2026年9月27日日曜日

不運や不幸は存在しない

 

先月、学生時代からの友人たちと会う機会がありました。

お酒を飲みながら昔話に花が咲きましたが、定年を迎える年代でもあり、お互いの近況や将来について関心があるようです。



今回、地元に戻って来た友人を誘いました。

その友人は高校の同級生で、ある企業に勤めていましたが、上司が外資系の企業に役員として引き抜かれる際に、同じ待遇で一緒に行かないかと誘われました。

給料は大きく上がり、そこに十数年勤めていましたが、高校時代サッカー部だった彼は、早期退職してプロのサッカーチームの社長に就任しました。

そこに6年程いて、去年退職しました。

今年の夏に、奥さんと一緒に海外旅行に行ったと話をしていましたが、それを聞いて、運が良く、羨ましい人生だと思った人もいたはずです。



運が良かったのではなく、前の会社での仕事ぶりが上司に認められただけです。

待遇は良かったものの、会社の近くに部屋を借りて、朝早くから夜遅くまで働いていました。

犠牲にしていたものも多く、家族のことで悩みを抱えていました。

最後は、業績不振の責任を取って社長を辞めています。

人の話だけで、運が良いとか、羨ましいと思ってはいけません。



人生について、シルバーバーチの霊訓に、こう書いてあります。

「痛みも苦しみもない人生を、辛苦も悲哀もない人生を、常に日向を歩き、日陰というものがない人生を送る人は、地上には一人もいません。少なくとも私は、そういう人を知りません。」

地上とは、そういうところです。

バラ色だけの人生はあり得ないのです。



別なところでは、こう書かれています。

「日向と日陰、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は神の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません。」



私たちの本来の住処は霊界です。

霊界に存在するのは、「日向」、「平穏」、「光」、「愛」です。

対極にある「日陰」、「嵐」、「闇」、「憎しみ」は存在しません。




今、地上にいるのは、ここでしかできない経験をするためです。

もし、そんな経験などしたくないのであれば、地上にはいないでしょう。



ところで、生まれて来たのは偶然と考える人がいます。

そんな人は、人生で起きる出来事も偶然と考える傾向があります。



人生は出来事の連続によって成り立っています。

偶然と考えるのであれば、人生に意味を見出すのは極めて困難です。

死んで全てが終わりになると信じていれば、余計にそう思えてしまうでしょう。



人間の本質は魂です。

死んで終わりではなく、肉体がなくなっても生き続けます。

生まれる前にも人生(過去生)があって、死んだ後にも人生(来生)があります。



地上に生まれて来たのは、明確な意味(目的)があります。

魂を大きく成長させるために、対極が存在する地上に生まれて来たのです。

自分に足りない霊的な資質を手に入れるため、あるいは過去の過ちを清算するために、それに相応しい出来事を経験する必要があったのです。

相応しい出来事とは、「日陰」、「嵐」、「闇」と言われる、誰もが避けたい不運や不幸と呼ばれるものになるかもしれません。

その出来事を経験する人生を、生まれる前の自分が決めています。



出来事が起きた時、どう捉えて、どう行動するのかは、その人が決めます。

どう行動したかによって、その先の自分が決まります。

その先で、どう行動するのかも、自分で決めます。

今の自分は、生まれる前の自分と生まれた後の自分が決めて行動して来た結果と言えます。



生まれる前に自分が決めていた人生から、大きく逸れてしまうことがないように、生涯に渡って守護霊が付いて、インスピレーションや想いを伝えて導いています。

出来事が起きた時に、自我を鎮めて、生まれて来た目的を果たせるように祈り、伝わって来たものがあれば、それに従うと良いでしょう。




地上は、たくさんの人生が垣間見える世界です。

それぞれの人に、生まれて来た目的があります。

生まれて来た目的が違えば、辿る人生も違って来て当然です。

従って、他の人と比べたり、羨ましがったりするのは、それこそ意味がありません。



目的を果たすために、起きる出来事があります。

目的を果たすためであれば、その出来事は不運でも不幸でもありません。



地上で、「日陰」、「嵐」、「闇」、「負の感情」を経験した人は、霊界に戻ると「日向の暖かさ」、「平穏(平和)のありがたさ」、「光の明るさ」、「愛の尊さや価値」が、より一層感じられるようになっています。

魂の成長が促されていて、周りのために自分が活かせるようになっています。



不運や不幸は存在しません。

存在しているのは、神の法則(摂理)の働きであり、無限の愛です。



2026年9月20日日曜日

神の愛


外国人が珍しかった子供の頃、自転車に乗った若い二人組の白人男性を街で見かけました。

その人たちはカタコトの日本語で「あなたは神を信じますか?」と尋ねて来ます。

後で布教活動だと知りましたが、神など関心のなかった私は、ちょっと変わった人たちだと思っていました。



それから30年以上経ち、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、神について学ぶことになります。

