2024年4月21日日曜日

親の成長を願う子


ある若い騎手が落馬事故で亡くなったと、ニュースで報じていました。

誰からも好かれていたようで、葬式の席では、皆、涙を流していました。

在りし日の写真を見て、若くして亡くなる人は、明るく清らかな輝きを放っている人が多いと改めて感じました。



「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。」と、シルバーバーチの霊訓には書かれています。

そして「地上人生の期間、つまり寿命が切れる時期は、たいていの場合あらかじめ分かっています。」とも書かれています。

およその人生は予め決まっていて、承知していることになります。

偶発的としか思えない事故であっても、その人の寿命が来ていたのだと思います。



地上の人は亡くなった年齢を気にします。

若くして亡くなれば、これからだったのにと嘆き悲しむ人が多いでしょう。



死んで無になってしまうのであれば、そう思っても仕方ありません。

現実は全く違います。

新しい環境で、生命は変わりなく続いています。



さまざまな経験をして、霊的に成長するために、私たちは地上に生まれて来ています。

内在する資質を開発するため、言い方を変えると、より多くの神性を発揮できるようになるためです。

神性とは、親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛と、シルバーバーチの霊訓には書かれています。

一言で言えば「愛」です。



地上の年齢は、霊的な成長度の尺度とはなりません。

若くても、十分に神性が発揮されている人はいます。

一方、年を取っていても、それほど発揮されていない人もいます。



思い出せませんが、過去にも地上を生きています。

過去の地上での経験が、魂に反映されています。

神性がそれほど発揮されていない人は、地上に生まれて来た回数が少なく、経験が乏しいと思われます。

十分に発揮されている人は、これまでに何度も地上に生まれ、さまざまな経験をしていると思われます。




若くても、年を取った人よりも、霊的に成長している人がいるのはそのためです。

年齢で判断しようとするのは間違っています。



生まれて来た目的を果たすと、摂理に従って寿命が来ます。

肉体から完全に離れて、本来の住処に戻ることができます。

霊的に成長した人ほど、地上で開発すべき魂の資質が少なくなるので、早く戻れると考えられます。

優しく、思いやりがあり、「何でこんな良い人が」と言われるような人が、早く逝ってしまうのはそのためと考えられます。


生まれて間もなく、お母さんの胸の中で亡くなる子がいます。

ご両親は深い悲しみの中で、こんな問いを突き付けられます。

「何のために生まれて来たの」



学び成長するために、相応しい環境(親)を選んで生まれて来ます。

けれども、早くして亡くなる子供は少し違います。



親が子供を亡くすほど苛酷な試練はありません。

身を引き裂かれるような悲しみ苦しみの中で、霊的に目覚める人がいます。

目覚めた魂が、生命の真実を見つけます。

「視えなくても生きている」

「また会える」

無知から生じていた苦しみから解放されます。



親として選ばれるのには、いくつかの条件があります。

別れに耐えられる魂であること。

深く愛してくれる魂であること。

今生で大きく成長することを求めている魂であること。



選ばれたのであれば、耐えることができ、生き抜くことができます。

深く愛してくれる魂ほど、別れの悲しみが深くなるのは当然です。

この経験を通してでしか決して得られない、貴重な魂の資質を手にするために、生まれて来てくれたと考えられます。



自分のためではありません。

周りの人たちを成長させるために生まれ、そして逝ったと考えられます。

そのような人生を選択するのは、地上を生きる必要のない進化した魂のような気がしてなりません。



過去生から関わりがあって、今生で親子になることを決めてた来た人もいるでしょう。

そうであれば、霊的に親しい間柄(類魂)なのかもしれません。

本来の住処で、愛し合う悦びを、より深く感じながら共に生きるために、地上での別れを経験しています。



先に逝った子が何よりつらく感じているのは、目の前の現実に隠された真実が分からずに、自分を責めている親の姿を見る時です。

「そうじゃない」と必死に訴えているでしょう。



地上の子は、親の愛を一身に受けながら成長して行きます。

先に逝った子と残された親は、地上とは真逆の関係になっていると思われます。

子の愛や導きを受けながら、親が成長して行きます。



進化成長するために、神の計画として起きています。

そのことに、早く気付いて欲しいのです。

真実に気付くことで、先に逝った目的が成就されて行きます。








2024年4月14日日曜日

大丈夫と言い聞かせる


18年前に、突然ヒーリングの力が出現しました。

直後に、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、私の意識に変革が起こりました。

世の中が違って見えるようになり、ある言葉が妙に心に響くようになりました。

その言葉とは「大丈夫」です。



人のことが心配になった時に「大丈夫?」と声をかけます。

また、不安な時に自分に「大丈夫」と言い聞かせる時もあります。

なぜ心に響くようになったのか、当時は分かりませんでした。

今は、神や霊界の存在が、私たちに語りかけている言葉だと思うようになりました。



不治の病気になり、死が迫っている人がいたとします。

その人に向かって「大丈夫だよ」と言ったとしたらどうでしょう?

多くの人は、死に対して恐れや不安を持っています。

死が迫った人ならなおさらです。

「気休めなど言わないでくれ」と言われてしまうかもしれません。



死とは、生命の本質である魂が肉体から完全に分離する自然現象です。

死んでも、意識は変わりなく存続しています。

本来の住処に戻って、新たな生活が始まります。

地上の苦しみや痛みから解放されるので、本当に大丈夫なのです。



現実に打ちのめされている人、窮地に追い込まれた人に、「大丈夫」と言ったらどうでしょう?

「何を根拠にそんなことが言えるんだ」と怒られてしまうかもしれません。



あらゆる物は自然法則に働きによって支配されています。

あらゆる事象は自然法則の働きによって起きています。

そのことを、物理学者のアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と表現しています。

「偶然・運命の気まぐれ・奇跡・偶発事故というものは存在しません。すべては整然とした犯すべからざる連鎖の法則にしたがって働く「因果律」の結果なのです。自然の摂理がこの宇宙全体を支配しており、どこで何が起きようとー昆虫であろうと人間であろうと天体であろうとーすべてにその法則が働いているのです」と、シルバーバーチの霊訓には書かれています。

