2022年9月25日日曜日

真理で支える


40年以上の付き合いになる親友が深刻な病気になりました。

数か月から1年と余命宣告を受けたそうです。

それまで元気そのものだっただけに、信じられません。



本人は、もっと信じられないはずです。

何で自分がこんな病気になるんだと思っているでしょう。



出来事には偶然はありません。

何かしらの原因があるはずです。

しかし、私が知っている限りでは、思い当たる節はありません。

働き者の、良き父親です。



多くの病気はカルマが原因で起こり、苦痛により罪を償っていると言われます。

もし、罪の償いであるならば、病気で短期間で亡くなり、苦痛のない世界に行ってしまうのは、どこか矛盾しているように思います。

むしろ、病気にならずに、苦痛のあるこの世界を生きていた方が、償いになるような気がします。

きっと、窺い知ることのできない原因(目的)が存在していると思います。



突然、余命宣告をされても、受け入れられるものではありません。

肉体を蝕んで行く病気の苦痛と恐怖に耐えるのは容易なことではありません。

コロナ禍で家族との面会ができないのも堪えています。

精神がぎりぎりまで追いつめられる時があると漏らしていました。

そんな状況になったら、誰でも正気でいるのは難しいと答えました。



以前の私でしたら、このような病気になった人に対して、運が悪かったとしか思えずに、気の毒で、かける言葉も見つからなかったでしょう。

しかし、今は霊的真理を知っています。

必要な言葉をかけることができます。



繰り返し伝えているのは「乗り越えられないことは絶対に起きない」です。

この真理に私も救われました。



真理は普遍です。

いかなる人、いかなる状況においても適応されます。



病気の進行を止めることが難しいのに、どうして乗り越えられるのかと思うかもしれません。

こんな考えがありました。

乗り越えるとは、肉体上の病気が治ることではありません。

今、自分に起きていることを受け入れて、正面から対峙すること、そして肉体を持つために生じてしまう様々な想いを克服しようとすることだと思います。



人がしないような経験を友人はして来ました。

経験したことによって強くなっている魂だからこそ、このような出来事が因果律の働きにより起きたと考えられます。

「弱い人間はこんな病気にならない。強いから絶対に大丈夫だ。」と伝えました。

それでも、何で友人ばかりに、こんな試練が起きるのかと思ってしまいます。



友人が、1番怖れを感じているのは死かもしれません。

死は誰にでも訪れますが、未知のものだけに怖さを感じます。

生命は続いていて、この世より快適な世界で生きることになると、私は知っているので怖くありません。

けれども、この世を一生懸命に生きて来た友人は、あの世について思いめぐらすことなどなかったでしょう。



少し前ですが、仕事で来られた患者さんの中で、印象に残った人がいました。

70代の女性でしたが、お口の中にはたくさんの問題がありました。

治すのには時間も費用もかかることを説明しましたが希望されました。

患者さんは末期がんでした。

長く生きるのは難しいのに、どうしてそこまで治そうとするのかと思いました。



治療中もがんは進行し、腕はひどくむくんでいました。

お力になりたいと思い、思い切ってヒーリングの話をしてみました。

少し驚かれていましたが、了承していただき、遠隔ヒーリングをしました。

幸いなことに、むくみに改善が見られました。



お口の治療が全て終わり、私の部屋に呼んでこれまでの経過について説明しました。

時間に余裕があったので、この先に訪れるであろう「死」について話をしました。

目に視えない力の存在を実感されて、時期が来ていたのでしょうか、死んでも生き続けること、素晴らしい世界が待っていることを受け入れてもらえたようです。

「シルバーバーチの霊訓」も手渡しました。

別れ際に、満面の笑みを浮かべながら、握手を求められました。

びっくりしましたが、うれしかったです。

それから半年くらい経ったでしょうか、新聞のお悔み欄に、その人の名前を見つけました。

私が言っていた世界が現実のものとなり、肉体から解放された喜びを味わっていると思いました。



友人は少しでも長く生きようとしています。

誰もが病気が治ることを望んでいます。

私もヒーリングを行っていますが、病気の進行は驚くほど速く、食い止めるのは困難なようです。

しかるべき時期が来たら、死について話すつもりでいます。

無用な怖れや不安を持って欲しくないからです。



死は不幸なことではない。

寿命は決まっていて、その時が来たら元いた世界に戻るようになっている。

いつ来るのかはわからないが、この世での目的を果たした者が逝くようになっている。

人は永遠に生き続ける。

死んでも、意識や記憶はなくならない。

家族の傍にいられるので別れはない。

そんなことを伝えて、受け入れてくれたのなら、死に対する怖れ、やり切れない思いが少しは和らぐかもしれません。



それでも長く生きていたいと思います。

友人には大学生の娘さんがいます。

この先、就職をして、結婚もするでしょう。

一緒に喜ぶことができないと思うと、たまらなく悔しいでしょう。



こんなことを想像してしまいました。

向こうに行ったとしても、娘さんの結婚式に友人が駆けつけないわけはありません。

誰よりも喜んで、父親としての言葉をかけてやりたいはずです。

不謹慎だと怒られることを覚悟の上で、祝福するビデオレターを作っておくことを提案したいと考えています。

伝えたくても伝えられない自分の想いを、その時のために残しておいた方が良いと思うからです。

もし病気が治ったとしたら、こんなものを作っておいたよと、家族で笑い飛ばしながら観れば良いだけです。

心配をしてバカなことを言ってしまったと、私も謝りたいです。



真理を知っている者にしかできないことがあります。

この世の人生の中で、思いもよらぬ出来事に遭遇し、打ちのめされそうになっている人に真理により寄り添い、支えることができます。



余計な同情はいらない人でも、真理は必要としています。

真実であるがゆえに、魂にまで届きます。

自分だけのものにしてはいけないと思います。

お仕着せにならないように、必要としている人に届けられるべきものです。










2022年9月18日日曜日

意志(思念)から始まる


人間の心は、日々変化しているようです。

朝起きると、心が軽く感じられ、頑張ろうと前向きな気持ちになる日もあれば、心が重く感じられ、何もしようとする気が起きない日もあります。

置かれている状況がそれほど変わらないのに、どうして違うのだろう? と思います。



心が軽い時は生きる力で満たされ、重い時は不足しているのかもしれません。

私たちは生きる力、目に視えない「生命力」によって生かされています。



肉体を動かしているのは、もちろん食物を摂取して得たエネルギーです。

しかし、生命力は食物から作り出されるものではありません。



生命力は神(全体)から供給されています。

その力を受け取っているのは魂です。



地上の人間は、魂と精神と肉体の複合体です。

魂から思念が生じて、それが精神を動かす力となっています。

精神が働いて、肉体に命令が出され、外に向かって表現されることを繰り返しながら、日常生活が営まれています。



思念の素となっているのは、生命力です。

精神を動かしている力と、肉体を動かしている力は別次元のものです。

2つの次元の力により、地上の人は活動をしています。

その証拠に、食物をたくさん食べても、精神活動が活発になるわけではありません。



精神を動かしている力は、魂から供給される力(思念)に依存しています。

つまり、生命力が不足してしまうと、それに伴って精神活動は停滞するようになります。

精神活動が停滞してしまう病気としてうつ病がありますが、その根本的な原因は生命力の不足と考えられます。



それでは、生命力を十分に受け取るにはどうすれば良いのでしょうか?

