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2025年9月7日日曜日

霊的なつながりを意識する


 生きていると、不安になる時があります。

一人で生きている不安、経済的な不安、病気の不安、死の不安等々、挙げれば切りがありません。



肉体を持つと、五感で外部を認識するようになります。

目に見える世界が全てになります。

1人1人は完全に独立しているように見えます。



けれども、人と人の間には目には見えない霊的なつながりが存在しています。

語らなくても、相手の気持ちが分かる時があるのは、霊的につながっているからです。

遠く離れた人に、ヒーリングの力が届くのも、霊的につながっているからです。

困った人がいると、助けてやろうとするのも、霊的なつながりを感じるからです。



人間は独立して存在しているのではありません。

それぞれが自分の役割りを果たすことで、周囲(全体)とつながっています。

霊的につながっていることが分かれば、1人だと錯覚して、孤独や不安に襲われることはないでしょう。




経済的な不安を感じている人も少なくありません。

「魂が正常なら、つまり魂と精神と身体が調和して機能している限り、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。」

別のところで「条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果をもたらすことができます。」とシルバーバーチは言っています。

背後霊の導きを感じ取り、素直に行動に移すことができれば、必要なものが手に入るようになっていると考えられます。

そして、摂理に従って生きていれば、贅沢はできないけれども、生きて行くことはできると信じています。



病気は、魂と精神と身体の調和が失われると生じると言われています。

エゴ(精神)の働きが強くなり、本来の自分(魂)の想いを表現できなくなると、不調和が生じ、肉体上に病気として現れると考えています。

病気になり苦痛を味わうことで、本来の自分が目覚めて、想いを表現できるようになると、調和が取り戻されると考えられます。

付き合わなければならない病気もありますが、その経験により学ばなければならないこと、償わなければならいことがあるためです。

いづれにしても魂の成長へとつながっています。



死の不安ですが、肉体は消滅しても生命は存続しています。

記憶も個性も失われることはありません。

待っているのは、地上の苦から解放された世界であり、喜ばしいことです。



霊的な知識があれば、この世を生きる不安はかなり解消されるはずです。

けれども、地上を生きている限り、不安はどうしても生まれます。



不安は、肉体を持つと同時に生まれる、地上的な自我から生じます。

あの世に行き肉体がなくなると、その自我はなくなり、不安から解放されます。

そして、霊的な感覚がよみがえり、生命のつながりをはっきりと認識できるようになります。



地上的な自我(エゴ)の働きが強くなると、不安も強くなります。

解決不可能な現実に直面すると、地上的な自我(エゴ)に代わり本来の自分である霊的な自我が前面に出て来ます。

本来の自分を取り戻すと、生き方や考え方が大きく変わります。

安らかな気持ちでいられるようになるのは、霊的な自我からは不安や心配や怖れは生じないからです。



本来の自分を取り戻すためには、強くなったエゴの働きを抑えなければいけません。

座禅や瞑想をするのは、エゴの働きを抑えて、本来の自分を見い出すためです。



霊的次元に意識を向けるのは、本来の自分を取り戻すために有効と思われます。

意識するのが難しければ、守護霊の存在を思い浮かべてみて下さい。

自分よりも自分を知り尽くしているのが守護霊です。

何を求めているのかも承知しています。

守護霊を思い浮かべるのが難しいのであれば、亡くなった最も愛おしい人を思い浮かべて下さい。



思い浮かべた瞬間、傍に寄り添い、こちらからの想いが届くのを待っているでしょう。

親愛の想いが届いたならば、霊界にいる存在も親愛の想いを返してくれるでしょう。

その想いはエゴから生じる感情を抑え込む力となり、本来の自分を取り戻すことができると思います。



霊界の存在とのつながりが途絶えることはありません。

なぜなら、肉体があるかないかだけの違いで、地上に生きる私たちも同じ霊的な存在だからです。

目に見えなくても、つながっていることを忘れてはいけません。



