2015年5月8日金曜日

先に逝った理由



私の隣のお宅の庭には、今、さつきの花が咲いています。

5年前位でしょうか、ご主人が休みの日には、欠かさず庭の手入れをされていました。

ご主人は会社務めをされていて、定年間近であり、お子さんは結婚されて独立し、ご夫婦二人で静かに暮らしていました。

物静かな方で、あまり話す機会がなかったのですが、私の飼い犬にも塀越しに良く声をかけて下さり、動物好きなので安心していました。



気が向いた時しかやらない私とは違って、朝から夕方まで、黙々と雑草をむしったり、色々な種類の花や木を植えられていました。

暑い夏の日には、麦わら帽子をかぶり、日焼けしながら庭の手入れをされていた姿が印象に残っています。

その真剣な眼差しを見ながら、趣味と言うより、何か必死に思いを込めているように感じましたが、その思いが何なのかは分かりませんでした。

長い月日をかけて、ご主人が色とりどりの花や木を植えていき、きれいな庭になっていきました。



しばらくして庭の手入れをするご主人の姿を見かけなくなりました。

そして、近所の方から病気で入院されたと聞きました。

奥さんは看病のために、家を留守にされている時間が多くなっていきました。



数か月後、ご主人が脳腫瘍で亡くなられたと聞きました。

60代前半であり、定年後の時間をご夫婦でゆったりと過ごされるはずだったと思われます。



亡くなられた後、道で会ったり、回覧板を届けたりすると、奥さんは笑みを浮かべて、挨拶されていますが、心中はどうだったのでしょうか。

以前、庭から回って、おみやげを届けにいった時に、居間で横になり休まれていました。

一人で外に出かける姿は、めったに見かけません。

まだ明るいうちに、カーテンを閉めてしまいます。

お子さんがお孫さんを連れて、時々訪ねて来て、一緒に庭で遊んだりしてますが、気のせいか、笑顔の中に、寂しさや悲しみを感じてしまいます。

大切な人を喪った悲しみ、寂しさは、いかなる喜びであっても、埋められないのかもしれません。



今、ご主人の姿が思い出されます。

土にまみれながら、手入れされている、横顔と真剣なまなざしを。

そして、こんなことをつい思ってしまいます。

健康そのものだったご主人は、この先、自分に起こる出来事など想像もしていなかったが、長く生きられないこと、奥さんと近く別れの日がくるのを、魂は承知していた。

そして、奥さんのために、何か形に残るものを遺しておきたかった。

いなくなった後、寂しさを少しでも紛らわすため、自分を感じ取って欲しいために、いつでも見える、もっとも分かりやすい形で。



ご主人は、魂の奥にしまわれたこの世のシナリオ(青写真)を無意識に垣間見て、庭に想いを託したのかもしれません。

庭は雑草も生えることなく、奥さんがきれいに手入れされていて、以前のままです。

庭の木々や花々は大切な形見となっていて、奥さんはご主人の意図をしっかりと汲み取っているように思えました。



同じことが身に起きても、生まれる想いはさまざまです。

ご主人を亡くされて、前よりも活き活きとされている奥さんの話を聞きます。

新しい伴侶を見つけて、人生を再出発された人もいます。

一方、悲しみや苦しみに襲われて、そこから立ち直れない人もいます。

同じ配偶者との死別で、どうしてここまで違うのでしょうか?

すぐ立ち直れる人は楽観的で、立ち直れない人は悲観的な性格のためだからでしょうか?

ご主人に、頼りきっていたからでしょうか?

ご主人が、心の大きな部分を占めていたからでしょうか?

