2023年9月10日日曜日

苦しみがあるところに学びがある



生まれる前にも生があり、死んだ後も生は続いている。

少なくても私の中では、これは動かしがたい事実となっています。

けれども、生まれる前のことを、思い出すことはできません。



自我が未発達な幼少期には、魂の記憶を思い出せる可能性があります。

生まれる前のことをスラスラと話して、お母さんをびっくりさせるお子さんもいます。

親を選んで生まれて来たと話すお子さんも、少なくありません。




私が親を選んだ理由は何だろうと、ふと考える時があります。

両親2人とも宗教に関心がなかったのも、1つの理由かもしれません。

白紙の状態だったので、抵抗なく霊的真理を受け入れることができたと思います。




生まれる前にいた世界は、極めて快適です。

肉体から生じる、苦しみや痛みがありません。

食べて行くために、働く必要もありません。

周囲にいるのは自分と似通った人たちばかりなので、人間関係で悩むこともありません。




そんな快適な世界を離れ、生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

地上でしか経験できないことを通して、足りない資質や知識(叡智)を身に付けるためです。




地上でしか経験できないものに病気があります。

病気になって、生き方が変わる人がいます。

仕事人間だった人が、家族を大切にするようになったり、自分にしか関心がなかった人が、周囲のために何かを始める人もいます。

そんな人たちは、苦痛を味わうことで魂が目覚め、言葉にならない大切なことを学び始めたと考えられます。




私事ですが、17年前に突然ヒーリングの力が出現しました。

望んでいたわけでもなく、そんな力が存在することすら知りませんでした。

力の正体を知りたくて探していたところ、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会いました。

出会った直後に、それまで経験したことのない出来事が起きました。

事態が悪化して行く中で、因果律の働きを学んで、原因の全てが自分にあったことに気付きました。

それにより、運命を呪ったり、何で自分だけがと憤りを覚ることはありませんでした。

明日が見えない日々の中で、「乗り越えられない困難や障害は自分に起きない」という真理にすがりつきました。

それにより、もうだめだと投げ出さずに済みました。

学んだことで、無用な苦しみから免れていたのです。




人生を変える3つの出来事が、わずか1ヶ月の間に立て続けに起きたので、これは偶然などではなく、目的があって計画的に起きていると思いました。

頭でいくら考えても解決する手段が見つからない最悪の出来事は、魂を目覚めさせ、大切なことを学ぶための触媒となっていました。

学びに必要な出来事が、最適のタイミングで起きていたのです。





小学生をいきなり大学に入れたらどうでしょう?

あるいは、大学生を小学校に入れたらどうでしょう?

混乱を招くのは、目に見えています。

両者とも学ぶべきことを学べずに、無駄な時間を過ごすことになります。

適切に学ぶためには、計画が必要なことは言うまでもありません。




人生の学びも同じです。

自分に足りないものを手に入れるために必要な出来事が、最適のタイミングで起きるように計画されています。

もし、計画などなく、偶然に支配されていたら、どうなるでしょう?

個々の成長に必要のない出来事ばかりが起きたり、必要な出来事が起きない不合理な人生となってしまいます。




学校での学びは画一的です。

そのために、与えられた課題を簡単に解ける人もいれば、難しくて解けない人もいます。

人生での学びは、完全な叡智(神)によって計画されています。

どんなに難しく思えても、どうにか乗り越えれる試練しか与えられません。

学び成長することを望んでいる神が、サイコロを振るようなことは絶対にしません。




「何のために勉強するの?」

子供にこう聞かれたら、「自分の将来のため」と答える人もいるでしょう。

人生の学びも同じです。

地上で手に入れたものは、次の世界で活かされます。

自分を活かせるようになりたいという願望があり、そのために必要な資質を手に入れようとする意志があったからこそ、地上に生まれて来たのです。




シルバーバーチの霊訓に、こんな1節があります。

ある段階以上に進化すると、憎しみを抱かなくなります。愛だけを抱くようになります。苦しみを感じず、幸せばかり感じるようになります。難しいことですが真実です

苦しみを感じない人であれば、地上に生まれる必要はないと考えられます。

もし、苦しみを感じるのであれば、どこかに不完全(未熟)な部分があるはずです。

不完全(未熟)な部分が地上で表現されると、因果律の働きによって、苦しみや痛みを伴う事象が起きると考えられます。

それにより、自分の不完全(未熟)な部分に気付くことになります。




私たちは、完全に向けて変わり続けて行く存在です。

苦しみを感じるのであれば、変らなければいけない不完全(未熟)な部分があると考えられます。

学び変わることにより、苦しみから解放されるはずです。




8 件のコメント:

加藤 明 さんのコメント...

