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2026年8月9日日曜日

この世を生きる意味はあの世にある


子供の時、死ぬのが怖かったです。

意識が消滅して、自分が失われてしまうと思ったからです。



人間の本質は魂(霊)です。

肉体を失ったとしても、生命は変わりなく存続し、意識はそのままです。

そのことを知り、死は怖くなくなりました。



あの世は、この世の延長線上にある「おまけ」のような存在ではありません。

私たちの本来の住処です。



あの世では肉体がありません。

自分(肉体)に向いていた意識は、周りに向けられるようになります。



この世を生きて行くために遣っていた(生命)力は、周りのために何かをしようとする力となります。(低い界層は除く)

その力の源泉は、無限の愛である神だからです。



あの世では、自分の好きなことだけをしていても生きて行けます。

けれども、好きなことばかりをしていても、どこかに物足りなさ、虚しさを感じるようになります。

周りのために奉仕をして、霊的な悦びを感じながら生きる方を、自然に選択するようになります。



しばらくすると、より次元の高い奉仕をしたくなります。

そのために自分に足りない資質を自覚するようになります。

その資質を身に付けるためには、それに相応しい経験をしなければいけません。




あの世では起こり得ない出来事を経験するために、この世に生まれて来たと考えられます。

また、この世で借り(カルマ)を作ってしまい、それを返す(償う)ために生まれて来た人もいます。

いずれにせよ、自分を成長させるために、この世に生まれる必要があったのです。



生まれる前の自分は、そのことを承知していましたが、いざ生まれると、その時の記憶はなくなります。

もし、あの世にいた時のことを覚えていたとしたら、戻りたくなってしまう人も少なくないでしょう。

生まれる前の記憶がなくなり、死が怖いものであった方が、この世での目的を果たすために都合が良いと考えられます。



「人生は楽しむもの」とよく言われます。

苦労などなく、楽しいことばかりだったら、どんなに良いだろうと思っている人がほとんどかもしれません。

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身に付けたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐えきれないほどの苦難を背負わされるようなことは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。それは勿論楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、何も、苦労する必要などないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。」

楽しいばかりの人生では、得るものは少ないようです。

霊的な宝(学び)を手に入れるために、この世にしかない苦しみという触媒が必要なようです。



また、このようにも書かれています。

「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解が行けば苦しい思いをしなくなります。」



マラソン選手の中には、月に1000キロ以上走る人もいるそうです。

「走った距離は裏切らない」と言った人がいましたが、過酷な練習の中で、自分の限界が進展して行くのを知っているのだと思います。

試合で最高の結果を出すという「目的」があるからこそ、苦しい練習にも耐えることができるのだと思います。


もし私が、目的を告げられないまま、何十キロも走らされることになったらどうでしょう。

「何で」「どうして」という疑問を抱きながら、走りたくもないのに走ることになります。

苦痛以外の何ものでもなく、途中で走るのを止めてしまうでしょう。



人生も同じです。

生きる目的が分からないと、生きるのが苦しく感じられます。



それぞれの人生に、明確な目的があります。

その目的を果たすために、経験しなければならない出来事があります。



出来事の目的(原因)が分からないために、「何で」「どうして」という疑問が生まれて、憤りを感じてしまう人もいるでしょう。

分かっていれば、納得できるような気がしますが、一概にそうとも言えないようです。



もし、人生で起きる出来事が、予め分かっていたとしたらどうでしょう?

例えば、50歳で命にかかわる病気になることが分かっていたとしたら、そのことが気になってしまい、平常心でいられなくなるかもしれません。

病気にならないために、あらゆる手を尽くそうとする人もいるでしょう。

先のことに意識が行き過ぎて、今を精一杯生きられなくなってしまう可能性があります。



出来事の目的を、知っていたとしたらどうでしょう?

大切な人を喪った人がいたとします。

仮に、別れの目的が最も大切なもの(愛)を学ぶためであったとします。

知っていたとしても、そんなことはどうでも良くなってしまう人が多いのかもしれません。

ただ、前と同じように一緒にいたいと思うだけかもしれません。

悲しみ、苦しんだ末に、目覚めた魂が学ぶべきものであり、頭で知っていても何の意味もありません。



人間には、考えや感情があります。

誤った考えや、好ましくない感情に捉われてしまうと、魂の成長に関わる学びが疎かになってしまう恐れがあります。

苦しんだとしても、分かっていない方が良いとの、神の配慮があるのでしょう。

「学び成長させるために出来事は起きている」そう強く信じることで、目的は果たされて行きます。



死んであの世に行くと、この世の人生を振り返る時が来ます。

そこで出来事の真意を知ります。

出来事を通して、予期していた学びが得られたのを知ったのなら、思わず安堵するでしょう。



この世の経験を通して学んだことは、あの世で活かされます。

足りなかった資質が身に付けられ、より次元の高い奉仕ができるようになったのなら、生まれて来た目的を果たせたことになります。

この世の苦しみや悲しみは、奉仕ができる悦びへと変わります。



ふと、こんな疑問が生じました。

熊本で大きな地震が起きました。

つらい思いをされている人たちがいますが、それにも意味があるのか?

不自由な環境に耐えながら、生活を再建して行かなければいけませんが、その経験も何らかの影響を魂に与えているはずです。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「人生の苦難は魂が向上して行くための階段です。困難、障害、不利な条件ーこれらは魂の試練なのです。それらを克服して行くことによって魂がいっそう充実し、向上し、一段と強くそして純粋になってまいります。」

こんなことを言える立場ではないと承知していますが、その先で大変な出来事が起きたとしても、あの時の苦しさから比べれば大したことはないと思えたのなら、魂が強くなっているはずです。

同じように苦しんでいる人を見て、手を差し伸べたくなったのなら、魂が純粋になっているはずです。

出来事を経験した者にしか得られない学びや成長があり、それにより神の公正が完全に保たれていると信じています。



まとめになるような文章を、シルバーバーチの霊訓の中に見つけました。

「人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界に戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身に付けるために、さまざまな体験を積むということです。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。」


シルバーバーチの霊訓より

この世を生きる意味は、あの世にあります。




2025年11月30日日曜日

この世に苦がある理由


最近、終活をしている人が多いようです。

備えあれば憂いなしですが、昔は死んだ時のことを考えるなんて縁起でもないと考える人が多くいたので、時代は変わったものです。



死後の世界や魂の存在を、頭ごなしに否定する人が少なくなって来ているように感じられます。

それに伴い、死に対する考えが少しずつ変わって来ているのかもしれません。



死は忌まわしいものでも、怖いものでもありません。

肉体から魂(意識)が解放され、本来の住処に戻る現象であり、喜ばしいことです。



死後の世界が明らかされれば、死を恐れずに、安心して生きて行けると思いますが、そうはなっていません。

明らかされないのは理由がありそうです。



オーストラリアでこんな調査結果が出ました。

16歳から85歳までのオーストラリア人のうち約150万人(7.4%)が自殺の計画を立て、約97万人(4.9%)が生涯のどこかで自殺未遂を経験しています。

計画を立てないまでも、死んでしまいたいと思ったことのある人はずっと多く、日本人の若年者の44.2%が希死念慮を経験しています(日本財団の調査より)

死にたいと思ったことのある人は、想像していた以上に多いです。



あの世があり、死んでもそこで生き続けることが明らかになったらどうなるでしょう。

自らの意志で行ってしまう人は、少なくないと予想されます。



この世では、時に生きているのがつらくなるような困難や苦難に遭遇します。

そんなこの世を生きている目的は、自分(魂)を成長させるためです。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の過程で大切な役割を果たしているのです。」

そしてこうも書かれています。

「苦しみの淵を味わわずに、魂の修練は得られません。底まで降りずに頂上まで上がれません。それ以外に霊的修練の場はないのです。あなた自らの苦しみ、自ら艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することの全てに通じて進化が得られるのです。」



