2017年1月22日日曜日

あの世からの愛の表現は守り導くこと


今は、便利な世の中になりました。

一昔前までは、車で目的地までたどり着くために、途中で何度も地図を見ながら、道を確認したものでした。

不慣れな場所で、道を間違えてしまい、とんでもない方向に行ってしまったことが、何度もありました。

今は、カーナビゲーションシステムがあり、音声ガイドに従い、目的地まで確実に誘導してもらえます。



人生には、案内図はありません。

どちらに進もうか迷った時に、自分で決めるしかありません。



私たちは、一人で人生を歩んでいると思っています。

実は、そうではありません。

一生涯に渡って、目に見えない存在が付いて、守り導いてくれています。



およその人生は、生まれる前に決められています。

その人生に沿って生きれば、予定されていた魂の成長が得られるようになっています。

目に見えない存在は、予定された成長が得られるために、随所で私たちを導いています。

人生のナビゲーションシステムのような役割を果たしていると言って良いのかもしれません。



けれども、多くの人は、今までの人生で導かれていると感じたことはなく、自分一人で決めてきたと思っています。

以前の私もそうでした。

導きなど、宗教が作り上げた概念だと思っていました。

約11年前に、突然、病気を癒す力が出現しました。

シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に出会いました。

そして、今まで経験したことのない苦難の日々が始まりました。

これら人生を変える3つの出来事が、わずか1ヶ月の間に立て続けに起こり、人生にはシナリオのようなものがあり、それに沿って生きていて、目に見えない存在に導かれていることを自覚しました。



人生の大きな岐路に立ち、どちらに進んで行こうか迷った時に、漠然とした考えが頭に浮かんで方向が決まったり、あるいは抵抗する何かを感じてやめてしまうことがあります。

そんな時は、目に見えない存在が導いていると考えています。

仕事や結婚、魂の成長に大きく関わる事象には、導きの力が働いていると考えています。

後になって、成り行きで、落ち着くところに落ち着いたと思うのですが、ごく自然な形で、導いてもらった結果だと考えています。



スポーツや事業で成功した人が、マスコミで良く取り上げられています。

自分の才能と努力により、今の成功があると考えている人が、ほとんどだと思います。

もちろん、それを否定しませんが、見えない存在に導かれていた事実を、忘れてはいけないと思います。

ACミランは、世界屈指の名門サッカーチームです。

そこに所属している本田圭佑選手は、移籍した時の記者会見の席で、(ACミランを)選んだ理由について質問され、こんな興味深い回答をしていました。

「心の中で、私のリトル・ホンダに聞きました。『どこのクラブでプレーしたいんだ?』と。そうしたら、心の中のリトル・ホンダが『ACミランだ』と答えた。そういう経緯があって、ACミランに来ました。」

