2022年5月29日日曜日

生まれて来た目的


人生で最後にして最大のイベントは何でしょう?

それは死です。



死と聞くと、何か重苦しく、怖いようなイメージを持っている人が多いです。

肉体から自分が離れるだけです。

死ぬ時は、見た目ほど苦しくないようです。



死後も、変わりなく意識は存続しています。

肉体から解放され意識は、新たな世界が広がっているのを認識します。

その世界があの世(霊界)です。



死とは、元いた霊界に戻るための自然現象です。

肉体がなくなるので、食べることも、休息も必要なくなります。

具合が悪いところも、不自由なところも、全て消えてなくなります。

肉体からの欲求や情報が全くなくなり、今までにない軽快感を味わいます。



霊界は思念の世界です。

想像するのが難しいかもしれませんが、思い描いたものが、直ぐに目の前に現れるようになります。

お金がたくさん欲しいと思えば、大金が目の前に現れます。

ただ、物を買う必要がないので、価値は全くありません。

地上の肩書も失われます。

どんな高い役職の人でも、周りと同じ1人の人間になります。



肉体がないために、魂が剥き出しになります。

本性が露わになり、何を想っているのか一目瞭然です。

何も隠し立てすることができません。

それが真実の世界と言われる所以です。



話は変わりますが、学生の時に、1つ年を取るとどうなるでしょう?

自動的に1つ上の学年になります。

もし、同じ学年に留まらなければならないとしたらどうでしょう?

