2017年2月19日日曜日

本質は魂である



今、世の中では「終活」がブームになっています。

死をタブー視していた一昔前とは、状況が大きく変化しています。

けれども、終活の後に自分がどうなるのかは、それほど関心がないようです。

確かめようのないものを考えてみても、仕方がないからなのかもしれません。



死後にも世界があるのか?それともないのか?

理由があって、白黒がはっきりしないようになっていると、私は思っています。

どちらを取るのかは、個人の自由です。

死後の世界などないと思っていて、もしなければ、無になってしまうので、問題は起こりません。

しかし、ないと思っていて、もしあったとしたら、さまざまな問題が起きてしまうと考えられます。

どちらが正しいのか、いずれはっきりするのですが、かの有名なパスカルは、あると思って生きていた方が、確率的にリスクが少なく、賢明であると言っています。



死後の世界がある言われても、容易に信じることはできません。

この世界は、目で見たり、手で触れたりすることができる物体(物質)があります。

固い、軟かい、冷たい、温かいなど、それぞれに感触があります。

あまりにも実感のある世界なので、別の世界のことなど想像も及びません。



ところで、人の感情は存在しているのでしょうか?

喜びや悲しみ、あるいは怒りなど、心の中に生まれますが、他人には判りません。

目に見えなくても、実感として確かにあり、存在を否定する人はいないでしょう。



どちらも存在しているのが判っているのに、なぜ、感情だけが目に見えないのか?

当たり前の答えになりますが、精神が見えない世界に、私たちは生きているからです。



この世界では、自分の思念(想い)を他の人に知ってもらうために、五感を通さなければならず、肉体を使って表現しなければいけません。

悲しみは涙、喜びは笑顔により肉体上に表現されて、他の人はそれを見て、初めて内にある想いを知ります。



私たちが死んだ後に行く世界は、全く違います。

肉体は失われているので、想いや概念は、直接、相手に伝わります。

完全な思念の世界であり、語らなくても、表情に出さなくても、想ったことそのものが伝わります。



物質の世界であるこの世と、思念の世界であるあの世は、どちらが実在の世界なのでしょうか?

目で物体が見えて、耳で音が聞こえる、この世の方が実在の世界と、多くの人は考えていますが、

果たして、そうなのでしょうか?



私たちは、自分の想いや概念を、言葉によって伝えることがほとんどです。

頭の中で、一番近い言葉を見つけだして、それを声に出して伝えています。

例えば、誰かに向かって「ありがとう」と言ったとします。

言われた相手は、「ありがとう」という言葉を声で聞いて、その単語の意味から、相手の気持ちを知ります。

しかし、「ありがとう」という言葉自体は、本質(実在)ではありません。

本質は、感謝の気持ち(想い)です。

感謝の気持ちが、五感で判るように変換されたものが、「ありがとう」という言葉です。

言葉は、本質である気持ち(想い)を伝えるためにある、この世だけの媒体です。

機械の音声で、「ありがとう」と言われても、想いという実在がないので、何も伝わって来ないと思います。

ピアノの自動演奏機で音楽を聴いても、人が弾いているほど感動しないのは、演奏者の想いが伝わって来ないからと思います。

絵や音楽でも、何も感動しないものがありますが、それは作品に魂(想い)が込められていないからであり、優れた芸術は、作者の魂(想い)、さらに言えば霊界の本質が、作品上に表現されていると思います。



