2026年8月30日日曜日

永遠の別れはない


ずいぶん前の話です。

入院していた祖母の容態が悪くなったとの知らせがあり、仕事が終わると急いでそちらに向かいました。

新幹線を乗り継いで5時間かけて病室に到着すると、直ぐに心電図のアラームが鳴り出し、数分後に亡くなりました。

待っていてくれたんだと思いました。

けれども、何の言葉もかけられませんでした。

かけるとしたら「ありがとう」だったでしょうが、別れを告げるような気がするので、やはりできなかったと思います。



永遠の別れなど存在しません。

葬式で、お別れの挨拶をしているのは、故人が入っていた肉体です。

荼毘に付されてその姿は見えなくなりますが、故人そのものである「魂」は、変わりなく生きています。



20年前から、同じようなことを書いていますが、少しずつこの事実を受け入れてもらえるようになって来たと思います。

魂の存在の有無を論じる時代から、霊界にいる魂とのつながりを深めて、その恩恵を享受する時代に変わって来ていると感じています。



同じく20年前、2006年8月25日に福岡で悲惨な交通事故が起こりました。

家族5人の乗った車が、飲酒運転の車に追突されて、その衝撃で車は橋の上から河に転落して、3人の幼い兄弟(紘彬くん、倫彬くん、紗彬ちゃん)が亡くなり、大きなニュースになりました。

理不尽な事故で突然子供を失う、その心境は想像を絶しています。

追い打ちをかけるように、被害者を誹謗中傷する信じられない人たちがいて、ご両親は心を病んでしまい、身を隠すように福岡を離れて生活をされていました。



事故の後に、4人のお子さんが生まれたそうです。

最近、お子さんたちと海に行き、楽しそうに夏休みを過ごしているお母さんの姿を、ニュースの映像で見掛けました。

子供たちと遊んでいる笑顔の中に、忘れることない3人への想いが感じられました。



お母さんは、こう語っていました。

「私にとって7人は、誰ひとり欠けることのできない大切な子どもたちである。だから私は、これからも7人の名前を同じだけ呼び続けたい。紘彬、倫彬、紗彬、愛子、真寛、ひかり、寛彬。名前を呼ぶたびに、一人ひとりの笑顔が浮かび、私の中で生き続ける。」

そして、こうも言っていました。

「お兄ちゃん、お姉ちゃんなんだよっていう話はしてるけど、もう、紘彬、倫彬、紗彬よりもずっとずっと大きくなって、自分より早く生まれて大きな年齢であっただろうっていうことは、多分、その実感はないと思うんですけど、私がずっと、兄弟なんだっていうのを伝え続けてるので、自分たちのお兄ちゃん、お姉ちゃんっていうのは、心で感じるようになっているんじゃないかなあって思います。」

「笑った時の目は、紘彬くんにそっくりでとか、シルエットは紗彬ちゃんにそっくりだよとか、ほんと、こう、今まで、紘彬くん、倫彬君、紗彬ちゃんが事故に遭う前と変わらない感じで、ずっと私は名前を、こう、ほんと日常生活の中に7人の子の名前をって感じの生活をつとめてっていう感じです。」



これを聞いて、死んだ子供にいつまでも未練を持っている可哀想な母親だと思う人もいるでしょう。

そんなことは全然ありません。



愛情で結ばれた者同士は、死によって引き裂かれることはありません。

愛は魂を引き付ける力です。

お互いの愛によって、両者は引き付けられて、側に寄り添っています。



向こうにいる3人は、生前よりもお母さんのことを理解しています。

お母さんの想いは光となって放たれていて、その色彩(オーラ)から何を想っているのか、子供たちには判るからです。

遠くに行ってしまったのではなく、より身近になり、この世の誰よりも理解している存在となっています。



お母さんは、向こうにいる3人に自分の子供として平等に想いを向けています。

その想いはしっかりと伝わっていて、愛されている悦びを感じているでしょう。

その様子を見ているこの世にいる子供たちは、目に見えないお兄さんお姉さんたちに親しみを感じているようです。

向こうにいる3人は、この世にいる弟、妹たちをあたたかく見守っているでしょう。

生きている世界が違っても、7人は兄弟であり、家族なのです。



これ以上ない悲しみ苦しみの果てに、一緒に生きていることを、お母さんは悟られたと思います。

そして、どうして自分が生かされているのかを問い続けました。

「1日1日会えなくなる日が増えていくのがすごく苦しんでいたんですけど、多分、年齢も積み重なって、もう今は1日1日会える日が近づいているなあって思うんですよね。そこで会えるその時まで、精一杯頑張るよってことは、ずっと思っていることで、紘彬くん、倫彬くん、紗彬ちゃんのことを、この地上に誕生したことを私が生きている限りは、お母さんが生きている限り、頑張って伝え続けるよ。」とお母さんは言っています。