あの世は、苦から解放された世界です。

この世を生きた方が、より自分を成長させることができると考えられます。

快適なあの世を離れて、苦のあるこの世に生まれて来たのは、自分を成長させようとする意志があったからです。



この世に生まれると、肉体で自己表現するための自我が生まれます。

その自我は、肉体の成長と共に発達して行きます。

多くの人はその自我を自分だと思っていますが、その奥に真の自我が存在しています。

死んであの世に行くと肉体がなくなり、この世で自己表現していた自我もなくなります。



あの世は真実の世界と言われます。

それは、真の自我が露わになり、嘘偽りのない、本当の自分の想いのみが表現されるようになるからです。



五感に触れない極めて大切なものが2つあります。

1つは「愛」であり、もう1つは「神」です。

あの世に行くと霊的な感覚だけになり、それらの存在がありありと感じられるようになります。



神は無限の存在です。

全宇宙であり、全宇宙を支配している法則であり、全宇宙と法則を創造した意識であると考えています。



その意識は完全なる愛です。

その意識に触れると、愛を実感し、悦びに満たされます。



霊的に成長し、神の意識に近づくことで、より深い悦びが得られるようになります。

深い悦びを得たいがために、私たちは成長する方向へと進んでいると考えられます。



神は遠く離れたところにいる存在ではありません。

私たちの内にもいます。

私たちは完全な愛を秘めた存在ですが、表現媒体である自我が不完全なために、表現することができないだけです。



あの世に行ってしばらくすると、自分の不完全さを自覚して、足りない資質が意識されるようになります。

足りない資質を身に付けるために、苦のあるこの世に生まれて来ています。


6歳くらいの時に、自転車の乗り方を覚えました。

本を読んだり、口で教えてもらって、乗れるようになるわけではありません。

サドルにまたがり、時に転んで痛い思いをして、試行錯誤を繰り返しながら、乗れるようになります。



それと同じで、実際に自分で経験しなければ、霊的な資質を身に付けることはできません。

身に付けるのに相応しい経験をすることになります。



例えば、「勇気」です。

真の勇気とは、良心に従って行動しようとする力であり、成長して行くために不可欠な資質です。

身に付けるために、怖れや不安を克服して、乗り越えて行かなねばならない経験をすることになるかもしれません。



「寛容」は、自己犠牲を伴う愛の表現であり、神の意識に近づくために重要な資質です。

身に付けるために、他者の過ちを許さなければ、前に進んで行くことができない経験をすることになるかもしれません。



どんな出来事を、いつ経験するのかは、知ることはできません。

完全なる神によって立てられた計画であれば、最善の出来事が、最善のタイミングで起きるはずです。

けれども、この世の人にとっては、最悪の出来事が、最悪のタイミングで起きたと感じられるかもしれません。



少し長くなりますが、シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「何もかもがうまく行き、鼻歌まじりののん気な暮らしの連続では神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を悲しみをそして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がるのです。(中略)霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。もちろん楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、なにも苦労する必要はないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時は中々、その得心が行かないものですが、必死に苦しんでいる時こそ魂にとって、一番の薬なのです。」



生きるのがつらくなるような出来事を経験しているのであれば、それを不運や不幸と思わない方が良いのかもしれません。

自分のために起きていて、自分で決めていたことかもしれないからです。



人生を嘆いたり、運命を呪ったり、神を恨んだりしてはいけません。

予期していた資質を身に付けて、成長して行く妨げになるからです。

不平不満や愚痴を言ったり、誰かのせいにしてしまうと、自分を変える力が削がれてしまいます。



あの世に行くと全てが明らかになります。

たとえ今は分からなかったとしても、自分を望ましい方向に変えるために起きていると、強く信じましょう。

あの出来事があったからこそ、今の自分がいると思う時が必ず来ます。



この世の苦の経験は、霊的な資質を身に付け、成長することにより、完全に報われています。

あの世での生きる悦びにつながっていたことを知り、神に感謝するでしょう。



2025年9月14日日曜日

赦すことで霊性は向上する


時の権力者は死を恐れるようです。

秦の始皇帝は、不老不死の薬を探し求めて、日本にまで使者を送ったという記録が残っています。



人間の寿命は決まっています。

どんなに世界中を探しても、いくら科学が発達しても、そのような薬が見つかることはありません。



もし、見つかったとしても、私は飲む気は全くありません。

肉体の束縛から解放され、望むところにどこでも行け、想ったことが直ぐに具現化し、お金や仕事や人間関係の心配が全くない世界に行けるのに、何を好き好んで地上に執着するのでしょうか。

死後の世界(霊界)には、無限の界層があると言われています。

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「こちら(霊界)では魂の成長に応じた界、つまりその人の知性と道徳性と霊性の程度にちょうど良く調和する界に住むようになります。界の違いはそこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界に住むことになります。」




高い界層は利他的な人が生きる、明るく調和の取れた美しい世界であり、低い界層は利己的な人が生きる、暗く調和に欠けた醜い世界です。

前者を天国、後者を地獄と呼ぶのかもしれません。



地上においても、天国と地獄は存在すると思います。

それは特定の場所を指すのではありません。

私たちの心の中に作り出されます。



愛で満たされ悦びを感じている時、地上にいながら心は天国にいます。

憎しみや嫉妬に苛まれ苦しんでいる時、互いに傷つけ合っている時、地上にいながら心は地獄にいます。



さまざまな出来事が起きるのが地上です。

それによって心は移ろいます。

愛情を感じていた人に裏切られたりすると、怒りや憎しみの感情が生まれて、天国から地獄に落ちてしまう時もあります。



苦しみから抜け出すためには、対象を赦さなければいけません。

けれども、赦そうと思って赦せるものではありません。

こんなに苦しいのは対象(他者)のせいだと思うと、余計に怒りや憎しみがこみ上げて来ます。

それに伴い、さらに苦しみが増して来て、悪循環に陥ってしまいます。



苦しみを生み出しているのは対象ではありません。

自分の心の中に生じた怒りや憎しみです。



地上に生まれて来たのは、霊界では出来ない経験をして、学び成長するためです。

極めて低い界層を除いて、霊界では怒りや憎しみや恨みが生じる対象は存在しません。

そのため、赦すという経験はできないと考えられます。



魂と肉体の間に介在する媒体として、地上の自我(精神)が存在しています。

そこから怒りや憎しみなどの感情が生じています。



本来の自分(魂)は、神とつながっています。

私たちは、神の心を表現しようとする極小の一部です。



神の心は愛です。

そのため、本来の自分(魂)からは、怒りや憎しみは生じることはありません。



約2000年前、イエスは無実の罪で十字架にかけられました。

十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」と神に祈りました。



全ての感情を打ち消す、最も強いエネルギーが愛です。

命を奪おうとしている対象が赦されることを願うという、極めて高い愛をイエスは表現していたために、怒りや憎しみや怖れは存在していなかったと考えられます。



対象を赦すため、怒りや憎しみを手放すためには、今よりも高い愛が必要です。

そのためには、さらなる魂の成長が必要となります。



「苦しい過程において、魂は鍛えられ、清められ、そして成長する」と言われています。

従って、怒りや憎しみに苦しむのも決して無駄なものではなく、先の赦しへとつながっていると考えられます。



「全ての苦はそれが魂の琴線に触れることによって自動的に報いをもたらし、それが宇宙のより高い、より深い実相について、より大きな悟りを得させることになるのです。」とシルバーバーチの霊訓には書かれています。

