2022年9月25日日曜日

真理で支える


40年以上の付き合いになる親友が深刻な病気になりました。

数か月から1年と余命宣告を受けたそうです。

それまで元気そのものだっただけに、信じられません。



本人は、もっと信じられないはずです。

何で自分がこんな病気になるんだと思っているでしょう。



出来事には偶然はありません。

何かしらの原因があるはずです。

しかし、私が知っている限りでは、思い当たる節はありません。

働き者の、良き父親です。



多くの病気はカルマが原因で起こり、苦痛により罪を償っていると言われます。

もし、罪の償いであるならば、病気で短期間で亡くなり、苦痛のない世界に行ってしまうのは、どこか矛盾しているように思います。

むしろ、病気にならずに、苦痛のあるこの世界を生きていた方が、償いになるような気がします。

きっと、窺い知ることのできない原因(目的)が存在していると思います。



突然、余命宣告をされても、受け入れられるものではありません。

肉体を蝕んで行く病気の苦痛と恐怖に耐えるのは容易なことではありません。

コロナ禍で家族との面会ができないのも堪えています。

精神がぎりぎりまで追いつめられる時があると漏らしていました。

そんな状況になったら、誰でも正気でいるのは難しいと答えました。



以前の私でしたら、このような病気になった人に対して、運が悪かったとしか思えずに、気の毒で、かける言葉も見つからなかったでしょう。

しかし、今は霊的真理を知っています。

必要な言葉をかけることができます。



繰り返し伝えているのは「乗り越えられないことは絶対に起きない」です。

この真理に私も救われました。



真理は普遍です。

いかなる人、いかなる状況においても適応されます。



病気の進行を止めることが難しいのに、どうして乗り越えられるのかと思うかもしれません。

こんな考えがありました。

乗り越えるとは、肉体上の病気が治ることではありません。

今、自分に起きていることを受け入れて、正面から対峙すること、そして肉体を持つために生じてしまう様々な想いを克服しようとすることだと思います。



人がしないような経験を友人はして来ました。

経験したことによって強くなっている魂だからこそ、このような出来事が因果律の働きにより起きたと考えられます。

「弱い人間はこんな病気にならない。強いから絶対に大丈夫だ。」と伝えました。

それでも、何で友人ばかりに、こんな試練が起きるのかと思ってしまいます。



友人が、1番怖れを感じているのは死かもしれません。

死は誰にでも訪れますが、未知のものだけに怖さを感じます。

生命は続いていて、この世より快適な世界で生きることになると、私は知っているので怖くありません。

けれども、この世を一生懸命に生きて来た友人は、あの世について思いめぐらすことなどなかったでしょう。



少し前ですが、仕事で来られた患者さんの中で、印象に残った人がいました。

70代の女性でしたが、お口の中にはたくさんの問題がありました。

治すのには時間も費用もかかることを説明しましたが希望されました。

患者さんは末期がんでした。

長く生きるのは難しいのに、どうしてそこまで治そうとするのかと思いました。



治療中もがんは進行し、腕はひどくむくんでいました。

お力になりたいと思い、思い切ってヒーリングの話をしてみました。

少し驚かれていましたが、了承していただき、遠隔ヒーリングをしました。

幸いなことに、むくみに改善が見られました。



お口の治療が全て終わり、私の部屋に呼んでこれまでの経過について説明しました。

時間に余裕があったので、この先に訪れるであろう「死」について話をしました。

目に視えない力の存在を実感されて、時期が来ていたのでしょうか、死んでも生き続けること、素晴らしい世界が待っていることを受け入れてもらえたようです。

「シルバーバーチの霊訓」も手渡しました。

別れ際に、満面の笑みを浮かべながら、握手を求められました。

びっくりしましたが、うれしかったです。