その想いが、1つの形となりました。

福岡に戻って、飲酒運転撲滅のために、3人の子供たちがこの世を生きていたことを伝えるために、これから社会に出る若い人たちに向けて講演活動を始められました。



多くの人の前で話せるようになった理由をこう語っています。

「この悲しみ苦しみが変容して人々の助けになったり、困ったり苦しんでいる人たちのこれからの生きる道筋になるんじゃないかなって。これが私の使命だとしたらそれを全うしたいと思っている。」



少し話は逸れますが、「変容」という言葉で、シルバーバーチの霊訓に書いてあった「ゲッセマネの園を通らずして、変容の丘へ辿り着くことはできません。」という一節を思い出しました。

ゲッセマネの園とは、捕らえられ処刑される運命にあることを悟ったイエスが、怖れや苦悩の中で過ごした場所とされています。

そこでイエスは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」、そして「わが父よ、もしできることなら、この杯(運命)をわたしから過ぎ去らせてください」と願ったそうです。(マタイによる福音書より)



イエスでさえも、死の苦しみや痛みや別れを避けたかったと思われます。

そして、次のように語ったとされています。

「しかし、わたしの願いのようにではなく、御心のままに。」

極限の怖れや苦しみの中で、運命を受け入れて、全てを神に委ねたと思われます。


(3人の子供を失うという)あまりに過酷な「ゲッセマネの園」ですが、お母さんの悲しみや苦しみが、人々の助けになり、困ったり苦しんでいる人たちのために生きようとする想いに変わる「変容の丘」に辿り着いたと思われます。

その想いは、神の御心であったと思います。



悲しみは、法則の働きによって、魂を目覚めさせます。

そして、魂の中に秘められている慈悲の心(愛)も目覚めさせます。

別れの悲しみが存在するこの世は、慈悲の心を目覚めさせ、育むのに極めて適した場所です。

これ以上ない悲しみを経験したお母さんの瞳から、慈悲の光のようなものが感じられました。



寿命が来て、あの世に戻った時に、3人の子供たちとの再会が待っています。

この世にいる時に、自分の想いは伝えていたので、ただ強く抱きしめるだけかもしれません。

3人の子供たちは、この世を生き抜いたお母さんの労をねぎらうでしょう。

そして、自分たちがこの世を生きた証を示してくれたこと、極限まで追い詰められて、そこから変わって行くお母さんの姿から、大切なことをたくさん学んだと、感謝の想いを伝えるかもしれません。

また、この世にいる4人の弟、妹たちは、傷つき、病んでいるお母さんの心を癒すため、そして生きる力を与えるために、志願して子供として生まれたと伝えるのかもしれません。



悲しい想いをさせるだけさせて終わりになるのなら、神などいません。

全てが報われています。

この世で一緒に暮らしていたよりも、別れの悲しみと苦しみを経験したことにより、他者の想いを共有することができ、より深く強い愛(慈悲の想い)を表現できるようになっていることに気付くかもしれません。

不幸や凶事としか思えなかったあの出来事は、望ましい方向に自分を変えていたことに気付くかもしれません。



全てを包み込んでいる、限りなく大きな愛が存在しています。

その愛によって創られた法則の働きにより、公正が完全に保たれています。

そのことを一瞬にして理解して、深く感謝するでしょう。

この世の悲しみを通して育んでいた愛(慈悲の想い)が、向こうの世界をより美しく、悦びに満ちたものにするために、遺憾なく発揮されることになります。


2026年8月23日日曜日

守り導いている存在がいる


この世界を、たった1人で生きているのではありません。

家族がいなくても、友達がいなくても、決して1人ではありません。

目には見えませんが、傍で一生涯に渡って守り導いている存在(守護霊)がいます。



シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「受胎の瞬間から、時にはそれ以前から、誕生してくる魂を守護する霊が付き添います。”神がそなたの管理を配下に天使に託し、諸事にわたり配慮させ給う”という『祈祷書』の言葉は、文字通り真実です。その霊は、あなたが死の関門を通過してこちらへ来るまで、能力の限りを尽くして守護してくれます。」



