2021年6月27日日曜日

苦しみが自分を変える


人生は選択の連続です。

大きなことでは、学校を決めたり、仕事を決めたり、結婚相手を決める、小さなことでは何を食べるか、どこに出かけるか等々、選択をしない日はありません。

選ぶのは、大体が自分が好きな方、自分の利益になる方です。



もし、一生働かずに遊んで暮らすのと、少ない賃金で一生働くのを選べるとしたらどうでしょう?

多くの人は前者を選択するかもしれません。

肉体を持っている地上では、安全で楽な方を選ぶ傾向があるからです。



死んで霊界に行くと、その考えは大きく変わります。

肉体がないので、関心は自分の魂に向かい、地上にいる時には判らなかった生きている意味がはっきりと自覚されます。

生きている意味とは、いかなる次元においても、自分(魂)を成長させるためです。



朝から晩まで働いていると肉体や精神は疲弊し、遊んで暮らしている人たちを見れば羨ましく感じるかもしれません。

しかし、霊界から見ると、遊んで暮らしている人の魂は成長してないことが判ります。

むしろ、堕落しているように映るようです。



私たちが経験する出来事もそうです。

絶対に避けたかった出来事であれば、地上の人は不幸や凶事、災難に遭ったと思います。

けれども、霊界から見ると、大きく変わるための好機として映るようです。



何の原因も見当たらなければ、偶然、起きたとしか思えません。

しかし、その出来事は生まれる前に計画されていたのかもしれません。

目的は自分を変えるためであり、最適な出来事が、最適のタイミングで起きているのかもしれません。



自分に足りない部分、弱い部分を霊界で自覚して、そこを変えたいという強い願望が「原因」となって、神の法則である因果律が働いた「結果」として、その出来事が起きた可能性があります。

大きく変えたい人ほど、衝撃的で深刻な出来事が起きることになります。

徹底的に追いつめられることで、それまで眠っていた魂が目覚め、根本から変わり始めるからです。



変わろうとするのか、そのままでいようとするかは、地上の人の自由意思が尊重されます。

変わるのは大変であり、リスクが伴うような感じがします。

そのままでいるのは、安全策のように思えます。



荷車を押す時に、止まっている状態からわずかに動き出すまでが、1番力が必要です。

しかし、いざ動き出してしまうと、力はそれほど必要なくなります。

同様に、変わろうとする瞬間が、最も大きな労力を必要とします。



そのままでいるのは、安全で労力もいらないので、良さそうに思えます。

しかし、人(生命)は変わりながら、成長進化して行くように定められています。

その流れに逆らうと、自然法則の働きによって、苦しみを感じるようになっています。



そのままでいるのは、予定を先送りしているだけかもしれません。

起きた出来事は、予定されていたことかもしれないからです。

自分が変わるために、自分が決めていた可能性があるからです。



しかし、変わりたくても、変われない時もあります。

そのことにも大切な意味があり、変われない苦しみが、変わるための土壌を整えています。

魂に準備が整えば、変わる時が訪れます。



拒むのではなく、出来事を受け入れなければいけません。

人や世の中など他者のせいにしたり、運命を呪うのは止めましょう。

その想いが自分が変わるのを妨げてしまい、無用な苦しみが続いてしまうことになります。



それでも、頑なに変わるのを拒んだとすればどうなるでしょう?

霊界に戻った時に、予定していた通りにならなかったことを、後悔すると思います。

後悔が大きければ、変わるためにさらに強烈な出来事が計画されて、地上に生まれることになると思います。



出来事を乗り越えるとは、自分の中の何かが変わることだと思います。

大切なことを学んだ瞬間、自分の中の何かが変わり、それまでの苦しみから解放されます。

それは思考によるものではなく、言葉を超えた霊的な悟りです。



突然、水の中に放り込まれたとしたらどうでしょう?

