きな障壁として肉体があります。

肉体には五感があり、そこから入る情報は圧倒的であり、霊的な感覚を著しく低下させています。

そのために、ほとんどの人は生命力を感識することができず、その力によって生かされている事実を知りません。

神や霊界(霊的次元)に意識を向けようとしないので、十分な生命力を受け取るのは難しくなります。



生命力をどれだけ受け取るのかは、魂の資質(霊性)によっても左右されます。

霊性の高い人ほど、神とのつながりが深くなるために、多くの生命力を受け取れると考えられます。



地上の自我も、大きな影響を与えています。

恐怖を感じると、生命力の受け取りが大きく妨げられます。

それに伴い精神活動も抑制されて、何も考えられなくなってしまう時があります。

また不安や心配や取り越し苦労の念が生じると、魂の周囲にバリアのようなものが張り巡らされ、外部から送られてくる生命力の流れを妨げてしまいます。



生命力が不足している時は、全体(神)とのつながりが弱まっています。

そのために、実体のない不安や怖れが生じるかもしれません。

うつ病の人に見られる不安や怖れは、そのために起きている可能性があります。

そう考えるのは、うつ病の人にヒーリングにより生命力を流入させると、精神が安定し不安や怖れが和らぐからです。

外部との接触を断って、家に引きこもってしまう人がいますが、やはり生命力が不足しているために、不安や怖れが生じていると思われます。



生命力とは、内部(魂)から湧き出す力に、外部(霊)から送られてくる力が付加されたものと考えています。

内部から生命力は、何かをしようとする意志が生れた時に湧き出します。

意志を完遂させるために、外部の存在から援助の力が加わる時もあります。

意志(思念)という力が起点となり、内部と外部から力が与えられて、具現化されて行きます。



地上では、自分の意志がないのに、何かをしなければならない時があります。

好きでもない仕事をする時や、命令されたことをただしている時がそうです。

そのような時は、生命力を十分に受け取れずに、精神活動をさせることになります。

長く続くと、生命力が枯渇し始めて、心身に障害が出ることがあります。

過労死という悲惨な出来事は、その状態が極まった時に起きると考えられます。



生命力が枯渇しないためには、「やらされている」のではなく、自分の意志で「やる」という気持ちに転換することが必要と考えられます。

それにより、生命力を受け取れます。



絶望的な状況に陥ると、前向きな気持ちになれず、何をする気も起きないかもしれません。

そうすると、十分な生命力を受け取ることができなくなり、不安や心配が生じてしまいます。

そんな時こそ、「乗り越えられない困難(試練)は与えられない」という真理を思い出して下さい。

そして「乗り越えられる」あるいは「乗り越える」という意志を能動的に持つことが大切です。

そうすることで生命力が供給され、精神活動が再開し、具現化する方向に向かって動き出します。

同じような理由から、病気の人も「絶対に治る」あるいは「必ず退院する」という意志を持つことが大切です。



病気ではないのに、何もやろうとしない状態が続いても、生命力は受け取りにくくなります。

全体(神)とのつながりが希薄になり、不安や怖れが生じてしまう可能性があります。

そんな時には、取り合えず何かを始めてみましょう。

生命力が供給されて、不安や怖れが解消されるかもしれません。

簡単にできるところでは、歩いて○○に行こう、○○を見に行こう、おしゃべりをするのも良いかもしれません。



始めようとすることが、人や動物や社会のためになることであれば、自然法則と一致しています。

神とのつながりが深くなり、さらに生命力が流れ込むはずです。

外部からの援助の力も期待できるでしょう。

生命力で満たされてオーラは輝き出し、不安や怖れは一掃されて行くと思います。



生きている目的は、自分を成長させるためです。

活動をしている中で、成長の機会が訪れます。

何もしなければ、その機会が訪れることがなく、成長は望めません。



生命は活動する宿命を持っています。

休むことは許されても、ずっと留まっていることは許されません。

何もしようとしないのは、自由を束縛されるのと同じで苦しみを感じます。

その苦しみは、自分を変えるように促しています。

後ろではなく前を向くよう、止まっていれば進んで行くよう、自然法則は働いています。



次の世界に行けば、何もしなくても生きられます。

とても楽な世界ですが、ただ生きているだけでは成長しません。

誰かのために、何かをすることで、私たちは成長するようになっています。



地上では肉体があります。