そこに書かれていた神は、その人たちが説いているものと違っていました。

願いを叶えてくれたり、守ってくれる、人間を限りなく大きくしたような存在ではありません。



神は「法則」によって、この世界を経綸しています。

法則なので、誰に対しても平等であり、厳格に働いています。



言葉に出さなくても、人間の願いは神に届いています。

神の心に適う真摯な願いであれば、法則の働きによって力が与えられ、叶えられる方向へと向かって行きます。

誰かのために何かをすると、想像以上の力が出て、上手く行くのはそのためです。



神の心に適った行いをすると、法則の働きによって、喜びを伴う結果が生じます。

優しくしたり、親切にすると、された人は笑顔となり、こちらにも喜びが生まれます。



それとは逆に、神の心に反した行いをすると、法則の働きによって、苦痛を伴う結果が生じます。

自分勝手な行いをしていると、周りから避けられるようになり、孤独と言う苦痛を味わいます。

神は法則の働きによって生じる、喜びと苦痛により、自らの意図する方向へと導いています。



神の力によって生かされています。

その力は愛を帯びています。

いや、愛そのものと言って良いのかもしれません。



私たちは、神の愛を表現する媒体として、この世界に存在しています。

けれども、肉体がある地上では、自我が不完全なために、思うように愛を表現できません。

自我の働きによって、自分が一番大切に思えてしまうと、他者のために何かをしようとしてもできなくなります。



神の力は、さまざまな形となって現れています。

傷ついた心身が、時と共に癒されて行くのは、「自然治癒力」という神の力によるものです。

この力を愛と呼ばずして、何と呼ぶのでしょう。



同じ次元で生きていた人が、死によって違う次元に行ってしまうことがあります。

隔たりが生まれますが、両者の間に愛があれば、再びつながることは可能です。

次元を超えて、想いを交わし合える余地が残されているのも、神の愛に他なりません。



乗り越えられないほどの困難な出来事は起きません。

それは、神の法則(因果律)の働きによって、出来事は起きているからです。



挫折させるためでも、絶望させるためでも、苦痛を与えるためでもありません。

私たちを、学び成長させるために起きています。



目的が成就された時点で、その出来事は乗り越えられています。

霊界に行き、佳きに計られわれていたのを知った時、神の愛に感謝するでしょう。



神だけではありません。

無用な危害が加わらないよう、予定されていた人生を歩むように、霊界にいる存在によって守り導かれています。

一人ぼっちで、愛とは無縁に思える人も、愛されているのです。



私たちは「神の法則」の働きと、「神の力(エネルギー)」によって、いつどこにいても愛されています。

地上にいると、霊的な目が閉ざされてしまい、愛や法則の働きが見えなくなるため、そのことが分からなくなってしまいます。



もし、神から愛されていると、心から信じることができれば、安らぎや悦びが得られるでしょう。

愛されている悦びが得られると、今度は誰かに愛を表現したくなります。

愛を表現された人は、他の人に愛を表現したくなります。

このようにして、愛は全体に伝わって行き、神の意図した世界となって行きます。




愛は魂を結び付ける力です。

この世界は、神の愛が隅々にまで伝わることによって、1つになって行きます。

その流れに逆らうことができないのは、それが神の意図であり、法則の働きによるものだからです。





2026年9月13日日曜日

霊的につながっていて1つ


30年位前に仕事でアメリカに行き、オーランド(フロリダ)からボストンに向かう国内線の飛行機に乗りました。

お昼になり、CAが後ろの席から順番に食事をテーブルの上に配って行きました。

直ぐ後ろの席まで来て、次だと思っていたところ、私を飛ばして前の席に食事が配られました。

何かの間違いだろうと思いましたが、こんな基本的なことをプロが間違うはずもありません。

周囲を見渡すと白人ばかりで、東洋(日本)人である私が差別を受けたことに気付きました。

腹が立ったので、「あなたは差別主義者なのか?」と、そのCAに向かって言いました。

すると、そのCAは悪びれた様子もなく、無言でテーブルの上に食事を置きました。

思いもよらぬ経験に、何とも言えない気持ちになったのを覚えています。



私が経験したのは些細なものでしたが、世の中ではもっと深刻な差別があります。

それが原因で、人命が奪われています。

ガザ地区やイランで起きている戦争も、根底には差別が存在しています。



根本原因は、霊的知識の欠如にあります。

人間の本質は魂です。

肉体は魂を表現する媒体に過ぎません。

なのに、肌の色、身体的特徴などの外面を見て、勝手に優劣を付けて見下そうとする人がいます。



死んで霊界に行くと、全ての外面が取り払われます。

内面にある魂が露わになります。

地上で自分がした差別的な行いの1つ1つが、自らの魂を醜くさせていたことに気付くでしょう。