本質は、物質の中にはありません。

人間も同じです。

本質は肉体ではなく、目に見えない魂です。



この世は、本質が物質的なものに包まれた世界です。

あの世は、本質を包んでいたものが、取り払われた世界です。

嘘、偽り、虚飾が存在しない本質(実在)の世界は、あの世です。



言葉は、肉体によって発せられる、物質次元のものです。

想いは、魂から生まれている、霊的次元のものです。

従って、この世の人は、物質的な存在でありながら、霊的な存在であると言えます。

物質次元に生きながら、霊的次元に生きていると言えます。

2つの次元は重なり合っているのですが、物質次元であるこの世界しか視えないので、そのことに気付けません。

死ねば、霊的次元に移行するので、今度は、物質的なものは視えなくなり、霊的な魂と想いが視えるようになります。



この世の人は、目に見えない想いを、肉体という媒体で表現し、表現されたものを精神が認識し、精神の上位にある魂が感じ取っていると言えます。

快適に暮らしているように思えて、物質的なものを介して、想いを交わさなければならない、煩わしい世界に生きていると思います。

そんな私たちでも、言葉を交わさずとも、想いが伝わった経験が、何度かあるはずです。

目と目を合わせただけで、軽く触れ合っただけで、一瞬にして、相手の想いが判った時があるはずです。

そのことは、私たちは五感を介さずに想いを伝えられる、肉体を超越した存在であることを証明しています。



けれども、現実は、五感を越えた存在など意識せず、五感(頭脳)に頼った生活をしています。

昔は直接、会って話をしていましたが、電話機の登場により、対面しなくても伝えられるようになりました。

今はメールが普及して、声ではなく、文字で相手に伝える時代になりました。

コミュニケーションツールの発達に伴い、格段に便利になりましたが、そんな生活に慣れてしまうと、会って話をするのが面倒になってしまいます。

事務的な連絡は、メールでも問題ありませんが、自分の想い(感情)を伝えるのには、文字だけでは不十分であり、実際に会って、表情を見ながら、言葉を交わした方が、より正確に伝えられると思います。

人が伝えているのは、言葉や文字ではありません。

そこに込められた思念(想い)です。

その想いが生まれるところが、自分の本質である魂です。



魂から絶え間なく想い(思念)が生まれ、それを肉体で表現しながら、この世の人は生きているのですが、生まれて来る想いがあまりに強いと、衝動的に行動に移してしまうことがあります。