自然法則の働きによって、この世界の秩序は保たれています。



魂には神が存在しています。

神が良心となって顕現しています。

助けを求めている人がいたら、何とかしてあげたいと思うのはそのためです。



全体を愛しむ無限の心(意識)が神と考えています。

神の心そのものである愛が、自然法則の働きの中に顕現しています。

私たちは、自然法則の働きによって、神に愛されているのです。



どのような事象であっても、神の愛により創られた自然法則の働きによって起きているので、最終的には良い方向に向かいます。

神が全責任を負っているので「大丈夫」なのです。



地上にいる時は、肉体があります。

五感が強くなり、相対的に霊的な感覚は弱くなります。

そのために、五感に触れない神の存在や自然法則の働きが分からなくなります。

次の世界に行くと、もう肉体はありません。

五感の障壁が取り払われ、神の存在と法則の働きが如実に感じられるようになります。

宇宙は神の愛により経綸されていることが分かり、地上で怖れるものは何もなかったと思うようになります。



シルバーバーチは「取り越し苦労をしてはいけない」と繰り返し言っています。

また「乗り越えられない困難や障害は起こらない」と言っています。

必要なことが自然法則の働きによって起きているので、何が起きたとしても大丈夫と、地上の人たちに伝えたいのだと思います。



幼い頃、怯えていると、親から「大丈夫だよ」と言われると安心できたものです。

「大丈夫」という言葉から、自分の想いを理解してくれて、気遣う気持ち(愛)が伝わるので、恐怖や不安が和らいだのだと思います。



先のことが、全く分からなくなるのが地上です。

不完全な世界のために、思う通りに生きられません。

失敗や挫折もあり、生きるのに疲れてしまう時もあるでしょう。



そんな時に、霊界にいる存在に意念を向けてみるのはどうでしょう。

間髪を入れずに、生きる力が出るような言葉やイメージが心の中に浮かび上がって来るかもしれません。

先のことが予見できる霊界の人たちは地上の人に、何とかなるから大丈夫だよと伝えていると思います。

きっと、その通りになるはずです。



私たちは、全体(神)の一部です。

全体(神)とつながっているので、全ての事象を乗り越える力が秘められています。

外にいる誰かが救ってくれるのではなく、自分の中にいる神によって自分が救われます。



「大丈夫」の語源を調べてみました。

仏教で言う「菩薩」のことを指すようです。

菩薩とは、自己の悟りを求める過程で、他者を救済しようとする精神を持つ者のことを言います。

華厳経の中に「もし諸の菩薩この法に安住すれば大丈夫の名号(みょうごう)を得ん」と書かれています。

(真理を求める人は)自然法則の働きを信じていれば大丈夫と解釈しています。

分殊菩薩像(焼山寺) 


新しいことに挑戦する際に怖れや不安を感じたり、困難や障害に遭遇して生きるのがつらくなったら、「必ず良い方向に向かうので絶対に大丈夫」と、強く自分に言い聞かせて前に進んで行きましょう。




2024年4月7日日曜日

戦争のない世界にするために


大きな戦争が始まって2年の月日が経ちました。

直接被害を被っているわけではないので、徐々に関心が薄れているのを感じます。

どうすることもできないと諦めている自分がいます。

そんな気持ちが、戦争を長引かせてしまっているような気がします。



戦争を終わりにするためには、どうすれば良いのでしょうか?

地球上の全ての人に神が宿っています。

神が良心となって顕現しています。

地上は、思念を肉体を使って表現する世界です。

1人ひとりが、自分の良心に従って、何かを表現すれば良いはずです。

SNSなどを通じて、戦争に異を唱える人もいれば、反対運動に参加したり、署名をする人もいるでしょう。



マハトマ・ガンジーの非暴力運動も、当初はささやかなものでした。

徐々に周囲を巻き込んで国中に広がり、最終的にはインドの独立を勝ち取りました。

たとえ小さな表現であっても、それが周囲に影響を与えて、次第に大きなうねりとなって、世界を変えてしまうこともあります。



霊界に向かって祈るのも良いでしょう。

祈りを受け取った霊界の人たちが、同調する地上のキーマンに戦争を終わらせるよう、より強く働きかけてくれると思います。



出典:戸田記念国際平和研究所HP

人が死に、傷つき、家や街が破壊されています。

物的なもの以上に、霊的な被害も深刻かもしれません。

怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、嘆きに支配されてしまいます。

予定されていた人生が送れなくなってしまいます。

多くの人に無用なカルマを作ってしまいます。

引いては、人類全体の霊的進化を遅らせることにつながります。



霊界では戦争は起こり得ません。

周りには同類の人間しかおらず、地上的な欲望もなくなるからです。

地上では、肌の色、言葉、性格などがそれぞれ違っていて、誰一人として同じ人間はいません。

肉体があるために、利己心も生れます。

国や組織の間で、互いの違いを認められず、利己的になってしまうと、戦争に発展してしまう可能性があります。



戦争が始まれば、大きな苦痛を味わうことになります。

苦痛を通して、お互いを認め合い、許し合い、信じ合うことの大切さに気付きます。

それは宇宙を支配している自然法則の働き(真理)を学んでいることに他なりません。

初めから真理を知っていて、実践していたのならば、戦争が起きることはありません。

もちろん、苦痛を経験する必要もありません。



進むべき目的地は同じです。

真理を実践して直線的に進んで行くのか、知らずに遠回りをして進んで行くのかのどちらかです。

無用な戦争を起こさせないために、真理を知っている人は、まだ知らない人に伝えるという、重大な責務を担っていることになります。



漠然としているもの、何となく感じていることを、はっきりとさせたものが、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)だと考えています。

例えば善と悪です。

定義はあいまいで、人によって解釈は違います。

善とは自分の良心(神)の声に従うことであり、悪とは良心の声に背くことです。

自我(エゴ)の働きが強くなると、良心が顕現しにくくなります。

悲しいことに、世界を変える力(権力や富)を持った人ほど、エゴの働きが強い傾向にあります。

戦争を始めた人たちは、良心の声がエゴにかき消されてしまったか、聞こえていても蓋をして背いてしまったと考えられます。



悪いことをすれば、罪を償わなければならないと教えられました。

ところが、戦争で悪いことをしても、罪を問われず、償いをしない人もいます。

この事実を、子供たちにどう説明すれば良いのでしょうか?

法律から逃れられても、法則から逃れることはできません。

自然法則の働きによって間違いなく霊的な償いが果たされ、完全な公正が保たれることを併せて教えなければいけません。



同胞が傷つけられたと報復して、戦争が始まることがあります。

同胞とは何でしょう?

同じ国、同じ地域、同じ人種、同じ宗教に所属する者だけが同胞ではありません。

人類全体が同胞です。

目に視えない霊的なつながりのある関係が同胞です。

同胞を傷つけているのが戦争です。



戦争と言う大きな過ちを犯してしまうのは、そのことを知らないからです。

全世界に適応される法律はありません。

全宇宙を支配する不変の自然法則を絶対的な基準にして、戦争が過ちであることをはっきりと指摘し、罪を犯した者を追及することが望まれます。



「大自然の働きの基調は革命(レボリューション)ではなく、進化(イボリューション)です。進化の過程はゆっくりと、そして着実に進行します」とシルバーバーチは言っています。

まだ知らない人に真理を伝えることで、心の底から戦争に異を唱える人が増えて行きます。

そのようにして、ほんの少しずつですが、戦争のない平和な世界に変わって行くと信じています。


愛のトンネル(ウクライナ)


自分の住む地域で、ささやかですが真理を広める活動をしています。

然るべき時期が来たら、活動の場を広げて行きたいと考えています。




2024年3月31日日曜日

勇気を奮い立たせて前に進む


私たちは、地上と霊界の間を行き来しながら、進化成長して行く存在です。

地上に生まれると、肉体によって自己表現するようになります。

それに伴って、地上の自我(以下自我)が生じます。



自我は、魂(霊)から生じた思念を、肉体によって表現するためにある媒体です。

けれども、思念は自我により忠実に表現されるとは限りません。

例えば、火事で建物中に取り残され、助けを求めている人がいたとします。

魂には神が内在しています。

そのため、助けようとする衝動が生まれます。

一方、自我は肉体と密接に関係しています。

そのため、肉体を守ろうとします。

魂からは助けようとする想い(愛)、自我からは死んでしまうかもしれないという怖れが生じて、両者の間で葛藤が起こります。

自我が勝ると助けるのを止めてしまいます。

このように、魂から生じている想いは、自我によって大きな制約を受けています。



自我に打ち克ち、自分の想いを表現するのは、地上に生まれて来た目的の1つと考えられます。

そのために必要になのは「勇気」です。

けれども、口で言うほど勇気を出すのは簡単ではありません。

不完全な物質の世界のため、上手く表現できる保証はなく、上手く表現できたとしても、受け入れられるかどうかも分かりません。


ヘレン・ケラー(1880-1968)出典:Wikipedia

ご存知のように、ヘレン・ケラーは見えない、聴こえない、話せない3重の障がいを持っていました。

幼少期の様子をこう語っています。

「濃い霧の海を航海したことがありますか?まるで、立ちはだかる白い闇のような霧。その中を、大型船が緊張と不安の中、水深をはかる「測鉛」を頼りに、手探りで岸に向かって進む。」

外界と隔絶され、不安と孤独の中で生きていたヘレン・ケラーの元に、サリバン先生が現れます。

出会った日のことを「私の魂が誕生した日」と言っています。



ヘレン・ケラーはサリバン先生の口に手を当て唇の動きや振動から、そして口の中に指を入れて舌の動きから発音の仕方と単語をマスターして行きました。

7回目のレッスンの後、「I am not dumb now(私はもう聾唖者ではない)」という文章を話せるようになっていました。

ヘレン・ケラーの記録動画を観る機会がありましたが、聾唖者とは思えない見事な演説でした。

「人生は二つに一つ。迷った時こそ勇気を。」ヘレン・ケラーは言っています。

どれくらいの勇気を奮い立たせて、絶望的と思われる障がいを克服し、自己表現できるようになったのか想像も付きません。



勇気を出すためにどうすれば良いのでしょうか?