宇宙は神が顕現したものです。

私たちは、宇宙を構成している極小の一部です。

神の一部として、私たちは存在しているのです。

生命は全体(神)とつながっていて、霊的なネットワークを形成していると考えられます。

そのつながりを通して、生命力を受け取って、私たちは生きています。



全体(神)との間には、いくつかの障壁が存在し、生命力を受け取るのを妨げています。

最も大きな障壁として肉体があります。

肉体には五感があり、そこから入る情報は圧倒的であり、霊的な感覚を著しく低下させています。

そのために、ほとんどの人は生命力を感識することができず、その力によって生かされている事実を知りません。

神や霊界(霊的次元)に意識を向けようとしないので、十分な生命力を受け取るのは難しくなります。



生命力をどれだけ受け取るのかは、魂の資質(霊性)によっても左右されます。

霊性の高い人ほど、神とのつながりが深くなるために、多くの生命力を受け取れると考えられます。



地上の自我も、大きな影響を与えています。

恐怖を感じると、生命力の受け取りが大きく妨げられます。

それに伴い精神活動も抑制されて、何も考えられなくなってしまう時があります。

また不安や心配や取り越し苦労の念が生じると、魂の周囲にバリアのようなものが張り巡らされ、外部から送られてくる生命力の流れを妨げてしまいます。



生命力が不足している時は、全体(神)とのつながりが弱まっています。

そのために、実体のない不安や怖れが生じるかもしれません。

うつ病の人に見られる不安や怖れは、そのために起きている可能性があります。

そう考えるのは、うつ病の人にヒーリングにより生命力を流入させると、精神が安定し不安や怖れが和らぐからです。

外部との接触を断って、家に引きこもってしまう人がいますが、やはり生命力が不足しているために、不安や怖れが生じていると思われます。



生命力とは、内部(魂)から湧き出す力に、外部(霊)から送られてくる力が付加されたものと考えています。

内部から生命力は、何かをしようとする意志が生れた時に湧き出します。

意志を完遂させるために、外部の存在から援助の力が加わる時もあります。

意志(思念)という力が起点となり、内部と外部から力が与えられて、具現化されて行きます。



地上では、自分の意志がないのに、何かをしなければならない時があります。

好きでもない仕事をする時や、命令されたことをただしている時がそうです。

そのような時は、生命力を十分に受け取れずに、精神活動をさせることになります。

長く続くと、生命力が枯渇し始めて、心身に障害が出ることがあります。

過労死という悲惨な出来事は、その状態が極まった時に起きると考えられます。



生命力が枯渇しないためには、「やらされている」のではなく、自分の意志で「やる」という気持ちに転換することが必要と考えられます。

それにより、生命力を受け取れます。



絶望的な状況に陥ると、前向きな気持ちになれず、何をする気も起きないかもしれません。

そうすると、十分な生命力を受け取ることができなくなり、不安や心配が生じてしまいます。

そんな時こそ、「乗り越えられない困難(試練)は与えられない」という真理を思い出して下さい。

そして「乗り越えられる」あるいは「乗り越える」という意志を能動的に持つことが大切です。

そうすることで生命力が供給され、精神活動が再開し、具現化する方向に向かって動き出します。

同じような理由から、病気の人も「絶対に治る」あるいは「必ず退院する」という意志を持つことが大切です。



病気ではないのに、何もやろうとしない状態が続いても、生命力は受け取りにくくなります。

全体(神)とのつながりが希薄になり、不安や怖れが生じてしまう可能性があります。

そんな時には、取り合えず何かを始めてみましょう。

生命力が供給されて、不安や怖れが解消されるかもしれません。

簡単にできるところでは、歩いて○○に行こう、○○を見に行こう、おしゃべりをするのも良いかもしれません。



始めようとすることが、人や動物や社会のためになることであれば、自然法則と一致しています。

神とのつながりが深くなり、さらに生命力が流れ込むはずです。

外部からの援助の力も期待できるでしょう。

生命力で満たされてオーラは輝き出し、不安や怖れは一掃されて行くと思います。



生きている目的は、自分を成長させるためです。

活動をしている中で、成長の機会が訪れます。

何もしなければ、その機会が訪れることがなく、成長は望めません。



生命は活動する宿命を持っています。

休むことは許されても、ずっと留まっていることは許されません。

何もしようとしないのは、自由を束縛されるのと同じで苦しみを感じます。

その苦しみは、自分を変えるように促しています。

後ろではなく前を向くよう、止まっていれば進んで行くよう、自然法則は働いています。



次の世界に行けば、何もしなくても生きられます。

とても楽な世界ですが、ただ生きているだけでは成長しません。

誰かのために、何かをすることで、私たちは成長するようになっています。



地上では肉体があります。

そのために、意識がどうしても自分に向いてしまいます。

何かをしようとする時に、自分の欲求に打ち克つ意志が必要になります。

そして、自分の意志を肉体を通して具現化するためには労力を伴います。

その労力が意志を強くさせます。

地上は意志を強くするのに、適していると考えられます。



待ち受けているのは、思念の世界です。

意志の力により、変わって行く世界です。

意志がなければ、何も始まりません。

地上を経験して強くなった意志は、次の世界をより良くするため、誰かのために、何かをするために活かされます。

次の世界で大きく成長するために、この地上を生きています。



2022年9月11日日曜日

自分を変えるために生まれて来た


毎月、歯医者の勉強会に出席しています。

30歳の頃からですから、かれこれ30年以上になります。

歯医者は1度独立開業してしまえば、自分の仕事を注意されたり、指導されたりすることはなくなります。

何でも自由にできますが、独善的になってしまう可能性があります。

勉強会では、自分のやっている診療内容をスライドで発表して、参加している同業者に見てもらい、客観的に評価してもらいます。

会に入った時は、臨床経験の少ない私がやることは底が浅く、ほころびだらけでした。

発表後に質問を受けるのですが、同業者の見る目は厳しく、未熟さや欠点を突かれて、針のむしろに座っているような気分になりました。

悔しいやら、情けないやらで、落ち込んで帰ることがほとんどでした。

それでもやめなかったのは、自分の診療の質を向上させたかったからであり、患者さんの利益につながると思ったからです。



自分の仕事の未熟さや欠点が指摘されると、心に痛みのようなものを感じます。

プライドが高い人は、反発して、言い争いになる時もあります。

複数の人から同じことを指摘されることがありますが、そんな時は自分が正さなければいけないことがほとんどです。

そこを正して、今度こそ大丈夫だと発表するのですが、また新たな指摘を受けて、悔しい思いをします。

そんなことを繰り返しながら、現在に至っています。

悔しい思い、痛い思いをしましたが、そのおかげで少しはまともな歯医者になれたのではないかと思っています。



仕事だけではなく、人間的にも未熟さや欠点だらけだったと思います。

若い時は、そのことに気付いていませんでした。

親を始め、周りから忠告や助言を受けても、それは人の意見と取り合わなかったこともあります。

耳の痛いことほど真実を突いていて、正さなければいけないことが多いようです。

けれども、素直な気持ちにならないと受け入れることはできません。



人は成長するために生まれて来ています。

より良い自分に変わるためです。

神の摂理に適っていない、成長を妨げている性分を、地上での経験を通して変えて行きます。



例えば、我がままな人がいたとします。

人は他者のために何かをすることで成長しますので、自分のことしか考えない利己的な性分は、自らの成長を妨げていることになります。



我がままな性分が表に出ると、周りの人から反発を受けます。

子供の頃は正直です。

我がままな振る舞いをすると、仲間外れにされてしまいます。

仲間外れにされた子は、孤独と言う苦痛を感じます。

苦痛を感じるのは誰でも嫌なので、どこが悪かったのかを考えるようになります。


いつもケンカになってしまう子がいます。

自分の言うことを全く聞いてくれないので、その子と距離を置くようになります。

どこか、自分と似ているような気がします。

仲間外れになってしまうのはその子と同じで、自分のことばかりを言って人の言うことを聞こうとしないからと思うようになります。

そのことに気付くと、言いたいことを言うだけではなく、人の言うことも聞こうとするようになります。

このように、他者との交わり合いの中で、時に痛い思いをしながら、少しずつ性格が変わって行くのだと思います。



動物の世界ではさらに顕著です。

統率の取れた犬の集団に、単独で生きて来た犬を入れると、全体の調和が乱されることがあります。

そうすると他の犬たちから制裁を受けます。

一見、いじめられているようにも見えますが、苦痛を伴う経験を通して、集団の中で生きる術を学んでいます。

正されると、集団に受け入れられ、全体の調和が取り戻されます。



生まれる前の自分は、改めるべき未熟さや欠点を自覚しています。

敢えて、その部分を前面に出して生まれて来ると考えています

その部分が外に向かって表現されると、因果律の働きにより、他者から反発や指摘を受け、苦しい思いや痛い思いをします。

無意識の内に正して行くことも多いと思います。



ところで、我がままな人に対して、なぜ反発を覚えるのでしょうか?

それは、私たちの心の中に神がいるからだと思います。

我がままな振る舞いは、神の心(愛)に反しているので、自分の中にいる神(良心)が、瞬間的に反応しています。

良心の働きが強い人は、改めるよう忠告するかもしれません。

もしそうであれば、忠告を受けるのは、神から自分の未熟さや欠点を正すように言われているのと同じなのかもしれません。



中には、忠告ではなく、自分の考えを押し付けようとする人もいます。

自我(エゴ)から生じたものであれば、逆に反発を招くことになります。

そうではなく、良心から発せられた言葉ならば、真摯に受け止めなければならないと思います。



今でも忠告を受けることがあります。

長い間、当たり前のようにやって来たことほど、忠告されると反発する気持ちが生まれます。

けれども、冷静に検証してみると、自分の未熟さや進歩のなさが原因であることが多いようです。



今の私には、霊的真理という絶対的な指標があります。

それに照らし合せて、自分に原因があると気付いたのなら、素直に正さなければいけません。

地球に生まれて来ること自体、未熟さの証明であり、自分の生き方や考え方を省みることを忘れてはならないと思います。

それを忘れてしまうと、成長は望めなくなります。

指摘された相手に対して怒りを覚えてしまえば、自分が正当化されて省みることはなくなります。

変わろうとする力が、怒りに転化してしまい、成長する機会を1つ失うことになります。



年齢に関係なく、どのような状況であっても、変わることができます。

変わるために生まれて来たので、変われないはずがありません。

何よりも重要なのは、変わろうとする意志であり、もう変われないと思う自我(エゴ)のささやきに惑わされてはいけません。

もし、変わりたくてもどうしても変わることができずに、苦しい思いをしているのであれば、それは過去生の償いをしている可能性があります。

そうであれば、気付くことができず、変わることも許されません。



私たちが死後に赴く霊界では、周りには自分と類似した魂しかいません。

自分と同じ未熟さや欠点を持っているので、指摘する人も気付かせる人もいないと考えられます。

自分と違う人たちがいる地上に生まれて、他者に気付かせてもらう必要があったのかもしれません。

死んだ後、人生を振り返る時が来ます。

あの場面であの人に言われた一言は、自分が変わるために必要だったと気付くでしょう。



自分が好ましい方向に変わることで、ほんのわずかですが、世界も好ましい方向に変わります。

自分も全体を構成している一部だからです。

個々の変化が集積して行くことで、世の中も少しずつ変化して行きます。



自分を変えるのは、なかなか難しいものです。

現状のままの方が楽であり、リスクも少ないからです。

そこで、神は因果律の働きにより、苦しみや痛みを与えて、変わるように促していると考えられます。

苦痛のない向こうの世界では、思うように変われないので、地上に生まれることを自らが志願していたと思われます。



死ぬ時までに、生まれる前に思い描いたように自分が変わることができたのなら、地上での目的を果たしたことになり、深い悦びに満たされるはずです。


2022年9月4日日曜日

より高みを目指して


「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった」と始まる小説があります。

私たちも「死」と言うトンネルをくぐり抜ける時が来ます。



出口では、先に行った親しい人たちが待っています。

再会の歓びにしばし浸り、その時から新しい生活が始まります。



向こうの世界に行くと、食べて行くために働く必要がなくなります。

肉体はなくなるので病気にもならず、疲れることもありません。

煩わしい人間関係も全くありません。



この世と比べて、何と快適な世界でしょうか。

知るほどに、早く行きたいと思ってしまいます。

けれども、寿命が来るまで待たなければいけません。



この世に生まれて来る時は、向こうの世界からトンネルに入ります。

出口では、お母さんが待っています。

赤ちゃんが大きな産声を上げると、やっと生まれて来たと安堵し、喜びに包まれます。

霊的真理を知った今、そんな赤ちゃんの姿を見ていると、大変なこの世に生まれて来たと泣き叫んでいるようにも思えてしまいます。




私たちは、自分に足りない資質を身に付けるため、あるいは弱い部分を強くするために、この世を生きています。

それに相応しい環境を選んで生まれて来ます。

けれども、飢餓でやせ細っている子供たちの写真を見ていると、本当にこの環境を選んで生まれて来たのだろうか?と、疑問が湧いたことがあります。



「自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。」と、シルバーバーチは言っています。

過去の過ちを償うための魂もいるかもしれませんが、大切なことを学ぶために、敢えてこの逆境を選んだ魂もいるはずです。

実際に経験しなければ判らないことがあり、大人になった時、あるいは次に生まれた時に、貧しい人たち、弱い人たち、苦しんでいる人たちのために貢献する強力な動機付けとなるからです。