それから半年くらい経ったでしょうか、新聞のお悔み欄に、その人の名前を見つけました。

私が言っていた世界が現実のものとなり、肉体から解放された喜びを味わっていると思いました。



友人は少しでも長く生きようとしています。

誰もが病気が治ることを望んでいます。

私もヒーリングを行っていますが、病気の進行は驚くほど速く、食い止めるのは困難なようです。

しかるべき時期が来たら、死について話すつもりでいます。

無用な怖れや不安を持って欲しくないからです。



死は不幸なことではない。

寿命は決まっていて、その時が来たら元いた世界に戻るようになっている。

いつ来るのかはわからないが、この世での目的を果たした者が逝くようになっている。

人は永遠に生き続ける。

死んでも、意識や記憶はなくならない。

家族の傍にいられるので別れはない。

そんなことを伝えて、受け入れてくれたのなら、死に対する怖れ、やり切れない思いが少しは和らぐかもしれません。



それでも長く生きていたいと思います。

友人には大学生の娘さんがいます。

この先、就職をして、結婚もするでしょう。

一緒に喜ぶことができないと思うと、たまらなく悔しいでしょう。



こんなことを想像してしまいました。

向こうに行ったとしても、娘さんの結婚式に友人が駆けつけないわけはありません。

誰よりも喜んで、父親としての言葉をかけてやりたいはずです。

不謹慎だと怒られることを覚悟の上で、祝福するビデオレターを作っておくことを提案したいと考えています。

伝えたくても伝えられない自分の想いを、その時のために残しておいた方が良いと思うからです。

もし病気が治ったとしたら、こんなものを作っておいたよと、家族で笑い飛ばしながら観れば良いだけです。

心配をしてバカなことを言ってしまったと、私も謝りたいです。



真理を知っている者にしかできないことがあります。

この世の人生の中で、思いもよらぬ出来事に遭遇し、打ちのめされそうになっている人に真理により寄り添い、支えることができます。



余計な同情はいらない人でも、真理は必要としています。

真実であるがゆえに、魂にまで届きます。

自分だけのものにしてはいけないと思います。

お仕着せにならないように、必要としている人に届けられるべきものです。










2022年9月18日日曜日

意志(思念)から始まる


人間の心は、日々変化しているようです。

朝起きると、心が軽く感じられ、頑張ろうと前向きな気持ちになる日もあれば、心が重く感じられ、何もしようとする気が起きない日もあります。

置かれている状況がそれほど変わらないのに、どうして違うのだろう? と思います。



心が軽い時は生きる力で満たされ、重い時は不足しているのかもしれません。

私たちは生きる力、目に視えない「生命力」によって生かされています。



肉体を動かしているのは、もちろん食物を摂取して得たエネルギーです。

しかし、生命力は食物から作り出されるものではありません。



生命力は神(全体)から供給されています。

その力を受け取っているのは魂です。



地上の人間は、魂と精神と肉体の複合体です。

魂から思念が生じて、それが精神を動かす力となっています。

精神が働いて、肉体に命令が出され、外に向かって表現されることを繰り返しながら、日常生活が営まれています。



思念の素となっているのは、生命力です。

精神を動かしている力と、肉体を動かしている力は別次元のものです。

2つの次元の力により、地上の人は活動をしています。

その証拠に、食物をたくさん食べても、精神活動が活発になるわけではありません。



精神を動かしている力は、魂から供給される力(思念)に依存しています。

つまり、生命力が不足してしまうと、それに伴って精神活動は停滞するようになります。

精神活動が停滞してしまう病気としてうつ病がありますが、その根本的な原因は生命力の不足と考えられます。



それでは、生命力を十分に受け取るにはどうすれば良いのでしょうか?

