2016年2月28日日曜日

過去の出来事を許す



中学時代の同窓会が、何年かに1度あります。

私は幹事のため、クラスメートに電話で連絡を取って出席を促します。

せっかくの機会なので集まらないかと誘っても、別に用事があるわけでもないのに、どうしても出席しない人たちがいます。

その中には、中学時代に嫌な出来事があって、わだかまりを抱えている人もいるのではないかと思います。

中学時代は、子供から大人に変わる、人生で最も不安定で、多感な時期であり、同級生から受けた言葉や行為で、心が傷ついてしまった人は、意外と多いのかもしれません。

いじめのような行為をした本人は、すっかり忘れてしまっていることが多いのですが、された側は深く傷つき、数十年を経っても、忘れられないのかもしれません。

私も、理由も判らずに受けた暴力的な言動に対して、言葉では表現できない想いを抱いた経験があり、その想いが、長い間、居座っていました。

子供の時は、心が無防備であるため、他者から傷つけられ易いと思われます。

しかも、想いを上手く表現できないために、内に想いが溜まってしまい、苦しんでいる人が多いと思われます。

親に泣き言を言ったり、友達に想いをぶつけたり、あるいは部活動などで発散できれば良いのですが、不幸にしてそれが出来ずに、徐々に想いが溜まっていく子供たちもいます。

溜まった想いが限界に達して、外向きではなく、内向きに表現されてしまうと、自らを破壊するという、極めて悲劇的な結末を迎えてしまう恐れがあると思います。



大人であっても、わがままや、貶(おとし)めるような理不尽な言動をされ、自分が傷つけられたり、窮地に立たされたとしたら、強い怒りや憎しみの想いが沸き上がってしまいます。

