2014年2月27日木曜日

摂理(自然法則)は想いにも働いている



私は、日本という国に生まれ良かったと思います。なぜなら、当たり前の自由があるからです。世界中には、その当たり前の自由がなく、窮屈な思いをしたり、肉体的、精神的に束縛を受けている人たちが、まだたくさんいます。

私は、いつ、どこで、何をしようと自由です。かと言って、何をしても良いわけではありません。法治国家であるため、法律を破ることをすれば、罰せられます。また、社会にはモラルというものがあり、それを逸脱した行為に対しては、咎められたり、非難を受けたりします。自分の取る行動は、他の人から見られていることもあり、多くの人は法律やモラルを守りながら、生活しています。

ところで、自分の思いや考えはどうでしょうか。どう思おうと勝手であり、何を考えても自由であり、咎められることはありません。また、自分から言わない限り、他人には知られることもありません。たとえ、悪い考えや、良くない想いを抱いたとしても、それを罰するものは何1つなく、心で思っているだけならば問題はないと、ほとんどの人は考えています。

仮に、他人から、ひどい仕打ちを受けたとします。抑えきれない怒りの感情が生まれ、ある人は相手に殴りかかるかもしれません。また、暴力ではなく、言葉で相手に怒りをぶつける人もいるでしょう。行動や言葉で表さなくても、心の中で相手を憎んだり、恨んだりする人もいると思います。感情にまかせて殴りかかれば、警察に捕まり、罪を問われ罰せられます。言葉で怒りをぶつけても、相手の心を傷つけてしまえば、罪となり罰を受けることがあります。心の中で、相手を憎んだり、恨んだりするのはどうでしょう。行動に移さなければ、法律的に罪に問われることはありません。

人間が作った法律では不問となりますが、霊的な摂理では、そういう訳にはいきません。摂理は、自由意志により自らが取った言動はもちろん、心の中で考えたことや、思ったことに対しても、働いています。心の中は、他人には覗けなくても、神には知られることになります。なぜなら、さまざまな想いは魂が作り出すものであり、魂は神の一部であり、つながっているため、すべての想いは神の知るところとなります。自分(の魂)を欺けないように、神に対して繕ったり、ごまかしたりすることは、絶対にできないのです。神を信じようと、信じまいと、神の摂理を知ろうと、知るまいとに関係なく、人が抱いた想いのすべてに働いて、正確に結果をもたらします。

神の摂理(心)は「愛」であり、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いは、「愛」とは対極にあるため、摂理に反しています。もし、摂理に反した、怒り、憎しみ。恨み、妬み、貪欲などの感情を抱き続けたなら、それは霊的な罪となり、苦痛を経験して償わなければいけません。

地上の物質に万有引力という法則が働き、支配しているように、魂には霊的法則(摂理)が働き、支配しています。石を真上に投げれば、真下に落ちてくるように、自らの想いも、自らに戻ってきます。もし相手に怒りをぶつけたなら、その怒りを相手からぶつけ返されます。それがなかったとしても、相手に苦痛を与えていたならば、相応の苦痛の経験として、戻ってきます。また、怒りや憎しみの感情を抱き続けると、魂のありさまが変わってしまい、やさしさや思いやりの心、平和な心が失われ、些細なことで怒りやすくなったり、人の過ちが許せなくなったりして、いさかいが多くなってしまいます。次第に周りから人が遠ざかり、孤独を味わったり、制裁を受けて、苦痛を経験することもあるでしょう。また、魂のありさまの変化が、肉体上の変化として現れ、病気として苦痛を経験することになるかもしれません。

しかし、その苦痛も人を不幸にさせるためにあるのではなく、摂理に気付かせ、摂理に反した想いを抱かないようにするためにあります。子供が悪いことをしたら、親に叱られます。悪いことだと教えるためには必要であり、子供にとっては叱られるのは苦痛であるために、その後、同じことを繰り返さなくなります。神の摂理(心)も、子を思う親の気持ちと同じであり、間違っている(摂理に反している)ことを、苦痛を通して教えているのです。誰しも、つらいことが重なったり、思うようにいかなかったりすると、穏やかな心を失い、怒りの感情が生まれやすくなります。私も以前は、どちらかと言うと感情的な人間であり、瞬間的に怒りの感情がわき上がりやすかった方だと思います。しかし、怒りをぶつけても、解決するどころか、返って事態が深刻になったり、後悔することがほとんどでした。今は、いくつかの神の摂理を知っているため、嫌なことや、つらいことがあっても、なるべく穏やかな心を保つように努めています。

憎しみを表せば、憎しみが返ってきますが、愛を表せば、愛が返ってきます。実に単純なことなのです。それが真実であることを、歴史が証明しています。インドのマハトマ・ガンジーは他国の支配に、非暴力で臨みました。もし、彼が暴力(武力)で対抗したのなら、暴力(武力)で返されて、独立はとても出来なかったでしょう。非暴力であったからこそ、相手も非暴力にならざるを得ませんでした。彼は「人類が自由になるために、非暴力は、もっとも強い武器である。それは人間の英知によって作られたあらゆる武器よりも、強いものである。」と言っています。また「敵と相対するときには、愛で征服しなさい」とも言っています。たとえ理不尽なこと、道理に適っていないことであっても、神の摂理に背いた怒りや憎しみの感情にまかせて、暴力で解決するのではなく、神の摂理に適った平和や共存の想いで解決しようとしたため、神の力が得られ、自由と独立を勝ち取ったと考えられます。ガンジーは政治的指導者と言うより、神の摂理を知る偉大な霊覚者でした。

