2013年12月28日土曜日

すべては魂の向上のため



赤ちゃんのつぶらな瞳を見ていると、魂そのものであり、神の一部であるということを、感じることがあります。



役目を果たすために、どこか遠いところから、この世に降りてきて、生まれた直後に泣き叫んでいるのは、もちろん呼吸をするためなのですが、この先の大変さを魂が分かっているからと思えてしまうことがあります。



子供にとって親は必要な存在であり、強者です。

しかし、親が上で子供は下であり、親の意見に子供は従わなければいけない、などということは大間違いで、1つの魂として見れば、対等の関係です。

肉体は遺伝しますので、容姿は似通ったところがありますが、魂は別次元のものであり遺伝はなく、反映している心、性格は親子でも肉体みたいに似ていません。

数十年、早くこの世に生まれてきただけであり、魂に年齢は関係はなく、親よりも魂が向上している子供もたくさんいると思います。



幼い子供が生まれながらの難病で苦しみ、治療のかいもなく亡くなってしまうことがあります。

小さいながらも親や周囲の人を気遣い、決して弱音をはかない子がいて、周囲の人を驚かさせます。

そんな子は、この世を長く生きて大切なこと(摂理)を学ぶ必要はなく、自分に足りなかった部分だけを、病気という苦難を通して学びとり、それが終わると早々と、次の世界に行ってしまうのかもしれません。

幼いのは肉体だけであり、魂は向上していて、成熟した大人なのかなと思うことがあります。

子供に先立たれた親は、深い悲しみを味わうことになりますが、その耐え難い苦痛が、魂を向上させることにつながります。

つまり、短い生涯であっても、その親の子供として、病気を抱えて生まれてきたのは、それぞれの魂の向上を成就させるために、必要だったということになります。



魂は、自らに足りないものを自覚して、その部分を補うために、適切な試練が得られる、環境を選んで生まれてきます。

災難や不幸と思われることは、摂理に背いた想いや行いをして因果律が働き、その結果として表れたものもありますが、魂の向上させるために、あらかじめその人に計画されている場合も多いのではないでしょうか。



休みの日で時間があれば障害者施設にボランティアに行っています。

ボランティアと言っても、遊び相手や話し相手になっているだけなのですが、良く来たと、笑顔で歓迎してもらえると、うれしくなります。

そこでは足が不自由で車いすの人、身体は健康だけど知的障害がある人、身体が不自由で知的障害がある人など、様々な種類や程度の異なる障害を抱えた人達が共に生活しています。

一人ひとりの意見は尊重されますが、集団生活なのでわがままや規律を乱す行動は許されません。

そんな中で、自分の置かれている立場を十分に理解して、残された能力を活かしながら、精一杯生きてるのを見ていると、こちらが元気をもらいます。



抱えている障害は、生活していく上で大きな支障となり、健常者にはわからない大きな苦痛となっていると思います。

中には、障害が重度で、食事をするのも、ベットで寝返りをするのも、着替えるのも介助が必要で、常に人の手を借りなければ、生きていけない人もいます。

ベッドに横たわったまま、身体を動かすことも、話すこともできず、一生を終えるであろう人を見て、以前の私でしたら、かわいそうにと同情したり、生まれてきた意味があったのだろうかと思ったことでしょう。



しかし、霊的真理を知った今は、肉体で魂の表現がほとんどできないという、最も過酷とも思われる試練は、大切なこと(摂理)を学び魂の向上をさせるために、その人に必要だったのかもしれない、あるいは前世での罪の償いを今、果たしているのかもしれないと、考えるようになりました。

どちらにしても、その人の魂の向上にとって不可欠なものであり、目的があって不自由な身体を選んでこの世に生まれてきたことになります。



一人では生きていけないこと、人に助けてもらうことを通して、愛がもっとも最も大切であることを、心身の障害を通して学んでいるのかもしれません。

もしかしたら、全人生をかけての苦難に耐えられるほど、すでに魂が向上している人であり、さらなる向上を得るためなのかもしれませんので、安易な同情は慎まなければいけないと感じています。



すべてのことに無駄はなく、意味を持っている、と言われても、この世では目に映るもの、耳に聞こえるものが、すべてに思えてしまうため、目に見えない霊的法則が働いていることは、どうしても分かりにくくなってしまいます。

高い次元から見ると、すべてのことは神の法則である因果律に従っていて、その叡智により計算しつくされた上で、絶妙の時期に、かかわる人すべての魂の向上のために、最適な形で出来事が生じていることが、手に取るように分かるため、シルバーバーチは神の完璧な叡智には驚嘆させられる、と言っているのかもしれません。



私を含めて、魂を表現をする自由を与えられた人は、存分に愛を表現していくべきであり、この世ではそのための手段として肉体が与えられたのだと思います。






参考ページ: 「早世した子供たち」

2013年12月25日水曜日

生きることは愛すること



私には伝えたいことがあります。

それは「シルバーバーチの霊訓」という本の存在であり、その中に書かれている数多くの真理です。



私にとって当たり前になってしまいましたが、苦難を経験して、魂に受け入れる準備ができた人にとって、その出会いは人生に一大革命をもたらします。

こうしてブログを書いているのも、霊的真理を受け入れる時期が来た人が、最短で「シルバーバーチの霊訓」にたどり着いて欲しいためであり、時期はまだでも、苦しみの最中にある人にとって、霊的真理が大きな安息となると考えているからです。



数ある中でも、「生命は霊(魂)」ということ、「霊(魂)は神の一部」であるということ、そして「神は愛」、という真理は、きわめて重要と考えています。



「死」については、実際に死んでみないと分からないと考えていましたが、幸いにして明白なものとなり、心の安らぎが得られました。

死は生の一部であり、存在がなくなってしまうことではありません。

存在の本質である生命は魂であり、表現するものが肉体です。

死とは、表現する媒体が変わるということです。



次の世界では、肉体はなくなるため、自由に魂の表現ができるようになります。

客観的なことを言葉で表現することは比較的簡単ですが、心で想ったことは主観的であり、表現するのはとても難しいです。

つい先日、まだ薄暗い空に、朝日を浴びて光り輝いたピンク色(ルノワールの肌色?)のひつじ雲を見ました。

見て感じたことを言葉に表すと、「美しい」とか「きれい」ということになりますが、それでは表し足りません。

美しいという言葉は、あまりにも大まかで広すぎるのです。

また、ある人が美しいと感じるものでも、別の人にはそう感じていないこともあります。

赤色という言葉から思い浮かべるのを、ある人はトマトの赤だったり、ある人は赤鉛筆の赤かもしれません。

と言うように、言葉で自分の思いのすべてを、正確に他の人に伝えるのは無理です。



次の世界は肉体のない世界です。

自分の想いのすべては、言葉ではなく思念として正確に伝えることができます。

もどかしく、わずらわしい言語という記号は必要ありません。

今までの経験から私は、次の世界では魂で感じたことはバイブレーションとして伝わり、バイブレーションを受け取った相手の魂は同じ感覚となるため、想いを共有できる、と思っています。

音叉と同じく、同じ波長となり魂が共鳴し合うと言うことです。



次の世界では、食事の心配をすることもありません。

養う肉体がないのですから、食べる必要がないわけです。

お金の心配をすることもありません。

服を買ったり、家を買ったりすることはなく、もし欲しければ直ちに具現化しますので、買い求める必要がないからです。

信じられないかもしれませんが、夢みたいな世界が、次に待っています。



もし、次の世界が、そんなにすばらしい世界であるならば、なぜ、この世が存在し、今、生きているのかと思うかもしれません。

生きるためには、お金が必要です。そのためには働かなければいけません。

嫌いな人と会って、話をしなければいけないこともあります。

さらに戦争が世界各地で今も起こっていて、人が人を傷つけています。

苦労をしたり、苦痛を味わったり、見たくないものを見たり、聞きたくもないことを聞いたり、望むことばかりではありません。

この世界が次の世界と大きく違うのは、両極性の世界であると言うことです。

「シルバーバーチの霊訓」に詳しく書いてありますが、愛と喜びに対して憎しみと悲しみ、平和と調和に対して戦争と混沌、すべて対になっているのが、この世です。

もし「神は愛」というならば、神の創った世界に戦争など起こるはずがない、と考えてもいいはずです。

戦争は摂理に背いた考えや行為により引き起こされ、国土は破壊され、人は傷つくことになります。

そして悲惨な光景を目の当たりにし、苦痛を感じながら、愚かさに気付き、平和の大切さを知ることになります。

戦争は他者(国)を愛する気持ちがあれば起こりません。

平和のために「愛」が必要不可欠なことを知ります。

大切なこと(摂理)をより際立たせ、気付かせるために、両極性であるこの世を、神が用意したのです。

生きるということは、魂を向上させる道を進んで行くことです。

霊性を高め、神に向かって1歩1歩近づいていく道です。



この世では魂の表現を肉体で行います。

肉体は生存するために、いろいろな要求をしてきます。

食べたい、寝たい、休みたいなど、動物的、本能的な要求です。

もし、肉体がすべてであれば、自己の生存のみを追い求める、殺伐とした世界となるはずです。

しかし、この世はそのような世界にはなっていません。そして誰も望んではいません。



それは、「生命は魂」であり「魂は神の一部」であるため、人は神の愛を表現しようとするからです。

人のために何かをしたい、社会のために奉仕をしたいという欲求は、生まれた後に身に付けるのではなく、もともと魂に内在する欲求であり、神の愛を表現しようとするものです。

しかし、愛を表現するためには、常に自己(肉体)の要求に打ち勝たなければならず、自己犠牲が必要となるため、魂の強さが求められます。

肉体など初めからなければ、愛を存分に表現できるのではないかと思われますが、魂が肉体という重いよろいをまとっているのは、負荷がかかり苦しむ中で、魂は鍛えられ、強くなっていくからです。



アウシュビッツの強制収容所では、1日の食べ物はパン1切れだったそうです。

そのため収容されたすべての人が、ひどく飢えていたと思われます。

そんな中で、その貴重な1切れのパンを子供に渡した人がいたそうです。

自己(肉体)の要求に打ち克ち、この世で最高の愛を表現していると思いました。



そこまでできなくても、会社帰りで疲れていても、目の前にお年寄りがいたら席を譲る人はいます。

休みの日に被災地に赴き、困っている人のためにボランティアをする人もいます。

それぞれが自己への要求を犠牲にして、人のため、社会のために行動しています。

この世を生きているうちに、そんなことがいく度となく繰り返され、たとえ1つ1つの想いや行いは小さくても、積み重なれば大きなものとなり、より高い愛、より強い愛を表現できるようになっていくのではないでしょうか。



