2022年6月26日日曜日

霊的につながっている

            

当たり前のことですが、私たちは食べ物を摂って生きています。

それがエネルギーに変わり、肉体を動かす力となっています。

食べないと、力が出ないのは、誰もが経験していることです。



人間は肉体だけの存在ではありません。

精神が存在しています。

精神が命令を出して、肉体を動かしています。



食物を食べないと、精神が活動できないわけではありません。

むしろ、空腹の時の方が清明になるような気がします。

お腹いっぱいになると、逆に働きが鈍くなります。

精神は、肉体とは別系統のエネルギーによって活動していると思われます。



精神の上位には、生命の本質である「魂」が存在しています。

魂は意識そのものです。

そこから思念が生じています。

魂で生じた思念は、精神で具体化されて、肉体で具現化されます。

それを繰り返しながら、地上の人生は紡がれて行きます。



思念が生まれなければ、何も始まりません。

精神活動の元となるエネルギーは魂から供給され、思念は地上での活動の起点になっていると考えられます。



死んで次の世界に行くと、肉体はなくなります。

五感は消失し、霊的感覚のみになります。

そこでは、言葉を介さずに、思念のやり取りをしています。

想ったことが、齟齬なく、直接伝わります。



一方、地上にいる私たちは、言葉でコミュニケーションしています。

言葉の実体は思念です。

思念を言葉に変換し、それを相手に伝えています。

伝えられた言葉から相手の思念を類推しています。

言葉を介しているので、どうしても齟齬が生じます。

私たちは、思念を媒体を通して伝達しなければならない、煩わしい世界にいます。



思念は周囲に放たれています。

しかし、五感を通してコミュニケーションをしているため、霊的感覚は極めて鈍くなり、思念は認識されなくなります。

それでも、放たれた思念は誰かに受け取られ、少なからず影響を与えています。

もらい泣きをしたり、つられて笑ったりするのも、そのためです。

人は、思念というエネルギーを放ち、受け取りながら生きています。

多くの人は、そのことを意識していません。


今、世界中の人と、メールでやり取りができます。

インターネットという回線でつながっているからです。



それぞれの人は、独立しているように見えます。

それは肉体の話です。

インターネット回線ではありませんが、人と人は目に視えない霊的なつながりがあります。

そのために、思念のやり取りが可能になります。



身体には37兆個もの細胞があります。

どの細胞にも同じ血液が流れています。

個々の細胞の形態は違いますが、全身を構成する1部には変わりありません。



地上には、無数の生命体が存在しています。

種は違っても、同じエネルギーが流れて、生きています。

違う細胞が集まって人体が構成されているように、さまざまな生命体が集まって全体が構成されています。

それぞれの細胞に役割りがあるように、それぞれの生命体には、全体に貢献する何らかの役割があります。

密接に関連しながら共存しています。



極めて精緻な生命体が、偶然によって生まれたとは、とても思えません。

何者かが、何らかの意図を持って創ったと考えた方が、はるかに自然です。

創った存在を、神と呼ぶことにします。



宇宙を創ったのは神です。

神的エネルギーによって、宇宙は創られています。

宇宙全体が神であり、神は宇宙全体です。

人間は、宇宙を構成する限りなく小さな一部分です。

従って、私たちも神的エネルギーによって創られています。



私たちの身体は、エネルギーでないと言う人もいるでしょう。

物質もエネルギーです。

生命の本質である魂も、同じくエネルギーです。

全てが神的なエネルギーです。

しかし、肉体と魂では波長が違います。

魂が目には視えないのは、波長の短いエネルギーだからです。



魂から生じる思念も神的エネルギーであり、神性を帯びています。

神性を一言で表現するならば「愛」です。

魂から生じたエネルギーは、本来は愛を表現するものです。

けれども、表現するためにある精神や肉体が未熟なために、歪められてしまいます。

怒りや憎しみも、媒体により神的エネルギーが歪められたものです。



愛を表現することによって、調和が進んで、全体が1つになって行きます。

愛に反する怒りや憎しみを表現することによって、バラバラになって行きます。

神の目的は、物的にバラバラになった全体を、愛により1つにさせることだと考えています。



人から生じている思念はさまざまです。

霊界では、似通った思念を放つ人たちと生活しています。

地上でも、同じような思念を放っている人同士が引き付けられ、集まる傾向があります。



人と人は、エネルギーのやり取りをしています。

そのことを強く感じられるのが、ヒーリングをしている時です。

手を触れながらする時もありますが、目の前にいない人をすることの方が多いです。

1面識もない人にヒーリングの力は届きます。

今でも、その理由ははっきりと判りませんが、こう考えています。

人と人はつながっていて、意念を向けた人との間に関係性ができて、力が届けられる。



自分も人も動かすエネルギーである思念も同じです。

目に視えませんが、人から人へと伝わっています。

生命はつながり、巨大なネットワークを形成し、その中でエネルギーのやり取りをしています。

霊的に1つなのです。






2022年6月12日日曜日

真の幸せ


「世界幸福度ランキング」と言うものがあります。