この世の中を生きていると、さまざまな人との出会いがあり、さまざまなことが起こります。楽しく、うれしいこともあれば、つらいこと、嫌なこともたくさんあります。そんな時に、感情に流され、怒りや憎しみ、妬みの想いを持ってしまうのは、賢明ではありません。なぜなら、想いや考えも目には見えませんが自分の一部であり、神の摂理が働くからです。怒りや憎しみ、恨みや妬み、貪欲の想いは、自分の魂を汚す上に、苦痛として自らに返ってきますので、何一つ良いことはありません。けれども、怒りや憎しみの想いを抱かずにいるのは、口で言うほど簡単ではありません。ガンジーやイエス・キリストが言うように、憎しみを愛に変えていくのは、きわめて難しく感じられます。もし、それが簡単にできるようであれば、この世に生まれてくる必要はないのかもしれません。

未熟な私は、良くない感情が芽生える前に、こう思うようにしています。「この世に生まれてきた目的は、魂を向上させるためであり、つらいこと、悲しいこと、困難なことを乗り越えていくことで、魂は向上する。この世に生まれてきた限り、つらいこと、悲しいこと、困難なことに出会うのは避けられない。与えられた試練として、乗り越えなければいけない」そして「許すことで、怒りや、憎しみや恨みの想いを抱かず済む」と。許すことなど断じてできないと思うこともあるかもしれません。しかし、許さなければ、憎しみや恨みの想いから、いつまでも解放されません。それは、自分の魂にとって、決して良いことではありません。許すことは自己犠牲であり、愛の表現です。

自身に降りかかる出来事に対して、怒りや憎しみなどの想いを抱くか、それとも許すか、どちらを選択するのも自由です。ただ、自分の想いにも、神の摂理が働いていることは、紛れも無い事実なのです。

2014年2月21日金曜日

ガンと霊的摂理


私は、ガンという病気を経験したわけではありません。

そのつらさは想像を超えるものだと思います。だから安易な気持ちで書きたくはありません。

ガンは、単純ではなく、根が深い病気だと考えています。

私には、まだ多くの人に知られていない、多少の霊的知識がありますので、その知識がガンという病気を理解する上で、少しでも役立てばと願っています。



からだの不調が続き、おかしいと思いつつも、仕事が忙しく、暇がないと、不調の原因を突き止めるのは、つい後回しにしてしまいがちです。

いよいよ症状が深刻になり、家族にも促されて病院に行くことになりますが、普段、行き慣れていない病院で、検査をしていくうちに、不安は高まっていきます。

そして主治医から、「ガン」という病名を告げられた時の衝撃は、経験した人でなければ分からないと思います。

医者により治療法が提示され、手術可能であれば手術をして、ガン組織を肉体から取り除いていきます。

そして今までと同じ生活に戻り、あわただしく過ごす中で、からだの異変に気付きます。

一番怖れていたガンの再発が現実のものとなり、何とか生き延びたいという願いから、医者が提示する治療に、わらをもすがる思いで臨んでいきます。

これは、多くの再発ガンの患者さんが辿る道だと思われます。

ガンは肉体を死に至らしめる病であるという認識は、恐怖心や不安感を生み出し、病気の治癒を妨げてしまうため、決して良いことではありません。



霊的次元から見たガンを、私なりの解釈で書いてみます。

ガンの発生原因は、環境や遺伝という肉体次元の原因を否定するわけではありませんが、主因は摂理に反した想い、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲などが蓄積して、魂のありさまが変わってしまったために起きると考えています。

からだの平和、調和、協調を乱しているガンは、魂が平和、調和、協調を欠いてしまった結果であり、内にあるものが、外に顕れて知らせていると思われます。

摂理に反した想いや行いに対して、因果律が働いて病気となり、相応の苦痛を経験して償うことになります。

かつてない苦痛と、逆境の経験は、心の奥底にまで響き、眠っていた魂を目覚めさせます。

長い、長い沈黙を破って魂が目覚めると、霊的な「生命」と「愛」が、最も大切なものであり、大切だと思っていた物的なものは、価値がないことに気付きます。

目に見えるすべてが輝いて見えたり、愛おしく思えてくるのは、魂が目覚め、神とのつながりが深まり、神の心である「愛」がふんだんに流れ込んできたためです。

神の愛により、不安や恐怖は追い払われ、さらに大きな生命力(治癒力)が流れ込み、魂は癒され、後を追うようにして、肉体の病は癒されていきます。



つまり、医学的にはガンを、遺伝子のコピーミスによる細胞の際限のない増殖と考えられますが、霊的には、内なる魂の変化が、外なる肉体の変化(病変)として現れたものと考えられます。