先日、歩道上に暴走して来た車から、身を挺して赤ちゃんを守り、亡くなってしまったお母さんのニュースが流れていました。

また、結氷した湖の一部が割れておぼれていた犬を、そのまま飛び込んで、命がけで助け出した、消防士の動画がありました。

もし、人間が頭脳で考え、行動しているのであれば、自分の命をかけてまで助けるのは、生物として極めて不合理な考えであり、これらの行為の説明は出来ません。

この行為は、魂から生まれた止むに止まれぬ想いが、肉体で表現されたものと考えられます。

強烈な想いが存在しない限り、このような行動は決して出来ません。

何よりも強い想いが、愛だと思います。



もし、地上から愛が消滅したならどうなるでしょう。

倒れたお年寄りがいても、手を差し伸べて起こす人はいなくなるでしょう。

泣き叫ぶ幼い子供がいても、近寄って声をかける人はいなくなるでしょう。

心が引かれ合って、男女が結ばれることはなくなるでしょう。

あたたかい家族の結びつきはなくなり、ばらばらになってしまでしょう。

歌声は聴こえなくなり、芸術は存在価値を失うでしょう。

慈悲の心はなくなり、強い者が弱い者を支配する、殺伐とした世の中になるでしょう。



何気なく生活しているように見えて、目に見えない愛が存在しているので、人と人が結びつき、生活が潤い、秩序が形成され、世の中が平穏になっていると思います。



しかし、私たちは、1日の大半を、愛とは関係ない行動をして過ごしているように見えます。

朝から晩まで、仕事をしなければ生活していけません。

お金という報酬を得るためですが、それは人や社会のために働いた対価です。

お金を媒介として、人や社会に奉仕をしていると言えます。

家庭においても、育児や家事は、家族に対する奉仕です。

働くことで、社会が回り、個々の生活が送れていますが、結果的に、人や社会への奉仕により、愛を表現していることになります。

それは、お金を必要としない、純粋な奉仕の世界である、次に行く世界のための予行演習になっていると考えられます。



生きる力は、神から受け取っているので、必然的に愛を帯びています。

従って、愛とは、特別な想いではなく、魂の自然な発露だと思います。

本来、人は愛を表現するために生きていると、言って良いのかもしれません。

しかし、魂が未熟なために、その力があらぬ方向に、変化してしまうことがあります。

神から受け取った力が、完全に屈折してしまうと、怒り、憎しみになってしまいます。

神の心と対極にある想いを表現してしまえば、自然法則の働きにより、苦痛を伴う結果が自分自身に返ってきます。

苦痛から逃れるためには、怒りや憎しみの想いを、変えて行かざるを得ません。

愛を表現すれば、自然法則の働きにより、悦びに満たされます。

人は誰でも、苦痛よりも、悦びに満たされたいので、愛を表現して行くようになっています。



私たちが生きる目的は、真の自分である魂を成長させて、より高い愛を表現して行くためと思います。




2017年2月5日日曜日

認め合い許し合うことで世界は1つになって行く



今、世界には70億を超える人がいます。

肌の白い人、黄色い人、黒い人もいて、多種多様です。

顔つきや体型も、一人ひとり違います。

しゃべる言葉や、文化的背景も、皆、同じではありません。



同じ国に住み、同じ言葉をしゃべり、同じ肌の色をしていても、考えていることは誰一人として同じではありません。

自分と同じ人間は、この世の中にいません。

一人ひとりが唯一無二の存在であり、70億種の人間がいると言っても良いのかもしれません。



そんな人間同士が接すれば、自分との違いを感じてしまうのは当然です。

お互いの違いを認められる時もあれば、受け入れられずに避けてしまう時もあります。

多くの人は、違い認め合う方が良いと思っていますが、なぜ?と聞かれても、うまく答えられません。



性格の違い、価値観の違い、行動様式の違いはあって当然であり、どちらが正しい、間違っていると、決められるものではありません。

もし、自分が正しいと信じるのならば、違う人は間違っているということになり、それではお互いを認め合うことは出来ません。



世界では、何千年もの間、宗教や文化の違いから争いが生じています。

自分の信じているものが絶対であると、信念を持ち過ぎると、他の人が信じるものを許容できなくなってしまいます。

自分たちと違うものを、異物のように認識してしまい、それを排除しようとする気持ちが生まれ、それが争いに発展しています。



人は誰一人同じではなく、それぞれが違っているのを前提に、生きなければいけません。

違いを認めて許容しない限り、好ましくない感情が生まれて、平穏な心を保つことが出来なくなります。



認め合うこと、許し合うことを、単なる道徳的な問題として、片付けられません。

なぜなら、認め合うこと、許し合うことは、「神の摂理(自然法則)」だと考えられるからです。

私たちは、違いを認め合い、許し合うように、自然法則によって導かれているのであり、それが達成されなければ、人や世界に真の平和が訪れることはありません。



もし、摂理に逆らって、認めることができなければ不調和が生まれ、許すことができなければ対立が生まれ、それが発展すると争いになってしまいます。

お互いを傷つけ合って、苦痛を味わってしまいます。

誰もが苦痛から逃れたいのですが、それにはお互いを認め合って、許し合うようになるしか道はありません。

苦痛を通して、自然法則の働き、神の摂理を学んでいることになります。



日常生活においても、相手(事象)を認めること、許すことができないために、良くない感情が生まれています。

気に入らない、気に障る、頭に来るのは、平穏な心を失って、拒絶や反発や怒りが生まれているためです。

ところが、同様な状況下に置かれても、平穏な心を失わずに、何事もなかったかのように許せる人がいるのも確かです。

許せる人がいるのであれば、それは絶対に許せないことではないのかもしれません。

もしかしたら、相手に原因があるように思えて、実は自分自身に問題があるのかもしれません。



私たちは、未熟な存在であることを、忘れてしまっています。

自分(魂)の未熟さを自覚し、成長させるために、志願して生まれて来たことを、すっかり忘れてしまっています。



怒りが生まれるのは、許せないからであり、それは魂が未熟なために他なりません。

未熟な魂が、怒りにより心の調和を失い、苦しみとなります。

その苦しみを、人のせいにすると、余計に許せなくなり、怒りが生まれ、苦しみが増してしまいます。



