2017年10月29日日曜日

ガンの原因



今、テレビなどで、健康食品やサプリメントの宣伝を見ない日はありません。

多くの人が、健康に関して大きな関心を持っています。

でも、それは肉体に限ったことであり、本当の健康はもっと違うところにあると思っています。



多くの人は、目に映る肉体こそが自分だと思っています。

けれども、それは間違っています。

自分の本質は、目に見えませんが魂(霊)です。

生命そのものです。

肉体は、魂から生じた思念をこの世で表現するためにある媒体に過ぎません。

肉体は滅びても、魂(生命)は変わりなく存続しています。



人間は、魂(霊)、精神、肉体から成り立っています。

3者は密接不可分の関係にあり、お互いに大きな影響を与えています。

最近では、精神が肉体に大きな影響を与えていて、病気の原因になっていることは、医学的にも認められています。

精神的に強いストレスがかかると、胃潰瘍になってしまうことが判っていますので、手術をして穴が開いた部位を取り除くようなことはしません。

それよりも、ゆっくりと休養したほうが、はるかに効果的です。



世界中の人々を悩ませているガンについてはどうでしょうか?

興味深い記事を見つけました。

米ハーバード大学などの研究で、感情を吐き出さずに溜めておく人は、ガンのリスクが70%も増加するという結果が判り、「Journal of Psychosomatic Research」(2013年10月)に掲載されたそうです。

胃潰瘍と同じ様に肉体とは別の次元に、何かしらの原因があると推察されます。

しかし、ガンは胃潰瘍と違い、ゆっくりと休養すれば治るわけではありません。

ガンは精神的次元よりも、さらに上位にある霊的次元に原因が存在する病気だと考えています。



霊的次元の原因とは何でしょうか?

それは内に溜まっている想い(想念)だと考えています。



ここで断っておきたいことがあります。

ガンは、霊的(内にある想い)次元の原因だけでなるのではありません。

肉体的次元にある原因によっても生じます。

一定以上の放射線を浴びたり、発ガン性物質やウィルス感染によっても、ガンは生じるのは明白な事実です。

そして、霊的次元の原因にもいくつかの種類があります。

生まれる前から原因が存在し、魂を成長させるシナリオとしてガンが生じる時があります。

次の世界に移行するために、ガンが生じる時もあります。

霊的次元にはさまざまな原因がありますが、今生で生じている原因として、内にある想念が第一に考えられます。



想いは魂から生まれ、精神を経由して、肉体で表現されます。

言い方を変えれば、生命力が霊的次元(魂)で想念となり、精神的次元で司令となり、肉体的次元で言葉や行動となって、外に向かって解放されています。

精神的次元で強い抑制がかかってしまうと、肉体的次元で具現化して外に解放されずに、想いは内に留まってしまいます。

精神的次元での強い抑制は、地上的(この世の)自我によってかかります。

自我は、魂の表現をするために必要ですが、自己を守ろうとする気持ち、上手く生きようとする気持ち、地上的な欲望が強いと、本来の想念を表現するのを妨げてしまいます。



強い想念は、消えてなくなるものではありません。

内に留まっていて、後の人生に影響を与えています。

人に裏切られ、憤りの想いが留まっていれば、安易に人を信じようとしなくなります。

とても恐ろしい体験をして、怖れの想いが留まっていれば、何かにつけて不安になったり、怯えてしまうかも知れません。



この世に生まれて来たのは、自分(魂)を成長させるためです。

そして、人生には自分を成長させるための、大まかなシナリオがあります。

困難や障害を乗り越えて行くこと、他者に奉仕をすることで、人は成長して行きます。

よって、人生には苦難が付き物です。

そして、各々の人生において、他者への奉仕の機会が与えられています。

ところが、内に怒りや、憎しみや、怖れや、不信などの想いが溜まっていると、そんな自分を成長させる機会が訪れても、避けてしまう可能性があります。

もし、避けてしまえば、今生に生まれて来た大きな意味を失ってしまうことになります。



私たちは自然法則によって、成長する方向に導かれています。

内にある想いに気付かず、成長する機会を失っていると、自然法則(因果律)が作動します。

内にある想念は、肉体次元で病変や機能異常となって表現されることになります。

霊的次元に原因ある病気は、自分でも気付いていない成長を妨げている想念が、因果律の働きにより肉体次元を変化させ、五感によって気付かせるために存在する、自然法則の一種と考えられます。