そして、医学的には、放置すれば増殖を繰り返した末に、母体の生命を奪ってしまうものと考えられますが、霊的には、摂理に背いた過ちを償い、魂を目覚めさせ、摂理に適った人生を歩ませるためにあります。



魂は、誰かに教えてもらい何かをしたり、知識を得たりして、目覚めるものではありません。

本当につらいことなのですが、自らが苦痛や苦難の経験をして、何とか乗り越えようと悪戦苦闘する中で、初めて目覚めます。

耐え難い苦痛や苦難にも意味があり、魂を向上させて、神の摂理を受け入れる土壌をつくっています。

従って、苦痛や苦難を経験し、魂が目覚め、大切なことに気付いたのなら、からだにガンが存在する理由はなくなり、治癒していくはずです。



しかし、多くの人は、ガンを単なる肉体次元の病変としてとらえてしまい、霊的次元に原因があることに、全く気付いていません。

めざましい医学の進歩にもかかわらず、死亡率が一向に低下しないのはどうしてでしょうか。

根本的原因を捉え損ねているためと、思えてなりません。



一方、余命数ヶ月と宣告された人の中で、手術や投薬もなく、奇跡的に治癒したり、または進行が止まっていたりする人がいます。

医学的には例外的な人として扱われ、問題にされませんが、根本的な治癒への糸口が、そこにあるのではないでしょうか。

その人たちに共通しているのは、ガンという病気になった意味を考え、内省し、考え方や、生き方が変わったことだと思われます。

ガンになる前に、ひたすら追い求めていた幸せや価値観と決別し、精神的、霊的に充足感が得られる生活に、変わっていると思います。

その人たちは、魂に目覚めたとは考えていないかもしれません。

しかし、結果として魂の窓は大きく開かれ、すべての源である神から、十分な生命力を受け取っていると思います。

太いパイプができて、ふんだんに生命力が流れ込み、ガンを治癒させたと思われます。

生まれ変わったように、活き活きとされている人が多く、一様に奉仕の心に目覚め、他者を慈しむ心、感謝の気持ちに溢れているように見受けられます。

神は愛であり、魂(生命)は神の一部であるため、魂に目覚めると、想いや行いは自然と摂理に適ったものとなります。

その摂理に適った想いや行いにより、神とのつながりがさらに深まり、より多くの生命力が流れ込み、ガンを封じ込んでいると思われます。

また生命力により、恐怖や不安は一掃されて、代わって、やさしさや、思いやりの心で満たされ、その表情は明るく輝いて見えます。



病気になったのは、偶然や不運ではなく、因果律の働きであり、必ず原因が存在します。

多くのガンの根本原因は、摂理に反した想いを持ち続け、魂のありさまが変わってしまい、不自然な生き方をしたことにあると思われます。

そのため、摂理に反した想いを抱くことになった過去の出来事があれば、正面から向き合い、事実を受け入れて、許すことが必要となります。

肉体上の変異した組織は、手術で取り去ったり、抗ガン剤で小さくすることはできますが、魂のありさままで変えることはできません。

埋もれていた自分の想いを知り、あるがままを認めて、許すことにより、その想いは手放され、魂のありさまは良い方向に変わっていきます。

ガンの原因となっていた想いを、自らが内側からなくしていかなければいけません。

そして、ガンという病気は、他力的な医療を受けることや、自力的な気力で立ち向かうには限界があります。

私は7年前に治癒力が出現しましたが、その生命力とも言うべき治癒力は、私の気(力)で作っているのではなく、外部から受け取り、患者さんに伝わっていきます。そのことが感覚としてわかります。

そして患者さんに伝わっていった生命力は、心を穏やかにさせ、肉体の病気を癒していきます。

たとえ唯物的な科学では否定されても、動かしがたい事実であり、「病気は生命力(治癒力)により癒される」さらに「魂が癒されることで、肉体も癒される」と、確信しています。



お伝えしたいことは、生命は魂であり、魂は神の一部であるため、すべての生命は神とつながっています。

生命力の源は神にあり、神とのつながりを深くすることにより、無尽蔵にある生命力(治癒力)を、どなたでも受け取ることができるのです。

その恩恵に授かれれば、百万の援軍を得たようなものです。



もし、存分な生命力(治癒力)を受け取ることができたなら、ガンは勢いを失い、やがて撤退していくことでしょう。

ガンの自然治癒は偶然でも奇跡でもなく、十分な生命力を受け取った結果として起こったと思われます。



生命力の源である神とつながっていることを意識(イメージ)し、穏やかで、明るい気持ちでいるようにして下さい。

そうすれば、より多くの生命力を、受け取り易くなると思われます。

さらに、神とのつながりを深めていきましょう。神は5感に触れるものではなく、摂理(法則)として全宇宙を支配しています。

お願いするのではなく、摂理に合わせることにより、自然と深まっていきます。



神の根源的摂理(心)は「愛」です。人や社会のために奉仕をしたり、人や動物を思いやり、やさしくすることも、愛の表現の1つであり、摂理に適っています。

また、世の中の平和や、人の幸せを祈ることも、愛の表現の1つであり、摂理に適っています。

利己的な祈りは神に届きませんが、「もう1度、世の中や人のために、役立たせて下さい」という、真摯な祈りは、神の摂理と一致し、つながりが深まり、病気を癒やす生命力(治癒力)が流れ込み、願いは叶えられるかもしれません。



神は愛であり、無限の叡智です。その可能性は人智をはるかに超えています。

いかなる状況からでも、治癒の道は開かれています。





参考ページ: 「ガンは愛により癒される」

         「ガン(癌)は怖くない!