こちらが傷ついているにもかかわらず、相手が何の反省もせずに、平然としていたのなら、想いは膨れ上がり、居ても立ってもいられない心境になってしまいます。

これで、良いはずがありませんが、誰が何をしてくれるわけではありません。



誰からも責められず、咎められなかったとしても、神の摂理は完ぺきに働いています。

法律からは逃れられても、神の摂理からは逃れられません。

地上の物質に万有引力という物理法則が働いているように、魂には霊的な法則が働いています。

1つ1つの出来事に対して細大漏らさず法則は働いていて、誰かに苦痛を与えた分、周囲に被害を与えた分、相応の償いをしなければいけません。

もし、今生で償われなかったとしても、死後に償うことになります。



生まれてから死ぬまでの、全ての言葉や行い、想いまでも、魂に刻み込まれていきます。

そして、魂に刻み込まれた、恥ずべき行為を消し去るためには、相応の苦痛の経験を通して、霊的な償いをするしかありません。

苦痛の経験は、自分の過ちに気付き、神の摂理に従うためにあります。

よって、怒ったり憎んだりする必要は、本当はないのです。

償う時が、必ずやって来るのでからです。

それでも、怒ったり憎んだりするのならば、自らの成長を妨げて、苦しみを味わうだけです。

破壊的な想いであるために、何一つ良い結果をもたらしません。

因果律の働きにより、苦痛を伴う結果となって、また自分に返って来るだけです。



そうは言っても、この世に生きている限り、怒りの感情から解放されることはありません。

さまざまな成長過程にある人(魂)が、同じ平面上で交わりながら、生きているからです。

思いやる人もいれば、傷つける人もいるのが、この世です。

傷つけられれば、怒りや憎しみが生まれ、仕返しをしてやりたくもなります。

しかし、多くの人と接しながら、たとえ嫌なことがあったとしても、怒りや憎しみの想いを、なるべく生まれないように修練するのが、この世を生きる意味の1つだと思います。

いざ生まれてしまった怒りや憎しみの想いと、どう向き合っていくかも、きわめて重要であり、人生は大きく変わって来ると考えられます。



怒りや憎しみの想いに、捉われて生きている人は、少なくありません。

「もう、そろそろ許してもいいんじゃないか」と、人から言われたとしても、それで許せるようなものではありません。

時が経ち、記憶としては忘れかけたとしても、怒りや憎しみの想いが消えて行く訳ではありません。

いくら時が経過しても、想いが残っている限り、ふとした出来事をきっかけに、蘇って来ると考えられます。

想いは、内で生きているとも言えます。



過去にあった出来事で、今も苦しんでいる人がいます。

そんな人は、過去の出来事に苦しんでいるのではなく、その時に生じた、肉体で表現できなかった想いにより、苦しんでいます。

過去に生じた想いは、肉体的な表現を求めていますが、それが出来ないために、今も苦しんでいます。



目に見えず、人にも知られない想いにも、自然法則が働いています。

それが、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬など、自然法則(愛)に反した想いであると、因果律の働きで、苦しみを感じます。