もし人生が喜びばかりであったならば、大切なことを学ぶことは出来ません。

災難とも思える、悲しみや苦しみの経験を通して、最も大切なのは愛であることに気付くとともに、魂が向上していきます。

そして苦痛を味わっている人に対して、愛を表現することができるようになります。



「生命が魂」であり、「魂は神の一部」ということから、「生命は神のもの」ということになります。

そして「神は愛」ということをつなげていくと、「生きることは、愛すること」ということになります。

2013年12月20日金曜日

心のしこり



世の中で起こることすべてに、原因があります。

私が、保険医の取り消しという処分を受けたのも、不正な行為をしたという明確な原因がありました。

交通事故でも、スピードの出しすぎ、注意力の散漫、あるいは寝不足など、何らかの原因が存在して起こります。

最近、春や秋が短くなってきたのを感じていますが、これも地球温暖化の現れと考えられ、人間が出すCO2が原因と推察されます。



一見、偶発的、突発的と思われる事象にも、必ず原因が存在します。

病気も、何らかの原因があって生じたのは間違いのないことです。

一見、関係のないこと事象が原因となって、結果として表に現れてくることがあります。



ある女性に虫歯ができて、私の歯科医院を訪れたとします。

虫歯を削って取り、そこに樹脂を詰めて治療が終わります。

しばらくして別の歯に虫歯ができて、痛くなりまた来ます。

再び治療をします。

また別の歯に虫歯ができて来ます。

これは普通ではないと考えて、患者さんに「最近、甘いものをたくさん食べていませんか?」と尋ねます。

すると「食事はあまり食べないで、お菓子ばっかり食べています。」と答が返ってきます。

「一体、どうしたのですか?」と聞くと、「実は、付き合っていた彼と別れてしまい、紛らすために甘いものばかりを食べていました。」と答えたとします。

虫歯の原因が失恋のせいだとは、本人も意識していません。

今後、虫歯にならないために、歯ブラシを良くすることも大切ですが、失恋による「さみしさ」が原因となっていることに気付き、甘いものを食べて「さみしさ」を紛らすことをやめなければいけません。

原因がはっきりしていると思われる虫歯でさえ、このように見えない隠された原因があります。



ガンという病気はどうでしょう。

医学的に遺伝的素因、環境的素因が原因と言われていますが、解明が進まず、依然として不明なことが多いことは事実です。

不明なことの中には、現代医学で認めてられていない、心や魂に関わる原因が関係していると考えられます。

人は生きていると、さまざまな出来事ことを経験します。

うれしいことばかりであればいいのですが、悲しいこと、つらいことも、たくさんあります。

悲しいことが起こると、人は涙を流します。

涙は悲しいことを早く忘れるために、神が与えてくれたものなのかもしれませんが、いくら涙を流しても、起こってしまった悲しい事実を消すことはできません。

その悲しみが心を大きく支配してくると、何も考えられず、何も手につかない状態になってしまいます。

この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためですから、何も手につかない状態のままでは、その目的を果たすことはできません。

悲しみの想いを持ち続けることにより、魂のありさまが変わっていき、それが肉体上に病気として顕れることになります。



そして、苦痛を通して過ちに気付き、本来の心を取り戻していくことになります。

病気は、大切なこと(摂理)に気付くためにある、神の摂理だと考えられます。



病気の原因を知るためには、過去にあった心を支配することになった、つらい出来事を振り返らなければいけません。

そして、向き合うことから始まると考えられます。

そのことは記憶としては忘れかけていても、魂にはしっかりと刻み込まれていて、心や肉体に影響を与え続けています。

身にふりかかった、つらい出来事を、誰かに話を聞いてもらったり、相談したりすると、その胸のうちにある感情が表に出てきて、意識することができたかもしれません。

しかし、誰にもわかってもらえなかったり、話すことができなかったりして、感情の持って行き場がどこにもなかったりすると、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などの摂理に背いた想いに心が支配され続けていたとしても、意識することは難しいと思われます。



人間は未熟ですから、その様な想いを持つことは避けられないのかもしれませんが、たまり続けていくと心に(摂理に背いた想いの)しこりができてしまいます。

徐々に大きくなった心のしこりは、魂にも影響を与えていくことになり、神の心である平和、協調、調和が、魂から失われていきます。



生まれてきた目的は、他者を愛すること、困難を乗り越えることで、魂を向上させることにあり、神の心を抱き、それを表せば向上しますが、摂理に背いた想いを抱いていては望めません。



ガンが肉体上に顕われたのは、苦痛を通じて大切なこと(摂理)を学び、魂が本来あるべき姿を取り戻していくためと思われます。

ガン患者さんの多くは、心のしこり(想い)が原因でガンになったと思っています。

ただ、検査で調べてわかるものではありませんし、それを証明する根拠はありません。



もし信じてもらえるのであれば、心のしこりを作ってしまった過去の出来事(原因)と、あらためて向き合って下さい。

心の傷であり、早く忘れてしまいたいことであり、決して簡単なことではありません。

しかし、病気を治すためには、心のしこりに閉じ込めれた想いを手放してしまうことが必要です。

手放すためには、その時はとてもできなかったこと、その出来事を許して、受け入れなければなりません。

許せなかった、受け入れられなかったから、心のしこりが生まれてしまいました。



そのためには「愛」が必要です。

しかし、病気により痛みや苦しみを経験し、魂が向上して、最も大切なのは「愛」だと気付かれたのならば、許すことも、すべてを受け入れることもできるはずです。

許し、そして受け入れれば、心のしこりはなくなり、魂が癒されて、肉体もそれに従い、病気が癒されていくことになるはずです。

2013年12月15日日曜日

内から湧き上がる思いに従う



6年前、仕事上の不正を公の場で追求されました。

その時は、まさに針のむしろでした。



過ちを行おうとした瞬間、「本当にいいのか?」と問いただす自分がいましたが、「大丈夫だ、みんなしていることだから」という考えに、それは打ち消されました。

シルバーバーチの言う、「良心」という神の監視装置(モニター)が働いたにもかかわらず、それを身勝手な理屈を付けて無視したのです。

心がとがめることを、してはいけないのです。



不正を追求されている期間は、今まで味わったことのない後悔の念、自責の念にさいなまれました。

自分がした過ちの1つ1つが、目の前に晒されていくのは、耐え難い苦痛です。

その1つ1つを担当者から「間違いありませんね」と繰り返し、問い質された時は、まるで神に裁きを受けているような気持ちになりました。

その問いに対する私が選択する答えは2通りありました。

1つはありのままを正直に話し、過ちを認めること。

もう1つは、仕事や生活を守るために、否認することでした。

過ちを認めるのは、人として当然のことですが、その先に待ち受けている現実を考えると身震いがしました。

しかし、「ありのまま、正直に」という内から湧き上がる思いに従い、「はい、間違いありません」と過ちを認める答えをしました。

限りなく暗い将来に進む方向でしたが、「乗り越えられない苦難はない」というシルバーバーチの言葉を信じて、迷いなく進んでいきました。

その結果、恐れていた最も重い行政処分が、私に下されることになりました。

人生最大の屈辱です。

その処分に伴い、多額の返還金の支払いと、歯科医業停止2ヶ月が課せられました。

何よりもつらかったのは、その記事が新聞に載り、多くの人達の知ることとなり、信用が失墜し、多くの患者さんが去って行ったことです。

「信用してたのに」と、面と向かって患者さんに言われた時の気持は、言葉にすることはできません。



しかし、出口の見えない重苦しい日々が長く続く中で、霊的真理が紛れも無い真実であると確信していくとともに、それを手にすることができた大きな喜びを感じていました。

人は生きていると、どちらかを選択しなければならない、重要な局面に出会います。

もし、内から湧き上がる思いが、望まない方、困難な方を指し示していても、後悔しないために素直に従った方が良いと思います。

もし感じなければ、より正直な方、より自然な方、より人のためになっている方を選択するのが賢明と思われます。

そちらの方が、摂理に適っていると考えられるからです。



万有引力の法則により、石を空に向けて投げても、必ず地面に落ちてくるように、神の摂理に背いたら、苦痛を経験して気付き、必ず従うことになります。

摂理に背いたことをして、何の反省も償いもすることもなく、この世を終えたとしても、次の世界で因果律は働き、罪を償うことになります。

人は死んでしばらくすると、この世に生まれてから死ぬまでに想ったこと、行ったことの一部始終を、自ら振り返ることになります。

この世での想いと行いのすべては、魂に刻み込まれていますので、それを1つ1つを検証していくことになります。



この世で償われなかった摂理に背いた行いも、魂に刻み込まれていますので、目の当たりにすることになり、そこで自らの過ちに気付き、後悔し、自責の念を持つことになります。

その過ちを償うために、相応の苦難の人生を自らが望み、もう1度この世に生まれくることもあります。



それとは反対に、摂理に適った行いは、たとえ人知れず、ささやかな行為であっても、世の中を良くし、人を元気にし、明るくし、幸せにしています。

そのことを知り、幸福感に包まれることになります。



私が不正を質されている時に、正直になれずうそをつき、罪を免れたとします。

ホッと胸をなでおろし、前と変わらぬ日常に戻っていったことでしょう。

時とともに、そんなことがあったことさえ忘れてしまうことでしょう。

そして、この世を去る日がきます。

私にも次の世でこの世のすべてを検証する時がきます。

その時、うそをつき苦難を逃れたことを、目の当たりにすることになります。

苦難を逃れたために、魂の向上が得られなかったこと、そして最も大切なものを掴み損ねたことを、深く後悔することになると思います。



正直者が馬鹿を見ることはありません。

内から湧き上がる想いは、そのことを知っている魂の声だったのかもしれません。







2013年12月12日木曜日

病気は必要だった



6年前、私は仕事で過ちを犯し、保険医取り消しという歯科医師として致命的ともいえる行政処分を受けました。

以前の私であれば、大して悪いこともしてないのに、何で自分だけがこんな処分を受けなければならないのかと思ったことでしょう。

しかし、すでに「シルバーバーチの霊訓」と出会っていましたので、過ちを犯したのは紛れもなく自分自身なのだから、罪を償うのは当たり前なことと素直に受け止めることができました。

そう思ったからと言っても、つらい現実から逃れることは出来ません。

人からの信頼をはじめ、多くのものも失いました。

この思ってもみなかった苦難から学んだことは、「摂理に背くと、因果律という神の摂理が寸分の狂いもなく働き、つらい経験をして償わなければならない」ということでした。

仏教で言う「因果応報」であり、キリスト教の「蒔きし種は自らが刈り取る」ということです。

よほど痛い思いをしない限り、鈍感な私には、わからなかったのかもしれません。



2度と経験したくない苦難を通して、それまで意識もしなかった、真の自分である魂が、硬い殻を突き破って表に出てきました。

何もなければ、自分が殻の中にいることすら気付かず、心の奥に押し込められたまま、じっとしていたことでしょう。

苦難があったからこそ、そこにじっとしているわけにもいかず、殻を突き破り、外に出てくることができました。

外の明るい世界を見てしまったので、もう暗い殻の中に戻りたくはありません。

真に、生き始めることができたのは、その時からです。



以前は、仕事で人より成功して、良い暮らしをしたいという願望が強かったのですが、家族で仲良く暮らしていければ十分満足と思えてきました。

当たり前のことに、ようやく気付くことができたと思っています。

何気ない日常に感謝の気持ちを持つことが多くなりました。

りんごを食べて感謝。

そこに家族がいて感謝。

犬がそばに来てくれて感謝。

朝日を見て生きていることに感謝。

青い空に浮かぶ雲が美しく感じられることに感謝。

ふとした瞬間、感謝の気持ちが高まり、涙が出てくることがあります。

それは愛されていることを、魂が実感しているからだと思います。

自分の幸せを追い求めて、あわただしく生きるのではなく、他者の幸せの中に、ささやかな歓びを見出しながら、穏やかに生きることにしました。



すべての苦難は、その人に大切なことに気付かせるために、必要なものです。

苦難は不幸なことではなく、大切なことに気付かないままでいることこそが、不幸です。

病気は、健康な時には意識もしなかった、「生命」と「愛」に目覚めさせるために必要なものです。

「生命」と「愛」の大切さに気付たということは、魂が目覚めて、今まさに殻を突き破って、外に出ようとしているところだと思います。



「生命」とは肉体ではなく「魂」であり、「愛」は「魂」を通して流れる神の心です。

人に親切にすると、心があたたかいもので満たされるのを感じるは、その行為を通して神の愛が流れていくのを、魂が感じるからです。

人に優しくされるとうれしくなるのは、優しくしてくれた人の魂を通して、神の愛が流れ込むからです。

魂は他者を愛することで、美しくなります。

魂は苦難を乗り越えることで強くなります。

この世に生まれてきたのは、魂を美しく、強くさせるためであり、それ以外にありません。



病気は、魂が殻を突き破るために必要だったのであり、外に出てしまえばもう必要はないはずです。

摂理に背いた罪は苦痛を通して償うことになりますが、苦痛により魂が目覚めたのであれば、今度は摂理に従い他者を愛することで償えるはずです。

生きていることに感謝し、その歓びを他の人にも分けてあげましょう。

大きなことはできなくてもいいです。

自分なりに、少しずつ、生きている歓びを込めてしましょう。

2013年12月8日日曜日

ガンの痛み



歯医者として仕事をしていると痛みを抱えてくる人は多くいます。

歯の神経が死んで急性の炎症を起こすと、あごまで大きく腫れてしまい、歯に少しでも振動が加わると激痛が走り、治療をすることが出来ないこともあります。



痛みのつらさは、体験している患者さんでなければ理解できません。

歯の痛みの場合は、神経の治療などをして抗生物質と鎮痛剤を処方すれば、解決することが多いのですが、ガンに伴う痛みはそういうわけにはいかず、患者さんを大変苦しませることになります。