2014年2月14日金曜日

ガンが嫌いなもの



母校から大学を紹介する小冊子が届きました。巻頭の特集に、今から20年ほど前に、病院の外来で良くお見かけした、ある先生のことが書かれていました。

その先生とは話をしたこともないのですが、活き活きと仕事をされていた若き日の姿が、心に残っていました。

タイトルは、「命のケア」~何かをすることではなく、そばにいることが大切~でした。

その内容についてですが、先生は「人が生まれてくるときに産科医が迎えるのならば、看取りのときにも医者がいてもいいのでは」と考えられていたそうです。

外科医だった先生は、日本に緩和ケアが現在ほど認知されていなかった90年頃から、「痛みをコントロールして、残された時間を患者さんが生きたいように支えてあげられる医療を」を目標に、こころとからだを支える医療を実践されてきました。

大学を卒業し、外科医になった先生は、術後、ガンが再発した患者さんと接する機会も多く、ガンの痛みに耐え、薬の副作用に苦しみ、やがて逝く患者さんを看とることになります。

そんな日々の中で、イギリスのホスピス医が書いた「末期癌患者の診療マニュアル」という本に、導かれるように出合いました。

本に書いてあるとおりにモルヒネを使用すると患者さんの痛みが嘘のように軽くなり、懸念した副作用もなく、自分がもとめていた、こころとからだを支える医療は、がんの痛みを癒す緩和ケアなのだと、この時気付いたそうです。

アルバイトをして渡航費を捻出し、イギリスの地で本場の緩和ケアを見聞してこられましたが、中にバーがあって、患者さんも職員も一緒にお酒を飲む。ペットもOK。

その一方で末期の肺がん患者がたばこを吸っている、常識を超えた自由さに驚いたそうです。

“治す医療”の概念からかけ離れた世界が新鮮であり、「何かをすることではなく、そばにいること」、緩和ケアにとって1番大切なものがそこにあったそうです。

帰国後、大学内に緩和ケアチームを立ち上げましたが、「医者は治すのが仕事。治さないのは医者の敗北を認めるようなもの」と言う、反対の声も少なくなかったそうです。

それでも、ご自身の信念に従い、現在まで、多くのがん患者さんと向き合ってこられました。


担当した患者さんの中に、乳がんが再発し余命3ヶ月と診断された女性がいて、婚約者がいたそうです。

ある日、婚約者から「結婚式ができないか」と相談を受けました。

式から3ヶ月だけの結婚生活、それをやる意義があるのだろうかと思ったそうです。

ところが、式の準備を始めてから病状は見る見る好転し、病院の最上階で挙げた結婚式の当日も痛みを全く見せなかったそうです。

全身の骨に転移したがんは、彼女の希望に応えるように進行しないでいるかのようだったそうです。

「手術や薬だけが病状を好転させるわけでない。患者さんの気持ちに寄り添い、望みを叶え、精神的に支えることの大切さ。それは患者さんに教えられた、緩和ケアの原動力です」と、言われています。

今でこそ、緩和ケアは当たり前となりましたが、20数年前には認知されておらず、私も先生を初めて見た時には、恥ずかしながら、メスを持たない変わった外科医だと、思ってしまいました。

当初から、痛みのケアだけでなく、全人的なケアをされていて、現在も第一線で活躍されているのを知り、尊敬の念とともに、勇気をもらった気がしました。

ところで、23歳の乳ガンの女性は、ドラマのような話ですが、深い意味があるように感じられました。

男の私には良く分かりませんが、女性にとって、ウェディングドレスを着て、周りの人に祝福されながら、結婚式を挙げることは、人生で最高の喜びなのかもしれません。

私も、時々結婚式に参列しますが、新婦の輝く笑顔を見ると、何か特別なものを感じます。

先生が言われてるように、この女性も、愛する人との結婚という、大きな夢と希望があったため、式の日までガンの進行が止まっていたのかもしれません。

私は、ガンは心、そして魂と密接に関係した病であると考えています。

さらに言うと、ガンは魂のありさまが肉体上に顕れたものであり、平和、協調、調和を欠いた魂のありさまがが、(平和、協調、調和を欠く)ガンとして肉体上に顕れたものと考えています。

怒りや嫉妬、虚栄心、貪欲など摂理に反した想いや、深い悲しみや失望などが蓄積していくことにより、魂のありさまが変わってしまうことが、霊的次元でのガン発症の原因ではないかと考えています。