自分を信じなければいけません。

本当の自分とは魂です。

自分を信じることは、内在する神を信じることになります。

たとえ神の存在を信じていなくても、自分を信じることで神とのつながりが強くなり、物事を成し遂げる力が得られます。



多くの人は、自我(エゴ)の働きが強くなっています。

そのために、本当の自分の想いに気付けなくなったり、気付いたとしても蓋をしてしまいます。

自分を見失い、自分を信じられなり、勇気を出せずに物事を成し遂げる機会が奪われています。



私たちは、一人で生きているのではありません。

地上にいる私たちを見守っている存在がいます。

どうしても自分を信じられない時には、その存在を信じましょう。

インスピレーションや援助の力を届けて、怖れや不安を払拭させてくれるでしょう。



霊界では肉体がありません。

思念が直接伝わるので、自己表現に失敗することはありません。

周りには同類の人しかいないので、受け入れてもらえないこともありません。

地上のような勇気を必要としない世界と考えられます。



思念の世界である霊界において、何よりも大切なのは意志です。

意志がなければ、何も変わらず、自発的に成長することもできません。

勇気とは、物事を成し遂げるための意志を強くさせるものです。

地上で勇気を出して物事を成し遂げることによって、霊界で周りのための何かをしようとする意志が強固なものになると考えられます。


ヘレン・ケラーですが、12歳の時に幽体離脱をしてアテネを訪れるという霊的な体験をして、魂の存在を信じるようになりました。

そして、死んだ後に障がいから解放された世界が待ち受けていることを知ります。

「私は、自分の障がいを神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障がいを通してだったからです。」(ヘレン・ケラー)

地上で不幸と言われる事象は、魂を目覚めさせ、生まれて来た目的を成就するために、神によって計画されたものと考えられます。



「乗り越えられない困難や障害は与えられない」

ヘレン・ケラーはこの霊的真理を実践して世界中の人に示した偉大なスピリチュアリストです。

私たちにも、彼女と同じ神が宿っています。

だめかもしれないと思った時は「神がいるので絶対に大丈夫」と強く信じて下さい。

そして、勇気を奮い立たせ、前に進んで行きましょう。


ヘレンケラーとサリバン先生 (出典:サライ jp)



