2016年2月28日日曜日

過去の出来事を許す



中学時代の同窓会が、何年かに1度あります。

私は幹事のため、クラスメートに電話で連絡を取って出席を促します。

せっかくの機会なので集まらないかと誘っても、別に用事があるわけでもないのに、どうしても出席しない人たちがいます。

その中には、中学時代に嫌な出来事があって、わだかまりを抱えている人もいるのではないかと思います。

中学時代は、子供から大人に変わる、人生で最も不安定で、多感な時期であり、同級生から受けた言葉や行為で、心が傷ついてしまった人は、意外と多いのかもしれません。

いじめのような行為をした本人は、すっかり忘れてしまっていることが多いのですが、された側は深く傷つき、数十年を経っても、忘れられないのかもしれません。

私も、理由も判らずに受けた暴力的な言動に対して、言葉では表現できない想いを抱いた経験があり、その想いが、長い間、居座っていました。

子供の時は、心が無防備であるため、他者から傷つけられ易いと思われます。

しかも、想いを上手く表現できないために、内に想いが溜まってしまい、苦しんでいる人が多いと思われます。

親に泣き言を言ったり、友達に想いをぶつけたり、あるいは部活動などで発散できれば良いのですが、不幸にしてそれが出来ずに、徐々に想いが溜まっていく子供たちもいます。

溜まった想いが限界に達して、外向きではなく、内向きに表現されてしまうと、自らを破壊するという、極めて悲劇的な結末を迎えてしまう恐れがあると思います。



大人であっても、わがままや、貶(おとし)めるような理不尽な言動をされ、自分が傷つけられたり、窮地に立たされたとしたら、強い怒りや憎しみの想いが沸き上がってしまいます。

こちらが傷ついているにもかかわらず、相手が何の反省もせずに、平然としていたのなら、想いは膨れ上がり、居ても立ってもいられない心境になってしまいます。

これで、良いはずがありませんが、誰が何をしてくれるわけではありません。



誰からも責められず、咎められなかったとしても、神の摂理は完ぺきに働いています。

法律からは逃れられても、神の摂理からは逃れられません。

地上の物質に万有引力という物理法則が働いているように、魂には霊的な法則が働いています。

1つ1つの出来事に対して細大漏らさず法則は働いていて、誰かに苦痛を与えた分、周囲に被害を与えた分、相応の償いをしなければいけません。

もし、今生で償われなかったとしても、死後に償うことになります。



生まれてから死ぬまでの、全ての言葉や行い、想いまでも、魂に刻み込まれていきます。

そして、魂に刻み込まれた、恥ずべき行為を消し去るためには、相応の苦痛の経験を通して、霊的な償いをするしかありません。

苦痛の経験は、自分の過ちに気付き、神の摂理に従うためにあります。

よって、怒ったり憎んだりする必要は、本当はないのです。

償う時が、必ずやって来るのでからです。

それでも、怒ったり憎んだりするのならば、自らの成長を妨げて、苦しみを味わうだけです。

破壊的な想いであるために、何一つ良い結果をもたらしません。

因果律の働きにより、苦痛を伴う結果となって、また自分に返って来るだけです。



そうは言っても、この世に生きている限り、怒りの感情から解放されることはありません。

さまざまな成長過程にある人(魂)が、同じ平面上で交わりながら、生きているからです。

思いやる人もいれば、傷つける人もいるのが、この世です。

傷つけられれば、怒りや憎しみが生まれ、仕返しをしてやりたくもなります。

しかし、多くの人と接しながら、たとえ嫌なことがあったとしても、怒りや憎しみの想いを、なるべく生まれないように修練するのが、この世を生きる意味の1つだと思います。

いざ生まれてしまった怒りや憎しみの想いと、どう向き合っていくかも、きわめて重要であり、人生は大きく変わって来ると考えられます。



怒りや憎しみの想いに、捉われて生きている人は、少なくありません。

「もう、そろそろ許してもいいんじゃないか」と、人から言われたとしても、それで許せるようなものではありません。

時が経ち、記憶としては忘れかけたとしても、怒りや憎しみの想いが消えて行く訳ではありません。

いくら時が経過しても、想いが残っている限り、ふとした出来事をきっかけに、蘇って来ると考えられます。

想いは、内で生きているとも言えます。



過去にあった出来事で、今も苦しんでいる人がいます。

そんな人は、過去の出来事に苦しんでいるのではなく、その時に生じた、肉体で表現できなかった想いにより、苦しんでいます。

過去に生じた想いは、肉体的な表現を求めていますが、それが出来ないために、今も苦しんでいます。



目に見えず、人にも知られない想いにも、自然法則が働いています。

それが、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬など、自然法則(愛)に反した想いであると、因果律の働きで、苦しみを感じます。