内に想いがあるために、自分本来の想いを表現出来ずにいたのです。

自分ではどうすることも出来ないので、自然法則の働きにより病気になったのです。

(肉体的な)生命にかかわる深刻な病気になり、苦痛を感じなければ、本当の自分が目覚めることはなかったと思われます。

本当の自分が目覚めない限り、内にある想いに気付けません。

内にある想いに気付かなければ、解放することは出来ません。

内にある想いを解放することが出来なければ、本来の自分の想いを表現することは出来ません。

内にある想いを解放し、本当の自分を取り戻すために、ガンになったと考えられます。



自分の中に、大きくて重い、触れたくない想いの塊みたいなものはないでしょうか?

その想いが引っかかっているために、自分の想いを表現できないことはないでしょうか?

言いたくても言えない、やろうとしても何故か出来ないことはないでしょうか?



自分の中に、本来の自分を表現出来なくさせている、何者かが存在しています。

それがなくなれば、あるがままの自分が表現出来て、思い描いている人生を歩むことが出来ます。

その何者かが、霊的次元にある表現できなかった想念です。



私たちは、地上的な自我を作り上げて行きますが、それが本来の自分と錯覚してしまうと、内に溜まっている想いに気付けなくなります。

ガンの苦痛は無駄なものではありません。

魂に働きかけて、目覚めさせています。

魂が目覚めれば、強固になった地上的な自我は自壊して行きます。

そして、本当の自分が前面に現れてきて、大切なものが見えてきてます。

内に溜まっていた想いは、大切なもの(愛)に目覚めた魂との間に親和性を失い、解放されて行きます。

本当の自分を目覚めさせ、本来の生き方や考え方に変えて、人生のシナリオに沿って魂を成長させて行くために、ガンは存在していると考えられます。



ところが、ほとんどの人は、ガンになれば病院で治してもらおうとします。

現代医学はガンの根本原因を未だに掴めていません。

対処療法に終始しているため、死亡者数は減るどころか、年々増えています。

医者は、生命を奪う敵と考え、身体から手術でガン組織を取り除き、見えないガン細胞を薬で消滅させようとします。

もし、霊的次元にある原因でガンが生じたのであれば、本体(内にある想い)が取り除かれていなければ、また肉体上に反映されてしまいます。

苦痛により魂が目覚め、霊的次元にある原因(想念)が取り除かれたなら、肉体上のガンは異物として排除されるはずですが、愚かにも神の創った自然治癒機能(免疫機能)が人為的に破壊されてしまっていれば、肉体上の治癒機転は起こりません。

神の摂理が働かなくなる、極めて不自然な行為が、唯物的な見方しか出来ない現代医学の現場において、当然のごとく繰り返されています。

神が与えた苦しみではなく、人為的な苦しみに多くの人はさらされています。

神の摂理によって魂は癒されているのに、人の過ちによって肉体が癒されないために、肉体から魂が離れざるを得ない状況(死)に陥ってしまう人が、何と多いことでしょうか。

後世において、医学の汚点として歴史に刻まれることになるでしょう。



参考ページ: 「ガンは愛により癒される」







2017年10月14日土曜日

自分を信じる



この世を生きていて、とてもつらく感じることがあります。

それは、人に信じてもらえないことです。

赤の他人であれば、それほどでもないのですが、親しい人であれば、かなり堪えます。



親しい人に信じてもらえないのは、悲しいことですが、自分にとって一番親しい人は誰でしょう?

それは、自分自身です。

自分自身を信じられないのは、とても悲しいことです。



人生では、いろいろな難しい局面に遭遇します。

自分が信じられるか、そうでないかで、進んで行く方向が大きく変わってしまうことが数多くあります。

自分が信じられなくなってしまうと、不安や心配にかられて、安全、無難な方向に進んでしまうことが多いです。

そちらの方向に進んで行くのは、一見すると賢明な選択に思えて、実は成長する機会を1つ失っているのかもしれません。



自分が信じられる、信じられないと言うのは、どのようなことなのでしょう?