子供の虐待のニュースほど、心を痛めるものはありません。

自分を傷つける親の元に、生まれたい子供がいるのかと思ってしまいます。

過去生で縁があり、何か目的(原因)があって親子になる場合もあるのでしょうが、そればかりではありません。

生まれて来る前と、変わってしまった親もいると思います。



受胎は自然現象です。

自然法則の下で起きているので、もし子供を育てることができなければ、受胎することはないはずです。

子育ては、自分より子供を優先することを強いられます。

自我との葛藤の連続のように感じられます。

葛藤に負けて、自我を優先してしまうと、良心の呵責が生じますが、それを苦しみとして感じます。

苦しみの原因が子供にあると勘違いをして、悲しいことに虐待に及ぶ親がいると思います。

自我剥き出しで、過った自由意志を行使し続けると、生まれて来た時とは違う親になってしまいます。

信じて選んだ子供が裏切られたことになります。

自分以外のために何かをすることで人は成長しますが、その機会を逃して、罪を作っている人もいると思います。



困難や障害を正面から受け止め、対峙して行くことでも、魂は成長して行きます。

成長するためにこの世に生まれて来たので、起きて欲しくないような出来事が起きるようになっています。

苦しみを伴う出来事が起きた時に、生まれて来た目的を果たすための機会が訪れたと捉えて臨むことが大切と思われます。



しかしながら、多くの人は楽しいことだけが起きる人生を望んでいます。

それだけの人生なんてあり得ません。

どこかで苦しみを伴う出来事が起きるのがこの世です。



水の中に放り込まれて、泳げなければ溺れてしまいます。

水を飲んで苦しみながらも、息ができるような体の動かし方を見つけ出そうとします。

必死にもがいている最中で、生きるために必要なスキルを身に付けています。



人生も同じです。

苦しみの中でもがいている時に、生きるために必要な資質を身に付けています。



もし、人生で起きる全ての出来事に、何の苦しみも感じないのであれば、身に付けるものはもうないので、その人はこの世に生まれて来る必要はないと思います。

苦しみを感じるのは、まだ成長する余地が残されているからです。

出来事を乗り越えようとする中で魂は成長し、次第に苦しみが和らいで来ます。

苦しみを楽しむなど、器用なことは私にはできませんが、苦しみの意味を正しく理解することで、立ち向かう勇気が出ます。




この世の人生は山登りのようです。

坂道を登っている時は、息が上がって苦しいです。

木立に囲まれ景色も見えず、自分がどの辺にいるのかさえも判らない時があります。

坂道が続いて、やっと終わったと思ったら、目の前にまた坂道が現われます。

疲れてしまい、これ以上登れないと思ってしまう時もあるでしょう。


忘れはいけません。

登って行ける人にしか、坂道は現れません。

次に現れた坂道は、今までより急かもしれませんが、鍛えられて、登れるようになったから現れたのです。

どんなに急だとしても、必ず登っていけます。



平穏無事な人生は、平坦な道を歩いているようなものです。

楽ですが、高みに行くことはできません。

それでは、この世に生まれて来た意味がありません。



どれくらいの坂道を登って来たのでしょうか。

疲れ果てて動けなくなっています。

それでも急な坂道は続いて、這いつくばりながら、登って行くことになります。

これ以上無理だと、最後の力を振り絞って登り切った瞬間、頂上に着くようになっているのかもしれません。


そこから見る景色は、言葉にならないでしょう。

あの苦しかった出来事が、高みへと向かわせていたことに気付きます。

苦しい思い、つらい思いをした人ほど、この世から解放された悦びは大きいものになります。



生まれる前の自分より、強く優しくなっています。

自然法則の働きにより、完全に報われていたことを知ります。

背後に控えていた、限りなく大きな存在を感じて、思わず感謝するでしょう。



より険しい山を目指す登山者がいます。

大変なのは分かっていて、危険を冒してでも登りたいのは、さらに技術を向上させたいからです。

より高い場所に立ってみたいからです。



この世の人も同じです。

快適な向こうの世界を離れて、苦の多いこの世に生まれて来るのは、さまざまな出来事を乗り越えて魂を向上進化させるためです。

より高い世界に行きたいからです。







2022年8月28日日曜日

愛する人を亡くした苦しみ


このブログには、今までにたくさんの方からコメントを送っていただいています。

その中には、大切な人を亡くされて、深い悲しみの中にいる方もいます。



そんな方に、繰り返しお伝えして来たことがあります。

「亡くなった人は生きていて、また会える」と言うことです。



ボールを空に向かって投げたら、地面に向かって落ちて来ます。

この当たり前の自然現象は、万有引力の法則の働きによるものです。



死とは、身体機能の永久的な停止です。

実態は、生命体(肉体)から生命(魂)が完全に分離する現象です。

死と言う自然現象は、自然法則の働きによって起きています。



空に向かって投げられたボールは、目に視えない引力によって、地面に引き寄せられるように、目に視えない愛という力によって、魂は引き寄せられます。

世の中には絶対はないと言われますが、自然法則の働きは絶対です。

肉体から分離した生命(魂)は、変わりなく存在しています。

次の世界に行った時に、親愛の想いがあれば、両者は引き寄せられます。

自然法則の働きにより、100%会えるのです。



目の前から、大切な人がいなくなってしまえば、悲しくなるのは当然です。

悲しいだけでなく、苦しい思いをしている人がいます。

「こうしておけば良かった」、「あんなこと言わなければ良かった」と思い出しては後悔し、苦しんでいる人も少なくありません。



2度と会えないのであれば、そう思っても仕方がないでしょう。

現実はそうではありません。

悔やんでいることがあれば、再会した時に謝ることもできます。

伝えられなかった想いも伝えられます。



でも、その必要もないのかもしれません。

伝えられなかった想いは、もう伝わっているからです。

謝らなくても、とっくに許されているのかもしれません。



大切な人を失うと、さまざまな想いが生まれます。

時には、ぶつけようのない怒りが高じて、神を恨んでしまう人もいます。

運命を呪ってしまう人もいます。

妬んでしまう人もいるでしょう。

それらの想いに因果律が働いて苦しみが生じてしまいます。



私たちが生まれて来た目的は、霊的に成長するためです。

足りない資質を身に付け、自分(魂)を強くさせるためです。

そのための最善の計画が立てられます。



目的を成就するために、相応しい出来事を経験することになります。

足りない資質は人によって違うので、経験する出来事も違って来ます。

人生がそれぞれ違うのは当然であり、比べても意味がありません。



生まれる前の自分は、人生の計画を了承しています。

自分の意志で決めていたことに、因果律が働いて、目的を成就するための出来事が起こります。




見ず知らずの人が死んだとしても、涙は流れません。

悲しみが生まれるのは、親愛の想いがあるからです。

別れによって、お互いの想いを伝えられなくなります。

行き場を失った愛が、深い悲しみとなり、涙となって表現されているような気がします。

悲しみを通して愛を学ぶために、最も相応しい経験が別れなのかもしれません。

この世界で最も大切で価値のあるものは何かを、魂に刻み込んで行きます。



眩しい日差しの中では、キャンドルが灯っていても気付きません。

周りが暗くなると、光り輝いています。

変えようのない現実が突き付けられ、明日をも知れない真っ暗闇の日々の中で見つけられる真実があります。

悲しみの極みで、大切なものは全く失われておらず、永遠であることに気付きます。



以前、長年連れ添った奥様を亡くされた方からコメントをいただきました。

そこに「肉体と精神を持った自分と、精神だけの妻と一緒に生きていると言う気持ちでいる」と書かれていました。

「魂」と言う言葉は使われていませんが、姿は視えなくても奥様は生きていて、傍にいることを確信されています。

1人暮らしをされていますが、存在を感じながら、話しかけているそうです。

寂しい時や、悲しい時はあるでしょうが、真実を知っているので、苦しみからは解放されていると思いました。




一方、この世が全てであり、死んだら無になると思っている人は、大切な人を亡くすと、ひどく苦しんでしまうように思います

全てが終わったと思って、絶望してしまうからです。

この世は理不尽で、不公平な世界に思えてしまいます。




苦しみの多くは、真実を知らない、あるいは信じられないことから生じています。

魂の存在は証明されていないので、信じられないと言う人もいるでしょう。

証明されていないものは、本当に存在しないのでしょうか?

愛の存在は客観的に証明されていません。

魂の存在を信じられない人は、愛も存在していないと思っているのでしょうか?