ガンが広がり、神経を圧迫したり、骨や脳に転移などをすると、時として耐え難い痛みが襲うことがあると思われます。

近年、有用な鎮痛剤が開発されていますが、完全に痛みを取り去ることはできていません。

痛みは、身体に異常があること知らせる重要なシグナルですが、ガンによる行き過ぎた痛みは患者さんの生活の質を著しく低下させ、心を不穏にさせます。



局所のガンの痛み刺激は、末梢神経から中枢である脳に伝わり、精神により痛みとして表現されます。

楽しい、うれしい、悲しいなどの感情もみな精神、心の表現ですが、心を表現する感情は通常1つであり、うれしさと悲しさを同時に表すことは出来ません。

痛いとかつらいということも、一種の感情表現であり、激しい痛みを感じている時は、楽しいという気持ちには決してなれません。



一方、楽しいという気持ちに満たされていれば、痛みを感じなくなることもあるでしょう。

ガンの痛みを感じているよりも、楽しくうれしい気持ちでいた方が良いに決まっています。

できるだけ楽しい思いをして過ごし、痛みを感じにくくした方が賢明だと思いますが、毎日が楽しいことばかりであるわけがありません。



やらなければいけないことも、いやなこともたくさんあります。

ただ、不快に感じた瞬間にストレスとなり、ガンの痛みを呼び起こすことに繋がりかねませんから、たとえいやなことでも、しなければならないのであれば、気持よく前向きにした方が、病気のためには良いと思われます。

また、ささいなことに喜びを見出し、ありふれたことにも感謝することは大切であり、その気持ちはドーパミンという脳内ホルモンの分泌を促すことになります。

ドーパミンはガン患者さんにとってすばらしい作用があり、痛みを抑制するとともに、ガン細胞を攻撃するNK細胞の活性高めると言われています。



この様に、精神と肉体は相互に影響し合っています。

前にも書きましたが、精神は魂の表現媒体であり、魂のありさまは精神に顕れて、肉体に影響を与えます。

ガンは秩序のない無法者というべき組織ですが、自分の身体の一部であることには変わらず、魂の支配下にありますので、魂からの指令であれば従うはずです。



医学的にガンの原因は不明な点も多いのですが、私は平和、協調、調和を乱した魂のありさまがガンとして肉体に顕れ、そのことを自覚させ、罪を償うための摂理として、痛みがあると考えています。

したがって、肉体上のガンを鎮めていくために最も有効な手段は、平和で穏やかな心を保ち、取り巻くすべてに感謝し、愛することだと思います。

平和で穏やかな心により、ガンの増殖が止まり、愛する心により、存在自体が脅かされると考えています。



もし、ガンという病気を憎み、敵対して闘おうとすると、穏やかな心や、愛する心が保てなくるため、ガンは活性化し、増殖を始めるのではないかと思われます。

ガンという病気も意味があってなったのですから、否定するのではなく、例えば「あなたには本当に大変な思いをさせられているけど、お陰で大切なことにも気付くことができた」と存在を認めてみるのは、おかしなことでしょうか。

また、強い恐怖心を持ったり、必要以上に不安になったりすると、生命力である治癒(免疫)力が低下し、ガンの増殖を許してしまうと考えています。

患者さんが強い痛みを感じる時は、ガンが活性化して増殖している時だと思われますので、怖れや不安な心を拭い去り、平和で穏やかな心を保ち、愛に満ちた時を過ごすことが、何より大切だと思います。

もし、痛みやつらさに挫けそうな時は、「全ては私の魂の向上ためにある。耐えられない痛みは決して与えられない」と強く自分に言い聞かせて下さい。

それは真実ですから。



ガンが増殖するか、鎮静化するか、あるいは縮小するかは、ガンと治癒力とのせめぎあいの中で決まります。

繰り返しますが、恐怖心や不安感を克服し、穏やかで平和な心を保ち、愛に満ちた時を過ごすことにより治癒力が最高に高まり、ガンの進行と痛みを押さえ込むことにつながると考えています。

愛する人、親しい人、気にかけて来てくれる人と、楽しく語り、笑い、喜び合い、励まし合う、そんな時を過ごすことは、どんな抗ガン剤、鎮痛剤よりも効果があるのではないでしょうか。

2013年12月5日木曜日

何で生きているのか



20代前半の私を悩ませていたのは「何で生きてるのか」ということでした。


いくら考えても答えは見つかりません。

目標に向かって一生懸命に生きている人や、ひたむきに何かに打ち込んでいる人は、力強く、輝いて見えて、うらやましく思えました。

大学を卒業して歯科医師になった時も、恥ずかしながら人のため、社会のために貢献するぞ、という強い意気込みがあったわけではありません。

「何で生きているのか」という悩みは、あわただしく過ぎる日々の中で、置き去りにされていきました。



それから結婚して、故郷に戻り、仕事や家庭のことに追われながら、20年近くの時が過ぎました。

44歳となった時に、治癒力の出現と、仕事上の深刻な問題が立て続けに起こりました。

まもなくして、「シルバーバーチの霊訓」に出会い、霊的真理を受け入れることになります。

そして「何で生きているのか」という、若き日からの悩みに終止符が打たれることになります。



52年前、私はこの世に生まれました。

その時にできたことは、自分の要求を知らせるために、泣き叫ぶことだけだったと思います。

泣き叫ぶ私に、両親はその要求を満たすべく、昼夜を問わず無償の奉仕を私にしてくれたと思います。

数年後、幼稚園に入り同じ年の子供と時を過ごすことになります。

相変わらずわがままなことばかりを言っていたと思いますが、その中で他の子供たちと仲良く遊んだり、時にけんかをしたりして、自分以外の存在を意識していくことになります。


小学校に入学しますが、幼いと言えどもすでに一人ひとりに個性があります。

泣き虫な子、よく笑う子、怒りっぽい子、先生の言うことを素直に聞く子、聞かない子、勉強が好きな子、嫌いな子など誰一人として自分と同じではありません。

性格や考え方の違う子に囲まれながら、お互いに違いを認めていきます。



学年が上に行くに従い、近くに集まる仲間が出来始めていきました。

時々、仲間から反発を買い、孤独を味わったりもしましたが、それは決まって、うそをついたのがばれた時、周囲を無視し、わがままを言った時でした。

仲間はずれになりたくないので、反省し同じことをしなくなった様に思います。

中学、高校では他者とぶつかり合い、競い合う中で個性が磨かれていったと思います。

大人になり社会人になると、多くの時間を患者さんのために費やし、1人前の歯科医師となるために努力しなければなりませんでした。



過去から現在の振り返ると、あらためて摂理のもとに生きていることを、実感します。



子供の時、わがままばかり言ったり、自分のことしか考えていないと、たとえ子供といえども摂理が働き、友達に嫌われ、一人ぼっちにされます。

その苦痛を味わうことで、他者のことも考え、仲間との協調が必要なことを学んでいったと思います。

大人になり仕事に就きましたが、働くということは、自分の感情を抑え、他者のために奉仕することに他なりません。

働くことを通して、シルバーバーチが繰り返し言っている「人のために自分を役に立てる」ことを少しずつ実現していくとともに、その大切さを学んでいったと思います。

また、「役に立つ喜び」も患者さんの喜ぶ顔を見て実感していくことになります。



そして、機が熟して結婚をしましたが、独身の時と違い、仕事が終わった後も自分以外の人(配偶者)のことを考え、大事にしなければいけません。

さらに子供が生まれると、自分の楽しみよりも子育てを優先しなければならず、家族を中心に物事を考える様になってきました。



ありふれた人生のイベントは、自分から他者に意識を向かわせ、他者のために奉仕していく方向に進ませるためにあったと思います。

過去に数々の過ちを犯し、その度に痛い思いをしながら、知らず知らずのうちに、神の摂理を学んできたと思います。

人生のあらゆることが、摂理の支配下にあり、摂理を信じる信じないかにおかまいなく、それに沿って人生が展開してきたと思います。

「何で生きているのか」という私の答えは「人のために生きている」ということであり、これからも変わることはないだろうと考えています。

2013年12月1日日曜日

死について



命にかかわる病気になってしまった人に、伝えたいことがあります。

余命を告げられた人も、最後まで見ていただければ幸いです。

私は幸いにして健康であり、深刻な病気を経験したわけではありません。

病気のつらさや痛み、怖れや不安は経験した人でなければわからないことなので、安易な同情の気持ちで書く気はありません。

病気に怯えている人、死の恐怖と闘っている人に、真実を知ってもらうことにより、少しでも心が安らぎ、穏やかになってもらいたいと願っています。



病気の人を、恐怖に陥れる元凶は「死」です。

10年前の私は、死は生の終局だと考えていました。

時折、メディアを通じて死後の世界のことを語る人を見ましたが、それは脳が作り出した空想もしくは幻影の世界であると思っていました。

死後の世界が存在することを、証明できるものは何ひとつなく、体験者の主観的なものだったからです。

世界各地のことを知りたければ、現地に行った人から直接話を聞いたり、書籍、インターネット等で調べて多くの情報を得ることができます。

しかし死んだ後の世界について容易に知ることは出来ません。

たとえ知識を入手できたとしても、それが正しいかどうかを検証することは不可能です。



宗教においても死後の世界を説いてますが、キリスト教は天国と地獄、仏教では極楽と地獄というように統一されたものではないため、どれが正しいのかわからなくなってしまいます。