自分には大きく分けて、2つの自分がいます。

1つの自分は、本当の自分、真の自分であり、事象を感識し、意志決定をしています。

幼い時には、本当の自分が前面に出て生きています。

しかし、大人になるのに従い、もう1つの自分、この世で生きるための自分(以下この世の自分)を作り上げて行きます。

どうして、もう1つの自分を作り上げて行くのかと言えば、本当の自分を表現するために、この世では必要だからです。

また、あらゆる侵襲から、本当の自分に危害が加わらないようにするためです。

本当の自分を守るための、バリアと言って良いのかもしれません。

失敗するのを怖れ、恥をかくのを怖れ、時に見栄を張ったり、嘘を付いてしまうのも、この世の自分です。

目先の利益に捉われ、大切なものが見えなくなってしまうのも、この世の自分がいるためです。



この世の自分は、精神上に作り上げられています。

ところで、精神はどこから生まれるのでしょうか?

精神は脳から生まれるという科学的根拠は、どこにもありません。

唯物的な科学では、実体をつかめていないのが現実です。

脳は、この世の事象を知覚し、本当の自分に伝達するためにあります。

そして本当の自分から生じた思念を具現化するために、肉体の司令塔の役割をしています。

もちろん、文字を介して事務的な計算や会話を行っているのも、脳の働きによるものです。



1つの生命の中に、2つの次元を異にした自分がいると言って良いのかもしれません。

自分の思念を、周囲の状況に合わせて、効率良く表現するために、この世の自分を作り上げて行きますが、この世を上手く生きよう、過剰に自分を守ろうとすると、強固に作り上げてしまい、本当の自分が埋没してしまいます。

そして、この世の自分が、本当の自分だと錯覚してしまうようになります。



なぜ、そうなってしまってはいけないのでしょうか?

本当の自分が埋没してしまうと、予定されていた成長が得られなくなるからです。

成長するために存在する、人生のシナリオを知っているのは、本当の自分だからです。

意識に上りませんが、本当の自分は、するべきこと、なすべきことが判っていて、自分を信じることで、予め決めていた方向に進んで行くことが出来ます。

本当の自分が主導権を握っていれば、直感に従って、予定されていた自分の人生を歩むことが出来ますが、この世の自分が主導権を握ると頭脳で考えてしまうために、シナリオから外れてしまう可能性があります。



この世の自分は、本当の自分を表現するためにあるのですが、一人歩きを始めてしまうと、逆に表現の妨げになってしまいます。

両者の間に不一致が起こり、乖離してくると、生命体に不調和が生じてきます。

霊から精神、精神からと肉体へ行き渡る生命力の循環に障害が生じて、心身に病気として現れるかもしれません。



自信が持てないのは、この世で作り上げた自分が不安や否定的な考えを創作して、成長しようとする(本当の自分の)思念に対抗している状態です。

本当の自分の思念に、素直に従って行動すれば、(生命)力が供給されて、目的が成就されて行くはずです。

しかし、不安や心配や怖れがあると、十分な(生命)力が受け取れなくなってしまいます。

自分を強く信じて「必ず上手く行く」と言い聞かせることで、否定的な考えは退けられ、十分な生命力を受け取ることができ、前向きな気持ちとなり進んで行けます。



自分を信じるとは、本当の自分を信じることです。

自分が信じられないのは、この世の自分が身を守るために、適当な理由を付けて、本当の自分の思念を阻もうとしているからです。

この世の自分から生じている考えを識別し、時には耳を貸さないようにすることも必要です。

思念は具現化する力です。

その気になりさえすれば、地上を変化させる力となって、目的を成就できるはずです。



本当の自分とは魂です。

私たちの本質です。

肉体は、魂を表現する媒体に過ぎません。

生命力の始源は、神と言われる存在です。

魂は神によって創造された、神の一部であるため、私たちは神と結ばれています。

神から、いくらでも生命力を受け取ることが出来るはずです。



神は自分の一部である魂に生命力を与え、自らの心を表現しようとしています。

別の言い方をすれば、魂には神の心を表現しようとする、根源的な欲求が潜在しています。

魂には、ふさわしい表現媒体が与えられますが、地上の人間は魂が未発達なため、表現が大幅に制限された肉体が与えらています。

神の心と、かけ離れたものにならないように、きわめて鈍重な肉体が与えられ、表現を制限していると言えるのかもしれません。

さらに、魂の表現に制限を与えているのが、この世の自分です。

肉体とこの世の自分によって、魂(本当の自分)の表現が制限されていますが、成長して行くのに従い、神の心がより表現できるようになると、媒体と自我の束縛から、徐々に解放されて行きます。