そうではなく、ご夫婦の結びつきに、違いがあるのかもしれません。



すべての人は老いてゆき、やがて死が訪れます。

肉体から解放され、次の世界へ移行していきます。

暗闇の後に、待ち受けているのは愛する人です。

悲しみはすべて喜びに変わり、夢にまで見た再会が、現実のものとなります。

先に行った人は、向こうの世界のあちらこちらを、案内してくれるだろうと思います。

そして、愛する人が、この世を去って、意外にも自分ほど悲しんでいなかった理由が分かります。

明るく、自由な世界であり、この世に残された人に目を向けない限り、悲しみはないことに気付きます。

出会いのような光輝く時を、しばらく過ごすことになります。



どれ位、共に過ごした後でしょうか、魂は次の段階に進んでいきます。

自らの魂の成長に応じた世界に赴くことになります。

この世は、さまざまな成長過程にある魂が、同じ地上(次元)に住んでいる世界です。

権力(地位)がある人、財産のある人、知性のある人たちが、強者であり、上に立ちやすい世界です。

向こうの世界は、この世とは大きく異なり、魂(霊性)がすべてを決定します。

思いやり、やさしさ、親切心に溢れた魂ほど霊性が高く、上の界層に行きます。

力とは権力や腕力ではなく愛であり、思いやりがあり、やさしいほど強者と言うことになります。

上の界層にいる人は下の界層に行けますが、下の界層から上の界層には行けません。

上の界層にいる人は下の界層にいる人の想いを理解できますが、下の界層にいる人は上の界層にいる人の想いを理解できません。

お互いの想いが分かり合える、魂(霊性)が同じレベルで、親和性のあるもの同士が、集団となり生活をしています。

たとえ婚姻関係があったとしても、霊性が違うのであれば、それそれが赴く世界は違ってきます。

しかし、向こうの世界での別れは、この世のような悲しみはないと思われます。

この世でも、類は友を呼ぶと言われるように、性格や趣味が似たもの同士が集まる傾向がありますが、向こうでは厳格に自然法則が働き、この世とは比較にならないほど、魂の似たもの同士が引き合い、結びつくことになります。

愛する者同士は、必ず再会を果たせます。

しかし、末永く一緒にいられるとは限らないということになります。



これらの自然法則から、私なりに考えてみました。




なぜ、これほど悲しまなければいけないのか?



魂と魂に親和性があり、つながりが強いためではないでしょうか。

親和性のある魂との出会いは、運命的で素晴らしいものであり、過ごした日々は幸せに満ちたものであり、共に生きる喜びを強く感じると思います。

しかし、離れ離れになってしまうと、耐えられないほどの悲しみ、苦しみを感じてしまうと思われます。




なぜ、私を残して逝ってしまったのか?



先に行った人は、残された人より、霊的に成長している魂だったからではないでしょうか。

夫婦として対等でも、年齢が下であっても、今までの人生で霊的に一歩、二歩、先に進んでいたのかもしれません。

この世で、魂の成長度を計ることはできませんが、もし、先に行った人が残された人よりも、思いやりや、やさしさに溢れ、寛容な人であれば、霊的に差があると思われます。

人生の最後近くまで、一緒に生きられたとしたら、悲しみや孤独とは無縁の日々が続いたでしょうが、霊的な差はなかなか埋められないのかもしれません。



この世に残された人から見れば、死別は悲劇です。

しかし、霊的には悲劇ではなく試練であり、悲しみを乗り越えていくことで、魂を大きく成長させるという、きわめて重要な意味があります。

先に行った人は、向こうで歩みを止めて、この試練を乗り越えていく姿を、見守っていると思います。

悲しく、つらい日々は無駄なものではなく、その差は少しずつ小さくなっていると考えられます。

そして、差が無くなった時に、神の摂理により、死が訪れることになるのかもしれません。



死の大きな意味は、残された人の魂の成長にもあると思います。

安穏の日々からは学ぶものはなく、つらいことですが、試練の最中に大切なことを、身を持って学びます。

深い悲しみは、魂を目覚めさせ、何よりも大切なことに気付きます。

愛する、愛されること以上に、大切なものはありません。

愛する、愛されること以上の、喜びはありません。

もしかしたら、先に行った人は、この世ですでに学んでいたのかもしれません。



先に行った人の本当の想いは、死によって分かるのであり、その想いこそ残された人が学ぶべきものなのかもしれません。

残された人は先に行った人の想いを学び、この世で表現して、成長していくのかもしれません。

先に行った人の想いを表現していくことで、同じ想いを共有できるようになっていくのかもしれません。

向こうでも、残してきた人の想いに気付き、共有しようとしていると思います。

もし、残された人が向こうに行き、先に行った人との間に、霊的な差があり、想いを共有できなければ、両者を結びつける力は弱いため、末永く一緒にいられないかもしれません。




先に逝った理由は、お互いが離れて本当の想いを知り、そして共有するようになり、魂が、より深く、より強く結びつき、再会の後も永続的に一緒にいられるため、と私は思います。





参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」
         
                        「向こうにいる人の想い」

                        「この世の出来事の意味を知る時」

                        「その一瞬の時のために強く生き抜く」







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