2021年3月21日日曜日

魂が目覚めるとは?


東日本大震災から10年の月日が経ちました。

先日のニュース番組で、津波で小学生6年生のお子さんを失ったご両親へのインタビューが流れていました。

その中で「あれから時間が止まったまま」と、お父さんは言っていました。

当時、小学校6年生であれば、生きていればもう成人しています。

しかし、ご両親の心の中でお子さんの姿は10年前のままです。

成長が止まっているお子さんと共に、ご両親の時間も止まっていると思いました。



亡くなった人は、跡形もなく消えていなくなりました。

存在を感じることは、もう出来ません。

それにもかかわらず、残された人の中に「見守ってくれている」、「また会える」と口にする人がいます。

いなくなってしまった、もう会えないと思うと、いたたまれなくなるので、希望を持つためにそう考えるようにしているのでしょうか?



直感的にそう感じていると、私は思っています。

これ以上ない悲しみの中で、魂が目覚める人がいます。

目覚めた魂が、霊的な事実を見い出すことがあります。



それでは、魂が目覚めるとは、どんな状態のことを指すのでしょうか?

魂は生命そのものであり、永遠の存在です。

偶然ではなく、それぞれに目的があって、私たちは地上に生まれて来ました。

生まれたばかりの赤ちゃんは肉体をまとっていますが、少し前まで霊的な世界にいて、魂(霊的な自我)が剥き出しになっているように見えます。


しばらくすると、「地上的な自我」が形成されて行きます。

地上的な自我は、その人のパーソナリティとも言っても良い存在です。

魂(霊的な自我)から生じた思念を、パーソナリティである地上的な自我を通して、肉体を使って表現しています。

表現が適切か判りませんが、魂が外界と接触するためにある、地上だけの「顔」と考えられます。



地上的な自我は「顔」であると同時に、環境から自分を守ったり、より快適に過ごすために、重要な役割を果たしていると考えられます。

自己防衛本能と地上的な欲望を併せ持った存在と言えます。

危険を察知して逃避するのも、地位やお金を得ようとするのも、地上的な自我の働きと考えられます。

俗に「エゴ」と呼ばれているものは、地上的な自我のことを指していると思います。



日常生活のほとんどは、地上的な自我の働きにより営まれています。

仕事や作業をしたり、頭を使って考えている時は、地上的な自我が優位になっています。

そのために、多くの人は普段、表に出ている地上的な自我を自分自身だと思っています。



本当の自分とは、その奥に控えている霊的な自我(魂)です。

表には出て来ませんが、霊的な自我には生まれる前の記憶がしまわれています。

そして、生まれて来た目的、予定されている人生、寿命を自覚しています。

死ぬと、地上的な自我は消えてなくなり、霊的な自我が直接表現されるようになります。



普段の自分(地上的な自我)に取って代わり、霊的な自我が表に出て来る時があります。

目の前で溺れている人を見て、助けようとする時がそうです。

また、良くないことをしようとして、ためらっている時もそうです。

霊的な自我には良心(神)が内在されていて、そんな局面において呼び覚まされます。



私たちには、生まれる前に決めていた、およそのシナリオがあります。

決めていた人との出会いや、成長を促すような機会が巡って来た時に、何かひらめくものを感じるかもしれません。

予定された人生を歩むために、重要な局面が訪れた時に、霊的な自我が表に出て来て、道を指し示すと考えられます。

そんな時は、頭で考えないで、直感で行動しています。



他にもあります。

深刻な出来事が起きた時です。

日常生活のちょっとした出来事が起きたら、普段の自分(地上的な自我)で対処しています。

しかし、普段の自分で解決不能な出来事が起きた時に、霊的な自我が表に出て来て主導権を握ると考えられます。



朝、元気だった人が、物言わぬ姿となって帰って来る、これほど信じがたく、過酷な現実は見当たりません。

目の前にある現実は、寸毫たりとも変えることは出来ません。

役に立たない地上的な自我に代わり、霊的な自我が表に出て来た人も、多いはずです。



大切な人を失った人は、津波が悪魔の様に思えるかもしれません。

全ての現象は、自然法則の働きにより起きています。

津波は自然現象の一部であり、自然法則の働きによって起きています。



自然法則を創造したのは神です。

従って、神は津波によって作り出された現実の、全ての責任を負っていると考えられます。



神は、完全なる愛であり、完全なる叡智です。

神が完全なる愛であり、宇宙の隅々まで行き渡っているのであれば、大切な人を津波で奪い、絶望の淵に陥れる、こんな惨い現実を作り出すとは考えられません。

神の叡智が完全であるならば、ある人は津波を逃れ、ある人は巻き込まれて亡くなってしまう、こんな不公正な現実が作り出されるはずはありません。



もし、命が地上だけに限られているのならば、神などいないと思っても仕方がありません。

希望でも、慰めでもなく、亡くなった人たちは、生まれる前にいた境涯に戻り、元気に暮らしています。

自然法則の働きによって、地上を去ると生まれる前にいた境涯に戻ります。



最初は、何が起きたのか判らずに、戸惑ったかもしれません。

しばらくして、起きたことを理解し、その境涯で思う存分に自分を表現しながら、満ち足りた生活を送っていると考えられます。

生まれる前にいた境涯は、地上よりはるかに自由で快適な世界です。

神の公正は完全に保たれているのです。



もし、地上に戻りたいと思う時があるとすれば、それは未来が奪われてしまったと、嘆き悲しんでいる愛する人の姿を見ている時です。

願いは1つです。

元気でいて、未来は全く奪われていないと言う事実を、知ってもらうことです。



地上に残された人たちにも、自然法則は働いています。

突き付けられた解決不可能な現実により思考が停止し、それに伴って地上的自我の働きが弱くなります。

代わって霊的な自我の働きが強くなります。

深い悲しみは、心の奥深くに働きかけて、魂を目覚めさせます。



魂が目覚めると、地上的な自我が求めていた、地位やお金などはどうでも良くなります。

生命や愛など、霊的なものに意識が向くようになります。

自分を守るために、バリアのような役目を果たしていた地上的な自我の働きが弱くなると、相対的に霊的な感受性が高くなります。

目に視えないものを感じたり、霊界からインスピレーション(メッセージ)を受け取りやすくなります。


「見守ってくれている」、「また会える」と言っているのは、その人の希望ではありません。

変わることのない現実、そこから生まれる悲しみにより、魂が目覚めて、意識の焦点が変わり、直感的洞察力により霊的な真実を感じ取っていると考えられます。

理屈ではありません。

その人のオーラを感じたり、無意識の内に想い(インスピレーション)を受け取っていることもあるでしょう。

そこはかとなく存在を感じている人は、決して少なくないと思います。



いくら頭で考えても、分からないことがあります。

向こうにいる人たちの切実な願いは、地上の人の魂が目覚めて、霊的な真実を分かってもらうことです。



参考ページ:「魂(生命)に目覚める意味」





2021年3月14日日曜日

苦しみの中で変わって行く


何のために生きているのだろう?