自分の想いに、自分が苦しむことになります。

苦しみの本体は、怒りであり、憎しみであり、恨みであり、嫉妬です。

 人は、出来事の記憶と、その時に生じた想いを混同しがちですが、いつまでも強く記憶に残っている出来事は、その時に生じた想いの裏打ちがあるはずです。



苦しみから逃れるのには、その対象を許すしかありません。

許すには、自らが寛大にならなければいけませんが、寛大になろうと思っても、なれるはずもありません。

寛大になるには、相応の魂の成長を伴わなければいけません。

人生は、望むと望まざるとにかかわらず、さまざまな出来事に遭遇します。

それらの出来事を、もがきながらも、自分なりに乗り越えて行く過程を通して、魂は少しずつ成長していきます。

職場での仕事や、家庭での仕事も、生きて行く上での義務でもありますが、自分以外の者への奉仕には違いなく、毎日、少しずつ成長させていると思われます。

今を真剣に生きていれば、意識しなくても、魂は成長していると思われます。



小学生の時に難しかった問題が、中学生になると易しく思えるようになります。

解けなかったのは、問題が難しいからではなく、解けるレベルまで、自分が達していなかったからです。

もし、学校でテストがなければ、生徒は大喜びです。

しかし、テストがなければ真剣に勉強をしようとする気は、なかなか起こりません。

テストがあった方が勉強し、多くのことが学べるのは間違いなく、嫌なテストも、学ぶために必要なものです。

人生で起きる出来事も同じであり、避けて通りたいような出来事でも、何かを学ぶために必要であり、魂を成長させるために欠かせないものです。

試験があって勉強しなければ、学力レベルが上がらないように、人生に修練となるような出来事がなければ、魂のレベルは上がりません。

苦しみや悲しみなどの人生経験は、その最中にあっては苦痛以外の何者でもなく、一刻も早く終わりにしたいと思うだけです。

けれども、決して無駄なものではなく、目に見えない魂を大きく成長させているはずです。

そして、魂の成長に伴って、過去にあった出来事が許せる時が、知らない内に訪れると思われます。

怒りや憎しみの想いは、忘れるのではなく、許すことによって解放されます。

それでも許せなければ、想いからは解放されず、もうしばらく苦しみ続けることになります。

しかし、その苦しみも魂の成長をもたらし、いつの日か許せる日が来ます。



身体の成長は止まり、やがて老いていきますが、魂は成長し続けます。

魂の成長とは、人間が成熟し、大人になって行くことなのかもしれません。

とても大きく感じた出来事であっても、時が経ち、振り返ってみると、小さなことだったと感じる時がありますが、それも魂が成長しているためだと思います。

そして、この世で予定された魂の成長が果たされたなら、魂は肉体を脱ぎ捨てる時が来ます。

肉体を脱ぎ捨てる時の魂は、十分な成長が得られているので、この世で許せないことはなくなっているはずです。

死とは、この世の苦しみからの卒業です。

この世に残された人にとっては悲しみですが、苦しみから解放された人にとって、悦び以外の何ものでもありません。



許せなかったことが、許せるようになるのは、時と共に忘れてしまうのではなく、魂が成長するに従い、怒りや憎しみの想いを手放した結果と思われます。

ところが、許せないことがあり、想いが溜まっているにもかかわらず、その想いに気付いていなかったり、無意識に封印してしまっていることがあります。

溜まっている想いにより、自分(魂)のありのままの表現を妨げられています。

本当の想いが、溜まっている想いに、歪められて表現されています。

怒り、憎しみ、恨みなどの秘められた想いがあるとは気付かずに、その後の人生に大きな影響を与えていることがあります。

なぜ、それがいけないのかと言えば、妨げたり、歪められた表現になってしまうと、予定通りに魂を成長させることが出来ないからです。

人や社会のために、奉仕することができないからです。

それは、この世に生まれて来た意味を、大きく失っていることを意味します。



五感に触れない想いに気付くために、因果律の働きにより、心身上の変化として外面に表現されることがあります。

怒りや憎しみの想いは、時として、肉体上に暴力的で攻撃的な病変として表現されます。

現代医学で解明されない病気の多くは、霊的次元に根本原因があり、本体は表現されなかった想いと考えられます。

内にある想いに気付き、それを解放させるための自然法則として、霊的な病気は存在します。

病気の苦痛は、(自然法則に反した)想いを抱いていた償いであり、魂を成長させ、そして目覚めさせるという、大きな意味があります。

病気の苦痛により、魂が成長して、内にある想いが解放されていきます。

魂が目覚めて、自分の過ちに気付くと共に、本来の自分を取り戻していきます。

生命の始源(神)とのつながりは深まり、生命力がふんだんに流れ込み、自然治癒力として働きます。

肉体は、魂を表現する媒体であるため、想いが解放されれば、肉体上の病変も消失して行くはずです。



もし仮に、どうしても許せずに、怒りや憎しみの想いを外に表現してしまったらどうなるのでしょうか?

想いは外に吐き出されるので、苦しみからは解放され、気持ちは楽になるでしょう。

病気にもならないかもしれません。

しかし、その行為は人を傷つけたり、貶めたりするものであり、魂に刻み込まれてしまいます。

想いは魂と同化してしまい、その人の本性となって行きます。

怒りや憎しみを外に吐き出している人は、その想いに染まっているので、日頃の表情や言動に、魂のありさまが反映されていると思われます。

元に戻るためには、より大きな償いが必要になると考えられます。

こちらに非がない理不尽な出来事であっても、怒りや憎しみの表現は、霊的に摂理に反した行いに変わりなく、魂のありさまを変えてしまい、自らの成長を妨げる結果を生み出してしまいます。