宗教や文化や地域によって違うため、どうしても普遍的なものではないと感じてしまいます。

そんな分からないことを考えても仕方がないと、思っている人もきっと多いのではないでしょうか。



もし、死後の世界が存在しないとすれば、死がもたらすものは「無」です。

生命は肉体の死とともに終わります。

一方、死後の世界が存在するのであれば、生命は肉体の死の後も存在し続けるということになります。

死がもたらすものは「肉体からの解放」であり、肉体を超越した何らかの存在を認めなくてはいけません。

多くの人はそれを魂(霊)と呼びます。

2つに1つであり、どちらかが真実です。



人間の身体は様々な組織から成り立つ、精密な機械と言って良いと思います。

機械は指示をしなければ動かすことはできません。

身体を動かしているのは脳からの命令ということになりますが、脳は自動的に命令を出しているのではありません。

すべての命令を出しているのは精神です。

精神が、脳という器官を通じて命令を出し、身体を動かしています。

精神を大脳の働きとして説明しようとすれば、電気的、化学的反応により作り出された実体のない幻影ということになります。

本当に精神とは実体のない幻影なのでしょうか。

そうではなく、五感で認識することのできない非物質的次元のものと考えることに無理があるのでしょうか。



精神は、様々な感情を表現します。

もし、脳が電気的、化学的反応を繰り返す機械ということであれば、満開の桜を見て美しいと感じることもないでしょう。

ニコッと微笑んだ赤ちゃんを見て、かわいいと感じることはないでしょう。

愛する人を喪って、涙を流すこともないでしょう。

脳という機械に、そんな感情が入り込む理由は見つかりません。

魂が感じとって、精神(心)を動かしています。

例えて言えば、魂という譜面に曲が書かれていき、精神(心)は曲を表現する楽器です。

曲がなければ楽器の存在意味はなくなり、楽器がなければ曲を奏でることはできません。

精神(心)は魂の表現媒体なのです。

目に見えない精神(心)の存在を認めながら、魂の存在を否定するのは不合理だと思います。



死の正確な知識を最も必要としているのは、愛する人を亡くされて深い悲しみに沈まれている人たちであり、病気を患い死の恐怖と闘っている人たちです。

何回でも、その人たちに伝えます。





人は死んで無になるのではなく、心、意識は存在し続けます。

生命とは、肉体を超えた魂です。





肉体は死んでも、この世に残した愛する人に寄り添い、見守ることができます。

そして、亡くなった愛する人と、肉体の死後すぐに再会することができます。

しばらくして、この世に遺した愛する人を、出迎えることになります。

愛するもの同士に、永続的な別れがないことは、紛れもない事実です。

信じられなくても、いずれ現実のものとなります。

死が訪れるのは多少の遅い早いがありますが、誰も避けられない自然の摂理であり、悲しむべきことではありません。



この世は、様々な経験を通して大切なことを学ぶためにある、いわば学校であり、死は卒業を意味します。

卒業後には、この世で学んだことを活かすことのできる、すばらしい世界が待ち受けています。

死に対する無知は恐怖を生み出し、正しい知識は恐怖を打ち消します。

限られた人だけが知っているのは、あまりに不公平です。



(肉体の)死の後にも生があります。そのことを前提に生きて下さい。

死の悲しみや恐怖から、心が解放されることにより、今、本当にするべきことが見えてきます。

この世も次の世も、愛が最も大切であるのことに変わりはありません。

悔いの残らぬように、この世で愛を存分に表現しましょう。

美しい曲を奏でていきましょう。





2013年11月14日木曜日

ガンを愛する



少年の時、私も宇宙飛行士になりたいと思っていました。

宇宙空間から地球を眺めたかったからです。

スペースシャトルに搭乗した宇宙飛行士の方も、きっと皆そうだと思います。

船窓から地球を眺めて国境線がどこにも見えないことに感慨を覚えるそうです。

地球は限りなく美しい1つの生命体だと言われた方もいます。



地球には多種多様の生物がいて、周りの環境に調和して生きています。

人にはそれぞれ住む国があり、文化や宗教も様々です。肌の色や顔つきも違いますが、広大な宇宙から見れば大した差ではありません。

同じ仲間です。



しかし、地上では争いが絶えることがありません。

お互いを認め合わず、敵対し、さらに好戦的な組織が次々と生まれていきます。

組織を構成している個々の人間は、初めから敵意を抱いていたのではなく、過去に侮辱を受けたり、家族や友人を傷つけられたり殺されたりして、怒りや憎しみの気持ちが生まれて、銃を手にしたのかもしれません。

いかに過激な組織であっても、彼らは彼らなりの理由があります。

9.11テロは赦しがたい非人道的な行為です。

米国は首謀した組織を壊滅させるべく、中東の国々に侵攻して、圧倒的な武力により鎮圧させようとしました。

結果はどうでしょう。

平和は生まれず、混迷が深まるばかりです。

原因は組織ではなく、怒りや恨みそして憎しみにあるからです。

組織を消滅させても、あらたな憎しみを生み出すだけであり、争いが治まることはありません。



力ずくで問題を解決しようとすると一旦は静かになりますが、根本的な原因は依然としてそのままであり、さらに大きな争いが起きることになります。

お互いを認めあい、同じ人間という同胞精神のもと憎しみや怖れを抱かなくなれば、傷つけあうことはなくなるでしょう。

相手と共に生きようとする気持ちを持つことが、平和への第一歩だと考えられます。



話は変わりますが、からだの中にも様々な組織があり、それぞれが欠かすことの出来ない存在として調和して働き、肉体を維持しています。

組織の細胞は絶えず新生していますが、時に細胞分裂が正常に行われず、ガン細胞を造り出してしまいます。

免疫システムの監視をくぐり抜けたガン細胞は増殖を続け病気として発症し、多くの人は恐怖を感じ、それを異端な組織として手術をして肉体から取り除こうとします。



取り除けば肉体上の健康を取り戻しますが、しばらくの期間を経て再発してしまうことがあります。

残された治療法として、抗ガン剤の投与が開始され、終わりのないガン細胞との徹底抗戦が始まります。

敵であるガン細胞は、薬の攻撃を受け撤退していきますが、味方である正常細胞も大きなダメージを受け、強い副作用として現れます。

薬という援軍により、劣勢に回ったかに見えたガン細胞は、耐性という戦略をとり、失地を回復していきます。

より強くなったガン細胞を攻撃するために、さらに強い薬がを投入されることになりますが、強い薬ほど副作用も強くなるのが一般的です。

薬によりガンは強力になっていくのに対し、身体は副作用により徐々に衰弱していきます。

そんな戦争みたいなことが繰り返されていくうちに、身体は傷つき、消耗して力尽きていきます。

そして両者が負ける引き分けとなります。



戦争が生み出すものは、平和ではなく憎しみであり、新たな戦争です。

神の摂理である因果律が働いて、そうならざるを得ないのです。

ガンという病気も、同じに思えてなりません。



薬でガンを攻撃すれば因果律が働き、結果として強く攻撃性を増したガン細胞が生まれてくると考えられます。

根本的な原因は肉体次元ではなく霊的次元にあり、平和、協調、調和を欠いた魂が肉体上に顕れたものがガンであると考えられるからです。

もし、魂が平和、協調、調和を取り戻したなら、肉体のガンも鎮まっていくはずです。

戦争も人々が平和、協調、調和の心を取り戻したのなら、治まってくるでしょう。

すべてを解決することができるのは、「愛」しかありません。

遠い昔、ユダヤの地で「汝の敵を愛せよ」と言った人がいました。

実に難しいことですがそれしかありません。

できたのならすべてが好転します。



ガンは、自らの原因で作り出した、自らの体の一部です。

敵対して攻撃するのではなく、自らの一部として受け入れ、共に生きていこうとし、愛の心でガンさえも包み込むことができたなら、因果律の結果としてガンの存在理由はなくなり、身体に平和が訪れるのかもしれません。





参考ページ: 「ガンは愛により癒される」 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2013年11月13日水曜日

ガンの治療について



以前に、「抗ガン剤と自然治癒力」というタイトルでブログを書きましたが、いろいろなことが整理されつつありますので、改めて書きたいと思います。

個人的な意見として、ご覧下さい。



ガンという病気には様々な治療法がありますが、手術をして根治を目指す患者さんがほとんどだと思います。

しかし、手術によりガン組織が、体から取り除かれたかに見えても、ガン細胞は体のどこかで生き残り、年月を経てまた姿を現すことがあります。

人は肉体、精神、霊から成り立っているため、病気には肉体的、精神的、霊的次元での原因があります。



外傷などは、物理的な侵襲が体に加わり起こるので、原因は肉体的次元のものです。

精神(心)的次元に原因がある病気として、胃潰瘍があり、強いストレスを感じることにより、肉体に変化(病変)を起こします。

現代医学により原因が解明されていない多くの病気は、霊的次元で原因が存在すると推察されます。



ガンは、平和、協調、調和を欠いた魂のありさまが、病気として肉体に顕れたものと考えています。

神の御心は愛であり、平和、協調、調和の心も愛から生まれます。

それらを欠くことをは、摂理に背いたことになり、病気などを通し相応の苦痛を経験することになります。

ガンという苦難を通して、生命や愛の大切さに気付けば、心は平和、協調、調和を取り戻し、生き方も摂理に適ったものに変わっていくと思われます。

つらく苦しい経験であっても、魂のありさまが変わり、摂理に適った生活をし始めることができたなら、ガンという病気になったことに重大な意味があったことになります。



しかし、病気になったのは運が悪かっただけ、取り去ってしまえばお終いと思ってしまうと、大切なことに気付くことはありません。

手術で肉体上の病気はなくなったように見えても、霊的次元での原因は存在し続け、肉体上に再び顕れることもあるでしょう。

再発はガン患者さんにとっ、て最も避けたかった事態です。

その心境は経験したものでなければ、とても分からないと思います。

この過酷で深甚な経験は、魂にまで響くことになり、生命というものを強く意識させるとともに、愛こそがもっとも大切だと気付かせることになります。

これらすべてのことは、内在する魂を目覚めさせるためにある、神の摂理です。



ただ、患者さんには家族があり、仕事があり、その先の人生がありますので、何とか生きていたいと強く願うのは当たり前のことです。

そんな時に、医者から提示されるのが抗ガン剤治療であり、少しでも良くなって欲しいという思いから受け入れます。

周知のことですが、抗ガン剤はガン細胞の増殖を抑制すると同時に、数々の副作用があり、患者さんを容赦なく苦しめることになります。

病気の苦痛は神が創った摂理であり、大切ものに気付き、魂を目覚めさせるという大きな意味を持ちます。

しかし、副作用の苦しみは人間が作った薬から生み出されるものであり、病気の苦痛とは違い何ら意味を持たないと考えています。

そればかりか、大切なものに気付く機会を奪い、愛する者とすばらしい時を過ごす大きな妨げになっていると思われます。

全く不必要な苦痛であり、貴重な時間が奪われていると思えてなりません。

また、薬を研究開発のため、罪のない動物たちを実験材料にしていることも、摂理に大きく背いた行為です。



そして、抗ガン剤には、骨髄機能の抑制という大きな副作用があります。

骨髄は血液を造り出し、その中にガンなどの異物を排除してくれる免疫細胞が含まれます。

免疫細胞が少なくなれば免疫機能は低下します。

つまり、抗ガン剤はガン細胞の増殖を一時的に抑えることになりますが、免疫機能を低下させることにもなります。

例えて言えば、皿の汚れをガン、洗剤は抗ガン剤、そして流水は治癒(免疫)力とすると、水道の蛇口を絞ってしまう様なものです。

洗剤をいくら使って皿から汚れを排除したとしても、流水が少なくなってしまえば皿から汚れは流れ落ちず、きれいになりません。

神が創った免疫システムの働きを、人間が作った薬により抑制されてしまうことが許されるのでしょうか。



再発したガン組織はある程度の大きさになっていて、全身に転移していることもありますので、免疫力ですべて消滅させることは難しいのかもしれません。

しかし、神から与えられた免疫という治癒力を十分に発揮することができたなら、進行を遅らせたり、止めたりすることは十分可能だと思います。



治癒力を最大限に発揮させるには、心を穏やかに生活して、病気は必ず治るという強い信念を持つことだと思います。

すべてのものを慈しみ愛する気持ちも大切です。

つらい抗ガン剤の副作用により、心が不穏になり、信念が揺らいでしまって、治癒(免疫)力が低下することが何より心配です。






参考ページ: 「ガン(癌)は怖くない!」      

         
         「ガンの自然治癒」


       
         「ガンは愛により癒される」

        
         「ガンは魂のかさぶた」









2013年11月9日土曜日

ガンとは何なのか



子供の頃、ガンは怖い病気だけど、大人になる頃には医学が進歩して治療方法が見つかり、死んでしまうことはなくなっているだろうと漠然と考えていました。

大人になった今でも、残念ながら決定的な治療法は見つかっておらず、死因のトップはガンです。



近年の検査器機の進歩は目覚しく、より早期の発見が可能となり、手術方法も日々改良され、抗がん剤などの薬も多数開発されています。

それにもかかわらず、ここ数十年、ガンの死亡率に大きな変化は見られません。

また、ガンを発生させるリスク因子の究明も進み、発がん物質の使用を規制したり、個人においても健康志向の高まりとともに、禁煙する人や食事内容に気を遣う人が増えてきています。