地上でしかできない経験をするために、私たちは生まれて来ました。

楽しい経験ばかりであれば良いのですが、そうは行きません。

苦しい経験や悲しい経験、痛みを伴う経験、時には逃げ出したくなるような出来事も経験することになります。



霊的な眼が閉ざされている地上の人が、予定されていた方向へと進んで行くように、守護霊は導いています。

地上の人が、経験を通して学び成長することで、守護霊としての役割りを果たしています。



守護霊の他にも、地上の人に親愛の想いを持っている霊たちがいます。

地上で親だった霊は、生前と同じように、子供たちのことを気にかけているでしょう。

亡くなった子供たちは、今もお母さんやお父さんや兄弟が大好きです。

この世に生まれた目的、別れの目的を果たすよう、励ましたり、勇気付けたり、時に慰めたりしているでしょう。



霊的に結ばれていた者同士であれば、死んでもその関係は失われていません。

愛は魂を引き付ける力です。

互いの愛によって引き付けられて、傍に寄り添い、可能な限りの援助をしているでしょう。



話は変わりますが、作曲家が「メロディーが降って来た」、作家が「言葉が降りて来た」と語っていることがあります。

それは、同じ志を持つ霊界の存在からのインスピレーションを、地上の人が受け取った瞬間の様子を表現しています。(当事者は自分の才能だと思っていることが多いのですが…)

シルバーバーチの霊訓には、次のように書かれています。

「精神と魂に宿されているものは何1つ失われません。それは霊的であり、無限であり、霊的で無限なるものは絶対に無くならないからです。その魂と精神に宿された資質はその後も生長し、広がり、発達し、成熟していきます。そうした霊性を宿しているからこそ、こちらへ来てしばらくすると、地上の人間たちに何か役立つことをしたいと思うようになるわけです。やがて自分と同質の人間を見出します。あるいは見出そうと努力しはじめます。地上で詩人だった人は詩人を探すでしょう。音楽家だった人は音楽家を探すでしょう。そして死後に身に付けたことの全てを惜しげもなく授けようとします。」



1915年11月、後にイギリスの首相となるチャーチルは、ある将軍と落ち合うことになっていました。

泥だらけの畑を進んで目的地に到着しましたが、待てども将軍は来ませんでした。

来ないという知らせを受けて、腹を立てながら元いた場所に戻りましたが、そこはドイツ軍の爆撃を受け破壊されて、多くの人が死んでいました。

このような九死に一生を得た経験を何度かしたそうです。

「より高次の存在が自分により大きな運命を用意している(ので救ってくれた)」とチャーチルは語っています。

後に、歴史的に重要な役割りを果たすことになる彼を、霊界にいる存在がインスピレーションを伝えて救っていたと考えられます。



特別な人物でなくても、胸騒ぎがしたために行くのをやめて難を逃れたという話は良く聞きます。

先のこと(結果)が視えている霊界の存在が、行きたくなくなる衝動を起こさせるインスピレーションを伝えて、回避させていたと考えられます。



私自身も、自分の思いとは明らかに違う衝動が生まれた時があります。

それに従って行動したところ、予想もしなかった事態に発展しましたが、それをきっかけにしてある人との間に縁が生まれて、霊的奉仕につながった経験があります。

後になってから、その衝動は霊界の存在からのインスピレーションにより生まれていて、目的(霊的奉仕)に向かって導かれていたことに気付きました。



自分の考えなのか、霊界の存在から伝わったインスピレーションなのか、判別するのは容易ではありません。

インスピレーションは、言葉を超えた想いや概念として、突然伝わって来ることが多いです。

そのために地上の人は、「気のせい」や「思い付き」として片付けてしまうことがほとんどです。



「いるのなら、もっとはっきりと分る形で示して欲しい。」

そう思う人も少なくないと思います。

理由があって、はっきりと分らないようになっていると考えています。



AIが瞬く間に普及し、利用しない日はありません。

膨大な情報を基に、瞬時に合理的な判断をしてもらえるようになりました。

自分の考えよりも、AIから提示されたものを信用する人も多いでしょう。



人生には、さまざまな局面があります。

1つ1つの局面で、どのような行動を取るのかを決めなければいけません。



もし、霊界の働きかけ(導き)がはっきりと分るようになったらどうでしょう?

