2017年7月23日日曜日

苦痛の意味



食事をしている時に、食べ物が予想外に苦かったら、思わず、吐き出してしまいます。

これは生体の防御反応の一種であり、苦く感じるものは、人体に有害なものが多いと、私たちは認識しているからです。

虫歯になると歯が痛くなるのは当然ですが、痛みを感じることで歯に異常があることを知ります。

無痛(無汗)症という病気があります。

この病気は、生まれつき痛覚が働いていないために、痛みを全く感じません。

注射する時も、けがをしても痛くないので、悪い病気には思えないかもしれませんが、とんでもありません。

大けがをしても、全く痛みを感じないので、大出血や感染症を起こして、死に至ることもあります。

苦痛を感じるのは誰でも嫌です。

しかし、自分に異変が起きているのを知るために、絶対に必要なものです。



人は生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。

楽しい出来事ばかり起きれば良いのですが、そんなわけには行きません。

嫌な出来事も、挫折を味わう出来事も、悲しい出来事も起きます。

出来事を経験した時、自分の中にさまざまな想いが生じます。

悦び、悲しみ、怒り、憎しみ、そして友愛、不信、絶望、言葉に表現出来ないような想いも、たくさん生じています。

もし、起きた出来事に苦しんでいるのであれば、(その出来事によって)生じた想いによって苦しんでいる可能性があります。



怒りや憎しみ、嫉妬などの想い(感情)を抱くのは、決して快いものではありません。

苦痛のようなものを、同時に感じてしまいます。

苦痛として感じるのは、それらの想いが自然法則(神の摂理)に反しているためと考えられます。

抱いてはいけない想い、手放さなければならない想いなので、苦痛として感じるのだと思います。



病気の苦痛は、誰でも避けたいものです。

病気の原因は、霊的次元、精神的次元、肉体的次元に存在します。

肉体的次元に原因がある病気の苦痛は、身体の異変を知らせる意味があります。

霊的次元に原因がある病気の苦痛は、自然法則に反した想いを抱いているにも拘わらず、精神的苦痛として感じなくなってしまったため、因果律の働きにより肉体的な病気を生じさせ、その苦痛を通して、霊的次元(魂)の異変を知らせていると考えられます。

苦痛の源は、魂にあると言えます。

自然法則に反した想いを溜めているため、本来の自分(魂)の想いを表現できなくなっています。

憎しみの想いを溜めていて、人に優しくすることはできません。

不信の想いを溜めていて、人を愛することはできません。

そんな想いに気付かず、自分ではどうすることも出来なくなると、神の摂理(因果律)が働いて病気が生じます。

人生には、予定されているシナリオがあります。

本来の自分の想いが表現できくなると、シナリオに沿って生きられなくなり、予期した成長が得られなくなります。

苦痛は、魂を目覚めさせます。

魂が目覚めると、内にある想いが解放され、本来の自分の想いを表現できるようになり、再び成長が始まります。

苦痛には、魂を成長させる方向に導くという、大切な意味があります。



自分に起きた出来事を、正しく捉えなければ、苦痛が生じてしまいます。

全ての出来事は、自然法則の働きによって起きています。

たとえ、どん底に突き落とすような出来事であっても、法則の働きにより起きています。

それを、偶然や不運と捉えてしまうと、苦しみとなります。

自分を成長させるために起きていると、正しく捉えることにより、苦しみから免れます。

人に裏切られたり、傷つけられたりすれば、怒りや憎しみの想いが生まれてしまうのは、仕方がないような気がします。

しかし、そんな想いに捉われていると、成長することが出来なくなります。

それでは、怒りや憎しみの感情に任せて、相手に同じ苦痛を味わせてしまったらどうでしょう?

苦痛からは解放されますが、自身の霊性を下げてしまいます。

その失地を回復するために、新たな苦痛を経験しなければいけなくなります。

では、苦痛から免れるためには、どうすれば良いのでしょう?