決して正当化されず、後に後悔することになります。



許すことは、口で言うほど易しくありません。

自己犠牲を伴うため、とてもつらいものですが、その出来事を乗り越えることであり、魂の成長という報いをもたらします。

魂の成長は、生きる意味そのものなので、許すことはこの世に生きる意味の1つを、成就したことになります。

いつまでも許せずにいるのは、生きる意味を見失っていることになると思われます。



許すとは、成長を妨げている想いを解放させることですが、魂が成長する時(経験)を必要とします。

もし想いを解放させられたなら、許して、乗り越えたことになります。

自分に非がない、理不尽な出来事で生じた想いであるならば、それを解放させる手段はあるはずです。



相手からひどい仕打ちを受けて、憎んでいる話を耳にします。

そんな人が、周りからの思いやりや優しさで満たされた時に、憎しみは霧消して行きます。

それは、魂が愛に満たされ、憎しみの想いが解放されてしまったからです。



内にある想いは、自分で解放させるしかありません。

解放させるには、自分へ向けた愛が必要となります。

自分へ向けた愛とは、自分を好きになるのとは違います。

今の自分が、その時の自分に寄り添い、共感することです。

今の自分が、その時の自分を、慰めてやることです。

大好きな人が傷ついてしまった時にするように、その時の自分にするだけです。



静かに目を閉じて、言葉を失い怒りと憎しみに震えていた、その時の自分を心の中に思い描き、胸の中で抱きしめてやりましょう。

その時の自分に向かって、「つらかったね」、「よく耐えたね」と、ありったけの愛を込めて、声をかけてやりましょう。

今の自分の愛の想いが、その時の自分に伝わり、想いを共有できたなら、怒りや憎しみが涙となって解放されていきます。

涙という肉体的表現で、その時の自分に代わって、解放させてやりましょう。

怒りや憎しみは、形を変えて、外に出すことができるはずです。

涙は、そのためにもあるはずです。

その時の自分を、思いっきり抱きしめ、そして愛して、想いを解放させてやりましょう。



川の流れに逆らって進もうとすると、抵抗があって苦しいものです。

怒りや憎しみの想いは、自然法則に逆らっているので、心がつらくなります。

怒りや憎しみの想いは、魂を成長させないので、生きるのが苦しくなります。



身に起こる全ての出来事は、愛でしか解決できないと思われます。

愛でしか、怒りや憎しみから来る苦しみから解放されないと思われます。

つらくても、自己犠牲(愛)により許して、解放して下さい。

その時の自分を愛して、涙とともに、解放して下さい。



全ての出来事は、不変の自然法則に支配され、その自然法則は憎しみではなく愛する方へと、魂を導いています。

苦しみの中から、真実を学び取り、魂は大きく成長して行きます。








2016年2月16日火曜日

ママへ



これ以上、ママを悲しませたくない
ママの笑った顔が大好きだから
ぼくは、どこにも行ってなんかいない
星になんかなっていない
いつもそばにいるのに、何にも気付いてくれない
みんなが幸せになるために、頑張っているママが大好きだ
悲しい人の気持ちは、悲しいことがあった人じゃなければ判らないよ
ひざの上に座って、お話をするのが好きだったよ、今も時々座っているよ
ぼくのことが大好きだったと知って、すごくうれしかったよ
ぼくもママのことが大好きだ
こっちには、いろいろな人がいて遊んでくれるよ
ぼくはママを悲しませるために生まれて来たんじゃなく、勇気を出すために生まれて来たんだ
ママがパパと仲良くしているのが、一番好きだよ
パパにやさしくしてね、やさしくなければママじゃない
ママがぼくのことを思うと、ぼくに伝わり、
ぼくがママのことを思うと、ママに伝わる
不思議だけど、そうなんだよ
いつも一緒にいることに、早く気付いてね
絶対さみしくないからね
一人じゃないからね
おじさんが伝えてやると言ったから、ぼくは話したよ



参考ページ: 「早世した子供たち」




2016年2月11日木曜日

亡くなった愛する人のために許す



私が54年の過去の人生を振り返り、はらわたが煮えくり返るような経験は、今は思い出せませんが、いくつもあったと思います。

人に裏切られたり、暴力や言葉に傷つけられたりして、その時は、言葉にできない想いが渦巻いていて、しばらくはその想いを引きずっていたと思います。

もう、忘れてしまっているのは、私なりに人生経験をしていく中で、ある程度の成長が得られて、いつの間にかその出来事を許せるようになり、知らない間に、想いが解放されていったためと思っています。

想いが絡まっていない出来事は、過去の記憶の1つになっていくと考えられます。



この世の中は、さまざまな人が、地上という同じ平面上に住んでいます。

それぞれの人が持っている人生観、価値観、道徳、善悪の基準に大きな差があるため、想いを自由に表現してしまうと、他者との行き違いが生じてしまうと思われます。

時に、行き違いから、怒りや憎しみが生まれ、争いに発展してしまうこともあると思います。



一方、後に行く世界(あの世)は、同じ想いを共有している者同士が集まっています。

従って、他者との行き違いはなく、怒りや憎しみの生じる心配のない、平和な世界です。

天国と言われる所以は、そこにあると考えられます。



悲しいことに、この世の中には身勝手な行いにより、愛する人の命を奪われてしまい、極限とも言える怒りや憎しみに、悶え苦しんでいる人もいます。

その心境は、経験した人でなければ理解できるものではなく、「相手を、同じ様にして殺してやりたい」と、怒りや憎しみを露わにしている、ご遺族の姿をニュース等で見かけます。