そのままでいるのは嫌です。

早く上の学年に行って、新しい経験をしたくなります。



霊界も同じです。

上の世界に行って、新しい経験をしたくなるようです。



霊界は、完全なヒエラルキーの世界です。

全てが霊性によって決まります。

優しく、思いやりがあり、親切心に富む人ほど、上の世界に行くことになります。



上に行くほど、慈愛に溢れています。

けれども、そこまでの霊性に達していない人にとっては、居心地が悪いようです。

自分の思念と合わないのを感じるからです。



ヒエラルキーの頂点に存在するのは「神」です。

けれども、神は独立している存在ではありません。

神は宇宙全体であり、宇宙全体が神です。

私たちも神の一部です。

神の心を持っています。

しかしながら、表現する媒体(自我)が不完全なために、神の心を完全に表現することができません。



自分のいる世界は、どれくらい神の心を表現できるかで決まります。

しばらくすると、今よりも上の世界に行きたくなるようです。

しかし、どんなに行きたくても、その世界に自分が相応しくなければ行くことはできません。

相応しい自分になるためには、成長するしかありません。



困難や障害を乗り越えること、他者のために奉仕をすることで、人は成長します。

地上では生きて行くために、お金が必要です。

お金を得るために、労働しなければいけません。

家事も対価のない労働です。

人や社会や家族のために何かをすることで、生活が成り立っています。

生きていること自体が、成長につながっています。



霊界は地上と違います。

霊界は、肉体の束縛や、人間関係の煩わしさから解放された快適な世界です。

困難や障害が取り除かれている分、地上よりも成長しにくいと考えられます。

誰かのために何かをすることで人は成長しますが、何もしなくても生きて行けます。

奉仕をする意欲に乏しければ、何もせずに過ごしても良いことになります。

それでは成長しません。

このままではいけないことに気付いて、自分を変えようとするのですが、霊界にいたままでは困難です。



自分を大きく変えるために、地上での経験がどうしても必要になります。

奉仕をする意欲を湧き上がらせるような人生が計画されます。

その計画を了承して、母体に宿ります。



もしかしたら、心身に大きな障がいを持って生まれるかもしれません。

大きな障がいがあれば、人の手を借りなければ、生きて行けません。

誰かに奉仕をしてもらう経験を、来る日も来る日もすることになります。

長い時間をかけて、人によって生かされている、1人では生きて行けないという想いを魂に刻んで行きます。

そして、自分が受け続けている奉仕を誰かに返したくなりますが、それもできません。



寿命が来てあの世に行く時が来ます。

肉体はなくなり、自由に何でもできるようになります。

地上時代に蓄積されていた、誰かのために何かをしたいと言う想いを、心ゆくまで表現できるようになります。

魂に刻んでいた想いにより、周りとの調和を大切にしながら生きるようになります。

地上の経験は、あの世に行った時に、奉仕の気持ちを湧き上がらせることにつながると思われます。

このように自分を変えるための計画は、地上でしか得られない経験によって、成就されて行きます。



この世に生まれると、本当に大切なものが視えなくなります。

地上の経験によって、視えなくなった大切なものが明らかになります。

愛より大切なものは、この世界に存在しません。

そのことに気付いた人は、全体のために、より自分を活かせるようになっています。



霊界を離れ、この世に生まれて、さまざまな経験をしているのは、魂を大きく成長させるためです。

全体のために自分を活かす悦びを知り、神の心を自然に表現できるようになれば、地上に生まれる目的の大半は果たされたと考えられます。

地上で学ぶことのなくなった魂は、自律的に霊界で成長するようになり、上の世界へと行けるようになります。



2022年5月22日日曜日

信じることの大切さ

今から、10年位前のことです。

山道を車で走っていると、大きな犬2匹が道端を歩いていました。

周囲に飼い主の姿は見当たりません。

どうやら野良犬のようです。



最寄りのコンビニまで行き、ドッグフードを買って、その犬たちに与えました。

お腹が空いていたのでしょう、ムシャムシャと一気に食べてしまいました。

2匹の犬は、30㎏以上ありそうなクリーム色のオスのラブラドールと、それより小さめのメスのラブラドールでした。



妻は飼い主のいない犬猫を保護して、新しい飼い主を探す活動をしています。

何とか捕獲して、譲渡できないかと言う話になりました。

慣らすために、次の日から餌を与えに行くことになりました。

ラブラドールは、人のことが大好きな犬種です。

けれども、触ろうとすると、吠えて威嚇しながら、逃げてしまいます。



毎日餌を与え続け、1ヶ月くらい経った頃に、同じ動物愛護団体の人と共に捕獲することになりました。

1人が捕まえて、もう1人が首輪をかける段取りだったそうですが、大きな犬ですので、噛まれたら大けがをする可能性があります。

隅に追い詰めて、突進して逃げようとしたところをヘッドロックをして妻が捕まえたそうです。

首輪がかけられ、捕獲は無事成功しました。

もう1匹のメス犬は、すんなりと保護することができたそうです。



抵抗して噛まれてもおかしくない状況ですが、捕まえた瞬間に大人しくなり、従うようになったそうです。

ヘッドロックされた時に、危害を加える力ではないことを感じ取ったのかもしれません。



2匹を獣医の元に連れて行き検診してもらったところ、病気はありませんでした。

年齢は5,6歳とのことでした。