苦しみや痛みにより、奥深くで眠っている魂が呼び覚まされ、内在する無限の叡智(神)に仕舞われている真理の1つが明かされることがあります。



その真理を受け入れることにより、対象や出来事の捉え方が大きく変わります。

それに伴い、心の様相も大きく変わります。



怒りや憎しみが鎮まって来たのであれば、対象や出来事を赦す方向へと向かっています。

取り巻く状況は変わらないとしても、心は地獄から抜け出すことができます。



怒りや憎しみ捉われていては前に進んで行くことはできません。

「赦す」と言う意志表示を自分自身にしてみてはどうでしょうか。

自己犠牲を伴うその行為は、神の心と一致しているために、魂に愛が流入して、苦しめている感情が手放されるかもしれません。



魂には、少しでも上の界層に行きたいと言う根源的な欲求があります。

さまざまな経験を通して、多くのことを学べるのが地上です。

対象や出来事を赦すという経験をすることにより、霊性は向上しています。

より次元の高い愛を表現できるようになり、上の界層に行くための条件を満たすことにつながっています。

そのための計画を携えて、適した環境と人生を選んで生まれて、相応しい出来事を経験しているのかもしれません。



2024年8月18日日曜日

残された人のために生まれて来た子


以前、読んだブログが心に残っています。

そこには、生まれてから十数分で、お母さんの胸で息を引き取った赤ちゃんのことが書かれていました。

長くは生きられないことを、そのお母さんは承知していました。

どんな気持ちで我が子を産んで、そして看取ったのか、想像もつきません。



生まれて直ぐに死んでしまうのであれば、こう思う人も少なくないでしょう。

「この子は何のために生まれて来たのだろう?」



死に偶然はありません。

100歳を超えて亡くなるのも、生まれて十数分で亡くなるのも、その人の寿命です。

この世での目的を果たした時に、寿命が訪れます。



私たちは、学び成長するためこの世に生まれて来ています。

そのために、この世でしかできない経験をしています。

十数分しか生きられなかったのであれば、この世での経験はほとんどありません。

学ぶことも、成長することもできなかったことになります。



生れて来たことに意味はなかったと、そのお母さんは思えるはずもありません。

どうにかして、生まれて来た意味を見つけようとするでしょう。

悲しみ、苦しみ抜いた末に、ある結論に行きつくかもしれません。

「自分の成長のためではなく、残された人の成長のために生まれて来た。」



子供を失うのは、最も過酷な試練の1つに違いありません。

そのつらさは、経験した人でなければ分かりません。

もし、あの世で生きているとしたら、つらいこの世に別れを告げて、会いに行きたい衝動に駆られる人は少なくないでしょう。



けれども、どうしてもそれができません。

その理由は、あの世に帰ってから、はっきりと分かります。

衝動を抑えて、この世を生き抜くと、生れる前の自分が誓っていたのかもしれません。

生きる意味を見失いながらこの世を生きることが、生まれて来た目的の1つなのかもしれません。



赤ちゃんが母体に宿るのは自然現象です。

偶然ではなく、自然法則の働きによるものです。

自然法則の働きは、神の御業であり、そこに失敗や欠陥が入る余地はありません。

従って、耐えられない魂に、赤ちゃんが宿ることありません。

親子になれたのは、耐えられる魂だったからです。



この世で学び成長する必要の少ない人ほど、早く逝くと感じています。

お母さんの胸に抱かれながら、十数分で逝った赤ちゃんは、極めて成長した魂である可能性が高いと考えられます。

自分との別れを通して、大きく成長するであろう魂を、親として選んだと考えられます。

また、格段の成長を願って、この世で親子となり早く別れる人生を選んだ似通った魂もいると思います。



もしそうならば、長く生きられなかったと嘆いたり、自分を責めたりするのは全くの見当違いです。

明確な目的があったので、哀れむ必要もありません。



親は、我が子の健やかな成長を願っています。

早く逝った子は、親の霊的な成長を願いながら見守っています。

高い愛がなければ、お母さんに宿ることも、早く逝くこともできません。

限られた時間の中で、眩しいほどの愛を放っていたはずです。

死によって両者の関係性が失われることはありません。

これからも、目に見えない愛に包まれながら、生きて行くことになります。




平坦な道から、きつい坂道に変わってしまいました。

坂道は続くでしょう。


果てしなく続くと思われた坂道ですが、終わりになる時が来ます。

坂道が終わった瞬間、視界が広がります。

そこで、片時も忘れることのなかった、あの時のままの子と再会するでしょう。


ふと周りを見ると、きつい坂道を長い間歩いて来た分、高みに導かれていたことに気付きます。

平坦な道を歩いて来た人とは違う景色を見ることになります。


それまでの苦しい道のりが、魂の学びや成長として報われていたのを知り、時に恨むこともあった神に深く感謝するでしょう。

もう、悲しい別れを経験する必要はありません。







2024年7月14日日曜日

高みに導かれている


人生にはブループリント(計画)があります。

ブループリントに従って人生は展開して行きますが、約20年前にそのことを実感しました。

望んでもいなかったのに、ヒーリングの力が突然出現しました。

ほどなく、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に巡り会いました。

そして、経験したことのない苦難が始まりました。

この人生を変える3つの出来事が、わずか1ヶ月の間に立て続けに起きました。

いくら鈍感な私でも、偶然ではなく、計画的に起きていると思わざるを得ませんでした。



順番やタイミングは絶妙でした。

ヒーリングの力が出なければ、真理とは無縁だったでしょう。

続けて苦難が起きなければ、真理は私の前を素通りして行ったでしょう。



その頃の私には、1つの夢がありました。

同業の親から独立して、歯科医院を開業しようと思っていました。

土地は既に購入してあり、建物の図面も引いて、さあ始めるぞと思った矢先に、苦難が始まりました。

状況はどんどん悪化し、想定された中で最悪の結末を迎えました。

明日をも知れぬ日々を過ごす中で、救いとなったのがシルバーバーチの霊訓でした。

「乗り越えられない出来事は起きない」この真理にしがみつきました。



夢だった開業は叶いませんでした。

それでも、開業した時に費やされたであろう時間と労力を、ヒーリングやブログを書くことに回すことができたので、全く悔いはありません。

霊的な奉仕は、開業よりもはるかに重要と考えています。

代わりになる歯医者はいくらでもいますが、真理を伝えている人は周りに見当たらないからです。

私の計画に開業はなかったのです。



予定されていた計画があるにしても、その通りに生きているのだろうか? 

ふとそんなことを考えてしまいます。

最善を尽くせなかったことはたくさんあります。

そんな時、シルバーバーチのこの言葉が目に留まりました。

たった一人でいいのです。全てが陰気で暗くわびしく感じられるこの地上で、元気づけてあげることが出来れば、それだけであなたの人生は価値があったことになります。

救われると同時に、大きな愛を感じました。



もし真理と出会っていなければ、致命的に思える処分を受けて、人生の負け組に転落したと嘆いていたでしょう。

人生に勝ちも負けもありません。

それぞれが予定されていた人生を歩んでいるだけです。

負けに思える出来事は、生まれて来た目的を果たすために起きていることがあります。



以前、ボランティアで行っていた肢体障がい者施設に、身体をほとんど動かせない人がいました。

ベッドの上で1点を見つめたまま、身じろぎもせず過ごしてしている人を見て、何のために生まれて来たのだろうと思いました。



身体の自由が奪われた肉体で一生過ごすことを承知して、その人は生まれて来ています。

もし、生まれる前にそんな人生を提示されたのならどうでしょうか?