同じ目に会わせる行為は、許されるはずもありませんので、内から湧き上がる想いを、合法的な手段により実現しようと思ってしまうのかもしれません。



以前、世の中を震撼させる事件が、山口県で起きました。

何者かが部屋に押し入り、そこに住む若いお母さんと赤ちゃんが殺されてしまうという、凄惨なものでした。

後日、容疑者が逮捕されましたが、近くに住む未成年者の男性でした。

裁判が始まるとともに、事件の全容が明らかになり、それは想像を絶するほど、冷酷かつ残忍なものであり、同じ人間のする所業とは、とても思えませんでした。

その内容を知って、犯人に対して憎悪の感情を持つ人は、きっと多かったのではないでしょうか。



被害者のご主人は、あたたかな家庭を一瞬にして奪われて、何が起きたのかしばらく判らなかったと思われます。

その後、現実を認識して絶望し、深い悲しみとともに、激しい後悔、自責の念に襲われてしまったと推察されます。

その想いは、筆舌に尽くしがたいものであったのは、間違いありません。

何の罪もない愛する家族、しかも赤ちゃんの命までも奪ったのであれば、いかなる人であっても、

犯人に対する、強い怒り、憎しみ、恨みが生まれてしまうのは、時間の問題と思われます。



記者会見をする、被害者の夫であり父親でもある、まだ若いご主人の表情や言葉からは、強い怒りや憎しみが表れていましたが、私を含め、見ていた人の多くは、その姿に心を動かされ、同情したと考えられます。

愛する家族がひどい仕打ちを受けて、命を奪われたなら、亡くなった家族に代わって、同じ様に恐怖を味あわせ、復讐してやりたいと願ったとしても、仕方がないと思えてしまいました。



霊的に見て、怒りや憎しみ、恨みの想いは、神の摂理に反するものであるため、因果律の働きで、何かしらの苦痛が生じてしまうと考えられます。

しかし、怒りや憎しみの想いを持つのはいけないと判っていても、この様な出来事が身に起きれば、湧き上がってくる想いを抑えるのは、きわめて困難と思われます。

また、人生はシナリオに沿って展開されて行きますが、このような出来事が、予め決まっていたとは到底考えられず、あくまで少年の意志により起こされたはずであり、亡くなった家族に原因はないのは明白です。



加害者は当時、未成年(18歳1ヶ月)でしたが、家庭裁判ではなく地方裁判所で審議されることになります。

遺影を抱きながら入廷するご主人の姿を、ニュースの映像で何回か見る機会がありましたが、その目の奥に、強い決意のようなものを感じました。

公判は進んで行き、原告側は死刑を求刑しましたが、出された判決は無期懲役でした。

判決に失望したご主人は、刑務所から出てきたら、自らの手で思いを遂げたいとまで、語っていました。

その後、判決を不服とし、高等裁判所に控訴しましたが、棄却されます。

さらに、最高裁判所に上告したところ、上告審弁論が開かれることになりました。

この決定は、高等裁判所の判断が覆され、死刑判決が下される公算が高いことを意味します。

予想された通り、無期懲役の判決は覆され、死刑判決が出されます。



社会正義が果たされた結果であり、極刑により被害者の無念は少しは晴らされただろうと感じた人も多かったと思います。

ご主人は、その時の心境をこう語っています。

「事件からずっと死刑を科すことを考え、悩んだ13年間だった。20歳に満たない少年が人をあやめたとき、もう一度社会でやり直すチャンスを与えることが社会正義なのか。命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか。どちらが正しいことなのかとても悩んだ。きっとこの答えはないのだと思う。絶対的な正義など誰も定義できないと思う。」

ご主人は、どちらに進んで行こうか、とても悩んでいたのです。



私が、同じ立場になったら、どのようになってしまうのか想像もつきません。

もし、同じ年齢でしたら、ご主人よりも過激な行動を取った可能性は十分ありますので、非難するつもりは毛頭ありません。

ただ、肉体はなくなり見えなくなっても、奥さんも、赤ちゃんも生きていて、ずっとご主人の傍にいたこと、そして、自分の蒔いた種は自分で刈り取らなければならないという、絶対的公正が自然法則を通して保たれているという、一片の知識があったのならと、悔やまれずにはいられません。