繁殖犬としてブリーダーに飼われていて、何らかの事情があって捨てられたようです。

人間の身勝手さに憤りを覚えますが、これは決して珍しい話ではありません。

大きな体を維持するために、食べ物を確保するのも大変だったろうと思います。

良くぞ山の中で生き延びていたと、声をかけたくなりました。



オス犬を「ジョン」君、メス犬を「レノン」ちゃんと名付けました。

2匹合わせて、ジョン・レノンです。

私の家で、ジョン君を保護することになりました。



ジョン君には、強い人間不信がありました。

餌もあり、寝床もあるので、いくらかは安心したでしょうが、心を開いてはいませんでした。

家には、保護犬から家族になった親子の3匹がいました。

母犬のしろはジョン君と同じ山を放浪しているところ、保健所に捕獲されて、私の家で引き取ることになりました。

1歳に満たなかったのですが、その時に妊娠していて2匹の子を産みました。

我が家のしろ

この3匹は、家の中で当たり前のように人と触れあい、遊んで、甘えて来ます。

そんな犬たちの姿は、ジョン君にどう映っていたのでしょうか。

今までに見たこともない光景だったと思います。

部屋の中にある自分の小屋から、じっと眺めていました。



見ていて気になったところがありました。

ジョン君は大型犬であり、飼い犬は柴犬位の中型犬です。

ケンカをすれば、勝負は明らかです。

ところが、メス犬の1匹に追い立てられて、体格に優るジョン君は逃げ回っていました。

大きな体格に見合わず、自信がないように見えます。

どうしてだろうと思いました。



両者の間には、決定的な違いがありました。

家の犬は、母犬や人間の愛情を受けて育ちました。

しかし、ジョン君は商売の道具として扱われ、満足な愛情を受けて来なかったと思われます。

自信のあるなしは、性格的なもの以上に、受けて来た愛情のあるなしに関係しているのではないかと思いました。



自分に自信がないと言う人がいます。

そんな人たちの中には、ジョン君のように十分な愛情を受けて来なかった人がいるのではないかと思いました。

幼い時に受けた愛情は、時を経て、生きる力、自分を支える力になると思います。

人も動物も、愛情を持って育てれば、それだけで自信を持って生きて行けるのかもしれません。

ふと、そんなことを思いました。



当然のことながら、犬にも感情はあります。

捨てられたこと、裏切られたことは判っていて、人に対して怒りや哀しみの感情を持っていると思います。

それだからこそ、最初は人が信じられずに、威嚇していたのだと思います。



不信感を取り除き、怒りの感情を鎮めるのは、しつけや指導ではありません。

人間が裏切っておいて、人間が指導したりしつけるなんて、おこがましいような気がします。

ジョン君は、家の犬たちの様子を見ながら、自然に学んで行きました。

「人間は心許せる存在だよ」、「信じられる存在だよ」と、3匹の犬たちから教えてもらったと思います。

元々は、人のことが大好きな犬です。

愛情を受けずに、人に裏切られ、つらい思いをして、信じられなくなっていただけです。

少しずつ心を開いて行き、他の犬たちと一緒に散歩をしたり、遊ぶようになりました。



その後、ネット上でジョン君の飼い主を募集したところ、応募がありました。

東京在住の若いご夫婦でした。

ご主人はプロのスポーツ選手で、チームのリーダー的存在でした。

奥様は心がきれいで、とても優しい人でした。

ご家族にジョン君は加わりましたが、しばらくすると劇的な変化を見せました。

ご主人の力強いリーダーシップに安心し、奥様の明るいオーラに傷ついた心が癒されたのでしょうか、人間不信は完全に払拭され、愛情を求めるようになりました。

山で見つけた時とは、別の犬のようになりました。

お二人とも、ジョン君に心から信じてもらえる人だったのです。



動物の譲渡は人間の手によって行われます。

しかし、保護した動物と新しい飼い主のマッチングは、霊界によって行われていると思います。

霊界は、ジョン君がどのように生きて来たのかを知っています。

そして、これ以上ない人と巡り合わせてくれたと考えています。

偶然などではありません。

愛情を必要としている犬には、愛情に溢れた家族が導かれて来ます。

元気を必要としている家族には、元気を与える犬が導かれて行きます。

双方の目的が合致する犬がモニター上に現れた瞬間に、「この犬だ!」と思わせるインスピレーションが、新しい家族になるべき人に吹き込まれていると思います。

インスピレーションを受け取った人は、一目ぼれのような状態になります。

幸せになった動物たちを見ていると、そんな霊界の導きをひしひしと感じます。


家で保護していた時のジョン君

愛は何よりも大切です。

いくら愛を与えようとしても、相手が受け取ってくれるわけではありません。

まず信じてもらわなければいけません。

信じてもらうことで、心と心はつながり、初めて愛が伝わります。

信じ合うことなしに、愛し合うことはできないのです。

信じてもらおうとするのではなく、信じてもらえる人間に自分がならなければいけないと思いました。


新しい飼い主さんの家で寛ぐジョン君(奥様のサイトより)

前半で受けることができなかった愛情を、後半で取り戻すことができました。

人を信じ、大好きになって、ジョン君は霊界へと旅立つことができました。




2022年5月15日日曜日

あの世の存在が証明されない理由


「あの世はない」

「天国とは闇を怖れる人のおとぎ話に過ぎない」

著名な英国の物理学者である、スティーブン・ホーキング博士は、生前そう語っていました。

下のグラフは、あの世があると思っている人がどれ位いるのかの調査結果です。(公益社団法人ホスピス財団のホームページより)