若い時に、漠然とこんなことを考えることが良くありました。

しかし、答えは見つかりません。

その答えを宗教が示してくれるのかもしれませんが、良いイメージがなかったので、関わることはありませんでした。



そんな疑問などすっかり忘れて生きていましたが、40代半ばに差しかかった時に、突然、ヒーリングの力が出現しました。

直後に「シルバーバーチの霊訓」(霊的真理)に出会い、続けざまに人生を揺るがすような出来事が起きました。

無我夢中になって読んだその本の中に、若い時に抱いていた疑問に対する答えが書かれていました。



生きている理由は、至って単純でした。

自分を成長させるためです。

本当の自分とは、目に視える肉体ではなく、目に視えない魂です。

生命そのものである魂を成長させるために、私たちはこの世に生きています。



宇宙の中には、無数の知的生命体がいると考えられます。

その中でも、人類は高度に進化していると多くの人は思っています。

実際は、そこそこの知性と、未熟な霊性を併せ持つ、進化の程度の低い存在のようです。

その証拠に、同じ惑星の中で争いは絶えず、多くの生き物たちが虐げられています。



霊性の進化に伴って、知性が高まって行くようです。

霊性が未熟なのに、知性ばかりが発達してしまうと大きな問題が生じます。

その最たる例が、原子爆弾です。

アインシュタインに知的なインスピレーション(E=mc²)を与えるのが早過ぎたと、霊界はきっと悔やんでいると思います。



未熟な霊性を、少しずつ進化させて行くことが、生命に課せられた宿命です。

神と同じ霊性に到達したならば、進化の過程は終わりますが、それには永遠の時が必要なようです。

地上で生きる年月は90年位です。

死んで次の世界(霊界)に行きます。

次の世界においても、霊性を進化させる行程は続きます。



地上と霊界の大きな違いは、肉体があるかないかです。

肉体があると、意識が自然に自分に向いてしまいます。

霊界に行き、肉体から解放されると、意識は周囲に向かい始めます。



地上では肉体しか視えないので、個々の存在はそれぞれ独立しているように思えます。

霊界では、個々の存在の間に霊的なつながりを感じます。

自分は独立した存在ではなく、全体の中の一部であることが認識されます。




オーケストラは、それぞれの楽器がお互いに活かし合い、美しいハーモニーが生まれます。

人間も同じであり、お互いを活かし合う中で、全体に調和が生まれます。

死んで霊界に行くと、調和の大切さが身に沁みて感じられ、全体の中で自分をどう活かすかに意識の焦点が向きます。

より活かすためには、それ相応の資質を身に付けなければいけません。



霊界には周囲に自分と同じような人たち(類魂)しかいません。

お互いに考えていることが判り、同じような想いを共有しています。

人間関係の煩わしさは全くなく、生活は快適そのものです。



一方、地上は生き方や考え方が違う人たちの集合体です。

そのため、人と交わると自分との違いを感じます。

生まれる前にいた境涯がそれぞれ違うので、やむを得ないことです。



肉体を持つと、それに付随した精神(地上的な自我)が生まれます。

地上的な自我は、地上を安全に快適に生きることを志向しているので、多かれ少なかれ自己中心的な性質を帯びています。

そのために、自我を主張し合うと、相違から反発が生まれます。

反発を受けると、精神的な苦痛として感じます。

精神的苦痛を回避するために、自我を抑えて、周囲と協調することが求められます。



地上では、自分とは違う意見を認めて、尊重しなければいけません。

同類の人たちしかいない霊界では、自分と違う意見を認める行為はありません。

違いを認めるのは、ある種の苦痛を感じる行為であり、その中で魂の資質である寛容性が身に付くと考えられます。



地上では、肉体があるが故の苦痛が存在します。

電車の中で見知らぬ人に足を踏まれ、痛かったら、思わず怒鳴りたくなるかもしれません。

怒鳴ったら、周囲の調和を乱してしまうために、多くの人は我慢します。



中には、わざと苦痛を感じさせるような人もいます。

そんな人には、どうしても怒りが抑えられなくなってしまうでしょう。

相手に報復をすれば一瞬、怒りが治まるかもしれません。

しかし、因果律の働きにより、さらに怒りが生じる様な出来事が起きてしまう可能性もあります。



怒りは厄介な代物です。

神の心(愛)に反しているために、非がなくても苦しみとして感じてしまいます。

苦しみから逃れるためには、報復するのではなく、怒りを鎮めなければなりません。

そのために、神の摂理の働きを学ぶ必要があります。



全ての行いには、神の摂理が厳格に働いています。

(報復しなくても)その行為に対する相応の苦痛を伴う償いが、因果律の働きによって生じます。

神と神の摂理の働きに、全幅の信頼を置けたのならば、摂理に反した想いを抱いて苦しむことはなくなります。

怒ったり憎んだりするのではなく、無知を哀れむことを、神は望んでいると思います。



自分と違う人たちに囲まれて生活することに、地上に生まれた意義があります。

苦しみから解放されるために、周りではなく、自分が変わることが求められます。

変わって行く過程において魂は成長し、霊界でより周囲と調和するための資質が身に付けられて行くと考えられます。



病気や障害の苦しみも、地上だけのものです。

多くの病気の原因は自分にあり、正すために生じていると考えられます。

病気の苦痛は、長い間自我に埋もれていた魂を目覚めさせ、本来の自分を取り戻すためにある触媒と言えます。

魂が目覚めると、今まで大切に思えたものがどうでも良くなり、霊的に大切なものが視えて来ます。

霊界の人たちと同じ様に、周囲のために役に立ち、調和を意識した生活を送るようになる人もいるでしょう。



障害は、一生付き合わなければならない場合も少なくありません。

その苦しみは、経験した人でなければ理解できません。

現実は、どうしても変えられません。

変えることが許されているのは、自分だけです。

自分自身が、苦しみを感じないような生き方や考え方に変わって行くしかありません。

生きているだけで負荷がかかっています。

霊界に行って解放された時、地上で培った忍耐力、寛容性が如何なく発揮されて、周囲との調和が計られるはずです。



もし、償いによって病気や障害が生じているのであれば、時期が来るまで変われないと考えられます。

しかし、償いが終わったならば、外面は変わらなくても、内面が変わることで、精神的苦痛から解放されるはずです。



スポーツの世界で向上しようと思ったら、練習しなければいけません。

厳しい練習を積むことで、スキルが向上して、精神的な面も鍛えられます。

楽しいばかりの練習では、向上は望めません。



人生も同じです。

試練を乗り越えようとする中で、成長するようになっています。

楽しいばかりの人生では、向上は望めません。



子供の時に読んだ、「アリとキリギリス」の話を思い出します。

アリが毎日苦労をして食糧を貯えているのは、冬に備えてです。

苦労を経験しているのは、来るべき次の世界での生活に備えてです。

そのために計画されていた出来事を、今、経験しています。

キリギリスを羨んではいけません。



神の摂理の働きは完璧です。

不公正は一切ありません。

苦しみの果てに待っているのは、成長した悦びです。

その悦びを、霊界で待っている人たちと分かち合います。

魂の成長として実を結び、次の世界で活かされます。

全てが報われます。



経験することでしか、学べないことがあります。

そして、共有出来ない想いがあります。

地上で学んだことが、周りのために活かされ、深く想いを共有することで、全体の調和が促されます。



向上進化には苦しみが付きものです。

今生の苦しみは、次に待ち受けている世界で、より神の心を表現し、調和する悦びを味わうためにあります。






2021年3月7日日曜日

ドリームボックスについて


日本には、いくつもの「ドリームボックス」があります。

私の住む県にも、人里離れた山奥にあります。

○○県動物愛護センター、あるいは○○県動物管理センターと呼ばれる施設の中にあることが多いです。

各市町村の保健所に収容されている犬猫たちがその施設に集められ、期日が来ると自動追い込み式炭酸ガス装置、俗称「ドリームボックス」に入れられて、この世の最期を迎えることになります。(薬剤投与で殺処分を行う自治体もあります。)