また、恐怖心や不安感を抱くことは、生命力(自然治癒力)の流入が妨げられ、本来持っている免疫力が発揮されず、ガンの増殖を許してしまいます。

そして、からだの平和を乱しているガンが最も嫌うものは、心の平和であり、喜びや希望、そして愛の想いだと考えています。

また、喜びや希望、愛の想いは、恐怖心や不安感を追い払い、十分な生命(治癒)力を、受け取ることにつながると思います。

私は、喜びや希望、愛の想いは、ガン細胞の性質(性格)と相容れぬものであるため、ガン細胞を増殖させる力が絶たれて活性を失わせ、反対に、怒りや嫉妬、悲しみ、虚栄心、貪欲などの陰湿な想いは、ガン細胞の性質(性格)と似かよっているため、増殖する力が与えられて、活性化するのではないかと思っています。

この女性も、結婚という大きな希望と喜びの想いが、からだの細胞の隅々まで行き渡り、全身に転移したガン細胞の勢いを止めていたと考えています。

また、愛する想いにより、恐怖心や不安感は追い払われ、十分な生命(治癒)力が流れ込んだために、ガンの増殖は抑えられ、痛みを感じずにいたのだと思います。

ガンは肉体の病であるとともに、心や魂の病であると思います。

肉体は魂の表現媒体であり、魂が肉体の上位にあります。

ガンも肉体の一部であるため、魂に従うはずです。

魂が癒されれば、肉体の病気も癒されます。

心を穏やかに保てば、肉体も追従して穏やかになり、ガンも鎮まっていくと考えられます。

まず、心穏やかに生活することが大切です。

結婚のような大きな喜びはめったにありませんから、日常の小さなことに喜びを見出し、家族、友人、周囲の人と楽しく過ごし、時に感謝の気持ちを言葉にして、ペットをかわいがり、自然と触れ合うとともに慈しみ、人を愛し、そして許し、ありのままを受け入れることで、魂は平穏となり、ガンの勢いは失われていくように思えてなりません。

2014年2月9日日曜日

愛するもの同士は離れることはない!