これから書くことは、霊的な解釈に基づく、1つの仮説として読んでいただければ幸いです。



奥さんと赤ちゃんを襲った出来事は、あまりにも突然であり、暴漢に対する強い恐怖を感じながら、肉体から魂は引き離され、向こうの世界に移行したと思われます。

死んでいることに気付かずに、家の中でひたすら助けを求めていたのかもしれません。

魂にまで及ぶ、きわめて深刻な出来事であったのは間違いなく、しばらくは錯乱状態が続いたと思われます。

帰って来たご主人に、必死に助けを求めたと考えられますが、惨状を目の当たりにしたご主人は、茫然自失となっています。

部屋にいる人たちに、何をしても気付いてもらえず、自分が空気のような存在となっていることに、
愕然としたのかもしれません。

しばらくすると、傍にいた子供のことが急に心配になり、周囲を見回します。

見知らぬ人に抱かれて、泣いている姿を見つけて、安心して、いつものように胸に抱きます。



あらゆる状況から判断し、自分は死んでしまったと自覚するとともに、子供を守ってやれなかったことを、後悔せずにはいられませんでした。

そして、家の中で放心しているご主人の様子を見て、自分がすぐ傍にいることを、必死に何度も訴えただろうと思います。

しかし、全く気付いてもらえないことに、深く失望したと思われます。



最愛の家族を喪ったご主人は、当然のことながら、深い悲しみ、そして後悔、自責の念に襲われたと思います。

やがて、その想いは少年への強い憎悪へと変化していき、生きる目的が、少年を極刑にして、罪を償わせることになって行きました。

その後も、奥さんは赤ちゃんと一緒に生きていることを、しきりに訴え続けますが、悲しみと憎しみの想いに包まれてしまっているので、容易に近づくことが出来ません。

ご主人の魂に、こちらの想いを送り込む余地などありません。



悲惨な出来事により、無理やり次の世界に移ってしまった奥さんの魂は、当然ながら深く傷つきましたが、多くの人たちに介抱され、徐々に元の健全な状態に回復していき、赤ちゃんと共に、向こうの世界での生活に、順応していったと思われます。

想いの全てが知れ、具現化する次の世界はとても新鮮であり、一足先に来ていた親しい人と一緒に、快適な生活を始めます。

しかし、この世に目をやると、悲しみの涙をとめどもなく流し、後悔と自責の念に捉われ、それが怒りと憎しみに変化していく、愛するご主人の姿が見えます。

自分が先に、こちらに来てしまったことに対して、申し訳ない気持ちで一杯になります。



とにかく、肉体はなくなっても、生きている事実を伝えたいだけです。

しかし、ご主人は、死んだ後にも生があり、跡形もなく消えてしまった人の意識は変わりなく存続し、切実な想いが送られてきているなどとは思いもしません。

残酷にも、想いは無視され続けます。

いなくなってしまったと錯覚しているご主人は、死をもって償わせるという目的に向かって、突き進んで行きます。



向こうの世界から、この世の人の魂(想い)は一目瞭然です。

法廷には、怒りを押し殺すご主人と、自分たちを殺した少年の姿が見えます。

奥さんは、あの時の情景が思い出され、恐怖を感じましたが、同時に、自分を殺めた少年の魂が、ひどく病んでいることに驚きます。

少年の過去の出来事や、その時の想いを知りました。

これまで受けてきたのは怒りばかりであり、愛が絶対的に不足していたことが判ります。



とても優しい人(魂)である奥さんは、少年に対する憎しみの想いは、初めからありませんでした。

事情を知り、哀れみと同情の想いすら持っています。

強い憎しみを抱き続ける、愛するご主人へ、そのことをどうしても伝えたいと思っていました。



犯した罪は、当然のことながら、償わなければいけません。

けれども、死によって、少年の魂は次の世界に移行するだけであり、償いにはならない事実を、どうしても判ってもらいたいと、訴え続けます。

大切なのは、少年に死の恐怖を味あわせて、この世から追放させることではなく、自分の過ちに気付き、深く反省させ、この世において正しい生き方に変えさせることです。

もし、人を殺め、多くの人を苦しめた罪が、この世で償い切れなかったのであれば、あの世に行ってから、償うことになります。

何人も、この自然法則の働きから逃げられないことを、はっきりと奥さんは判っているのですが、ご主人には全く伝わりません。



人為的に、肉体から引き離された病んだ魂(霊)は、次の世界に移っても、病んだままです。

それどころか、社会に殺されたと思い、社会を強く恨んでしまうかもしれません。

肉体を失った病んだ魂は、同様の想いを抱いている、この世の人の魂に引き付けられ、恨みを増幅させていき、悲惨な事件を起こしかねません。

法律として正当化されている死刑は、霊的には国家による殺人行為に他ならず、新たな憎しみや恨みを生み出し、この世の惨劇が繰り返される一因となっているのは、あの世から見れば明白です。