それが人の進化であり、より進化して行けば、自我は必要なくなり、純粋な魂の表現により生きて行くようになると考えられますが、ずっと先のようです。



この世では、魂を表現するために自我を作り上げているのですが、その自我が大きくなってしまい表現が妨げられていることがあります。

また、現実的な生活に追われて霊的な意識が低下してしまうと、自我のみが意識されるようになってしまいます。

魂に目覚めるとは、この世の自我から本当の自分に意識の焦点が移行した瞬間を指すと思います。



自我が大きくなり過ぎて、そして霊的な意識が低下すると、さまざまな問題が生じます。

自我はその性質上、自己防衛的になりやすく、他者との調和や融和を妨げてしまいやすいです。

また、霊的な意識が低下すると、唯物的になりやすく、利己的な考えに陥りやすいです。

戦争は、過った自由意思の行使により起こりますが、それは霊性の低下と言うよりも、自我の暴走によるものが多いのかもしれません。

貧困は、霊的な意識の欠如により、自分の欲望だけを満足させようとする利己的な考えが、世の中を支配している結果だと考えられます。



自分には、2つの自分が存在します。

この世だけに存在する自分と、永遠に存在する本当の自分です。

自分を信じることにより、本当の自分が発現するのを促します。

本当の自分は、高次の世界から見守っている存在から、援助の力を受け取っています。

そして神とつながっているため、物事を成就して行く力を受け取ることが出来ます。

外からと内からの力の恩恵にあずかれるかどうかは、自分を信じられるかどうかにかかっています。











2017年10月1日日曜日

願いが叶えられる時



仕事やスポーツでどうしても結果を出したい時や、窮地に陥った時に、思わず誰かに向かって願いをかけることがあります。

願いが届いたせいなのでしょうか、望んだ結果が出ることもあります。

いくら願っても、結果が出ないこともあります。



ところで、私たちは誰かに向かって、お願いをしているのでしょうか?