どうしたら良いのか判らず、溺れかけ、水を飲み、息ができずに苦しい思いをします。

苦しくならないようにするには、どう体を動かせば良いのかを自分で体得するしかありません。


苦しみは、何かを学んで、変わることを促しています。

自分が変わり、成長するために、神は苦しみを創造したと考えられます。

神の心が愛ならば、それ以外に意味を見い出せません。



自分を変えるために、苦しみを味わっているのかもしれません。

変わろうとしている自分がいたら、その自分を尊重しましょう。

それが出来事が起きた1つの意味であり、苦しみから抜け出す唯一の手段と考えられます。



人生に苦しみがなく、喜びだけだったら、どんなに良いだろうと思う時があります。

しかし、そんな人生では、きっと何も変わらないでしょう。

四苦八苦して、もがいている中で、変わって行くようになっています。



根本(魂)から自分を変える。

それが、この世に生まれて来た目的です。

大変な思いをしたけれども、この経験があったからこそ、自分は変われたと振り返る時が必ず来ます。



望んでいた自分に変わった悦びに優るものはありません。

苦しみは、その先で待っている成長した悦びのためにあります。





2021年6月20日日曜日

自分を信じる


人は何のために生まれ、生きているのか?

未熟な自分を変えるためであり、自分にない資質を身に付けるためです。

目的を達成するために、私たちは何度でも地上に生まれて来ます。



自分を変えるためには、相応しい人生経験が必要です。

それは誰もが望むような、楽しい経験ではだめなようです。

避けて通りたいような、困難や障害や苦痛を伴った経験であることが多いです。

価値ある資質を手に入れるためには、それなりの代価を払わなければいけません。



朝起きて、今日1日を考える時があります。

その日、挑戦することがあれば、大丈夫だろうか?上手く行くのだろうか?と、心配になる時もあります。

9回の裏、ツーアウト満塁で、代打で試合に出たとします。

ヒットを打てば勝利、打てなければ敗北で、自分に全てがかかっているような場面で、平常心で臨むのは難しいです。

あえなく3振をしてしまうこともあるでしょう。



望んでいる結果が出ない時があるのが地上です。

思ったことが直ちに具現化する霊界と違い、地上では肉体によって具現化しなければならないからです。

肉体(物質)は不完全です。

従って、それを介した表現も、当然のことながら不完全になってしまいます。

産経新聞より

意思伝達も不完全です。

言葉は、思念を表す代用品です。

そのため、自分の内面にあるものを完全に伝えることは不可能です。



理想的なものをイメージしても、それを具現化するには限界があります。

イメージとはかけ離れたものとなり、後で悔やむこともしばしばです。

思い通りに行かない世界にいることを承知して、臨んだ方が良いと思います。



「地上生活の本質そのものが絶えず問題と取り組むようにできているのです。それと正面から取り組むのです。」シルバーバーチの霊訓には、そう書かれています。

次から次へと問題が生じるようになっているのが地上です。

その1つ1つを、正面から取り組んで解決するところに意味があると考えられます。

勝ち負けなど外から見える結果に目が行ってしまいがちですが、霊的にはそれほどの意味はないと考えられます。



「内部に潜む霊力を引き出して精一杯がんばるのです。そしてそれでもなお十分でない時に初めてもう1度踏みこんで無限の宝庫から援助を求めて祈るのです。」と、続けて書かれています。

初めて読んだ時に、その意味が分かりませんでしたが、今はこう解釈しています。

自分には神が内在しています。

神性を信じることで、内部から霊力を引き出すことができ、精一杯がんばることができます。

それでも足りない時には、外部の霊的な存在(神や背後霊)に向かって祈ることが許されて、援助の力を授かることができます。

誰かのためになる行いをする時、自らの成長を促す行いに対して、祈りは必ず霊界に届き、叶えられる方向に向かいます。



「乗り越えられることしか起こらない」

この真理を支えにして、私は生きています。

本当にそうなんだろうかと思いましたが、今はこう解釈しています。

全ての事象は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則は、完全なる叡智、完全なる愛である神が顕現したものです。