神ともつながっています。

神を一言で表現するならば「全て」です。

私たちは神の心を表現する極小の一部です。

神の心である愛を表現すればするほど、神とのつながりは強くなります。

「全て」に感謝することによっても、つながりは強くなり、内から力が湧き出して来るのを感じられるかもしれません。



地上の人は、神そして霊界の存在とつながっています。

つながりを意識することで、内から湧き出す霊力、外から伝わる霊力により、不安や心配は和らぐはずです。



今朝、つながりを意識してみました。

しばらくして、自然に笑みがこぼれました。

霊界の存在たちの喜びの想いが伝わって来たようです。

霊界の存在が地上の人の想いを共有しているように、地上の人も霊界の存在の想いを共有することができると思います。



「神」や「魂」の存在の有無を論じる不毛な時代は終わりを告げようとしているように感じられます。

信じない人にも、神から届く生命力は流入し、神の法則は働いています。

守護霊は変わりなく守り導いています。

霊的なつながりが途切れることはありません。

死んでから、そのことに気付くのでは遅すぎます。



つながりを信じられる人は、霊的な恩恵をより享受することが出来ます。

意識することにより、本来の自分でいられます。

神の法則に背くことで生じる苦しみや痛みを味わうことなく、生まれて来た目的を成就する方向へと進んで行けます。



どちらを選択するのかは、個々の人に任されています。




2024年12月1日日曜日

幸せになるために生まれて来た


昔、ある国に王様がいました。王様は広大な領地を治め、金銀財宝を持っていましたが、なぜかいつも心が晴れず、不満や焦燥感に悩まされていました。宮殿の中で「どうして私はこれほどの富と権力を持っていながら幸せではないのだろう?」と考える日々を送っていました。

ある日、王様はその答えを見つけるために、王宮を離れて旅に出ることにしました。国中を歩き回りましたが、心が満たされることはありません。

旅の途中、一人の農夫に出会いました。彼は質素な服をまとい、麦畑で額から汗を流し、歌を口ずさみ微笑みを浮かべながら働いていました。働き終えた農夫が休憩をとっている時、王様は近づいて尋ねました。

「農夫よ、きつい仕事をしているのに、どうしてそんなに幸せそうなのだ?」

農夫は少し驚いた様子で、笑顔で答えました。

「陛下、それは簡単なことです。私は自分に必要なものがすべて揃っているからです。家族は健康で、毎日こうして畑を耕すことができ、食べ物を手に入れることができる。それだけで十分幸せです。」

王様は納得がいかず、さらに尋ねました。「だが、お金や豪華な衣装、大きな家を持ちたいとは思わないのか?」

農夫は再び微笑み、「もちろん、大きな家やお金があればうれしいかもしれません。でも、それがなくても私は十分に幸せなのです。毎朝太陽の光を浴びることができ、働ける健康な体がある。それ以上のものを求める必要はありません。」と言いました。

王様はその夜、農夫の言葉を思い返しながら宿に戻りました。農夫が何も持たずに幸せを感じられる理由が分からず、さらに悩みました。しかし、よく考えた末に気づきました。

「この農夫は、自分に与えられたものに感謝し、毎日の小さな喜びを見つけ、楽しむ習慣を持っている。私はすべてを手に入れようと焦り、今あるもののありがたさを見逃していたのだ。」

王様は宮殿に戻ると、今あるものに感謝する習慣を作り始めました。毎朝起きるたびに、健康であることや家族、臣下の忠誠を思い返し、それに感謝する時間を持つようにしました。すると次第に、不満や焦燥感が薄れ、心の平穏が戻ってきたのです。(終わり)

この逸話を読んで、目に見えるものを追い求めても幸せにはなれない、人は何かに感謝することで幸せを感じ、不平や不満を持つことで不幸せを感じるようになっていると思いました。



誰でも幸せばかりを感じていたいものです。

けれども、地上ではそうは行きません。

自分と似通った人たちばかりいる霊界と違い、地上は違う人たちに囲まれて生活しなければいけません。

そのため人間関係で苦労します。

人と比べては、羨ましがったり妬んだりもします。



霊界では自分が望むことだけをしていれば良かったのですが、地上はそれだけでは生きて行けません。

気が進まないこと、やりたくないこともしなければいけません。

そんなこともあり、つい不平や不満を口にして、自分が不幸せに思えてしまう時があります。



そんな地上に、なぜ生まれて来たのでしょうか?

