2021年12月26日日曜日

法則に従う ①


いろいろなことがあった1年が終わろうとしています。

コロナウィルスから解放されることはなく、マスクが顔の一部になってしまったようです。

そんな中で、コロナに感染して亡くなったり、大変な思いをした人がたくさんいます。

「何が起きるのか判らない」

そう感じている人は多いでしょう。



今までと同じような日々が、これからも続くだろうと、多くの人は思っています。

どこか他人事で、自分に起きるとは思っていません。

しかし、前触れもなく起きる時があります。

そんな時は「まさか自分が」と心の中で叫んでしまいます。



この世界で起きることに、偶然はありません。

病気になるのも、交通事故も、原因が必ずあります。



私たちは 物質(肉体)的な存在であると同時に、霊的な存在です。

肉体と霊は次元の異なる存在であり、それぞれ別々の法則が働いています。

空に石を投げると地面に落ちて来るのは、物質的な法則の働きによるものです。

肉体が成長し老化するのも、同じ次元の法則が働いているからです。



霊(魂)には、霊的次元の法則(以下霊的な法則)が働いています。

物質的な法則は検証が可能であり、何回やっても同じ結果が出るので、疑う人はいません。

けれども、霊的な法則は、目で確認できるような類のものではありません。

霊の存在を信じていない人にとって、宗教的な妄想のように感じるかもしれません。



信じる、信じないにお構いなしに、霊的な法則は働いています。

物質的な法則は、地上にいる時だけですが、霊的な法則は次元を超越して働いています。

より高い次元に向って生き続ける人間にとって、霊的な法則の方がはるかに重要です。



地上にいる人の多くは、霊的な法則が働いていることなど知りません。

そのために、平気で法則に反した行いをしてしまいます。

お互いに傷つけ合う、戦争もそうです。



目に視えない形でも、人を傷つける行為は行われています。

例えば、ニュースでたびたび取り上げられる、SNS上に書き込まれる誹謗中傷なども、そうです。

心を傷つけているのであれば同じです。



貧困が生まれるのも、法則に反した行いをしているからです。

自分さえよければと言う利己的な思いと、お金をたくさん所有したいと言う物質欲が世の中に蔓延しているからです。

必要十分なものが、全ての人に行き渡るように、地上は創られています。

富が偏在してしまい、必要なところに回らなくなっています。



肉食を含む、動物の虐待もそうです。

人間は最も優れていて、他の動物は劣っていると言った、的外れで差別的な観念がこのような悲劇を生み出しています。

霊的に最上位にいる人間は、他の動物たちを庇護する立場にいますが、真逆な行為をしています。

毛皮にされる動物たち

地球温暖化もそうです。

物をたくさん持つことで豊かになれる、消費することで満たされると言う、物質に捉われた観念と、周り(環境)のことを考えようとしない利己主義による結果が現われています。