2024年3月24日日曜日

この人生で終わりではない


3月15日に父が永眠しました。

永眠と言っても、もちろん眠り続けているわけではありません。

向こうの世界で意識が目覚め、先に逝った肉親や友人と、しばしの間再会の歓びに浸っていたと思います。



喪主である兄のあいさつで、初めて知った事実がありました。

父は大学のある大阪にずっといたと思っていましたが、終戦前の一時期、北九州の小倉に住んでいたそうです。

当初、アメリカ軍は広島の次に北九州の小倉に原子爆弾を投下するつもりでした。

ところが、小倉上空は視界不良だったため、急遽予定を変更し、長崎に投下しました。



その時、B29が飛んでいる音を、父は聞いていたのでしょうか。

もし晴れていて、予定通り原爆が投下されていれば、命を落としていた可能性は高いと考えられます。

何か思うところがあって、そのことを死ぬまで話さなかったのでしょう。



命を落としていれば、私は子供として生まれて来るはずもありません。

違う親の元に生まれて、違う人生を歩んでいると思います。

今の自分があるのは、両親がいたからです。

改めて感謝しています。



私たちは、環境(親)を選んで、生まれて来ています。

もしそうならば、誰もが恵まれた環境で、愛情深い親を望むような気がします。

けれども、世の中はそんな環境(親)ばかりではありません。



ベーブ・ルースは、スポーツ界の英雄です。

ルースは1895年、メリーランド州ボルチモアの貧しい家庭に生まれました。

9人兄弟でしたが、成人したのはルースを含めて2人だけであり、育った環境が悪かったことが想像されます。

そのためでしょうか、ルースは幼少期から窃盗など非行に走るようになります。

手に負えなくなったルースは、7歳の時に全寮制の矯正施設に預けられます。

そこでマティアスという神父に出会い、野球の手ほどきを受けます。

野球の面白さを知ったルースは、めきめきと上達して行き、試合を観に来ていた球団関係者の目に留まり、大リーグに入ることになります。

その後の活躍は、言わずと知れています。



私たちは、目的があって地上に生まれて来ています。

望むような環境と、目的を果たすための環境は違います。

ルースは、野球を通して世界中の人に夢や希望や勇気を与える目的(使命)を持って生まれて来たと考えられます。

周りから不幸に見えても、目的を果たすために、その環境でなければならなかったと考えられます。

目的に向かって、全てが一直線で結ばれています。

どれ1つでも欠けていたとしたら、「野球の神様」は誕生しなかったでしょう。



楽しいことばかりが起きる人生を、多くの人は望みます。

けれども、それだけでは成長しません。

成長するためには、それに相応しい経験が必要です。

困難や障害を経験し、それを乗り越えようとすること、(肉体を持つことによって生まれる)自我に打ち克って、他者に愛を表現することで、霊的に成長して行きます。

霊界にいては経験できないことを経験するために、私たちは地上に生まれて来ています。



学ぶべきものが、人それぞれあります。

偶然に委ねていては、学ぶのに相応しい経験をするまで、どれくらいかかるのか想像も付きません。

計画的かつ効率的に学ぶために、無限の叡智(神)によって、最適なシナリオが創られます。

成長を願う、神の愛の御業です。



死んで無になるのであれば、成長する必要などありません。

成長することを望むのは、この世で終わりではなく、生き続けることを心の奥底で知っているからだと思います。

精一杯生きようとするのは、死んだ後に後悔したくないからだと思います。



私たちには自由意志があります。

決められていたことが起きても、逃げ出してしまうこともできます。

生まれる前の記憶を失ってしまう地上の人が、無事に目的が果たせるように、守護霊が生涯に渡って付いて、導きや援助の力を与えています。



どんな経験であっても、地上を去れば終わります。

全く新しい環境が、目の前に開けて来ます。

しばらくすると、地上の全人生を振り返ります。

大切なことを学ぶために、この経験がどうしても必要であり、自らが志願していたことを知ります。

魂の成長として報われていて、これからの人生に活かされることを知り、無限の叡智に向かって感謝するでしょう。



周りの人と比べても、全く意味がありません。

今生で学ぶことは、それぞれ違います。

学ぶことが違えば、人生も自ずと違って来るのは当然です。



物心付いてから現在までの人生しか、私たちは知ることができません。

実際は、生まれる前にも人生があり、死んだ後も人生は続いています。

学ぶことがあれば、何度でも地上に生まれて来ます。



今、自分がしている経験を、前の(地上の)人生でしている人もいるでしょう。

次の人生でする人もいるでしょう。

どこかで、誰もが経験しなければならない、大切な学びがあると思います。


途中の1章しか読んでいないのに、物語全体を理解するのは不可能です。

それと同じで、この人生だけで、全てを判断するのは不可能であり、愚かなことです。



今の章は、前の章からつながっています。

前の章に原因があり、今の章で結果が生じていることがあります。

生じた結果をどう対処するかによって、次の章が変わって来ます。



偶然ではありません。

原因と結果を繰り返しながら、今の自分がいます。



誰の責任でもありません。

自分で決めて来た結果として、今の自分がいます。



これは余談です。

ご存知でしょうが、ルースは打者だけではなく、投手としても活躍していました。

けれども、精神的、肉体的負担があまりにも大きいために、しばらくして打者に専念するようになりました。

そのことに悔いがあり、今度こそ両方をやり遂げたいと志願して、100年の時を経て日本の地に生まれて来たのでは・・・。

大リーグと投手への強いこだわり、摂生に徹底した生活(不摂生だったルースが反省して)、両者とも子供が大好きなことから、ふとそんなことを考えてしまいました。


ベーブルース(出典:Wikipedia)


大谷翔平選手(出典:Full-Count)





2024年3月17日日曜日

この世も思念の世界


この世とあの世の大きな違いは、肉体のあるなしです。

肉体があるかないかで、コミュニケーションの仕方が大きく変わって来ます。

この世では、思念を言葉にして発しています。

発せられた言葉は、相手の五感を通して伝わって行きます。



ただ、想いを言葉にした時点で、齟齬が生じている可能性があります。

例えば「よろこびを感じている」と伝えたとしたらどうでしょう?

「よろこび」と言っても、文字にすると「喜び」、「悦び」、「歓び」、「慶び」などがあり、その意味は微妙に違います。

けれども、音声(口頭)で受け取ったとしたら、その判別はできません。



この世では、相手が発している言葉と、想っていることが違う場合もあります。

お世辞を言うことも、嘘を付いてしまうこともできます。



言葉で表現できない想いも存在します。

感極まると、言葉にできません。



人間の本質は魂です。

魂で生じた思念は、精神で言葉となり、肉体を使って表現されます。

五感を通して受け取った言葉は、精神で認識されて、相手に新たな思念が生じます。

この世では、そんな煩わしい行程を繰り返しながら、コミュニケーションをしています。



一方、あの世では、想い(思念)は直接に相手に伝わります。

言葉にする必要がないので、ありのままの想いが相手に伝わります。

嘘が付けません。

真実の世界と言われる所以です。



ところが、この世においても、言葉を介さずに想いが伝わる時があります。

言葉がしゃべれない赤ちゃんが何を訴えているのか、お母さんは察しようとします。

気心の知れた人が、何を想っているのか、分かる瞬間があります。

目を見ただけで、相手の想いが伝わって来ることもあります。



五感を介さなくても、想いが伝わって来るのは、私たちは肉体を超えた存在だからです。

思念を受け取る受信器があるからです。



その受信器により、あの世から様々な思念を受け取っています。

芸術家のインスピレーションもそうです。

音楽家がメロディーが降ってきたと表現する時があります。

それは頭で考えたものではなく、この世の人と同調しているあの世の人から送られて来たメロディーをインスピレーションとして受け取っていると考えられます。



「してはいけない」あるいは「するべきだ」と、心の中で囁いているのを感じる時があります。

そんな時は、見守っているあの世の人から、思念が伝わって来ているのかもしれません。

先(結果)が視えるので、行く末を心配しているのです。



この様に、ふと考えが思い付いたり、心の中で囁きを感じた時は、あの世から思念が伝わって来ている可能性があります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「人間の心に浮かぶ思念が全て、霊界からのものとは言いません。それは明らかに言いすぎでしょう。しかしその多くは、背後霊が精神と魂を豊かにしてあげようとする努力の反映です。」

思念を受け取って、無意識の内に行動していることは少なくないと思います。



あの世にいる人から多大な恩恵を受けているにも関わらず、物質を超えた世界が存在することを認められない人が多くいます。

そんな人たちも、喜びや悲しみ、怒りなどを感じながら生きています。

それらの感情は、明らかに物質を超えています。

存在は証明されていませんが、誰もが実感しているので、否定する人はいません。

感情の存在を認めているのであれば、物質を超えた思念の世界が存在するのを認めても良いはずです。



想い(思念)はエネルギーです。

波動となって相手に伝わります。

喜び、悲しみ、怒りなどの感情には、それぞれの波長があります。

喜びの感情を出している人と、悲しみの感情を出している人の波長が違うので、双方の想いが交わることはありません。

悲しみの涙を流している人の傍にいると、こちらまで悲しくなる時があります。

笑い転げている人の傍にいると、こちらまで可笑(おか)しくなる時があります。

もらい泣きや、もらい笑いをするのは、音叉の原理と同じで、傍にいた人の想いが伝わって来て、共鳴していると考えられます。



感情を超越した波動が愛です。

何もないところに悦びを生じさせます。

どのような感情が生じていたとしても、愛は伝わります。

怒りに震えている人をなだめ、悲しみに打ちひしがれている人を慰める力を持っています。

愛は魂から生じているので、精神(自我)から生じている感情より優っているのです。



この世で伝えてくれる人がいなくても、愛は伝わって来ています。

あの世から見守っている存在を忘れてはいけません。

いつ、どこにいても、私たちは見えざる人たちに愛されています。



神に愛されていると良く言われます。

けれども、その実感はありません。

私たち神の一部であり、つながりは永遠不滅です。

神の力によって創造され、神の力によって生かされています。

そして、神の創った法則の働きにより進化し続け、悦びの世界へと導かれています。

今、こうして生きていること自体、神に愛されている結果です。



私たちを生かしている力の本質は愛です。

その力を受け取った魂は、愛を表現したくなるのですが、この世で自己表現している媒体(自我)が不完全なために、ままなりません。

愛の表現について、シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「私の言う “愛” とは、慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために、自分の能力の範囲内で精一杯援助しようとする心を言います。愛を表現していることになります。自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために、出来る限りのことをしてあげようとする心、それが愛です。」

自分を中心に考えようとする自我に打ち克って、他者に愛を表現することは、この世に生まれて来た大きな目的の1つです。







2024年3月10日日曜日

神は全てを慈しむ意識


太陽系が所属している銀河系には、2000億個を超える恒星が存在しています。

宇宙全体では、そのような銀河が数千億から数兆個存在すると言われています。

無限に広がる宇宙には、無数の生命体が存在すると考えられます。

宇宙空間を航行している生命体が、地球を見つけたとしたら、その美しさにきっと驚くでしょう。

接近して、観察し始めるかもしれません。

良く見ると、最も知性のある地上の生命体が、互いに傷つけ合い、殺し合っています。

さらに、知性の劣る生命体を虐げています。

自分たちが住んでいる惑星の環境を破壊しています。

そんな様子を見て、地上に降りるのを止めて、ひっそりと立ち去っているかもしれません。



シルバーバーチの霊訓にはこんなことが書いてあります。

「地球は宇宙の惑星の中で最も進化の程度の低い部類に属します。」

人間よりも進化した生命はいると思っていましたが、最低の部類だと知り、がっかりしました。



進化とは、知性の向上ではありません。

霊性が高まって行く過程を指します。

月に行けるようになるよりも、争いがなくなり平和になって行くのが、真の進化です。

同じ星の中で、傷つけ合い、殺し合っている人間が、高度に進化しているわけがありません。

進化していると驕っている時点で、程度が知れてしまいます。



全ての生命は、進化して行く宿命を持っています。

それは何億光年離れた星でも、死んだ後に赴く世界においても同じです。



突然ですが、上の画像は何でしょうか?