イクミ さま 

初めてコメント致します。

前回の記事に、次のような文章がありました。

「地上にいると全体が視えなくなってしまうために、自分さえ快適に暮らせれば良いと考え、物的なものを追い求めてしまいます。その考えは自然法則の働きに反しているので、因果律の働きによって、苦しみや痛みを伴う事象が起こります。昨今の異常気象や自然災害は、人間が過った生き方をして来たことに対する結果です。地球全体で考えない限り、状況は悪化して行きます。」

そして、今回の記事のタイトルは「苦しみがあるところに学びがある」ですね。

地球は、感染症、戦争、異常気象によるかつてない規模の自然災害の連発で、私たちに早急の学びを迫っているように感じられます。私たちが一番に学ぶべきことは、個人的にも世界的にも、唯物的な利己主義では立ち行かない、ということに尽きると思うのですが、今後の展望は、わたしたち一人一人が、このことをどこまで深く自覚し唯神的な利他主義を実行できるか、にかかっているものと思います。

〜〜〜〜〜

私は、以前に、「人は動物を食べる生き物ではない」という、こちらの記事に出会って以来、折々に覗くようになりました。いつも心に響く有益な記事に感謝致します。また、変わらぬ温情と誠意に満ちた、無代のヒーリング活動にも、敬服しております。

私は、スピリチュアリズムとヴィーガニズムの普及を願って、著述や翻訳をしている、果物が主食のヴィーガンです。私も「昨今の異常気象や自然災害は、人間が過った生き方をして来たことに対する結果」と痛感しておりますが、食事の誤りこそ「過った生き方」の最たるもの、個々の病気はもとより、コロナのような感染病や異常気象・自然災害の最大原因、と感じてきました。去年の暮に、そうした思いを込めて綴った本、『植物食の偉人たち』(でくのぼう出版 https://yamanami-zaidan.jp/products/book/vegan)を、出版することができました。関心があれば、進呈させて頂きたいと思いますので、お知らせ下さい。

イエスも在世中、動物愛護と植物食の大切さを、諄々と諭しておりましたが、ローマ帝国によるキリスト教弾圧と国教化の過程で、それらの教えは削除されたまま、現在に至っております。そのイエスの元々の教えを記したと言われる、『The Gospel of the Holy Twelve(12聖徒による福音書)』の冒頭5章までを、去年の夏、「サムライ・平和」20号(でくのぼう出版)誌上で紹介解説しましたが、そちらの雑誌と、 エラ・ホィーラー・ウイルコックス著『ニューソートの神髄』(ナビ出版 絶版)もお送りし、お読み頂きたいと思っております。(ウイルコックス夫人はニュー・ソート運動のスターであると同時に、ニューヨーク心霊協会の設立に加わったり、フランスのスピリチュアリスト、レオン・ドゥ二の著書の英訳をするなど、スピリチュアリズムの普及にも貢献した才媛でありました。)尚、私のスピリチュアリズム関連の翻訳本では、ホワイト・イーグル霊の専属霊媒だったグレース・クック女史による『アメリカ大陸の太陽人たち』(でくのぼう出版)がございます。

19世紀、伝統的なキリスト教に対する反動的な運動として始まったニュー・ソート(主な目的は、言葉・思考の霊性と創造性を知らせること)とスピリチュアリズム(主な目的は、生命の永遠性と一体性を知らせること)、更に同時期に開始された植物食 推進運動(人間にとって自然な食物とは何かということと、食の神聖性を知らせること)、この三つは共に、私の知らされているところでは、霊界のイエス主導による人類改善運動だったのです。

今後も折々に、イクミさまの記事で、心の調律をさせて頂きたいと思っております。対面での講話など活動の幅を広げられている由、見えざる世界からの応援も、いっそう盛んになりつつあるように感じます。ますますのご活躍を期待しております。

イクミ さんのコメント...