人間だけでなく、全ての生命(魂)に優劣はありません。

同じ価値があることが、感覚的に分かるようになります。



地上に生まれて、肉体を持つことによって、その感覚が失われてしまいます。

物質(肉体)が全てだと思い込んでしまい、差別などの過ちが繰り返されることになります。



地上にいる人間は霊的な存在です。

肉体的には独立していますが、霊的につながっています。



普段生活をしている時は、つながりを意識することはありません。

けれども、深刻な出来事に遭遇した時に、つながりを意識することがあります。



東日本大震災の時、自分も被災者で大変な思いをしているにもかかわらず、他人を助ける姿が見られました。

また、全国各地からボランティアも駆け付けました。



もし、人間が肉体だけの存在であれば、そんな行動をする理由はどこにもありまぜん。

霊的な存在であり、神性を宿しているからこそ、他人のために行動することができます。



津波で亡くなった人の家族が、不思議な現象を経験をして、故人とのつながりを実感したというNHKの特集番組がありました。

夢の中で会ったという話は良く聞きますが、実際に同じ次元で実際に会っていたと思われます。(そんな話をまとめたものがありますので、ご興味のある方は読んで下さい。「私の夢まで、会いに来てくれた--3.11亡き人とのそれから」)

生きている次元は違っていても、霊的につながっているのです。



震災後に「絆」と言う言葉を何度も聞きました。

深刻な出来事を経験して、霊的に目覚めた人が、目に見えないつながりを意識するようになり、それを言葉にしたと思われます。



霊的に目覚めることで、個ではなく「全体」を意識するようになる人がいます。

全体を意識するようになると、自分たちが行っていることの過ちに気付く人がいます。



過ちの最たるものが地球温暖化です。

地球温暖化は、人類が地球全体のことを考えて行動しない限り進んで行きます。

けれども、一朝一夕に考えを変えられるものではありません。



そこで、大自然の仕組み(因果律)が作動したのではないかと思ってしまいます。

自主的に人間が考えを変えられないので、ウィルスの流行によって、強制的に行動様式が変えられたのかもしれません。

その証拠に、コロナが流行した初期は、産業革命以降、初めて二酸化炭素の排出量が減少に転じました。

多くの人にとってコロナは脅威ではなくなりましたが、それでも考えを変えるえることができなかったら、(大自然の仕組みがさらに作動し)今度は人間の活動を長期間に渡り大幅に制限させる、強力なウィルスが出現するのではないかと心配しています。



天変地異やウィルスの流行により、命の危機に晒されて、霊的に目覚める人がいます。

目覚めた人の中に、個から全体のことを考えるようになる人がいます。

全体のために、何かをしなければならない衝動に駆られ、行動に移す人もいるでしょう。

そんな人が増えることによって、少しずつ世界は変わり始めます。

災難や害悪としか思えないことが、人類や全体(地球)の浄化の一環となっていることがあると考えています。



1人ひとりが全体(地球)を構成する一部として存在しています。

全体とつながっていて、全体に何らかの影響を与え、全体から何らかの影響を受けています。



霊的なつながりとは、魂と魂の間にある、目に見えない関係性のこと指します。

お互いがお互いために存在しているのです。

植物と動物もお互いに必要な存在であり、どちらが欠けても成立しません。

意識している、していないに関わらずが、自分が生きていると言うことは、他者のために生きていると言うことになります。



生きる力(生命力)は、神の愛そのものです。

そのことを、ヒーリングをしていると強く実感します。

自分を生かしている力であると同時に、全体のために自分を活かそうとする力にもなります。



肉体があり、多種多様な人間がいる地上ではそう思えないかもしれませんが、私たちは霊的につながっていて1つです。

ばらばらに存在している人間(生命)が、神の法則の働きにより、1つになって行きます。

それが全宇宙を創った神の意図であると考えています。



無限に広がる宇宙の中で、地球は1つのユニットであり共同体です。

そう捉える人が多くなるほど、差別や戦争や貧困や虐待など、地上を悩ます問題はなくなって行きます。






2026年9月6日日曜日

良心に従って行動する

 

今も昔も、学校に通っている子供たちにとって嫌なものは試験でしょう。

テスト用紙が配られた時、採点されて返って来る時の緊張感を思い出します。

点数を見ては、一喜一憂したものです。

試験なんてなければ良いのにと思ったのは、1度や2度ではありません。

だからと言ってなければ、勉強するモチベーションは大きく失われてしまうのも確かです。


この世は、学び成長するための「学校」と言われています。

私たちはこの世と言う会場で、壮大な試験を受けているのかもしれません。



この世では、決められている「問題」が出されます。

人生で起きる出来事がそうです。



もし学校の試験に出る問題が分かっていたらどうでしょう?