霊界の存在は、地上の人より先を見通せていて、視野もはるかに広いです。

AIと同じように、どのような行動を取れば良いのかを、霊界の判断に任せようとする人は少なくないでしょう。



けれども、霊界の存在に決めてもらうことはできません。

地上の人が決めることに、霊界の存在は干渉もできません。

地上の人が決めて、地上の人が責任を取るようになっています。

はっきりと分からないようになっているのは、そのことを知らない地上の人が、霊界の存在に頼ったり、依存させないための、配慮だと考えています。



霊界の存在は、地上の人がどう決めて、どう行動するのかを、じっと見守っています。

予定されていた方向に進んで行く、あるいは成長が促される行動を取ったのなら、我がことのように喜んでいるでしょう。



もし、霊界の存在が決めてしまったら、自由意志を奪ってしまうことになります。

地上の人の決断と行動に、人間としての真価が問われているのです。



他にも不都合なことがあります。

愛する人を亡くした人は、もう1度会うことを強く望んでいます。

もし、はっきりと分ったのなら、霊界にいるとの確証を得たことになります。

会いたい衝動を抑え切れずに、自らの意志で霊界に行ってしまう人もいるでしょう。



会うことのできない日々の中で、大切なことを学び成長することが、生まれる前に約束していたことかもしれません。

もしそうであれば、自分でした約束を、自分で破ってしまうことになり、相応の代償を払うことをになります。

そんな過ちを犯さないための配慮だと考えています。



守り導いている存在がいるのは確かです。

ただ、地上の人はまだ霊的に未熟なので、はっきりと分らないようになっていると考えられます。



シルバーバーチの霊訓には、こうも書いてあります。

「その関係は、あなたがその事実(守り導いている存在がいること)を知っているほど行き届いたものになります。まったく知らずにいると、何かとやりにくいものです。守護霊は1人ですが、それを補佐する指導霊が何人かいます。あなたの人生にどういうことが待ち受けているのかは、守護霊には分かっていますし、そのことに関して勝手な干渉は許されません。誰の守護霊になるかについての選り好みも許されません。」

守護霊を始めとする霊界の存在が望んでいるのは、信じてもらうことです。

それによって、霊的なつながりが深まり、地上の人を導きやすくなるからです。

首尾よく期待していた通りの方向に進んで行くことができたのなら、そこからは地上の人を励まし、勇気付けるような想いを伝えて、目的が果たされるまで援助を続けるでしょう。