ほとんどの人は、愛を実感しています。

魂の存在も、確かめられるものではなく、実感するものです。

魂が存在しないのであれば、愛も存在しません。

なぜなら、愛は魂から生まれている霊的な力だからです。

愛を実感しているのは、魂だからです。



証明できないものは、信じるしかありません。

亡くなった人は、五感で感じられないだけであり、生きています。

地上の人の想いを受け取ることもできます。



人は、愛することができないことに、大きな苦しみを感じます。

愛することは生きる意味そのものであり、魂の成長と深くかかわっているからです。



苦しんでいるのであれば、大切な人は今も生きている、想いは届いていると、強く信じましょう。

心から信じられたのならば、苦しみが和らぐはずです。

信じることで、愛することができるからです。

愛することができない苦しみから、解放されるからです。



信じることで、つながりを取り戻しましょう。

向こうから届いている愛により、魂は癒されて、苦しみは和らぐでしょう。




2022年8月21日日曜日

霊的真理を伝える その2


今から十数年前のことです。

顎が痛いと、中学生の女の子が私の医院を訪れました。

その付き添いでお母さんが来ていました。

診療台の傍で、「少し前にこの子の父親が亡くなった」と話されました。

突然死だったそうです。

そして、以前、ご主人が私の甥にピアノを教えていたと話されました。

お父さんがいなくなったストレスで歯ぎしりをして、その負担が顎の関節にかかり、痛みを出している可能性があると考えました。



いつものような歯医者と患者さんとの会話ですが、霊的な意味が隠されていました。

初対面で、ご主人が亡くなったことを話すのはあり得ないことではありません。

けれども、どうしても私に伝えたかったことのように、私には感じられました。

別な目的があって。ここに来ているのではないかと感じました。

もしかしたら、ご主人が伝えたいことがあるのかもしれないと思いました。



その時は、向こうに行った人からのメッセージを受け取ったことはありませんでした。

それから、数日後の朝のことです。

起きかけでまどろんでいる時に、何の脈絡もなくある単語が心の中に生まれました。

ご主人に関係するものと、なぜだか判りました。

その言葉は専門的な言い回しであり、偶然、思い付くような類のものではありません。

何回も心の中で復唱して記憶しました。



この単語を、奥様に伝えなくてはならないと思いました。

甥がお世話になった関係で、義姉がお線香を上げに行くと聞いたので、その単語を伝えてもらうことにしました。



それから数日後のことです。

「何か伝えたいことがあれば、私でよろしければ伝えて下さい」と、ご主人に向かって心の中で言いました。

すると、メッセージが次から次へと心の中に浮かんで来ました。

それを書き留めて行くと、短い手紙のようになりました。



先にお伝えした単語は、ご主人からのものと確信を得るのに足るものだったようです。

次にお会いした時の奥様の眼差しは、生を確信しているように見えました。

お子さんが治療が終わった後、受け取ったメッセージを読み上げる形でご家族にお伝えしました。



そのメッセージは、お子さんに向けられたものでしたが、自分にもお子さんにも厳しいお人柄のようなものを感じられました。

ボロボロと涙を流しながら、お子さんは聞いていました。



どんな内容だったのか、今となっては思い出せませんが、その時にはっきりと判ったことがあります。

死によって、生前の関係はいささかも失われていません。

肉体がなくなっても、変わりなくお父さんであり、ご主人です。

向こうに行っても、大切な家族に変わりはありません。



後日、奥様とお会いする機会があり、興味深い話をされていました。

海外でご主人と出会ったそうですが、会った瞬間、この人と結婚すると思ったそうです。

そして、ご主人は亡くなる数ヶ月前から「時間がない」としきりに言っていたそうです。

シルバーバーチの霊訓に書いてあるように、人生にはおよそのシナリオ(青写真)があり、寿命も決まっている、そのことを魂は知っていると思いました。



この出来事を通して、奥様の魂が目覚めているような気がしました。

そこで、シルバーバーチの霊訓(1)をお渡しすることにしました。

しばらくしてから、家に電話がありました。

私は留守でしたが「本に書いてあることが良く判りましたと伝えて下さい」と言うことでした。

それを聞いて、真理を受け入れる時期が来ていたと思い、無性にうれしくなりました。

これが霊的真理が伝えられたと実感した初めての出来事です。

霊界の導きなしにはあり得ません。



霊的なことを書いた本は有り余るほどあります。

今は、インターネットで霊的な情報も簡単に手に入れることができます。

しかし、霊的な情報は、何が正しくて、何が間違っているのか、判断するのが困難です。

真偽を客観的に証明することができないことばかりなので、騙されやすいのです。



霊界の人たちは、真理を受け入れる時期が来た人が判っています。

いかにして、真理に辿り着かせるのかが問題です。

間違ったところに接触してしまうと、一生を棒に振ることになりかねないのは、昨今のニュースを観れば明らかです。

何としてでも真理に導こうとしているはずです。



私の場合、インターネットでスピリチュアリズム普及会(旧心の道場)さんのHPを見つけて出会うことができました。

綿密な計画の元に、導かれていたと思います。

「シルバーバーチの霊訓」に導いたのは、霊界で最も真理に近いと認識されているからと考えています。



導きとは、地上の人が霊界の意図した通りに行動に移すための働きかけと考えています。

真理を受け入れる時期が来た人が、真理の在りかに導かれます。



前述の奥様と面識はありませんでした。

甥とご主人との間に、先生と生徒という関係がありました。

お子さんの顎の痛みが生じたことにより、私との間に接点ができたことになります。

あとは、私がいる医院に導くだけです。



導きの多くは、インスピレーションにより行われています。

もしかしたら、こんな風に導いていたのかもしれません。

歯医者を探している時に、ご主人の生徒の一人であった私の甥のイメージを奥様に送り続けます。

そのイメージが認識されて、甥の父親が歯医者だったことを思い出します。

そこに行くのを促すようなインスピレーションを吹き込み、電話をかけさせます。



仕事場で、初めて私と会うことになります。

そこで、ご主人が亡くなったことを話したくなる衝動が生まれるインスピレーションを吹き込みます。

思わず話したくなり、そのことを伝えます。



初対面の人からこのような話を聞くとは、私も思っていませんでした。

それが逆に、何かあるのではと思うことにつながりました。

亡くなったご主人が伝えたいことがあるのではと思うのに、時間はかかりませんでした。

霊界からのインスピレーションによる働きかけが、私にもあったと思います。



導きとは「○○と会った方が良いよ」と言葉で言われるのとは全く違います。

特別な理由もなく、会いたくなったり、行きたくなったりした時には、それは導きによるものかもしれません。

霊界からインスピレーションが伝わって来ると、思考を介さずに、行動を起こす衝動が生まれるからです。



霊的真理の伝道は、霊界主導で行われます。

真理を受け入れる時期が来た人と真理を伝えられる人の両者を結びつけるために、霊界であらゆる可能性が模索されていると考えられます。



出会いは偶然ではなく、霊界の導きによるものかもしれないことを、伝える人は常に意識していなければいけないと思います。

何かの衝動に駆られるようにして自分の元を訪れ、身に起きた出来事を伝えようとしているのは、霊的な目的があってのことなのかもしれません。

そんな人がいたら、相応しい真理を伝えるようにしましょう。



真理を受け入れる時期が来ているのかどうかは、地上の人には判りません。

来ていない人に真理を伝えると、意外な顔をしたり、拒否をするかもしれません。

それで良いと思います。

種を蒔いたことになり、雨が降った時に芽を出すかもしれないからです。



とにかく霊界の導きを無駄にはしていけないのです。

真理を伝えて、そっと見守りましょう。

幸運にも受け入れられたなら、内面に変革が起きるはずです。



大切なことは知識の深さではなく想いです。

「真理を伝えたい」その想いが霊界に届き、相応しい人を導いて来ます。





2022年8月14日日曜日

世界を変えて行くもの


ある慈善団体からメールが届きました。

某国の難民キャンプで、女性や子供たちが安全に過ごせるための施設を作るための寄付のお願いでした。

このようなメールが毎日のように届きますが、見る度に、何とかしてやりたいと思う気持ちと、いくら寄付をしてもきりがないと思う気持ちが生まれます。



貧困は、お金で解決できる問題のはずです。

もし、世界中で余っているお金を、足りないところに回すようなシステムが構築されたのならば、たちどころに解決するでしょう。

それができないのは、お金を貯めようとする欲求が人間にあるからです。

お金を持っていないと不安を感じてしまう人が多いからです。



命の次に大切なものはお金と言う人は少なくありません。

確かに、お金があれば、食べるのに不自由はしないし、欲しいものは何でも買えます。

この世を生きて行く上で必要なものですが、必要以上に持とうとすることが、多くの問題を引き起こしているように見えます。

お金が偏在してしまうことで、貧困や飢餓が生まれていると思います。



地球温暖化は、物を所有していると幸福だと思う、人間の幻想から生まれているのかもしれません。

生きて行く上で必要なものは、それほど多くありません。

余分なものを持とうとすることで、地球環境は確実に悪化して行きます。



これからは物質ではなく、無形のものに価値を見い出す世界に変わって行くような気がします。

物質中心の社会に、違和感や戸惑いを覚える人が多くなっていると感じるからです。



「SDGs(持続可能な開発目標)」という言葉が良く聞かれるようになりました。

これは2015年の国連サミットで採択されたものであり、世界で起こっている重要な問題を併記したものです。

7つの大きな目標がありますが、上位の3つを挙げてみます。

1.貧困をなくそう

2.飢餓をゼロに

3.全ての人に健康と福祉を



霊界の人が、地上を見て憂いていることと同じだと感じました。

これらの問題は、今に始まったことではなく、私が子供の頃からありました。

一向になくならないのは、地上の人には自我(エゴ)があり、自分のことを優先してしまうためだと思います。

目に視えるものだけを信じてしまう地上の人たちを何とかしなければいけないと、霊界の人たちは強く思っているでしょう。



SDGs年代別意識調査

上記の調査結果から、若い世代の人たちほど意識が高いのが判ります。

10代は調査対象となっていませんが、恐らくは20代より高い数値だと思います。(別の調査で高校生を対象に行ったところ、知らないと答えた人はわずか14%でした)

上の世代とは、明らかに意識が違うような気がします。



若い世代の人たちの中には、現状に不満を感じて、何とかしなければならいと行動する人たちがいます。

グレタさん(ギズモード・ジャパンより)

写真は環境活動家のグレタさんです。

活動を始めたのは、わずか15才です。

この年齢で、これだけの影響力のある人を、私は見たことがありません。

地球環境の悪化を食い止めるという、大きな使命を持って彼女は生まれて来ていると思います。

共感する子供たち(フロントロウより)

1人の目立ちたがり屋のパフォーマンスでないことは、彼女の訴えに共鳴する子供たちがたくさんいることからも判ります。

多くの子供たちが感じていることを、彼女が代弁しているように見えます。

大人たちが変えられなかった世界を、自分たちが変えて行きたいのだと思います。

    


マララさん(国連広報センターのHPより)
パキスタン出身ののマララさんです。

彼女は10代で、タリバンによる女性教育弾圧に反対しました。

そのために15歳の時、下校中にタリバンから銃撃を受けました。

自分の命が脅かされる危険を冒してでも、信念を曲げずに訴え続けているのは、弾圧から女性を解放する使命を持って生まれて来たからだと思います。




大人たちは、ことの重大性に気付いていないように感じます。

いや、気付いているけれども、適当にごまかしていて、いつまで経っても変えようとしないのかもしれません。

それに業を煮やした人たちが、世界を変えようとして、続々と生まれて来ているように思います。

長く生きている人の方が、若い人たちよりも、世の中のことが良く判っていると思うのは大きな間違いです。




人類の霊性は、過去よりも現在、現在よりも未来の方が高まっているはずです。

今、生きている人たちよりも、霊性の高い人たちが生まれて来ると、現状に不満を持つことになります。

そして、変えようとする機運が高まり、やがて行動に移します。

行動に移す人が増えるのに従い、現状が少しずつ変わって行きます。

その営みを繰り返しながら、世界は変わり続けていると思います。




人生の途中で、大切なことに気付く人もいます。

救われない、つらい経験をしている時が、その好機となります。

苦しみや痛みや悲しみは、人間の奥深くにある霊的な部分に深甚な影響を与えています。




そこに外部から霊力の働きかけがあると、一気に目覚める時があります。

為すすべのない病気が癒されると、魂が目覚める時があります。

悲しみの極みにいる人が、亡き人からメッセージを受け取ると、魂が目覚める時があります。

目覚めた魂が、目に視えない大切なことに気付きます。




目に視えない大切なことを包摂しているのが、霊的真理です。

霊的真理とは霊的な法則であり、神の摂理です。

霊的な法則が働いていることを知らない人たちが、あまりにも多いのです。

そんな人たちが、次から次へと問題を起こしています。




死んで終わりになることはありません。

地上的なものを全て置いて、魂1つで次の世界に行くことになります。

生きている時に、想ったこと、言ったこと、行ったことに対して法則が働いています。

人を傷つけたり、社会に悪い影響を与えたのなら、相応の償いが生じることになります。

人や動物や社会のために貢献したのなら、その報いとして霊的成長がもたらされます。

もし、そのことが常識として受け入れられたのなら、愚かな過ちを犯す人は激減して、望ましい世界になるはずです。




霊界の願いは、地上世界に霊的真理が普及することです。

地上を悩ましている全ての問題が、霊的真理が実践されることにより、解決するからです。

現時点で、最も端的に霊的真理を著しているのが「シルバーバーチの霊訓」と考えています。

真理の在りかを知らない人たちに教えるのは、極めて重要な実践だと思います。






2022年8月7日日曜日

ヒーリングの目的


約17年前のことです。

ある朝、起きたら左手がしびれていました。

仕事で首を傾けていることが多いので、頚椎に障害が起こり、しびれが出たのかと思いました。



その感覚は、寒い冬の日に冷え切った体で風呂に入って温まって来た時に、手足がジンジンとしびれますが、それに近いものでした。

ところが、しびれは肩から上腕、上腕から前腕、前腕から手指の先へと、ゆっくりとした速さで移動して行きます。

何か力のようなものが流れていると感じました。



インターネットで調べてみて、これではと思ったのが「ヒーリング」でした。

ヒーリングに関しては、全く興味もなく、知識もありませんでした。

自分に何が起こっているのか、どうしても知りたくなり、辿り着いたのが「シルバーバーチの霊訓」でした。



手にした時、「霊訓」の響きにオカルト的な本ではないかと思いました。

その中に、「ヒーリングは魂を目覚めさせるためにある」と書かれていましたが、何の意味だかさっぱり分りませんでした。

ただ、本を広げては、目で文字を追っているだけでした。



そんな中、仕事で疑義が発生して、行政による指導の通知が送られて来ました。

何もやましいことはしていないので、直ぐに終わるだろうと思っていました。

ところが、予想に反して、事態は悪い方向へと進んで行きました。

徐々に、精神的に追い詰められて行くことになります。



同じ指導を受けて、過去に自殺した人がいることは知っていました。

まさか自分が当事者になるとは思ってもいませんでしたが、受けてみてその理由が良く判りました。

過去の行状が明らかにされて行くにつれて、今まで味わったことのない重圧、苦しみ、後悔の念が生じました。



後悔は、良心の訴えを無視したことから生じます。

心の中で、確かに良心は訴えていました。

それを「誰もがやっていることだから」と、いい加減な理由を付けて、無視してしまったのです。



無視し続けると、いつしか良心の声は聴こえなくなり、当たり前になってしまいます。

積み重なった過ちは、因果律の働きで、正確無比に結果をもたらします。

下された処分は想定された中で最も重いものであり、仕事を続けて行く上で、致命的なものでした。



それまで目で文字を追うだけのシルバーバーチの霊訓でしたが、窮地に追い込まれるのに従い、真実味を持って私の心に迫って来ました。

「原因があれば結果をもたらす」「結果には原因がある」という真理が、痛いほど判るようになりました。



こんなことも書かれていました。

「乗り越えられない困難は起こらない」

今まで経験したことのない絶望の日々を、この一文にすがるようにして生きるようになりました。



過ちに気付いて、正すために最も有効な手段は、痛い思いをすること、この経験を通してそう思いました。

地上に生まれて来るのはそのためです。

誰かに教えてもらうよりも、自らが実際に経験して得た教訓の方が、しっかりと身に付きます。



霊的真理を少しずつ学んで行くと同時に、縁のある方にヒーリングをするようになりました。

病気や不調を来している人に、左手を当てると、力が流れ始めます。

終わるころには、不調が消え顔が明るくなる様子に、ささやかな喜びを感じました。



「ヒーリングを必要としている人は導かれて来る」

シルバーバーチの霊訓にはそう書かれていますが、その通りです。

出会いは偶然ではなく、時期が来た人が霊界によって導かれて、ヒーリングを受けることになります。

そんな人は、病気が治るだけでなく、生き方が変わります。



けれども、ヒーリングによって全ての人が癒されるわけではありません。

全ての病気や不調は、因果律の働きで起きています。

お酒を飲み過ぎて肝臓病になる人がいますが、それは生物学的法則を逸脱したことが原因です。

過ちに気付いて改めない限り、ヒーリングをいくら行っても治ることはありません。



原因が生まれる前に存在する人もいます。

過去生で何らかの過ちを犯して、その償いのために病気の苦痛を経験している人もいます。

あるいは、学びや成長を得るために、病気になることを予め決めて生まれて来た人もいます。

そんな人に、ヒーリングを行っても治ることはありません。



はっきりとした原因が見当たらないのに、病気や不調が生じることもあります。

地上の人間は魂(霊)、精神、肉体の複合体です。

魂で思念(想い)が生まれ、それが精神で具体化され、肉体で具現化されます。

思念(想い)は、肉体で具現化される素となるエネルギーと言えます。



本来は魂(霊)と精神と肉体が一直線で結ばれていて、思念が精神を経由し、円滑に肉体で表現されるはずです。

ところが、精神(自我)が抑制的に働いてしまい、思念が肉体によって具現化されない時があります。

心の底からやりたいことができない、あるいは心の底からやりたくないことをしなければいけない時がそれに当たります。

そうなると思念というエネルギーは発散されずに、内に滞ってしまいます。



生命エネルギーは、魂から精神、精神から肉体へと循環しています。

内に滞った思念は、その流れを妨げてしまうと考えられます。

生命エネルギーの流れが妨げられてしまうと、その下流に相当する肉体の部位に不調や障害や病気として現れることになると思います。



地上では様々な出来事が起きます。

その時に「感情」が生じます。

感情は精神的エネルギーの一種です。

感情は、言葉や行動などで表現されることによって、肉体(地上)的なエネルギーに変換されます。

悲しみが生まれたら、涙を流すことによって表現されて、外に向かって放たれます。

怒りなどは、言葉や行動によって表現すると社会生活に支障が出るために、内に溜まりやすい感情と言えます。



ストレスが溜まるとは、言葉や行動で表現できないエネルギー(感情)が溜まった状態を指すと考えています。

ストレスを発散するとは、そのエネルギーを別の形で表現して、外に出すことだと考えています。


心身の具合が悪い人の中には、さまざまな心のエネルギーが溜まってしまい、不調和を起こしている人が多いと考えられます。

心のエネルギーが内部に溜まった状態が続いてしまうと、生命エネルギーの循環は妨げられ、肉体上に変化が生じてしまうと考えられます。



それらの想いが生じなければ良いはずです。

例えば、怒りは寛容になるほど生じにくくなります。

そのためには魂の向上が伴わなければいけませんが、一朝一夕に行くものではありません。



自然法則の働きにより、苦しみを乗り越えて行く過程で、魂は向上します。

病気による苦を経験することによって魂が向上し、同じような出来事が起きたとしても、同じ感情は生じなくなります。

心身の苦痛から、魂が目覚める人もいます。

魂が目覚めると、生命力がふんだんに流れ込み、滞っていた心のエネルギー(負の感情)は解放されます。

魂から精神、精神から肉体へと流れるエネルギーの循環が回復し、内面が健全さを取り戻すと、それが外面に反映され肉体の病気が治ることになります。



ヒーリングとは、強制的に生命力を流入させる行為です。

霊界の人たちによって、力の最適化が執り行われていると思います。

その力によって、滞っていたエネルギーは心から切り離されて、解放されます。

気分が晴れやかになるのは、そのためと考えられます。

                                        

生命力は神的な力です。

そのために愛を帯びています。

滞っていた心のエネルギー(負の感情)は、愛を帯びたエネルギーによって解放されると考えられます。



病気だけではありません。

戦争、貧困など、人間を悩ましている全ての問題を解決するのも愛の力です。

苦しみや痛みのある地上に生まれて来るのは、愛の意味を深く学ぶためです。



「ヒーリングは魂を目覚めさせるためにある」

今はこの意味が、はっきりと判ります。

霊的な力が、人間の霊的な部分に働いて、霊的に目覚めさせる。

霊的に目覚めると、この世に生まれて来た目的を成就して行くようになります。



霊的な能力は、眠っている魂を目覚めさせるためにあります。

目覚めた魂が、霊的真理を受け入れます。



生まれて来た目的は、霊的真理を普及させるためです。

その目的を成就するために、出来事は計画された通りに起きています。






2022年7月31日日曜日

後悔をしないために


「何のために生きているのだろう?」

若い時に、自分に問いかける時がありました。

慌ただしく生きて行く中で、そんなことなど考えなくなりました。

17年前に人生を変えるような出来事が起こりました。

そして、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に出会いました.