全体の42.4%の人が、あの世があるのかないのか決めかねると答えています。

男性に比べて女性の方が、あの世の存在を信じているようです。

年を取るほど、信じている人が少なくなる傾向にあるようです。

多くの人があの世の存在に懐疑的なのは、客観的に証明されていないためと考えられます。



もし、あの世があるとすれば、魂も存在するはずです。

しかし、魂はこの世のどんな電子機器をもっても、感知することはできません。

その理由は簡単であり、この世のもの(物質)とは次元が異なるからです。

悲しみや喜びを機器で測れませんが、それと同じ理由です。

測れないからと言って、感情の存在を否定する人はいません。



魂やあの世の存在を否定する人は、生命とは肉体であり、脳波が平坦になったら全てが終わると思っています。

現実は、終わりになることはありません。

新たな環境で、生命活動は続いています。

けれども、そんな人は意識があるので、この世を生きていると錯覚してしまいます。

自分の身に起きている変化について理解ができません。

(地上の人に)しゃべりかけても無反応です。

物に触ろうとしても、指が素通りしてしまいます。

景色が薄ぼんやりとして、はっきりと視えません。



ふと、周囲を見回すと、自分の存在を認識している人たちがいます。

良く見ると、先に逝った人たちです。

しばらくの間、再会の悦びを分かち合います。

その人たちから、もうこの世の人間でないことを告げられるでしょう。

地上では、自分の葬式が挙げられて、動かなくなった肉体が荼毘に付されます。

それなのに、依然として意識があります。

骨になった自分を見て、自分の本質は肉体でなかったことに気付きます。

このようにして、起きたことを少しずつ理解して行き、新しい世界での生活が始まって行きます。

それでも現実に起きていることを頑なに否定し、この世に生きていると思い続けるのなら、新しい環境に馴染むことはありません。

いわゆる地縛的な状態となります。



こんな面倒なことが起きないためにも、あの世の存在が客観的に証明されて、死に備えることができれば良いのにと思う時があります。

証明されれば、それにより恩恵を受ける人もたくさんいます。

大切な人を失い悲しみや苦しみに打ちひしがれている人に、あの世の存在が証明され、そこで故人が生きていて、また会えることが判れば、どれほど癒されるでしょう。



しかし同時にリスクを伴います。

あの世で生きているのなら、自分もそこに行きたいと思うかもしれません。

逢いたい気持ちを抑え切れなくなり、行動に移す人もいるでしょう。



災難が降りかかり、精神的に追いつめられた人がいます。

もし、そんな人にあの世があることがはっきりと判ったら、つらいこの世に別れを告げてしまうかもしれません。



あの世は素晴らしい世界のようです。

食べて行くために働く必要はなくなります。

煩わしい人間関係も一切なくなります。

嘘のように生きるのが楽になります。

その様子がはっきりと判ったら、この世を生きているのが馬鹿らしくなり、さっさとあの世に行ってしまう人も少なくないと思います。

人間は、それほど強くありません。

あの世のことが判るほど、死の誘惑に負けてしまう人が多くなると考えられます。



人は、学び成長するために、この世に生まれて来ています。

この世で遭遇する出来事を乗り越えること、人や動物や社会のために奉仕をすることで成長して行きます。

強く、優しくなるためです。

成長するために、生まれる前に計画されていた出来事が起こりますが、そのことはすっかり忘れています。

ぎりぎりまで追いつめられたとしても、何とか乗り越えて行くと誓って、この世に生まれて来たのです。

そうとは知らずに、あまりにもつらくて、死の誘惑に負けてしまったら、どうなるのでしょうか?