霊界と地上で、明らかに違うところがあります。



霊界は一極の世界です。

真実しか存在しません。

光しか存在しません。

善しか存在しません。(地上近くは除く)

愛しか存在しません。(地上近くを除く)



地上は二極の世界です。

真実だけでなく偽りも存在します。

光だけでなく影も存在します。

善だけでなく悪も存在します。

愛だけでなく憎しみも存在します。



病気になって、健康のありがたさが分かると良く言われます。

冬の寒さがあって、春の温かさを感じることができます。

対極のものが存在して、初めて認識できるものがあります。



神は法則です。

法則を貫いているのは、完全なる愛です。

私たちは、法則に従って成長して行く存在です。

生きている究極の目的は、永遠の時をかけて完全な愛を表現できるようになることです。



霊界は想念の世界であり、愛に実体があります。

ありふれた存在となっているため、愛を学ぶのにはかえって難しいです。



愛は五感に触れるものではありません。

従って、地上では何もしないで認識することは困難です。

愛を想起させる出来事を経験することで、初めて認識できます。

あるいは、愛が波動として伝わって来て、魂が共鳴して認識することもあるでしょう。

怒りや憎しみなど比較対照となる地上ならではの感情があることによって、愛を鮮明に認識することができます。



「戦争」の対極にあるのが「平和」です。

「差別」の対極にあるのが「平等」です。

どちらが望ましいのか、言わずと知れています。

戦争や差別はあってはなりませんが、望ましい「片方」を学ぶために存在しています。



平和で平等な世界にするためには、互いを許し合い、認め合わなければいけません。

許し合い、認め合うためには、自我を鎮めて、全体を想う心(神の心)を表現する必要があります。

地上を悩ましている事象は、愛を表現することで根本的に解決することを、苦しみや痛みを味わいながら学んでいます。

大切な教訓を学ぶために、対極のものが存在する地上に生まれ、それに相応しい経験をしています。



明るい日差しの中で、ロウソクの光を認識するのは難しいです。

暗闇の中で、輝き出します。

この世で不幸と言われる出来事を経験しなければ、見つけることのできない幸せがあります。

両者は一対であり、片方だけが欲しいと言っても、それはできないのです。



不幸とは心が作り出している実体のないものです。

実体がなければ、心で消し去ることができるはずです。

前述の逸話のように、今の自分にないものではなく、あるものに意識を向けて感謝することができれば、不幸として感じられなくなるはずです。



今の自分には何もないと言う人もいるかもしれません。

人は生れる環境を自分で決め、どのような人生を辿るのかも了承しています。

全ての出来事は、神の法則(因果律)の働きによって起きています。

そこに、偶然や運が入る余地はありません。



全責任を神が負った上で、出来事は起きています。

神の心は愛であるがゆえに、最後には悦びを感じるように取り計らわれています。



たとえ地上で悦びを感じることができなかったとしても、出来事は必ず清算されます。

本来の住処である霊界で、学び成長できたことに悦び感じ、そのために地上の出来事が起きていたことを理解します。

完全な公正が働いていたことを、神に感謝するでしょう。





2024年5月5日日曜日

地上的な欲求、霊的な欲求

 

人間にはさまざまな欲求があります。

マズローの「欲求5段階説」

心理学者のマズローは、5段階の欲求があると提唱しています。

一番下にある生理的欲求は、食欲や睡眠欲など、生命を維持するための欲求です、

その上には、経済的な安定や健康な身体を保つなど、安全に、安心して暮らすための安全欲求があります。

その上には、友人や家族などの小さな集団から、会社や組織などの大きな集団まで、何らかの集団に所属しようとする社会的欲求があります。

さらに上には、他者に認められたい、または自分を認めたいという承認欲求があります。

一番上にあるのは、望んでいる自分になりたいという自己実現欲求です。



マズローによると、下位の欲求が満たされると、上位の欲求を満たしたくなるようです。

食欲などの生命を維持する欲求が満たされると安定した生活を求めるようになり、安定した生活ができるようになると人とのつながりを求めるようになり、人とのつながりができるとその人たちから認められたいと言う承認欲求が生まれるようです。