「32743」この数は2019年度に、日本で殺処分された犬や猫の数です。

平成元年度を調べてみると、信じられないことに100万匹を超えていました。

少なくはなりましたが、0にならなければいけない数字です。

ショッキングな画像がありますので、現実を知りたい方だけご覧になって下さい。



数百年後の子供たちには、戒めの気持ちを込めて、きっとこう伝えられると思います。

「あの時代の人たちは、アウシュビッツの悲劇は2度とあってはならないと言いながら、全く同じ行為を罪のない動物たちにしていた」と。



以前の私は、保健所に収容されている動物たちが辿る運命を知っていても、ただ可哀想と思うだけでした。

霊的真理を受け入れてからは、何とかしなければと強く思うようになりました。



少し前の話です。

出身高校の同窓会の懇親会がありました。

その会に私の住む街の市長が同席していて、たまたま話をする機会がありました。

この機会を逃してはいけないと思い、動物たちが置かれている現状や、自分の思いを率直に伝えました。

急にそんな話をされて、びっくりしたでしょうが、耳を傾けてくれたようです。

しばらくして、「後で市長室に来なさい」と言われました。



またとない機会を得たので、動物愛護に特に力を入れている自治体のことを調べました。

そこで判ったのは、自治体によって大きな温度差があると言うことです。

力を入れてない自治体が多く存在する中で、目覚ましい成果を上げているところもありました。

その当時、際立っていたのが熊本市です。

熊本市は、保護された犬猫たちの命を、積極的に助けようとしていました。

保健所の職員の人たちは、休日返上で収容した動物たちの世話をして、新しい飼い主を見つけるための譲渡会を開いていました。

その努力により、殺処分する犬猫の数が0を達成していました。

こんな保健所が、日本にもあるんだと思いました。



後日、私の妻と妻が所属する動物愛護団体の代表の3人で、市役所を訪ねました。

市長室の広さに少々驚きましたが、長いテーブルの隅に市長とともに座りました。

持参した資料を見てもらいながら、熊本市を中心に動物愛護に力を入れている自治体の取り組みを説明しました。

しばらくした時、何か思うところがあったのでしょうか、急に秘書を呼んで「熊本市の資料を集めるように」と伝えていました。

人だけではなく、動物たちの命も考えてもらうことを願いながら、市役所を後にしました。



そんなことなどすっかり忘れていました。

しばらくして、変化があったことに気付きました。

私の住む市でも、保健所が主催する犬猫の譲渡会が開かれるようになりました。

市が発行している広報にも犬猫の譲渡会の記事が載り、市民の知るところとなりました。

多くの市民が譲渡会に足を運び、保健所にいた犬猫たちに、新しい家族が決まりました。

聞くところによると、職員数名を熊本市に派遣して、動物愛護事業のモデルにしたそうです。

市長に熊本市の話をしたことがきっかけで、この様な展開になったのかは定かではありませんが、もしそうであれば、思い切って話をして本当に良かったと心から思いました。



シルバーバーチの霊訓に、こんな一文があります。

「霊界から大々的に援助を受けていると言う事実を分かって欲しいのです。」

「皆さんは自分で気づいている以上に、霊界からいろいろと援助を受けています。」

振り返ってみると、懇親会で市長に会った時、何の躊躇もせずに動物たちのことを話そうと思ったのも、市長室で慣れないプレゼンテーションが無事に出来たのも、自分の力だけではなく、霊界の援助があったと思います。

こいつの話をもう少し聞いてみようと市長が思ったのも、熊本市と同じことをやってみようと決断したのも、霊界の働きかけがきっとあったと信じています。



人の力には限界があります。

「何をしても現状は変わらない」「やっても無駄」と、理由を付けて最初から諦めてしまうこともあります。

しかし、地上の人の想いと霊界にいる人の想いが一致したのならば、視えない援助の力が加わります。

ある時はインスピレーションの形となり、ある時は内から湧き出す力となって、一歩を踏み出たしたり、前に進んで行く力となります。

必要な人と、出会わせてくれることもあるでしょう。

地上の人は霊界の援助を受けて、持っている以上の力が発揮されて、思っていた以上の結果が得られることがあります。



霊界の人たちは、地上の人間の犯す過ちをたくさん見ています。

その中でも、罪のない動物に対する酷い仕打ちには、心を痛めていると思います。

人間と動物は、生命として同列です。

しかし、勝手に優劣を付けて、動物たちを蔑ろにしています。

搾取、虐待、屠殺、その他不当な扱いを受けている地上の動物たちの悲鳴(想い)は霊界に届き、何とかしなければならないと、強く思っているでしょう。



もし、動物愛護に関わる人がこのブログを観ているのであれば、伝えたいことがあります。

動物愛護に協力している霊界の存在はたくさんいます。(その先頭に立っているのが、アッシジの聖フランチェスコと言われています)

思い切って行動に移してみると、何か変わるかもしれません。

1人の力は小さくても、動物を慈しむあなたの想いに、霊界の存在が引き付けられ、援助の力が加わり、好ましい結果が生まれると考えられます。

動機が動物のためであれば、動きそうにないものが、動くことがあります。

最初の一歩を踏み出すのは、地上の人の意思です。

踏み出した後は、霊界から惜しみのない援助が得られ、想いは具現化して行きます。



話は変わります。

「ペットは死後も生きている」(シルビア・バーバネル著・ハート出版 絶版)という本があります。

その中に、イギリス有数の霊媒であるレナード女史が幽体離脱をしている時に垣間見た、動物たちの死後の様子が書かれています。

ちょっとショッキングな内容になりますが、転載します。

「ある夜、肉体から出たあと私は、いつものように上昇して行かないで、無理やり水平飛行をさせられているような、重苦しい感じがした。気がつくと、暗くて狭い通りに立っていたーというよりは、立っている姿勢を保っていただけで、地面に足をつけていなかった。足元が汚泥で気持ち悪かったからである。

 あたりを見回すと、家畜小屋のような汚い建物が密集していて、建物と建物の間は人間がやっと通れるほどしか空いていない。が、ところどころ、広く空いているところがあり、そこから囲いのある広い敷地へと通じている。

そこから中をのぞいてみると、そこには動物の群れがいる ー仔牛、豚、羊などー が、みんな死んでいる。いや、生きているー地面に横たわったまま身体を動かしているのだ。私はピンと来た。今しがたと畜(殺)されたばかりなのだ。

私は、ありたけの精神力をふりしぼって、その光景を見つめた。よほどの精神力がないと、とてもみられたものではなかった。それほど惨たらしい雰囲気に包まれていたのである。私はこれまで、平均的人間が死後に赴く世界をたびたび訪れてきたが、この場所はそれとはまったく異なり、一種異様な恐ろしさが漂っていた。が、それが一時的なものであることは私にも分かっていた。が、ともかくも私にはこれ以上その状態を叙述する気にはなれない。

そのうち誰かが語りかけているのを感知した。姿は見えず、遠いところにいるような感じがした。あとでその声の主は私の背後霊団の一人であることが分かったが、その霊が教えてくれたところによると、その動物たちが置かれている場所は地球と幽界との中間に位置しているとのことだった。