そのために、意識がどうしても自分に向いてしまいます。

何かをしようとする時に、自分の欲求に打ち克つ意志が必要になります。

そして、自分の意志を肉体を通して具現化するためには労力を伴います。

その労力が意志を強くさせます。

地上は意志を強くするのに、適していると考えられます。



待ち受けているのは、思念の世界です。

意志の力により、変わって行く世界です。

意志がなければ、何も始まりません。

地上を経験して強くなった意志は、次の世界をより良くするため、誰かのために、何かをするために活かされます。

次の世界で大きく成長するために、この地上を生きています。



2022年9月11日日曜日

自分を変えるために生まれて来た


毎月、歯医者の勉強会に出席しています。

30歳の頃からですから、かれこれ30年以上になります。

歯医者は1度独立開業してしまえば、自分の仕事を注意されたり、指導されたりすることはなくなります。

何でも自由にできますが、独善的になってしまう可能性があります。

勉強会では、自分のやっている診療内容をスライドで発表して、参加している同業者に見てもらい、客観的に評価してもらいます。

会に入った時は、臨床経験の少ない私がやることは底が浅く、ほころびだらけでした。

発表後に質問を受けるのですが、同業者の見る目は厳しく、未熟さや欠点を突かれて、針のむしろに座っているような気分になりました。

悔しいやら、情けないやらで、落ち込んで帰ることがほとんどでした。

それでもやめなかったのは、自分の診療の質を向上させたかったからであり、患者さんの利益につながると思ったからです。



自分の仕事の未熟さや欠点が指摘されると、心に痛みのようなものを感じます。

プライドが高い人は、反発して、言い争いになる時もあります。

複数の人から同じことを指摘されることがありますが、そんな時は自分が正さなければいけないことがほとんどです。

そこを正して、今度こそ大丈夫だと発表するのですが、また新たな指摘を受けて、悔しい思いをします。

そんなことを繰り返しながら、現在に至っています。

悔しい思い、痛い思いをしましたが、そのおかげで少しはまともな歯医者になれたのではないかと思っています。



仕事だけではなく、人間的にも未熟さや欠点だらけだったと思います。

若い時は、そのことに気付いていませんでした。

親を始め、周りから忠告や助言を受けても、それは人の意見と取り合わなかったこともあります。

耳の痛いことほど真実を突いていて、正さなければいけないことが多いようです。

けれども、素直な気持ちにならないと受け入れることはできません。



人は成長するために生まれて来ています。

より良い自分に変わるためです。

神の摂理に適っていない、成長を妨げている性分を、地上での経験を通して変えて行きます。



例えば、我がままな人がいたとします。

人は他者のために何かをすることで成長しますので、自分のことしか考えない利己的な性分は、自らの成長を妨げていることになります。



我がままな性分が表に出ると、周りの人から反発を受けます。

子供の頃は正直です。

我がままな振る舞いをすると、仲間外れにされてしまいます。

仲間外れにされた子は、孤独と言う苦痛を感じます。

苦痛を感じるのは誰でも嫌なので、どこが悪かったのかを考えるようになります。


いつもケンカになってしまう子がいます。

自分の言うことを全く聞いてくれないので、その子と距離を置くようになります。

どこか、自分と似ているような気がします。

仲間外れになってしまうのはその子と同じで、自分のことばかりを言って人の言うことを聞こうとしないからと思うようになります。

そのことに気付くと、言いたいことを言うだけではなく、人の言うことも聞こうとするようになります。

このように、他者との交わり合いの中で、時に痛い思いをしながら、少しずつ性格が変わって行くのだと思います。



動物の世界ではさらに顕著です。

統率の取れた犬の集団に、単独で生きて来た犬を入れると、全体の調和が乱されることがあります。

そうすると他の犬たちから制裁を受けます。

一見、いじめられているようにも見えますが、苦痛を伴う経験を通して、集団の中で生きる術を学んでいます。

正されると、集団に受け入れられ、全体の調和が取り戻されます。



生まれる前の自分は、改めるべき未熟さや欠点を自覚しています。

敢えて、その部分を前面に出して生まれて来ると考えています

その部分が外に向かって表現されると、因果律の働きにより、他者から反発や指摘を受け、苦しい思いや痛い思いをします。

無意識の内に正して行くことも多いと思います。



ところで、我がままな人に対して、なぜ反発を覚えるのでしょうか?