対象を許さなければいけません。

しかし、許すのは決して容易なことではありません。

それでも、許すしか方法はありません。

もし許すことができたなら、自己犠牲によって愛を表現したことになり、自身の霊性は向上します。

全ての出来事は、魂を成長させる方向に、転化することが出来ます。

憎しみを表現すれば霊性は下がり、許すことで愛を表現すれば向上する、人はどちらでも選択できます。

神は、どんな出来事が起きても、憎んだり、恨んだりしてはいけないと、苦痛を通して私たちに教えているような気がします。



この世界に、無駄なものは、意味のないものは何一つ存在しません。

全く不要とも思える苦痛でさえも、意味があります。

苦痛を感じないことは、実は自分(魂)にとって危険なことです。

苦痛を感じなければ、過った方向進んでいることに気付けません。

苦痛は、正しい方向、安全な方向に導くと言う、明確な意味を持っています。



人は誰でも、苦痛から逃れたいです。

苦痛から逃れるために、その出来事が起きた意味に気付かなければいけません。

気付くことで、その出来事から大切な教訓を学んだことになります。

苦痛は、魂を成長させ、大切な教訓を受け入れる土壌を整えて行き、教訓を学んだら、今までの苦しみから解放されることになります。

何故なら、教訓を学ぶために、神の法則の働きにより、その出来事が起きていると思われるからです。

どんな出来事であっても、神の叡智(愛)により創られた計画によって起きているので、全く心配は要らないのです。



怒り、憎しみ、不信、絶望などが生まれると苦痛として感じるのは、それらの想いが自らの成長を妨げるからです。

愛する気持ち、信じる気持ち、希望を見出すと悦びとして感じるのは、それらの想いが自らの成長を促すからです。

神は、苦痛と悦びにより、私たちをより高い次元へと導いています。






2017年7月9日日曜日

愛するために信じる



日本人は海外の人から、良く無表情と言われています。

アメリカに行くと、初対面の人に握手を求められますが、その時の相手の表情は決まって、口角が上がり前歯を見せた笑顔です。

その方が、確かに安心するのですが、自分が真似しようとしてもなかなかできません。

日本は、ほぼ単一民族国家であり、笑顔を見せなくても、生活をして行く上で支障はありません。

一方、アメリカは多民族国家であり、話す言葉や文化が出身国によって大きく違うため、意志の疎通が上手く行かない時代があったと思われます。

身の危険を感じさせてしまえば、銃の所持が許可されているので、命の保障はありません。

知らない相手には、まず敵意がないことを伝えておく必要があり、自分を信じてもらうために笑顔を強調するようになったと聞きました。



子供の頃に、人を信じることが大切だと、何回も聞かされましたが、その真意は判りませでした。

確かに、誤解が生まれて友達が信じられなくなると、ケンカになり易くなったと思います。

世界中で戦争が起きるのは、お互いを認め合い、許し合うことが出来なくなったせいですが、元をたどれば、相手を信じることが出来なくなったためだと思います。



家族の間で問題が起きた時に、「こんなに、あなたのことを思っているのに、どうしてなの?」と、嘆く人の言葉を聞きます。

どんなに思って(愛して)いても、お互いに信じていなければ、想いが通い合うことはありません。

問題が起きたのは、相手の想いが判らなかったためであり、それは信じ合えていなかったからなのかもしれません。

他者との関係で、苦しい思いをしてる人ほど、相手を信じていないのかもしれません。



信じることで、相互の間に、つながりが出来ると考えられます。

つながりを通して、相手に自分の想いが伝わると思います。

喩えて言えば、相手に伝える想いが「水」であれば、信じることは「水路」のようなものになります。

水路があって、初めて水が流れます。

いくら想いがあったとしても、信じ合えていなければ、想いは通いません。

相手を信じなければ、想いは行き場を失ってしまいます。

行き場を失った想いは、苦しみや悲しみとなって、自分に返って来てしまいます。

苦しくなったり、悲しくなってしまうのは、もしかしたら、相手を信じていないからなのかもしれません。



なぜ、信じないと、苦しみや悲しみを味わうことになってしまうのでしょうか?