私たちに求められているのは、霊界の存在に守り導かれていると、心から信じることです。

その事実を知った人は、感謝の想いを忘れてはならないと思います。

見返りなど求めていませんが、信じてもらえているという確かな証になるからです。




2026年8月16日日曜日

生命は霊的につながっていて1つである


6500万年前、メキシコのユカタン半島に隕石が衝突しました。

その衝撃で直径160Kmのクレーターができて、地球規模で気候変動が起こり、恐竜が絶滅したと言われています。

もし隕石が衝突していなければ、今も恐竜が闊歩していて、その陰で人間はひっそりと暮らしていたのかもしれません。



現在、地球上の生命の頂点にいるのは人間です。

他の生命に比べて、格段に知性が発達しています。

言葉により高度なコミュニケーションができ、さまざまな物を作り出しています。



知性の発達は、人間を幸せにしているのかと言えば、そうとも言えません。

アインシュタインの優れた知性により、相対性理論が発見されました。

しかしながら、その発見により原子爆弾が作り出されました。

どのような結果をもたらすのかを検証しないまま、日本に投下され、たくさんの人々を不幸にしました。


人間には、知性の他に兼ね備えているものがあります。

それは「霊性」です。

生命の本質を表す、最も大切な側面です。



霊性の中心には「神」が存在しています。

他者を思いやる気持ち、傷つけてはいけないと思う気持ちは、良心と言う神から生まれています。

神の心がどのくらい発せられているのかで、その人の霊性が決まります。

原子爆弾が落とされたのは、知性の発達に霊性の進化が追い付いていなかったからです。



生命が調和して生きるにはどうすれば良いのかを考えるために、知性が与えられています。

けれども、地上の人間はエゴという側面も持っています。

エゴは自分を中心に考える傾向があるため、全体の調和を乱すような感情や考えが生じることがあります。



そして、人間には自由意志が与えられています。

エゴを優先して、過った自由意志の行使をしてしまうと、不幸な結果がもたらされます。

人間の知性が作り出したものを、霊性の伴っていない人間が手にすることで、たくさんの人たちが傷つき、苦しんでいます。



2020年からコロナウィルスの流行が始まり、わずか数年の間に世界の隅々にまで広まりました。

それは、世界中の人たちが物理的につながっていることを意味しています。



目に見えないつながりは、他にも存在しています。

今、この文章をパソコンやスマホでご覧になっているのも、目に見えない電子的な回線でつながっているからです。



名前も住所も知らない遠く離れた人に、私はヒーリングを行っています。

それが可能なのは、人間(生命)同士が霊的につながっているからです。



こんな経験はなかったでしょうか?

親しい人が、何を想っているのか、言わなくても分かっていた。

それも、目に見えないつながりを通して、想いが伝わって来たからだと思います。



近くにいる人が泣いたり笑ったりしていると、それにつられて泣いたり笑ったりしてしまうことはなかったでしょうか?