それは、私たちの心の中に神がいるからだと思います。

我がままな振る舞いは、神の心(愛)に反しているので、自分の中にいる神(良心)が、瞬間的に反応しています。

良心の働きが強い人は、改めるよう忠告するかもしれません。

もしそうであれば、忠告を受けるのは、神から自分の未熟さや欠点を正すように言われているのと同じなのかもしれません。



中には、忠告ではなく、自分の考えを押し付けようとする人もいます。

自我(エゴ)から生じたものであれば、逆に反発を招くことになります。

そうではなく、良心から発せられた言葉ならば、真摯に受け止めなければならないと思います。



今でも忠告を受けることがあります。

長い間、当たり前のようにやって来たことほど、忠告されると反発する気持ちが生まれます。

けれども、冷静に検証してみると、自分の未熟さや進歩のなさが原因であることが多いようです。



今の私には、霊的真理という絶対的な指標があります。

それに照らし合せて、自分に原因があると気付いたのなら、素直に正さなければいけません。

地球に生まれて来ること自体、未熟さの証明であり、自分の生き方や考え方を省みることを忘れてはならないと思います。

それを忘れてしまうと、成長は望めなくなります。

指摘された相手に対して怒りを覚えてしまえば、自分が正当化されて省みることはなくなります。

変わろうとする力が、怒りに転化してしまい、成長する機会を1つ失うことになります。



年齢に関係なく、どのような状況であっても、変わることができます。

変わるために生まれて来たので、変われないはずがありません。

何よりも重要なのは、変わろうとする意志であり、もう変われないと思う自我(エゴ)のささやきに惑わされてはいけません。

もし、変わりたくてもどうしても変わることができずに、苦しい思いをしているのであれば、それは過去生の償いをしている可能性があります。

そうであれば、気付くことができず、変わることも許されません。



私たちが死後に赴く霊界では、周りには自分と類似した魂しかいません。

自分と同じ未熟さや欠点を持っているので、指摘する人も気付かせる人もいないと考えられます。

自分と違う人たちがいる地上に生まれて、他者に気付かせてもらう必要があったのかもしれません。

死んだ後、人生を振り返る時が来ます。

あの場面であの人に言われた一言は、自分が変わるために必要だったと気付くでしょう。



自分が好ましい方向に変わることで、ほんのわずかですが、世界も好ましい方向に変わります。

自分も全体を構成している一部だからです。

個々の変化が集積して行くことで、世の中も少しずつ変化して行きます。



自分を変えるのは、なかなか難しいものです。

現状のままの方が楽であり、リスクも少ないからです。

そこで、神は因果律の働きにより、苦しみや痛みを与えて、変わるように促していると考えられます。

苦痛のない向こうの世界では、思うように変われないので、地上に生まれることを自らが志願していたと思われます。



死ぬ時までに、生まれる前に思い描いたように自分が変わることができたのなら、地上での目的を果たしたことになり、深い悦びに満たされるはずです。


2022年9月4日日曜日

より高みを目指して


「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった」と始まる小説があります。

私たちも「死」と言うトンネルをくぐり抜ける時が来ます。



出口では、先に行った親しい人たちが待っています。

再会の歓びにしばし浸り、その時から新しい生活が始まります。



向こうの世界に行くと、食べて行くために働く必要がなくなります。

肉体はなくなるので病気にもならず、疲れることもありません。

煩わしい人間関係も全くありません。



この世と比べて、何と快適な世界でしょうか。

知るほどに、早く行きたいと思ってしまいます。

けれども、寿命が来るまで待たなければいけません。



この世に生まれて来る時は、向こうの世界からトンネルに入ります。

出口では、お母さんが待っています。

赤ちゃんが大きな産声を上げると、やっと生まれて来たと安堵し、喜びに包まれます。

霊的真理を知った今、そんな赤ちゃんの姿を見ていると、大変なこの世に生まれて来たと泣き叫んでいるようにも思えてしまいます。




私たちは、自分に足りない資質を身に付けるため、あるいは弱い部分を強くするために、この世を生きています。

それに相応しい環境を選んで生まれて来ます。

けれども、飢餓でやせ細っている子供たちの写真を見ていると、本当にこの環境を選んで生まれて来たのだろうか?と、疑問が湧いたことがあります。



「自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。」と、シルバーバーチは言っています。

過去の過ちを償うための魂もいるかもしれませんが、大切なことを学ぶために、敢えてこの逆境を選んだ魂もいるはずです。

実際に経験しなければ判らないことがあり、大人になった時、あるいは次に生まれた時に、貧しい人たち、弱い人たち、苦しんでいる人たちのために貢献する強力な動機付けとなるからです。