法則に反した行いには、因果律の働きにより、苦しみや痛みを伴う事象が起こります。

人を傷つければ、自分が傷つけられて、痛い思いをします。

負の連鎖が生まれて、やがて大きな犠牲を伴う事象に発展します。

jiji.comのHPより

貧困は、故意によるものではありません。

そのため、その報いが直接、自分に返って来るわけではありません。

関わっている(経済的に豊かな)国の人たち全てに、思いもよらぬ形で、返って来ていることもあります。



世界中で、新型コロナウィルスが流行しています。

現在、主流になりつつあるオミクロン株は、南アフリカ共和国が起源と言われています。

同国の貧富の差は著しく、人口の1割にも満たない白人が、富の70%を保有しているようです。

今も世界で猛威を振るっているデルタ株は、インドが起源と言われています。

インドは貧富の差は世界一と言われ、人口の1%の裕福層が73%の富を持っています。

また、コロナで亡くなった人の数は、アメリカが抜きん出て多いです。

世界一経済的に豊かな国なのに、貧しい人たちは適切な医療を受ることができていません。



日本の死亡者数が少ないのは、世界中の国から不思議に思われています。

マスクをするなど衛生面で優れていることが、一因として挙げられています。

それだけでなく、他の国に比べて差別や貧富の差が少なく、より法則に適っているせいなのかもしれません。



ウィルスの流行は自然現象です。

全ての自然現象は、自然法則の働きによって起こります。

神は自らの心を顕現するために、自然法則を創造したと考えられます。

従って、人類を苦しめている新型コロナウィルスの発生や変異にも、神の心が顕現していることになります。






富める人たちが、貧しい人たちを見て見ぬ振りをしながら生きています。

それが過ちであることを、全人類が関わる自然現象を通して、気付かせている様な気がしてなりません。

自然法則は、あらゆる事態を想定して創られています。

変異が起きるのは偶然ではなく、初めから自然法則の中に組み込まれていると思います。



富める国の一部で、4回目のワクチン接種が始まるそうです。

一方、サハラ以南のアフリカでは、1回目の接種が終わったのは、人口のわずか15%です。

貧しい人たちに、ワクチンが十分に行き渡っていないようです。

この先、貧しい人や貧しい国の間で流行が続いてしまうと、過ちに気付かせるために、致死率の高いウィルスが出現するかもしれません。

そうならないことを祈るばかりです。



法則の根幹にあるのは「愛」です。

自分や自国さえ良ければという、愛に反した利己的な想いが、戦争や貧困、地球温暖化だけでなく、コロナウィルスの流行も生み出していると考えられます。

もしそうならば、他者や他国のこと、地球全体のことを考えて、私たちは行動しなければいけません。

ひとり一人が全体のことを考えて行動すれば、ウィルスの流行を含め、人類を悩ます全ての問題は収束に向かうはずです。



犠牲と苦痛を伴いながら、個ではなく全体のことを考えるようになって行きます。

調和が生まれて、個々の生命は霊的に1つになって行きます。

それが法則に込められた神の心だと思います。



2021年12月19日日曜日

あの世がベールに包まれている理由


小学生低学年の頃、テレビで「大魔神」と言う映画を観ました。

穏やかな顔をした石仏が、恐ろしい形相の魔人となり動き出し、悪人たちを成敗するという物語でした。

それからしばらくして、夢の中に大魔神が出て来るようになりました。

その夢はとても恐く感じました。

どこへ逃げても、いくら逃げても、地響きを立てながら、大魔神が私を執拗に追いかけて来ます。

夢なのに現実としか思えず、目が覚めて安堵したのを、今でも覚えています。

大魔神(バンダイチャンネルより)

夢には2種類あります。

1つは潜在意識が反映したもので、大脳が作り出したフィクションです。

昼間の体験が反映されたものや、意味不明のものもあり、大魔神の夢もそうです。

精神医学者のフロイトによれば、逃げ回る夢は何らかの精神的圧力がかかって不安がある時に見るそうです。



もう1つの夢は、ノンフィクションです。

こちらは肉体から魂が離脱してあの世に赴き、そこでの実体験です。

愛する人に会っていた時は、目覚めた時に温もりや充足感が残っていると言われています。



けれども、多くの人は夢を覚えていません。

毎晩のようにあの世に行っているはずなのですが、思い出せません。

その理由は、霊界での体験は地上の体験とは異なり、五感を介さないために大脳で処理されず、頭(海馬)に記憶されないためと考えています。



覚えていない理由は、それだけでないと思います。

はっきりと覚えていて、それが楽しい体験であればどうでしょう?