承認欲求は誰にでもあります。

会社に入ると、上司や同僚に認めてもらいたくなります。

子供は親に褒めてもらいたいです。

自分が高く評価されて、気分を悪くする人はいません。



承認欲求は、形を変えて広範囲に存在しています。

「プライド」もそうです。

プライドをくすぐられるとは、承認欲求が満たされることを指すと考えられます。

自己承認欲求が満たされないと「劣等感」が生じることがあると考えられます。

金持ちになりたい、有名になりたい、偉くなりたいなどの願望も、承認欲求から生じている場合ことがほとんどです。



欲求が満たされないと、苦しみのような感覚を覚えます。

そこから何とか抜け出したくなります。

空腹は苦しいものであり、どこかで食べ物を調達しようとします。

家に引きこもっている人は、社会的欲求が満たされていないため現状に苦しみを感じて、外に出て社会と関わりを持ちたくなります。



叱られたり、あるいは褒められたりすると、承認欲求が一気に高まることがあります。

上司に叱られると、仕事を頑張ろうとする人もいるでしょう。

もっと褒めてもらうために、一生懸命に努力をする子供もいるでしょう。

このように欲求は自分を高めることにもつながるので、無用なものではありません。



SNSでつながっていないと不安になる人がいます。

つながっていても、自分について書き込まれたことが気になります。

私自身も自院の検索サイトの口コミが気になり、見ることがあります。(初診の患者さんの数割は口コミの評価が受診理由になっています)