あの惨たらしい雰囲気は、人間の食糧として毎日のようにおびただしい数の動物が物的身体を奪われていく、その忌むべき行為から生まれるもので、物質界にきわめて近接した界層にあり、本格的な幽界に入らない中間地帯であるという。

その恐怖と苦痛、それに、誰をということもない恨みの念があたりに渦巻いていて、それが建物や壁よりもなお強い存在感もって迫ってくる。さきほどの背後霊は、その念、その感情の波動を何とかしなければならないのだと言っていた。

それは動物たちがどれほど苦痛を味わっているのかの指標であるばかりでなく、それが地上界も霊的ならびに精神的大気を汚し、人間生活を毒し、進歩を阻害しているからだという」

レナード女史は、この経験をしてからは、動物の肉を食べるのを止めたそうです。それまでの女史は、肉を食べながらそれが、かつては人間と同じ大気で呼吸しながら大地を闊歩していたのだということ、そして、殺される時は人間と同じ苦痛と恐怖を抱いたのだということに思いが至らなかったと述べています。(転載終わり)




動物たちは、最期の瞬間の想いのまま、あの世に移ります。

「ドリームボックス」の中に入れられた犬や猫たちは、どんな想いであの世に行ったのでしょうか?

恨んでいたのでしょうか?

裏切られて悲しんでいたのでしょうか?

それとも、愚かな人間を哀れんでいたのでしょうか?


1人でも多くの人に現実と霊的真理を知ってもらい、地上からこんな過ちが早くなくなることを祈ります。





私たちにも出来ること


・肉を食べない

・皮革製品を買わない

・ペットを飼いたい時は、買うのではなく、保健所や動物愛護団体から譲渡してもらう

・飼いたいと言っている人がいたら、保健所や動物愛護団体から譲渡してもらうように勧める



参考ページ:「人は肉を食べる生き物ではない」




2021年2月28日日曜日

生まれ変わりの目的


人は死んだら生まれ変わるのか?

遠い昔から、世界中の人たちの間で関心があったようです。

輪廻転生」と言う言葉を、時々聞きます。

「輪廻」は車輪がぐるぐると回転し続ける、「転生」は生まれ変わること、人が何度も生死を繰り返しながら生まれ変わることを意味しています。



仏教では、天界、人間界、阿修羅界、畜生界、飢餓界、地獄界があり、そのどこかの界に生まれ変わるとされています。

畜生界に行けば、人間ではなく動物や昆虫などに生まれ変わるようです。

もし、鳥に生まれ変わるとすればどうでしょう?

鷹であれば、外敵に襲われることもなく、自由に空を飛べるので、それほど悪くはないような気もしますが、同じ鳥でも養鶏場のヒヨコに生まれれば、過酷な運命が待ち受けています。

              