これは自分の幸福度を最低を0、最高を10として数値で評価し、その平均値と独自の指標によって決められます。

1位はフィンランド(7.8)です。

フィンランドですが、一人当たりのGDPは日本の1.25倍で経済的に豊かな国ですが、残業はなしで、午後4時には帰宅するそうです。

因みに、日本は54位で(6.0)、最下位はアフガニスタン(2.4)だそうです。




ヒマラヤ山脈のふもとにあるブータンも、世界一幸せな国として知られています。

何で幸せを感じるのかと聞いたところ、雨風をしのげる家があり、食べるものがあり、家族がいるから幸せだと、多くの国民が答えたそうです。

幸せとは何だろうと考えてしまう時があります。

気に入ったものを買ったり、おいしいものを食べたりすると幸せを感じます。

ただ、その幸せは一過性であり、しばらくすると感じられなくなります。

お金で買える幸せは、長続きしないようです。

足りていることに感謝するだけでも、十分に幸せは感じられます。




そのブータンにも近代化の波が押し寄せています。

いろいろな物が入って来るようになり、人々の生活は大きく変わって来ました。

あれだけ美しい国だったのが、今は大気汚染に悩まされているようです。

お金や物を欲しがるようになると、いつも足りていないような気がしたり、人と比べたりするようになり、今までのような幸せを感じられなくなってしまいます。

大切なものを見失ってしまわないで欲しいです。




将来に不安を感じて、とにかく働いて、お金を貯めておこうと思っている人も少なくありません。

フィンランドなど北欧の国では、税金はかなり高いのですが、社会保障が充実していて、将来の不安が少ないようです。

どちらが正しいとは言えませんが、不安が大きくなると、精神的な余裕が失われて、幸せを感じられなくなってしまうと思います。




生きていて不安に思うことは、大きく2つあると思います。

それは、健康の不安と、お金の不安です。

いつ、どんな病気になるのか判りません。

お金がなくなると、生活して行けません。

どちらも苦しい思いをするので、不安を感じている人は少なくありません。




霊的真理の中に、その不安を解消する言葉があり、信じるようにしています。

「正しい生き方をしていれば病気にはなりません。病気とは根源からいえば不調和、不協和音、つまり神の摂理に適った生活をしていないことから生じています。」

正しい生き方とは、摂理に適った生き方と考えられます。

適切な食事をして、十分な睡眠を摂り、適度な運動をするのは、摂理(生物学的法則)に適っていて、健全な肉体を保つために大切です。




けれども、人間は肉体だけの存在ではありません。

精神があり、その上位に霊が存在しています。

霊から精神に司令が行き、精神が命令を出して肉体によって表現される、これが地上の人間の本来の姿です。

ところが、精神上に形成されている自我の働きが強くなると、そうは行きません。

本当の自分(霊)が望んでいることが、自我の働きで抑え込まれてしまい、行動に移せないことがあります。

あるいは、本当の自分が望んでいないことを、自我の働きにより、してしまうこともあります。

その状態が続くと、霊、精神、肉体の3者の間に不調和が生じます。




私は動物を食べません。

その理由は、殺される時の動物の恐怖や哀しみを想像すると、食べる気になれないからです。

そんな私が食肉工場に勤めて、毎日のように豚や牛や鶏を屠殺し続けたのなら、すぐに具合が悪くなってしまうでしょう。

本当の自分(霊)がやりたくないことをし続けていると、霊と精神と肉体の間に不調和が生じて病気になると思います。

ほとんどの人がそうでしょうが、人を傷つけたくない人が、戦争に駆り出されて、人を殺してしまうと、やはり不調和が生じて病気になると思います。

正しい生き方、本当の自分(霊)に忠実な生き方をしていないと、病気になってしまう可能性があります。




病気になると苦痛を感じます。

その苦痛が、奥で眠っている霊(魂)に働きかけて、目覚めさせます。

魂が目覚めると、強かった自我の働きが弱くなります。

自我によって隠されていた、本当の自分の想いに気付いて、それに従うようになります。

霊が優位になり、調和が取り戻されます。

3者の不調和によって病気は生じますが、同時に本来の姿を取り戻すために必要なものとして存在しています。

本当の自分の想いに正直に生きていると病気になりにくいのですが、それが出来ないのが現代社会です。

言いたいことを言えず、やりたくないことをやらざるを得ない、そんな生活をしているために、病気になる人がどれほど多いのでしょうか。




本当の自分(霊)の想いに、忠実に生きなければならないと思います。

自我を鎮めて、本当の自分の想いに耳を澄まし、訴えているものがあれば、ためらわずに表現をしましょう。

何を望んでいるのか判らないと言う人は、心が悦ぶようなことを見つけて下さい。

霊的真理を知らない人に知ってもらうと、私は悦びを感じます。

どうしても見つけられない時は、背後霊に出会えるように祈りましょう。

悦びを感じていれば、3者の調和は保たれ、病気にならないと思います。

それでも病気になったのであれば、学びや成長のため、あるいは償いのために、予め決められていたことかもしれません。




もう1つは経済的な不安です。

霊的真理にはこう書かれています。

「魂が正常なら、つまり魂と精神と身体が調和して機能している限り、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。」