待っているのは暗闇です。

死ぬ直前のつらい状態はそのままです。

大きな過ちを犯してしまったことに気付くことになります。

そして、深い後悔に襲われます。



およその寿命は決まっています。

この世に生まれた目的を無事に果たしたら、自然に肉体から魂が離れて、あの世に行くようになっています。

目的を果たさないうちに、自分の意志であの世に行くことは、自然法則に反しているので、絶対に許されないのです。

どんなにつらくても、その時が来るまで、生きなければいけません。



どれ位の間、暗闇に閉じ込められるのかは、自然法則(神)によって厳格に計られます。

何よりも行動を起こした動機が問われますが、人に良くしたり、世の中のために貢献した人は、(功罪が相殺され)その分短くなると考えられます。

暗闇から抜け出した後は、後悔を晴らすために、もう1度この世に生まれて来ることになるでしょう。

罪を償うために、前生以上に、死の誘惑を伴うような出来事を経験する人生を歩むことになると考えられます。

自然法則の働きによって、そのような顛末が待ち受けています。



無知ほど恐いものはありません。

あの世があることがはっきりと判ってしまったら、このような自然法則の働きなど知らずに、そちらに行こうとする人が後を断たないような気がします。

そう考えると、自然法則の働きを知らない人がいるうちは、あの世の存在は証明されない方が良いのかもしれません。

先が見えていない方が、この世にしがみついて生きようとすると思います。



ところで、前述の調査結果の中で、1つ疑問に感じたことがありました。

それは、年を取るほど、あの世の存在を信じなくなることです。

死が近づくほど、あの世を身近に感じるようになると思っていたので意外でした。

その理由は定かではありませんが、霊界からの働きかけもあるのではないかと思いました。

死んだ後のことが気になり、あれこれと考えるよりも、残り少ない人生を有意義に生きることの方がずっと大切なので、敢えて信じさせないようなインスピレーションを送っているような気がしています。