ガンを予防する知識の普及にもかかわらず、ガンの罹患率は減少するどころか増加傾向にあります。これはどう解釈すればいいのでしょう。



結核などの細菌感染症で亡くなる方は、抗生物質の発見により激減しました。

原因は細菌という顕微鏡により目で確認できるものであり、それを消滅させれば治癒となります。

細菌感染症と同様に、ガンも手術により身体から取り除き、残っているガン細胞を抗がん剤で死滅させるという考えに則って治療は行われていますが、実際には日本で約30万人もの方がこの病気で亡くなっています。

ガンという病気は、そんな単純なものではないのかもしれません。

ガンの発生は、遺伝的要因や環境的要因など複数の因子が関係してると言われ、免疫力もガンの発症に強く関わっていると考えられます。

最近の研究で、強いストレスを感じるとNK細胞(免疫)の活性が低下することが分かっています。

NK細胞はウィルスやガン細胞を探知して攻撃する細胞ですから、ストレスによりNK細胞の活性が低下すれば、ガンが発生しやすくなると考えられます。



ストレスを感じているのは心ですから、心とガンは密接な関係があることは明白で、ガンの罹患率が年々増加してきているのは、ストレスを強く感じさせる世の中になってきているためと考えてもおかしくはありません。

経験的に、多くのストレスは人間関係や過労から生まれると思います。

そして、余裕のない社会や個人の心が、多くの人の心に新たなストレスを、次々と生み出していきます。

社会がゆとりを失い、気持ちに余裕がなくなると、他者のことまで考えなくなりがちです。

どうしても自分優先となり利己的になっていきます。

利己的な心は神の心である「愛」と対極にあり、摂理に反するものとなります。

摂理に反した利己的な考えを国が持てば、他国との友好が崩れ、戦争となるかもしれません。

個人が持てば、他者との協調は失われ、孤独になったり、時として病気を経験することになるかもしれません。



ガン細胞の発生は、細胞分裂時の遺伝子の複製ミスにより、起こると言われていますが、細胞分裂は自然の摂理により営まれています。

人がすることにはミスがありますが、摂理を創造した神がミスを起こしているとは考えられません。

1つ1つの細胞は、肉体の上位にある魂の支配下にあり、常に影響を受けていると思います。

利己的な心により平和、協調、調和を欠いてしまった魂が、細胞分裂という動的できわめて繊細な営みに影響を与えて複製ミスが起こり、平和、協調、調和を欠いたガン細胞を生じさせてしまっているのかもしれません。

複製ミスを起こすこと自体も、摂理の1つだと思います。

たとえガン細胞が生じたとしても、自然治癒力として与えられている免疫システムにより感知され、死滅させられるはずですが、不安や心配、恐怖などの心を持ち続けると、治癒力が十分に働かずガン細胞の増殖を許すことになり、病気として発症することになります。

つまり、ガンという病気の発生、発症すべてに神の摂理が働いていて、霊的な原因は摂理に背いた心ということになります。



原因がわかれば対応は見えてきます。

摂理に適うように、他者を慈しみ愛する想いを持ち、表現しましょう。

生きていることに感謝して、心を穏やかにして過ごしましょう。

自分が作った病気なら、自分が病気を治すことも可能なはずです。

末期ガンというのは人が考えた概念です。

そんなものは存在しません。

ガンも自分の肉体の一部であり、魂の支配下にあります。

あなたの魂はすべてを乗り越えていく力を秘めています。

従って病気は治ります。

2013年11月3日日曜日

病気の癒やし



ヒーリングについては、わからないことだらけです。

直接、触れて行なうこともあれば、遠く離れた場所にいる患者を思い描き治癒力を送ることもあります。

どちらも同等の効果があると言われており、私の経験からもそうだと思います。



ラジオの電波は、距離が遠くなったり、山が立ちはだかったりすると、受信しにくくなりますが、治癒力は距離や地形的な制約を全く受けないことからも、地上的(物理的)なものではないことが分かります。

しかも、一面識もない方であっても、正確に力は届きます。

ヒーラー側からの思念により患者との間にリンクが出来るということですが、リンクが出来たという実感はありません。

私がヒーリングの時にすることと言えば、穏やかな気持ちを保ちながら病気が癒されていくイメージを思い描き、あとは委ねるだけです。

しばらくすると、左腕から指先に向かってしびれが伝わっていく感覚が、次第に強くなっていき、どこかに向かって放散していきます。



会ったこともない方に力が届けられること自体、私の理解を超えていますから、今回はうまくいくのだろうかと気になります。

後で、ヒーリングしている時の様子を聞かせてもらうことにしていますが、多くの人が眠気を感じてうとうとしたり、患部がぴりぴりしたり、体が暖かくなるのを感じたりする様です。

痛みなどの症状がその場で改善していたり、あるいは症状の改善があったことを教えてもらうと、今回もうまく力が届けられたと安堵し、うれしくなります。



ただ、病気がどの様なメカニズムで癒やされるのか、私には分かりません。

シルバーバーチの霊訓の中に書かれているところがありますが、言語で説明しにくいことだけは確かな様です。

また、霊訓の中で病気について度々述べられていますが、その中に(患者自身で)「治せない病気はない」と言っているのが特に心に残ります。

肉体を支配している魂が、病気を追い出すよう命じればできるということなのです。

医学では魂(霊)の存在を否定してるので、ナンセンスなことと一蹴されてしまうでしょうが、魂をはっきりと自覚した上で、相応の段階まで進化していればきっと可能なのでしょう。



魂を表現しているのが肉体であれば、魂の不健全さは時として肉体に病気として顕れます。

熱心なキリスト教信者の肉体に現れる聖痕(スティグマ)も、魂のありようが肉体上に顕れた典型ではないかと考えています。

もしそうであれば、魂が浄化されていけば肉体も浄化されるということであり、病気も治癒していくことになります。

ただし、浄化されるには相応の期間、病気の苦痛を経験しなければいけません。

病気になったのは因果律の結果であり、手術をして病巣を取り除いても、薬で症状が改善しても、それは肉体次元での対処療法に過ぎず、根本原因に対する霊的な償いは必要となります。

原因となっているのは、摂理に背いた想いや価値観にとらわれた生き方と、不自然な生活習慣にあると考えられます。

もう1度、静かに見つめ直し、過ちに気付いたら素直に認め、改めることが何よりも大切です。



摂理を一言に集約すれば「愛」です。

摂理に背いた想いとは憎しみであり、恨みであり、妬みであり、生きているだけで幸せなことなのに、多くのものを求めようとする生き方です。

摂理に適った生き方は、他者の気持ちを察し、いたわり、やさしくすることから始まると思います。

許すことも「愛」の一つの表現です。

病気になった運命を恨んだりしてはいけません。

何かの意味を持って病気になったと受け止め、すべてを受け入れ、病気さえも許すことにより、心の平穏が保たれると思います。

その心の平穏さが、肉体の調和を乱している病気を、鎮めていくのではないでしょうか。



子供のころ私も、親や先生に良く叱られていました。

何か悪いことをして叱られることがほとんどであり、それに気付き、反省し、時に罰を受けて、最後は許してもらった記憶があります。

病気になるということは、人に代わって神に叱られているということであり、摂理に従うように促されているのだと思います。

つらくて、痛くて、苦しくて、耐えられない時を送っている方ほど、多くの償いをされているわけですから、許される時が近づいているはずです。

もしかしたら、明日の朝かもしれません。

2013年10月26日土曜日

苦難は不幸なことではない



人は、様々な悩みや苦しみを抱えながら生きています。

どんなに避けようと思っても、人は生きている限り苦難に遭遇することになっています。

なぜなら生きる目的は魂を向上させるためであり、苦難に立ち向かい乗り越えようとすることにより、向上が計られるからです。



だいぶ昔の話になりますが、学生時代に1番いやなものはやはり試験でした。

その期間だけは自由を奪われ勉強を強いられ、点数で評価されるからです。

こんなのものがなければいいのにと、何度思ったことでしょうか。

しかし、今、振り返ってみると、実は真剣に学習するために、必要なきっかけであったように思えます。

もし、試験がなくなれば、もろ手を挙げて喜んだかもしれませんが、緊張感がなくなり勉強に身が入らず、学ぶことも学ばずに卒業することになったのかもしれません。

少なくても、私の場合はそうです。

それと同じで、もしもこの世で苦難がなかったとしたら、一見すると安楽で幸せそうな人生に思えますが、立ち向かって乗り越えようと奮闘努力することはなく、そこから学び取ることもありません。

そして、目覚める機会がなくなった魂は眠り続けたままとなり、向上することができません。

従って、「生まれてきた意味を成就するために苦難がある」ということになります。



私も、40代半ばでかつてない苦難が訪れました。

一刻も早く抜け出したいとばかり思っていましたが、予想に反して状況は悪化していきました。

そして、最悪の結末を迎えることが現実味を帯びてきて、経験したことのない惨めさと後悔と不安の思いの中で、「シルバーバーチの霊訓」と出会い、貪るように読んでいきました。

晴れた日の山登りに、避難所は必要ありません。

しかし、嵐が吹きすさぶ時には、安心できる場所を捜し求めます。

襲ってきた嵐(苦難)から身を守ってくれたのは、「霊的真理」という堅牢な山小屋でした。

地上で起こるいかなる嵐からも守ってくれます。

山小屋に逃げ込み嵐が去り出てきた時に、新しい自分になっていました。

そして、「苦難は因果律の結果」であり、「この苦難は不幸ではなく、大切なことに気付き、真の自分を見出すためにあった」と思いました。



前にも書きましたが、ふいの治癒力の発現と、経験したことのない苦難の始まりが、わずか1ヶ月の間に続けて起きたことは、「何らかの計画があり、それに沿って生きている」ことを自覚するためであったと確信しています。

シルバーバーチは、「計画」のことをブループリント(青写真)と呼んでいますが、私だけでなくすべての人に、あらかじめ決まっていた計画があり、それに沿って生きています。

計画の目的は、魂を向上させるためですが、人には自由意志があるため計画通りに行くとは限りません。

遭遇した苦難が、あらかじめ決まっていた計画なのか、この世で摂理に背き作ってしまった原因に対する結果なのか、はっきりと知ることは出来ません。

ただ、今回の経験から、あらかじめ計画されていた事象と因果律で生じる苦難が、魂を目覚めさせるため絶妙のタイミングで組み合わさっていると感じました。



苦難の始まりでは、早めに回避しようと頭で対策を考えます。

事態が悪化していくと他者に助けを求めたり、あらゆる手段を講じて何とかならないかと考えます。

どんなに考えてもどうにもならないことがわかりはじめると、思考が停止して、奥深いところである「魂」が前面に出てきます。

肉体(頭脳)の上位に存在する真の自分であり、思考に代わって、直感として進むべき方向を指示していきます。

頭で考えることは、他人の言動に影響を受けたり、権威に弱かったり、情緒に流されたりして、移ろい易いものです。

しかし、魂の声である直感は、奥深いところにある正直な自分の気持ちや願望であり、素直に従えばたとえどの様な結果になったとしても、後悔することはないでしょう。



また直感は、この世に生きる私たちを、暖かく見守る存在から送られた思念であることも少なくありません。

より良き人生を歩むために、常に導いてくれているありがたい存在です。

霊的な視点から眺めていますので、魂の向上にとって最善の選択をするように働きかけます。

苦難が降りかかってきても、運が悪かったと自分を納得させてはいけません。

ましてや人や社会のせいにしてはいけません。

そして苦難から逃げ出しては決していけません。

どちらも魂が向上する機会を自ら放棄したことになり、生まれてきた意味を1つ失うことになるからです。



どんなに苦しくても、つらくても、痛くても、必ず乗り越えられます。

乗り越えられる苦難しか与えられません。

乗り越えられる人だからこそ与えらたのです。

嵐は去り、陽が差し込む時が必ずきます。



つらくて耐えられない時は、こう言い聞かせてください。

自分(魂)が成長するために、この経験がどうしても必要なのだと。


2013年10月19日土曜日

病気になった意味



内面にあるものは外面に出ます。

悲しくなると泣く、おかしくなったら笑う、恥ずかしくなったら顔が赤くなる、心に思ったこと感じたことは肉体で表現されます。

そうであるならば病気も内面にある何かが、肉体に上に表現されていると考えてもおかしくありません。



例えば、「ガン」はどうでしょう?