本当の自分の想いに忠実に生きていれば、必要な物は手に入ると解釈しています。




私たちには、神が内在しています。

そのため、誰かのために、何かをしてやりたいという、潜在的な欲求が備わっています。



一方、地上では生きて行くために、食べて行かねばなりません。

そのために働かなければいけません。

働くとは、人や社会や家族のために、何らかの奉仕をすることです。

元々、魂に備わっている、誰かのために何かをしたいという欲求を素直に表現すれば、働くことにつながります。

その対価として、地上では金をもらうことができます。

それによって、物的に必要なものが手に入ります。




世の中には、対価が得られないで、働いている人もいます。

そんな人には、霊界の働きも手伝って、地上の人の善意という形で、生活に必要なものが手に入ります。

シルバーバーチはそのことを「神の補給路」と言っています。




誰かのために、何かをするのは、摂理に適った生き方です。

魂、精神、肉体の調和は保たれて、病気にもならず、生きて行くのに必要なものが手に入るようになっています。

ところが、人は少しでも豊かな暮らしをしようとします。

そうすると、たちまち自我の働きが強くなり、3者の調和が乱れ始めます。

金銭にこだわり、利己的な生き方をするようになると、因果律の働きによって、生活が破綻して行く方向に向います。




無欲で、誰かのために何かをすることが、霊的に最善の生き方です。

健やかで、悦びを感じながら生きることができます。

しかし、肉体を持つと、どうしても自分や物質に意識が向ってしまいます。

たくさんのお金を持ったり、消費することに幸せを感じるようになってしまいます。

その欲求に打ち克つことが、この世に生まれて来た目的の1つと考えられます。




対価を求めないで、誰かのために何かをすることは難しいものです。

つい見返りを求めてしまいます。

落ちているゴミを拾う、お年寄りに席を譲る、困っている人がいれば声をかける、どんな小さなことでも良いのです。

積もり積もれば、大きなものになって行きます。

地上の誰にも評価されなくても、自然法則の働きにより、霊的な対価が支払われています。

お金を蓄えてもいずれ手放すことになります。

けれども、奉仕に支払われる対価は魂に蓄えられて、失われることは絶対にありません。

魂を豊かにして、真の幸せを感じることができます。




この世しかなかったとしたら



神様が、ある人の前に現れました。

そして「願いを1つ叶えてやる」と言いました。

その人は大喜びし、何にしようかいろいろと考えました。

大金持ちになるのも良いが、死んでしまったら終わりだ。

そこで「ずっと生きていたい」と答えました。

すると神様は願いを聞き入れて、特別に死なないようにしました。

ずっと生きていられると思うと、うれしくてたまりません。



それから数年後のことです。

友達の1人が死にました。

「生きていられなくて可哀想だ」と思いました。



数年後に、また友達が死にました。

また、数年後に友達が死にました。

自分のことを判ってくれる人が、一人また一人と死んで行きます。

「長生きをすると寂しくなる」とつぶやきます。



生きて行くためには、食べて行かなければいけません。

来る日も来る日も働き続けます。

そして、いろいろな人と、付き合いもしなければいけません。

生き方や考え方が違う人たちと一緒にいるのは、何かと気を遣います。

そして、こんなことを言い始めるようになります。

「生きるのが疲れて来た」



それでも神様との約束は守られます。

同じ日々が繰り返されて、これが永遠に続くのかと思うと、堪らなくつらい気持ちになって来ました。

周りにいる人たちが、安らかな顔で死んで行くのを見るたびに、自分にもこの安らぎが欲しいと思うようになりました。



再び、目の前に神様が現われました。

沈んでいるその人の姿を見て「どうしたのだ?」と尋ねました。

その人は、「長く生きていることに疲れたのです。」と答えました。

神様は「1番の望みを叶えたのに何故だ?」と言うと、その人はこう答えます。

「死があるからこそ、生きていたかったのです。今になってそのことに気付きました。」

神様は「それでは、今一番望んでいるものは何か?」と再び尋ねます。

その人は「死です」と即答します。



これは私が考えた物語です。

日が沈んだら、夜の帳が下りて、休息の時が来ます。

日が沈まずに、昼間が続いたとしたら、ゆっくり休むことはできません。



人生も同じです。

死によって、終止符が打たれなければ、安息はありません。

この世を生き続けなければならないほど、つらいことはありません。



けれども、こんな疑問を持つ人もいるでしょう。

死によって終止符が打たれたとしても、安息の世界は本当にあるのだろうか?

残念ながら、次の世界が存在しているのを、客観的に証明することはできません。



この世しかなければどうでしょう?

人生は1度きりです。

苦しいことはことごとく避けて、楽しいことだけをしていれば良いような気がします。

ところが、人は苦しいことがあっても、逃げずに乗り越えようとします。



アスリートは、厳しい練習に耐えて成績を伸ばして行きます。

人は、苦難を乗り越えて行く中で成長して行きます。

苦しくても乗り越えようとするのは、生きる目的が成長することにあるからです。

楽しいことばかりしていても、どこかに虚しさが残るのは、成長していないと感じているからです。



「後悔しないように生きよう」と、ほとんどの人は思っています。

どうしてなのでしょうか?

この世しかなければ、どんな生き方をしたとしても、死んだら全て終わりです。

後悔しても、そこまでです。



現実は、死んだ後も生は続いています。

しばらくすると、目の前にこの世の全人生が映し出されます。

自分の行いと共に、その時の想いを振り返ることになります。

本当の自分(魂)は、そのことを知っていて、その時に後悔するのを避けたいからだと思います。



「悪いことをしてはいけない」と思うのはどうしてでしょうか?