宇宙は神が顕現したものです。

私たちは、宇宙を構成している極小の一部です。

神の一部として、私たちは存在しているのです。

生命は全体(神)とつながっていて、霊的なネットワークを形成していると考えられます。

そのつながりを通して、生命力を受け取って、私たちは生きています。



全体(神)との間には、いくつかの障壁が存在し、生命力を受け取るのを妨げています。

最も大きな障壁として肉体があります。

肉体には五感があり、そこから入る情報は圧倒的であり、霊的な感覚を著しく低下させています。

そのために、ほとんどの人は生命力を感識することができず、その力によって生かされている事実を知りません。

神や霊界(霊的次元)に意識を向けようとしないので、十分な生命力を受け取るのは難しくなります。



生命力をどれだけ受け取るのかは、魂の資質(霊性)によっても左右されます。

霊性の高い人ほど、神とのつながりが深くなるために、多くの生命力を受け取れると考えられます。



地上の自我も、大きな影響を与えています。

恐怖を感じると、生命力の受け取りが大きく妨げられます。

それに伴い精神活動も抑制されて、何も考えられなくなってしまう時があります。

また不安や心配や取り越し苦労の念が生じると、魂の周囲にバリアのようなものが張り巡らされ、外部から送られてくる生命力の流れを妨げてしまいます。



生命力が不足している時は、全体(神)とのつながりが弱まっています。

そのために、実体のない不安や怖れが生じるかもしれません。

うつ病の人に見られる不安や怖れは、そのために起きている可能性があります。

そう考えるのは、うつ病の人にヒーリングにより生命力を流入させると、精神が安定し不安や怖れが和らぐからです。

外部との接触を断って、家に引きこもってしまう人がいますが、やはり生命力が不足しているために、不安や怖れが生じていると思われます。



生命力とは、内部(魂)から湧き出す力に、外部(霊)から送られてくる力が付加されたものと考えています。

内部から生命力は、何かをしようとする意志が生れた時に湧き出します。

意志を完遂させるために、外部の存在から援助の力が加わる時もあります。

意志(思念)という力が起点となり、内部と外部から力が与えられて、具現化されて行きます。



地上では、自分の意志がないのに、何かをしなければならない時があります。

好きでもない仕事をする時や、命令されたことをただしている時がそうです。

そのような時は、生命力を十分に受け取れずに、精神活動をさせることになります。

長く続くと、生命力が枯渇し始めて、心身に障害が出ることがあります。

過労死という悲惨な出来事は、その状態が極まった時に起きると考えられます。



生命力が枯渇しないためには、「やらされている」のではなく、自分の意志で「やる」という気持ちに転換することが必要と考えられます。

それにより、生命力を受け取れます。



絶望的な状況に陥ると、前向きな気持ちになれず、何をする気も起きないかもしれません。

そうすると、十分な生命力を受け取ることができなくなり、不安や心配が生じてしまいます。

そんな時こそ、「乗り越えられない困難(試練)は与えられない」という真理を思い出して下さい。

そして「乗り越えられる」あるいは「乗り越える」という意志を能動的に持つことが大切です。

そうすることで生命力が供給され、精神活動が再開し、具現化する方向に向かって動き出します。

同じような理由から、病気の人も「絶対に治る」あるいは「必ず退院する」という意志を持つことが大切です。



病気ではないのに、何もやろうとしない状態が続いても、生命力は受け取りにくくなります。

全体(神)とのつながりが希薄になり、不安や怖れが生じてしまう可能性があります。

そんな時には、取り合えず何かを始めてみましょう。

生命力が供給されて、不安や怖れが解消されるかもしれません。

簡単にできるところでは、歩いて○○に行こう、○○を見に行こう、おしゃべりをするのも良いかもしれません。



始めようとすることが、人や動物や社会のためになることであれば、自然法則と一致しています。

神とのつながりが深くなり、さらに生命力が流れ込むはずです。

外部からの援助の力も期待できるでしょう。

生命力で満たされてオーラは輝き出し、不安や怖れは一掃されて行くと思います。



生きている目的は、自分を成長させるためです。

活動をしている中で、成長の機会が訪れます。

何もしなければ、その機会が訪れることがなく、成長は望めません。



生命は活動する宿命を持っています。

休むことは許されても、ずっと留まっていることは許されません。

何もしようとしないのは、自由を束縛されるのと同じで苦しみを感じます。

その苦しみは、自分を変えるように促しています。

後ろではなく前を向くよう、止まっていれば進んで行くよう、自然法則は働いています。



次の世界に行けば、何もしなくても生きられます。