その本の中に、若い時の問いに対する答えを見つけました。



私たちは、肉体を失っても生き続けます。

これは変えようのない事実です。

生きている目的は、地上でしか経験できないことを経験し、そこから大切な教訓を学び、成長するためです。

そのために、地上ではさまざまな出来事が起きるようになっています。



出来事が起きると、自分なりに対応します。

けれども、後になって「こうすれば良かった」「あんなことをしなければ良かった」と思うことも少なくありません。

人は皆、後悔のない人生を送ろうと思っていますが、後悔するような行動を取ってしまいます。

そんな未熟なところがあるからこそ、この世に生まれて来ているのかもしれません。


後悔しないように生きるのには、どうすれば良いのでしょうか?

自分に正直に生きることが大切と考えられます。



自分に正直に生きるとは、どういうことなのでしょうか?

心の奥から発せられている「本当の自分の声」に従うことだと思います。



声と言っても耳で聴こえるものではありません。

心の奥底で湧き上がる「想い」あるいは「衝動」と言って良いのかもしれません。

良心も、その声の一部です。



自分の進むべき方向を、その声は指し示しています。

けれども、その方向は困難や障害やリスクを伴うことが多いです。



人間は、「魂」「精神」「肉体」の複合体です。

本当の自分の声は、魂から発せられています。

魂から生じている思念を、肉体で表現するための媒体として精神が存在しています。

精神上に、パーソナリティーと言える「地上的な自我」(以下自我)が形成されていると考えられます。



地上では本当の自分の声だけでなく、自我の声も聴こえます。

自我の声は、本当の自分の声とは違う方向に進んで行かせようとすることがあります。

それは、決まって安全で楽な方向です。

自我と肉体が密接な関係にあるため、自分の身を守ろうとする傾向があるからです。

「きっと上手く行かない」

「(上手く行かなかったら)恥をかくのでやめておこう」

そんなことを考えては、本当の自分の声に抗おうとする時があります。

自分に正直に生きようとするならば、そんな自我の声に負けないようにしなければいけません。



通勤の時、駅の階段でうずくまっていた人を見かけたとします。

心の中で「助けよう」と声がします。

その後に「関わっている暇はない」と声がします。

助けるのか、立ち去るのか、葛藤する時があります。



日常の生活でも、葛藤を感じる時があります。

先日も、他者の不利益になるかもしれない行動をしようとする自分に、それで良いのかと咎める声がしました。

その後に、もっともらしい言い訳を考えて、咎める声を打ち消そうとする声がしました。

初めにした(咎める)声に従うと、後戻りしなければいけません。

大変になりそうなので、後からした声の方に従いたくなりました。

それでも、初めにした声に素直に従いました。

後悔しなくて済んだので、それで良かったと思います。



自我が強くなり過ぎて、本当の自分の声が聴こえなくなっている時があります。(強くなり過ぎた自我をエゴと呼んでいるものかもしれません)

成長を妨げているのであれば、因果律が働いて、苦しみや痛みを伴う出来事が起きる可能性があります。

人によっては病気になり、苦痛を経験することになります。

苦痛によって魂が目覚め、本当の自分の声が聴こえるようになり、再び成長が始まる人もいるでしょう。



後悔しないためには、今を真剣に生きなければいけません。

しかしながら、人は過去や未来に捉われてしまいがちです。

過去は完全に閉じられていて、変えることはできせん。

考えてもどうしようもない過去のことを、つい考えてしまいます。

そして、どうなるのか分からない未来のことを予測しては、怖れや不安を抱いたりします。

それらの情動も、自我の働きによるものと考えられます。



過去や将来に捉われるのがいけないのは、今を生きる力が奪われてしまうからです。

私たちがどうにかすることができるのは、今しかありません。

今をどう生きるかによって、未来の自分が決まります。

過去や未来ではなく、今に意識を向ける不断の努力が必要です。



不安や怖れを克服して行くことは、地上に生まれた大きな目的の1つだと考えられます。

元にいた世界は、(地上的な)自我は存在しないので、不安や怖れが生じません。

聴こえるのは本当の自分の声だけです。

自分の意志がなければ、何も始まらない思念の世界です。

自我から生じているさまざまな想いを克服して行くことは、元いた世界に戻った時に、より強い意志を持って生きることにつながると考えられます。



今を強く生きるために、こう思うようにしています。

出来事に偶然はなく、目の前の事象は因果律の働きによって起きている。

学び成長するために起きているので、必ず乗り越えられる。





2022年7月24日日曜日

今の自分は過去の結果



随分前の話になりますが、郊外の見通しの良い直線道路を車で走っていた時のことです。

突如、1台の車が側面を向けながら目前に迫って来ました。

何が起きているのか分からないまま、かなりのスピードで衝突しました。

あまりの衝撃に気が動転しながらも、携帯電話で警察を呼びました。

車は大破しましたが、幸いなことに同乗者に大きなけがはありませんでした。

その場で現場検証が行われましたが、衝突した車は側道からそのまま合流するのではなく、Uターンをしてこちら側の車線に入りたかったようです。

違反をしてでも、こちら側の車線に入りたかった理由ですが、釜飯で有名なドライブインがあり、急に食べたくなったからだそうです。

事故のきっかけとなった原因は、拍子抜けするようなささいなことでした。



起きた事象には、必ず原因があります。

事故もそうですが、病気もそうです。

肝臓病になる人の中には、お酒の飲み過ぎが原因の人もいるでしょう。

胃潰瘍に人なる人の中には、精神的なストレスが原因の人もいます。

起きた事象は結果です。




電卓で「1+1」と入力すれば、瞬時に「2」と表示されます。

入力されたものが、計算式に従って、出力されています。

それと同じ様に、自分が行ったこと、言ったこと、想ったことは、自然法則に従って、機械的に結果が出されます。




ただし、地上では結果が表に現れるとは限りません。

お酒を飲んでも、直ぐに肝臓病になるわけではありませんが、原因と結果の間には閾値のようなものが存在していると考えています。

自然法則に反した行いをしても、ある程度の範囲内で物質的次元に結果(変化)が出ないようになっているのは、地上の人が未熟なためと考えています。




地上では、因果関係がはっきりと判らないことが多いです。

原因は五感によって認識できるものとは限らないからです。

人の想いが原因であれば、黙っていれば判りません。

原因が判らないと、偶然や運として片付けてしまう人もいるでしょう。

「何でこんなことになるんだ」と、不満や憤りをぶちまける人もいるかもしれません。




原因と結果の連鎖を繰り返しながら、人生は営まれています。

これまで生きて来た結果として、現在の自分がいます。




誰のせいでもありません。

自分でいくつものことを決めながら、これまで人生を歩んで来たはずです。

これからも、たくさんのことを決めて、その結果を享受しながら、生きて行くことになります。




死んだ後、この世の人生を総括する時が来ます。

生まれた時がスタートで、死ぬ時がゴールです。

自分で決めて来たことの全てが魂に刻まれています。

あの時、こんな想いになり、こうすると決めた。

その結果として、この事象が起きた。

その事象が起きて、こう想い、こう行動した。

その結果として、この事象が起きた。

地上では判らなかった因果関係がはっきりと判るようになります。

原因と結果の連鎖を繰り返しながら、次へとつながっているのが判ります。

スタートからゴールまでが一つながりになって、現在の自分に至っているのが判ります。

いくつものことを自分の意志で決めながら生きて来た姿を目の当たりにして、それまであった疑問や不満はなくなるはずです。




人は、およそのシナリオを決めて生まれて来ます。

自分に足りないところを補うため、自分の弱さを克服するために、オリジナルなシナリオが立案され、それを了承しています。

シナリオに沿って人生を歩むことで、予定された学びや成長を得ることができます。




そのことをすっかり忘れている地上の人のために、例外なく守護霊が付いています。

シナリオに沿った決断をするように、インスピレーションによって導いています。

しかし、最終的な意志決定は、あくまでも地上の人がすることになっています。

守護霊は干渉できません。

その理由は、自分の人生は、自分で責任を取るためと考えられます。




何の脈絡もなく、降って湧いたように出来事が起きることがあります。

奈落の底に突き落されるような出来事であれば、「何で自分が」と神を恨んだりする人もいるかもしれません。

そんな出来事であっても、自分で決めてきたことが、魂の成長にとって、最善のタイミングで起きている可能性があります。




過去生で作った原因が、因果律の働きにより、今生で結果となって現れている可能性もあります。

前に進んで行くために、その結果を耐え忍びながら生きることを、自分で決めて来たのかもしれません。

生まれる前に決めていたことならば、原因など見つけられるはずもありません。




冒頭の交通事故ですが、警察の見分では大けがをしていても、おかしくなかったそうです。

もし大けがをして、身体の自由を奪われてしまったとしたらどうでしょう。

私には、全く原因(過失)はありません。

その後の人生が、つらく苦しいものになれば、運命を呪いながら生きるようになるかもしれません。

そうなると、精神的な苦しさは、身体的なもの以上になってしまうでしょう。




身体的、精神的な苦しさが極みに達した時に、奥底に眠っていた魂が目覚めることになるかもしれません。

目覚めた魂が、苦しみから救ってくれる大切な真理を見つけるのかもしれません。

人生のシナリオから逸脱してしまい、予定されていた学びが得られなくても、それに代わる経験をすることによって、霊的に価値のあることを学び、成長が得られるようになっていると考えられます。