道徳的に、倫理的に、あるいは親から言われたので、そう思うのではありません。

自分の中にある良心が、そう訴えています。

良心に逆らって行動すると、因果律が働いて、苦痛を伴う出来事が起きます。

この世で何も起きなくても、次の人生で償いをすることになります。

悪いことはしたくないのは、本当の自分がそのことを知っているからだと思います。

次の世界があることを、奥底にいる本当の自分(魂)は自覚しています。



もし、この世しかないのであれば、こう書くでしょう。

生命とは肉体です。

死ぬと無になります。

神など存在しません。

人生は偶然によって支配されています。






地球は太陽の周りを正確に回っています。

水は100℃で沸騰して気化します。

そのことが不変なのは、自然法則の働きによるものだからです。



自然法則は、無限に存在します。

全ての自然法則が、偶然できたと考えるのは、あまりにも不合理です。

それは、目の前にある車が、偶然できたと考えるのと同じです。

車が人間によって造られたように、自然法則も何者かによって創られたはずです。

車は移動手段として造られました。

自然法則も何らかの目的があって創られたはずです。



前述の自然法則は、物質的なものを支配しています。

人生は、それとは別の次元の自然法則によって支配されています。

生まれるのも、死ぬのも、喜ぶのも、悲しむのも、全て自然法則の働きによるものです。

偶然の入り込む余地は、どこにもありません。

自然法則に支配されている私たちは、創られた目的に従って生きています。



「偶然」ほど、曖昧で都合の良い言葉はありません。

分からないことは、偶然として片付けてしまえるからです。

サイコロを振って同じ目が出たら、偶然と思うでしょう。

同じ目が出たことに注目するからそう思えるのです。

それ以外の目が出るのと、何ら違いはありません。

同じ目が出るのが特別ならば、それ以外の目が出るのも特別です。



意識したわけではありませんが、同じ目が出るようにサイコロを振ったから、同じ目が出ただけです。

起こり得る全ての事象の中の1つが起きたことを特別に感じ、その理由が判らないと、人は偶然として片付けてしまいます。

アインシュタインではありませんが、神は絶対にサイコロを振らないのです。

サイコロを振っているのは人間です。



世の中には、生まれて直ぐに亡くなる赤ちゃんもいれば、115歳を過ぎても生き続ける人もいます。

もし、この世だけしかなかったとしたら、生まれて直ぐ亡くなるのは不幸の極みです。

生まれて来た意味は希薄になります。



人間を外見だけで判断するのは浅はかです。

その人の本質を捉えていないからです。

生きた年数で、その人の幸、不幸を判断するのは、もっと浅はかです。



ずっと続く生命の物語の1章として、この世の人生があります。

短いこの世の人生は、無数にある選択肢の中の1つです。

その選択をして生まれて来たのです。



自分や周りの学びや成長のために、最善の選択をしたのです。

偶然ではありません。

不幸になるためではなく、その先で幸せを感じるためです。



学校で習ったことを直ぐに理解して、早く帰るのを許された優秀な生徒がいます。

理解できずに、居残りをさせられている生徒は、その生徒のことをどう思うのでしょうか?