加藤 明様

初めまして、イクミです。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

前回の内容共々、賛同していただけたようなので、大変うれしく思います。
今年の夏は有史以来、最も暑かったようです。
これだけの結果が既に現れているのにもかかわらず、多くの国や人はそれほど危機感を抱いていないように見えます。
人類全体に「ゆでガエル現象」が起きていると危惧しています。
しびれを切らした霊界が、グレタ・トゥンベリさんのような人を地上に遣わしたような気がしています。
一向に歯止めがかからないことを想定して、このブログにも書きましたが、コロナウィルスの流行のように、強制的に人間の活動を抑える手段が、自然法則の中に仕込まれているのかもしれません。
発動されないことを祈るばかりです。

加藤様も、今起きている戦争に憂いを抱いているとお察しします。
唯物主義と利己主義の極みであり、他人事ながらプーチン大統領の行く末を心配しています。
これ以上の罪を重ねないで欲しいと思わずにいられません。

地球環境の悪化、戦争、飢餓、動物虐待などの問題に接する度に心が痛みます。
何とかできないかと思うのですが、自分にできることと言えば霊的真理を伝えることしかないという結論に至ります。
そのようなわけで、このブログを続けている次第です。

加藤様は、著述や翻訳活動によって、スピリチュアリズムとヴィーガニズムの普及に貢献されています。
非常に価値ある取り組みであり、霊界からの強い働きかけを感じます。
特に、食事が現代社会に与えている悪影響について、啓発を行っていることに敬意を表します。
「ニューソートの神髄」や「アメリカ大陸の太陽人たち」など、興味深い文献を提示していただき、感謝いたします。

イエスが動物愛護と植物食の大切さを語っていたとは知りませんでした。
シルバーバーチの霊訓には、アッシジの聖フランチェスコが先頭に立って地上に働きかけていると書かれていましたが、さまざまな運動の頂点にやはりイエスがいるのですね。

加藤様は、多くの人が知らない、霊的に価値のある知識を豊富にお持ちですので、これからもご教示いただければ幸いです。
生涯をかけて、地道な活動をされている方がいることを知り、勇気と力をもらいました。

加藤 明 さんのコメント...

イクミ さま 

おはようございます。
グレタ・トゥンベリさんも、当然と言えば当然ですが、ヴィーガンと聞いております。今後の活躍が楽しみです。
本当に、こうした「地球環境の悪化、戦争、飢餓、動物虐待などの問題に接する度に心が痛み」無力感を覚えますが、自分にできることをするしかありませんね。私もシルバーバーチたちに励まされつつ、「たった一人でも」元気にしたり啓発したりできたらという思いで毎日を送っています。

イエスについてですが、イエスが十字架刑に処されることになったそもそもの原因も、イエスが神殿の燔祭(動物の生贄)を避難したことが元だった、と言います。その部分について、「12聖徒による福音書」から紹介致します。この書の訳注の大半は、訳出した際に霊感的に書き、必要に応じて、後で事実関係など調べて補足したものです。


The Gospel of the Holy Twelve (12聖徒による福音書 翻訳・注解: 加藤 明) 

第71章 
<イエス、神殿を浄められる>
1 ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスは再び、ベタニアからエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを、ご覧になった。

2 イエスは7本の縄をより合わせて鞭を作ると、彼らをすべて境内から追い出し、羊や牛や鳩を解き放してやり、両替商の金をまき散らし、その台をひっくり返された。

3 そして、彼らに言われた、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家とするな。『わたしの家は、あらゆる民族のための、祈りの家と呼ばれる』と書かれていないだろうか。それなのに、あなたがたは,それを強盗たちの巣にしてしまった。あらゆる種類の嫌悪すべき事柄で、いっぱいにしてしまった!」

4 そしてイエスは、誰にも、神殿で、動物の血の入った器を運んだり、どんな動物であれ殺すことを、お許しにならなかった。弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

【訳注】神殿の境内で動物たちが売られていたのは、神への供物(くもつ)として動物が捧げられていたからである。神を崇めたいと思う人々は、生け贄にする動物を、神殿境内の動物商から買うか、自ら連れて来るかしなければならず、いずれにせよ、半強制的に、動物たちの虐殺に加担させられていたのである。収入の多い者は大きな動物を、より少ない者はより小さい動物を、捧げる習慣になっていた。大きな動物を捧げれば捧げるほど罪が軽くなる、と教えられ、大半の無知な人々は、聖職者たちの言葉通りに信じて、この忌(い)むべき習慣に従っていたのである。
 