自然法則を創った神の目的は、生命を進化させ、完全な愛を表現させるためです。

自らに近づけるためです。

進化させるために自然法則は働いているので、自分の限界を超えて、私たちを挫折させるような事象は絶対に起きません。

起きた時点で、乗り越えられることが、神によって保障されています。



困難や障害が生じた時、挑戦しようとする時に、以下の3つの事を信じるようにしています。

1つ目は、乗り越え(成し遂げ)られると信じる。

2つ目は、自分の神性を信じる。

3つ目は、援助があると信じる。



この3つを信じることは、神を信じることです。

たとえ、神の存在を信じていなくても、自分を信じている人は自分の神性を信じていることになるので、神の力(霊力)が流れ込みます。

一方、自分が信じられないと、力は流れ込みにくくなります。

過去のことを思い出したり、先のことをあれこれと考えてしまうと、不安や心配や取り越し苦労が生じてしまいます。

そうすると、自分が信じられなくなってしまいます。



「地上生活に何1つ怖いものはありません。取り越し苦労は大敵です。生命力を枯渇させ、霊性の発言を妨げます。不安の念を追い払いなさい。」と、霊訓には書かれています。

全ての事象、あらゆる存在に、神が宿っているので、実際に怖いものなどないはずです。

怖れや取り越し苦労は、自我(精神)の働きによって生じた幻影です。

それらの念により、自分が信じられなくなってしまうと、神とのつながりが弱くなり、生命(霊)力が流れ込むのを妨げてしまいます。



自分を信じられなくしているのは、自分(自我)です。

能動的に自分の神性を信じるようにしましょう。

信じることによって、つながりが強くなり、霊力が魂に流れ込みます。

その愛により、不安や心配はなくなるはずです。



自然法則の働きを信じ、自分を信じ、援助を信じることで、より多くの物事を成就させる力、乗り越える力(霊力)が魂に流れ込みます。

時に、自分が持っている以上の力が発揮されることもあるでしょう。

そんな時、大きな力が働いたことに気付いて、感謝する人もいます。

物事を成就させるのは、能力そのものよりも、その3つを信じられるかどうかにかかっていると思います。



乗り越えよう(成し遂げよう)と強く思い、自分を信じることです。

信じて臨めば、必ず上手く行きます。



目に視えない法則、そして力が働いています。

全てが良きに計られていると強く信じることで、不安や心配や取り越し苦労が取り払われ、それに代わり乗り越える力が与えられます。



2021年6月13日日曜日

誰かのために生きる

 