それも、つながりを通して想いが伝わって来たからだと思います。



霊的なつながりの本質とは「生命と生命は関係性を持っている」ことです。

そして「お互いがお互いのために生きている」ことです。



例えば、動物は酸素を吸って二酸化炭素を吐き出し、植物は二酸化炭素を吸収して酸素を放出しています。

両者は密接に関係していて、生きて行くためにお互いが必要な存在です。



人間の腸内には約40兆個もの細菌がいると言われています。

腸内にいる細菌は、免疫に関与したり、食物繊維を分解したりするなど、多様な役割りを果たしています。

もしいなくなると、病原菌に対するバリア機能が失われるなど、生命維持に深刻な影響を受けると考えられています。

一方、人間は細菌が生きて行くために必要な環境と栄養を提供しています。

意識している、していないに関わらず、1つの生命は他の生命と関わり合いを持ちながら、お互いのために生きているのです。



地上では、人のために働いて、その対価として金銭を得ることにより、生きて行くことができます。

霊界に行くと、生きて行くために働く必要はなくなります。

人のために何かをするのには、「愛」が必要になります。

神の力である愛により、お互いがお互いのために生きている世界が霊界です。

愛を表現することにより、魂と魂とのつながりは強くなって行きます。



地上では、それぞれの生命は独立して存在しているように見えます。

実際は、霊的につながっていて、1つの共同体を成しています。



ある人が長い宇宙旅行を終えて、地球に戻って来たとします。

漆黒の宇宙空間に浮かぶ、青く輝くこの惑星を見た時に、美しいオーラを放つ、1つの生命体のように感じられるかもしれません。


広大な宇宙の中において、地球は最小のユニットです。

全ての細胞が人体のために何らかの役割りを果たしているように、地球上の全ての生命は全体のために何らかの役割りを果たしています。



自分がどんな役割りを果たしているのか、今ははっきりと分らないかもしれません。

けれども、死んで霊界に行くと分かるようになります。

想ったこと、言ったこと、行ったことの1つ1つが、周りに影響を与えていたことを知ります。

周りに与えていた影響が、地上での自分の役割りであったことに気付く人もいるでしょう。



広いこの世界の中で、自分の存在はとても小さく感じられます。

小さく感じられても、他の人間や生命と関わわりながら生きる中で、何らかの役割りを果たしています。

役割りを果たしていない生命は、この地上に存在しません。



「生命は霊的につながっていて1つである」

この事実を受け入れることができれば、地上を悩ましている多くの問題が解決します。



戦争は自分で自分を傷つけている、愚かな行為であることに気付くでしょう。



皮膚の細胞と筋肉の細胞は、形態や機能が違っていても、そのどちらもが人体に必要不可欠なものです。

差別とは、筋肉の細胞が皮膚の細胞に向かって、自分の方が優れていると言っているのと同じで滑稽なものです。



貧困や飢餓に苦しむ人を見ても、他人事のように思えてしまうことがあります。

でもそれは、自分の足が大変な状態になっているのに、自分は手なので関係ないと言っているようなものです。



地球温暖化が着実に進行しています。

水温が少しずつ高くなっていても、それに気付かないまま「ゆでガエル」になってしまうのと同じことが起きているのかもしれません。

人間が地球とのつながりを忘れてしまった結果だと思います。



「生命は霊的につながっていて1つである」

大げさでも、戯言でもありません。

そのことを忘れているために、なくても良い苦しみや痛みが生まれています。

危機的な状況に陥り、魂が目覚めた時に、そのことに気付くかもしれません。



もし、6500万年前と同じような巨大な隕石が、数年後に地球に衝突すると分ったのなら、戦争は直ちに終わるでしょう。

それまで追い求めていた地上的なものに価値がないことに気付くでしょう。

生命のつながりを感じるようになり、慈しみや感謝の想いを大切にして生きようとする人も出て来るでしょう。



幸いにして、今のところその心配はありませんが、「生命は霊的につながっていて1つ」であることに、早く気付くべきだと思います。

それは、地上の現状を憂いている、霊界にいる人たちの切実な願いであると感じています。




2026年8月9日日曜日

この世を生きる意味はあの世にある


子供の時、死ぬのが怖かったです。

意識が消滅して、自分が失われてしまうと思ったからです。



人間の本質は魂(霊)です。

肉体を失ったとしても、生命は変わりなく存続し、意識はそのままです。

そのことを知り、死は怖くなくなりました。



あの世は、この世の延長線上にある「おまけ」のような存在ではありません。

私たちの本来の住処です。



あの世では肉体がありません。

自分(肉体)に向いていた意識は、周りに向けられるようになります。



この世を生きて行くために遣っていた(生命)力は、周りのために何かをしようとする力となります。(低い界層は除く)

その力の源泉は、無限の愛である神だからです。



あの世では、自分の好きなことだけをしていても生きて行けます。

けれども、好きなことばかりをしていても、どこかに物足りなさ、虚しさを感じるようになります。

周りのために奉仕をして、霊的な悦びを感じながら生きる方を、自然に選択するようになります。



しばらくすると、より次元の高い奉仕をしたくなります。

そのために自分に足りない資質を自覚するようになります。

その資質を身に付けるためには、それに相応しい経験をしなければいけません。




あの世では起こり得ない出来事を経験するために、この世に生まれて来たと考えられます。

また、この世で借り(カルマ)を作ってしまい、それを返す(償う)ために生まれて来た人もいます。

いずれにせよ、自分を成長させるために、この世に生まれる必要があったのです。



生まれる前の自分は、そのことを承知していましたが、いざ生まれると、その時の記憶はなくなります。

もし、あの世にいた時のことを覚えていたとしたら、戻りたくなってしまう人も少なくないでしょう。

生まれる前の記憶がなくなり、死が怖いものであった方が、この世での目的を果たすために都合が良いと考えられます。



「人生は楽しむもの」とよく言われます。

苦労などなく、楽しいことばかりだったら、どんなに良いだろうと思っている人がほとんどかもしれません。

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身に付けたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐えきれないほどの苦難を背負わされるようなことは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。それは勿論楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、何も、苦労する必要などないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。」

楽しいばかりの人生では、得るものは少ないようです。

霊的な宝(学び)を手に入れるために、この世にしかない苦しみという触媒が必要なようです。



また、このようにも書かれています。

「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解が行けば苦しい思いをしなくなります。」



マラソン選手の中には、月に1000キロ以上走る人もいるそうです。

「走った距離は裏切らない」と言った人がいましたが、過酷な練習の中で、自分の限界が進展して行くのを知っているのだと思います。

試合で最高の結果を出すという「目的」があるからこそ、苦しい練習にも耐えることができるのだと思います。


もし私が、目的を告げられないまま、何十キロも走らされることになったらどうでしょう。

「何で」「どうして」という疑問を抱きながら、走りたくもないのに走ることになります。

苦痛以外の何ものでもなく、途中で走るのを止めてしまうでしょう。



人生も同じです。

生きる目的が分からないと、生きるのが苦しく感じられます。



それぞれの人生に、明確な目的があります。

その目的を果たすために、経験しなければならない出来事があります。



出来事の目的(原因)が分からないために、「何で」「どうして」という疑問が生まれて、憤りを感じてしまう人もいるでしょう。

分かっていれば、納得できるような気がしますが、一概にそうとも言えないようです。



もし、人生で起きる出来事が、予め分かっていたとしたらどうでしょう?