ほとんどの人は、自分には耐えられないと、しり込みするでしょう。



経験を積んだアルピニストは、より難度の高い山を目指します。

誰でも登れる山では、心身の鍛錬や登山技術の向上につながらないからです。



それと同じで、向上した魂には、難度の高い人生が提示されます。

生易しい人生では、さらなる向上は望めないからです。



肉体の自由を失ったら何もできません。

自分の存在を忘れられたり無視されたら、数日で死んでしまいます。

他者(の施し)を信じるしかありません。



置かれている状況を受け入れなければいけません。

他者からどのような対応をされても受け入れなければいけません。

寛容な心が要求されます。



1人では生きていけないことを身を持って経験しています。

生かしてくれている人たちに感謝します。



肉体の動きがなくても、魂は活動しています。

信じ続けることが求められ、寛容な心が養われ、感謝の想いを積み重ねていると考えられます。

生きている時間の全てが、そのことにつながっています。



その人は最高難度の人生に挑戦しているのかもしれません。

もしそうならば、哀れみを持つのは失礼であり、その勇気に敬意を払うべきだと思います。





地上での人生経験の乏しい人には、難度の高くない人生が提示されるでしょう。

何不自由のない身体と環境が与えられ、地上的なもの(金銭や地位)に恵まれて、大禍のない人生を送るかもしれません。

往々にして、難度の高い人生は不幸せに、易しい人生は幸せそうに見えます。

それは上辺であり、霊的な真相は全く違います。



計画された通りに行くとは限りません。

進む方向を決める自由が、私たちに残されているからです。

計画などすっかり忘れてしまっている地上の人が、進むべき方向を間違わないように、守護霊が付いて導いています。

迷った時は、インスピレーション(守護霊の導き)を信じましょう。



神は「法則」です。

そして「愛」です。

法則の働きの中に、神の愛が顕現しています。

全ての事象は、法則の働きによって起きています。

生まれて来るのも死ぬのも、法則の働きによるものです。

予定されていた出来事が、法則(因果律)の働きによって、最善のタイミングで起きています。

もし、法則の働きの中に神の愛が顕現しているのであれば、出来事は苦しませるために起きているはずはありません。

高みに導くことで、自らの心(愛)を私たちを通して顕現させるために起きていると考えられます。



「乗り越えられない出来事は起きない」という真理に私は救われました。

挫折させるためでも、人生を壊すためでもなく、望ましい自分に変わるために起きていたと、今は確信しています。

自分が変わることによって、それまでの苦しみから解放された時に、その出来事は乗り越えられたと考えられます。



さまざまな出来事を乗り越えて来た末に、ようやく死に辿り着きます。

それまでの苦しみは嘘のように消え、あるのは生き切ったという達成感です。

地上の人生を振り返る時が来て、出来事の意味(目的)を知ります。

その出来事が魂を目覚めさせ、大切な学びを得て、自分を変えていたことが分かるでしょう。



険しい人生で、苦しくつらい思いをした人ほど、霊的な高みに到達しています。

生れる前の自分は、高みに立てた悦びを感じるために、この人生を選んでいたことを思い出します。

予定されていた学びや成長が得られたのなら、次の世界でより価値のある奉仕ができるようになっています。


平地を歩いているのは楽です。

でも、何か物足りなさを感じます。

しばらく歩いていると、険しい山が見えて来ます。

その頂に立って、見たことのない景色を見てみたい欲求が再び生まれて、そちらに向かって歩み始めます。



つらく苦しい思いをするのが分っているのに、この人生を選んで生まれて来たのは、より自分を成長させたいという強い欲求があったからに他なりません。

成長することは、生きる意味そのものです。

つらく苦しい時ほど、地上を生きる意味を成就しています。

より高みに導かれています。






2024年6月23日日曜日

生命力について


3時間しか眠らなかったというナポレオンの話は有名です。

実際は、昼寝をしていて、会議の合間やお風呂でも眠っていたそうです。

そうでなければ、身が持つはずがありません。



肉体を休息させるために私たちは眠りますが、それ以外にも目的があります。

この世の人間は、肉体、精神、魂(霊)の複合体です。

眠りにつくと、魂は肉体から抜け出して霊界に赴きます。

そこで、日中にすり減らした生命力を充填して、鋭気を養っていると考えられます。



人間は数日間眠らないでいると、深刻な健康被害をもたらします。

さらに眠らないでいると、死に至ると言われています。

眠らなければ、生命力の充填ができず、枯渇すると心身が破綻してしまうと考えられます。



過労死は絶対にあってはなりません。

厚労省の基準では、月80時間(直近100時間)以上の時間外労働があると過労死と認定されます。

過労死をした人たちは、毎晩9時以降まで仕事をしていたことになるので、帰宅し食事や風呂を済ませると、直ぐに就寝時間となります。

けれども、長時間の労働で高ぶった神経(精神)が鎮まらずに、眠れない人も少なくないと察せられます。

眠ることができなければ、生命力を充填できないまま、次の朝を迎えることになります。



酸素が不足すると、息苦しさを感じます。

生命力が不足すると、生き苦しさを感じるようになります。

十分に眠ることができずに、(生命力が充填されないまま)昼間に消費してしまうと、さらに不足して行きます。

生き苦しさ我慢し続け、生命力の不足が閾値を超え、精神や肉体が破綻してしまう、それが過労死ではないかと考えています。

労働時間の超過は当然のことですが、睡眠時間の不足も過労死の大きな要因になっていると考えられます。



もちろん、起きている時にも生命力は流れ込んでいます。

何かをしようとする(目的が生じる)と、魂に生命力は流れ込み、それにより精神は活動して、肉体を働かせます。

誰かのために何かをしようとする時には、神の心と同調しているために、より多くの生命力が流れ込むと考えられます。

生命力が漲っている時は、生き生きとしています。



目的(意志)がないまま、精神を働かせていると、生命力の流入が伴わずに、生命力が費やされます。

やりたくないことを、無理にやらされている時などがそうです。

目的(意志)を持ってやっている人は、生命力が充填されるために、そうでない人に比べて疲労度は少ないはずです。



アウシュビッツ捕虜収容所で生き残った人たちは、過酷な状況においても生きる目的を持っていたと言われています。

目的を持つことで、生命力が枯渇せずに済んだと考えられます。



負荷がかかる坂道を上って行くことで体が鍛えられるように、苦しみのあるこの世を生きることで魂は鍛えられます。

苦しみが生じるような出来事に、怒ったり、嘆いたりすると、いたずらに生命力を消費して、余計に生き苦しさを感じてしまいます。

そんな時は、自分を成長させるために起きていると信じることで、生命力が再び流れ込み、その力によって前に進むことができます。



「乗り越えられない出来事は決して起きない」これは大切な真理の1つです。

乗り越えるとは、自分が変わることによって、それまで味わっていた苦しみから解放されることだと考えています。

この世で起きる出来事の霊的な目的は、苦しみや痛みを味わう中で、好ましい方向に自分が変わるためにあります。

けれども、負の感情が生じてしまうと、変わるための力が奪われてしまいます。



小学生の息子さんを、交通事故で亡くされたご両親がいました。

道路を渡っている時に、車にはねられてしまいました。

まだ小さかったので、標識の中に書かれていた「横断禁止」の意味が分からなかったそうです。



身も引きちぎられるような悲しみや苦しみを感じていたであろうご両親は、交通事故で亡くなる子供や、自分と同じ思いをする家族がいなくなって欲しいと願うようになりました。

そこで小さな子供でも分かるような標識に変える運動を始めました。

奮闘努力の末に実を結び、全国の道路標識にひらがなで「わたるな」の文字が加えられました。


子供やその家族のために役に立とうとする意志は、神の心と一致しています。

大きな生命力がご両親に流れ込んで、目的を成就させたと考えられます。

その生命力により、ご両親の魂も少なからず癒されていたと思います。

この標識を見て、渡るのを止めた子供も少なくないでしょう。

好ましい方向に世の中を変えようとしたご両親の魂も変わったと思います。



この世を生きる目的は、あの世に帰って、周りのためにより自分を活かせるようになるためです。

私たちを生かしている生命力の本質は愛だからです。





2024年5月5日日曜日

地上的な欲求、霊的な欲求

 

人間にはさまざまな欲求があります。

マズローの「欲求5段階説」

心理学者のマズローは、5段階の欲求があると提唱しています。

一番下にある生理的欲求は、食欲や睡眠欲など、生命を維持するための欲求です、

その上には、経済的な安定や健康な身体を保つなど、安全に、安心して暮らすための安全欲求があります。

その上には、友人や家族などの小さな集団から、会社や組織などの大きな集団まで、何らかの集団に所属しようとする社会的欲求があります。

さらに上には、他者に認められたい、または自分を認めたいという承認欲求があります。

一番上にあるのは、望んでいる自分になりたいという自己実現欲求です。



マズローによると、下位の欲求が満たされると、上位の欲求を満たしたくなるようです。

食欲などの生命を維持する欲求が満たされると安定した生活を求めるようになり、安定した生活ができるようになると人とのつながりを求めるようになり、人とのつながりができるとその人たちから認められたいと言う承認欲求が生まれるようです。



承認欲求は誰にでもあります。

会社に入ると、上司や同僚に認めてもらいたくなります。

子供は親に褒めてもらいたいです。

自分が高く評価されて、気分を悪くする人はいません。



承認欲求は、形を変えて広範囲に存在しています。

「プライド」もそうです。

プライドをくすぐられるとは、承認欲求が満たされることを指すと考えられます。

自己承認欲求が満たされないと「劣等感」が生じることがあると考えられます。

金持ちになりたい、有名になりたい、偉くなりたいなどの願望も、承認欲求から生じている場合ことがほとんどです。



欲求が満たされないと、苦しみのような感覚を覚えます。

そこから何とか抜け出したくなります。

空腹は苦しいものであり、どこかで食べ物を調達しようとします。

家に引きこもっている人は、社会的欲求が満たされていないため現状に苦しみを感じて、外に出て社会と関わりを持ちたくなります。



叱られたり、あるいは褒められたりすると、承認欲求が一気に高まることがあります。

上司に叱られると、仕事を頑張ろうとする人もいるでしょう。

もっと褒めてもらうために、一生懸命に努力をする子供もいるでしょう。

このように欲求は自分を高めることにもつながるので、無用なものではありません。



SNSでつながっていないと不安になる人がいます。

つながっていても、自分について書き込まれたことが気になります。

私自身も自院の検索サイトの口コミが気になり、見ることがあります。(初診の患者さんの数割は口コミの評価が受診理由になっています)