昔は知ることのなかった自分の評価が、電子媒体によって知れるようになりました。

良く見られたいという承認欲求を満たすために、私たちは大きな労力を払っているような気がします。



承認欲求が強い人の中には、幼少期に十分な愛情を受けていなかった人もいると考えられます。

十分な愛情を受けた人は、自分は守られているという安心感を潜在的に持っています。

受けていない人は、他者から認められることで安心感を得ようとする傾向があると思います。



私たちは、自我によって自己表現してます。

自我には、肉体を使って自己表現するための自我(以下地上的な自我)と、死んで霊界に行った時に自己表現するための自我(以下霊的な自我)があると考えています。

地上的な自我は、安全に快適に生きることを志向しています。

承認欲求が満たされると、周囲との関係が安定し、安心して生きられると感じられます。

このことから、承認欲求は地上的な自我から生じていると考えられます。



あの世に行くと肉体がなくなります。

同時に地上的な自我もなくなり、それと共に多くの欲求が消滅します。

ありのままの自分が認められる世界なので、承認欲求もなくなります。

残っているのは、自分を成長させたいという霊的な欲求と考えられます。



地上は霊界と違い、自分と違う人たちと共に生きる世界です。

違う人たちと共に生きるためには、お互いに認め合わなければいけません。

認めてもらわなければ、疎外されたり、時に敵対関係になってしまい、生きて行くのに不都合が生じます。

認めてもらいたい承認欲求は、地上を安全に、安心して生きるための欲求でもあるために、そこから逃れるは困難です。



認めて欲しくても、認めてもらえるわけではありません。

世の中には、因果律が働いています。

まず自分が相手を認めることによって、相手も自分を認めてくれるかもしれません。

20年位前でしょうか、私の医院にある言葉を多用する高齢のご婦人が訪れました。

その時のやり取りを再現すると

私「奥歯に虫歯がありますので、これから治療します。」

ご婦人「ありがとうございます。」

治療が終わった後の私「今日は奥歯の治療をしました。次回は前歯の虫歯の治療をします。」

ご婦人「ありがとうございます」

私「お大事にして下さい」

ご婦人 深々と頭を下げながら「ありがとうございます。ありがとうござます。」

通常は「はい」と答える人がほとんどですが、そのご婦人は笑顔で、気持ちを込めて、スタッフにも受付にも「ありがとうございます」と繰り返していました。



礼儀正しいと思うと同時に、そのご婦人に対して、もっと良くしてやろうという気持ちが生まれました。

何故、そんな気持ちが生まれたのか、今になって分かりました。

「ありがとう」という言葉によって、私の承認欲求が満たされたのです。

自分が満たされたので、因果律の働きによって、相手も満たしてやろうと言う気持ちが生まれたと思います。

相手を認める最も有効で簡便な方法は、感謝の意を伝えることかもしれまぜん。

認められたと感じると、相手を認めたくなるものです。



世の中には、飢餓で苦しんでいる人がいます。

そんな人たちを見て助けてやらなけばいけないと思っても、(段階は違いますが)それぞれの人に欲求があり、それが満たされなければ苦しみが生じます。

自分が苦しんでいるのに、人のことまで構っていられません。

飢餓や戦争がなくならないのは、そんな理由もあると考えています。



地上的な欲求には際限がありません。

自我から生じる地上的な欲求は、魂から生じる霊的な欲求を満たすことで、生じなくなります。

神の心を表現する、誰かのために何かをすることで、霊的に満たされます。



第2次世界大戦中のアウシュビッツ強制収容所での話です。

そこでの1日の食料は、パン1枚だったそうです。

ある男性は、そのたった1枚のパンを、お腹を空かした見知らぬ子供に手渡したそうです。

男性の生理的欲求(食欲)は全く満たされていません。

けれども、神の心を表現することで霊的な欲求が満たされていたので、地上的な欲求から生じる苦しみから免れていたと思います。



全体のために、1人ひとりが存在価値を持っています。

地上の苦しみから少しでも解放されるためには、自分の存在価値を果たす以外にありません。

それは特別なことでなく、今いる環境で良心に従って生きれば良いのだと思います。



2021年3月28日日曜日

感謝の気持ちを表現する


感謝の気持ちを表現するのは人間だけである。

そうなのでしょうか?

今から20数年前のことです。

道端にツバメのヒナが落ちていました。


後で知ったのですが、ツバメのヒナはそのままにしておくのが良いそうです。

落ちているヒナの近くには親鳥がいて、餌を運んで来るそうです。

そんなこととは知らずに、このままでは死んでしまうと思い、家に連れて帰りました。



幸いにも、ヒナは人間の手から餌を食べてくれました。

すくすくと成長し、部屋の中を元気に飛び回るようになりました。

ある日、窓を開けておいたら、空に向かって勢い良く飛んで行きました。


数日後のことです。

居間にいると、窓の外でバタバタとホバリングをしている鳥の姿が見えました。

こんなところで何をしているんだろうと近寄ってみると、何と部屋から飛んで行ったツバメみたいです。

数秒間、部屋の中を覗くように見ていて、しばらくするとどこかに飛んで行きました。



餌をもらっていたので、ここを巣のように思っていたのでしょうか?