例えば、50歳で命にかかわる病気になることが分かっていたとしたら、そのことが気になってしまい、平常心でいられなくなるかもしれません。

病気にならないために、あらゆる手を尽くそうとする人もいるでしょう。

先のことに意識が行き過ぎて、今を精一杯生きられなくなってしまう可能性があります。



出来事の目的を、知っていたとしたらどうでしょう?

大切な人を喪った人がいたとします。

仮に、別れの目的が最も大切なもの(愛)を学ぶためであったとします。

知っていたとしても、そんなことはどうでも良くなってしまう人が多いのかもしれません。

ただ、前と同じように一緒にいたいと思うだけかもしれません。

悲しみ、苦しんだ末に、目覚めた魂が学ぶべきものであり、頭で知っていても何の意味もありません。



人間には、考えや感情があります。

誤った考えや、好ましくない感情に捉われてしまうと、魂の成長に関わる学びが疎かになってしまう恐れがあります。

苦しんだとしても、分かっていない方が良いとの、神の配慮があるのでしょう。

「学び成長させるために出来事は起きている」そう強く信じることで、目的は果たされて行きます。



死んであの世に行くと、この世の人生を振り返る時が来ます。

そこで出来事の真意を知ります。

出来事を通して、予期していた学びが得られたのを知ったのなら、思わず安堵するでしょう。



この世の経験を通して学んだことは、あの世で活かされます。

足りなかった資質が身に付けられ、より次元の高い奉仕ができるようになったのなら、生まれて来た目的を果たせたことになります。

この世の苦しみや悲しみは、奉仕ができる悦びへと変わります。



ふと、こんな疑問が生じました。

熊本で大きな地震が起きました。

つらい思いをされている人たちがいますが、それにも意味があるのか?

不自由な環境に耐えながら、生活を再建して行かなければいけませんが、その経験も何らかの影響を魂に与えているはずです。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「人生の苦難は魂が向上して行くための階段です。困難、障害、不利な条件ーこれらは魂の試練なのです。それらを克服して行くことによって魂がいっそう充実し、向上し、一段と強くそして純粋になってまいります。」

こんなことを言える立場ではないと承知していますが、その先で大変な出来事が起きたとしても、あの時の苦しさから比べれば大したことはないと思えたのなら、魂が強くなっているはずです。

同じように苦しんでいる人を見て、手を差し伸べたくなったのなら、魂が純粋になっているはずです。

出来事を経験した者にしか得られない学びや成長があり、それにより神の公正が完全に保たれていると信じています。



まとめになるような文章を、シルバーバーチの霊訓の中に見つけました。

「人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界に戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身に付けるために、さまざまな体験を積むということです。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。」


シルバーバーチの霊訓より

この世を生きる意味は、あの世にあります。




2026年8月2日日曜日

意志は感情よりも強い

 

前回のブログで、強制収容所で拷問を受けたオランダ人女性コーリー・テン・ブームのことを取り上げました。

「赦しは意志による決断です。感情がついてこなくても、その意志は働かせることはできます。」

彼女のこの言葉が、とても印象に残っています。

コーリー・テン・ブーム 出典: Wikipedia


地上の人間は、「肉体」と「精神」と「魂」の3者から構成されています。

厳密には、肉体の他に霊体があります。

そして、精神には肉体と強く結びついている「地上的な自我」と、魂と強く結びついている「霊的な自我」が存在しています。(シルバーバーチの霊訓に書いてある「パーソナリティ」と「インディビジュアリティ」がそれに当たると考えています。)




本当の自分とは、霊的な自我です。

霊的な自我の一部分が、地上的な自我として顕現していると言っても良いのかもしれません。

死んで霊界に行くと、霊的な自我で自己表現が始まり、意識の拡大が起こります。



シルバーバーチの霊訓には、こう書いてあります。

「ものごとは自分次第で善にもなり悪にもなります。そこであなたの選択権、自由意志、決断力、判断力を使用する必要があるわけです。それは大霊があなたに与えた神性の1つです。」