羨ましく思っても、可哀想だとは思いません。


早く逝った人のことを、可哀想だと思うのは、それと全く同じです。

学ぶことが少ない人ほど、この世にいる時間が少なくなり、早く帰れるのは当然です。

居残りする理由など、どこにもないのです。



この世しかないと思うと、不幸や不運という言葉に苦しみます。

その苦しみは、間違いを正すために生じています。

死は肉体に限ったことであり、生は続いています。

次の世界は、この世より遥かに快適で、悦びに満ちた世界です。

そこで変わりなく生き続けます。

真実が信じられないと、因果律が働いて、苦しみが生じます。

苦しみより、魂が目覚めて、間違いが正される時が来ます。

直ぐにとは行かないかもしれませんが、真実が信じられるようになれば、苦しみはなくなります。



病気もそうです。

偶然、病気になることはありません。

病気による苦しみや痛みは、奥深いところに働きかけて、魂を目覚めさせます。

エゴから解放され、本来の自分を取り戻し、予定されていた通りに生きて行けるようになる人もいるでしょう。

不幸や不運と思うのは、隠されている意味(目的)に気付けないからです。



次の世界では、悲しい別れも、病気もありません。

地上でしか経験できないことがあり、その経験をしなければ学べないことがあるのです。

経験から学んだように思えますが、学ぶために計画されたことを経験しています。

どれもが自分に必要な経験です。



魂を成長させることが、法則の目的です。

地上の出来事は、次の世界に行って清算されます。

苦しんだ日々、悲しんだ日々は、霊的な学びにつながっていたことがはっきりと判ります。

耐え忍んだ日々は、霊界で成長した悦びとなります。

完全な公正が働いていたこと知り、深く神に感謝するでしょう。



私たちは、この世しか生きられない、儚い存在ではありません。

法則に導かれながら進化している、永遠の存在です。



2022年6月5日日曜日

真実を知ると苦しみから解放される


ここに来てコロナの感染者が減って来たようです。

このまま収束して行くことを願っています。

今から2年前、私たちは戦々恐々としていました。

このウィルスに対する知識が全くなかったからです。



私の家には、はなと言う名の犬がいます。

雷が鳴り出すと、さあ大変です。

落ち着きがなくなり、尻尾が下がってしまい、怖くて仕方がないようです。

雷は自然現象であり、家の中にいれば安全であることを、私たちは知っています。

けれども、はなはそんなことなど知りません。

正しい知識があれば、不安や恐れはなくなり、安心が得られます。



大切な人が死んでしまい、もう会えないと苦しんでいる人がいます。

私たちの本質は霊です。

死とは、窮屈で不自由な肉体からの解放であり、生命は変わりなく存続しています。

死ぬ時まで、親愛の想いがあれば、同じ次元で再会することもできます。

正しい知識があれば、無用に苦しむことはなくなります。



何で自分だけがこんなにつらい思いをしなければならないのかと、苦しい思いをしている人がいます。

そんな人は、起きている結果だけを見て、全てを判断しています。

結果には必ず原因があります。

もし、目の前にモニターがあって、過去の自分をつぶさに観察することができたのならば、憤りは収まるでしょう。

原因をはっきりと知ることができるからです。



他者によって、つらい思いをすることがあります。

時に、憎んだり、恨んだりしてしまうこともあるでしょう。

そうすると、さらに自分が苦しくなってしまいます。

全ての行いは、自然法則によって計られます。

良いことも悪いことも、因果律の働きによって、必ず自分に返って行きます。

(償いがあるのを)知らない人を哀れむことができれば、苦しみは和らぐでしょう。



未知のことに遭遇すると、不安や心配が生じてしまいます。

そんな時、人は知識を得て解消しようとします。