この世界から逃避して、眠りに耽ってしまう人もいると思います。



この世の人にとって、あの世との接点は夢の中です。

もっと別の形で、あの世が判るようになれば良いのにと思う時があります。

そうすれば、死を怖がることなく、安心して生きられます。

この世に対する執着も少なくなります。

あくせく生きようとしなくなり、地上的なものに捉われなくなるでしょう。

霊的真理が素直に受け入れられて、意識の焦点が物質的な世界から霊的な世界へと移るでしょう。



しかし、霊的な世界に意識が向き過ぎると、現実の世界に対する意識が希薄になります。

地に足がついていない状態になります。

現実の世界が疎ましくなり、逃避した生き方をしてしまえば、生まれて来た目的は果たせません。

霊的な意識を持ちながら、現実の世界にしっかりと軸足を置いて、生きることが大切だと思います。



この世に生まれて来た目的は、自分を成長させるためです。

降りかかる困難や障害を乗り越えて行くことで成長します。

あの世では起こり得ない出来事を経験するために生まれて来たので、逃げ出したい気持ちを抑えて、立ち向かって行かなければなりません。



しかしながら、地上の人はそれほど強くありません。

あの世があることが判れば、つらいこの世を生きるのを放棄して、それが過ちとは知らずに、自らの意思で行ってしまう人もいると思います。



死んだら終わり、あの世などないと思っていたとしても、精一杯生きて、成長を果たすことができれば、それで良いと思います。

誤った認識は、後で改めることができます。

あの世があること、そしてこの世を生きる意味を私は知っています。

知っていながら成長を果たせなかったのならば、その代償を払うことになるでしょう。

霊的な知識のある人は、その知識を活かす生き方をしなければいけない、シルバーバーチの霊訓には何度も書かれています。

知識には責務を伴うことを、忘れてはいけないと思っています。



あの世があっても、生きていたいと思うのは、肉体を持つ人間の宿命です。

もし仮に、死がなくなり、この世に生き続けるとしたらどうでしょう?

それは、決して喜ばしいことではないと思います。



多くのスポーツは、限られた時間の中で競い合います。

残り時間を、気にしながらプレイします。

終わったら、振り返って、その試合を評価するでしょう。

ダメだった点を反省し、改善することで、強くなって行きます。



もし、試合時間に制限がなかったとしたらどうでしょう?

集中力は途切れ、疲弊してしまいます。

当然のことながら、試合の結果も出ません。

評価はできなくなり、改善にもつながりません。



この世を生き続けるとしたらどうでしょう?

時間の制限もなくスポーツの試合をしているのと同じです。

疲れ果ててしまうでしょう。

あるいは、終わりのないテレビのドラマを観ているのと同じです。

惰性的でマンネリ化し、終いには早く終わって欲しいと願うようになるでしょう。

時間が限られていて、終わりがあるからこそ、精一杯生きようとします。



成長するための第一歩は、自分自身を知ることです

あの世に行くと、この世の人生を振り返る時が訪れます。

自分の取った行動や想いの全てを回想することになります。

この世の人生を通して、自分を評価することができます。

良かったところ、悪かったところが自覚されます。

それを伸ばそうとしたり、なくそうとします。

死によって、リセットが必要なのです。

そんな理由もあり、この世とあの世を行き来しながら、霊的に成長して行く仕組みを、神は創造したと考えています。



楽しかった人生も、つらかった人生も、死と共に終わりを告げます。

病気や障がいのあった人は、悩ましい肉体から解放されます。

今までの苦しみや痛みが噓のようになくなり、何でも自由にできるようになります。

大切な人がいない世界で生きる悲しみや寂しさは、一瞬にして、同じ世界で生きる悦びに変わります。

生きることに追われて、やりたくてもできなかったことが、思う存分できるようになります。

この世で叶うことのなかった夢が、あの世では現実のものとなります。


この世を生きる人にとって、夢のような世界であるからこそ、あの世はベールに包まれています。

 あの世があることだけは、知っておいて下さい。




2021年12月12日日曜日

生きている意味


何で生きているのだろう?

こんな疑問を持ちながら生きていました。

その答えが、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)の中に書いてありました。

 


人は成長(進化)するために生きています。

けれども、本当に自分は成長しているのだろうか?と思うこともしばしばです。



霊と精神と肉体の複合体が、地上の人間です。

肉体的な成長は、身長や体重などの数値的な物差しで測れます。



しかし、霊的な成長は、地上的な物差しで測れるようなものではありません。

何か指標みたいものはないのでしょうか?