その多くは、神様らしきものだったり、あるいは亡くなった親しい人だったりします。



神様は空の上にいて、願いを叶えてくれる存在ではありません。

姿形はなく、自然法則として、この宇宙に顕現しています。

目に見えない決まりのようなものによって、全宇宙を支配しています。



神様が、地球に住んでいる私たち人間に望んでいるのは成長です。

成長とは、神の意図したように、進化して行くことです。

神様は人間が進化して行くように、自然法則によって導いていると言えます。



神様は、気まぐれに願いを叶えたり、叶えなかったりしているのではありません。

自分を成長させるような願いであれば、自然法則に適っているので、叶えられる可能性は高いと考えられます。

しかし、成長させるようなものであっても叶えられないことがあり、その時は、叶えられない方がさらに自分が成長すると考えられます。



私たちが、この世に生を受けたたった1つの目的は、自分を成長させるためです。

効率良く自分を成長させるために、最善のシナリオが組み立てられ、それに沿って人生の出来事が生じています。

願いが叶えられたように思えて、その出来事はシナリオとして予定されていたことかもしれません。

どんなに願っても叶わないのは、それが予定されていなかったからなのかもしれません。

人生には、出来れば避けて通りたい出来事が起こります。

しかし、成長するために、生まれる前の自分が決めていたのであれば、願いによって避けられるはずはありません。

起きるべくして起きています。

成長させる出来事は、得てしてつらいものであり、人は弱いために事前に知っていたら耐えられないので、神様の計らいにより記憶から消されていると考えられます。



人が成長しているのは、試練を乗り越えている時、そして人のために何かをしている時です。

それこそが人生で一番大切なことであり、この世に生まれてきた目的そのものです。

従って、試練を乗り越えるための願いは届いています。

奉仕をするための願いも届いています。

その逆に、楽をするためや、自分の利益のための願いであれば、届くはずはありません。



人が、何かを成そうとした時に付きまとうのは、果たして上手くいくのだろうか、失敗してしたらどうしようと言う、心配や不安の思いです。

そんな時は、自分のためではなく、人のためにと願えば、上手く行くと思います。

少し前にあった、こんな出来事をふと思い出しました。

メジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースにガードナーという選手がいました。

彼は余暇に小児病院に慰問に行き、そこで重い心臓病の女の子と出会いました。

その場で、女の子と次の試合でホームランを打つ約束をしましたが、彼は小柄でホームランバッターではありませんでした。

実行不可能と思われましたが、代打で出場して何とランニングホームランを打って、見事に約束を果たしました。

いくつもの偶然が重なったように見えますが、少女のためにという真摯な願いが霊界に届き、見えざる力が働き、願いが叶えられたと思っています。

時々ですが、霊界は奇跡のような演出して願いを叶えると共に、神様の存在を示しているように感じています。



何かを成し遂げなければいけない時に、私も上手く行くように願います。

成し遂げようとしている時に、見えざる力の働きを感じる瞬間があります。

それは、困難が立ちはだかり気持ちが挫けそうになった時に励ましてくれるような力であり、不安な気持ちや心配を打ち消すような力です。

その力が届いた瞬間、急に視界が明瞭になり、心境が一変し、局面を乗り越える気力が内から湧いて来るのを感じます。

自分自身で、精神をコントロールしているとは、とても思えません。

霊界から届いた力は、私の中で乗り越えるための勇気になりましたが、その力を一言で表現するのならば、やはり愛だと思います。



この世の人には、守護し、導く存在(魂)が、一生涯に渡って付いています。

その目的は、この世の人を予定通り成長させるためであり、生まれて来た目的を成就させるためです。

見えざる存在が、この世の人の魂に想い(思念)という力を吹き込んでいて、思考や感情に大きな影響を与えていると思います。

何かをしようとする衝動を起こしたり、新しい発想を生じさせたり、それまでの気持ちを一変させたりしていると思います。

誤った方向に進もうとすると、留まらせるような思念を送り、そちらに進めないようにさせていると思います。

さりげなく、そしてしっかりと、成長する方向に導いていると思います。

私たちは気付いていないだけで、たくさんの想い(思念)を受け取り、多大な恩恵に服しながら、生きていていると考えられます。



ただ、見えざる存在が、手出し出来ない局面もあります。

それは、この世の人が成長にかかわる決断をする時です。

人は生きていると、決断を迫られる局面や出来事に出会います。

勇気を出して進んで行くのか、それとも避けてしまうのか、決断はこの世の人に任されています。

干渉は許されず、成長する方向に進んで行くように願いながら、じっと見守るしかないようです。

首尾よく、成長する方向に進み出したのなら、援助を開始して、乗り越えさせようとします。

どちらか迷った時には、つらく、大変でも自分が成長する方向に進んで行けば、意外と何とかなるのです。



見えざる存在から援助を受けて生きているという事実は、五感に触れるものではないので、残念ながら多くの人は判っていません。

はっきりと判ってしまえば、自分で何とかしようとする気力が失われ、頼ってしまうために成長が妨げられてしまうような気もします。

愛と同じく、客観的に証明できるものではありませんので、そんな存在などいるはずがないと思っても、それは個人の自由です。

しかし、信じている人ほど、(魂の同調が進むため)援助を受けやすくなり、良い結果が出るのは確かだと思います。

見えざる存在は、たとえ信じてもらえなくても、結果的に乗り越えて成長すれば、それで満足していると思います。



願いが叶った人へのインタビューで、「自分を信じて臨みました」と言っているのを良く聞きます。

今までやって来たこと、努力してきたこと、出してきた結果から、自信を持って臨んだという意味が大きいと思います。

しかし、それだけではなく、自分を強く信じることによって、見えざる存在とのつながりが強固になり、大きな援助が受けられて、願いが叶ったと考えています。

その人の努力の結果なのですが、自分が持っている以上の力が出せて、願いが叶えられることも多くあると考えています。



私たちは、自分ひとりで生きているのではありません。

この世の人の成長を願っている、見えざる存在が常に寄り添っていて、守り導いてくれています。

見えざる存在は、自分とは別個でありながら、強く信じることで一心同体になれると考えています。

強く信じるほど、大きな力を与えてくれて、とても自分には無理と思った困難や障害でさえも、乗り越えさせてくれていると思います。