シルバーバーチが言う「埋め合わせの原理」とは、このようなことを言っているのかもしれません。




どんな出来事であっても、自然法則の働きによって起きているので、良きに計られています。

地上的なものを失っても、霊的なものを手に入れることで、公正は完全に保たれています。








2022年7月17日日曜日

奥底にある動機を問いながら行動する


先週の日曜は選挙に行ってきました。

国のために、一所懸命に働いてくれそうな人に投票しました。

私もそうですが、その人が何を語っているのか、何をして来たのかを参考にして選んでいる人は多いと思います。



しかし、地上はやっかいなところです。

語っていることと、想っていることが一致しない人がいます。

口では国民のためにと言っておきながら、実は権力やお金を手に入れたいために選挙に出る人もいます。



もし霊界で選挙があったのなら、そうは行きません。

自分の本当の想いが、光となって周囲に放たれるからです。

何を想っているのかが一目瞭然になります。

嘘やごまかしはききません。

ありのままの自分でしかいられませんので、霊界には偽善者は存在しません。


人生に苦悩している人がいたとします。

2人の人が、「どうしたのですか?」と、同じ様に声を声をかけたとします。

行動は同じでも、動機はさまざまです。

1人は、悩んでいる様子を見かねて、力になれないかと声をかけました。

もう1人は、これを機に、自分が入っている宗教に勧誘できないかと声をかけました。



人間には、自由意志が与えられています。

それと引き換えに、自分の行いには霊的な責任が生じます。

自然法則に反した行いをすると、霊的な罪が生じて、自動的に霊性が下がります。



自然法則は行いにだけ働いているのではありません。

(行いをする時の)動機に対しても働いています。



その人の力になろうと声をかけたのであれば、その動機は自然法則(愛)に敵っています。

霊性を高めることにつながるでしょう。

けれども、宗教に勧誘するためであれば違います。

自分が入っている宗教組織のため、あるいは自分の評価を高めるためならば、その動機は利己的です。

霊性を高めるどころか、貶める結果となります。

同じ行いでも、その動機によって、霊的な結果は大きく違って来ます。



自分で死を選ぶのは、霊的に罪なことです。

ただし、例外的なこともあります。

例えば、ペアを組んでロッククライミングをしている最中に、足をすべらして絶壁で宙吊りになったとします。

2人分の体重を支えるのに、ハーケンは耐えられそうにありません。


そこで1人が、自分の身体をロープから切り離しました。

自分で死を選んだことになりますが、罪を問われることはありません。

その動機が、もう1人の命を救うためであり、自然法則(愛)に適っているからです。

地上を卒業することが許されるだけの、高い霊性が発揮されたとも言えます。




行動をする時に、その動機が問われます。

何のためにするのかを、心を鎮めて検証する必要があります。

良心の訴えに従ったのなら、その動機は霊的であり、神の心に適っているはずです。

けれども、地上の人は動機に蓋をしながら、行動することがあります。

誰かのためになる行動であっても、人から良く思われたかったのであれば、その動機は利己的であり、神の心に適っているとは言えません。




本心が知れています。

神(自然法則)をごまかすことはできません。

心の奥底から、初めに生まれた想いが最も重要であり、そこに自然法則が働いています。




何を想っても自分の勝手と言う人がいます。

それも大きな間違いです。

口に出さなくても、想っていることには自然法則が働いています。

心の中で憎んだり恨んだりしても、地上では形として表れませんが、その想いは少なからず魂に影響を及ぼしています。




動機は行動の発火点となるエネルギーです。

動機により精神は作動し始め、精神は肉体を動かして具現化して行きます。

未来を変える力を、動機は秘めています。




オリンピックに出場する選手にとって、大きな目標はメダルを取ることです。

それが動機付けとなり、選手は厳しい練習に耐えています。

昔は今よりも、国を背負っているという重圧を感じながら、参加していたと思います。

国を意識し過ぎると、意識が自分の責任に向いてしまう傾向があり、結果が出せなかった時のことを、つい考えてしまいます。

そうすると、心の中に不安や怖れが生じてしまいます。

不安や怖れは、霊力の流れを阻害します。

霊力は想いを具現化させるためにある力ですが、その流れが阻害されてしまうと、肉体による十分な表現(パフォーマンス)ができなくなってしまいます。

期待された結果を出せなくなります。




一方、最高の結果を出す選手もいます。

もちろん実力や才能はあるのですが、それ以上の力が発揮されたと感じることがあります。

そんな選手はよく、具体的な名前を挙げながら、「○○のために頑張りました」と言っているのを聞きます。

また、観ている人を勇気付けたかった、励ましたかったと言っている人もいます。

結果を出すことは自分の目標であると同時に、そんな他者へ向けた動機が付加されているように感じます。




動機が神の心と一致していると、心の中の不安や怖れはなくなります。

神の心と同調することにより、霊力がどっと流れ込み、持てる力以上のものが発揮され、期待された以上の結果になったと思われることがあります。

同じ実力ならば、自分のためよりも、誰かのために臨んだ人の方が、勝者となる確率が高いと感じています。




動機が利他的であれば、良い結果が出ると思います。

私も仕事で難しいことに挑戦しなければならない時があります。

その前に「〇〇さんのために成功させる」と想いながら臨むようにしています。

そうすると、不安や怖れはなくなり、上手く行くことがほとんどです。




同じことをするのなら、他者のためにと想いながら臨んだ方が賢明です。

その動機は自然法則の働きと一致しています。

霊力が流れ込み、成就する方向に進んで行くはずです。







追記

先週、日本中を震撼させた銃撃事件が起きました。
犯人は、ある宗教団体に強い恨みを抱いていました。
母親が入信し、家族がめちゃくちゃになったと供述しています。
その母親も、同情するべき過酷な人生を歩んでいましたが、その宗教団体よりも先に、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に辿り着いていたのならと思わずにいられません。

世の中には、救いを求めている人たちがどれ位いるのでしょうか。
霊的真理の在りかを提示することは、極めて大切なことだと、改めて思います。



2022年7月10日日曜日

自分の中にいる良心と言う神



小学生の時に、交換ノートというものがありました。

学級内の生徒が順番で大学ノートに自由に文章を書いて、それに担任の先生がコメントを返します。

しばらくして、自分の番になりました。

文章を書いた後です。

いたずら心が芽生えてしまい、友達が書いた文章の表題を、おもしろおかしく書き換えてしまいました。

後になり、先生がそのことに気付き「誰が書いたんだ」と叫びました。

教室がシーンと静まり返ります。

ただならぬ雰囲気に、「自分です」と言い出せなくなりました。

男子だけが別室に集められて、名乗り出るまで、授業を受けさせないと告げられました。

自分のせいでえらいことになってしまったと慌てましたが、それでも今更、名乗り出ることは怖くてできません。

しばらくの間、葛藤が続きましたが、とうとう耐え切れなくなり、先生の所に行き、自分が書いたと白状しました。

子供ながらに良心の呵責を強く感じた出来事であり、今でも鮮明に記憶に残っています。



良心とは何なのでしょうか?

辞書で調べてみると、"何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識"と書かれています。

悪いことをしたという意識があると、気持ちが苦しくなってしまうのは、良心の呵責が生じているからです。



何が悪いのかは、誰かに教えてもらったり、本で学んでいるわけではありません。

例えば、嘘を付くのは悪いことだと思うのは、親から言われたのもあるでしょうが、自分自身に咎めるものを感じるからです。

人を傷つけてはいけないと思うのは、法律的に罰せられるのもあるでしょうが、自分自身が後味の悪い思いをするからです。



善悪の判断は、学習して身に付けているのではありません。

自分の中にある良心が判断しています。

悪いことはしてはいけないと、心の中で働きかけているのを感じます。



良心はどこにあるのでしょうか?

善悪を判断を、頭(大脳)で考えてしているわけではありません。

怒りや、悲しみのような感情とも違います。

心の中で、瞬間的に生じています。

良心は、意識の本体である「魂」から、直感となって生じていると考えられます。



精神上に自我が形成されています。

自我から出された指令は、大脳によって信号となり、肉体を動かしています。

指令が肉体に出される前に、魂(良心)によって計られています。



それでは、何のために良心が存在するのでしょうか?

人間には自由意志が与えられています。

自分の好きなように行動することが許されています。

その代わりに、自分の行動に対して責任が問われます。

もし、その行動が自然法則に反しているのならば、自動的に罪が生じます。

罪が生じると、それを償わなければなりません。

限られた時間を、そのために費やさなければならなくなります。



肉体を持つと、どうしても意識が自分に向いてしまいます。

自分がかわいくなり、利己的な行動をしやすくなります。

利己的な行動は、神の心である「愛」に反しています。

わがままや自分勝手はいけないと思うのは、神の心に反していると、良心が訴えているからです。

因果律の働きにより、後で痛い思いをするのを、魂は知っているからです。



神は人間に自由意志を与えました。

しかし、霊的にまだまだ未熟です。

そのために良心となって心の中に顕現して、地上の人間の行動を制御していると考えられます。

良心が咎める時、その行動は法則に反しています。

行動に移してしまったら、罪が生じてしまいます。



今年の2月、ロシアがウクライナに侵攻しました。

ロシアの大統領には、踏み留まる選択肢もありました。

けれども、侵攻する方を選びました。



問われるのは、行動を起こした時の動機です。

自国が他国の脅威にさらされ、土地や国民を守るためであるならば、正当防衛に当たります。

よって、自然法則に反しているとは言えません。

そうではなく、他国に対して過剰な怖れを抱き、疑心暗鬼になっていたのかもしれません。

自分の地位や権力を守ろうとしていたのならば、動機は明らかに利己的です。



戦争は法則に反した行いです。

行動に移す瞬間まで、踏み留まるように良心の声がしていたはずです。

しかし、その声は強大になった自我(エゴ)に遮られてしまい、聴こえなくなっていたと考えられます。



霊的な無知ほど恐ろしいものはありません。

後で裁かれることを知らないので、こんな出来事が起きるのです。


死んで肉体がなくなると、霊的な感覚だけになります。

途轍もなく大きな存在(神)を意識するようになります。

宇宙全体が神です。

自分の中にいる良心と言う神と向き合う時が来ます。



神は法則でもあります。

自分の行いは、法律ではなく、法則によって裁かれます。

自然法則に照らし合わされ、自動的に罪の重さが決まります。



どれくらいの人が殺され、傷ついたのでしょう。

どれほどの、要らぬ苦しみ、悲しみ、怒り、憎しみが生まれたのでしょう。

結果が目の前に映し出されて、愕然とし、自責の念に悶え苦しむことになります。



その罪はあまりに大きく、償い切れないように思えてしまいます。

自分が与えたものを、自分が受けなければならないのであれば、何度、苦痛の中で生きる人生を繰り返さなければいけなくなるのでしょうか。

想像しただけでも恐ろしい現実が、因果律の働きで、自分の身に降りかかって来ます。

一刻も早く終わりにすべきです。



しかしながら、自我の働きは、時にやっかいです。

「自分ではなく相手が悪い」、「自分は間違っていない」、「面子が潰れてしまう」など、さまざまな言い訳を考えては、良心の声を打ち消そうとします。

自我が発する言い訳と、良心の声の間でせめぎ合いが起こり、それが心の葛藤として感じられます。



良心は神です。

自分の中に神がいるのです。

いくらもっともらしい言い訳を考えたとしても、神の声の方が正しいのです。



私たちは、魂を成長させるために、この世に生まれて来ました。

成長にとって望ましい方向を、良心は瞬時に指し示します。

その声に逆らったり、無視してしまうと、自分の中にいる神を裏切ったことになり、後で後悔します。

いばらの道に思えたとしても、素直に従いましょう。



神は内にいます。

良心と言う形で顕現しています。

自我を鎮めて、心の中で響く声に耳を澄ませ、その声に忠実に生きていれば、霊的な感性が極めて弱くなっている地上の人間も、生まれて来た目的を果たせるようになっています。





2022年7月3日日曜日

愛により1つになる


宇宙は、138億年前にビッグバンが起こり、始まったと言われています。

なぜ、起きたのかを説明できる人はいません。



全ての現象は、法則に従って起きています。

従って、ビッグバンも何らかの法則に従って起きたはずです。



法則がなかったとしたらどうでしょう。

宇宙は無秩序で、不可解なものになってしまいます。

宇宙が美しいと感じられるのは、隅々まで自然法則が行き渡り、調和が保たれているからだと思います。

NASA提供



宇宙を経綸している法則が、偶然生まれたとは考えられません。

何者かが、何かの目的を持って創ったと考えられます。



法則を創った存在を、神と呼ぶことにします。

何故、神は法則を創り、宇宙を誕生させたのかは判りません。

判っているのは、宇宙はエネルギーであり、法則に従って、刻々と変化していると言うことです。


携帯電話は、離れたところにいる人とコミュニケーションをすることを目的に、人間の手によって作られました。

私たち人間は、偶然が重なって、誕生したと言う人がいます。

けれども、携帯電話よりはるかに精緻な人体が、偶然誕生したなどとは、とても考えられません。

窺い知ることのできない目的があって、神によって創られたはずです。

                                              