これを聞いた人の中には、何を意味しているのか判らず、ふざけたことを言ってると感じたかもしれません。

私は、リトル・ホンダとは本田選手を守り導いている存在だと思いました。

それまでにも、厳しい局面で、アドバイスを受けて来たそうです。

ここまではっきりと意識している人は、極めて少ないと思いますが、導きの声に素直に従って生きてきたので、子供の頃からの夢が実現できたと思います。



守り導いている存在など、空想の世界の話のように感じる人がいるかもしれませんが、事実です。

この世の人に、例外なく、付いています。

目的は、道を誤らずに、予定されていた人生を歩ませ、成長させるためです。



もし、そんな有難い存在が付いていているなら、なぜ、もっとはっきりと判る形で、導いてくれないのかと、疑問に思う人がいるでしょう。



人は何かを決める時に、誰かに頼ろうとする気持ちがあります。

誰かに頼り過ぎてしまったら、自分では何も決められなくなってしまうでしょう。

もし、その先で失敗して、決めた人のせいにしてしまえば、そこから何も学べなくなってしまいます。

成功したら、味をしめて、もっと頼るようになってしまうかもしれません。



人生は、成功するためにあるのではなく、魂を成長させるため、大切なことを学ぶためにあります。

従って、より成長させるため、教訓を学ぶために、苦難が待ちうけている方向に導くこともあると思います。

それは、失敗や挫折と言われるようなものかもしれません。

もし、苦難の真意が判らないのに、その方向に導いたなら、難色を示す人がいたり、導きを信じられなくなってしまう人がいるかもしれません。



この世の人生の責任は、結局は自分自身で取ります。

よって、最終的な決断は、この世の人がしなければなりません。

導いている存在は、じっと見守っているしかないようです。

はっきりと判らない様に導いているのは、この世の人の(魂の)成長を第一に考えているからであり、自分で決断させるためと思われます。

それは、子供の行く末を心配しながらも、影からそっと見守っている親の心境に近いのかもしれません。



ヒーリングや亡くなった人からのメッセージを伝えるのも、霊界からの導きがあって、成立していると思います。

あの世にいる人が、この世に残してきた人に、メッセージを伝えたかったとします。

本来は、この世とあの世の間で、想いを伝え合うことはできると思いますが、条件が整わない限り、霊媒を介さなければ、願いは叶いません。

霊界の人たちは、さまざまな手段を講じて、この世の人と霊媒と出会わせるように、導いていると考えられます。



守り導いている存在は、この世の人の性格や行動、人間関係などを熟知しています。

また霊界は、この世と比べ物にならないくらい、精緻なネットワークが張り巡らされていて、地上の人の情報を共有していると考えられます。

どのようにすれば、メッセージを伝えられるか、あらゆる可能性を探りながら、模索していると思います。

接点のない人同士を結び付けるために、両者の間に入る人を見つけ出して、その人にインスピレーションを送って、コンタクトを取らせるような言動をさせている時もあると考えられます。

インターネットは、人と人を結ぶためにとても重要な役割を果たしていて、適宜、インスピレーションを送りながら誘導し、接点を持たせるように仕向けていると思います。

思いつきや気まぐれではなく、インスピレーションを受け取って行動していることは、意外に多いと考えています。



このブログにもコメントを書いてくれる人がいます。

そんな人たちの中に、ブログの感想と、今の自分の状況を説明してくれる人がいます。

文面を見て、特に伝えたいことがあるわけでもなく、ご自身でもどうして書いたのか判らないように感じる時は、背後にメッセージを伝えたい人(魂)が控えている場合があります。

偶然たどり着いたのではなく、導かれていたのであり、コメントを書くように仕向けられていた考えられます。

コメントを受け取った前後に、霊的なあたたかさや、エネルギー(魂)のようなものを感じる時があります。

そんな時は、「私でよろしかったら伝えて下さい」と、心の中でささやきます。

しばらくして、心の中に湧き上がって来くる言葉(文章)があれば、それを書き留めて、コメントとして返します。



それとは逆に、私が他の人のブログを見て、特別な理由もなしに、コメントを書き込んでいる時があります。

そんな時は、コンタクトを取るように、私が導かれていると思います。

あの世からこの世の人に、どうしても伝えたい大切なことがあり、霊界が私を利用したと思います。



ブログの写真が目に止まり、この世で1度も会っていないのに、友情のようなものを感じ、何とかしてやりたいという衝動が生まれた時もありました。

すでに、その人(魂)とリンクが出来ているので、心の中に浮かんでくる言葉を、書き並べていくのですが、その時に感じたのは、目の前から消えてしまって悲嘆している、この世に残された人に寄り添おうとする想いであり、生前と変わらないであろう、誠実で、一途な想いでした。