とても楽な世界ですが、ただ生きているだけでは成長しません。

誰かのために、何かをすることで、私たちは成長するようになっています。



地上では肉体があります。

そのために、意識がどうしても自分に向いてしまいます。

何かをしようとする時に、自分の欲求に打ち克つ意志が必要になります。

そして、自分の意志を肉体を通して具現化するためには労力を伴います。

その労力が意志を強くさせます。

地上は意志を強くするのに、適していると考えられます。



待ち受けているのは、思念の世界です。

意志の力により、変わって行く世界です。

意志がなければ、何も始まりません。

地上を経験して強くなった意志は、次の世界をより良くするため、誰かのために、何かをするために活かされます。

次の世界で大きく成長するために、この地上を生きています。



2022年9月11日日曜日

自分を変えるために生まれて来た


毎月、歯医者の勉強会に出席しています。

30歳の頃からですから、かれこれ30年以上になります。

歯医者は1度独立開業してしまえば、自分の仕事を注意されたり、指導されたりすることはなくなります。

何でも自由にできますが、独善的になってしまう可能性があります。

勉強会では、自分のやっている診療内容をスライドで発表して、参加している同業者に見てもらい、客観的に評価してもらいます。

会に入った時は、臨床経験の少ない私がやることは底が浅く、ほころびだらけでした。

発表後に質問を受けるのですが、同業者の見る目は厳しく、未熟さや欠点を突かれて、針のむしろに座っているような気分になりました。

悔しいやら、情けないやらで、落ち込んで帰ることがほとんどでした。

それでもやめなかったのは、自分の診療の質を向上させたかったからであり、患者さんの利益につながると思ったからです。



自分の仕事の未熟さや欠点が指摘されると、心に痛みのようなものを感じます。

プライドが高い人は、反発して、言い争いになる時もあります。

複数の人から同じことを指摘されることがありますが、そんな時は自分が正さなければいけないことがほとんどです。

そこを正して、今度こそ大丈夫だと発表するのですが、また新たな指摘を受けて、悔しい思いをします。

そんなことを繰り返しながら、現在に至っています。

悔しい思い、痛い思いをしましたが、そのおかげで少しはまともな歯医者になれたのではないかと思っています。



仕事だけではなく、人間的にも未熟さや欠点だらけだったと思います。

若い時は、そのことに気付いていませんでした。

親を始め、周りから忠告や助言を受けても、それは人の意見と取り合わなかったこともあります。

耳の痛いことほど真実を突いていて、正さなければいけないことが多いようです。

けれども、素直な気持ちにならないと受け入れることはできません。



人は成長するために生まれて来ています。

より良い自分に変わるためです。

神の摂理に適っていない、成長を妨げている性分を、地上での経験を通して変えて行きます。



例えば、我がままな人がいたとします。

人は他者のために何かをすることで成長しますので、自分のことしか考えない利己的な性分は、自らの成長を妨げていることになります。



我がままな性分が表に出ると、周りの人から反発を受けます。

子供の頃は正直です。

我がままな振る舞いをすると、仲間外れにされてしまいます。

仲間外れにされた子は、孤独と言う苦痛を感じます。

苦痛を感じるのは誰でも嫌なので、どこが悪かったのかを考えるようになります。


いつもケンカになってしまう子がいます。

自分の言うことを全く聞いてくれないので、その子と距離を置くようになります。

どこか、自分と似ているような気がします。

仲間外れになってしまうのはその子と同じで、自分のことばかりを言って人の言うことを聞こうとしないからと思うようになります。

そのことに気付くと、言いたいことを言うだけではなく、人の言うことも聞こうとするようになります。

このように、他者との交わり合いの中で、時に痛い思いをしながら、少しずつ性格が変わって行くのだと思います。



動物の世界ではさらに顕著です。

統率の取れた犬の集団に、単独で生きて来た犬を入れると、全体の調和が乱されることがあります。

そうすると他の犬たちから制裁を受けます。

一見、いじめられているようにも見えますが、苦痛を伴う経験を通して、集団の中で生きる術を学んでいます。

正されると、集団に受け入れられ、全体の調和が取り戻されます。



生まれる前の自分は、改めるべき未熟さや欠点を自覚しています。

敢えて、その部分を前面に出して生まれて来ると考えています

その部分が外に向かって表現されると、因果律の働きにより、他者から反発や指摘を受け、苦しい思いや痛い思いをします。

無意識の内に正して行くことも多いと思います。



ところで、我がままな人に対して、なぜ反発を覚えるのでしょうか?