シルバーバーチの霊訓には、「慈悲」「慈愛」「寛容心」「協調的精神」「奉仕的精神」が霊的な資質と書かれています。

これらの資質がより多く表現されている人ほど、霊的に成長していると思います。

私たちは、これらの資質を高めるために生きていると考えられます。



そんなことのために生きているはずはない、人生を楽しむために生きていると言う人は少なくありません。

自分の好きなことをしているのは、誰でも楽しいものです。

旅行が好きならば、1年中旅行をしていたいと思うでしょう。

趣味に興じている時には、喜びを感じます。

1度きりの人生なので、思いっ切り楽しまなければ損だと言う声は良く聞かれます。



人生は一度きりではありません。

何度目かの地上の人生を、今、生きています。

死んだ後にも人生は続いています。

記憶にはありませんが、生まれる前にも人生はあります。

何度も生まれて来るのは、地上で身に付けなければならないことがたくさんあるからです。

死んだ後に待ち受けている世界(以下霊界)を、悦びに満たされながら生きるためです。



それでは、悦びに満たされるために、何故、地上生まれなければならないのでしょうか?

霊界は地上と大きく違う点がいくつかあります。

霊界に行くと肉体がなくなります。

肉体を養う必要がなくなり、食べて行くために働かなくても良くなります。



霊界は想念の世界です。

想像するのが難しいですが、想ったことが直ぐに具現化します。

欲しいものは何でも手に入り、やりたいことが何でもやれます。



もう1つ、大きく違うところがあります。

自分と(霊的に)似た人しか周りにはいません。

お互いが深く判り合えているので、人間関係の煩わしさはありません。



食べて行く必要がなくなり、好きなことが何でもできて、判り合える人たちと暮らしている霊界は、とても快適な世界です。

天国と言われる所以であり、ずっといたくなるはずです。

それでも、地上にあえて生まれて来るのには理由があります。



その理由は、苦痛の取り払われた霊界では起き得ない出来事を、地上で経験することができるからです。

経験することによって、大切な教訓を学ぶことができ、霊的な資質を身に付けることができるからです。



例えば、資質の1つである「慈悲」はどうでしょう。

身に付けようと思っても、身に付けられる類のものではありません。

自分が悲しみや苦しみを経験して、初めて他人の悲しみや苦しみが判るようになります。

想いが判り、何とかしてやりたいと思うのが、慈悲の心だと思います。

経験がなければ、経験している人の想いは判るはずもないので、慈悲の心を持つためには、それに相応しい経験をする必要があります。

相応しい経験が偶然起きるのを待っているのではなく、神の配剤により、初めから人生に組み込まれています。



「協調的精神」はどうでしょう?