その人の想いを、私が代筆しているようでした。

亡くなった人を感じられない悲しみは、残してきた人に感じてもらえない悲しみの裏返しのような気がしました。

この世の人が想いを知りたい時に、あの世の人は想いを伝えたいのだと思いました。

生きている次元は違っても、想いは同じです。

生命は失われていません。

どうにかして、そのことを判ってもらいたいのです。



霊界の尽力により、想いは伝えられていますが、この世の人には知る由もありません。

伝えようする原動力は愛であり、伝えたいことも愛です。

その力により、多くの魂が突き動かされ間に入り、つながって行きます。

想いが伝わった瞬間、次元を乗り超えて、魂と魂は再び結ばれます。



言葉を超えたものが伝えられて、何らかの衝動が生み出される瞬間を、導きと言うのかもしれません。

その通りに行動すると、必要としている人に巡り合ったり、自分を成長させる事象に遭遇するのかもしれません。

解決しない問題があり、はっと策がひらめくのは、あの世から言語を超えた「ささやき」が、魂に伝わったからなのかもしれません。

その場所に、将来を大きく左右する人がいたのは、霊界の計らいがあったのかもしれません。

今、経験している苦難は、魂を大きく成長させるために、導きによるものだったのかもしれません。

思いつきとして無視してしまったり、偶然として片付けてしまったりしないで、自分は守り導かれている存在であり、一人で生きているのではないことを自覚して下さい。

もし、導きとして感じたのなら、共に生きている見えない存在に、心の中で感謝して下さい。



私たちの人生は、想像をはるかに超えた導きを受けているのに違いありません。

ひっそりと、しっかりと想いが伝えられ、導かれて、今があると思います。



あの世からの愛の表現は、この世の人を守り導くことです。

あの世から想いを伝えて、魂を守り、人生を導いています。

知らずに、愛されています。


















2017年1月8日日曜日

許しとは怒りや憎しみを手放すこと



私たちは、1日中、頭を使った生活をしています。

精神的な活動は、全て脳の働きによってなされているものと考えられています。

事務的な会話や計算は、大脳により処理されているのは確かであり、数時間、作業を続けていると、身体と同じ様に脳も疲弊して、ミスが多くなってきます。

同じ精神活動でも、怒りや悲しみ、うれしさや悔しさなどの「感情」は、どうなのでしょうか?

怒りが治まらなかったり、うれしさが続いたとしても、脳が疲れてしまうことはないと思います。

感情は、脳の働きにより作り出されているものではなく、どこからか湧き上がっているように感じられます。



ところで、人間にとって、感情は必要なのでしょうか?