人間は自由意志が与えられています。

自由意志が神性の1つならば、霊的な自我によって決断が行われていると考えられます。



肉体(五感)によって得られた情報は、地上的な自我を通して、霊的な自我に伝えられていると考えられます。

霊的な自我はその情報を基に、魂に内在されている良心(神)に照らし合わせて、どのような行動をするのか決めていると考えられます。

霊的な自我で決められたことが、地上的な自我に伝えられて、肉体に命令を出して行動に移されていると考えられます。

この往復が繰り返し行われることで、地上の人生が営まれています。



霊的な自我が意志を決定するのに際し、地上的な自我は大きな影響を及ぼしています。

例えば、踏切の中で倒れている人を見たとすると、霊的な自我からは(良心の働きにより)助けようとする意志が生まれます。

ところが、地上的な自我からは、自分の身を守るために、怖れの感情が生まれます。

その感情が大きくなると、助けるという意志決定は困難となり、行動に移せなくなります。



法則に反した行いをしようとすると、それを引き留めるような、言葉を超えた良心の声がします。

それを無視して行動に移すと、その罪は霊的な自我に印記されます。

例えばお金が欲しくなり、人に危害を加えて手に入れたのなら、その先で苦痛を伴う償いが生じます。

霊的な自我が決めた行動に対する責任は、霊的な自我が取ることになり、その間は成長することができなくなります。



「物的身体は霊が自我を実現するための道具であり、精神はそのためのコントロールルームと思えばよろしい。」シルバーバーチの霊訓にこう書いてあります。

霊(魂)が上位にあり、次に精神があって、その下位に肉体があります。



最上位にある霊(霊的な自我)から生まれる意志の力には、精神(地上的な自我)から生まれるいかなる感情も敵いません。

そのことから、冒頭のコーリーが語ったことが理解できます。

怒りや憎しみと言う「感情」よりも、赦すという「意志」の力が勝ったのです。



難易度の高い仕事をする前に、私も不安や心配が生じる時があります。

そんな時に、上手く行くように願うのではなく、自分を信じるという意志、「患者さんのために成功させる」と言う意志を持つことで、不安や心配を追い払うようにしています。



仕事や趣味など、夢中になってしている時はどうでしょうか?

それまであった感情から解放されていることに気付くはずです。

意志を持つことにより、感情に捉われずに済みます。



話が少し逸れるかもしれませんが、スポーツの世界などで「ゾーン」という言葉を聞くことがあります。

ゾーンに入った時は高度に集中していて、最高のパフォーマンスができると言われています。

また、試合中にチームメートが何を思っているのか、何を望んでいるのか分かっていたと語っていたアスリートがいましたが、そんな時もゾーンに入っていたのでないかと思われます。



ゾーンに入っている時は、地上的な自我の働きが抑えられ、霊的な自我が前面に出て来ていると考えています。

時間の感覚も希薄になり、感情や考えに捉われない、俗に言う無我の境地に入っていて、自分の意志が忠実に表現されているように思います。

その時の感覚は、霊界にいる時の感覚に近いのではないかと想像しています。



以前、踏切内で倒れている老人を助けようとして、巻き込まれて死んでしまった女性がいました。

「助ける」という強い意志により、死の恐怖を感じなくなっていたと考えられます。

その瞬間、地上的な自我の束縛から解放され、霊的な自我から生じている神性が遺憾なく発揮された結果だったと考えられます。



1947年、インドはイギリスの植民地支配から独立をしました。

その立役者がマハトマ・ガンジーです。

インドは長い間、イギリスから理不尽な要求や対応を受け続けていました。

国民に強い憤りが生まれていましたが、ガンジーは「非暴力」「不服従」を選択しました。

その意志を持つことにより、感情を封じ込めようとしていたと考えられます。

もし、感情に任せて力で対抗していたのであれば、力によって封じ込められて、独立は叶わなかったでしょう。

因果律の働きを熟知していた偉大な霊覚者だったのです。



怒りや憎しみなど、成長を妨げるような感情を抱き続けると、苦しみを感じるようなっています。

法則に適った意志を持つことによって、それらの感情は打ち消されて、その苦しみから解放されます。



地上と違い、霊界では何もしなくても生きて行けます。

そして、思念(意志)が直ちに具現化される世界です。

見方を変えると、意志がなければ何も始まらない世界です。



周りのために何かをすることで、人は悦びを感じ、成長して行きます。

地上では、さまざまな出来事が起こります。

出来事を克服するために、意志を持って臨まなければいけない局面に遭遇します。

そのような経験を繰り返すことによって、思念が全ての霊界において、周りのために何かをする「意志」が培われていると考えられます。