多くの人は、この世に生きた意味を、あの世に行ってから知ることになります。

完全な人間など、この世に誰一人としていません。

どこかしら足りないところ、鍛錬しなければいけないところがあり、さまざまな出来事を通して、学びながら成長していくところに意味があります。

大切なことを学ぶ、学校のような存在だったのが、後になって初めて判ります。



罪を犯したのであれば、法律に従って罰せられます。

それとは別に、人に苦痛を与えたり、悲しませたり、迷惑をかけたのならば、自然法則は厳格に働き、相等の苦痛を味わうことになります。

法律から逃れることは出来ますが、自然法則の働きから逃れることは、何人も出来ません。

犯した罪は、情状酌量も猶予もなく、収支が合うまで必ず霊的に償わなければなりません。

そして、苦痛による償いを通して、大切なことを学んで行きます。



愛を知らないために、魂が病み、罪を犯してしまう人が、世の中には多くいます。

そんな人に対して、愛の大切さを、身を持って教えてやることで、病んだ魂は癒されて行きます。

愛は、人から人へ循環しているものであり、そこから取り残されていただけです。

愛されていないので、愛の意味も知りようがありません。

愛を知らないので、愛する人を喪った悲しみ、引き裂かれた苦しみが、全く判らないのです。

その罪の深さが、判らないのです。

愛を向けてやらなければ、犯した罪の意味や、他者の想いも判らず、苦痛を味わうところまでも行けません。

この世の命(肉体)を奪っても、暴力的な行為により、自分を追放した社会を、ただ憎むだけです。

何の償いにもなりません。

愛されることで、良心が目覚め、自分が犯した罪の深さを知ります。

そこから、悶え苦しみ、深く後悔し、懺悔する日々が始まり、真の償いの人生が始まります。

すべては、愛でしか解決できないのです。



少年の運命は、世論を動かし、司法の判断にまで影響を与える、ご主人の意思に委ねられていました。

とめどもなく襲う悲しみや苦しみを経験していく中で、魂は成長し、どうしても許せなかったことが、許せるようになっていくのかもしれません。

許すことは、自己犠牲による大きな苦痛を伴うため、生易しいものではありません。

しかし、その見返りとして相応の霊的な成長が得られます。

死をもって償わせることが、奥さんや子供へのせめてもの愛と、大きな勘違いをしていたのかもしれません。

ご主人が望んでいたことは、実は、奥さんが最も望んでいないことだったのかもしれません。

望んでいたのは、怒りや憎しみの表現ではなく、許すという、少年へ向けた大きな愛を表現することだったのかもしれません。

大きな愛を表現して、大きく成長したご主人と再会したかったのかもしれません。

固唾を呑んで、あの世から行く末を見守っていたと思われます。



2008年、元少年の死刑は確定します。

目的を達成して安堵するご主人と、向こうで見守っていた家族との間に、埋めようのない大きな溝が生じてしまったのかもしれません。

あたたかく見守っていた家族は、自分たちの愛の届かぬところに行ってしまったと、嘆き悲しんでいたのかもしれません。

長い間、憎しみ、恨むことによって、人は変わってしまうものなのかもしれませんが、誰もそれを責めることは出来ません。

想いを共有できなくなってしまった2つの魂は、お互いを結びつける力を、急速に失っていったのかもしれません。



2009年、ご主人は、それまで支えてくれていた女性と結ばれます。

それは、かつて結ばれていた魂との、永久の別れを意味するのかもしれません。

あの世で見守っていた奥さんと娘さんは、この世でのご主人の幸せを祈りつつ、生まれる前にいた界層へと戻って行きます。