2013年12月25日水曜日

生きることは愛すること



私には伝えたいことがあります。

それは「シルバーバーチの霊訓」という本の存在であり、その中に書かれている数多くの真理です。



私にとって当たり前になってしまいましたが、苦難を経験して、魂に受け入れる準備ができた人にとって、その出会いは人生に一大革命をもたらします。

こうしてブログを書いているのも、霊的真理を受け入れる時期が来た人が、最短で「シルバーバーチの霊訓」にたどり着いて欲しいためであり、時期はまだでも、苦しみの最中にある人にとって、霊的真理が大きな安息となると考えているからです。



数ある中でも、「生命は霊(魂)」ということ、「霊(魂)は神の一部」であるということ、そして「神は愛」、という真理は、きわめて重要と考えています。



「死」については、実際に死んでみないと分からないと考えていましたが、幸いにして明白なものとなり、心の安らぎが得られました。

死は生の一部であり、存在がなくなってしまうことではありません。

存在の本質である生命は魂であり、表現するものが肉体です。

死とは、表現する媒体が変わるということです。



次の世界では、肉体はなくなるため、自由に魂の表現ができるようになります。

客観的なことを言葉で表現することは比較的簡単ですが、心で想ったことは主観的であり、表現するのはとても難しいです。

つい先日、まだ薄暗い空に、朝日を浴びて光り輝いたピンク色(ルノワールの肌色?)のひつじ雲を見ました。

見て感じたことを言葉に表すと、「美しい」とか「きれい」ということになりますが、それでは表し足りません。

美しいという言葉は、あまりにも大まかで広すぎるのです。

また、ある人が美しいと感じるものでも、別の人にはそう感じていないこともあります。

赤色という言葉から思い浮かべるのを、ある人はトマトの赤だったり、ある人は赤鉛筆の赤かもしれません。

と言うように、言葉で自分の思いのすべてを、正確に他の人に伝えるのは無理です。



次の世界は肉体のない世界です。

自分の想いのすべては、言葉ではなく思念として正確に伝えることができます。

もどかしく、わずらわしい言語という記号は必要ありません。

今までの経験から私は、次の世界では魂で感じたことはバイブレーションとして伝わり、バイブレーションを受け取った相手の魂は同じ感覚となるため、想いを共有できる、と思っています。

音叉と同じく、同じ波長となり魂が共鳴し合うと言うことです。



次の世界では、食事の心配をすることもありません。

養う肉体がないのですから、食べる必要がないわけです。

お金の心配をすることもありません。

服を買ったり、家を買ったりすることはなく、もし欲しければ直ちに具現化しますので、買い求める必要がないからです。

信じられないかもしれませんが、夢みたいな世界が、次に待っています。



もし、次の世界が、そんなにすばらしい世界であるならば、なぜ、この世が存在し、今、生きているのかと思うかもしれません。

生きるためには、お金が必要です。そのためには働かなければいけません。

嫌いな人と会って、話をしなければいけないこともあります。

さらに戦争が世界各地で今も起こっていて、人が人を傷つけています。

苦労をしたり、苦痛を味わったり、見たくないものを見たり、聞きたくもないことを聞いたり、望むことばかりではありません。

この世界が次の世界と大きく違うのは、両極性の世界であると言うことです。

「シルバーバーチの霊訓」に詳しく書いてありますが、愛と喜びに対して憎しみと悲しみ、平和と調和に対して戦争と混沌、すべて対になっているのが、この世です。

もし「神は愛」というならば、神の創った世界に戦争など起こるはずがない、と考えてもいいはずです。

戦争は摂理に背いた考えや行為により引き起こされ、国土は破壊され、人は傷つくことになります。

そして悲惨な光景を目の当たりにし、苦痛を感じながら、愚かさに気付き、平和の大切さを知ることになります。

戦争は他者(国)を愛する気持ちがあれば起こりません。

平和のために「愛」が必要不可欠なことを知ります。

大切なこと(摂理)をより際立たせ、気付かせるために、両極性であるこの世を、神が用意したのです。

生きるということは、魂を向上させる道を進んで行くことです。

霊性を高め、神に向かって1歩1歩近づいていく道です。



この世では魂の表現を肉体で行います。

肉体は生存するために、いろいろな要求をしてきます。

食べたい、寝たい、休みたいなど、動物的、本能的な要求です。

もし、肉体がすべてであれば、自己の生存のみを追い求める、殺伐とした世界となるはずです。

しかし、この世はそのような世界にはなっていません。そして誰も望んではいません。



それは、「生命は魂」であり「魂は神の一部」であるため、人は神の愛を表現しようとするからです。

人のために何かをしたい、社会のために奉仕をしたいという欲求は、生まれた後に身に付けるのではなく、もともと魂に内在する欲求であり、神の愛を表現しようとするものです。

しかし、愛を表現するためには、常に自己(肉体)の要求に打ち勝たなければならず、自己犠牲が必要となるため、魂の強さが求められます。

肉体など初めからなければ、愛を存分に表現できるのではないかと思われますが、魂が肉体という重いよろいをまとっているのは、負荷がかかり苦しむ中で、魂は鍛えられ、強くなっていくからです。



アウシュビッツの強制収容所では、1日の食べ物はパン1切れだったそうです。

そのため収容されたすべての人が、ひどく飢えていたと思われます。

そんな中で、その貴重な1切れのパンを子供に渡した人がいたそうです。

自己(肉体)の要求に打ち克ち、この世で最高の愛を表現していると思いました。



そこまでできなくても、会社帰りで疲れていても、目の前にお年寄りがいたら席を譲る人はいます。

休みの日に被災地に赴き、困っている人のためにボランティアをする人もいます。

それぞれが自己への要求を犠牲にして、人のため、社会のために行動しています。

この世を生きているうちに、そんなことがいく度となく繰り返され、たとえ1つ1つの想いや行いは小さくても、積み重なれば大きなものとなり、より高い愛、より強い愛を表現できるようになっていくのではないでしょうか。



もし人生が喜びばかりであったならば、大切なことを学ぶことは出来ません。

災難とも思える、悲しみや苦しみの経験を通して、最も大切なのは愛であることに気付くとともに、魂が向上していきます。

そして苦痛を味わっている人に対して、愛を表現することができるようになります。



「生命が魂」であり、「魂は神の一部」ということから、「生命は神のもの」ということになります。

そして「神は愛」ということをつなげていくと、「生きることは、愛すること」ということになります。

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