いくら見ても、さっぱり分からないと思います。

一部分を切り取ったものだからです。

少し離れたところから観ると、全体が分かります。

全体が分かると、何であるのかが、ようやく分かります。


私たち人間も、同じような気がします。

自分を中心に考えて、視野が狭くなると、一部分しか見えなくなります。

一部分しか見えないと、自分が何者で、何のために存在しているのかが分かりません。

もし、全体を見渡すことができたのなら、分かるようになると思います。



地上に生まれて肉体を持つと、自我により自己表現を始めます。

自我の働きが強くなると、自分を中心に考えてしまいます。

全体が見えなくなるために、戦争や飢餓や環境破壊などが生じてしまいます。

         




話は変わりますが、人間の1つの細胞には、46本のDNAが折り畳まれています。

46本のDNAをつなぎ合わせると、約2メートルになるそうです。

もし人体にある全てのDNAを1本につなぎ合わせたとしたら、どれくらいの長さになるでしょう?

人体には37兆個の細胞があるので、何と740億キロメートルになります。

太陽系で最も遠い惑星である海王星までの距離は45億キロメートルなので、その十数倍先まで達します。

jamstec Baseから一部引用

DNAは人体の設計図です。

偶然の積み重ねによって、このような想像を絶するほど微細で緻密な構造からなる設計図が造られたとはとても思えません。

計り知れない叡智(神)によって、人間が創造された考える方が、遥かに自然です。



NGC2275 NASA公開画像
宇宙は、神によって創造されています。

私たちは、宇宙を構成している一部分です。

神的エネルギーによって創られていて、神的エネルギーによって生かされています。



神的エネルギーの吹き出し口となっているのが魂です。

魂には神の意識(心)が埋め込まれています。




神の意識が発揮されるほど、全体に調和がもたらされます。

けれども、地上では不完全な意識(自我)により自己表現しているために、神の意識が発揮されにくくなっています。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「あなたはもともと完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。(中略)まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというのに過ぎません。それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で”悪”と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している”不完全さ”を意味するに過ぎません。



神の意識は、自然法則の働きによっても顕現しています。

生命の進化を促し、より多くの神の意識が発揮されるように導いています。

進化の行きつく先は神と考えられますが、到達するには永遠の時が必要です。



神とは全体を慈しむ無限の意識であり、それにより完全な調和がもたらされた状態を指すと思います。





2024年3月3日日曜日

怖れから解放されるために

 


断崖絶壁の上に立つと、恐怖を感じて足がすくんでしまいます。

ところが、命綱なしで断崖絶壁を登って行く人もいます。

そんな人は、勇気があるというよりも、恐怖を感じにくいのかもしれません。



いわゆる自己防衛本能は地上の自我(以下自我)の働きによるものです。

恐怖が生じるのもその一環です。

自我により、私たちは自己表現をしています。

同時に、自我は肉体を守ろうとします。

もし、恐怖が生じなかったとしたら、身の危険を感じなくなり、崖から落ちてしまうかもしれません。



地上は物質的な世界です。

表現媒体である物質(肉体)は不完全です

そのため、思念を完全に表現することはできません。

自分の思いを、言葉にできないこともあるでしょう。

思い通りに行かずに、失敗することもあるでしょう。

失敗して被る不利益を想像すると、怖れを感じてしまうこともあります。



地上では自分とは違う人たちに囲まれながら生きています。

そのため、人から思いもよらぬ言動を受けることもあります。

傷つけられてしまうと、その後、人を怖れてしまうこともあるでしょう。



怖れは、地上を生きるために必要な感情です。

けれども、必要以上に怖れが生じると、成長の妨げとなります。



生まれる前にいたのは、思念の世界です。

肉体を介さずに思念が表現されるので、地上のような失敗はありません。

周りには、自分と同じような人間しかいないので、傷つけられる心配もありません。

怖れから解放されています。

平和で安全な世界を離れて、怖れが生じる地上に生まれて来たのには、理由があるはずです。



私は中学同窓会の幹事をしています。

以前ですが、同窓会を開くことになり、クラスメートに電話連絡をして、参加するかどうかを確認しました。

クラスの中心的存在で、みんなに好かれ人気者の男子がいましたが、意外にも出席を拒みました。

後になって他の同級生から、別のクラスの生徒からいじめを受けていたと聞き、それが原因だと思いました。

それから、いくら声をかけても参加することはありません。



怖れは、苦痛を伴う過去の出来事から生じていることが多く、根深い感情です。

クラスメートに生じていた怖れは、今も消えていないのかもしれません。

怖れの裏に、怒りや憎しみの感情が隠されているのかもしれません。

身の危険を感じるような状況では、怒りや憎しみを通り越して、怖れが生じます。

戦争もそうです。

近くに爆弾が落ちている時は、怖れしか感じません。



地上を生きている限り怖れは付きものですが、好ましい感情ではないので、どうにかしたいものです。

「全き愛は恐れを締め出す」これはイエス・キリストの言葉です。

さまざまな解釈があるでしょうが、私はこう思います。

恐れ(怖れ)は、自我(精神)から生じています。

愛は、精神より高次の魂から生じています。

魂が主で、精神はそれに従います。

怖れよりも愛の力の方が優るので、締め出すことができると考えられます。



けれども、怖れを抱いている対象を愛そうとするのは困難です。

こう考えるようにしています。

自分も怖れを抱く対象も、本質は同じです。

どちらも神が創造した、神を宿した、神(宇宙)を構成する一部に変わりありません。

本質は同じですが、自我の進化の程度は違います。

自我から生まれる言動もさまざまです。

未熟な自我が作り出した言動は虚像であるので、真に受けてはいけません。

怖れも、未熟な自我が作り出した虚像です。

虚像には、実体はありません。



魂から生じているものは真実であり、実像です。

実像には、実体があります。

目に視えない愛は、実体があります。



実体が視えなくなる地上では、信じることが必要になります。

信じることで、個と個はつながり、そのつながりを通して、愛が行き交います。

全ての人に神が宿っていると強く信じるほど、怖れは生じないようになります。



あらゆる事象は、自然法則の働きによって起きています。

今まで自分に起きた事象もそうです。

神の心は、自然法則の働きによって顕現して、私たちを成長進化する方向へと導いています。

今起きている事象、これから起きる事象は、良い方向に自分を向かわせていると、強く信じるほど、怖れは生じないようになります。



魂に宿る神の存在、宇宙を支配する自然法則の働きを信じるほど、怖れと言う苦しみから解放されます。



最後に、シルバーバーチの霊訓の1節をご紹介します。

あなた方はいったい何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神に、なぜ身を委ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心を我が心とするのです。心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。そうすれば自然に神の心が、あなたを通して発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば、何事もきっと成就します。




2024年2月25日日曜日

眠っている時

 