 神殿の中には「聖所」、更に奥に「至聖所」と呼ばれる場所があったが、その聖所の入り口の手前に、屠殺場(とさつば)と供物台があり、ここで、祭りの日ばかりではなく、毎日朝夕に、屠殺が繰り返されていた。(神殿図参照 http://stonepillow.dee.cc/temple.pdf)

 生け贄として捧げられた動物の一部は、屠殺されて「燔祭(はんさい)」とされたが、また同時に、聖職者たちの食物となっていた。言うまでもなく、すべての生け贄が屠殺されたわけではない。聖職者たちは、屠殺されなかった残りの動物を、家畜業者や動物商たちに、売り返して蓄財していたのである。また、当時のユダヤ教の神殿でも、ローマ帝国で国教とされて以来の、キリスト教の教会でも、それらを支えていた高額の寄進者たちの大半は、動物たちを利用して儲けた人々であった。言わば、 聖職者たちと動物業者たちは結託して、無垢で無力な動物たちを犠牲にして、私腹をこやし、社会的地位や権力を手にしていたのである。
 
 それだから、動物の生け贄や肉食を良しとしないイエスの教えは、聖職者たちにとっても動物業者たちにとっても、彼らの富と権力への脅威であり、なんとしても抹殺しなくてはならない、筆頭事項であった。イエス本人の抹殺計画も、こうした事情から、加速されていったのである。
 
 また、神殿の境内に両替商がいた理由は、当時のユダヤはローマの支配下にあり、通常の生活では、ローマの貨幣を使用していたが、神殿内では、ローマ帝国が発行したデナリ貨幣ではなく、神殿貨幣とされていたシケル貨幣を用いなければならない、という規定があったためである。その為、参拝者は、捧げ物を買うにしても、賽銭を捧げるにしても、一旦、デナリ貨幣をシケル貨幣に両替しないといけなかったのである。その規則に乗じて、両替商は、両替をする際に、高額な手数料を取っていた。まさしく、体(てい)よく、人々から「強盗」していたのである。

 2〜4節に描かれたイエスの言動から、「祈りの家」であるべき神殿が、殺生と強盗の巣窟(そうくつ)と化していることに対して、イエスの義憤が如何に大きく激しいものであったかが、窺い知れるが、聖職者たちは、この事件によって、イエスを十字架につけることを最終決定したのである。

 なお、当時の民衆が、聖職者たちの言葉通りに信じて、動物たちの虐殺に加担させられていた事情は、現代社会においても、形を変えて繰り返されている。大半の現代人は、「動物性食品を摂らないと健康になれない」と宣伝している動物食品業界と、その支援者と化しているような医学界・栄養学界・製薬業界の言葉に洗脳されて、動物たちの虐殺や搾取に加担し、彼らの蓄財に貢献しているのである。

<人体という神殿>
5 すると、ユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを、私たちに見せるつもりか?」。イエスは答えて言われた。「再度、あなたがたに言っておく、この神殿を壊してみよ、三日で建て直してみせよう」 。

6 そこでユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのに、四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」。 しかしイエスは、ご自分の体という神殿のことを、言われたのであった。

【訳注】周知の通り、ここでイエスは、自分の死後3日目に、体が復活することを指して、「神殿を3日で立て直す」と言われたのである。

 「人体は神殿である」ということを、イエスは、49章<人体こそ、まことの神殿>に於いても教えられた。本章に於けるイエスの「神殿浄化」の言動は、同時に、人体という神殿浄化を促す教えでもある。

 49章<人体こそ、まことの神殿>の訳注でも解説したとおり、「人体」には、肉体はもとより、肉体以上に高速で振動している、諸霊体(幽体、精神体、原因体、本体)も含まれている。この人体全体の状態を決定づけている基本的要因は、食物と感情と思考なのである。