死は永久の別れ、それはとんでもない誤解です。

目の前からいなくなってしまった、愛する人と、また再会できることを断言します。

その根拠を見せて欲しいと言われても、それは無理です。

愛する人の魂と、愛する人のあなたへの想いは、五感を超えたものだからです。

五感を超えて認識できないものを否定するならば、魂は存在しないことになってしまいます。

しかし、魂があるからこそ、深い悲しみを感じます。

目に見えない、聞こえないものは存在しないのではなく、認識できないだけです。



これまでも、人間は理解を超えたものを、否定してきました。

500年以上前の人は、夜空の星の動き見て、星が地上のまわりを回っていると、信じて疑いませんでした。そして地上を球体だとは思っていませんでした。

真実を知る時代が、来ていなかっただけです。



いつの時代にも、見えないもの、理解できないものは、自分の考えを守ろうとするために、拒否される運命にあります。

生命は魂であるということは、地球が丸いことを認知していく過程と似ています。

どんなに、地球は丸くないと思っていた人でも、ロケットに乗り、大気圏外に出て、数千キロ離れたところから地球を眺めれば、地球が丸いことを認めざるを得ません。



同じく、魂の存在を否定しても、自らが肉体の死を迎えても、意識や心がなくならないことに気付けば、魂が存在し、生命そのものであることを、認めざるを得ません。

常識とはされておらず、自らの目でも確かめられなくても、真実であることは、たくさんあります。

魂などは存在しないと、頑なに主張する人がいますが、気にしてはいけません。

知らないだけなのですから。

その人も数十年すれば、死を境に現実を知ることになります。



世の中は未知のことだらけです。

そして、少しでも多くの知識を得ていく過程が、人生の目的の1つであると、私は考えています。



目の前からいなくなってしまった愛する人は、あなたが愛する想いを持ち続けている限り、そばから離れることはありません。

両者を引きつける力は「愛」であり、たとえ目には何も見えず、耳に何も聞こえなくても、「愛」がある限り、魂はそばに寄り添っています。



大好きな人のそばが、一番心地がよく、安心します。

あなたが愛する人の喜ぶ姿を見るが好きだったように、愛する人もあなたが喜ぶ姿を見ているのが、一番好きです。

悲しむのは、愛していたからこそであり、仕方のないことですが、悲しみすぎるのは良くありません。

死んで無になってしまったのではありませんから、そこまで悲しむことはなく、愛する人も悲しくなってしまうからです。

見えなくなったけれども、生きていて、片時も離れずそばにいてくれるのを、あなたが承知することが、向こうにいる愛する人の大きな安心につながります。

さらに、あなたの愛は、愛する人の生きる力となり、喜びとなり、向こうの世界での生活を充実させます。



肉体は、はかないものですが、魂は不滅です。

外には、雪がたくさん積もっています。陽差しを浴びて、少しずつ溶けていっています。しばらくすれば跡形もなく消えてしまうでしょう。

雪は溶けて見えなくなっても、決してなくなったわけではありません。水に形を変えて、河に流れ込み、海に注いでいきます。

愛する人も、見えなくなってしまいましたが、形を変えて生き続けています。

すべては神の摂理に従い、変化しながら進化していきます。

その過程に、死があります。



そして、愛する人は、いつでもあなたとの繋がりを求めていますが、肉体はありませんので、手と手ではなく、言葉と言葉ではなく、魂と魂で繋がるしかありません。

愛する人と繋がりたいのであれば、まず愛する人の魂がそばにいることを、確信しなければいけません。

そして、そばにいてくれることに感謝して、今も変わらず愛していることを伝えて下さい。

その想いは、愛する人の魂に必ず伝わります。

そして、同じ想いであること、今も愛していることを、あなたに伝えようとします。

「愛を伝えたい」という同じ想いにより、お互いの魂が共鳴し合えたならば、あなたの魂に、愛する想いが、響きわたってくるかもしれません。

心の奥底から込み上げてくる、あたたかい何かを感じたのなら、それは愛する人の想いかもしれません。

あなたの想いを伝えることは、いつもそばにいて、見守ってくれている愛する人の、大きな喜びとなりますので、大切なことです。

想いを言葉にして伝えてもいいです。

次元の違う向こうの世界から、想いを受け取るのは、難しいのは確かですが、いつの日か、あなたの魂に、愛する人の想いが届き、喜びで満たされることになるかもしれません。

愛する人のことを思い出すのは、あなたを愛する想いが、魂に伝わってきているからなのかもしれません。



神の摂理として、魂は不滅であり、愛するもの同士は離れることはありません。





参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」




2014年2月6日木曜日

私の治癒力について その2



前回(その1)の続きです。

1848年、米国の田舎町で不思議な現象が起こりました。
引っ越してきたばかりの家で、物音がしているのを、家族全員が毎日のように耳にするのです。あまり気になるので、一家は意を決して、その音の正体を突き止めようと考えました。音は何らかの意志を持ってしているのを感じていたため、こちらの質問に音の回数で答えて欲しいと言ったのです。家族の年齢などを質問したところ、音による合図が返ってきましたが、その答えはどれも正確なものでした。そして、町中の人たちの知るところになり、音の主が誰なのかを、尋ねることになりました。音の数でアルファベットの文字を知らせるという方法により、この音の主が判明しましたが、そこには惨劇がありました。この音の主は、この家に以前住んでいた家主に、500ドルを奪われて殺された行商人の霊であり、地下に埋められていると告げてきました。後日、地下を掘り返したところ、遺体の一部が見つかりました。以前から、音を鳴らすという、ラップ音現象は、世界各地で起こっていたと思われますが、今回は、霊がこの世の人に向けて音によりメッセージを送り、立ち会った人すべてが、目に見えない知性の存在、魂の存在を認めざるを得なくなった、初めての出来事と言われています。

その後は、英国の地において、唯物的な近代科学に挑戦するかのように、次々と心霊現象が起きることになります。特筆すべきことは、それらの現象を、気味悪がったり、怖れたり、あるいはインチキと決め付けたりするのではなく、ノーベル賞級の科学者の手により、真摯に検証した点にあります。心霊現象研究協会という非営利団体を設立して検証していくことになりますが、歴代会長には、首相も務めたバルフォア、蛍光灯の原理を発見したクルックス、アレルギーの父として有名なノーベル医学・生理学賞を受賞したリシェなどがいることからも、少なくても、いかがわしい団体ではないことがわかります。

心霊現象は多岐にわたり、数十年間、英国各地で起こりました。最も印象に残るものとして、「エクトプラズム」という心霊現象があります。40年近く前ですが、私が中学生の頃、同級生がオカルト本を学校に持ってきました。みんなで騒ぎながら見た覚えがあります。その中に、いすに座る女性(霊媒)の前に、別の女性が立っていて、雲みたいなものでつながっている写真があり、「エクトプラズム」と説明文に書いてありました。それを見た時に、信じられないけど、だましているようにも見えない、と感じた覚えがあります。この現象は、クルックス管(蛍光灯)を発明した化学者である、クルックスにより検証されることになります。

もしかしたら当初クルックスは、この現象をトリックだと思っていたのかもしれません。いすに座っている女性と、エクトプラズムとして出現した女性は、同一人物と考えていたようです。しかし、明らかに別人であることが分かったばかりか、驚くことに、出現した女性の皮膚を触った感触は、生体とほとんど変わらず、脈も触れたのです。英国医師会のガリーという外科医が、出現した女性の脈をとっている写真が残っていますが、生きた人間にしか見えません。数年間にわたり、検証を重ねた結果、クルックスが出した結論は、「信じがたいことだが、紛れもない真実」というものでした。霊魂の存在の肯定論者になったクルックスは、その後、科学者仲間からは、異端児扱いされますが、生涯自身の考えを撤回することはありませんでした。

科学者に否定されていた霊魂の存在を、目に見える形(物理的)の現象を顕現させて認めさせるという計画が遂行されて、それを目の当たりにした科学者は、唯物的な考えを、改めざるを得なくなったのです。