霊界では同類の人たちと生活しているのに対し、地上では自分と違う人たちに囲まれながら生活しています。

周りの人の意見を認め、擦り合わせながら生きて行く必要があります。

そうしなければ、孤立したり、不調和が生まれて争いになってしまうこともあるでしょう。

戦争はその典型です。

因果律の働きのより、地上にしかない苦痛を味わいながら、協調的精神を学んでいます。



泳ぎ方を知らない人が、水に落ちたら溺れてしまいます。

呼吸ができなくなれば、死んでしまいます。

死なないために、呼吸ができる体の動かし方を、無意識のうちに見つけようとします。

もがき苦しみ、試行錯誤しながら、息が出来るような体の動かし方を見つけ出します。

一度、習得すれば、次に同じ経験をしても、もう大丈夫です。

苦痛を伴うことほど、そこから抜け出そうと必死になるために、早く、確実にその術が身に付けられると考えられます。


人には成長しようとする根源的な欲求があります。

居心地の良い霊界を離れて地上に生まれて来たのは、苦しみや痛みを経験することにより、早く、確実に大切な教訓が身に付けられるためと考えられます。

自分自身がそのことを望んでいたはずです。



私たちは、神が創造した、神の一部です。

けれども不完全な存在であり、完全(神)に向かって進化を続けています。

完全な叡智であり、完全な愛である神により、自然法則は創造されました。

地上に生まれたのも、さまざまな出来事を経験するのも、自然法則の働きによるものです。

偶然や運不運の入る余地は全くありません。

自然法則の働きによって、私たちは完全(神)へと導かれています。



地上で予定していた霊的な資質を身に付けると、自然法則の働きにより、肉体はその役目を終えて朽ち果てます。

魂は次の世界に移行し、新たな媒体よって自己表現するようになります。

幾重にもなった媒体を、霊性の高まりと共に1つ1つ脱ぎ捨てながら、完全(神)へと近づいて行きます。



果てしなく続く進化の一過程に、地上の人生があります。

苦しみや悲しみの経験は、魂の成長を促しています。

霊界に戻り、自分に足りなかった資質が、地上を経験して補われていることに気付きます。

身に付けた資質が、霊界での生活をより悦びに満ちたものにしています。

地上の経験は、完全に報われていることを知り、神の絶対的公正に深く感謝するでしょう。






2021年12月5日日曜日

自分を信じて一歩を踏み出す


仕事が休みの朝は、ちょっと遠くまで犬を連れて散歩をしています。

その時に、立ち寄っている神社があります。

村の鎮守さまのような小さな神社ですが、参道には背の高い杉が立ち並び、近所の人たちによって境内は掃き清められ、気持ちの良い空間です。

社の前に立ち、ブログが上手く書けますようにと、今日も祈りました。



ヒーリングをする時も、癒されることを祈念しています。

仕事で失敗が許されない時も、祈りながら臨んでいることがあります。

人前でスピーチする時なども、上手く行くように祈っています。

何かをしようとする時に、無意識に祈っていることが多いです。



以前は、神がいるなどと思わずに、形式的に手を合わせて祈っていました。

今は、霊的真理と出会い、さまざまな体験を通して、神の存在を実感しています。

神は高みから私たちを見下ろしているような存在ではありません。

自然法則の中に、顕現しています。



祈る時に問われるのは、その動機です。

神の心は愛です。

私たちが成長することを望んでいます。

人や動物や社会など、他者のための祈りであれば、自然法則と一致しているので、聞き届けられます。

困難を乗り越えよう、何かに挑戦しようと祈る時も、成長につながるので聞き届けられます。

金持ちになりたい、出世したいと祈っても、地上的な欲望を満たすためなので、聞き届けられません。



選挙の時に、立候補者が「皆様のために頑張ります」と演説しているのを聞きます。

その言葉を聞いて、応援しようとする人もいるでしょう。

けれども、霊界の存在はそう簡単には行きません。

言葉そのものではなく、そこに込められた想いを正確に読み取っているからです。

言葉とは裏腹に、自分の欲を満たすためであれば、聞き届けられないでしょう。



神に向かって祈ったとしても、直接力を貸してくれるわけではありません。

霊界の人たちは、地上に向けてアンテナのようなものを張り巡らしています。

地上の人の想いに同調した霊界の人が感応し、引き付けられます。

そして、祈りが成就されるように、働きかけるようになります。



霊界の人は、地上の人に想い(思念)を送って働きかけています。

送られた思念というエネルギーによって、多様な結果が生じます。

地上の人の不安や心配や怖れが払拭され、前向きな気持ちに変わることもあるでしょう。

やる気で満たされる時もあるでしょう。

道が拓けるインスピレーションが生まれるかもしれません。

思いがけず、助けてくれる人が現れたりするかもしれません。

そんなことがあると、運が良かったと片付けてしまいがちですが、実は霊界からの働きかけによる結果かもしれません。

偶然と思ってはいけません。

神は、地上の人の祈りに同調した霊界の人を通して、その力を顕現していると思います。



「私が勧める祈りの言葉は、たった一言しかありません。〝何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え″――これです。」と、シルバーバーチの霊訓には書いてあります。