それは、私たちの心の中に神がいるからだと思います。

我がままな振る舞いは、神の心(愛)に反しているので、自分の中にいる神(良心)が、瞬間的に反応しています。

良心の働きが強い人は、改めるよう忠告するかもしれません。

もしそうであれば、忠告を受けるのは、神から自分の未熟さや欠点を正すように言われているのと同じなのかもしれません。



中には、忠告ではなく、自分の考えを押し付けようとする人もいます。

自我(エゴ)から生じたものであれば、逆に反発を招くことになります。

そうではなく、良心から発せられた言葉ならば、真摯に受け止めなければならないと思います。



今でも忠告を受けることがあります。

長い間、当たり前のようにやって来たことほど、忠告されると反発する気持ちが生まれます。

けれども、冷静に検証してみると、自分の未熟さや進歩のなさが原因であることが多いようです。



今の私には、霊的真理という絶対的な指標があります。

それに照らし合せて、自分に原因があると気付いたのなら、素直に正さなければいけません。

地球に生まれて来ること自体、未熟さの証明であり、自分の生き方や考え方を省みることを忘れてはならないと思います。

それを忘れてしまうと、成長は望めなくなります。

指摘された相手に対して怒りを覚えてしまえば、自分が正当化されて省みることはなくなります。

変わろうとする力が、怒りに転化してしまい、成長する機会を1つ失うことになります。



年齢に関係なく、どのような状況であっても、変わることができます。

変わるために生まれて来たので、変われないはずがありません。

何よりも重要なのは、変わろうとする意志であり、もう変われないと思う自我(エゴ)のささやきに惑わされてはいけません。

もし、変わりたくてもどうしても変わることができずに、苦しい思いをしているのであれば、それは過去生の償いをしている可能性があります。

そうであれば、気付くことができず、変わることも許されません。



私たちが死後に赴く霊界では、周りには自分と類似した魂しかいません。

自分と同じ未熟さや欠点を持っているので、指摘する人も気付かせる人もいないと考えられます。

自分と違う人たちがいる地上に生まれて、他者に気付かせてもらう必要があったのかもしれません。

死んだ後、人生を振り返る時が来ます。

あの場面であの人に言われた一言は、自分が変わるために必要だったと気付くでしょう。



自分が好ましい方向に変わることで、ほんのわずかですが、世界も好ましい方向に変わります。

自分も全体を構成している一部だからです。

個々の変化が集積して行くことで、世の中も少しずつ変化して行きます。



自分を変えるのは、なかなか難しいものです。

現状のままの方が楽であり、リスクも少ないからです。

そこで、神は因果律の働きにより、苦しみや痛みを与えて、変わるように促していると考えられます。

苦痛のない向こうの世界では、思うように変われないので、地上に生まれることを自らが志願していたと思われます。



死ぬ時までに、生まれる前に思い描いたように自分が変わることができたのなら、地上での目的を果たしたことになり、深い悦びに満たされるはずです。


2022年9月4日日曜日

より高みを目指して


「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった」と始まる小説があります。

私たちも「死」と言うトンネルをくぐり抜ける時が来ます。



出口では、先に行った親しい人たちが待っています。

再会の歓びにしばし浸り、その時から新しい生活が始まります。



向こうの世界に行くと、食べて行くために働く必要がなくなります。

肉体はなくなるので病気にもならず、疲れることもありません。

煩わしい人間関係も全くありません。



この世と比べて、何と快適な世界でしょうか。

知るほどに、早く行きたいと思ってしまいます。

けれども、寿命が来るまで待たなければいけません。



この世に生まれて来る時は、向こうの世界からトンネルに入ります。

出口では、お母さんが待っています。

赤ちゃんが大きな産声を上げると、やっと生まれて来たと安堵し、喜びに包まれます。

霊的真理を知った今、そんな赤ちゃんの姿を見ていると、大変なこの世に生まれて来たと泣き叫んでいるようにも思えてしまいます。




私たちは、自分に足りない資質を身に付けるため、あるいは弱い部分を強くするために、この世を生きています。

それに相応しい環境を選んで生まれて来ます。

けれども、飢餓でやせ細っている子供たちの写真を見ていると、本当にこの環境を選んで生まれて来たのだろうか?と、疑問が湧いたことがあります。



「自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。」と、シルバーバーチは言っています。

過去の過ちを償うための魂もいるかもしれませんが、大切なことを学ぶために、敢えてこの逆境を選んだ魂もいるはずです。

実際に経験しなければ判らないことがあり、大人になった時、あるいは次に生まれた時に、貧しい人たち、弱い人たち、苦しんでいる人たちのために貢献する強力な動機付けとなるからです。