誰もがあの世に行きます。

冒頭のホーキング博士もそこにいます。

不自由な肉体から解放され、さぞ感激されたでしょう。

想像もしていなかった世界が広がっていて、神の法則が働いていることがはっきりと判り、きっと驚嘆されたと思います。



あの世の存在は、今のところ証明されていません。

自然法則の働きを知らずに、過ちを犯してしまうことがないように、証明されるべきものではないと思います。




2022年5月8日日曜日

神の目的


以前は、神の存在を信じていませんでした。

信じていないよりも、関心がなかったと言う方が正確かもしれません。

神は、宗教に関わる人たちがこだわっている概念であり、一生関係ないだろうと思っていました。

存在を確かめようがないものを、信じることはできませんでした。



シルバーバーチの霊訓と出会い、初めて神について思いを巡らすようになりました。

今は神の存在を信じています。

神とは法則です。

神の心が法則となって顕現しています。


法則が働いているのは、誰もが知っています。

有名なのは、万有引力の法則です。

もし、この法則が働いていなければ、地面に立つことはできず、空に向かて石を投げても落ちて来ることはありません

地球が太陽の周りを回ることもなく、生命は誕生しなかったでしょう。

法則によって、宇宙は経綸され、秩序が保たれています。



全ての自然現象は、法則の働きにより起きています。

生まれるのも死ぬのも、自然現象の一環です。

病気もそうです。

神を信じる、信じないにかかわらず、人生のあらゆる局面に法則は働いています。



人は肉体だけの存在ではありません。

肉体を動かしているのは精神です。

その高次に、霊(魂)が存在しています。

精神とは、真の自分である霊(魂)と肉体の間に介在している媒体です。

霊(魂)、精神、肉体の3つが連動しながら、私たちは地上を生きています。



霊、精神、肉体、存在している次元はそれぞれ違います。

働いている法則も、それぞれ違います。

精神的次元の法則が働いて、精神に変化を起こします。

物質的次元の法則が働いて、肉体に変化を起こします。

例えば、褒められたら笑顔になるのもそうです。

褒められたらうれしくなるのは、精神的次元の法則の働きによるものです。

うれしいと笑顔になるのは、肉体的次元の法則の働きによるものです。

褒められたら笑顔になるのは、2つの次元の法則が同時に働いた結果です。

そして、原因に対して同じような結果が起きるのは、因果律という霊的次元の法則が働いているからです。

根底にあるのは霊的次元の法則ですが、それぞれの次元の法則が密接に関連し合いながら、現象が起きています。



法則を創ったのと、私たちを創った存在は同じです。

その存在を、神と呼ぶことにします。

私たち人間には、自由意志が与えられています。

自由意志があるため、望ましくない方向に進んでしまうこともあります。

進み続けないために、法則が働いています。

法則に反した行いをすると、因果律の働きにより、苦しみや痛みを伴う現象が起こります。

苦しみや痛みを感じるのが嫌なので、最終的には法則に従うことになります。

神は法則によって、私たちを意図する方向に導いています。



霊的真理を学ぶ中で、理解に苦しんだことがあります。

それは「あなた自身も神」と書かれていたことです。

自分が神であるはずがないと思い、少し混乱しました。



別のところでは、こうも書かれていました。

「良心とは内在する神のモニター(監視装置)」

良心は確かに存在しています。

間違ったことをしようとすると、心の中で何かが訴えているのが判ります。

訴えを言葉にするならば「してはいけない」になるでしょう。

心に強いブレーキがかかるのを感じる時があります。



溺れている人がいたら、助けなければと思います。

棄てられた子猫がないていると、何とかしてやりたくなります。

それも、自分の中に良心が存在するからです。

神は、良心という形となって、私たちの心に顕現しています。

身の危険を顧みずに助けようとする人がいますが、その人を通して、神の心が顕現しています。



行動するのか、しないのかを決定しているのは、自分です。

その自分を地上的な自我(以下自我)と呼ぶことにします。

精神的次元に形成された自我は、物質的次元の肉体や外部環境から大きな影響を受けています。

そして、安全に快適に地上を生きることを志向しています。

溺れている人を助けようとして、二の足を踏んでしまうのは、自我の働きによるものです。

良心の声に抵抗し、時に無視をします。



私の身に起きた苦痛を伴う出来事も、良心の声がしていたのに、自我が適当な理由を付けて、無視してしまったために起きました。

良心に従わないと、痛い思いをする。

自らの経験を通して、自分の中に良心という神がいると思うようになりました。


約300年前に作られたストラディヴァリウス

バイオリンの名器にストラディヴァリウスと言うのがあります。

名手が弾いたら、素晴らしい演奏になります。

素人である私が弾いたら、聴くに堪えない雑音になります。

どんな素晴らしい楽器を持っていても、それを表現する人の技術が未熟であれば、特性は活かされません。



私は神を宿しています。

しかしながら、表現している自分(自我)があまりにも未熟なために、神の心とは程遠い表現になっています。

時に、真逆の怒りや嫉妬を表現してしまうこともあります。



楽器を弾くのは、一朝一夕には行きません。

演奏技術を身に付けるためには、日々、練習しなければいけません。

練習することなしに演奏の上達がないように、経験することなしに魂の成長はありません。

未熟な私が、完全(神)に近づくために、相応の経験をして行くことになります。

地上でしか起こり得ない出来事を経験するために、計画的に生まれて来たのです。