正常な細胞と違い、無秩序に分裂を繰り返し増殖してく病気であり、周りの組織を押しのけて拡がり、ちぎれて遠隔地に転移をする、人体との協調性もなく調和もない、言わばわがままな細胞の塊です。

摂理に背いた悪感情を長く持ち続けると、人は病気になります。

悲しみをいつまでも引きずっていたり、憎しみや恨みや嫉妬心で、心が埋め尽くされていたり、欲を張った心や落ち着きを欠く心も、病気の原因となります。

内面にある魂は、外面にある肉体の上位にあり、肉体は魂に従います。

不健全な魂のありさまは、肉体に病気として顕れます。

もしかしたら肉体に顕れているガンは、平和、協調、調和を失いかけた魂の反映であるのかもしれません。

つまり、人体の調和を乱すガンを生みだしているのは、調和を乱しかけた心であり魂である可能性があります。



もちろん、遺伝的素因により乳ガンや大腸ガンになったり、タバコ、放射線などの外的要因によりガンが発生しやすくなるのは確かなことです。

また、摂理に適った生活をしている人でも、耐えなければならない試練(予定されたこと)として、ガンを経験しなければならないこともあるでしょう。

しかし、多くは摂理に背いた心を抱き続けていたことによってガンが生じたのではないかと考えています。



最愛の人を失ったら悲しくなるのは当然です。

信じている人に裏切られたら、憎しみを覚えてしまうこともあるでしょう。

突然、職を失ったら挫折感を感じてしまうかもしれません。

しかし、好ましくない感情にいつまでもとらわれていると、自然治癒力(生命力)を十分に受け取ることが出来なくなり、病気を発症させることになります。

ちなみにヒーリングは、患者に治癒(生命)力を強制的に注入する行為であり、自然治癒力が実在することを証明するものでもあります。



病気になると苦痛や不自由さを伴いますので、そこから何とか抜け出そうとします。

医者にかかったり、生活習慣を変えてみたりするなど、病気を治すことにどうしても意識が向きますので、結果的に摂理に背いた悪感情を抱かなくなります。

誤った価値観、不自然な考え方や生活習慣は、人から忠告を受けたりしてもなかなか変えることはできません。

根底から変えるためには、何か強烈な体験が必要となってきます。



ガンは、(地上の)生命を脅かす病気であり、人には理解してもらえない痛みやつらさを伴いますので、心より深いところにある魂にまで響きます。

健康な時に気付かなかった、真に大切なことを呼び起こさせることになります。

真に大切なこととは「命」であり「愛」です。いずれも肉体を超えた霊的次元のものです。

ほとんどの人が、目に映るもの、証明されたものしか信じないのは、科学を信奉する現代社会において当然なことなのかもしれません。

しかし、科学は叡智を結集してもなお、「生命」をとらえることができません。

それは、生命とは肉体を超えた「魂」であるからです。

もし、科学で証明されないものを否定するならば、「愛」は存在しないことになります。

生命は肉体であり、誕生とともに生まれ死とともに消滅するということであれば、生きている意味はきわめて希薄になり、「愛」の入り込む余地はありません。



生命は魂であり、魂の向上のために、この世に生まれてきました。

そのつらさも痛みも、魂の向上のためにあります。

内面(魂)にあるものが、外面(肉体)に顕れ、外面に顕れたもの(病気)により、内面(魂)を知ることになります。

2013年10月12日土曜日

病気の根本原因とは



今までの多くの病気の方にヒーリングをしてきました。

治癒する方もいれば、効果が認められない方もいますが、どちらの方にも分け隔てなく治癒力は流れていきます。

治癒力により病気が癒され、悦びやさすらぎの表情に変わるのをこの目で見てきました。

治癒力の源が神であり、癒やしが御心であるならば、「神は愛」であり、流れていく力は「神の愛」と思わざるを得ません。



すべての人は学ぶべきものを学び、果たすべきことを果たすために、この世に生まれてきたのであり、目的が達成されたらこの世を去っていきます。

摂理に則った生き方をしていれば、シルバーバーチが言うように熟した果実が落ちるがごとく、自然に苦しまず、あの世に旅立って行きます。

しかし現実には病気を進行させ、まだ(魂が)熟していないうちに、苦しんだ末に死を迎えてしまう人が数多くいます。

私の周りを見ても、若くして病気で亡くなった方が多くいますが、ほとんどの方は家族や会社のために勤勉に働いていて、あと何十年かはこの世で喜びや悲しみ、楽しみや苦しみを経験するはずであったろうと思われます。

とても肉体の死をもって償うほど大きな過ちを犯したとは考えられず、健康な私たちとの差はわずかと思われます。



では、なぜ死んでしまうのかを考えてみると、「病気の原因や治療を肉体次元のみで考えてしまう(霊的)知識の欠如にある」という結論にいたりました。

ある人ががんになったとします。

その人は結婚をして出産し、家族のために家事と子育てを懸命にして生きてきました。

子育てが一段落したところでからだの異常に気付き医者に診てもらいます。

診断はがんで手術を勧められます。選択肢は他になかったので摘出手術を受け、化学療法も併用しました。

数年後、がんの転移が見つかりましたが、転移がんは手術の適応でないので、抗がん剤治療を始めました。

抗がん剤治療によりがんは縮小傾向にありましたが、副作用のためつらい日々を堪えねばなりませんでした。

そして徐々に抗がん剤が効きにくくなり、がんは再び大きくなり始めます。

医者は別の抗がん剤を勧め、わらにもすがる想いで治療を受けます。

そして治療の甲斐もなく亡くなったとします。

患者も医者も、病気を治したい一心な気持ちだけでした。

肉体を犠牲にするような大きな原因(カルマ)を作ってしまったとは、どうしても思えません。

この世で果たさなければならないことがまだあるとしたら、たとえ摂理に背き病気になったとしても、相応の苦痛を経験した後に、その機会が与えられると思います。

それにもかかわらず死という転帰をとるのは、何かが間違っているとしか思えません。



病気は摂理に背いた結果であり、苦痛は過ちに気付かせるための触媒です。

たとえ、手術で除去したとしても、肉体上に顕れた結果(病巣)を取り除いたに過ぎず、根本にある霊的次元での原因は依然としてそのままです。

原因がそのままであれば、それを気付かせるためにまた病気になり、苦痛を経験することになります。

まず、原因が何にあるのか、過去を静かに振り返り突き止める必要があります。

例えば、失職し挫折感を味わった、配偶者の裏切りで強い憎しみを覚えた、愛する人を失い深い悲しみが長く続いたなど、心よりさらに深いところにある魂にまで影響を及ぼす出来事がなかったかを検証します。

その時に、陰湿な感情に長くとらわれたり、相手の言動に深く傷つけられたりすると、時として病気という形で肉体に顕れることもあります。

もし相手を傷つける言動をしていれば、自らが病気となり、相手が傷ついて苦しんだのと同等の苦痛を経験しているのかもしれません。

中には人を平気で傷つけていても病気にならない人がいますが、「蒔いた種を自らが刈り取る」という摂理から逃れられる人はいません。

生まれ変わってから、あるいは病気とは違う形で相応の苦痛を必ず経験することになります。



病気になったのは偶然ではありません。

何らかの誤りに気付き、大切なことを学ぶために与えられた契機です。

自分のことしか考えず生きてきた人だったとしても、病気になり大きな苦痛を味わったら、同じ病気で苦しむ人に対して同情の気持ちが生まれます。

それは他者のことを思いやるという大切なことを学んだことになります。

その思いやる気持ちがさらに昇華し、慈愛の想いに変わり、やさしく人に接し、見返りを求めない善行を重ねていくうちに罪は償われて、病気は快方に向かっていくと思われます。



神の御心は愛です。

すべての人に償いの機会はいつでも与えられています。

摂理に背いて病気になったのであれば、摂理に適った慈愛と感謝の心で、世の中や人のために生き、欲を張らず、穏やかに過ごすことにより、少しずつ原因が取り除かれていき、必ず病気は良くなっていくと思います。

あまりにも(肉体の)病気を治すことだけにとらわれ過ぎると、引き起こした真の原因を振り返ることがなくなり、根本から治す機会を失ってしまいます。



多くの人が病気にならないために、また病気を治すために「シルバーバーチの霊訓」に代表される霊的真理を知ることは必要不可欠だと強く思います。

2013年9月7日土曜日

病気にならないために



もし身体の具合が悪くなってしまったら、多くの人は医者にかかります。

医者は(西洋)医学を学んでいますので、問診とともに各種検査を行い病気を診断し、外科処置や投薬などの治療を施します。

血液、レントゲン検査等により異常(所見)を発見し、診断の根拠としますがあくまでも肉体を対象とした物質次元での診断です。



そして、治療も肉体を正常に近い状態に戻すことが目標となります。

骨折などの外傷は物質次元での原因が主ですので、対応も整復や縫合など肉体次元の処置を行えば良いのですが、霊的次元に原因が存在する場合は霊的次元での対応が必要となってきます。

しかし、現代医学では霊の存在は認めておりませんので、霊的次元に原因が存在するなどとは全く考えていません。

誰が見てもわかる証拠(客観性)がないため、非科学的なものとして扱われ、霊を論じること自体がはばかれるというのが現状です。



しかし、科学は生命とは何かという大命題にいつまでたっても答えを見出せずにいます。

その理由は「生命は霊」という根源的な事実を頑なに認めないためです。

霊の存在を認めた時に、はじめて生命の本質が理解され、病気の根本的な原因や自然治癒力について迫ることができると思うのですが、それにはしばらく時間がかかりそうです。



私がヒーリングを行なう患者の霊的次元での原因を探る時、文献や論文があるわけではありませんので、信頼のおける霊的治療家の書籍を参考にしながら、霊訓真理に照らし合わせるようにしています。