学生たちは喜んで、そこだけを勉強して終わりにする人が多いでしょう。



出来事が予め分かっていたらどうでしょう?

そのことに捉われてしまう人が多いでしょう。



何の前触れもなく出来事が起きるのは、今を大切に生きるためです。

その瞬間、どう捉えて、どのような答えを出すのかが問われているのです。



大学生に足し算や引き算の問題を解かせても意味がありません。

その逆に、小学生に微分積分の問題を解かせるのは無理があります。

今まで勉強してきたことの、少し延長線上にあることを身に付けさせるのが適当です。



霊的な資質を、身に付けさせるために必要な出来事が、人生のどこかで起こります。

悩みながら、苦しみながら、ぎりぎりまで追い詰められたとしても、必ず克服できます。



何故なら、必要な出来事は法則(因果律)の働きによって起きているからです。

その法則は、神の心(愛)によって創られているからです。



挫折させるためでも、絶望させるためでも、苦しませるためでもありません。

その人を学び成長させるために起きています。



学校のテストは先生が採点します。

答案を返された生徒は、何が間違っていたのか、何が不足していたのかを知り、勉強し直します。



人生で行ったことは、神により採点され(計られ)ています。

正確に言うと、神が創った法則の働きにより、どう行動したのかが問われていて、相応の結果が生まれます。

生まれた結果から、私たちは何かを学ぶようになっています。



問われているのは、行動だけではありません。

行動の動機(想い)に対しても、法則が働いています。

例えば、お金を寄付するにしても、売名行為でする人もいれば、そうでない人もいます。

多額の寄付をしても自分の利益のためであれば霊的な価値はなく、少額であっても他者のためという想いがあれば価値があります。



今、世界各地で戦争が起きています。

戦争を始めた人たちは、正当な理由(動機)を主張しています。

けれども、その裏には、権力を誇示するため、地位を守ろうとするため、あるいは名声を高めるためなど、利己的な動機が隠されている場合が多いと考えられます。

その動機に対して法則が働いて、結果責任を取らなければならないことを、彼らは知りません。



死んであの世に行けば、固執していた権力や財産は、全く意味を失います。

丸裸になって、放り出されたような、心細い心境になるでしょう。

そして、この世の人生を振り返る時が来ます。

自分が取った行動の全てが、360度のスクリーンのようなものに映し出されます。

どんな想い(動機)で行動したのかも、同時に思い出すことになります。



自分の決断によって、たくさんの人が死に、傷つき、苦しみ、そして悲しんでいるのを目の当たりにします。

利己的な動機によって与えた痛みや苦しみは、因果律の働きによって、自分に返って来ます。

良心の呵責から生まれる、苦しみや痛みは強烈なものとなります。

償い切れないほどの罪の大きさに、後悔と絶望は計り知れないものになります。

そして、自分のせいで命を奪われた人たちから、怒りや恨みの念を受けて、怯えることになるでしょう。

彼らの姿をニュースで見るたびに、こんなことを想像してしまいます。



同じ戦争でもこのような話があります。

第二次世界大戦下のドイツ上空で、アメリカ軍のBー17爆撃機が飛行困難になるほどの大きな損傷を受けました。

ドイツ空軍の戦闘機パイロットのフランツ・シュティグラーは出撃命令を受けて、撃墜できる位置までBー17に接近しました。

しかし、機内には多数の負傷者がいて、機銃も使えない状態であることが見て分かりました。

シュティグラーは撃墜する代わりに、機体を護衛するように並んで飛び、ドイツ領空から安全な方向へと誘導して、敬礼をして立ち去ったとされています。



彼が取った行動が公になれば、軍法会議にかけられる可能性が極めて高いです。

そのリスクを冒してでも撃墜しなかったのは、彼の良心が激しく抵抗したからと思われます。

シュティグラーは2008年に亡くなっていますが、あの世でその出来事を振り返った時に、良心に従って行動して良かったと、胸を撫でおろしていたのかもしれません。

そして、自身の決断によって助かった多くの人(魂)たちから、感謝の念が向けられていることに気付いて、喜びを感じていたと想像しています。

良心の声に従って行動すれば、たとえその後に困難が待ち受けていたとしても、あの世で後悔することはありません。



この世は試験会場であり、法則(神)によって採点されています。

学べなかったこともあるでしょう。

間違いもあるでしょう。



神の法則を貫いているのは「愛」です。

学べなかったとしたら、次で学び直すことができます。

どんなに大きな間違いをしても、次で正すことができます。

この世に何度も生まれて来るのは、私たちの成長を願う神の愛の御業に他なりません。



この世を生きる上で大切なのは、神の計らいを信じて、良心に従って行動をすることです。

自分に正直になると言っても良いでしょう。

動機を問い質し、他者の喜びや笑顔のためであれば、迷わず行動に移すことです。