強くなるために、困難や障害を経験しているのかもしれません。

優しくなるために、悲しみや苦しみを伴う経験をしているのかもしれません。

さまざまな出来事を経験することによって、魂は鍛えられ、学び成長し、より神に近い心を表現するようになって行きます。



神の心は愛です。

魂と魂を引き付ける力が愛です。

神は、物質的にばらばらになった個と個を、愛の力によって、再び1つにさせようとしています。

そのために法則は働いています。



自我が取り払われ、完全な神の心を表現するようになるのには、永遠の時が必要です。

1つになるまで、私たちは果てしなく生き続けます。


2022年5月1日日曜日

カルマについて


「カルマ」と言う言葉を知ったのは、今から27年前です。

地下鉄サリン事件が起こり、主謀者が被害者は「カルマを清算するために死んだ」と言っていました。

得体の知れない宗教団体の教祖が、無茶苦茶なことを言っていると、その時は思いました。



それから10年の月日が流れ、霊的真理と出会いました。

カルマは宗教が作り出した、架空の概念ではないことを知りました。

自然法則の働きによって、実際に生じています。

私自身に起きた出来事を通して、因果律の働きとカルマの存在を実感しました。



自然法則に反した行いをすると、自動的にカルマが生じます。

カルマは自然に消滅するものではありません。

何かしらの苦痛を伴う結果を生じさせます。



病気や障がいの多くはカルマによって生じると思われていますが、自然法則に反した行いをしていたとは限りません。

さらなる魂の向上を志願して、病気や障がいが生じる身体に宿ることもあります。



ある日突然、降って湧いたように出来事が起きて、それが苦痛を伴うものであれば、カルマの存在を否定できません。

私たちが知ることのできるのは、この世の人生だけです。

原因が全く判らないのであれば、生まれる前にあるのかもしれません。



もし、死んだら終わりと考えるのなら、カルマなど存在しません。

起きること全てが偶然です。

運が悪かったと諦めるしかありません。



死後にも生があります。

生まれる前にも生があります。

そのことを認められるなら、偶然ではなく、生まれる前に何か原因があって、因果律の働きによって、この世に結果が生じていることを認められるはずです。



カルマの解消は、償いであると同時に学びです。

自然法則の働きを、苦痛を通して学んでいます。



霊的な法則を、言葉で表現するのは難しいです。

神の摂理は愛です。

愛を表現するのを妨げることは、自然法則に反しています。



疑うこともそうです。

地上では人の心の中が判りません。

どうしても疑ってしまいます。

神が求めているのは信じることです。

信じなければ、魂はつながらず、対象に愛を表現することができません。

疑うことにより、望ましくない結果が生じます。

そのことは、今、起きている戦争を見れば明らかです。

疑いから怖れが生まれ、怖れから逃れるために、力によって屈服させようとしています。



神の摂理に反する行いに対して、苦痛を伴なう結果が生じます。

今の苦痛は相手のせいと思ってしまうと、それが新たな怒りや憎しみを生じさせることになり、さらに苦痛が増長されることになります。

その想いを行動によって表現すれば、攻撃的なものとなり、それにより新たなカルマが生じて、それが苦痛となって自分に返ってきます。

悪循環を断ち切るためには、他者のせいにするのを止めなければいけません。



カルマが解消されないうちは、学ぶことができずに、苦しむことになります。

どうしようもなくなった時に、魂が目覚め、真実がひらめきによって提示されるかもしれません。

「苦しみの原因は自分にあり、自分自身が変わらなければ続くことになる」

そのことを学んだ瞬間、自分が変わり始め、苦しみから解放されて行きます。



全ての出来事は、自分を成長させるために起きています。

自然法則の働きによるものであり、そこに神の意志が反映されています。



カルマが解消されるまで、成長が許されません。

償いが終わるまで、自分が変ることが許されません。

自然法則の働きを学ぶことが許されません。



例えば、人を裏切り、貶めた人がいたとします。

その行為は自然法則に反しているので、どこかで因果律が働いて、苦痛を伴う結果が生じます。

今生で生じなければ、次の地上の人生に持ち越されます。



ある日、何かに裏切られることになるかもしれません。

原因が過去の人生あり、因果律が働いていたとは思いません。

人や社会を恨んだりします。

あるいは、運命を呪ったりするかもしれません。

その想いが、自分の成長を妨げることになります。



愛を表現すること(誰かのために何かをすること)で、人は成長します。

憎しみや恨みを抱いているのに、他者に愛を表現することができるでしょうか?

怒りや憎しみや恨みの感情が生じているうちは、成長ができなくなります。

その感情は、自分の行為により相手に与えた感情と同じものであり、同じ大きさになります。

怒りや憎しみや恨みの感情は、自らのカルマによって作り出されている可能性があります。

周りのせいではなく、身に起きた出来事の原因は自分自身にある可能性があります。



神の叡智は完璧です。

罪を自覚させ、改めるような出来事を生じさせます。

償いに過不足はありません。

カルマが大きいほど、その感情が強くなり、長く続きます。

感情に苛まれ、苦しむことが、過去の行為の償いとなっています。



感情が消えて行き、苦しみから解放されたのなら、償いが終わる時が来たのです。

人を苦しめることになる、過去に自分がしていた行為は、絶対にしないという心境になります。

このようにカルマは解消され、最後に学びへとつながっています。