過去の私がそうでした。

大きな不安や怖れに襲われましたが、それを取り除いてくれたのは、「乗り越えられないことは起きない」という真理でした。

偶然は存在しません。

全ての出来事は、自然法則の働きによって起きていることを知りました。

私たちを成長させるために、自然法則は働いています。

良きに計られていることを知って安堵しました。



人は知らないことによって苦しい思いをしていることが多いようです。

苦しみから解放されるためには、真実を知るしかありません。

真実を知った時に、苦しみを乗り越えられ、人は成長していると考えられます。

苦しみは、人を成長させる触媒の役割を果たしていると思います。



何も知ることができないまま、苦しみが続く時があります。

そんな時は、過去の過ちを償っているのかもしれません。

償っている時には、成長は許されません。

知ることができないのは、そのせいかもしれません。

償いは必ず終わります。

その時、苦しみから解放する、教訓を知ることになります。



私たちには成長したい欲求があります。

それは、神(完全)に近づきたいからです。

自然法則の働きにより、私たちは少しずつ神(完全)に近づいています。



神は完全なる叡智です。

全てを知り尽くしています。

神(完全)に近づくためには、より多くの叡智を学ばなければいけません。



地上では、いたるところに、苦しみや悲しみが存在します。

戦争、貧困、差別、貪欲などの悩ましい問題は、叡智を学んでいないために起こります。

無知の結果として生じる苦しみと痛みを経験して学ぶのではなく、初めから叡智を受け入れた方がはるかに賢明です。

そのためには、提示されている叡智を信じなければなりません。

より多くの人が信じ、実践すれば、地上の問題は解消して行きます。



私たちは、限られたことしか知りません。

そのために、不安や心配が生じ、苦しみを伴う出来事が起きます。



私たちは神の一部であり、神の心を持っています。

知識がないのを補うために、自分に顕現している神の心に従えば良いはずです。



全体のことを想う、それが神の心です。

神の心が顕現するように努めれば、多くの苦しみから解放されるはずです。



神は宇宙全体であり、宇宙全体が神です。

全体に奉仕をすることは、神に奉仕することであり、神とのつながりが強まります。

神とのつながりが強くなるほど、霊力(生命力)が魂に流れ込みます。

その力は愛を帯びているので、不安や怖れはなくなるはずです。



人は、自分のために生きているのではありません。

全体のために生きています。

身体の細胞は極小です。

しかし、その1つ1つが明確な役割りを持って、全体のために寄与しています。

人も同じです。

それぞれの役割りがあって、全体のために存在しています。



身体の細胞は独立していますが、同じ血液が流れていて、切り離すことはできません。

それぞれの生命は独立していますが、同じ生命力が流れていて、霊的につながっています。

全生命は一体です。

地上に生まれると、身体しか視えなくなるので、そのことが判らなくなってしまいます。



自分だけに意識を向けていると苦しみが生じます。

全体に意識を向けると、自分を意識することから生じている苦しみから解放されます。



宇宙全体のことなど考えられるはずもありません。

地球全体のことを考えれば良いのです。

全生命は一蓮托生です。

自分だけ、自国だけ、人間だけが良くなることは許されません。

自分のことだけを考えて行動すると、自然法則の働きにより、苦しみを伴う事象が生じるようになっています。

全体のために行動すれば、悦ばしい事象が生じるようになっています。

最も簡単で大切な真実です。



地上では、苦しみを通して真実を知ります。

真実を知るほど、地上の苦しみから解放され、神の心を表現できるようになって行きます。

全体を想う心が発揮されて、世界は1つになって行きます。