それでも、人に裏切られたり、傷つけられたりすれば、許せなくなるのは当然です。

仕返しをして、同じ思いをさせてやりたくなる気持ちも、理解できます。

しかし、神の摂理は厳格であり、正当化されると思われるであろう、怒りや憎しみを相手に返そうとする行為にも、相応の報いが生じてしまいます。

やられたら、やり返すのは、明らかに間違っています。

自分を守る行為は許されますが、復讐や報復は許されないのです。



それでは、自分に苦痛を与えた相手は、何のお咎めも受けないのかと言えば、そうではありません。

社会的な制裁を逃れたとしても、神の摂理(自然法則)の働きからは逃れることは出来ません。

この世での、全ての想い(思念)、言葉、そして行いは、オーラに刻み込まれています。

頭で思い出せなくても、魂にしっかりと記録されています。



生命は魂であり、死んで肉体がなくなっても、意識はそのままです。

新しい世界にいることを自覚すると共に、オーラに刻まれているこの世の行状を、振り返る時が来ます。

全人生が、スクリーンのようなものに映し出され、細部まで見せられます。

自分の行いが、どのような結果を招いたのか、はっきりと認識させられます。



良心とは、神の声です。

傷つける行いをする前に、良心が抵抗していたはずですが、その声を無視してしまったことに気付きます。



人を傷つけたり、迷惑をかけるのを、私たちはためらいます。

それは、親に言われたからでも、先生に教えてもらったからでもありません。

真の自分(魂)は、良くないことを、初めから知っています。



死後に裁きを受けると言いますが、その通りです。

しかし、閻魔大王のような第三者的存在がいて、裁かれるのではありません。

魂に内在する神により、想ったこと、言ったこと、行ったことが裁かれます。

自分で自分を裁くことになります。



人を傷つけてしまった人は、自分の犯した罪を目の当たりにして、後悔し、自責の念の中で、苦しむことになります。

与えた苦痛が大きいほど、当然、苦痛も大きなものになります。

因果律の働きにより、自分が与えたものが、正確に自分に返って来ます。

どうしても自分の罪を認められない人は、周囲との関係は断絶され、深い孤独を味わうことになります。

孤独の中で、内にある良心が目覚め、ようやく自分の罪を認める時が訪れます。

激しく後悔することは避けられず、その中で悶え苦しむことになります。



学生の時は、1年経てば自動的に上の学年に進級します。

そのことで、自分が成長しているのを、実感できます。

もし、周りの同級生が上の学年に進級したのに、自分だけができずに、同じ学年に残されたとしたら、どう思うでしょうか。

とても焦り、早く同級生に追いつきたいと思うでしょう。



魂にも、上に向かって成長したいという欲求があり、同じところに留まっているのは、とても耐えられないようです。

しかし、魂に(摂理に反した)罪が刻み込まれているままでは、成長は許されません。

魂に刻まれた罪を取り除かなければならず、それには相応の償いの経験が必要になります。



一刻も早く成長して行けるようになるために、償いのシナリオが組み込まれている人生を、自らが志願して、この世に生まれて来る人が意外に多いようです。

シナリオ通りに従って出来事が起きて、そこから生じる苦痛を味わうことで、償いをすることになりますが、その記憶は完全に消去されています。

この世で大切なものを学ぶため、同じ過ちをしないために、苦痛の経験はなくてはならないようです。



肉体を失った後も人生は続いていますが、死ねば終わりだと考えてしまい、やりたいことをやって生きようと思う人が多くいます。

それは悪いことではありませんが、自分本位の生き方をしてしまうと、他人の気持ちにどうしても鈍感になってしまいます。

自分を優先するあまりに、他人を不幸にさせてしまう人がいるのも事実です。



無知とは、恐ろしいものです。

平気で人を傷つけてしまう人は、目に見えない神の摂理が働いているのを知らないとしか思えません。

その先で、自分で自分が裁かれ、償いをしなければならないのを知っていれば、怖くて人を傷つけることなどできません。

神の摂理が完璧に働いているのを、多くの人が知るようになれば、世の中はきっと変わって行くと思います。



怒りや憎しみが生まれたら、相手にその想いをぶつけ返して、自分と同じ想いをさせようとする衝動が生まれますが、それは絶対に避けなければいけません。

自らが蒔いた種は、自らが刈り取ることになります。

想いを遂げれば一時的な満足は得られますが、その後に、今度は自分自身を浄化させる経験が待っていることを忘れてはいけません。

自然法則(神の摂理)により、完全な公正が保たれているので、自ら手を下す必要はないのです。



ところで、私たちが死んだ後に行く世界は、この世とは大きく違います。

自分と似ている人(魂)だけと生活しているので、考え方、生き方、価値観が大きく違う人は周囲におらず、許せないような出来事は生じないと考えられます。



では、なぜ、この世では自分と違う人(魂)と、隣り合わせに生きなければならないのでしょうか?

お互いが違うことに、大きな意味があると思います。



1枚の絵画があったとします。

近くに寄って見ると、小さな色が集まって、全体が構成されているのが判ります。

明るい色もあれば、暗い色もあります。

自分の好きな色もあれば、嫌いな色もあります。

もし、自分の好きな色だけ、似たような色だけで描いたとしたら、どうでしょうか?

とても単調な絵になってしまい、美を表現するのは難しいと思います。

さまざまな色彩が混在しながら、存在を強調し過ぎず、互いの色が引き立てられた絵の中に、調和を見出します。

クロード・モネ作 「サンジェルマンの森の中で」

この世の人間も同じであり、違う人が交じり合い、お互いを尊重しながら、それぞれが全体に寄することに大きな意味があると思います。

その中で、愛が育まれ、調和が生まれます。

私たちは限りなく大きな絵の中の、限りなく小さな1点の色のような存在ですが、全体を構成する1要素であり、何かしらの役割を担っていると考えられます。

絵のように全体を眺められないので、残念ながら、果たしている役割が明確には判りません。



多くの人と共に生きる意義は、違うもの同士が、認め合い、許し合って行くことにあると思います。

時にぶつかり合って、苦痛を経験する中で、個々の魂は成長しながら、全体の調和が進んで行くと思います。

ばらばらに存在しているものが、愛により調和が生まれ、徐々に1つになって行くと思います。

神の意志により、この世界は1つになる方向に進んでいると思います。