昔の私が「何のために生きているの?」と、誰かに質問されたのならば、答えられなかったでしょう。

答えを知っている人がいれば、教えて欲しいと尋ねたかもしれません。



今、同じ質問をされたのなら、迷わず「成長するため」と答えます。

生まれて来た目的も、生きる目的も、その1点に集約されます。



死の後も生命は続いています。

この世界で成長して、次の世界で自分をより活かすために、今、生きています。



「どうすれば成長するの?」と質問されたのなら、「誰かのために、何かをすること」と答えるでしょう。

そして「人生で起きる出来事を乗り越えて行くこと」と付け加えるでしょう。

「何でそうなの?」と問いただされたら、「そのような決まりになっている」としか答えようがありません。



肉体的な成長と違って、霊的な成長は目に視えるものではないので実感はありません。

自分は成長しているのだろうか?と思う時もありますが、特別なことをしていなくても、少しずつ成長していると考えられます。

私たちは、生活して行くためにお金を稼がなければなりません。

そのためには、働かなければなりません。

また、家の中にも働く人がいなければ、生活は成り立ちません。

働くとは、すなわち誰かのために何かをすることです。

地上は、生きていくために、誰かのために何かしなければならないので、自然に成長するようになっていると思います。



生きていると様々な出来事が起こります。

起きた出来事は、寸毫たりとも変えることはできません。

人生が大きく狂わされる出来事や、立ち直れそうにない出来事も起きることがあります。

そこから、失意、絶望、挫折、あるいは怒りや憎しみや恨みなどの想いが生じるかもしれません。

それは、人間として自然なことだと思います。

けれども、そんな想いを抱き続けていると、人は苦しみを感じるようになっているようです。

成長を妨げているからです。

水は上流から下流に流れています。

流れの中に留まっていると、水の抵抗を感じるのと同じです。


生命は成長するように定められています。

成長を妨げているものがあると苦しみを感じるのは、自然法則(神)が生命を成長させるように働いているからです。

自然の流れに従って生きるようになっています。



今から20年前の6月8日に、大阪で大きな事件が起きました。

小学校に男が突然乱入して、児童生徒8人が殺害されました。

安全であるはずの学校で起きたこの事件は、社会に大きな衝撃を与えました。



元気に登校したはずの我が子が、冷たくなって自宅に帰って来る。

これ以上、信じがたく、理不尽なことがあるでしょうか?

まだ小さく、罪のないお子さんを失ったご家族が、どのような心境だったのか、想像すら出来ません。

突き付けられた現実に、きっと地獄のような苦しみを味わっていたと察せられます。



この事件は、犯人の自由意思によるものですが、この世を憎む霊が憑依をして、想いが増幅されて、犯行に及んだ可能性があります。

死刑の判決が下され、反省や謝罪もないまま、2004年に刑が執行されました。

肉体を失った後、今度は憑依する立場になるかもしれないことを、裁判官は知る由もありません。

ご遺族や被害者も、納得できるはずはありません。



ご遺族や被害者には、事件を忘れてはいけない、無駄にしてはいけないとの思いがあるようです。

当時7歳(小学2年生)の本郷優希ちゃんを失った、ご両親の紀宏さんと由美子さんは、そんな思いを持つご遺族です。

本郷優希さん(遺族提供)産経新聞より

上の写真を見るだけでも、どれだけ愛しく、大切な存在だったのかが、何となく判るような気がします。

何の罪もない、可愛い我が子の命を奪った犯人に対する憎悪の感情は、壮絶なものがあったと察せられます。

父親である紀宏さんは、優希ちゃんを守れなかったことに対して、強い自責の念があったそうです。

事件から数年は「生きるのを放棄していた。感情も表せず、自分が壊れた状態だった。」と言っています。




ご両親は、ある事実に衝撃を受けていました。

それは、犯人に教室で刺されて致命傷を負いながら、廊下を歩いて外に逃げようとした優希ちゃんの生きようとする姿勢でした。

その時の事を、お母さんである由美子さんは、こう語っています。


「娘は心臓を刺され、即死だったと警察から聞かされていました。でも事件からしばらくして、教室で刺された娘が、致命傷を負いながらも廊下まで逃げ出て、校舎の出口に向かって懸命に歩いていたことがわかったんです。私は娘が力尽きた現場に行き、廊下に点々と続く血の痕をたどりました。私の足で68歩分。娘はどんな気持ちだったのか、私は少しでも感じたくて、毎日毎日その廊下を歩きました。最初は「お母さん、助けて」と言っている娘の苦しそうな顔しか浮かんできませんでした。

でも痛みに寄り添っていくうちに、本当に最期の瞬間まで一生懸命生きようとした娘の笑顔が浮かんできたんです。ああ、人が生き抜く力はこんなに強いんだって、娘が命がけで教えてくれた。だから私は、ここで止まってはいけない、ちゃんと歩いて行こうと思いました。だけど、あまりにもつらいことだから、「神様、私はこの68歩分をしっかりと生きます。もし願いをかなえてもらえるなら、69歩目を娘と一緒に歩かせてください」と誓ったんです。」