昔は知ることのなかった自分の評価が、電子媒体によって知れるようになりました。

良く見られたいという承認欲求を満たすために、私たちは大きな労力を払っているような気がします。



承認欲求が強い人の中には、幼少期に十分な愛情を受けていなかった人もいると考えられます。

十分な愛情を受けた人は、自分は守られているという安心感を潜在的に持っています。

受けていない人は、他者から認められることで安心感を得ようとする傾向があると思います。



私たちは、自我によって自己表現してます。

自我には、肉体を使って自己表現するための自我(以下地上的な自我)と、死んで霊界に行った時に自己表現するための自我(以下霊的な自我)があると考えています。

地上的な自我は、安全に快適に生きることを志向しています。

承認欲求が満たされると、周囲との関係が安定し、安心して生きられると感じられます。

このことから、承認欲求は地上的な自我から生じていると考えられます。



あの世に行くと肉体がなくなります。

同時に地上的な自我もなくなり、それと共に多くの欲求が消滅します。

ありのままの自分が認められる世界なので、承認欲求もなくなります。

残っているのは、自分を成長させたいという霊的な欲求と考えられます。



地上は霊界と違い、自分と違う人たちと共に生きる世界です。

違う人たちと共に生きるためには、お互いに認め合わなければいけません。

認めてもらわなければ、疎外されたり、時に敵対関係になってしまい、生きて行くのに不都合が生じます。

認めてもらいたい承認欲求は、地上を安全に、安心して生きるための欲求でもあるために、そこから逃れるは困難です。



認めて欲しくても、認めてもらえるわけではありません。

世の中には、因果律が働いています。

まず自分が相手を認めることによって、相手も自分を認めてくれるかもしれません。

20年位前でしょうか、私の医院にある言葉を多用する高齢のご婦人が訪れました。

その時のやり取りを再現すると

私「奥歯に虫歯がありますので、これから治療します。」

ご婦人「ありがとうございます。」

治療が終わった後の私「今日は奥歯の治療をしました。次回は前歯の虫歯の治療をします。」

ご婦人「ありがとうございます」

私「お大事にして下さい」

ご婦人 深々と頭を下げながら「ありがとうございます。ありがとうござます。」

通常は「はい」と答える人がほとんどですが、そのご婦人は笑顔で、気持ちを込めて、スタッフにも受付にも「ありがとうございます」と繰り返していました。



礼儀正しいと思うと同時に、そのご婦人に対して、もっと良くしてやろうという気持ちが生まれました。

何故、そんな気持ちが生まれたのか、今になって分かりました。

「ありがとう」という言葉によって、私の承認欲求が満たされたのです。

自分が満たされたので、因果律の働きによって、相手も満たしてやろうと言う気持ちが生まれたと思います。

相手を認める最も有効で簡便な方法は、感謝の意を伝えることかもしれまぜん。

認められたと感じると、相手を認めたくなるものです。



世の中には、飢餓で苦しんでいる人がいます。

そんな人たちを見て助けてやらなけばいけないと思っても、(段階は違いますが)それぞれの人に欲求があり、それが満たされなければ苦しみが生じます。

自分が苦しんでいるのに、人のことまで構っていられません。

飢餓や戦争がなくならないのは、そんな理由もあると考えています。



地上的な欲求には際限がありません。

自我から生じる地上的な欲求は、魂から生じる霊的な欲求を満たすことで、生じなくなります。

神の心を表現する、誰かのために何かをすることで、霊的に満たされます。



第2次世界大戦中のアウシュビッツ強制収容所での話です。

そこでの1日の食料は、パン1枚だったそうです。

ある男性は、そのたった1枚のパンを、お腹を空かした見知らぬ子供に手渡したそうです。

男性の生理的欲求(食欲)は全く満たされていません。

けれども、神の心を表現することで霊的な欲求が満たされていたので、地上的な欲求から生じる苦しみから免れていたと思います。



全体のために、1人ひとりが存在価値を持っています。

地上の苦しみから少しでも解放されるためには、自分の存在価値を果たす以外にありません。

それは特別なことでなく、今いる環境で良心に従って生きれば良いのだと思います。



2023年9月10日日曜日

苦しみがあるところに学びがある



生まれる前にも生があり、死んだ後も生は続いている。

少なくても私の中では、これは動かしがたい事実となっています。

けれども、生まれる前のことを、思い出すことはできません。



自我が未発達な幼少期には、魂の記憶を思い出せる可能性があります。

生まれる前のことをスラスラと話して、お母さんをびっくりさせるお子さんもいます。

親を選んで生まれて来たと話すお子さんも、少なくありません。




私が親を選んだ理由は何だろうと、ふと考える時があります。

両親2人とも宗教に関心がなかったのも、1つの理由かもしれません。

白紙の状態だったので、抵抗なく霊的真理を受け入れることができたと思います。




生まれる前にいた世界は、極めて快適です。

肉体から生じる、苦しみや痛みがありません。

食べて行くために、働く必要もありません。

周囲にいるのは自分と似通った人たちばかりなので、人間関係で悩むこともありません。




そんな快適な世界を離れ、生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

地上でしか経験できないことを通して、足りない資質や知識(叡智)を身に付けるためです。




地上でしか経験できないものに病気があります。

病気になって、生き方が変わる人がいます。

仕事人間だった人が、家族を大切にするようになったり、自分にしか関心がなかった人が、周囲のために何かを始める人もいます。

そんな人たちは、苦痛を味わうことで魂が目覚め、言葉にならない大切なことを学び始めたと考えられます。




私事ですが、17年前に突然ヒーリングの力が出現しました。

望んでいたわけでもなく、そんな力が存在することすら知りませんでした。

力の正体を知りたくて探していたところ、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会いました。

出会った直後に、それまで経験したことのない出来事が起きました。

事態が悪化して行く中で、因果律の働きを学んで、原因の全てが自分にあったことに気付きました。

それにより、運命を呪ったり、何で自分だけがと憤りを覚ることはありませんでした。

明日が見えない日々の中で、「乗り越えられない困難や障害は自分に起きない」という真理にすがりつきました。

それにより、もうだめだと投げ出さずに済みました。

学んだことで、無用な苦しみから免れていたのです。




人生を変える3つの出来事が、わずか1ヶ月の間に立て続けに起きたので、これは偶然などではなく、目的があって計画的に起きていると思いました。

頭でいくら考えても解決する手段が見つからない最悪の出来事は、魂を目覚めさせ、大切なことを学ぶための触媒となっていました。

学びに必要な出来事が、最適のタイミングで起きていたのです。





小学生をいきなり大学に入れたらどうでしょう?

あるいは、大学生を小学校に入れたらどうでしょう?

混乱を招くのは、目に見えています。

両者とも学ぶべきことを学べずに、無駄な時間を過ごすことになります。

適切に学ぶためには、計画が必要なことは言うまでもありません。




人生の学びも同じです。

自分に足りないものを手に入れるために必要な出来事が、最適のタイミングで起きるように計画されています。

もし、計画などなく、偶然に支配されていたら、どうなるでしょう?

個々の成長に必要のない出来事ばかりが起きたり、必要な出来事が起きない不合理な人生となってしまいます。




学校での学びは画一的です。

そのために、与えられた課題を簡単に解ける人もいれば、難しくて解けない人もいます。

人生での学びは、完全な叡智(神)によって計画されています。

どんなに難しく思えても、どうにか乗り越えれる試練しか与えられません。

学び成長することを望んでいる神が、サイコロを振るようなことは絶対にしません。




「何のために勉強するの?」

子供にこう聞かれたら、「自分の将来のため」と答える人もいるでしょう。

人生の学びも同じです。

地上で手に入れたものは、次の世界で活かされます。

自分を活かせるようになりたいという願望があり、そのために必要な資質を手に入れようとする意志があったからこそ、地上に生まれて来たのです。




シルバーバーチの霊訓に、こんな1節があります。

ある段階以上に進化すると、憎しみを抱かなくなります。愛だけを抱くようになります。苦しみを感じず、幸せばかり感じるようになります。難しいことですが真実です

苦しみを感じない人であれば、地上に生まれる必要はないと考えられます。

もし、苦しみを感じるのであれば、どこかに不完全(未熟)な部分があるはずです。

不完全(未熟)な部分が地上で表現されると、因果律の働きによって、苦しみや痛みを伴う事象が起きると考えられます。

それにより、自分の不完全(未熟)な部分に気付くことになります。




私たちは、完全に向けて変わり続けて行く存在です。

苦しみを感じるのであれば、変らなければいけない不完全(未熟)な部分があると考えられます。

学び変わることにより、苦しみから解放されるはずです。




2023年6月25日日曜日

真理は苦しみを和らげる


霊的真理と出会い18年になります。

出会って良かったと思うことの1つに、「死」についての理解が深まったことがあります。



死は人生の終着点ではありません。

次の世界に移行するためにある自然現象であり、通過点です。

死を怖がるのは、この世界しかないと思っていたり、次の世界のことを知らないからです。

正しい知識を持てば、早く逝きたいと思うようになるかもしれません。

けれども、自分の意志で逝ってしまう過ちを犯さないために、ベールに包まれていると考えています。


「人生は楽しむもの」良く聞かれる言葉です。

そうありたいのですが、そうばかりとは行きません。

この世に生まれて来たのは、自分(魂)を成長させるためです。

病気、別れ、災難、失敗、挫折など、困難や障害を伴う出来事が起こります。

それらを乗り越えようとすることで、成長するようになっています。



つらい出来事を経験している最中は、楽しむ余裕などありません。

早く逃れたい、早く終わって欲しいと願うだけです。

楽しめるほどの出来事であれば、大きな成長は期待できないでしょう。

全てを楽しめる人ならば、この世に生まれて来ないでしょう。



この世を生きるのは、登山のようです。

息を切らしながら、一歩一歩登って行きます。

坂道が終わり、やっと平坦になったと思ったら、次の坂道が始まります。


登っても登っても、また坂道が始まります。

登るのは無理と思うような、絶壁に遭遇することもあります。



坂道を登り続けて、もう一歩も動けないほど、精も根も尽き果てた時に、頂上(死)が待っているような気がします。

頂上では、先に着いている人たちが待ち受けています。

登り切った悦びを分かち合います。

苦しみから解放され、嘘のように楽になっています。

美しい光景を観ながら、平らな世界をゆっくりと歩いて行けるようになります。



そんな快適な世界を離れて、何のために生まれて来たのでしょうか?