子供の虐待のニュースほど、心を痛めるものはありません。

自分を傷つける親の元に、生まれたい子供がいるのかと思ってしまいます。

過去生で縁があり、何か目的(原因)があって親子になる場合もあるのでしょうが、そればかりではありません。

生まれて来る前と、変わってしまった親もいると思います。



受胎は自然現象です。

自然法則の下で起きているので、もし子供を育てることができなければ、受胎することはないはずです。

子育ては、自分より子供を優先することを強いられます。

自我との葛藤の連続のように感じられます。

葛藤に負けて、自我を優先してしまうと、良心の呵責が生じますが、それを苦しみとして感じます。

苦しみの原因が子供にあると勘違いをして、悲しいことに虐待に及ぶ親がいると思います。

自我剥き出しで、過った自由意志を行使し続けると、生まれて来た時とは違う親になってしまいます。

信じて選んだ子供が裏切られたことになります。

自分以外のために何かをすることで人は成長しますが、その機会を逃して、罪を作っている人もいると思います。



困難や障害を正面から受け止め、対峙して行くことでも、魂は成長して行きます。

成長するためにこの世に生まれて来たので、起きて欲しくないような出来事が起きるようになっています。

苦しみを伴う出来事が起きた時に、生まれて来た目的を果たすための機会が訪れたと捉えて臨むことが大切と思われます。



しかしながら、多くの人は楽しいことだけが起きる人生を望んでいます。

それだけの人生なんてあり得ません。

どこかで苦しみを伴う出来事が起きるのがこの世です。



水の中に放り込まれて、泳げなければ溺れてしまいます。

水を飲んで苦しみながらも、息ができるような体の動かし方を見つけ出そうとします。

必死にもがいている最中で、生きるために必要なスキルを身に付けています。



人生も同じです。

苦しみの中でもがいている時に、生きるために必要な資質を身に付けています。



もし、人生で起きる全ての出来事に、何の苦しみも感じないのであれば、身に付けるものはもうないので、その人はこの世に生まれて来る必要はないと思います。

苦しみを感じるのは、まだ成長する余地が残されているからです。

出来事を乗り越えようとする中で魂は成長し、次第に苦しみが和らいで来ます。

苦しみを楽しむなど、器用なことは私にはできませんが、苦しみの意味を正しく理解することで、立ち向かう勇気が出ます。




この世の人生は山登りのようです。

坂道を登っている時は、息が上がって苦しいです。

木立に囲まれ景色も見えず、自分がどの辺にいるのかさえも判らない時があります。

坂道が続いて、やっと終わったと思ったら、目の前にまた坂道が現われます。

疲れてしまい、これ以上登れないと思ってしまう時もあるでしょう。


忘れはいけません。

登って行ける人にしか、坂道は現れません。

次に現れた坂道は、今までより急かもしれませんが、鍛えられて、登れるようになったから現れたのです。

どんなに急だとしても、必ず登っていけます。



平穏無事な人生は、平坦な道を歩いているようなものです。

楽ですが、高みに行くことはできません。

それでは、この世に生まれて来た意味がありません。



どれくらいの坂道を登って来たのでしょうか。

疲れ果てて動けなくなっています。

それでも急な坂道は続いて、這いつくばりながら、登って行くことになります。

これ以上無理だと、最後の力を振り絞って登り切った瞬間、頂上に着くようになっているのかもしれません。


そこから見る景色は、言葉にならないでしょう。

あの苦しかった出来事が、高みへと向かわせていたことに気付きます。

苦しい思い、つらい思いをした人ほど、この世から解放された悦びは大きいものになります。



生まれる前の自分より、強く優しくなっています。

自然法則の働きにより、完全に報われていたことを知ります。

背後に控えていた、限りなく大きな存在を感じて、思わず感謝するでしょう。



より険しい山を目指す登山者がいます。

大変なのは分かっていて、危険を冒してでも登りたいのは、さらに技術を向上させたいからです。

より高い場所に立ってみたいからです。



この世の人も同じです。

快適な向こうの世界を離れて、苦の多いこの世に生まれて来るのは、さまざまな出来事を乗り越えて魂を向上進化させるためです。

より高い世界に行きたいからです。