携帯電話は物質です。

使う人がいて、初めて電話として機能します。

人体も物質です。

人体を動かしている存在があって、初めて人間として機能します。

動かしている存在とは、非物質である魂(霊)です。

生命とは魂です。

人体と魂が結合したものが、地上の人間です。



いづれ死ぬ時が来ます。

その瞬間、魂と肉体の結合は解除されます。

魂がいなくなった人体は動かなくなり、生気を失ってやがて朽ち果てます。



目に視えるこの世界が全てだと、つい思ってしまいます。

それは誤りです。

肉体を持たないで生きる世界が存在しています。

本来の住処は、その世界です。

目的があって、肉体で自己表現をする地上に生まれて来たのです。



魂から意識が生じています。

意識によって肉体は動いています。

魂と肉体の間には精神が存在し、地上だけに存在する意識(自我)が作り上げられています。



自我は肉体との結びつきが強いために、地上的なものに意識が向く傾向にあります。

自分の身の安全を何よりも優先するのはそのためです。



意識は、地上的なもの、霊的なもののどちらかに向いています。

地上的なものに意識が向いた時は、「物」や「お金」や「自分の肉体」など、目に見えるものに関心が行きます。

霊的なものに意識が向いた時は、「生命」や「愛」や「友情」など、目に視えないものに関心が行きます。



溺れている人がいれば、助けようとします。

そんな時は、地上的なものではなく、「命」という霊的なものに意識が向いています。

自分のことを忘れて助けようとするのは、霊的な意識の中に神が存在しているからです。

神が顕現すると、誰かのために、何かをしようとする衝動が生まれます。

悪いことができないのも、神が良心となって顕現しているからです。



人間の本質は霊(魂)です。

本来は、霊的なものに意識が向いています。

誰かのために、何かをしてやりたい気持ちを持っているのですが、肉体があるために、どうしても地上的なものに意識が向いてしまいます。



生まれて来た目的は、自分(肉体)に打ち克って、霊的なものに意識を向けることです

より多くの神性を顕現させるためです。

その過程において、人は進化成長するように定められています。



霊的な存在である私たちは、霊的なエネルギーによって活動しています。

しかし、五感が優位になっているので、エネルギーが流れているのを実感できません。



エネルギーの源泉は神です。

宇宙は神的なエネルギーが顕現したものです。

宇宙全体が神であり、神は宇宙全体です。

人間は宇宙の極小の一部です。

神の一部であるために、私たちには神性があります。



全ての生命に、同じ神的なエネルギーが流れています。

そして、宇宙の一部としてつながっています。

生命が独立しているように見えるのは、地上(物質)的なものに意識が向いているからです。



1つ1つの生命は、何らかの役割りがあって存在しています。

何1つ無駄なものは存在しません。


道端のタンポポはどうでしょう?

日を浴びて光合成をして、酸素を放出しています。

放出された酸素を吸って、動物は生きています。

何気ない自然の営みですが、タンポポは地球全体のために役立っています。



生命は全体から恩恵を受け、全体に恩恵を与えながら生きています。

相互扶助の関係にあり、つながっています。



霊的な意識は、全体によって生かされていることを知っています。

そして、全体のために自分を活かそうとします。

霊的な意識が高まると、神的なネルギーが多く流れ込みます。

そのエネルギーは愛を帯びているので、全体のために何かをしたくなると考えられます。



全体のため何かすると、全体から何かを受けます。

全体から何かを受けると、全体のために何かをしたくなります。

因果律(自然法則)の働きによるものです。

愛を帯びたエネルギーは、因果律の働きによって、全体へと広がって行きます。



愛はお互いを引き付ける力です。

宇宙が創造され、バラバラになった個と個は、愛が全体に広がることにより、再び1つになって行きます。

それが神の意図のように思えてなりません。



遠い昔、人と人とのつながりは小さなコミュニティに限られていました。

時間の経過と共に、小さな枠組みから、大きな枠組みへと変化しています。

今は、愛に反した行い(争い)により分断が生じ、後退しています。

苦痛を伴いながら、新たな枠組みが構築されるでしょう。

隔てる障壁は徐々になくなって行き、遠い先になりますが、地球の人間としての枠組みだけになります。

人間の愛が、他の生命にも広がって行き、最終的には地球の生命は一体となる時が来るはずです。



宇宙を創ったエネルギーは、愛を表現するエネルギーでもあります。

生命は進化を続け、より高い愛を表現するようになり、他者と調和しながら、1つになる方向に向かっています。


2022年6月26日日曜日

霊的につながっている

            