信じないことが、神の摂理(自然法則)に適っていないからと考えられます。

神が望んでいるのは、愛し合うことです。

信じなければ、愛し合うことができないので、生きる意味を失ってしまい、苦しみや悲しみとなってしまうと考えられます。

人は誰でも苦しみや悲しみを味わいたくありませんので、神の摂理のの働きにより、やがて信じるようになって行くと思います。



魂の存在を、信じない人がいます。

信じる、信じないは、個人の自由ですが、もし、信じない人が愛する人を失ったら、どうなるでしょうか?

その人にとって、死は永遠の別れを意味します。

愛しているほど、起きた現実に耐えられなくなり、生きるのが苦しくなってしまうでしょう。

苦しくなるのは、永遠に会えないと事実誤認をしていて、それを改めるように、神の摂理が働いているためと考えられます。

誤りを正せば、今の苦しみから解放されると考えられます。



死によって、肉体は無くなっても、魂は存続しています。

魂から想いは生まれているので、生前の愛する想いは、変わることなく続いています。

もし信じなければ、亡くなった人から今も想いが届いていることに、気付くことはありません。



人にとって、悲しく、つらいことは何でしょう?

それは、自分が愛する人に、信じてもらえないことだと思います。

魂の存在を信じない人は、亡くなった人の存在と、想いを信じていません。

悪意はないのですが、亡くなった人を無視し、想いを拒否していることになります。

亡くなった愛する人が、どれほど悲しく、つらい想いをしているか、思いもしていません。

信じようとしない頑固さにあきれて、それが続けば失望に変わってしまい、想いを届けるのをあきらめてしまうかもしれません。

見えないから、存在しないという誤った考えは、あの世とこの世の双方に、無用な悲しみと苦しみをもたらすだけなので、直ちに捨て去らなければいけません。

魂の存在を信じなさいと言われても、にわかには信じられるものではありませんが、信じない限り、いつまでも苦しみから逃れることが出来ません。

信じる者は、(苦しみから)救われるのは事実です。



この世からいなくなった事実は、変えられません。

悲しさ、寂しさが、無くなってしまうことはないでしょう。

しかし、誤りを改めることで、和らげることは可能です。

慰めや、励ましではなく、あの世で生きていて、この世の人に想いを伝えようとしているのは、紛れもない事実です。

姿は見えなくても、あなたが想った瞬間、傍に来ています。

愛する想いは、あの世の魂を引き付ける力だからです。



愛する人の想いがいつまでも届かないのは、あなたが魂の存在を信じ切れていないからなのかもしれません。

頭で考えてはいけません。

五感に頼ってはいけません。

この世に生きている時は、あなたへの愛を肉体的表現により証明出来ましたが、肉体を失った今、それが叶わないことを、どうぞ判って下さい。

証明されなくても、信じるようにして下さい。

あなたに、信じてもらうしか術がないのです。

信じてもらわなければ、想い伝えようにも、伝えられないのです。

愛しているので、想いを伝えたくて仕方がないのです。

何かを感じたら信じるのではなく、この世の人が先に、亡くなった人の存在と想いを、心から信じなければいけません。

今は、信じるのが難しいのであれば、あれほどまで愛してくれた人が、いなくなってしまうはずはないと強く思って下さい。

悲しみ、苦しみの後に、真実を受け入れて、信じられる時がきっと来ます。



この世を生きる意味は、目に見えない大切なものに気付くことかもしれません。

愛より大切なものは、この世に存在しません。

信じ合えば、愛し合うことが出来ます。

強く信じる者が、強く愛し合うことが出来ると思います。

信じることの意味を深く学び、大きく成長して行くために、今生に別れがあるのかもしれません。



違いを乗り越えて、愛し合うために、全ての人は生きています。

ばらばらになったものが、再び1つになるために、私たちは信じ合わなければいけません。