何よりも頼りにしているものがあり、それはインスピレーションです。

ヒーリングをしている時や、患者に意識の焦点を合わせていると伝わってくることが多く、ふいに浮かんでくるイメージであったり言葉であったりします。

ただ目に映るものではなく、耳で聞いているわけでもありません。

ヒーリングの治癒力も私が作り出したものではなく、受け取っていますので、それと同じ(霊媒)現象が起きているのだと思います。

インスピレーションは頭脳より瞬間的に生まれる発想ではなく、霊界に存在する知的存在から伝えられるものと認識しています。

それは芸術家に降りてくるインスピレーションと同じ原理だと思われます。

ただし、インスピレーションにより得た情報が正しいことを証明するのは不可能であるため、患者には助言として伝えています。

1例ですが、顔面神経麻痺(Bell麻痺)の方をヒーリングをして現在経過を見ています。

麻痺のはっきりとした原因は解明されておらず、ストレスが誘因となりうることは分かっています。

後日、患者に意識を合わせるとインスピレーションが伝わってきました。

その概要ですが「自分の感情を押し殺して作り笑いをしてしまう心と表情の大きな隔たりに起因している」ということでした。

「自分の気持ちに正直になりなさい」ということなのでしょうか。

どう受け取ってもらえるかが分かりませんでしたが、病状がこれ以上悪化して欲しくなかったのでお伝えしました。

以前は潜在意識による私の推測かもしれないと疑っていましたが、それを否定する決定的な出来事があってから考え方を変えざるを得ませんでした。

そのことについては別の機会に書きたいと思います。



シルバーバーチも言っていますが、霊が王様(上位)であり、精神と肉体は従者(下位)です。

いくら肉体をいたわり大事にしても、より高次の霊に意識が向かなければ、知らず知らず摂理に背いた想いを抱いたり、行為をしてしまうことになります。

その状態が長く続いてしまうと、時として肉体や精神に病気という形で顕現してしまいます。

そうなると償いのために相応の苦痛を経験しなければなりません。

病気になってからではなく、その前に大事なこと(摂理)に気付いた方がはるかに賢明です。

それを学ぶのに霊的真理を超えるものはありませんし、シルバーバーチの霊訓は最適な書であると思います。



何度でも声を大にして「摂理に背いた憎しみ、妬み、恨みの想いを捨て去り、摂理に適った慈愛の想いを持ち続けましょう。

欲を張らず穏やかな日々を送りましょうと、言いたくなります。

長寿で元気な方に「長生きの秘訣は」と質問すると、「くよくよしない」とか「明るく楽しく生きる」中には「腹八分目」と答えが返ってきますが、すべて摂理に適っており、確かな証人だと思います。

心身ともに健やかに生きるために、これ以上大切なことはありません。

2013年9月1日日曜日

病気を治すために

病気とは何かを考えてみました。

岩波出版社の生物学辞典では、病気とは「個体の秩序が何らかの原因(病因)によって偏倚した状態をいう」と定義しています。

「原因には内因と外因があり、内因は年齢、性、人種などの素因や体質のほか、遺伝・内分泌線機能障害・免疫などをさし、外因には栄養の欠乏、物理的・科学的作用、ウイルス類、細菌類などの感染をあげることができる」と記載されています。

何やら難しいことが書かれていますが、「病気」という文字を眺めた方が良さそうに思えます。



気が病む、肉体を超えた何ものかが病むということで、それは精神であり魂(霊)であると考えられます。

つまり精神、魂が病んだ結果として、肉体に病態として顕れ、認識されるということです。

そうであれば多くの病気の根本的な治療は、精神や魂を対象としたものでなければならないと思います。

ストレスで胃潰瘍になる方がいますが、H2ブロッカー(胃酸を中和する薬)を飲んでも対処療法に過ぎず、精神的ストレスを改善しなければいけません。

精神的ストレスを生み出すものは様々ですが、その多くは人間関係であったり、過度の労働であったりします。

かと言ってそれらを避けて日常生活を送ることはなかなか許されません。

いやだとか避けたいと思った瞬間、ストレスとなって肉体や精神に悪影響を与え始めます。数年前に私も大きな困難に遭遇しましたが、幸運にも「シルバーバーチの霊訓」と出会うことができたため、つらい経験でしたが精神的、肉体的にも健全さを失うことはありませんでした。

もし出会ってなかったら、深い絶望感から心身は衰弱し、病気になっていたかもしれません。



この世に生まれてきたのは、魂の向上のためであることは言うまでもありません。

魂の向上は、困難や苦痛を伴う経験を通しても、得られます。

従って、この世を生きているうちに、望む、望まないにかかわらず、困難や苦痛を伴う経験に、出会うことになります。

つらいライフイベントや深刻な災難が起きても、(霊的)知識があれば与えられた試練として受け止め、ストレスから病気になってしまうことはないでしょう。

霊的知識のあるなしは、物理的な内的、外的因子よりも、はるかに現代の病気の発症に関係していると思います。



そして病気には、この世に生まれる前の罪(カルマ)によるものと、生まれてからの罪(カルマ)によるものがあります。

いずれも相応の償いの期間が必要であり、苦しみや痛みを経験しなければいけません。

生まれてからつくってしまったカルマで病気になってしまった、例えば摂理に背いた憎しみや、怒り、妬みなどの感情を持ち続けたために、ガンになったり、あるいは、心身の限界を超えて働き過ぎると、うつ病になったりします。

そして、病状がさらに悪化して、死という転帰をとったとします。

死は魂が肉体から解放されることであり、決して不幸なことではありません。

しかし、学ぶことがあってこの世に生まれてきたのであり、それを病気により道半ばで切り上げてしまうことは、神や霊界が望むことでは決してないはずです。

そんなことから、私は神により病気を治す機会が、すべての人に平等に与えてられていると、考えています。



せっかくの機会を無視し、摂理に背き続けると、シルバーバーチが言うようにカルマ的負債が大きくなりすぎて、肉体を犠牲にする(死ぬ)しかなくなります。

病気を治すために最も優先すべきことは、摂理に背いた心を抱くことや、行動を改めることです。

摂理に適った心、慈愛の心、赦す心、感謝の心を持ち続け、過度な労働は避けて、無欲で穏やかに日々生活することにより、病気の原因であるカルマは少しづつ小さくなり、それに伴い病気も良くなってくるはずです。


摂理に適った心に変わるためには、相応の苦しみや痛みを経験しなければなりませんが、人や動物に親切にやさしくすることを心がけ、社会貢献やボランティア活動をするにより、その期間はきっと短くなると思います。


病気を根本から治すのは(自然)治癒力であり、薬ではありません。

治癒力は受け取るものであり、より多く受け取るためには他者を愛するしかありません。

「施すものほど授かる」は、永遠不滅の真理です。

2013年8月29日木曜日

すべての病気に原因がある



病気について書いてみます。

あくまでも私個人の意見です。

はっきりしていることは、全ての病気に原因があるということです。

そして因果関係が明確なものと、わかりにくいものがあると思います。

タバコをたくさん吸って肺がんになる、お酒を飲み過ぎて肝炎になる、あるいは感染性の疾患などは原因がはっきりとしています。

しかし多くの病気は根本的な原因を突き止めるのは困難です。

例えば、乳がんはどうでしょうか。

確かに遺伝的な要因はあると思います。米国の有名な女優が予防的に乳房を切除したのは記憶に新しいところであり、肉親に乳がん患者がいると約2倍の発生率になることは統計学的に証明されています。あるいは欧米型の食生活、特に牛乳を大量に飲むとホルモン(エストロゲン)の関係でリスクが高くなるというデータもあるようです。

しかし肉体次元での因果関係は医学的、統計学的に証明可能ですが、精神的さらに霊的次元でも原因を立証するのはきわめて困難であり、ほとんど知られていません。

がんは自己複製の過程におけるエラーにより生まれ、無秩序な細胞の増殖が始まり、生体の調和を次第に乱していく病気と言われています。

1日に5000個のがん細胞が出来ると言われていますが、生体のもつ免疫システムにより感知され、死滅させられているために、幸いなことに健康を保ってられます。

また、がん細胞の発生率は放射線の被曝や各種起因物質により高まることが明らかにされていますが、がんになられた方はこのような外的な要因や遺伝的因子が主因だったのでしょうか?

それよりも初期の時点で免疫システムがうまく機能せず、がん細胞が網をくぐり抜けて増殖してしまったことが大きな要因と考えられます。

大切な免疫システムをうまく機能させない原因として何があるのか?

精神的状態と免疫力には密接な関係があることは周知の事実です。ストレスが強い状態が持続すると、がん細胞の増殖を食い止めるために重要な免疫細胞であるNK細胞の活性が低下することも分かっています。

つまり、ごく初期の段階、1個のがん細胞が生まれても本来の免疫力であれば簡単に死滅させられるところが、たまたま強いストレスが持続する時期があり、免疫担当細胞の活性が低い状態がしばらく続き、免疫システムで対応できないほど大きくなってしまったのではないかと考えられます。

免疫システムをすり抜けた1個のがん細胞は増殖を繰り返していきます。1個が2個、2個が4個、4個が8個と増えていき、徐々に大きくなっていきます。レントゲン等で臨床的に発見されるのは大きさが約1cmなってからと言われており、そこまで成長するにはがんの種類、年齢によって異なりますが、数年~十数年かかると言われています。

つまり今、がんが見つかった患者であれば、数年~十数年前に免疫力を大きく低下させるほどの強いストレス状態を経験したのではないかと考えられます。もしかしたら親しい人の死、あるいは失業や過労、離婚など強いストレスを感じ、負の感情が生まれやすいライフイベントがあったのかもしれません。

英国の偉大なヒーラーであるハリーエドワーズは著書である『霊的治療の解明』の中でこう述べています。

「霊的治療家は、ときどき、自分の経験や霊界から教えられる情報によって、病気の原因を言うことができます。1945年に私は、大部分の皮膚病の背後にある基本的な原因は精神的緊張と欲求不満であって、軟膏塗布は有効ではないと述べました。ところが1947年には、このことがすぐれた医学的発見とされたのです。同様に、霊的治療家は、内臓疾患の病気の原因のほとんど内的自己の不調和に起因していることを前から知っていました。(中略)癌にも同じことが言えるのです。4年前に、私はほとんどすべての癌、特に婦人の乳癌は欲求不満と内的自己の不安感からくるものである旨の発表いたしました。現在では、ヘニーッジ・オーグルヴィ卿のような著明な医師が同様の見解を述べて、「幸福な人間は癌にならない」と言っています。」 

彼は膨大な霊的治療を通じて多くの叡智を霊界から授かっていますので、その真実性について疑う余地はありません。

乳がんについては欲求不満と内的自己の不調和が原因であると主張していますが、乳腺組織が活発に活動している妊娠~授乳期において、育児に対して極度のストレスや不安を感じてしまうことにより免疫力が低下して乳腺細胞のがんが死滅せずに生き残り、増殖を繰り返して十数年の時を経て大きくなって症状が現れ発見される、ふとそんなことを思いました。

私はがんになってしまった方に言いたいことがあります。最も有効にがんを抑えこむ手段は、免疫力を高める考え方、生き方をすることであると。

不安感や恐怖心を払いのけ、穏やかで自信に満ちた心を保つことにより、誰でもがんを抑えこむ生命力(自然治癒力)をふんだんに受け取ることが可能であり、あらゆるステージ、いかなる状況であっても治癒への道は開かれていると。