苦しいときに、静かに寄り添ってくれた人たちの存在が何よりも支えとなり、自分は一人じゃないと感じることができたそうです。

自分も誰かの支えになりたいと思うようになった由美子さんは、事件から4年後、対話を通じて傷ついた人をケアする精神対話士の資格を取得したそうです。

「生きる力~愛(かな)しみと共に生きて~」というセミナーの中では、「あなたは、これだけ大変なことがあって、今こうして生きている。私はちゃんとそれを 見ているよ、見守っているよ。共にいるよ。」これが本当にうれしい寄り添いになると思う、と語られています。

そして、昨年11月に、お寺の敷地内に「ひこばえ」という、グリーフケアのための小さなライブラリーを開設しました。


夫の紀宏さんも、事件から3年後に講演活動を始めます。

多くの人に、学校の安全や犯罪を社会全体の問題として考えなければいけないことを伝えたかったそうです。

〈講演記録はこちら〉



講演をすれば事件のことを思い出すのでつらいでしょうが、今までに150回行って来たそうです。

どんなに行っても、ご自身の悲しみや苦しみが消えるわけではありません。

それでも続けて来られたのは、こんな悲劇が2度と起こってはならない、子供の死を無駄にしてはいけないと強い思いがあったからです。

何かをせずにはいられなかったのだと思います。



優希ちゃんは学校の先生になりたかったそうです。

この世を生きられなかった優希ちゃんのために、お父さんは子供たちのために何かをしたかったのでしょう。

子供たちに、命の大切さを伝えているそうです。

「あなたがどれだけ大切な存在か、自分が愛されていると分かれば、他人の命の尊さにも気付くはず」と、お父さんは語っています。

それは、優希ちゃん自身が、この世を生きている子供たちに伝えたいことでもあると感じました。

優希ちゃんの想いは、お父さんを通して、地上の人に伝えられていると思います。



事件から20年が経ち、今のお父さんの気持ちが新聞記事に載っていました。

ある文章のところで目が留まりました。

お父さんの魂は目覚めていて、優希ちゃんの生を確信していると思いました。

文字が小さいので、下記の切り抜きより文章を抜粋します。

「優希のどんな気持ちにも寄り添おうと思い始めてから、普通に会話が出来るようになった」~本文中段より~

「日々を重ねてこられたのは、優希さんの名前の通り「優しい希望の光」として自分の中に生きているから」~本文下段より~

あまりの悲しみのために、精神に変調を来してしまったのではありません。

生きている次元は違っても、信じることができれば、想いを交わし合うことはできるのです。

強い愛で、お父さんの魂と優希ちゃんの魂はしっかりと結ばれているのです。

2021年6月9日上毛新聞より

引用した上記の講演記録からも抜粋します。

~優希が大好きだった1年生のときの担任の先生は、4月から他の小学校に転勤していたのですが、発表会のことを聞き、優希の代わりに弾かせてほしいと言ってきてくださいました。発表会で、先生は優希の順番だった4番目に登場。プログラムにない特別演奏で、「剣士の入場、本郷優希ちゃんです」とのアナウンスを受け、ピアノを弾きました。終了と同時に、約150 人の客席から拍手が沸き、全員で黙とうをささげてくれました。

 先生は演奏後、「甘えん坊の一方で愛嬌のあった優希ちゃんがまだそばにいるようで、1人で弾いている気がしなかった」と、思いを語られていました。私には、一緒に演奏している優希と、演奏後先生をうれしそうに見上げ、笑顔で寄り添っている優希の姿がはっきりと見えていました。先生の暖かいお気持ちに、感謝の思いで胸が熱くなりました。~