 また、より高次のものは、低次のものから影響を受ける。肉体的に何を食べ何を行っているかによって、感情を反映する幽体や、思考を反映する精神体など、高次の諸霊体にも、違いが現れてくる。聖職者たちは、肉食と屠殺を習慣化していたために、その心は頑なになり、肉食獣よろしく、尊大で憐れみを知らない人間に成り果てていたのである。

 イエスは、「動物商と両替商に、鞭を振るい、神殿から追い出す」という、強烈な印象を与える模範をもって、実際の神殿であれ、人体という神殿であれ、浄化の対象として最も心すべき事柄を2項目、暗示された。「殺生(せっしょう)」と「貪欲」である。

 追い出された動物商は「殺生」を象徴している。無力な動物たちを捕まえ、その自由を奪い、乳や卵を搾取し、挙句の果てに虐殺し、その肉を食べる、と言う行為は、動物に直接手を下すか否かにかかわらず、殺生に加担することに他ならず、人体という神殿を、動物の死体でいっぱいの墓場にすることなのである。そのようにして、神聖な神殿であるべき人体が、陰惨な墓場になればなるほど、神の住まう領域は減っていき、種々の妄想や霊界の邪霊たちという、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の住まいと化して、その低劣な影響故に、心身共に健康は損なわれ、正しい霊感が与えられないが故に、運命も悪くなってしまう。

 追い出された両替商が象徴しているものは「貪欲」である。貪欲で強欲な者たちは、明らかにそれと分からないかもしれないが、 詰まるところ、強盗を働くようになるのである。また、たとえ神殿の中にいても、神霊的な価値に目覚めることはできないし、ましてや、自分自身が神殿である、ことなど、決して認識することができない。彼らの心は、唯物的な価値の象徴である、金銭への執着でいっぱいで、神殿内の両替商がそうであったように、日がな一日、儲けることばかりに心を砕き、飽くことなく金勘定に耽っているからである。しかし、詐欺して強盗したような金銭では、決して幸福になることはできない。人を真に幸福にし豊かにするものは、神に倣った、愛に他ならないからである。

 人体という神殿を、神の祝福にあずかり得るように、神聖に保持しようと願うなら、自分自身の心と生活から、イエスが示したように、断固たる態度で、「殺生」という動物商と、「貪欲」という両替商を、追い出さなくてはならないのである。

7 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。

8 けれども、律法学者や聖職者たちは、イエスの言動を見聞きして驚き、どうかしてイエスを殺そうと計った。あらゆる人々が、イエスの教えに耳を傾けるようになったのを見て、恐れたからである。

加藤 明 さんのコメント...

イクミ さま 

漢字の間違いの訂正です。  避難 ➡︎ 非難
(イエスが十字架刑に処されることになったそもそもの原因も、イエスが神殿の燔祭(動物の生贄)を避難したことが元だった、と言います。)

イクミ さんのコメント...

加藤 明様

おはようございます。

貴重な文献を提示していただき、ありがとうございます。
イエスが神殿から両替商を鞭で追い払った事実は知っていましたが、このようないきさつがあったとは知りませんでした。
自分のご利益のために、罪のない動物の血が流されるのを、イエスは見ていられなかったのですね。
そして、卑しい手段で私腹を肥やしている人たちを、どうしても許せなかったのですね。
寛容の精神を説いていたイエスが、ここまで怒りをあらわにしたのはどうしてなのか疑問に思っていましたが、これで分りました。

現代の人の心の中にも、「動物商」や「両替商」が巣食っていると思います。
密室で殺される動物たちの悲鳴を無視し続けています。
富を手に入れた人たちが崇められ、貧しい人たちが忘れ去られています。
今も昔も変わらないのですね。

霊界の人たちは、その姿を目の当たりにして、心を痛めていると思います。
唯物主義や利己主義が過ちであり、いかに割の合わないのかを知ってもらうために、霊的真理を広めようとしているのですが、真理を受け入れるのには時期があり、歯痒く思っていることでしょう。

グレタさんもヴィーガンなのですね。
昔に比べればヴィーガンも認知されて来ましたが、実践している人は日本ではまだまだ少数ですね。
毛皮のコートを着る人がめっきり少なくなったように、これから若い人たちを中心に、肉を食べなくなる人が増えて来ると信じています。

匿名 さんのコメント...

昭純

匿名 さんのコメント...

いくみさんへ

匿名 さんのコメント...

昭純