2013年7月28日日曜日

病気になる力を治す力に



自由意志は神が人に与えたものですが、時々怖くなることがあります。

自由意志で決めたことが、摂理に反していると、カルマを作ってしまうからです。

生まれてから今までに、私はどれくらい摂理に背き、カルマを作ってしまったのでしょうか。

考えると少し怖くなります。

次の世界で総括する時に全てわかりますが、過去は閉じられてしまっているので、これから摂理に適った生き方を心がけていくしかありません。



起こることに偶然はないことから、病気も因果律の結果です。

ヘビースモーカーが肺ガンになる、大食の人が肥満し糖尿病になる、肉中心の食生活を続けると動脈硬化が起きて高血圧、心筋梗塞になる。

タバコを吸う、食べ過ぎる、肉を食べ過ぎることは摂理に反した行為であるからです。

また、生まれながらにして、遺伝的な病気により何度も手術を繰り返す子どもたちがいます。

シルバーバーチが言うように、前世のカルマが原因であったり、さらなる向上を目指して魂が病気の肉体を選んでいるのかもしれません。

いずれにせよ全ての病気に明確な原因があることは間違いありません。



摂理に背いた心を持つことによって病気になってしまったのであれば、摂理に適った心に改めることにより病気を治すこともできるはずです。

シルバーバーチは憎しみは愛が倒錯したもの、憎しみの力は愛する力に変えることが出来ると言っています。

それと同じく、病気になる力は健康になる力に変換できるはずです。

また「克服できない困難は与えられない」とも言っていますので、どんな重い病であっても、治る可能性があり、希望は捨ててはいけないと思います。

穏やかな心を保ちながら、病気を克服するという強い意志を持ち、全てのものを慈しみ愛することで、神から最大限の自然治癒力を授かることができると思います。



病気による苦痛を味わう中で、その心境を持つのは難しいことかもしれませんが、困難なことほど魂の向上につながります。

魂が向上することは、この世に生まれてきた目的を成就することそのものであり、きわめて意義深いことです。

苦難を耐えることにより、魂が向上し、それに伴い摂理に適った心境に変化していき、導きによりヒーリングを受けて、病状に著明な改善が認められる。

そして、時期が来た人として霊的真理を受け入れることができるのかもしれません。

2013年7月9日火曜日

医学的処置とヒーリング



私がヒーリングをする患者さんのほとんどは、すでに医学的処置を受けられています。

医学的処置により軽快すれば、ヒーリングを受ける必要はありませんので、それだけでは満足出来ず、今の病状が一刻も早く良くなって欲しいと思われています。

少し前、ある知り合いの方をヒーリングしました。

難病と言われる自己免疫疾患で、日常生活に大きな支障が出ていました。

特に、仕事をする上で障害は大きく、病状は誰が見ても明らかなものがありました。

自己免疫疾患に有効とされているステロイドを服用しており、その副作用で顔が浮腫んでいました。

病因は不明であり、根本治療は確立されていないため、いつ治るともわからない、不安な日々を過ごされていたと思います。

病気の話を聞いて、もしかしたらお役に立てるかもしれないと思い、こちらから連絡をとりました。

手短にヒーリングについて説明したところ、よろしくお願いしますという答えが返ってきましたので、休日の朝にお伺いして30分位治療を行いました。

いつもと同じ様に、治癒力は流れていくの感じましたが、効果があるかどうかいつもの様にその時はわかりません。

霊的真理について少し話をして、興味があれば「シルバーバーチの霊訓」を読んで下さいとお伝えして帰りました。

その後、どうなっているのか気になっていましたが、数週間後にお会いする機会がありました。

一目見てすっかり良くなっていることがわかり、思わず嬉しくなりました。

ヒーリング後、2,3日で治ったとお礼を言われました。

ただ患者さんは必ずしもヒーリングで治ったとは考えていないかもしれません。

ヒーリング後に治ったのはたまたま時期が重なったのであり、やはり医学的処置により改善したと思われているのかもしれません。

私もヒーリングにより治ったと言い切ることは出来ませんし、実際、医学的処置の効果で治ったのかもしれません。


医学はすばらしい知識の集積であり間違いなく人類の叡智です。

その効果は実験的に証明されており、恩恵を受けていない現代人はいないと言っても差し支えありません。

しかし、病気を治す主役は自然治癒力であり、医学的処置はそれを補助するものです。

皮膚を深く切ると縫合により裂けてしまった皮膚を寄せて縫い合わせたり、骨を折って整復するのは医学を習得した医者ですが、細胞レベルで皮膚と皮膚、骨と骨を繋げて元に戻すのは自然治癒力です。

感染症で抗生物質を投与すると細菌の増殖や機能低下が起こりますが、身体から排除するのはやはり免疫力であり自然治癒力です。

現代の医学では、自然治癒力の納得ゆく説明は出来ませんし、唯物的思考から抜けださない限り、その緒も見つけられないと思います。

自然治癒力は生命力であり、生命力は肉体を超えた(霊)力であることは、「シルバーバーチの霊訓」に繰り返し書かれており、真理を受け入れた人には当たり前の事実となっています。

しかし、医学は自然科学の一部であり、認められるには客観的な証明が必要となります。

ヒーリングにおける病気治癒は、あくまで主観的なものでり、客観的な証明は不可能です。

ヒーリングをする前と後で医学的データを比較検討して、たとえ有意に差があったとしても、その効果を受け入れてもらうことが難しいことは、偉大なヒーラーであるハリーエドワーズが、膨大な治癒症例を提示しても宗教界、医学会から黙殺されたことが書かれている書籍、「霊的治療の解明」を読めば明らかです。

しかし、これから霊力がふんだんに地上に流れこんでくるとシルバーバーチも言っていますから、ヒーリングによる病気治療がますます行われて行くとともに、徐々にですが認知されていくと考えています。

同時に、霊的真理が普及して、私達が望む世の中に少しずつですが変わっていくでしょう。






2013年6月30日日曜日

今、苦しんでいる人に霊的真理を



ある日突然、治癒力が出現して約7年が経ちます。

その力に驚き、戸惑う中、幸運にも「シルバーバーチの霊訓」に出会い、この世で最も大切な真実を少しずつ理解してまいりました。

その後、降りかかる苦難にも霊的真理に必死にしがみつき、どうにか乗り越えられました。



この7年間は小学校の6年間に匹敵する、新しい発見、出会いに満ちた、新鮮で刺激的なものであったと思います。

それまでの私は、この世に生まれてきた意味がわからないまま、慌ただしく日々を過ごしてきました。

霊的真理を学び、ヒーリングを通して徐々に深まっていったのは、自らが得たものを一人でも多くの人にわけていきたいという想いであり、それが私に与えられた役目という、責任感でした。



憶えてはいませんが、私が誕生した時も、いきなり明るい世界に出て、さぞや眩しかったと思います。

しかし、7年前、魂というものをはっきりと意識した時の、全てが輝いて見えた眩しさは、言葉では表せないものがありました。

深い霧に包まれた山道を登って行き、ようやく厚い雲を突き抜け、突如として眩しく輝く太陽と青い空が広がり、絨毯のように広がる雲海を眺め感動した少年の日を思い出します。



しかし、残念なことに霊的に目覚めた人はまだ少数であり、目に見えるものがすべてで、死んだらお終いと多くの人が考えています。

そのため、3万人弱の日本人が、自ら地上生活に終止符を打つという悲劇が起こっています。

嘆かわしい限りです。

きっと霊界でも、この事態を改善すべく、プランが立案され、地上に働きかけていることでしょう。



もし「シルバーバーチの霊訓」と出会っていれば、思いとどまった人も、少なからずいるのではないかと思います。

また、心身の病により、苦しい思いをされている人が、どれほどいるか想像もできませんが、わずか13ページですが1巻第3章の「なぜ苦しみがあるのか」を読んでもらう、または読み聞かせるだけでも、心の安らぎが得られたり、前向きな気持になれたりする人もいるはずです。

苦しんでいる人に寄り添い、真理の言葉を伝えることは、何にも増して大切なことと考えています。

苦難の日々が長く、耐え切れなくなっている人ほど、(受け入れる)時期は迫っていると考えられます。

しかし、真理を受け入れる時期が来ているかどうか、導かれてきたのかはわかりませんので、とりあえず今、苦しんでいる方にお伝えしておかなければいけないと思います。



「たった一人でも魂を目覚させることができたなら、あなたがこの世に生まれた意味があったのです。

たった一人でいいのです」というシルバーバーチの言葉に、少々焦り気味の私は助けられ、勇気をもらいます。

何と慈愛に満ちた霊なのでしょうか。





2013年5月19日日曜日

病気の方に真理を



5月19日の午前に、仕事場で60代男性の方のヒーリングを行いました。

突発性難聴で、補聴器を付けて70%くらいの会話が聞き取れるということでしたが、医者からはすでに手遅れと言われ、反対側の耳はすでに聴力を失っていたため、日常生活に支障をきたしていました。

良き通路となることを祈念しつつ、手を当てて約40分ヒーリングを行いました。

終わった後に「どうでしたか?」と感想を聞くと、「不思議な感覚ですね」と驚かれていました。

前と比べて少し聴こえる様になったということでしたので、また続けて来週ヒーリングを行なうことになりました。

突発性難聴は医学的にもストレスが誘引となると言われており、穏やかな気持で日々を過ごされる様にお願いをしましたが、多くの方と同じく、仕事でかなりのストレスを感じてしまっている様でした。

ヒーリングにより患者さんは穏やかで受容的な心境になっていますので、流れた力は次の世界から私を媒体として来ていること、(死により)肉体を失っても魂は生き続けること、そしてこの世で生きているのは苦しいこと、悲しいこと、辛いことを乗り越えることによって魂を向上させるためであることを伝えました。

仕事で、他の人から不愉快な言動をされても、許したり我慢することが、向上の糧になることがわかっていれば、ストレスではなくむしろ有り難いものとして受け入れられます。

私自身も明鏡止水の心境には程遠いのですが、日々の修養を続けていきたいと思います。

霊的真理が広まれば、人にストレスを与える言動は慎まれ、相手を思いやる言動に変わり、それだけで世の中の病気は激減するでしょう。

少しずつ真理を伝えていきたいと思います。





2013年4月21日日曜日

真理を伝えたい



世の中を見ていると、霊的真理を必要としている人が、本当にたくさんいると思います。

突然の大災害で、愛する人を失った人、病気で長い間苦しんでいる人、生きることの意味を探しながら見出せずにいる人、こんな人達にうまく伝えることが出来たら、きっと心の重荷が軽くなり、進む道が明るく照らされるはずです。

しかし、受け入れることができるのは、時期が来た人だけであり、導かれて来る人はわずかであり、その隔たりに戸惑います。 

一昨年、ある悲惨な事故で愛する家族を失ったご夫婦がニュース番組に出ていました。

落ち度のない事故で家族を失った悲しみ、憤りは想像を絶するものであることは間違いありません。

そして信じられないことに、深い悲しみを抱えた家族に追い打ちを掛けるように、いわれの無い誹謗中傷をする人達がおり、それに耐え切れず身を隠す様に生活をされているということでした。

映像で拝見した表情から、強い疲労感、絶望感を感じました。

こんな理不尽なことはないと、思わずにはいられませんでした。

少しでもお役に立ちたいとの衝動に駆られ、身勝手なことかもしれないと思いつつも、マスコミからご家族と連絡のとれる方の所在を聞き出して電話をしました。

その方は、ご家族を擁護する立場にあり、今の状況に心から同情されていました。

どうしても渡ししてもらいたい書籍があるとお話ししたところ、了解していただけましたので、シルバーバーチの霊訓(1)を郵送しました。

時期が来ているかどうかはわかりませんが、苦難の極みにあり、まさにゲッセマネの園の中にいると思いました。

霊的真理を受け入れて、少しでも安らかな気持ちになることを望みました。

去年、ご夫婦をニュース映像で見かけました。

お二人ともではありませんでしたが、穏やかで明るい表情をされていて、話している内容から、いくばくかの真理を受け入れていると、確信しました。

驚きとともにこの上ない歓びを感じ、神と霊界に深く感謝せずにはいられませんでした。