これ以上ない悲しみの中で、優希ちゃんは生きていることに気付かれたのです。

そして、苦しみの果てに、人は誰かのために生きていると言う真実に辿り着かれたのです。



胸を張って、笑いながら、優希ちゃんと一緒に「69歩目」を歩くために、ご両親は今生を生きています。

地上を去った瞬間、その願いは叶えられます。



神の公正は完全です。

生きる意味を見失うほどの出来事を経験しながら、誰かのために何かをしようとする想いに対し、自動的に成長と学びがもたらされます。

そのことを知っている優希ちゃんは、会える時までご両親を優しく励まし続けるでしょう。



参考ページ:「その一瞬の時のために強く生き抜く」



よろしかったら聴いて下さい 「Tears in Heaven 」 Eric Clapton 




2021年6月6日日曜日

神性を表現する方を選ぶ


新型コロナウィルスの流行が続いています。

そんな状況下にもかかわらず、世界のどこかで争いが起きています。

少し前には、イスラエルがパレスチナに向かってミサイルを打ち込みました。

長い争いの歴史があり、もちろんイスラエルだけが悪いわけではありませんが、弱者であるパレスチナを支配しているのは事実です。

一方で、世界で1番ワクチン接種が進んでいる国もイスラエルです。

ミサイルではなく、パレスチナの人たちにワクチンを打ったのならば、両者の融和は進んだろうと残念に思うのは、私だけでしょうか。



全ての人に、神性があります。

その分量に大きな差がありますが、誰もが他者を大切にしよう、認めようとする気持ちを持っているはずです。

それができないのは、地上にいる時には自我(地上的自我)が存在しているためと考えられます。



生まれる前は、霊的自我がそのまま表現されています。

地上に生まれると、霊的自我は肉体と言う媒体を介して表現されます。

霊的自我と肉体の間で、橋渡しの役割をしているのが、地上的自我です。

地上的自我は、霊的自我が色濃く反映されていますが、肉体からの影響も強く受けています。

自分の肉体を守り、安全快適に生きるための役割りを担っているので、自己中心的、自己保存的な性質を帯びています。

そのために、自我同士はぶつかり合い、時に争いが起きてしまいます。



世の中には、自我が強い人がいます。

そんな人と、相対する時は、自然と自分の地上的自我も強くなります。

それは自分を守るため、不利益を被らないための、地上ならではの防御反応です。

似通った人たちしかいない霊界では、自分を守る必要はありません。



もし、自分を傷つけようとする人がいれば、それに抵抗するの当然です。

自分で自分を守らなければなりませんが、それができない場合もあります。

子供の心を傷つけるのが罪なのは、自我が未発達で、自分を守ることができないからです。



元々、皮膚が厚くて強い人もいれば、薄くて弱い人もいます。

外部の力によって、傷つきやすいのはどちらなのかは明白です。

大人になっても、自我の働きが強い人もいれば、弱い人もいます。

自我の働きは、自助努力で発達するものではなく、生まれながらにしてある程度決定していると思われます。

その働きが弱い人ほど、外部の力(思念)によって、子供のように容易に心が傷ついてしまいやすいと考えられます。



生まれ育った環境によって、自我の働きの強さが変化することがあります。

子供の頃、傷つけられた経験のある人は、自分を守ろうとする意識が強く働いています。

そのために、自我の働きが強くなる傾向があると考えられます。

また、親から愛情を受けていなかった人は、守られている意識が希薄になります。

そのために、自分を守ろうとする意識が強くなり、自我の働きが強くなる傾向があると考えられます。



守ろうとする意識が過剰になり、自我の働きが強くなると、攻撃的な性質を帯びてしまう時があります。

あるいは、傷つけられるのを怖れるあまり、人を信じなくなります。

そうなると、外部との間に軋轢や対立が生じたり、孤独になりがちです。



地上の争いの多くは、自我と自我がぶつかることによって起きます。

集団的、国家的な自我がぶつかると戦争になる可能性があります。

自我は、相手の自我により強い影響を受けます。

やられたら、やり返したくなります。

そんなこともあり、強くなった自我の働きにより、本来の自分とは違う言動をしてしまうことがあります。

こんなことを言うつもりではなかった、するつもりではなかったと後悔することがあります。