この世でしか経験できないことがあったからです。

その経験を通してでしか、学べないことがあったからです。

平らな世界を歩くよりも、負荷のかかる山道を登った方が、より自分(魂)を鍛えることができると思ったからです。



霊的真理を知ったとしても、山道がなくなるわけではありません。

それでも、苦難と言われるような出来事が起きた時、何で自分だけがと憤りを感じたり、もう終わりだと嘆いたりすることはありませんでした。

因果律の働きによって起きていたこと、人生はこの世だけではないことを承知していたので、自分を苦しめるような感情に苛まれずに済みました。



大切な人を亡くした人こそ、真理が必要です。

「いなくなった」「もう2度と会えない」など、無知から生じる無用な苦しみを味合わずに済むからです。

離れ離れになどなっていません。

目に視えなくても、霊的につながっていると信じることができれば、孤独という苦しみは和らぎます。

信じることで愛することができます。

愛することができない苦しみは和らぎます。



人間関係で苦労をするのが、この世です。

近くに憤りを感じる人がいたとしても、真理を知ることで、寛容さを身に付けるために、自分に必要な人と思えるようになるかもしれません。

因果律の働きを知ることで、過去の自分から出たものが、時を経て返って来ているのかもしれないと、原因を冷静に分析できるようになるかもしれません。



これはポジティブシンキングとは違います。

真理を知ることで、苦しみから解放されるようになっています。

教えてもらうものではなく、元々魂に内在されているものを、自分自身で見い出すと考えられます。

見い出すために最適な出来事が、自然法則の働きによって起きていると考えられます。

真理を見い出し、自分を変えるための触媒として、苦しみが存在していると考えられます。



毎日浴びるほど酒を飲んでいる人が、肝臓を悪くしたとしても、何で自分がと憤りを覚えることはありません。

因果関係がはっきりしていて、自分が原因を作っているからです。

ところが、この世で起きる出来事は、因果関係がはっきりせず、原因が判らないことが少なくありません。

原因が判らないと、理不尽さや不公正さを感じてしまい、憤りの感情が生まれて苦しむことになります。



起きた出来事には、原因(目的)が必ずあります。

今は判らなくても、次の世界に行くとはっきりと判ります。

自然法則の働きにより、完全な公正が保たれているのを知り、納得することになります。



過った自由意志の行使により起きる出来事もあります。

起こした者には償いが、被った者には埋め合わせが生じます。

全てが自然法則に働きにより、良きに計られていると信じることができれば、苦しみは和らぎます。



最後に、シルバーバーチの霊訓から引用します。

「なぜ苦しみがあるのか。いたいけな子供が、なぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それも全て霊(魂)の進化という永遠の物語の一部なのです。その中には地上に誕生してくる前に、自ら覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気づくのは、暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というものがあります。神は厳正なる審判者です。差し引き勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成する時が来てみると、帳尻がきっちりと合っています。」



自然法則の働きの中に、神の意図が顕れています。

真理を見い出すほど、苦しみは感じられなくなり、神の意図を表現できるようになります。






2023年4月23日日曜日

苦しみを伴う感情から解放されるために


私の家では親子の犬3匹を飼っています。

母犬は元保護犬で、放浪していた時に身籠り、家の中で2匹を出産しました。

見ていて思ったのですが、犬は子育てが終わると親子の関係は消滅し、仲間になるようです。

何歳になっても親子の関係が維持される人間とは大違いです。



犬を飼っていて大切に思うのは、平等に接することです。

1匹だけを可愛いがると、他の犬は嫉妬したり、拗ねてしまいます。

人間のような感情を持っているので親しみを感じますが、気を付けなければいけません。



人間も犬も、最も味わいたい感情は「喜び」でしょう。

一方、「怒り」や「嫉妬」はできれば抱きたくはありません。

苦しみを伴う感情だからです。



そんな苦しくなるような感情など、初めからなければ良いのにと思ってしまいます。

けれども、この世に必要のないものは存在しません。

肉体を持つことで地上の自我(以下自我)が形成され、そこから感情が生まれると考えられます。

高いところに立つと、恐怖を覚えます。

もし、恐怖を覚えなければどうでしょう?

注意を怠り、落ちてしまう人がいます。

つまり、地上を安全に生きて行くために、恐怖という感情は必要と考えられます。



嫉妬はどうでしょう?

他人にあって自分にはない、あるいは他人に与えられ自分には与えられない、そんな差を感じた時に、嫉妬心を抱くことがあります。

肉体を持つと、自己を保存しようとする欲求が生まれます。

いわゆる本能と呼ばれるものであり、幼い子供でもその欲求はあります。

一人で生きて行けない子供は、親に保護され、育ててもらわなければいけません。

愛情を受けるのは、子供にとって死活問題です。

より多くの愛情を受けようとする欲求の触媒となっているのが、嫉妬心と考えられます。



自分にない才能が他者にある時も、嫉妬をすることがあります。

才能が周囲に活かされると、他者から評価されることが多いです。

両者に利害関係があると、評価されている人を見ると、自分の立場が脅かされるようなような感覚になり、自己を保存しようとする欲求が刺激されて、嫉妬心が生まれる時があります。



他者と比べることによって生じる、苦しみを伴う感情を嫉妬と呼ぶのかもしれません。

それでは、なぜ苦しみを伴うのでしょうか?



宇宙の隅々にまで、自然法則は働いています。

自然法則の根本原理は「愛」です。

愛が自然法則の働きの中に顕現しています。

嫉妬は愛に反した、他者を排除しようとする感情です。

そのような成長を妨げる感情に捉われることのないように、自然法則の働きによって苦しみが生じると考えられます。



嫉妬による苦しみを感じたくなければ、他者と交わることのない環境に身を置けば良いのですが、そんなわけには行きません。

環境が変えられないのであれば、自分が変わるしか方法はありません。



私たちの中には、神が宿っています。

そのために、溺れている人を見ると助けたくなる衝動が生まれます。

同時に自我が働いて、意識が自分に向かいます。

自分まで溺れてしまうと考え、助けようとする衝動を抑制しています。



嫉妬が生まれるのは、自我の働きによるものであり、意識が自分に向いています。

従って、自分から意識を外すことができたのなら、嫉妬は生まれなくなるはずです。



それでは、どのようにすれば自分から意識を外せるのでしょうか?

意識を他者(周囲)に意識を向けるようにすれば良いと考えられます。

それは他者と比べることではありません。

他者のことを思ったり、考えたりすることです。

自分の意志でそうならなくても、自然法則の働きによって、他者に向かうようになる時があります。




随分前の話です。

道路を横断中に車にはねられて、お子さんを亡くされたご両親がいました。

深い悲しみは言うに及ばず、「何で自分の子供が、こんな目に遭わなければいけないのか」と言う想いに苛まれて、大変な苦しみを味わっていたと察せられます。



過酷な現実に追い詰められ、どうにもならないと自我が観念した時、その奥で眠っていた魂が目を覚まします。

魂が目覚めると、意識は自分から他者に向かいます。

そして「死を無駄したくない」「世の中のために活かしたい」と、ご両親に内在している神性が発揮されたと考えられます。

子供でも意味が分かるように、横断禁止の標識を変える運動を始められました。

その運動によって行政が動かされて、全国の道路標識に「わたるな」の文字が併記されました。


ご両親の悲しみがなくなることはないでしょう。

けれども、同じ思いをする家族がいなくなって欲しいと願うことで意識が他者に向かい、苦しみを伴う感情は和らいだと考えられます。

人や社会のために役に立つことをすれば、魂の成長にもつながります。

お子さんの死は、霊的に1つの意味を持ったことになります。



この世は、自分と違う人たち、果たすべき目的が違う人たちが、同じ平面で暮らしている特殊な場所です。

誰一人として同じ人はいません。

歩む人生も、当然のことながら違います。

ところが、その違いにばかりに目が行ってしまいます。



初めから違っているものを比べてしまうのは、明らかに間違っています。

間違ったことをすると、因果律の働きにより、苦しみが生じることになります。



私たちは物的にばらばらに存在しています。

けれども、霊的につながっています。

言葉を介さずに、想いが判る時があるのはそのためです。

世の中全体を揺るがすような出来事が起きると、連帯感や結束が生まれるのもそのためです。



全ての生命は霊的に1つです。

地上に生まれると、霊的な意識が希薄になり、つながりが感じられなくなります。

物質的な違いばかりが目に付いて、比べてしまいます。



もし、周りにいる人を、この世を共に修行をしている同胞と心から思えるような、霊的な意識を取り戻したのなら、比べることにより生じる苦しみを伴う感情から解放されるはずです。