何度か生まれ変わって、今、この世界に生きているのは事実です。

しかし、人間は人間にしか生まれ変わりません。

それには理由があります。



この世に生まれて来たのは、決して偶然ではありません。

過去に生きて来た(過去生の)結果として、この世に生まれて来ました。

これまで生きて来た結果が、現在の自分です。

原因と結果の連鎖で、全てが1つにつながっています。



あの世に行くと肉体がなくなります。

肩書など見せかけの自分は消滅し、本当の自分(魂)が露わになります。

霊的に目覚め、新しい世界に順応して行きます。



しばらくすると、この世では意識しなかった、完全な存在(神)をありありと感じるようになるようです。

それに伴って、自分(魂)の足りない部分、不完全な側面が意識されます。

完全に近づきたい、より上に昇りたい、そんな衝動に駆られるようです。



あの世は、厳格な界層社会です。

その人の魂の成長度(霊性)によって、どの界層に赴くのか決まります。

上の界層には行きたくても行けず、下の界層には行く気にならないようです。



この世でも多くの人が、自分をより成長させたいと願っています。

あの世に行くと、その欲求がさらに強くなるようです。

上に昇るためには、叡智を学びながら、自らが成長しなければいけないからです。



私たちは、たくさんのことを学校で学んで来ました。

卒業した後も、仕事の知識や技術、家事の仕方、社会のルールなど、たくさんのことを学んでいます。

そして、教科書やマニュアルが存在しない霊的に大切なことを、経験を通して学びながら生きています。



小学校に入ると、まず数字を覚えて、足し算、次に引き算を習います。

次の学年になると、掛け算を習います。

数字を覚えなければ、足し算は出来ず、足し算が出来なければ、掛け算は難しくなります。



霊的に大切なことも、学ぶ順番があるようです。

幼い時は、得てして自己中心的です。

自分勝手な行動をして、仲間外れにされて、寂しい思いをしたりします。

そんな経験を通して、「自分勝手なことをしてはいけない」「周りと協調しなければいけない」など、霊的なことを学んでいます。

親や先生からも聞かされましたが、口で教えてもらうよりも、実際に経験して、それなりの代償を払った方が良く身に付くようです。



年を追うごとに、自分以外の存在にも関心が向いて行きます。

仲の良い友達が出来て、一緒に遊んだりして想いを共有します。

助け合ったり、励まし合ったり、慰め合ったりして、「友好」を温めて行きます。



学校を卒業して社会に出ると、組織の中に身を置くことになります。

金銭をもらう代わりに、会社やお客様のために、労働という形で「奉仕」をするようになります。

人や社会に喜んでもらうと、自分の喜びになることを知るかもしれません。



結婚すると自分だけではなく、配偶者のことも考えて生活するようになります。

子供が生まれると、子育てを優先した生活を送るようになります。

自分よりも大切に思える存在があることを知るかもしれません。



大きくなるのに従って、自分だけではなく、他者のことを意識して生きるようになります。

自分のためから、他者のために生きるようになって行きますが、それが本当の意味での人間の成長と言えます。

誰もが同じような過程を辿るのは、学んで行く順番があるからです。

生まれてからこれまでに起きた出来事は、自然法則の働きを学び、成長するためのかけがえのない機会となっているはずです。

私たちは段階を踏みながら、他者への奉仕が無理なく出来るように、無限の叡智によって導かれています。



そうは言っても、地上に生きる私たちには肉体があります。

そのために、どうしても自分に意識が向いてしまいます。

世界中で、新型コロナウイルスが流行しています。

既に治っているにも関わらず、感染した人を避けたり、差別的な言動を取ってしまう人がいると聞きます。

自分が移されたくない気持ちの表れだと思います。

肉体があるために、自分を守りたい気持ちは生まれながらに備わっていますが、それに打ち克って、思いやりや優しさを表現することで、魂は成長して行くと思います。

そのために、この世に生まれて来たと言えます。



人間(魂)は多面的です。

誰でも、(神の摂理に適っていない)不完全な側面を持っています。

いくつかの不完全な側面を表に出して生まれて、その側面が表現されると、苦痛を伴う出来事が生じます。

肉体的、精神的苦痛を味わうことにより、不完全な面が正されて行きます。

魂が完全に近づくために、苦痛のある地上に生まれるのが早道と考えられます。

過去生と今生のパーソナリティが同じでないのは、表に出ている側面が異なるためと考えています。

生まれ変わりを繰り返す度に、不完全な側面が正されて行き、地上で正すことがないほどの魂になったら、生まれて来る必要はなくなります。



不完全な側面は、その人の欠点として認識されます。

そこを正すために敢えて前面に出して生まれて来たのであり、自分自身にも不完全な側面はいくつもあるので、咎めてはいけないと思います。

不完全さ(欠点)を認め合い、許し合うことで争いはなくなり、魂も成長して行くと考えられます。



時に、地上的な欲望が強くなり、自分のことしか考えなくなってしまうと、神の摂理に反した行いをしてしまいます。

摂理に反した行いをする前に、内在する良心(神)がやめるように訴えていますが、その声を無視して行動に移すと、カルマ(業)が生じます。

カルマが生じたことなど知らなくても、因果律は厳格に作動します。

最適のタイミングで出来事が起きて、そこから生じる苦痛によって、罪を償うことになります。

蒔いた種の結果を刈り取らされているのですが、因果律の働きによるものと判らなければ、何で自分がこんな目に遭わなければいけないのかと、憤慨してしまうかもしれません。

死んだ後に、出来事の意味(原因)がはっきりと判ると、不平不満を言う人はいなくなるようです。



重大な摂理に反する行いをしたら、来生で償うことになるでしょう。

もし、身勝手な理由から、人を傷つけたり、その人の成長を妨げるようなことをしてしまったら、自らの成長を犠牲にして、その罪を償わなければなりません。

より上に昇ることを希求する魂にとって成長が許されないのは、自由を奪われるよりも苦痛に感じるのかもしれません。



もし、罪を償うために、動物に生まれ変わったとしたらどうでしょう?

他者のために生きられないので、成長は望めないでしょう。

動物の肉体に閉じ込められるだけであり、学ぶものもありません。

冒頭に書いたヒヨコや、食用となる動物に生まれたとしたらどうでしょう?

もし、学ぶことがあるとすれば、人間の怖さや残酷さだけのような気がします。

人間の意識を持ったまま、そんな動物たちに生まれ変わるとすれば、償いではなく、ただ拷問です。

そんな計画を、神が用意するはずはありません。



もし、人間として生まれ変わるとしたらどうでしょう?

身体を全く動かせない状況で生まれたのなら、他者のために生きることが出来なくなります。

それどころか、人の助けがなければ、生きて行くことが出来ません。

一生涯に渡って、助けを受けていれば、否が応でも人のために何かをする意味、その有難さを身を持って学ぶことになると思います。

全ての出来事は、神の法則の働きによって起きています。

従って、償いであると同時に、魂の学びにもなっていると、私は信じています。



何の前触れもなく出来事が起きたのならば、それは生まれ変わる前に決まっていたことかもしれません。

その出来事により、どれほどの苦しみや痛みが生じたとしても、目的が成長するためなので、耐えられないことはありません。

誰かのせいにしたり、不平不満を言ったり、運命を呪ったりすると、その分だけ苦しみや痛みが大きく感じられるかもしれません。

例え原因が判らなかったとしても、成長のために起きているのは確かであり、生まれ変わる前の自分は承知していたはずです。



生まれ変わりは、何の目的もないまま、機械的に繰り返されるのではありません。

目的の全ては、魂の成長のためです。

人間が人間に生まれ変わるのは、人間の中で生きることでしか、不完全さが正されず、罪も償えず、教訓も学べないからだと思います。





2021年2月21日日曜日

死んでも意識はなくならない


私は今年で60才になります。

月日が経つのは早いものです。

昔の私でしたら、あと30年位しか生きられないと寂しく思ったかもしれません。

霊的な知識を得た今は、あと30年位で向こうに行けると思うようになりました。



向こうの世界に行くには、あることを経験しなければいけません。

それは「死」です。



私にとって、死は怖いものでした。

死ぬと意識がなくなってしまうと考えていたからです。

自分自身が消滅してしまうのが、無性に怖かったのです。



医学的に、脳の活動が完全に停止(脳死)した状態が、人の死と定義されています。

脳の活動が停止すると、意識はなくなると考えられています。



本当に、脳の活動が停止すると意識がなくなるのでしょうか?

1991年、アメリカで行われた手術で、興味深い出来事が起こりました。

手術を受けた人は、パム・レイノルズと言う女性ミュージシャンでした。

彼女には、大きな脳動脈瘤があり、それを除去する手術が予定されました。

極めて難易度の高い手術であり、動脈瘤を除去するために、低体温下で心肺を停止させて、一時的に脳の血流を完全に止めなければなりませんでした。

全身麻酔を施すために、彼女の眼はガーゼで密閉され、耳には脳幹部の脳波が停止しているのを確認するために、100デシベルの音量の音楽が流れるイヤホンが装着されていました。

これによって、目や耳から外部の情報は一切入らなくなりました。

手術が始まる前、脳の血流が完全に止められ、予定通り彼女の脳波はフラットになりました。

心肺が停止し、脳の活動も停止し、人の死に当たる状態となりました。



手術が始まった時、彼女には驚くべきことが起きていました。

麻酔剤を注入され意識を失った後、脳波がフラットになっているのに、頭がい骨を切るのこぎりの音で意識を取り戻したそうです。

そして、執刀医の肩のあたりから手術の様子を眺めていたそうです。

また、医師のこんな会話も聞いていたそうです。

「静脈と動脈が細すぎる」


手術中に自分に起きていた不思議な出来事を、後で周りの人に話しました。

あり得ないことだと、家族は笑ったそうです。

ところが、現場にいた医師たちは青ざめたそうです。

彼女が語った内容と、手術室で起きていた出来事が完全に一致していたからです。

この事実は、しばらくの間、固く口留めされました。

その理由は、麻酔の効きが不十分だった可能性があり、医療ミスとして訴えられるかもしれなかったからです。

しかし、術中の脳波はフラットになっていたのですから、覚醒していた可能性は0%です。



手術中の女性に起きた出来事から、2つの事柄が導き出されます。

1つは、脳の活動と意識は全く関係ない。

もう1つは、意識は肉体から離れて存在し得る。



意識は、物質的なものではないことは明白です。

私が知っている霊(魂)の概念と一致しています。

意識の本体は霊(魂)と考えても良いのではないでしょうか。



偉人として世界中に知られているヘレンケラーは、人生観を変える体験をしています。

15,6才の頃に書斎にいながら、意識は遠く離れたギリシャのアテネに行っていたそうです。

その体験について、著書「私の宗教」の中で、こう書いています。

「私の霊魂が実在すること、しかもそれは場所や肉体の制約を完全に超えていることを悟ったのでした。何千マイルも彼方の場所をこんなにありありと“見たり”感じたりしたのは、私が霊そのものであり、そのことにもはや疑う余地はありませんでした。」

ヘレンケラーの意識は肉体から離れ(幽体離脱をして)、アテネの風景を霊的な眼で視ていたと考えられます

五感を通さなくても、外の様子を認識することが出来たのです。

視覚と聴覚を失っているヘレンケラーにとって、その体験は驚きであると共に、大きな悦びであったのに違いありません。

ヘレンケラー


全ての現象を、脳の働きで解釈しようとする人がいます。

科学的に証明することが出来ない魂の存在を頑なに否定し、こじつけに過ぎない理論(仮説)を展開しています。

魂は物質を超えた存在です。

五感に触れるものではないので、普段意識することはありません。

そのために、自分の本質であるのにも関わらず、存在を信じられなくなっています。



そんな人たちに、1度聞いてみたいことがあります。

科学的に証明されていない「愛」は、存在していないのでしょうか?

脳が作り出した幻覚なのでしょうか?