自分の想いに、自分が苦しむことになります。

苦しみの本体は、怒りであり、憎しみであり、恨みであり、嫉妬です。

 人は、出来事の記憶と、その時に生じた想いを混同しがちですが、いつまでも強く記憶に残っている出来事は、その時に生じた想いの裏打ちがあるはずです。



苦しみから逃れるのには、その対象を許すしかありません。

許すには、自らが寛大にならなければいけませんが、寛大になろうと思っても、なれるはずもありません。

寛大になるには、相応の魂の成長を伴わなければいけません。

人生は、望むと望まざるとにかかわらず、さまざまな出来事に遭遇します。

それらの出来事を、もがきながらも、自分なりに乗り越えて行く過程を通して、魂は少しずつ成長していきます。

職場での仕事や、家庭での仕事も、生きて行く上での義務でもありますが、自分以外の者への奉仕には違いなく、毎日、少しずつ成長させていると思われます。

今を真剣に生きていれば、意識しなくても、魂は成長していると思われます。



小学生の時に難しかった問題が、中学生になると易しく思えるようになります。

解けなかったのは、問題が難しいからではなく、解けるレベルまで、自分が達していなかったからです。

もし、学校でテストがなければ、生徒は大喜びです。

しかし、テストがなければ真剣に勉強をしようとする気は、なかなか起こりません。

テストがあった方が勉強し、多くのことが学べるのは間違いなく、嫌なテストも、学ぶために必要なものです。

人生で起きる出来事も同じであり、避けて通りたいような出来事でも、何かを学ぶために必要であり、魂を成長させるために欠かせないものです。

試験があって勉強しなければ、学力レベルが上がらないように、人生に修練となるような出来事がなければ、魂のレベルは上がりません。

苦しみや悲しみなどの人生経験は、その最中にあっては苦痛以外の何者でもなく、一刻も早く終わりにしたいと思うだけです。

けれども、決して無駄なものではなく、目に見えない魂を大きく成長させているはずです。

そして、魂の成長に伴って、過去にあった出来事が許せる時が、知らない内に訪れると思われます。

怒りや憎しみの想いは、忘れるのではなく、許すことによって解放されます。

それでも許せなければ、想いからは解放されず、もうしばらく苦しみ続けることになります。

しかし、その苦しみも魂の成長をもたらし、いつの日か許せる日が来ます。



身体の成長は止まり、やがて老いていきますが、魂は成長し続けます。

魂の成長とは、人間が成熟し、大人になって行くことなのかもしれません。

とても大きく感じた出来事であっても、時が経ち、振り返ってみると、小さなことだったと感じる時がありますが、それも魂が成長しているためだと思います。

そして、この世で予定された魂の成長が果たされたなら、魂は肉体を脱ぎ捨てる時が来ます。

肉体を脱ぎ捨てる時の魂は、十分な成長が得られているので、この世で許せないことはなくなっているはずです。

死とは、この世の苦しみからの卒業です。

この世に残された人にとっては悲しみですが、苦しみから解放された人にとって、悦び以外の何ものでもありません。



許せなかったことが、許せるようになるのは、時と共に忘れてしまうのではなく、魂が成長するに従い、怒りや憎しみの想いを手放した結果と思われます。

ところが、許せないことがあり、想いが溜まっているにもかかわらず、その想いに気付いていなかったり、無意識に封印してしまっていることがあります。

溜まっている想いにより、自分(魂)のありのままの表現を妨げられています。

本当の想いが、溜まっている想いに、歪められて表現されています。

怒り、憎しみ、恨みなどの秘められた想いがあるとは気付かずに、その後の人生に大きな影響を与えていることがあります。

なぜ、それがいけないのかと言えば、妨げたり、歪められた表現になってしまうと、予定通りに魂を成長させることが出来ないからです。

人や社会のために、奉仕することができないからです。

それは、この世に生まれて来た意味を、大きく失っていることを意味します。



五感に触れない想いに気付くために、因果律の働きにより、心身上の変化として外面に表現されることがあります。

怒りや憎しみの想いは、時として、肉体上に暴力的で攻撃的な病変として表現されます。

現代医学で解明されない病気の多くは、霊的次元に根本原因があり、本体は表現されなかった想いと考えられます。