もし、自然法則に反した行いをしたならば、その先で償いが生じてしまうので、気を付けなければいけません。



地上的自我は、地上の顔です。

その奥に控えている霊的自我が、本来の自分です。

霊的自我の本体は魂です。

魂(自分)は、神によって創られた、神の一部であり、神性が宿っています。

魂は神性を発揮しようとしますが、表現媒体である地上的自我や肉体が不完全なために、思うようにできません。



地上的自我を前面に出している相手に、自らも地上的自我を前面に出し対抗したら、ぶつかり合ってしまう可能性があります。

そんな時には、霊的自我の働きを強める必要があります。

霊的自我は、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛等の神性を表現しようとします。

それらを表現することによって、相手とぶつかり合うことは避けられます。

相手に対抗して、地上的自我を強くするのではなく、霊的自我を前面に出して対応すれば、どちらも傷つかずに済みます。

神性を表現するとは、愛を表現することです。

愛を表現することにより、戦争だけでなく、貧困や差別など、地上で生じるほとんどの問題は解決できると考えられます。



より多くの神性を表現するためには、自分は神の一部である、神であることを強く意識することが必要です。

自分の中に神がいることを信じます。

信じることによって、神とのつながりが強められ、より多くの神性を表現することができます。



地上的なものに捉われない自分、感情に流されない自分がいます。

死んで次の世界に行くと、地上的自我は取り払われて、本来の自分(霊的自我)が表現されるようになります。

本来の自分を、地上にいながら表に出すのには、地上的自我の働きを意識的に弱めなければいけません。

瞑想なども、その1つの手段です。



相手の自我に影響されて、地上的自我が強く働くと、時に本来の自分とは違う、摂理に反した言動をしてしまい、後悔することもあります。

人には自由意思が与えらえています。

どんなにつらく感じても、敢えて神性を表現する方を選べば、必ず良い方向に向かいます。



地上で起きる出来事に翻弄されて、自分を見失いそうになった時には、本来の自分でいられるように祈ることが大切です。

祈る対象は、自分の中にいる神です。

神とのつながりの中に、安らぎを見い出せるようになります。




追記:コロナワクチンを受けてみて

(経過)

去る5月10日に1回目のワクチン接種を受けました。

ファイザー社製のm-RNAワクチンです。

左の二の腕の外側に注射されましたが、インフルエンザワクチンよりも痛みは少なかったです。

15分ほど会場に留まって、アナフィラキシー等の症状がないことを確認して帰宅しました。

当日は、注射した部位の痛み以外に、特に変化はありませんでした。

次の日の朝も、特に変わったところはなく仕事に行きましたが、午後から怠さを感じました。(微熱があったのかもしれません。同じ日に接種した複数のスタッフも怠さを感じていて、1名は早退しました。)

翌朝には、完全に回復していました。

それから3週間後の5月31日に2回目の接種を受けました。

今度は、左肩に注射をされました。

当日は、注射した部位の軽い痛み以外は、特に変化はありませんでした。

翌朝、起きてみると1回目よりも強い怠さを感じました。

注射した部位の痛みもやや強く、左手が挙がりにくかったです。

体温を測ってみると、平熱が36.0度くらいのところ、36.7度でした。

風邪を引いた時に近い感覚で、食欲もやや減退しましたが、外出は可能でした。

夜になっても、引き続き怠さを感じました。

翌朝は、ほぼ回復していました。

5日後の6月5日から、軽い怠さと背中の痛みと胃腸の不快感を感じていますが、ワクチン接種との関係は不明です。

(感想)

2回目の接種の後に副反応がありましたが、予想の範囲内でした。

副反応の強さは個人差が大きく、全く何も感じない人もいれば、強く出て数日間、行動が制限される人もいます。

2回目の接種の次の日は、可能ならば仕事を休みにした方が無難です。

ワクチンについては不安なところがありましたが、接種したことにより安心感が得られたのは事実です。

より多くの人が接種することにより、諸事情により接種できない人をウィルスから守ることにもつながります。

何かの参考になれば、幸いです。