実感したことがある人なら、確かに存在しているのが判るはずです。

愛の存在は肯定し、魂の存在を否定するのならば、それこそ科学的な態度ではないと思います。



それでも、目に視えない愛の存在を信じている人であれば、目に視えない魂の存在も信じられるようになるはずです。

何故なら、愛は魂から生まれて、魂で感じているものだからです。



さまざまな思念は脳ではなく、意識の本体である魂から生じています。

この世では、思念を肉体によって表現しています。

悲しければ涙を流し、怒れば怒鳴ったりします。

伝えたいことを言葉にしています。

コンピューターは、入力されたものを演算処理をして出力しています。

脳も同じで、精神から入って来た情報を処理して、肉体に指令を出しています。



この世に生きる私たちは、五感を頼りに生活をしています。

そのため、コミュニケーションには手間がかかります。

思念が生まれると、精神の働きによって、どう表現するべきかが決められ、脳から肉体に指令が出されて、肉体がそれに従って動き、外に向かって表現されます。

この一連の作業が無意識に行われています。

外に向かって表現されたものは、他者の五感によって受け取られ、脳で処理され、精神が認識し、それに応じた思念が生まれます。

コミュニケーションとは、その繰り返しです。



あの世に行くと、一気に簡略化されます。

思念は、インスピレーションとなって相手の魂に直接伝わります。

以心伝心なので、肉体や脳が存在しなくても良いのです。



あの世でもこの世でも、同次元の人同士とのコミュニケーションは、さほど難しくありません。

ただ、この世では思っているのと違うことを伝えたり、思っているのと違ったことが伝わったりします。

嘘が存在し、齟齬が生じるのがこの世です。

あの世ではあり得ません。



携帯電話が普及している現代において、直接会わなくても、コミュニケーションするのが当たり前になっています。

ところが、電話などの通信手段がなかった時代では、直接会って、コミュニケーションをしなければなりませんでした。

あの世の人にとってこの世の人は、携帯電話で会話をしている私たちが、電話がない時代の人たちを眺めているのと同じで、非効率で不確実な手段でコミュニケーションをしているように見えているはずです。



この世とあの世では、コミュニケーションの仕方が全く違います。

従って、次元を超えてコミュニケーションをするのには、どちらかが相手の仕方に合わせなければなりません。

あの世の人には、もう肉体はありませんので、この世の人に合わせるのは不可能です。



私たちは、五感(肉体)を通したコミュニケーションに慣れ切っています。

けれども、霊的な存在であることに変わりはありません。

思念を感じる能力が、元々備わっています。

その能力が賦活化されれば、コミュニケーションは可能なはずです。



この世にいる人とあの世にいる人の違いは、肉体を介して自己表現をしているか、介さずに表現しているかの差だけです。

この世にいる人も、睡眠中は意識は肉体から離れ、あの世に行き、肉体を介さずに自己表現をしています。

臨死体験をしている時もそうです。



手術中のパム・レイノルズさんですが、他界しているおばあさんに呼ばれて、意識が自然に上昇し始めたそうです。

トンネルのような場所を通り抜けると、そこは眩い光の世界で、光で出来たような人たちがいたそうです。

おばあさんの他に、他界した伯父さんもいましたが、なぜか先に進めないような気がしたそうです。

その後、伯父さんに付き添われて、トンネルの入り口まで戻りました。

そこにはシーツに包まれた自分の体が横たわっていて、それを見て怖くなったそうです。

伯父さんに背中を押し出されるように自分の体に入りましたが、冷たいプールに飛び込むような感じがしたそうです。



臨死体験をした人は、彼女のように他界した人たちと会っているはずです。

夢と一緒で、その時のことを頭で理解し切れないので、思い出せないのかもしれません。



死ぬと意識がなくなり無になると証明した人は、誰一人としていません。

死と言われる状態になっても、意識はなくならずに、肉体から離れて存在していたと証言している人はたくさんいます。

どちらが真実なのか、判り切ったことです。

不毛な論争はもう終わりにして、前に進んで行く時期が来ているのではないでしょうか。



心臓の鼓動は、いつの日か止まります。

それに伴い、脳の活動は完全に停止します。

瞳孔が散大して、医師が死を宣告するでしょう。

肉体は火葬されて骨になります。

けれども、意識は変わらずに存続しています。

死は怖くないのです。











2021年2月14日日曜日

真理の実践


世界にはたくさんの宗教があります。

以前の私は、宗教と聞くと、何やら胡散臭いものだと思っていました。

変わった教祖がいて、盲目的な信者がお布施を搾り取られている、そんなイメージしか持っていませんでした。



16年前になります。

ある朝、起きたらヒーリングの力が出現していました。

その後すぐに、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に出会いました。

そして、人生を大きく揺るがす出来事が起こりました。

わずか1か月の間に、立て続けにあったので、「人生は計られている」と、思わざるを得ませんでした。

起きた出来事に追い詰められて行く中で、「因果律の働き」を思い知らされ、神と神の法則を信じるようになりました。

絶妙のタイミングで霊的真理に出会えたのは、霊界の導きによるものと確信しています。



霊的真理を知ったことにより、若い時から感じていた「何で生きているのだろう?」と言う疑問が解決されました。

死んだ後も人生は続いていることが判ったので、欲張って生きようとしなくなりました。

上辺ではなく、内面を視るようになりました。

他にもたくさんあります。

霊的真理は、計り知れない恩恵を私に与えてくれたのは間違いありません。



知っている人は、まだ知らない人たちに伝える責任が生じます。

キリストの12使徒は、各地を歩いて回り、口述でイエスの教えを伝えました。

そして捉えられ、殺されました。

その時代は、伝えるのも命がけでした。



今は、インターネットや書籍によって、自分の持っている知識を、世界中の人に知らせることが出来ます。

昔のように、捉えられ、殺されることもありません。

知りたい人は、簡単に情報にアクセスできるようになりました。

ところが、様々な情報が氾濫していて、何が正しいのか判らなくなっています。

真理に辿り着いたつもりで、とんでもない宗教(組織)に捕まっている可能性もあります。



人工的な教義に塗り固められた宗教に関わることなく、最短で無垢な霊的真理に辿り着いてもらいたいと思いました。

12年前にこのブログを開設しましたが、シルバーバーチの霊訓を読んでみようと言う気持ちを起こさせるのが目的でした。

軽い気持ちで始めましたが、真剣に読んで下さる人がいることを知り、気を引き締めて書かなければいけないと思うようになりました。

時々、内容に対する意見や感想を書いたコメントが寄せられましたが、そのうちに、ご自身が抱えている悲しみや苦しみや怒りを吐露されたコメントをいただくようになりました。

その度に、私自身が真理と向かい合うことになります。

抱えられているご事情は様々ですが、現実に打ちのめされている人が少なくありませんでした。

この世は、やはり修行の場であることを再認識しました。

そして、現実に起きていることの意味(目的)が、霊的真理の中に見い出せることに気付きました。

私がそうだったように、人生を一変させる力を霊的真理は持っています。



シルバーバーチは宗教について、こう言っています。

「私が説く宗教は実践の宗教です。1日1日の宗教-1日24時間、1時間60分、1分60秒、そのすべてを実践の時とする宗教です。それが私の評価の基準です。」

知っているだけでは、だめなようです。

生きている時間すべてが実践、とても難しい課題だと感じました。



ところで、実践とは何をするのでしょうか?