本をご紹介します。

タイトルは「探すんだ!もう1度生まれて僕の死んだ理由を生きる意味を」です。

著者は石田裕子様で、このブログを読んでいただいています。

石田様ですが、去年の3月19日、大学進学を控えたご長男の龍之介君を病気で亡くされました。

元気だった子供がわずか1ヶ月で亡くなると言う、受け入れ難い現実を目の当たりにする中で、脳死状態にあった龍之介君の思念(想い)がご自身の魂に伝わって来るようになりました。

そして、ご長男が生前書き溜めていた文章が多数見つかり、それを基に2冊の本を書き上げられました。

ご長男の文章は、霊的真理に通じるものがあり、高校生が書いたものとは思えません。

親子の関係は死後も続いています。

龍之介君が早く逝った理由を、今も探しています。

新聞にも紹介されました。《リンク先》

ご興味がある方は、是非読まれて下さい。

遊行社¥1,980(税込み)





2022年11月20日日曜日

苦しみが変化をもたらす


先天性無痛無汗症という病気があります。

名前の通り、痛みを感じず、汗もかかない遺伝性の疾患です。

身体に痛みを感じないのであれば、良いことじゃないかと考える人もいるでしょう。

ところが、そのことが命に関わります。

事故などで大きな傷を負ったとしても、痛みを感じなければ、自分に何が起きているのか判らず、出血死してしまうかもしれません。

私は歯医者をしていますが、痛みを感じなければ虫歯になっても気付かず、放置されてボロボロになってしまう可能性があります。

痛みは誰もが感じたくないものです。

けれども、身体の異常を知らせるために、なくてはならないものです。



痛みを感じるのは肉体だけではありません。

精神(心)も痛みを感じます。

傷つくことを言われれば、心に痛みを感じます。



病気になり苦痛が生じているのは、何か原因があるからです。

同じように、何か自分に原因があって、精神的な苦痛が生じることがあります。



全ての行為に、自然法則(以下法則)が働いています。

法則に反した振る舞いをすると、苦痛を味わうことがあります。

たとえばわがままな言動をした時です。



神の心は愛です。

その心が、法則に反映されています。

わがままな言動は利己的な行為であり、神の心(愛)に反しています。



人の心には、良心と言われる神が宿っています。

わがままな言動をすると、咎められたり、仲間外れにされることがありますが、それは他者の心の中にある神の部分が反応しているからです。

法則の働きによって、苦痛として自分に返って来ると、慎むようになります。

意識する、しないに関わらず、地上にいる私たちは心身に感じる苦痛を通して、法則の働きを学んでいます。



もし、苦痛を感じなければどうでしょう。

怪我や病気が見過ごされてしまうように、法則に反した行いをしても気付くことはありません。

「嘘は泥棒の始まり」と言われますが、知らないうちに大きな過ちへとつながって行く可能性があります。



このように、地上における苦しみや痛みは、神の心(法則)に適った生き方や考え方をするように、現状から変化することを促していると考えられます。

けれども、変化することに抵抗するものがあります。

地上的な自我(エゴ)です。

エゴは肉体と密接に関連しています。

そのために、安全で楽な方向を指向し、変化をすることを好みません。



自分の未熟さを指摘されて、プライドが傷つけられ、憤りが生じることがあります。

それもエゴの働きによるものです。

苦しみや痛みを感じると、無意識に自分を変えようとしますが、エゴが正当化する言い訳を見つけると、変わるのを妨げてしまいます。



世の中には、周りが変わるのを期待したり、強要する人がいます。

そんな人ほど、自分を変えようとしないものです。

自分が変わらずに、周りを変えようとする行為はエゴの働きによるものであり、法則に反しているので上手く行きません。

エゴから出たものは、相手のエゴを呼び覚まします。

苦しみや痛みを伴う結果として、結局は自分に返って来ます。

人だけではなく、国家にも同じことが言えます。

今、起きている戦争も、周りを力により変えようとするエゴが原因で起きているような気がします。

苦痛となって、自らに返って来ることになります。



相手の言葉が神の部分(良心)から発せられたものであれば、自分の神の部分(良心)に響きます。

苦しみや痛みを感じる時もあるかもしれませんが、真摯に受け止めるべきです。

受け止められずに正当化している自分がいたとしたら、それはエゴの働きによるものです。




勢い良く流れる川の中で、立ち止まっているのは大変です。

法則の働きは、川の水の流れのようなものです。

留まっているのを困難にさせ、自然の流れに従うことを促しています。

頑なに従わなければ、(法則に逆らっているので)苦しみや痛みが続いてしまいます。



私たちは、神の力である生命力によって生かされています。

その力は、私たちを変容させる力でもあります。

その触媒として、苦しみや痛みが存在していると考えられます。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「ある段階以上に進化をすると(中略)苦しみを感じず、幸せを感じるようになります。難しいことですが真実です。苦しみを何とも思わない段階まで達すると、どんな環境にも影響されなくなります。」

何度生まれ変われば、そのような境涯に達するのかは判りませんが、苦しみは魂の進化(成長)と密接不可分の関係にあるのは確かです。



霊訓には「乗り越えられない困難は与えられない」と書かれています。

もしかしたら「乗り越える」とは「変わる」ことなのかもしれません。

自分の中で何かが変わった瞬間、苦しみや痛みが和らいでいるのかもしれません。

苦しみや痛みが魂を成長させ、自分を変えるために存在しているのであれば、当然そうなります。



変わるために、勇気や意志が必要な時があります。

それこそが、この世の経験を通して、私たちが高めている資質と考えられます。

私たちが死後に赴く霊界は、思念の世界です。

勇気や意志がなければ、何も始まらない世界です。

高められた資質は、取り巻く環境を良い方向に変えて行くために、如何なく発揮されることになります。



霊界は、地上のような苦しみや痛みや悲しみが取り払われています。

極めて居心地が良いのですが、自力で自分を変えるのには困難な世界です。

自分を大きく変えるために、苦しみや痛みや悲しみを経験することのできる地上に、自らが志願して生まれて来たと考えられます。






2022年9月4日日曜日

より高みを目指して


「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった」と始まる小説があります。

私たちも「死」と言うトンネルをくぐり抜ける時が来ます。



出口では、先に行った親しい人たちが待っています。

再会の歓びにしばし浸り、その時から新しい生活が始まります。



向こうの世界に行くと、食べて行くために働く必要がなくなります。

肉体はなくなるので病気にもならず、疲れることもありません。

煩わしい人間関係も全くありません。



この世と比べて、何と快適な世界でしょうか。

知るほどに、早く行きたいと思ってしまいます。

けれども、寿命が来るまで待たなければいけません。



この世に生まれて来る時は、向こうの世界からトンネルに入ります。

出口では、お母さんが待っています。

赤ちゃんが大きな産声を上げると、やっと生まれて来たと安堵し、喜びに包まれます。

霊的真理を知った今、そんな赤ちゃんの姿を見ていると、大変なこの世に生まれて来たと泣き叫んでいるようにも思えてしまいます。




私たちは、自分に足りない資質を身に付けるため、あるいは弱い部分を強くするために、この世を生きています。

それに相応しい環境を選んで生まれて来ます。

けれども、飢餓でやせ細っている子供たちの写真を見ていると、本当にこの環境を選んで生まれて来たのだろうか?と、疑問が湧いたことがあります。



「自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。」と、シルバーバーチは言っています。

過去の過ちを償うための魂もいるかもしれませんが、大切なことを学ぶために、敢えてこの逆境を選んだ魂もいるはずです。

実際に経験しなければ判らないことがあり、大人になった時、あるいは次に生まれた時に、貧しい人たち、弱い人たち、苦しんでいる人たちのために貢献する強力な動機付けとなるからです。