内にある想いに気付き、それを解放させるための自然法則として、霊的な病気は存在します。

病気の苦痛は、(自然法則に反した)想いを抱いていた償いであり、魂を成長させ、そして目覚めさせるという、大きな意味があります。

病気の苦痛により、魂が成長して、内にある想いが解放されていきます。

魂が目覚めて、自分の過ちに気付くと共に、本来の自分を取り戻していきます。

生命の始源(神)とのつながりは深まり、生命力がふんだんに流れ込み、自然治癒力として働きます。

肉体は、魂を表現する媒体であるため、想いが解放されれば、肉体上の病変も消失して行くはずです。



もし仮に、どうしても許せずに、怒りや憎しみの想いを外に表現してしまったらどうなるのでしょうか?

想いは外に吐き出されるので、苦しみからは解放され、気持ちは楽になるでしょう。

病気にもならないかもしれません。

しかし、その行為は人を傷つけたり、貶めたりするものであり、魂に刻み込まれてしまいます。

想いは魂と同化してしまい、その人の本性となって行きます。

怒りや憎しみを外に吐き出している人は、その想いに染まっているので、日頃の表情や言動に、魂のありさまが反映されていると思われます。

元に戻るためには、より大きな償いが必要になると考えられます。

こちらに非がない理不尽な出来事であっても、怒りや憎しみの表現は、霊的に摂理に反した行いに変わりなく、魂のありさまを変えてしまい、自らの成長を妨げる結果を生み出してしまいます。

決して正当化されず、後に後悔することになります。



許すことは、口で言うほど易しくありません。

自己犠牲を伴うため、とてもつらいものですが、その出来事を乗り越えることであり、魂の成長という報いをもたらします。

魂の成長は、生きる意味そのものなので、許すことはこの世に生きる意味の1つを、成就したことになります。

いつまでも許せずにいるのは、生きる意味を見失っていることになると思われます。



許すとは、成長を妨げている想いを解放させることですが、魂が成長する時(経験)を必要とします。

もし想いを解放させられたなら、許して、乗り越えたことになります。

自分に非がない、理不尽な出来事で生じた想いであるならば、それを解放させる手段はあるはずです。



相手からひどい仕打ちを受けて、憎んでいる話を耳にします。

そんな人が、周りからの思いやりや優しさで満たされた時に、憎しみは霧消して行きます。

それは、魂が愛に満たされ、憎しみの想いが解放されてしまったからです。



内にある想いは、自分で解放させるしかありません。

解放させるには、自分へ向けた愛が必要となります。

自分へ向けた愛とは、自分を好きになるのとは違います。

今の自分が、その時の自分に寄り添い、共感することです。

今の自分が、その時の自分を、慰めてやることです。

大好きな人が傷ついてしまった時にするように、その時の自分にするだけです。



静かに目を閉じて、言葉を失い怒りと憎しみに震えていた、その時の自分を心の中に思い描き、胸の中で抱きしめてやりましょう。

その時の自分に向かって、「つらかったね」、「よく耐えたね」と、ありったけの愛を込めて、声をかけてやりましょう。

今の自分の愛の想いが、その時の自分に伝わり、想いを共有できたなら、怒りや憎しみが涙となって解放されていきます。

涙という肉体的表現で、その時の自分に代わって、解放させてやりましょう。

怒りや憎しみは、形を変えて、外に出すことができるはずです。

涙は、そのためにもあるはずです。

その時の自分を、思いっきり抱きしめ、そして愛して、想いを解放させてやりましょう。



川の流れに逆らって進もうとすると、抵抗があって苦しいものです。

怒りや憎しみの想いは、自然法則に逆らっているので、心がつらくなります。

怒りや憎しみの想いは、魂を成長させないので、生きるのが苦しくなります。



身に起こる全ての出来事は、愛でしか解決できないと思われます。

愛でしか、怒りや憎しみから来る苦しみから解放されないと思われます。

つらくても、自己犠牲(愛)により許して、解放して下さい。

その時の自分を愛して、涙とともに、解放して下さい。



全ての出来事は、不変の自然法則に支配され、その自然法則は憎しみではなく愛する方へと、魂を導いています。

苦しみの中から、真実を学び取り、魂は大きく成長して行きます。








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