私にとって1番大切な実践は、霊的真理を伝えることだと思います。

自分が受けた恩恵を、他の人にも享受してもらうことです。

当初は、伝えなければいけないと力んでいましたが、必要としている人、求めている人は、私が考えていたほど、多くはありませんでした。

実際に、伝える機会が訪れるのは数ヶ月に1度位だったかもしれません。

それでも、必要としていると思ったら、ためらわずに伝えることが大切です。

今は必要なかったとしても、種を蒔いておくのは無駄にはなりません。

現実に打ちのめされる経験をした時に、ふと思い出してくれるかもしれないからです。



真理を伝えることも大切ですが、それ以外に何が実践できるのか考えました。

何か人や社会の役に立つことをしてみようと思いました。

仕事を完全に離れる期間があったので、身体障害者施設で活動支援のボランティアを始めました。



施設に入ると、私の全く知らなかった世界が拡がっていました。

印象的だったのは、重度の障害がありながらも、精一杯生きようとしている人たちの姿でした。

それを支えているスタッフの姿にも、感銘を受けました。

しかし、中には自分の身の不幸を嘆いている人もいました。

そんな人と話す機会が与えられたような気がしました。



生まれてから今までベッドの上で暮らし、好きなところへも行けず、何をするのも一人ではできません。

想像を絶する苦です。

この人にこそ、霊的真理が必要と思いました。

この世で終わりではない、今の肉体から解放されて自由になれる時が来ると伝えました。

神妙に聞いていた横顔は、今でも記憶に残っています。

ある時、その人のお母さんが来ていました。

息子さんを見る眼差しに、不憫に思う気持ちや罪悪感らしきものを感じましたので、「シルバーバーチの霊訓」を読むように勧めました。

答えを見つけていたのであれば、きっと読んでいると思います。

思い切って行動すると、伝える機会が広がり、真理の理解にもつながると感じました。



話を戻しますが、実践することは他にあるのでしょうか?

霊的法則の中で1番大切なものは、「互いに愛し合うこと」とシルバーバーチは答えています。

「愛し合う」と言うと大げさに聞こえますが、普段の生活の中で、何か役に立ったり、助けたり、優しくするのも、他者へ愛を表現していることになります。

それも立派な実践ではないかと思います。

小さなことですが、電車でお年寄りに席を譲るのも、困っている人がいたら声をかけるのも、運転中に道を譲るのもそうです。

悩みを聞いたり、慰めたり、勇気付けたりするのもそうです。

保健所にいる動物たちを家族として迎え入れるのも、肉を食べないのもそうです。

落ちているゴミを拾って捨てるのもそうです。

            


外に対しての、行いばかりではありません。

日常生活では、腹が立つことも起こります。

寛容の精神を発揮し、怒らずにやり過ごすのも実践です。

難しいことですが、人の過ちを許すのも実践です。

つらくても投げ出さずに、やり遂げるのも実践です。

簡単なものから難しいものまで、実にたくさんありそうです。

日々の仕事や家事をするのも、忘れてはならない実践だと思います。

そう考えると、実践することは、いつもあるような気がします。



特別なことではなく、誰かのためになっていたり、毎日を一生懸命生きることが、実践になっていると思います。

霊的真理を知っていなくても、人は実践しようと生きていると思います。

内なる声が、そうさせていると思います。



真理を知ることは、魂をより成長させる早道を見つけたことになります。

成長させる方向に進んで行かなければ、知った意味がなくなってしまいます。

魂が目覚め、真理を知ると、良心の声が聴こえるようになるはずです。

いけないと知りつつ過ちを犯すのは、知らない人よりも許されなくなります。



真理の実践とは、積極的に何かをすると言うよりも、良心に忠実になり、成長する生き方を心がけることかもしれないと思いました

口で言うほど簡単ではありませんが、心がけていれば、悔いのない人生になると思います。



最後に、自戒の意味も込めてシルバーバーチの言葉で締めたいと思います。

「要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人に尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりはあった方がましです。が、その人の真の価値は毎日をどう生きたかに尽きます。」

「現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてないか、今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか、そう反省してみることです。」






2021年2月7日日曜日

健やかに生きるために


毎日、虫歯になった人の治療をしています。

痛みに耐えられなくなって来る人が多いのですが、もっと早く来ればこんなにひどくならず、治療も簡単に終わったのにと思うことがしばしばです。



ご存知でしょうが、虫歯の原因は歯に付く汚れ(歯垢)です。

歯垢の中にたくさんの細菌がいて、細菌が出す酸によって歯が溶かされて虫歯になります。

昔の人はそんなことなど知りません。

虫歯になったら、麻酔もなしに激痛に耐えながら、歯を抜かなければいけませんでした。

もし、原因を知っていたのなら、もっときれいに歯を掃除していたでしょう。

江戸時代の抜歯の風景 国芳画


虫歯の原因は歯垢だけでしょうか?

良く歯を磨いているのに、虫歯を作って来る人は少なくありません。

そんな人は、甘い食べ物や飲み物が好きなことが多いです。

ご存知でしょうが、砂糖には虫歯菌を増殖させ、歯垢をたくさん作る働きがあります。

歯を良く磨いたつもりでも歯垢が残ってしまい、そこから虫歯になります。



日常でストレスを感じると、甘いものを食べたくなる人もいるようです。

そんな人は、ストレスが甘いものを食べることによって和らぐ気がするようです。

また、歯や歯周組織に悪影響を及ぼす夜間の歯ぎしりも、日中のストレスを寝ている時に解消していると言われています。



以上のことから、口の中の病気の原因は歯垢(細菌)と言う物質的なものだけではなく、ストレスと言う精神的なものが深く関わっていると言えます。

実際に、退職したり、介護が終わるなどストレスがなくなると、お口の中の状態がみるみるうちに改善する人が見受けられます。

他の多くの病気も、ストレスなど精神的な原因が関わっていると思います。



霊的真理では、病気は肉体と精神と霊(魂)の不調和から生じると書かれています。

不調和とは、どんな状態なのでしょうか?

私は、3者が協調的に働いていない状態と考えています。



霊(魂)から生じた思念は、精神を介して、肉体で表現されています。

無意識に、それを繰り返しながら、私たちは生活しています。

その一連の流れが、何らかの理由で上手く行かなくなると、不調和が生じ、高じると病気になると考えています。



思念は、肉体的表現の元となるエネルギーです。

怒りの思念(想い)が生じると、怒鳴ったりする人がいます。

中には物を投げたり、壊したりする人もいるでしょう。

悲しくなると、人は泣きます。

怒鳴ったり、涙を流すことで、自分の想いを肉体によって表現しています。

後で、すっきりするのは、内にある想いが肉体的表現によって外に吐き出されたからと考えられます。



もし、吐き出されなかったらどうなるでしょう?