子供の頃は、頻繁に夢を見ていた気がします。

中でも1番印象深かったのは、「大魔神」(昔の映画に出て来た悪者を懲らしめる神の化身)に追いかけられた夢です。

逃げても、逃げても、ドスン、ドスンと言う地響きを立てながら、どこまでも、しつこく追いかけて来ます。

よほど怖かったのでしょう、目覚めた時にパジャマが汗で濡れていました。

夢で良かったと、ホッと胸を撫で下ろした記憶があります。



眠っている時に、私たちの意識(魂)は肉体を離れて、霊界に行っています。

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

問い「朝、目覚めて、睡眠中の霊界での体験を思い出すことはあるのでしょうか?」

答え「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然、脳から解放されています。脳はあなた方を物質界につなぎ止める肉体器官です。睡眠中、あなた方は魂の発達の程度に応じたバイブレーションの世界で体験をします。その時点ではあなた方はそこでの体験を意識しているのですが、肉体に戻って睡眠中の体験を思い出そうとしても思い出すことはできません。それは、霊界での体験の方が地上よりも大きいからです。小さなものは、大きなものを包むことはできません。そのために歪みが生じるのです。」と答えています。

私たちの意識は、夜も眠ることはなく活動を続けています。

しかし、霊界での体験は頭で理解できるものではないので、思い出せないのだと思います。



大魔神の夢ですが、以前、映画を観た時の恐かった記憶が、夢の中で再現されていたのかもしれません。

もしそうだとすれば、フィクションです。



あるいは、霊界で実際に体験していたのかもしれません。

霊界では、思念は具現化します。

自分の思念により、大魔神が作り出されてしまったのかもしれません。

もしそうだとすれば、大魔神と言うフィクションを作り出した、ノンフィクションの夢だったと言えます。



自分の思念で作り出したものではなく、実在している存在が夢に現れる時もあります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

問い「誰しも夢を見ます。その夢の中で親しい人と会ったことを思い出すことがあります。本当に会っているのですか?それともただの想像ですか?または、会いたいという願望が夢となって現れたのですか?」

答え「実際に会っています。といって想像力を見くびってはいけません。厄介な面もありますが、豊かな創造性も秘めています。純粋で最高の形で発揮された時の想像力は、驚異的な働きをします。未開発の能力を花開かせる、創造的な力になります。全ての夢が霊的体験というわけではありません。潜在意識に蓄積した考えの反映もありますし、夜遅く食べた物の反応もあります。」

問い「その違いは分かりますか?」

答え「分かります。食べた物や潜在意識の場合は、霊的な効用がありません。実際に霊界の愛する人に会った場合は、精神的な温もりや霊的な温もり、充足感を覚えます。その違いは明確に分かります。」

霊的な体験の時には、蝶に口づけされたような気分がすると表現しています。

それでも、頭で拵えたフィクションの夢と、霊界での体験によるノンフィクションの夢の境界ははっきりとしません。




実際に霊界で体験していることだと、もっとはっきりと分かり、覚えていても良さそうなものです。

そうでないのは、何か理由があってのことだと思います。

地上よりはるかに快適で、生きる悦びに満ちた世界が霊界です。

そんな世界があることが、はっきりと分かったらどうでしょう?

眠りに耽ろうとする人も出て来るでしょう。

いっそのこと、霊界に行ってしまうとする人も出て来ると思います。




大変なのを承知した上で、私たちは地上に生まれて来ました。

ホームシックのようになってしまったのでは、何にもなりません。

正式に戻れるのは、寿命が来た時です。

眠っている時にいる霊界のことが、垣間見える程度にしか分からないようになっているのは、自分の意志で早く戻ると言う過ちを犯さないためだと思います。




ところで、私たちが眠る目的は何でしょう?

当然のことですが、肉体を休息させるためです。

肉体が休息をしている時に、意識(魂)は霊界に行き、生命力(霊的エネルギー)を補充していると考えています。

目覚めた時に心が清々しく感じるのは、霊的エネルギーによって、魂が癒されているからと思います。




眠れないと、霊界には行けません。

そこで霊的エネルギーが補充されないと、地上を生きるために必要な精神的エネルギーが不足してしまう可能性があります。

精神的エネルギーは物質的な食事から得られるわけではなく、霊的エネルギーから変換されるものだからです。

精神的エネルギーが不足してしまうと、精神活動が停滞してしまい、日常生活に支障を来してしまいます。

それが、うつと呼ばれる状態かもしれません。




ヒーリングをすると眠くなる人が多いです。

霊的エネルギーが補充されると、心がリラックスするからです。

その逆に、あれこれと考えてしまったり、好ましくない感情が生まれたりする時は、霊的エネルギーが不足しかけているのかもしれません。

過労でうつ状態になり、死を考えてしまうのは、霊的エネルギーが枯渇しかけているためと考えられます。

そんな時は、(仕事を休むなどして)良く眠れるように生活習慣や環境を整えて、霊的エネルギーを補充するように努めなければいけません。




眠れない時は、魂が肉体から抜け出せずにいます。

肉体に縛り付けているものは「思考」です。

脳で思考を止めない限り、魂は肉体から離れることができません。




思考によって、過去の出来事を思い出したり、未来の出来事を想像したりしています。

そして、浮かんで来た出来事に、感情が付加されて行きます。

思い出しては怒ったり、悔やんだり、想像しては心配したり、不安になったりすることもあるでしょう。




そんな自分に気付いたら、意識を現在(今)に引き戻す必要があります。

眠れない時に羊を数える人がいます。

意識を現在に引き戻すのには有効ですが、結局は思考していることになります。




繰り返されている呼吸に、意識を向けるのは有効です。

大きく息を吸ったり、吐いたりすることで、意識は現在に引き戻されます。

腹式呼吸をしている時、横隔膜という筋肉が上下に動いています。

横隔膜は迷走神経の支配を受けています。

迷走神経は副交感神経であり、呼吸を通して意識的に働かすことで、心身の緊張が解けて来るはずです。




現代の人間は考えることが常態化しています。

地上を生きるために、考えることは必要ですが、考えなくても良い時まで、考えるようになってしまっています。

電車の中で、スマホを見ている人が何と多いことでしょうか。

常に頭を使って、何かをしていないと落ち着かないように見えます。




仕事などで思考することを避けられない時はありますが、あまり思考しなくても済む時もあるはずです。

考える癖が付いていたり、頭をフル回転させている状態が続くと、眠る時間になっても脳は休まらずに、その結果、魂は肉体に縛られてしまうかもしれません。

熱いお湯は、直ぐには冷めません。

頭を働かせ続けている自分を意識して、スマホ、パソコン、テレビから離れる時間を作って、頭を休めるように努めることも必要です。




考えなくても良いことまで考えて、そこに感情が付加されることで、いたずらに精神的エネルギーを消耗してしまいます。

不安や心配などの感情は、霊的エネルギーの魂への流入を妨げてしまいます。

霊的エネルギーが足りなくなると、好ましくない感情が生まれて、精神的エネルギーを消費すると共に、霊的エネルギーの流入を妨げて、余計に好ましくない感情が生じるという悪循環に陥ってしまう可能性があります。




眠りは、健やかに生きるために極めて重要です。

適度に運動したり、静かな音楽を聴くことも、眠りに入るために役立つでしょう。

それでも眠れずに、心身が疲れてしまっている人には、霊的エネルギーを補充させるヒーリングが有効です。

必要と感じている人がいましたら、遠慮なくお声掛け下さい。







2024年2月18日日曜日

神について


以前の私は、神の存在を信じていませんでした。

信じていないと言うよりも、関心がありませんでした。

神は宗教上の産物で、弱い人がすがるものであり、自分が生きて行く上で関係がないと思っていました。



たとえ信じていなくても、神との関わり合いが途切れる時はありません。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「大霊(神)とは宇宙の自然法則です。物質界と霊界の全ての生命体の背後にある創造的エネルギーです。」



神は意識的存在であり、心があります。

その心が、全宇宙ならびに自然法則の働きによって顕現しています。

親切にして喜ばれると、うれしくなります。

傷つけることをしてしまうと、心が苦しくなります。

これらの現象は、自然法則の働きにより起こります。



人は苦しみや痛みでなく、うれしさや悦びを感じていたいものです。

私たちは、自然法則の働きによって、他者に喜ばれるよう、傷つけないように、導かれています。

このことから、神の心の一側面が窺えます。



この世界の隅々まで、自然法則は働いています。

水が0℃で氷になるのも、物が地面に落ちるのも、自然法則の働きによるものです。

これらの物理的な法則には再現性があり、客観的に証明されているので、信じていない人はいません。



ところで、その物理的な法則は、偶発的に生まれたのでしょうか?