子供の虐待のニュースほど、心を痛めるものはありません。

自分を傷つける親の元に、生まれたい子供がいるのかと思ってしまいます。

過去生で縁があり、何か目的(原因)があって親子になる場合もあるのでしょうが、そればかりではありません。

生まれて来る前と、変わってしまった親もいると思います。



受胎は自然現象です。

自然法則の下で起きているので、もし子供を育てることができなければ、受胎することはないはずです。

子育ては、自分より子供を優先することを強いられます。

自我との葛藤の連続のように感じられます。

葛藤に負けて、自我を優先してしまうと、良心の呵責が生じますが、それを苦しみとして感じます。

苦しみの原因が子供にあると勘違いをして、悲しいことに虐待に及ぶ親がいると思います。

自我剥き出しで、過った自由意志を行使し続けると、生まれて来た時とは違う親になってしまいます。

信じて選んだ子供が裏切られたことになります。

自分以外のために何かをすることで人は成長しますが、その機会を逃して、罪を作っている人もいると思います。



困難や障害を正面から受け止め、対峙して行くことでも、魂は成長して行きます。

成長するためにこの世に生まれて来たので、起きて欲しくないような出来事が起きるようになっています。

苦しみを伴う出来事が起きた時に、生まれて来た目的を果たすための機会が訪れたと捉えて臨むことが大切と思われます。



しかしながら、多くの人は楽しいことだけが起きる人生を望んでいます。

それだけの人生なんてあり得ません。

どこかで苦しみを伴う出来事が起きるのがこの世です。



水の中に放り込まれて、泳げなければ溺れてしまいます。

水を飲んで苦しみながらも、息ができるような体の動かし方を見つけ出そうとします。

必死にもがいている最中で、生きるために必要なスキルを身に付けています。



人生も同じです。

苦しみの中でもがいている時に、生きるために必要な資質を身に付けています。



もし、人生で起きる全ての出来事に、何の苦しみも感じないのであれば、身に付けるものはもうないので、その人はこの世に生まれて来る必要はないと思います。

苦しみを感じるのは、まだ成長する余地が残されているからです。

出来事を乗り越えようとする中で魂は成長し、次第に苦しみが和らいで来ます。

苦しみを楽しむなど、器用なことは私にはできませんが、苦しみの意味を正しく理解することで、立ち向かう勇気が出ます。




この世の人生は山登りのようです。

坂道を登っている時は、息が上がって苦しいです。

木立に囲まれ景色も見えず、自分がどの辺にいるのかさえも判らない時があります。

坂道が続いて、やっと終わったと思ったら、目の前にまた坂道が現われます。

疲れてしまい、これ以上登れないと思ってしまう時もあるでしょう。


忘れはいけません。

登って行ける人にしか、坂道は現れません。

次に現れた坂道は、今までより急かもしれませんが、鍛えられて、登れるようになったから現れたのです。

どんなに急だとしても、必ず登っていけます。



平穏無事な人生は、平坦な道を歩いているようなものです。

楽ですが、高みに行くことはできません。

それでは、この世に生まれて来た意味がありません。



どれくらいの坂道を登って来たのでしょうか。

疲れ果てて動けなくなっています。

それでも急な坂道は続いて、這いつくばりながら、登って行くことになります。

これ以上無理だと、最後の力を振り絞って登り切った瞬間、頂上に着くようになっているのかもしれません。


そこから見る景色は、言葉にならないでしょう。

あの苦しかった出来事が、高みへと向かわせていたことに気付きます。

苦しい思い、つらい思いをした人ほど、この世から解放された悦びは大きいものになります。



生まれる前の自分より、強く優しくなっています。

自然法則の働きにより、完全に報われていたことを知ります。

背後に控えていた、限りなく大きな存在を感じて、思わず感謝するでしょう。



より険しい山を目指す登山者がいます。

大変なのは分かっていて、危険を冒してでも登りたいのは、さらに技術を向上させたいからです。

より高い場所に立ってみたいからです。



この世の人も同じです。

快適な向こうの世界を離れて、苦の多いこの世に生まれて来るのは、さまざまな出来事を乗り越えて魂を向上進化させるためです。

より高い世界に行きたいからです。







2022年8月28日日曜日

愛する人を亡くした苦しみ


このブログには、今までにたくさんの方からコメントを送っていただいています。

その中には、大切な人を亡くされて、深い悲しみの中にいる方もいます。



そんな方に、繰り返しお伝えして来たことがあります。

「亡くなった人は生きていて、また会える」と言うことです。



ボールを空に向かって投げたら、地面に向かって落ちて来ます。

この当たり前の自然現象は、万有引力の法則の働きによるものです。



死とは、身体機能の永久的な停止です。

実態は、生命体(肉体)から生命(魂)が完全に分離する現象です。

死と言う自然現象は、自然法則の働きによって起きています。



空に向かって投げられたボールは、目に視えない引力によって、地面に引き寄せられるように、目に視えない愛という力によって、魂は引き寄せられます。

世の中には絶対はないと言われますが、自然法則の働きは絶対です。

肉体から分離した生命(魂)は、変わりなく存在しています。

次の世界に行った時に、親愛の想いがあれば、両者は引き寄せられます。

自然法則の働きにより、100%会えるのです。



目の前から、大切な人がいなくなってしまえば、悲しくなるのは当然です。

悲しいだけでなく、苦しい思いをしている人がいます。

「こうしておけば良かった」、「あんなこと言わなければ良かった」と思い出しては後悔し、苦しんでいる人も少なくありません。



2度と会えないのであれば、そう思っても仕方がないでしょう。

現実はそうではありません。

悔やんでいることがあれば、再会した時に謝ることもできます。

伝えられなかった想いも伝えられます。



でも、その必要もないのかもしれません。

伝えられなかった想いは、もう伝わっているからです。

謝らなくても、とっくに許されているのかもしれません。



大切な人を失うと、さまざまな想いが生まれます。

時には、ぶつけようのない怒りが高じて、神を恨んでしまう人もいます。

運命を呪ってしまう人もいます。

妬んでしまう人もいるでしょう。

それらの想いに因果律が働いて苦しみが生じてしまいます。



私たちが生まれて来た目的は、霊的に成長するためです。

足りない資質を身に付け、自分(魂)を強くさせるためです。

そのための最善の計画が立てられます。



目的を成就するために、相応しい出来事を経験することになります。

足りない資質は人によって違うので、経験する出来事も違って来ます。

人生がそれぞれ違うのは当然であり、比べても意味がありません。



生まれる前の自分は、人生の計画を了承しています。

自分の意志で決めていたことに、因果律が働いて、目的を成就するための出来事が起こります。




見ず知らずの人が死んだとしても、涙は流れません。

悲しみが生まれるのは、親愛の想いがあるからです。

別れによって、お互いの想いを伝えられなくなります。

行き場を失った愛が、深い悲しみとなり、涙となって表現されているような気がします。

悲しみを通して愛を学ぶために、最も相応しい経験が別れなのかもしれません。

この世界で最も大切で価値のあるものは何かを、魂に刻み込んで行きます。



眩しい日差しの中では、キャンドルが灯っていても気付きません。

周りが暗くなると、光り輝いています。

変えようのない現実が突き付けられ、明日をも知れない真っ暗闇の日々の中で見つけられる真実があります。

悲しみの極みで、大切なものは全く失われておらず、永遠であることに気付きます。



以前、長年連れ添った奥様を亡くされた方からコメントをいただきました。

そこに「肉体と精神を持った自分と、精神だけの妻と一緒に生きていると言う気持ちでいる」と書かれていました。

「魂」と言う言葉は使われていませんが、姿は視えなくても奥様は生きていて、傍にいることを確信されています。

1人暮らしをされていますが、存在を感じながら、話しかけているそうです。

寂しい時や、悲しい時はあるでしょうが、真実を知っているので、苦しみからは解放されていると思いました。




一方、この世が全てであり、死んだら無になると思っている人は、大切な人を亡くすと、ひどく苦しんでしまうように思います

全てが終わったと思って、絶望してしまうからです。

この世は理不尽で、不公平な世界に思えてしまいます。




苦しみの多くは、真実を知らない、あるいは信じられないことから生じています。

魂の存在は証明されていないので、信じられないと言う人もいるでしょう。

証明されていないものは、本当に存在しないのでしょうか?

愛の存在は客観的に証明されていません。

魂の存在を信じられない人は、愛も存在していないと思っているのでしょうか?



ほとんどの人は、愛を実感しています。

魂の存在も、確かめられるものではなく、実感するものです。

魂が存在しないのであれば、愛も存在しません。

なぜなら、愛は魂から生まれている霊的な力だからです。

愛を実感しているのは、魂だからです。



証明できないものは、信じるしかありません。

亡くなった人は、五感で感じられないだけであり、生きています。

地上の人の想いを受け取ることもできます。



人は、愛することができないことに、大きな苦しみを感じます。

愛することは生きる意味そのものであり、魂の成長と深くかかわっているからです。



苦しんでいるのであれば、大切な人は今も生きている、想いは届いていると、強く信じましょう。

心から信じられたのならば、苦しみが和らぐはずです。

信じることで、愛することができるからです。

愛することができない苦しみから、解放されるからです。



信じることで、つながりを取り戻しましょう。

向こうから届いている愛により、魂は癒されて、苦しみは和らぐでしょう。