怒りは正常な判断を狂わせ、悲しみは活動を停滞させてしまい、効率よく、快適に生きるために、必要ないように思えます。

憎しみや恨みの感情がなければ、世の中はもっと平穏になり、全くもって、無駄なものに思えます。

長年に渡って、科学的に感情の研究がされていますが、どこから生まれるのか、何のためにあるのか、ほとんど判っていません。



人には、個性があります。

怒る、笑う、涙を流すなど、いろいろな感情表現によって、個性が発揮されていると思います。

もし、感情が失われたならば、ロボットのようになり、個性はなくなってしまうと考えられます。



この世の人は五感を頼りに生きているので、目に見える肉体が自分と思ってしまうのは、無理ありません。

しかし、人は魂(霊)、精神、肉体の複合体です。

それぞれは密接不可分な関係にあります。

そのうちのどれが本当の自分かと言えば、最上位にある魂です。



肉体は、魂から生じた想い(思念)を表現する媒体に過ぎません。

死とは肉体と魂が完全に分離する現象であり、魂との連絡が絶たれた脳は活動を停止し、肉体は存在意義を失い崩壊します。

しかし、生命そのものである魂は、肉体に代わる新しい媒体を得て、変わりなく存続しています。



魂からは想い(思念)が生まれています。

それが、感情(意思)となって表出し、脳により指令となって、肉体が動いて外に表現されています。

その連鎖が繰り返されながら、人生は紡がれて行きます。

科学で感情を解明できないのは、魂の存在を否定し、全て脳の働きで説明しようとしているからです。

頑なに否定している限り、科学では生命も感情も説明することはできません。



感情とは、この世の出来事により生み出される、魂の回答と言えるのかもしれません。

同じ出来事に遭遇しても、どのような反応を示すのか人によって違いますが、それは人には個性があるからです。

肉体(大脳)を超えた魂によって、個性が形作られて、そこで感情が生まれていると考えられます。



肉体は、食物から摂るエネルギーによって活動しています。

目に見えない魂(霊)は、目に見えない生命力によって活動しています。

生命力とは神(霊)的なエネルギーであり、それを受け取っている器が、魂と言っても良いのかもしれません。

その力により、魂で想いが生まれ、精神で感情に変換され、脳で指令となり、肉体で表現され外に出される形で、完結しています。

その一連の流れがスムーズに行かなくなると、内部にエネルギーが滞って、精神や肉体に顕著な変化が現れる時があります。



生命力は神的なエネルギーであるため、人(生命)は本来、愛を表現するために存在しています。

しかし、魂には限りない発達段階があり、向上した魂は愛の想いが、未発達な魂は愛に反する想いが生じやすくなります。

怒りや憎しみの感情が生まれるのは、魂が未発達であることの証左であり、生命力が誤って表現されています。

シルバーバーチの霊訓には、光(神的な力)は完全であるけれども、鏡(魂)が不完全であれば、反射される光も不完全なものになってしまうと表現されています。

そんな不完全な魂から生じた、不完全な想いを外に向かって表現してしまうと、周囲との調和が失われ、争いが生じることがあります。

内に溜めてしまうと、内部の調和が失われて、病気になってしまうことがあります。

生命力が自然法則に適った想いとなって表現されないと、因果律の働きにより、苦痛となって自らに返って来ます。

誰しも苦痛を味わいたくないので、適った表現をするように、変わって行かざるを得ません。



もし、他人の過ちにより大きな苦痛を味わったならば、怒ったり、憎んだり、恨んだりしてしまうのは、当然のようにも思えます。

しかし、自分に非がなくても、怒りや憎しみの想いを返してしまうと、自然法則の働きにより、また苦痛を味わなければなりません。

苦痛を与えた人が、この世で裁かれることなく、平然としていても、その罪は魂(オーラ)に印記され、後で過不足のない償いをすることになります。

自然法則の働きによって、完全な公正が保たれているので、憎んだり、恨んだりする必要は全くありません。

佳きに計られていますが、多くの人はその事実を知りません。

そのために、怒りや憎しみの想いに支配され、長い間、自らが苦しんでしまうことになります。



怒りや憎しみは、言葉や行為そのものよりも、そこに込められた想いによって生まれます。

電車で足を踏まれても、故意でなければ、ちょっと腹立たしく思っても長続きはしません。

しかし、怒りを込めて足を踏まれたなら、相手に対して強い怒りが生まれ、いつまでも残ってしまうかもしれません。



相手の言葉や行為に込められた想いに、自らが同調してしまうと、同じ想いが生じてしまいます。

人を傷つけるような摂理に反した想いに、同調しないのが肝心なのですが、影響を受けずにこの世を生きるのは、きわめて困難です。

同調が成立して想いが生じると、今度はそれを外に向かって表現しようとします。

世の中から戦争がなくならないのは、受け取った怒りや憎しみの想いを相手に返そうとする、因果律が働いて、それが繰り返されているからです。

もし、相手に返そうとする衝動を抑えたのなら、想いは内に滞ってしまいます。

内に滞った怒りや憎しみの想いは、常に表現を求めているので、訳もなくイライラしたり、怒りやすくなり、その後の人生に悪い影響を与えてしまいます。



滞った想いがあるといけないのは、あるがままの自分から生じている想いを、素直に表現するのを妨げてしまうからです。

生命力という神的なエネルギーは、人や動物や社会に奉仕するためにありますが、内に滞った想いは、その想いを屈折させてしまいます。

成長の機会を逃し、生まれて来た意味を、少なからず失ってしまうことになります。



この世界は、さまざまな発達段階の人間(魂)が、地上という同一平面に生きています。

それゆえに、許すことが困難な出来事が、そこかしこで生じています。

怒りや憎しみが生まれると、精神の自由を奪い、魂に内在する良心とぶつかり合って、苦痛となります。

この苦痛は対象のせいだと思い込んでしまうと、怒りや憎しみが強くなり、それに伴い苦痛が増してしまい、悪循環に陥ります。

苦痛は、内に怒りや憎しみがあるためなのですが、そのことに気付くのは難しいと考えられます。



許しとは、内に滞っている想いを手放すことです。

許さなければ、怒りや憎しみの想いは解放されずに、苦しみ続けます。

許しには、対象へ向けた無条件の愛が必要となります。

謝ったら許す、改心したら許す、対象に求めるものが何かあれば、無条件ではありません。

無条件の愛は、一朝一夕に手に入るものではなく、魂の成長が伴わなければいけません。



怒りや憎しみによって生じる苦痛は、一体、何のためにあるのでしょうか?

苦痛には、魂を目覚めさせるという、霊的に大切な意味があります。

魂が目覚めるとは、本当の自分が目覚めることです。

本当の自分が目覚めると、怒りや憎しみに縛られ、人生を損失していた自分に気付くことになるかもしれません。

魂が目覚めると、自分の中にある神性(愛)が目覚め、より高く、強い愛が表現されるようになります。

対象への、自己犠牲という愛により、内にある想いが解放された瞬間、許しとなります。



神の摂理は、以下のプロセスで、私たちを許す方向に導いています。

許せないと、神の摂理に反した想いが生じ、内に滞ります。

その想いは、因果律の働きで苦痛となります。

苦痛は、魂に響き、目覚めさせて行きます。

魂が目覚めると、自分の中の神性が目覚めます。

神性が目覚めると、より高い愛が発揮されるようになります。

自己犠牲により、内にある想いが解放され、対象は許されます。

対象を許すと、苦痛から解放されます。



許せるか許せないかは、魂の成長度合いにより決まります。

たとえ今、許せなかったとしても、結局は許せるようになります。

絶対に許せないことはないのは、常に魂は成長しているからです。



この世界にちりばめられた1つ1つの魂が、認め合い、許し合いながら、1つになって行きます。

愛という、魂を引き付け合う力で、1つになって行きます。



神の摂理は完全であり、無駄なものは何1つありません。

精神と肉体の苦痛を通して、愛を表現させる方向に、私たちを導いています。