そうではなく、私には何かを伝えに来たように見えました。

不思議な体験でした。



相手が自分にしてくれたことに対するお礼の意を表すことが感謝です。

言葉にすると「ありがとう」になります。



けれども、相手がしてくれても、感謝の気持ちを口にしない時もあります。

例えば、職場で部下に当たる人に指示をして、何かをやってもらったとします。

上司の指示通りに部下がやるのは当然と思ってしまうと、ありがとうの一言が出なくなってしまいます。



地上では、何かしらの肩書が付いて回ります。

仕事では、課長、部長、社長などの肩書があり、上下関係が存在します。

家庭では、父親、母親、夫、妻、兄、弟、姉、妹などの関係性が存在します。

部下だから、夫だから、妻だから、やってもらうのが当然と思うと、感謝の気持ちは薄らいでしまいます。



私たちが、次に行く世界はどうでしょう。

地上的な肩書は、全てなくなります。

肩書がなかった人も、絶大な権力を有する肩書の人も同列になります。

もし、高い役職にいて命令ばかりをしていた人が、地上時代と同じ態度で他の人に接すれば、大きな恥をかくことになります。

意味もないものに拘り続けているように見え、哀れに思われるかもしれません。



次の世界で、その人を計る物差しは魂であり、霊性です。

魂から放射されているオーラには、その人の全てが刻み込まれています。

オーラの色によって、どんな想いでいるのかも知れてしまいます。

剥き出しになった自分(魂)を隠すものは、もうありません。



肉体がなくなると、状況は一変します。

食べて行くために働く必要はなくなります。

ローンや家賃、その他の金銭的苦労もなくなります。

想像するのが難しいかもしれませんが、思念が実体の世界なので、衣服や家など、必要と思ったものが直ちに具現化されます。

生きて行くために必要だった労力は、大幅に軽減されます。

そのために、自分から周囲に意識が向くようになります。

周囲のために何か役に立とうとする気持ちが、地上にいた時よりもずっと強くなると考えられます。



霊界は無限の界層が連なっています。

上の界層に行くほど役に立とうとする想いが強くなり、人々の光輝は増して行きます。

人のためになろうとする想いに満ち溢れている世界は、きっと天国のように感じられるでしょう。



全宇宙に、不変の自然法則が貫いています。

基幹をなしているのが因果律の働きです。

原因と結果であり、自分のやったことが、自分に返って来ます。

誰かのために何かをすれば、因果律の働きにより、誰かが何かをしてくれます。

感謝の意念がインスピレーションとして伝わって来ることもあるでしょう。



それに比べて、地上は不完全な世界です。

因果律の働きの顕現も不完全です。

誰かのために何かをしても、何も返って来ない時も多くあります。



霊界では、自分の想いは相手に直接伝わります。

地上では、言葉など肉体で表現しなければ伝わりません。

きわめて煩わしい世界に生きているのですが、それが当たり前と思い込んでいます。

表現して伝えるのは、気力と勇気がいるので、魂と精神を鍛錬する意味もあるのかもしれません。

どんなに思っていても、言葉や行動で示さない限り、地上では感謝の気持ちは伝わらないのです。



印象的な人がいました。

仕事でお会いしたご老人ですが、感謝の気持ちを会う人会う人に言葉にしていました。

この人は一体 1日に何回「ありがとうございます」と言うのかと考えてしまうくらいです。

しかも、口先だけの言葉ではなく、心のこもったものでした。

自分が受けるものを、何でもありがたいと感じられる徳性を持った人なのでしょう。



そんな人は幸せになれると感じました。

人は感謝されると、悦びのようなものを感じます。

その人のために何かをすると感謝されて悦びを感じるために、もっと何かしてやりたいと思います。

多くの人に感謝する人は、因果律の働きにより、多くの人から良くしてもらえます。

別に期待しているわけではありませんが、自然にそうなります。

けれども、いろいろな人がいて、そうなるとは限らないのも、また地上です。



もし、感謝と言う概念がなかったとしたらたらどうでしょう?

車を運転していると経験しますが、道を譲るとハザードランプを点滅させてお礼をされます。

それがないと、何か物足りないような感じがする時もあります。

求めてはいけないのですが、お礼をされた方が気持ちが良く、次も同じことをしようとする気になれるのは確かです。



ふと、思ったことがあります。

地上の人には、霊的に成長し、歩むべき人生を歩むように、一生涯に渡って守護霊が付いています。

物事が上手く行った時や、危険が回避された時など、無形の援助を受けている可能性が高いです。

それは守護霊に与えられた役割なのですが、同じ人間の心を持っているので、地上の人から感謝されればうれしいに決まっています。(霊性の高い霊ほど感謝は神に捧げることを望むようです)

地上の人との関係はより強固のものとなり、その先も喜んで守り導いてくれるでしょう。

お陰様で、という言葉をよく使います。

「陰」とは、神や背後にいる霊のことを指していて、先人はそのことを知っていて感謝していたと考えています。



良く考えてみると、食べている物のほとんどは、自分では作れません。

着ている服も、自分で作ることも出来ません。

この世界は、1人では生きて行けないのです。

自分が出来ることをしたり、自分が出来ないことをしてもらいながら、この世界は営まれています。

お金を払っているのだから、役割だから当然と考えてしまうと、感謝の気持ちを伝えるのを止めてしまいます。

自分が出来ないことをしてもらった時に、素直に感謝の気持ちを表現できるようになりたいものです。

何故なら、当たり前のようにお互いを活かし合う次の世界において、感謝の意念は円滑に生活を営むために必要不可欠なものであり、周囲との間に調和を生み出すと考えられるからです。



愛に唯一の報酬があるとすれば、それは感謝の意念かもしれません。

愛と同じく、感謝も神の属性だと思います。

そうであるならば、神が内在している魂(生命)には、元々感謝の気持ちが備わっているはずです。

あの時のツバメは、お礼をしに来たと思っています。