子供の虐待のニュースほど、心を痛めるものはありません。

自分を傷つける親の元に、生まれたい子供がいるのかと思ってしまいます。

過去生で縁があり、何か目的(原因)があって親子になる場合もあるのでしょうが、そればかりではありません。

生まれて来る前と、変わってしまった親もいると思います。



受胎は自然現象です。

自然法則の下で起きているので、もし子供を育てることができなければ、受胎することはないはずです。

子育ては、自分より子供を優先することを強いられます。

自我との葛藤の連続のように感じられます。

葛藤に負けて、自我を優先してしまうと、良心の呵責が生じますが、それを苦しみとして感じます。

苦しみの原因が子供にあると勘違いをして、悲しいことに虐待に及ぶ親がいると思います。

自我剥き出しで、過った自由意志を行使し続けると、生まれて来た時とは違う親になってしまいます。

信じて選んだ子供が裏切られたことになります。

自分以外のために何かをすることで人は成長しますが、その機会を逃して、罪を作っている人もいると思います。



困難や障害を正面から受け止め、対峙して行くことでも、魂は成長して行きます。

成長するためにこの世に生まれて来たので、起きて欲しくないような出来事が起きるようになっています。

苦しみを伴う出来事が起きた時に、生まれて来た目的を果たすための機会が訪れたと捉えて臨むことが大切と思われます。



しかしながら、多くの人は楽しいことだけが起きる人生を望んでいます。

それだけの人生なんてあり得ません。

どこかで苦しみを伴う出来事が起きるのがこの世です。



水の中に放り込まれて、泳げなければ溺れてしまいます。

水を飲んで苦しみながらも、息ができるような体の動かし方を見つけ出そうとします。

必死にもがいている最中で、生きるために必要なスキルを身に付けています。



人生も同じです。

苦しみの中でもがいている時に、生きるために必要な資質を身に付けています。



もし、人生で起きる全ての出来事に、何の苦しみも感じないのであれば、身に付けるものはもうないので、その人はこの世に生まれて来る必要はないと思います。

苦しみを感じるのは、まだ成長する余地が残されているからです。

出来事を乗り越えようとする中で魂は成長し、次第に苦しみが和らいで来ます。

苦しみを楽しむなど、器用なことは私にはできませんが、苦しみの意味を正しく理解することで、立ち向かう勇気が出ます。




この世の人生は山登りのようです。

坂道を登っている時は、息が上がって苦しいです。

木立に囲まれ景色も見えず、自分がどの辺にいるのかさえも判らない時があります。

坂道が続いて、やっと終わったと思ったら、目の前にまた坂道が現われます。

疲れてしまい、これ以上登れないと思ってしまう時もあるでしょう。


忘れはいけません。

登って行ける人にしか、坂道は現れません。

次に現れた坂道は、今までより急かもしれませんが、鍛えられて、登れるようになったから現れたのです。

どんなに急だとしても、必ず登っていけます。



平穏無事な人生は、平坦な道を歩いているようなものです。

楽ですが、高みに行くことはできません。

それでは、この世に生まれて来た意味がありません。



どれくらいの坂道を登って来たのでしょうか。

疲れ果てて動けなくなっています。

それでも急な坂道は続いて、這いつくばりながら、登って行くことになります。

これ以上無理だと、最後の力を振り絞って登り切った瞬間、頂上に着くようになっているのかもしれません。


そこから見る景色は、言葉にならないでしょう。

あの苦しかった出来事が、高みへと向かわせていたことに気付きます。

苦しい思い、つらい思いをした人ほど、この世から解放された悦びは大きいものになります。



生まれる前の自分より、強く優しくなっています。

自然法則の働きにより、完全に報われていたことを知ります。

背後に控えていた、限りなく大きな存在を感じて、思わず感謝するでしょう。



より険しい山を目指す登山者がいます。

大変なのは分かっていて、危険を冒してでも登りたいのは、さらに技術を向上させたいからです。

より高い場所に立ってみたいからです。



この世の人も同じです。

快適な向こうの世界を離れて、苦の多いこの世に生まれて来るのは、さまざまな出来事を乗り越えて魂を向上進化させるためです。

より高い世界に行きたいからです。