目の前にあるスマホが、偶発的に生まれたと言う人はいません。

当然のことですが、離れた人と会話をするために、人間によって設計され、人間の手によって作られました。

同じように、何かの目的があって、何者かによって、自然法則は創られたと考える方が(偶発的に生まれたと考えるよりも)はるかに自然です。



「生まれる」「死ぬ」のも自然現象の一環です。

自然現象は、自然法則が働いた結果として起こります。



自然法則は、自分の言ったこと、行ったこと、想ったことにも働いています。

それに対して、寸分の狂いもなく結果が生じます。

ただ、地上では結果が表に出るとは限りません。

腹立たしいことを言われても、怒るのではなく、にこやかな表情で接することは良くあることです。

物質を介しているので、原因に対する結果が、違った形で表現されることもあります。



宇宙は神的(創造的)エネルギーによって創られています。

私たちは、神的エネルギーによって創られた、宇宙の一部です。

身体の1つ1つの細胞に、同じ血液が流れて、生かされているように、宇宙を構成する1つ1つの生命には、同じ神(霊)的エネルギーが流れて、生かされています。

身体の細胞に同じ遺伝子が組み込まれているように、生命には同じ神の心が組み込まれています。



神の心が顕現する瞬間があります。

駅のホームから人が落ちたのを見て、自分の命を顧みずに助けようとする人がいます。

理屈を超えて、それは神の心が発露した結果です。



悪いことをする前に、「やってはいけない」と心の中で囁いているのも、神の心(良心)です。

その声を無視して、故意に人を深く傷つけたとします。

周りに知られなければ、法律で裁かれることはないでしょう。

時間と共に、その記憶も薄れて来ますが、その罪が消えることはありません。



死んでしばらくすると、地上の人生を振り返る時が来ます。

全ての言動は、魂に刻み込まれています。

自分の行いによって、傷つけた相手がどのようになったのかを目の当たりにします。



外部にいる神が人間の行いを見ていて、罰を与えるのではありません。

自分の中にいる神が、自然法則の働きに照らし合わせて、自分を裁きます。

自分によって自分が責めを受けます。

その罪が深いほど、強い後悔や自責の念が生まれ、いたたまれない気持ちになるでしょう。



どうにかして、魂に刻まれた罪を清算したくなります。

苦しみや痛みのある地上の方が、霊界にいるよりも効率的に罪を清算することができます。

償いが組み込まれた人生が計画され、それを了承して地上に生まれて来ます。



どのような償いになるのかは、神の叡智(因果律)によって決められます。

過不足のない苦痛を味わうことになりますが、償いの最後に同じ過ちを犯さないための学びが得られると考えています。


願い事があると、神に祈ることがあります。

受験シーズンの今は、神社仏閣で合格祈願をする人も少なくないでしょう。

病気が治るように祈る人もいます。

いかなる祈りも、自然法則の働きには干渉できません。

神を信じて祈るよりも、自分を信じて勉強した方が合格する確率は高まります。

原因が存在している限り、病気は治りません。

祈って願いが叶うのであれば、神の創った法則(因果律)が根底から崩れてしまいます。

非情に感じる時もありますが、自然法則の働きによって、厳格に結果が生じているだけです。



宇宙は無限です。

神の意識も無限です。

自分の意識を、神の意識にまで高めようとするのが、生命(魂)の持つ宿命です。

それには無限の時が必要であり、私たちは永遠に生き続けることになります。



私たちは、神の心を宿した存在です。

神の存在が分からなくなる地上では、神の心はわずかしか表現されていません。

それゆえに、貧困や戦争や差別など、さまざまな問題が生じます。

一人ひとりが自分の中にいる神の存在を意識し、より顕現するように努めれば、それらの問題は一気に解決されます。



現実社会を真剣に生きようとするほど、神は遠くに感じられるのかもしれません。

五感を働かせて、頭脳をフルに回転させるようになるからです。



次の世界に行くと肉体は失われます。

五感や頭脳は消滅し、地上で隠れていた霊的な感覚によって、物事を認識するようになります。

自然法則の働きや神の存在が、リアリティを持って感じられるようになります。



物質的な地上に生まれてしまうと、神の存在を信じるのが難しくなります。

それでも、自然法則が働いていることは信じて下さい。

自分の行く末が決まるからです。



良心(神)の声に耳を澄ませて、忠実に生きるようにして下さい。

そうすれば後悔することはありません。



人や動物や社会に喜ばれるような生き方をして下さい。

神の心を表現していることになり、後に悦びとなります。



2024年2月11日日曜日

変わることで苦しみから解放される


月面に立つアームストロング船長(NASA)

1969年7月、アポロ11号のアームストロング船長が、人類で初めて月面に立ちました。

テレビのニュースでその様子を見ていましたが、この世の光景とは思えませんでした。

その後もアポロ計画は続きますが、月に向けて航行中の13号は、地球から32万キロ離れた宇宙空間で酸素タンクの爆発という致命的なトラブルに見舞われました。

乗組員を生きて地球に返すために、NASAは叡智を結集して解決策を探ります。

その場でロケットを減速し、方向転換させ、地球に引き返させるのは不可能です。

5万キロ先にある月の裏側をぐるっと回って、遠心力を利用して地球に戻って来る計画が立てられました。

計画は実行に移され、全員無事に帰還することができました。

その出来事は「最も成功した失敗」と言われています。



超高速で進んでいるロケットを停止させるのには、大きなエネルギーを必要とします。

ロケットに「慣性の法則」が働いているからです。



人生にも、同じような法則が働いている気がしてなりません。

ひたすら前(未来)へ向かって進んでいるので、過去に留まろうとすると大きなエネルギーが必要になると思います。


勢い良く流れる河の中にいると、水の抵抗を強く受けて、その場に留まっているのは難しいです。

流れに身を任せると、抵抗はなくなります。

水の流れに抗うのには、やはり大きなエネルギーが必要です。




人間は、絶え間なく変わって行く存在です。

ある時点を境にして、肉体は衰えて行きます。

それは老化現象であり、自然法則の働きによるものです。



魂も肉体と同じです。

地上でさまざまな出来事を経験しながら、真の自分である魂は変わって行きます。

生き続け、変わり続ける宿命にあります。




変わらないでいようとするのは、水の流れの中に留まっているのと同じです。

自然法則の働きに反しているので、抵抗を感じます。

それを苦しみとして感じます。

苦しいから変われないのではなく、変わらないから苦しいのかもしれません。




強烈な出来事を経験することによって、自分が変わる瞬間があります。

その出来事は、魂を変えるために、計画的に起きていたのかもしれません。



変えるために起きていたのにもかかわらず、変わらないこともあります。

例えば、こんな経験はないでしょうか?