あまり知られていませんが、日本でも同時期に、常識では考えられない現象が起きていました。
中でも、長南年惠という山形の女性は、目をみはるような数々の霊的現象を起こしたとされています。それは、彼女が10分程度祈願すると、空ビン数十本が様々な色の水で満たされるというものでした。この水は、霊水として万病に効いたと言うことですが、試しにやらせてみようといった考えの人のビンには、なぜか水が入らなかったようです。故郷を出て、大阪にしばらく滞在しましたが、うわさが広まり、その驚異的な現象を、多くの人が知るところとなります。そして、新聞記事として取り上げられましたが、そのすぐ後に、当局の捜査を受けて、(民衆をかどわかした等の罪だと思われますが)裁判を受けることになります。1900年に神戸地方裁判所で公判が行われ、裁判長から空ビンに水を入れるという現象を、この場で再現できるかと尋ねられ、お易いことと、彼女は快諾します。裁判所が用意した封印された空きビンが手渡され、厳重な監視の下、検証が行われました。そして、公の場で、うわさ通りの現象が起きて、空ビンは茶褐色の水で満たされることになります。立ち会った、裁判官、検察官、弁護士等すべての人が、その現象がトリックではなく、真実であることを認めざるを得なくなりました。当然のことながら、彼女の疑義は晴れることになります。

説明が長くなってしまいましたが、このように19世紀後半から20世紀前半にかけて、世界各地で、常識や科学では説明ができない現象が起きました。時期が重なったのは偶然ではなく、目に見えない偉大な力が存在することを認めさせるために、綿密な計画が霊界で立てられて実行されたのです。この先、あらゆる科学(技術)が格段に進歩して、大きな戦争(世界大戦)が起きてしまうことを予見した霊界が、人類に向けて鳴らした警鐘だったのかもしれません。そして、時代の変化とともに、目に見える物理現象は起こらなくなり、代わって霊媒を通して霊界からのメッセージが届けられるようになりました。「シルバーバーチの霊訓」に代表される、全人類を啓発するための、高級霊からの霊言もあれば、亡くなった愛する人から、遺された人へのメッセージもあります。そして、病気を癒すヒーリングも、世界のいたるところで、行われていると思われます。これらのことすべてに共通する目的は、見えない力(霊力)がこの世に顕現することにより、魂が目覚め、人間は霊的な存在で、生命は魂であり死後も生きつづけること、愛が最も大切であることを、気付かせるためにあります。

人間には理性があるため、自らが経験しなければ信じない人がほとんどです。しかし、病気で長い間、苦痛を経験してきた人や、愛する人を喪い深い悲しみを経験してきた人は、魂に受け入れる用意ができつつあります。(霊的な)治癒力は、病気が癒されることにより、この世のものではない力が働いたことを認めさせます。亡くなった愛する人からのメッセージは、死後にも生があることを認めさせます。どちらも、魂を目覚めさせるためにあります。魂が目覚め、霊的真理がもたらされ、この世に生まれてきた意味を自覚し、本来の目的を成就していくことになります。

私も、霊界でこの計画が立てられたなどとは、空想のように感じられ、信じられませんでした。しかし、これまでのヒーリングを通じて、病気が癒されていくのを目の当たりにしていくうちに、目に見えない力が存在することは、動かしがたい事実となりました。その力を届けているのは、この世を慈しむ霊界の人であり、その始原が神であることを、徐々に得心していくことになります。「生命は魂」であり、「魂は神の一部」であり、「神は愛」であるという事実を、より多くの人に伝えるための手段として治癒力が存在し、私はその通路です。    

この潮流は急速に世界中に広まりつつあり、真実であるがために、その流れを留めることは、誰にも出来ません。






                                      

2014年2月2日日曜日

私の治癒力について その1



少し前までは、宗教とは無縁の人生でした。

宗教から連想するものは、変わった風貌の教祖であり、荒唐無稽とも思える教義であり、すごく立派な教団施設でした。関心があったのは、日々の仕事であり、生活だけでしたので、その様な世界とは、一生接点を持つことはないだろうと、考えていました。

しかし、7年前に、突然、治癒力が左手から出始めました。別に願っていたことでもありませんでしたし、そんな力が存在することすら知りませんでした。手を当てると病気が癒されるという現象は、不思議であり、未知のものであり、とても興味をひかれた覚えがあります。人が喜んでくれて、笑顔になりますので、歓迎される力であり、うれしい力であることは確かです。

治癒力について、知識を求めていたところ、幸運にも「シルバーバーチの霊訓」(潮文社)という本との出会いがありました。繰り返し読んでいるうちに、私の身に起こっていることについて、合理的な解釈をすることができました。そして、治癒力には、想像もしなかった、大きな目的と計画、そして責任が託されていることを知ることになります。私の解釈が正しいのか分かりませんが、その目的と計画について書いていきます。

治癒力は、霊力であり、心身の病気を癒すためにあります。しかし、真の目的は人間の奥深い部分に働きかけ、霊的な覚醒を促すためにあります。眠っている魂を目覚めさせるためです。

近年の科学の進歩はめざましいものがあります。ライト兄弟が飛行機を作り、空を飛んでから、夜空に浮かぶ月に、人類はわずか60数年で到達しました。あらゆる分野の科学が、これほどまでに急激に進歩した時代は、かつてありません。科学の進歩は、人類に多くの恩恵をもたらしたことは、紛れもない事実であり、その上に私も生活しています。車と電話がないだけでも、日常生活はきわめて不便なものとなります。しかし、急激な進歩は、ひずみを生じさせることにもなります。