当たり前のことですが、私たちは食べ物を摂って生きています。

それがエネルギーに変わり、肉体を動かす力となっています。

食べないと、力が出ないのは、誰もが経験していることです。



人間は肉体だけの存在ではありません。

精神が存在しています。

精神が命令を出して、肉体を動かしています。



食物を食べないと、精神が活動できないわけではありません。

むしろ、空腹の時の方が清明になるような気がします。

お腹いっぱいになると、逆に働きが鈍くなります。

精神は、肉体とは別系統のエネルギーによって活動していると思われます。



精神の上位には、生命の本質である「魂」が存在しています。

魂は意識そのものです。

そこから思念が生じています。

魂で生じた思念は、精神で具体化されて、肉体で具現化されます。

それを繰り返しながら、地上の人生は紡がれて行きます。



思念が生まれなければ、何も始まりません。

精神活動の元となるエネルギーは魂から供給され、思念は地上での活動の起点になっていると考えられます。



死んで次の世界に行くと、肉体はなくなります。

五感は消失し、霊的感覚のみになります。

そこでは、言葉を介さずに、思念のやり取りをしています。

想ったことが、齟齬なく、直接伝わります。



一方、地上にいる私たちは、言葉でコミュニケーションしています。

言葉の実体は思念です。

思念を言葉に変換し、それを相手に伝えています。

伝えられた言葉から相手の思念を類推しています。

言葉を介しているので、どうしても齟齬が生じます。

私たちは、思念を媒体を通して伝達しなければならない、煩わしい世界にいます。



思念は周囲に放たれています。

しかし、五感を通してコミュニケーションをしているため、霊的感覚は極めて鈍くなり、思念は認識されなくなります。

それでも、放たれた思念は誰かに受け取られ、少なからず影響を与えています。

もらい泣きをしたり、つられて笑ったりするのも、そのためです。

人は、思念というエネルギーを放ち、受け取りながら生きています。

多くの人は、そのことを意識していません。


今、世界中の人と、メールでやり取りができます。

インターネットという回線でつながっているからです。



それぞれの人は、独立しているように見えます。

それは肉体の話です。

インターネット回線ではありませんが、人と人は目に視えない霊的なつながりがあります。

そのために、思念のやり取りが可能になります。



身体には37兆個もの細胞があります。

どの細胞にも同じ血液が流れています。

個々の細胞の形態は違いますが、全身を構成する1部には変わりありません。



地上には、無数の生命体が存在しています。

種は違っても、同じエネルギーが流れて、生きています。

違う細胞が集まって人体が構成されているように、さまざまな生命体が集まって全体が構成されています。

それぞれの細胞に役割りがあるように、それぞれの生命体には、全体に貢献する何らかの役割があります。

密接に関連しながら共存しています。



極めて精緻な生命体が、偶然によって生まれたとは、とても思えません。

何者かが、何らかの意図を持って創ったと考えた方が、はるかに自然です。

創った存在を、神と呼ぶことにします。



宇宙を創ったのは神です。

神的エネルギーによって、宇宙は創られています。

宇宙全体が神であり、神は宇宙全体です。

人間は、宇宙を構成する限りなく小さな一部分です。

従って、私たちも神的エネルギーによって創られています。



私たちの身体は、エネルギーでないと言う人もいるでしょう。

物質もエネルギーです。

生命の本質である魂も、同じくエネルギーです。

全てが神的なエネルギーです。

しかし、肉体と魂では波長が違います。

魂が目には視えないのは、波長の短いエネルギーだからです。



魂から生じる思念も神的エネルギーであり、神性を帯びています。

神性を一言で表現するならば「愛」です。

魂から生じたエネルギーは、本来は愛を表現するものです。

けれども、表現するためにある精神や肉体が未熟なために、歪められてしまいます。

怒りや憎しみも、媒体により神的エネルギーが歪められたものです。



愛を表現することによって、調和が進んで、全体が1つになって行きます。

愛に反する怒りや憎しみを表現することによって、バラバラになって行きます。

神の目的は、物的にバラバラになった全体を、愛により1つにさせることだと考えています。



人から生じている思念はさまざまです。

霊界では、似通った思念を放つ人たちと生活しています。

地上でも、同じような思念を放っている人同士が引き付けられ、集まる傾向があります。



人と人は、エネルギーのやり取りをしています。

そのことを強く感じられるのが、ヒーリングをしている時です。

手を触れながらする時もありますが、目の前にいない人をすることの方が多いです。

1面識もない人にヒーリングの力は届きます。

今でも、その理由ははっきりと判りませんが、こう考えています。

人と人はつながっていて、意念を向けた人との間に関係性ができて、力が届けられる。



自分も人も動かすエネルギーである思念も同じです。

目に視えませんが、人から人へと伝わっています。

生命はつながり、巨大なネットワークを形成し、その中でエネルギーのやり取りをしています。

霊的に1つなのです。






2022年6月12日日曜日

真の幸せ


「世界幸福度ランキング」と言うものがあります。

これは自分の幸福度を最低を0、最高を10として数値で評価し、その平均値と独自の指標によって決められます。

1位はフィンランド(7.8)です。

フィンランドですが、一人当たりのGDPは日本の1.25倍で経済的に豊かな国ですが、残業はなしで、午後4時には帰宅するそうです。

因みに、日本は54位で(6.0)、最下位はアフガニスタン(2.4)だそうです。




ヒマラヤ山脈のふもとにあるブータンも、世界一幸せな国として知られています。

何で幸せを感じるのかと聞いたところ、雨風をしのげる家があり、食べるものがあり、家族がいるから幸せだと、多くの国民が答えたそうです。

幸せとは何だろうと考えてしまう時があります。

気に入ったものを買ったり、おいしいものを食べたりすると幸せを感じます。

ただ、その幸せは一過性であり、しばらくすると感じられなくなります。

お金で買える幸せは、長続きしないようです。

足りていることに感謝するだけでも、十分に幸せは感じられます。




そのブータンにも近代化の波が押し寄せています。

いろいろな物が入って来るようになり、人々の生活は大きく変わって来ました。

あれだけ美しい国だったのが、今は大気汚染に悩まされているようです。

お金や物を欲しがるようになると、いつも足りていないような気がしたり、人と比べたりするようになり、今までのような幸せを感じられなくなってしまいます。

大切なものを見失ってしまわないで欲しいです。




将来に不安を感じて、とにかく働いて、お金を貯めておこうと思っている人も少なくありません。

フィンランドなど北欧の国では、税金はかなり高いのですが、社会保障が充実していて、将来の不安が少ないようです。

どちらが正しいとは言えませんが、不安が大きくなると、精神的な余裕が失われて、幸せを感じられなくなってしまうと思います。




生きていて不安に思うことは、大きく2つあると思います。

それは、健康の不安と、お金の不安です。

いつ、どんな病気になるのか判りません。

お金がなくなると、生活して行けません。

どちらも苦しい思いをするので、不安を感じている人は少なくありません。




霊的真理の中に、その不安を解消する言葉があり、信じるようにしています。

「正しい生き方をしていれば病気にはなりません。病気とは根源からいえば不調和、不協和音、つまり神の摂理に適った生活をしていないことから生じています。」

正しい生き方とは、摂理に適った生き方と考えられます。

適切な食事をして、十分な睡眠を摂り、適度な運動をするのは、摂理(生物学的法則)に適っていて、健全な肉体を保つために大切です。




けれども、人間は肉体だけの存在ではありません。

精神があり、その上位に霊が存在しています。

霊から精神に司令が行き、精神が命令を出して肉体によって表現される、これが地上の人間の本来の姿です。

ところが、精神上に形成されている自我の働きが強くなると、そうは行きません。

本当の自分(霊)が望んでいることが、自我の働きで抑え込まれてしまい、行動に移せないことがあります。

あるいは、本当の自分が望んでいないことを、自我の働きにより、してしまうこともあります。

その状態が続くと、霊、精神、肉体の3者の間に不調和が生じます。




私は動物を食べません。

その理由は、殺される時の動物の恐怖や哀しみを想像すると、食べる気になれないからです。

そんな私が食肉工場に勤めて、毎日のように豚や牛や鶏を屠殺し続けたのなら、すぐに具合が悪くなってしまうでしょう。

本当の自分(霊)がやりたくないことをし続けていると、霊と精神と肉体の間に不調和が生じて病気になると思います。

ほとんどの人がそうでしょうが、人を傷つけたくない人が、戦争に駆り出されて、人を殺してしまうと、やはり不調和が生じて病気になると思います。

正しい生き方、本当の自分(霊)に忠実な生き方をしていないと、病気になってしまう可能性があります。




病気になると苦痛を感じます。

その苦痛が、奥で眠っている霊(魂)に働きかけて、目覚めさせます。

魂が目覚めると、強かった自我の働きが弱くなります。

自我によって隠されていた、本当の自分の想いに気付いて、それに従うようになります。

霊が優位になり、調和が取り戻されます。

3者の不調和によって病気は生じますが、同時に本来の姿を取り戻すために必要なものとして存在しています。

本当の自分の想いに正直に生きていると病気になりにくいのですが、それが出来ないのが現代社会です。

言いたいことを言えず、やりたくないことをやらざるを得ない、そんな生活をしているために、病気になる人がどれほど多いのでしょうか。




本当の自分(霊)の想いに、忠実に生きなければならないと思います。

自我を鎮めて、本当の自分の想いに耳を澄まし、訴えているものがあれば、ためらわずに表現をしましょう。

何を望んでいるのか判らないと言う人は、心が悦ぶようなことを見つけて下さい。

霊的真理を知らない人に知ってもらうと、私は悦びを感じます。

どうしても見つけられない時は、背後霊に出会えるように祈りましょう。

悦びを感じていれば、3者の調和は保たれ、病気にならないと思います。

それでも病気になったのであれば、学びや成長のため、あるいは償いのために、予め決められていたことかもしれません。




もう1つは経済的な不安です。

霊的真理にはこう書かれています。

「魂が正常なら、つまり魂と精神と身体が調和して機能している限り、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。」

本当の自分の想いに忠実に生きていれば、必要な物は手に入ると解釈しています。




私たちには、神が内在しています。

そのため、誰かのために、何かをしてやりたいという、潜在的な欲求が備わっています。



一方、地上では生きて行くために、食べて行かねばなりません。

そのために働かなければいけません。

働くとは、人や社会や家族のために、何らかの奉仕をすることです。

元々、魂に備わっている、誰かのために何かをしたいという欲求を素直に表現すれば、働くことにつながります。

その対価として、地上では金をもらうことができます。

それによって、物的に必要なものが手に入ります。




世の中には、対価が得られないで、働いている人もいます。

そんな人には、霊界の働きも手伝って、地上の人の善意という形で、生活に必要なものが手に入ります。

シルバーバーチはそのことを「神の補給路」と言っています。




誰かのために、何かをするのは、摂理に適った生き方です。

魂、精神、肉体の調和は保たれて、病気にもならず、生きて行くのに必要なものが手に入るようになっています。

ところが、人は少しでも豊かな暮らしをしようとします。

そうすると、たちまち自我の働きが強くなり、3者の調和が乱れ始めます。

金銭にこだわり、利己的な生き方をするようになると、因果律の働きによって、生活が破綻して行く方向に向います。




無欲で、誰かのために何かをすることが、霊的に最善の生き方です。

健やかで、悦びを感じながら生きることができます。

しかし、肉体を持つと、どうしても自分や物質に意識が向ってしまいます。

たくさんのお金を持ったり、消費することに幸せを感じるようになってしまいます。

その欲求に打ち克つことが、この世に生まれて来た目的の1つと考えられます。




対価を求めないで、誰かのために何かをすることは難しいものです。

つい見返りを求めてしまいます。

落ちているゴミを拾う、お年寄りに席を譲る、困っている人がいれば声をかける、どんな小さなことでも良いのです。

積もり積もれば、大きなものになって行きます。

地上の誰にも評価されなくても、自然法則の働きにより、霊的な対価が支払われています。

お金を蓄えてもいずれ手放すことになります。

けれども、奉仕に支払われる対価は魂に蓄えられて、失われることは絶対にありません。

魂を豊かにして、真の幸せを感じることができます。




この世しかなかったとしたら



神様が、ある人の前に現れました。

そして「願いを1つ叶えてやる」と言いました。

その人は大喜びし、何にしようかいろいろと考えました。

大金持ちになるのも良いが、死んでしまったら終わりだ。

そこで「ずっと生きていたい」と答えました。

すると神様は願いを聞き入れて、特別に死なないようにしました。

ずっと生きていられると思うと、うれしくてたまりません。



それから数年後のことです。

友達の1人が死にました。

「生きていられなくて可哀想だ」と思いました。



数年後に、また友達が死にました。

また、数年後に友達が死にました。

自分のことを判ってくれる人が、一人また一人と死んで行きます。

「長生きをすると寂しくなる」とつぶやきます。



生きて行くためには、食べて行かなければいけません。

来る日も来る日も働き続けます。

そして、いろいろな人と、付き合いもしなければいけません。

生き方や考え方が違う人たちと一緒にいるのは、何かと気を遣います。

そして、こんなことを言い始めるようになります。

「生きるのが疲れて来た」



それでも神様との約束は守られます。

同じ日々が繰り返されて、これが永遠に続くのかと思うと、堪らなくつらい気持ちになって来ました。

周りにいる人たちが、安らかな顔で死んで行くのを見るたびに、自分にもこの安らぎが欲しいと思うようになりました。



再び、目の前に神様が現われました。

沈んでいるその人の姿を見て「どうしたのだ?」と尋ねました。

その人は、「長く生きていることに疲れたのです。」と答えました。

神様は「1番の望みを叶えたのに何故だ?」と言うと、その人はこう答えます。

「死があるからこそ、生きていたかったのです。今になってそのことに気付きました。」

神様は「それでは、今一番望んでいるものは何か?」と再び尋ねます。

その人は「死です」と即答します。



これは私が考えた物語です。

日が沈んだら、夜の帳が下りて、休息の時が来ます。

日が沈まずに、昼間が続いたとしたら、ゆっくり休むことはできません。



人生も同じです。

死によって、終止符が打たれなければ、安息はありません。

この世を生き続けなければならないほど、つらいことはありません。



けれども、こんな疑問を持つ人もいるでしょう。

死によって終止符が打たれたとしても、安息の世界は本当にあるのだろうか?

残念ながら、次の世界が存在しているのを、客観的に証明することはできません。



この世しかなければどうでしょう?

人生は1度きりです。

苦しいことはことごとく避けて、楽しいことだけをしていれば良いような気がします。

ところが、人は苦しいことがあっても、逃げずに乗り越えようとします。



アスリートは、厳しい練習に耐えて成績を伸ばして行きます。

人は、苦難を乗り越えて行く中で成長して行きます。

苦しくても乗り越えようとするのは、生きる目的が成長することにあるからです。

楽しいことばかりしていても、どこかに虚しさが残るのは、成長していないと感じているからです。



「後悔しないように生きよう」と、ほとんどの人は思っています。

どうしてなのでしょうか?

この世しかなければ、どんな生き方をしたとしても、死んだら全て終わりです。

後悔しても、そこまでです。



現実は、死んだ後も生は続いています。

しばらくすると、目の前にこの世の全人生が映し出されます。

自分の行いと共に、その時の想いを振り返ることになります。

本当の自分(魂)は、そのことを知っていて、その時に後悔するのを避けたいからだと思います。



「悪いことをしてはいけない」と思うのはどうしてでしょうか?

道徳的に、倫理的に、あるいは親から言われたので、そう思うのではありません。

自分の中にある良心が、そう訴えています。

良心に逆らって行動すると、因果律が働いて、苦痛を伴う出来事が起きます。

この世で何も起きなくても、次の人生で償いをすることになります。

悪いことはしたくないのは、本当の自分がそのことを知っているからだと思います。

次の世界があることを、奥底にいる本当の自分(魂)は自覚しています。



もし、この世しかないのであれば、こう書くでしょう。

生命とは肉体です。

死ぬと無になります。

神など存在しません。

人生は偶然によって支配されています。






地球は太陽の周りを正確に回っています。

水は100℃で沸騰して気化します。

そのことが不変なのは、自然法則の働きによるものだからです。



自然法則は、無限に存在します。

全ての自然法則が、偶然できたと考えるのは、あまりにも不合理です。

それは、目の前にある車が、偶然できたと考えるのと同じです。

車が人間によって造られたように、自然法則も何者かによって創られたはずです。

車は移動手段として造られました。

自然法則も何らかの目的があって創られたはずです。



前述の自然法則は、物質的なものを支配しています。

人生は、それとは別の次元の自然法則によって支配されています。

生まれるのも、死ぬのも、喜ぶのも、悲しむのも、全て自然法則の働きによるものです。

偶然の入り込む余地は、どこにもありません。

自然法則に支配されている私たちは、創られた目的に従って生きています。



「偶然」ほど、曖昧で都合の良い言葉はありません。

分からないことは、偶然として片付けてしまえるからです。

サイコロを振って同じ目が出たら、偶然と思うでしょう。

同じ目が出たことに注目するからそう思えるのです。

それ以外の目が出るのと、何ら違いはありません。

同じ目が出るのが特別ならば、それ以外の目が出るのも特別です。



意識したわけではありませんが、同じ目が出るようにサイコロを振ったから、同じ目が出ただけです。

起こり得る全ての事象の中の1つが起きたことを特別に感じ、その理由が判らないと、人は偶然として片付けてしまいます。

アインシュタインではありませんが、神は絶対にサイコロを振らないのです。

サイコロを振っているのは人間です。



世の中には、生まれて直ぐに亡くなる赤ちゃんもいれば、115歳を過ぎても生き続ける人もいます。

もし、この世だけしかなかったとしたら、生まれて直ぐ亡くなるのは不幸の極みです。

生まれて来た意味は希薄になります。



人間を外見だけで判断するのは浅はかです。

その人の本質を捉えていないからです。

生きた年数で、その人の幸、不幸を判断するのは、もっと浅はかです。



ずっと続く生命の物語の1章として、この世の人生があります。

短いこの世の人生は、無数にある選択肢の中の1つです。

その選択をして生まれて来たのです。



自分や周りの学びや成長のために、最善の選択をしたのです。

偶然ではありません。

不幸になるためではなく、その先で幸せを感じるためです。



学校で習ったことを直ぐに理解して、早く帰るのを許された優秀な生徒がいます。

理解できずに、居残りをさせられている生徒は、その生徒のことをどう思うのでしょうか?

羨ましく思っても、可哀想だとは思いません。


早く逝った人のことを、可哀想だと思うのは、それと全く同じです。

学ぶことが少ない人ほど、この世にいる時間が少なくなり、早く帰れるのは当然です。

居残りする理由など、どこにもないのです。



この世しかないと思うと、不幸や不運という言葉に苦しみます。

その苦しみは、間違いを正すために生じています。

死は肉体に限ったことであり、生は続いています。

次の世界は、この世より遥かに快適で、悦びに満ちた世界です。

そこで変わりなく生き続けます。

真実が信じられないと、因果律が働いて、苦しみが生じます。

苦しみより、魂が目覚めて、間違いが正される時が来ます。

直ぐにとは行かないかもしれませんが、真実が信じられるようになれば、苦しみはなくなります。



病気もそうです。

偶然、病気になることはありません。

病気による苦しみや痛みは、奥深いところに働きかけて、魂を目覚めさせます。

エゴから解放され、本来の自分を取り戻し、予定されていた通りに生きて行けるようになる人もいるでしょう。

不幸や不運と思うのは、隠されている意味(目的)に気付けないからです。



次の世界では、悲しい別れも、病気もありません。

地上でしか経験できないことがあり、その経験をしなければ学べないことがあるのです。

経験から学んだように思えますが、学ぶために計画されたことを経験しています。

どれもが自分に必要な経験です。



魂を成長させることが、法則の目的です。

地上の出来事は、次の世界に行って清算されます。

苦しんだ日々、悲しんだ日々は、霊的な学びにつながっていたことがはっきりと判ります。

耐え忍んだ日々は、霊界で成長した悦びとなります。

完全な公正が働いていたこと知り、深く神に感謝するでしょう。



私たちは、この世しか生きられない、儚い存在ではありません。

法則に導かれながら進化している、永遠の存在です。