他者から忠告を受けて、プライドを傷つけられ、怒ってしまった。

失敗をして、他のせいにしてしまった。

高いノルマが与えられ、不平不満を言ってしまった。

それらは地上的な自我(以下エゴ)の働きによるものです。

せっかく忠告してもらっても、怒ってしまえば、変わらないでしょう。

何かのせいにしてしまえば、失敗から学ぶことはできず、変わらないでしょう。

不平不満を言いながらでは、ノルマを達成したとしても、変わらないでしょう。

このように、エゴの働きによって、自分を変えるための力が奪われてしまうことがあります。




いつの日かあの世に行きます。

そこが本来の住処です。

地上に生まれて来るのは、いろいろな出来事を経験することで学び成長し、あの世での人生を豊かで悦びに満ちたものにするためです。



あの世で、この世を振り返る時が来ます。

自分を変えることができたのに、エゴの働きによって、その機会を逸してしまったことに気付きます。

予定されていた出来事だったのに、変えることができなかったのならば、後悔は免れないでしょう。

地上に生まれた目的の1つを、果たせなかったことになるからです。



必要があれば、何度でも地上に生まれて来ます。

今生で変えることができなかったのならば、来生で変えることになるでしょう。

結局は、どこかで変えなければならないのです。



帰還したアポロ13号
アポロ13号で事故が起きた時、船長であるジェームス・ラベルは「私は必ず帰れる」と信じていたそうです。

エゴに支配されて、悲嘆したり、絶望したり、運命を呪っていたのなら、地球に帰って来れなかったでしょう。



人生も同じかもしれません。

起きた出来事に、どう向き合うのかが問われています。



エゴの囁きに負けてはいけません。

勇気を出して、自分を信じて、前に進んで行きましょう。



自分が変われば、苦しみから解放されるはずです。

宇宙を支配している自然法則(神)は、地上にいる私たちを苦しみと痛みを通して、成長進化させる方向へと導いているからです。


2024年2月4日日曜日

この世で自分が正される


通知票をもらって開く時に緊張するのは、今も昔も変わりありません。

開くと、学科の成績とは別に「生活ようす」というのがあります。

そこには、学校でどんな生活をしていたのかが評価されています。

項目として「基本的な生活習慣」「けんこう・体力の向上」「自主・自律」「責任感」「創意工夫」「思いやり・協力」「生命尊重・自然愛護」「勤労・奉仕」「公正・公平」「公共心・道徳」があります。

霊的真理を知った今、学科の成績よりも、むしろそちらの評価の方が大切であり、その人の実態を表しているのではないかと思うようになりました。

もっと目を向けて伸ばしてやれば、健全に成長して行くような気がします。



私たちの生きる目的は、自分を成長させるためです。

それは、死んで霊界に行っても変わりません。

勉強ができて、社会で成功し、富と名誉を手に入れたとしても、霊界に行くと評価の対象とはなりません。

魂の成長とは、全く関係のないことだからです。



シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、仕事を立派に仕上げることを通して得られます。 言いかえれば、内部の神性が日常生活において発現されてはじめて成長するのです。」

「思いやりの心」「寛容の精神」「同情心」「愛」「無私の行為」が、日常でどれくらい表現されているかで、その人の霊的な価値が決まると考えられます。



霊界に行くと、魂(自分)が露わになります。

自分に欠けている、あるいは足りない資質に、気付くことになります。

それが成長の足かせになっているのであれば、手に入れようとするでしょう。



霊界は、苦痛が取り除かれています。

極めて快適な世界なのですが、霊的な資質を手に入れるのには、苦痛がある方が適しています。

そのために地上に生まれることを志願します。

足りない資質を手に入れるために必要な出来事を経験する人生が立案され、それを了承し、適した環境に生まれます。



例えば、思いやりに欠けて、利己的な人がいたとします。

そのままでは、霊的な成長は望めません。

親として選ばれるのは、飛び切り利他的な人かもしれません。

間近で親の姿を見て、徐々に感化され、見習うようになり、利己性が薄れて行くこともあるでしょう。

それとは逆に、利己的な親を選ぶこともあるかもしれません。

自分の性分を親から見せられて、そうなりたくないと思うようになり、改めて行くこともあるでしょう。



学校に上がるようになると、たくさんの子供たちと一緒に過ごすことになります。

そこで、わがまま(利己的)な振る舞いをしていると、因果律の働きにより、周りにいる子供たちから咎められたり、仲間外れにされたりします。

地上では、自分に欠けている部分、神の心に反する部分が表現されると、周りにいる人たちの良心(神の心)が反発して、苦痛を感じる行動を取られることがあります。

苦痛は感じたくないので、わがままな言動を改めるようになります。



大人になるのに従い自我(エゴ)が発達して行きます。

改めるように周囲から促されても、自我(エゴ)が適当な言い訳をして、改めようとしない人もいるでしょう。

無限の叡智である神は、全てを織り込み済みです。

その先で、言い訳が通用しなくなる出来事を経験することになるかもしれません。

因果律の働きにより、最適なタイミングで、逃げ場がなくなり、徹底的に追い詰められる出来事が起きるかもしれません。

万事休すと思われた時に、救いの手が差し伸べられたとしたらどうでしょう。

周囲に感謝せずにはいられなくなります。

それを境に、周りに目が向くようになり、思いやる心が芽生えるかもしれません。


なぜ自分は、この国のこの家族の元に生まれたのかと、ふと考える時があります。

自分に足りなかったものの1つは「勇気」だったのかもしれません。

勇気は愛と同じように、成長するために欠かせない資質と考えられます。

今は引退した父と兄と同じ職場で働いています。

父も兄も、新しいことに挑戦する気概に溢れていて、誰もやったことのないことを臆することなく始めます。

私にはない資質を持っていると感じています。

同業で、同じ職場であれば、慎重(臆病?)な私にも、同じことが求められます。

勇気を出して挑戦することに意味があり、成功しても失敗しても、何かしら得るものがあることを学んでいると思います。

そして、宗教とは無縁な家庭環境であったからこそ、霊的真理をすんなりと受け入れられたと思います。



カルマを解消するために、生まれて来る人も少なくないようです。

例えば、怒りや憎しみの感情から、人を傷つけてしまった人がいたとします。

罪が大きければ、次の人生で償うことになるでしょう。

然るべき時期に、苦痛を伴う出来事を経験することになります。



これは1例ですが、考え方や生き方の異なる人が、傍に現れるかもしれません。

その人と接する度に、苦痛を感じるようになります。

憤りを覚え、それを相手にぶつけたい衝動に駆られますが、どうしてもそれができません。

予め決められていたのであれば、逃げることもできません。

苦痛を享受することが償いとなり、過去生で足りなかった「寛容の精神」が身に付けられて行きます。

カルマの解消は、償いであると同時に自分を正すものだと思います。



自分の意志だけで、自分を変えるのには限界があります。

地上でさまざまな出来事を経験することによって、自分を変える方がはるかに確実です。

誰もが避けたい苦しみや痛みの経験を通して、半ば強制的に変わって行きます。

起きた出来事を嘆いたり、運命を呪ったり、人を憎んだりすると、望ましい方向に自分が変わるための力が削がれてしまいます。



霊界に行ってしばらくすると、この世の人生を総括する時が来ます。

その時の心境は、学校で通知票を開く時の心境と似ているのかもしれません。

神の法則に照らし合せて、成績を付けるのは自分自身です。



苦しくて仕方がなかったあの出来事は、自分を成長させるために必要だったことに気付きます。

あの時の痛みにより、本当の自分が目覚めて、大切なことを学び始めていたことを知ります。



現実から逃げ出さずに、乗り越えようとしている自分の姿を見て、思わず安堵します。

そうすることで、生まれて来た目的を果たしていたからです。

生れる前の自分よりも、強く、優しくなっていることに気付いて、深い悦びを感じるはずです。