科学(技術)は、人類の幸福のためにあるはずですが、時として使い方を誤ってしまい、人類を不幸にしてしまいます。アインシュタインの偉大な発見(E=MC²)は、40年足らずで原子爆弾という破壊兵器を作り出し、広島と長崎に投下されてしまいました。その凄惨な結果は知っての通りです。また、科学的にすべてのことは説明がつくという、科学万能主義という弊害をもたらしました。それは、科学的に説明できない、証明されないものは、否定されることを意味します。「心」や「魂」の存在は、あらゆる機器をもってしても、証明できる次元のものではありません。「心」については、誰にでもあることがわかりますので、たとえ証明されなくても、否定するわけにはいきません。しかし、「魂」については、実感もなく、証明もできないため、存在を否定されることになります。

科学者が、魂の存在を否定したならば、世の中の多くの人は、その意見に従います。「魂なんかは、やっぱり存在しない」という考えになります。魂が存在しなければ、死後の世界も否定され、「死ねば終わり」ということになります。そして、「死ねば終わり」ならば、生きているうちに、精一杯、楽しい思いをしよう、という考え方になるのは、当然かもしれません。その考えのすべが悪いわけではありませんが、自分の楽しみに関心が向けられると、周囲のことはあまり気にしなくなってしまうかもしれません。さらに「自分さえ良ければ、人はどうでも良い」という風潮が生まれないとも限りません。その風潮が蔓延すれば、世の中は殺伐としたものになり、犯罪が多くなり、あちらこちらで争いが生まれます。人を押しのけて、われ先に、という我欲むきだしの世界になってしまったら、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に描写されている地獄の世界そのものだと思います。そんな世の中を、望んでいるわけではありませんが、進んでしまう危険性をはらんでいます。

魂の存在の否定は、向こうの世界にも、良からぬ影響を与えることになります。死ねば終わりだと思っていた人が死んだとします。向こうの世界に行っても、肉体がないだけであり、意識はあり、考え方はそのままですから、この世でまだ生きていると、錯覚してしまいます。すでに亡くなっている家族が、喜んで迎えにきていても、そのことを認めようとしません。何かの幻覚を見ていると思ってしまうのかもしれません。死んだら終わりだと頑なに信じていたので、終わりでなかったことを理解し、受け入れることが、なかなかできないのです。この世で、「死ねば終わり」だと思っている人が増えれば増えるほど、向こうの世界では、適応できない、孤立した魂が増えていくことになります。

今、生きている世界は、大切なことを学ぶための、学校であり、向こうの世界(霊界)は、学んだことを活かす、言わば実社会です。この世で、さまざまな悲しみや苦しみを経験して、「愛」より大切なものはないこと、他者への奉仕が最も価値を持つことを、長い年月をかけて、少しずつ学んでいきます。向こうの世界は、肉体はありませんので、生活するために働くことはありません。働くということは、他者への奉仕になります。お互いがお互いのために、自分を役に立てる世界です。奉仕をする原動力は他者への「愛」であり、その力を神から受け取りますので、「神は愛」ということを、この世とは比較にならないほど、実感することになります。夢物語に思えてしまうかもしれませんが、これは多くの人に訪れる現実です。

しかし、「死ねば終わり」と思い、「自分だけが今を楽しく生きれればいい」という考えからは、苦難に立ち向かっていくことも、他者への奉仕の気持ちも、生まれなくなります。この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためであり、魂の向上は苦難を乗り越えていくことで得られますので、生まれてきた意味を、大きく失ってしまいます。また「愛」の大切さを、学び損ねたことにもなります。この世での「魂の向上」は予定していた通りにはならず、向こうの世界で、活かすまでには至りません。また、ある国が他国との協調を忘れて、「自国だけが良ければいい」、さらに「もっと富や領土を得たい」という考えに陥れば、戦争という悲劇が起こってしまうかもしれません。

昔から「魂」が存在し、この世をどう生きれば良いのかを説いてきたのは、宗教でした。愛する者を失った人に、永遠の生命を説いて悲しみを癒したり、霊的能力がある聖職者は、向こうの世界からのメッセージ(啓示)を伝えたりして、生き方を説いていたと思われます。しかし、現在、世界にある宗教のほとんどが、昔とは違い、儀式や教義にこだわってしまっている様に見えます。日本でも、お坊さんを見かけるのは、葬式やお盆に、お経を上げてもらう時だけであり、説法を聞いても、仏様(魂)は生きているという実感を持ったことは、残念ながらありません。お坊さん自身が、魂の存在を心から信じているかどうかも、定かではありません。魂は存在しないという科学に、対抗するだけの信頼や、説得力を、今日の宗教が持ち合わせているとは思えません。

科学は、証拠をもとに理論を構築していきます。まず魂が存在する証拠の提示を、要求してきます。当然のことながら、魂は物理的次元のものではないので、あらゆる機器で検出することはできず、証拠はないということになります。これでは完全に、科学に軍配が上がってしまいます。魂は存在するにもかかわらず、事実がねじ曲げられ、存在しないと結論付けられてしまいそうです。そこで、向こうの高次の世界において、そのようなことにならないための計画が立案されました。それは、全世界の人々に、検証に耐えられるだけの、魂が存在する「証拠」を提示していくというものでした。

その計画は、約160年前の米国で始まり、その後、英国を中心に展開されていきました。〈つづく〉