これは私の経験です。

心の中で(霊的)奉仕をさせて下さいと祈ると、霊力を必要としている人から、直ぐに連絡がありました

そんなことが、幾度となく繰り返されるうちに、祈りは霊界に届いて、網目のように張られたネットワークによって、叶えられると思うようになりました。



地上の人が何かを始めようとすると、その想いに感応して霊界も動き始めます。

言い方を変えると、何かを始めようとしない限り、霊界は援助のしようがないと言うことになります。



しかし、この世は霊界と異なり、物質を介して表現をしなければならず、不確実であり、思い通りに行くとは限りません。

失敗もするので、つい二の足を踏んでしまいます。

一歩を踏み出すのに、勇気が必要になります。



何かを始める時には、不安や心配が付きまといます。

それを克服して進んで行かなければならない時があります。

自分を信じて、勇気を出して一歩を踏み出すしかありません。



自分を信じることの大切さは、多くの人たちが訴えています。

けれども、どんな意味なのか、深く考えたことはありませんでした。



地上の人には、2つの自分がいると考えています。

1つは、表に出ている自分です。

日常生活を営んでいる意識であり、地上の顔です。

シルバーバーチの霊訓に書かれている「パーソナリティー」です。



もう1つは、奥に控えている自分です。

非日常的なことが起きた時に表に出て来る意識です。

本当の自分であり、「インディビジュアリティー」に当たります。



インディビジュアリティーを地上で表現するために、パーソナリティーは存在していますが、ある程度の独自性を持っています。

エゴとはパーソナリティーが強くなり、インディビジュアリティーが表現されにくくなっている状態と考えられます。

パーソナリティーは肉体とインディビジュアリティーの間に存在しているため、両者と密接に関係しています。

そのために、表現媒体である肉体を守ろうとします。



火事で家に取り残された人を助けたくても、炎の中に入って行くのを躊躇してしまいます。

人を助けたいと思うのは、インディビジュアリティーの働きです。

インディビジュアリティーの中に神が存在しているからです。

パーソナリティーは炎の中に入れば肉体を失ってしまうと考え、インディビジュアリティーから生じる衝動を抑制しています。

地上ではインディビジュアリティーとパーソナリティーの間で、しばしば葛藤が起こります。

本当はこうしたいと思っても、別の自分が止めさせようとして、その間で揺れ動いてしまう経験は、誰もがあると思います。



インディビジュアリティーは、成長につながる行動を促しています。

パーソナリティーは、地上的な不利益を考えて、インディビジュアリティーの発現を抑制しています。



「自分を信じる」とは、パーソナリティーがインディビジュアリティーを信じることだと考えられます。

さらに言えば、インディビジュアリティーの中の神を信じることです。

神の力が、自分にも秘められています。

自分を信じることにより、神とのつながりが強くなり、目的を成就させる力が、無限の始源から引き出されます。



霊界では肉体が取り払われています。

それにより、神の存在がありありと感じられるようになります。

宇宙全体が神であり、全体を構成する神の一部として自分がいることに気付きます。

神の力によって生かされていることを、はっきりと認識するようになります。



肉体が有する五感では、神も神の力も感じることはできません。

そのために、地上では神の存在を信じなければなりません。

信じるという能動的な作業が、神とのつながりを結果的に深めて行くことになると思います。

祈りは、神とのつながりを深める最も有効な手段だと思います。



シルバーバーチの霊訓には「祈りとは自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為」と書かれています。

乗り越えなければいけないこと、挑戦しなければいけないことが地上で起きるのは、その時に何かに向かって無意識に祈ることにより、神とのつながりをより一層深めるためなのかもしれません。



上手行ったとしても、それは自分の力だけではありません。

何かをしようとする時に、内と外から力が与えられています。

知らずに神の力が働いているので、感謝しなければいけません。



勇気を出して、一歩を踏み出せば、後は何とかなります。