怒りの想いであれば、血圧は上昇し、脈は速くなり、身体の興奮状態が続きます。

悲しみの想いであれば、活力は低下し、酷くなるとうつ状態になってしまうかもしれません。



話は変わりますが、人は魂が剥き出しの状態で生まれて来ます。


物心がつく頃に、精神上に地上的な自我(以下自我)が形成され、自我を発達させながら、大人になって行きます。

              

自我は、地上で自分(魂)を表現するための媒体であると共に、外部環境から自分(魂)を護る役割があると考えています。



魂から生じている思念は、言葉にならない抽象的なものです。

抽象的なものが、自我により具体化され、肉体に指示が出されて具現化(表現)しています。

自我は、頭脳を駆使して思考を行い、表現するべきかどうかを決めています。

怒りを表現すると、相手を攻撃してしまい、好ましくない結果を生んでしまうと予測したのなら行動を止めます。

泣いているのを見られると、余計な心配を与えてしまうと考えたのなら、涙をこらえます。



生命とは魂です。

私たちは、魂に供給される生命エネルギーによって生かされています。

そのエネルギーは神を始源としているので、愛を帯びた神的エネルギーと言えます。

もし、私たちが完全な存在ならば、愛のみが表現されるはずですが、不完全な媒体を併せ持っているので、どうしても歪めらて表現されてしまいます。

怒りや憎しみも、不完全な媒体によって歪められてしまった神的エネルギーの1つの表現と言えます。

シルバーバーチは、人を憎むことの出来る人は、そのエネルギーを愛に転換できると言っています。



不完全な肉体及び自我を通して、自己表現をしているのが地上の人です。

愛とはかけ離れた、憎しみ合い傷つけ合う形で表現されてしまう一方、そのまま表現される時があります。

駅のホームから落ちた人を、電車が迫って来ているにも関わらず、飛び降りて助けようとした人がいました。

残念ながら亡くなってしまいましたが、神的エネルギーが自我の影響を受けずに、そのまま表現されたと考えられます。



霊(魂)が主であり、精神(自我)が従です。

魂から生じた想いが、自我(精神)により妨げられることなく、肉体で表現されているのが調和が取れた状態と考えています。

そうあるべきなのですが、自我が強くなり過ぎて、主従の関係が崩れてしまうと、不調和が生じると考えられます。

自我に妨げられて、本当の自分の想いが表現出来ずにいると想いが溜まり、溜まった想いが閾値を超えると、心身に変化をもたらすと考えています。



虫も殺せないような人が、戦争で命令を受けて、何人もの人を殺さなければならなくなったとしたらどうでしょう?

著しい不調和が生じて、心身を病んでしまうと思います。

動物が大好きな人が、仕事で犬や猫の殺処分を任されて、ガス室のボタンを押し続けたとしたらどうでしょう?

同じく、心身を病んでしまうと思います。



以前にも書きましたが、端的な事例があります。

2011年3月11日、東日本大震災が発生して、福島第一原発が津波に襲われて原子炉が損傷しました。

当時の所長は、過熱した原子炉を冷却するために海水を注入しようとしました。

そうしなければ原子炉が融解して、周囲に放射能をまき散らすことになるからです。

会社の上層部に進言すると、そうすれば原子炉は使い物にならなくなり、会社の損失があまりにも大きいと考えたのでしょう、許可を与えませんでした。

所長の魂(良心)は、放射能汚染が起きた時の甚大な被害を考えて、海水を注入しようと訴えていたと思います。

一方、自我は会社における自分の立場を考え、上層部の命令に従わなければならないと訴えていたと思います。

良心(魂)と地上な立場を考える自我(精神)の間で、極めて大きな葛藤が生じていたと想像されます。

最終的に、上層部の命令を無視して、良心に従って海水を注入しました。

翌年、所長は脳出血で倒れ、そして食道がんになり、事故後2年で58歳の若さで亡くなっています。

魂(霊)と精神の間に著しい不調和が生じたため、その結果として肉体上に深刻な病気が現れたと考えています。

因みに、被ばくにより食道がんを発症するには少なくとも5年かかり、事故の被ばくが影響した可能性は極めて低いとされています。



会社や家族のために、自分の想いに蓋をして、生きている人はたくさんいるでしょう。

良心の訴えに目を瞑り、生きて行くために、やりたくないことをやり続けている人もいるでしょう。

現代社会において病気になる人の多くは、真の自分の想いを表現することが出来ず、自我や他者の言うことに盲目的に従っている生き方が、大きな原因になっていると思います。



病気には苦痛が伴います。

苦痛により、肥大した自我が吹き飛ばされ、魂が目覚めて、内にある本当の自分の想いに気付くことになるかもしれません。

そして、自分本来の生き方に戻るかもしれません。

病気は、霊と精神と肉体の不調和から生じると同時に、霊が主の調和が取れた状態を取り戻すために存在していると思います。



あるゆる事象は、神の創った自然法則の働きによって起きています。

神は、自然法則の働きによって、生命を進化させることを目論んでいます。

いかなる病気も、自然法則の働きにより生じています。

従って、不運や不幸なことではなく、そこには明確な目的が存在するはずです。

その大きな目的の1つは、真の自分に目覚め、自分を成長させる生き方に変えるためと、私は考えています。



健やかに生きるための養生訓を、もう1度書いてみました。


1. 心穏やかに過ごすように努める
2. 寛容になるように努め、なるべく腹を立てない
3. 小さなことにも感謝する
4. 日々の中に、ささやかな喜びを見つける
5. やさしさ、思いやり、いたわりの気持ちを表現する
6. 笑顔でいる





2021年1月31日日曜日

人生は挑戦の連続


生まれた時、人はただ泣き叫ぶことしか出来ません。 

それから1年位経ってからでしょうか、つかまり立ちをするようになります。

しばらくすると、ふらつきながらも、最初の1歩を踏み出します。



小学生に上がる頃になると、自転車に乗ろうとします。

最初は、バランスを崩して転んでしまいます。

何回も転びながら、練習して行く内に、上手く乗れるようになります。



初めて何かをする時、その人にとっては挑戦です。

挑戦には失敗はつきものです。

時に痛い思いをしながら、少しずつ出来るようになって行きます。



いつからでしょうか。

失敗を恐れる様になったのは。

小さな頃は恐れることなく挑戦して、色々なことを覚えて行ったのに、大人になると失敗を怖れて挑戦をためらってしまいます。



誰でも失敗は嫌です。

失敗すると、気落ちします。

責任を取らなければならない時もあり、人から非難されることもあります。



挑戦とは、失敗のリスクを背負うことです。

それでも挑戦しなければならないのは、自らが進歩するためです。

挑戦なしに、進歩もありません。



挑戦する時に必要なものは何でしょう?

それは勇気です。

自分を信じることで、挑戦する勇気が生まれます。



ところで、自分を信じるとは、どんなことでしょう?

自分が秘めている力を信じることだと思います。

その力は、想像している以上に大きなものと考えられます。



本当の自分は魂です。

地上では、魂から生じた思念(想い)が、肉体によって表現されています。

その間に介在しているのが精神であり、肉体や地上の環境の影響を強く受けながら、絶えず変化しています。




本当の自分は、自らを成長させるために挑戦しようとします。

しかし、精神上に作られた地上的な自我(以下自我)の制約を受けることになります。

自我は、頭脳を駆使してリスクや損益を計算し、その挑戦が妥当であるかを吟味します。



リスクが高く、益が少ないようであれば、その挑戦を止めさせようとします。

挑戦しようとする自分(魂)と止めさせようとしている自分(自我)の間で、葛藤が生じます。

どちらが優勢になったかで、どうするのかが決まります。



挑戦を止めるのは簡単です。

自我によって理由はいくらでも拵えられるからです。

後付された理由によって、挑戦しようとしている自分の想いが封印された瞬間、挑戦を止めることになります。



挑戦の先に待ち受けているのは、未経験の困難や障害です。

楽な道ではありませんが、その困難や障害を乗り越えて行く中で、自分が成長して行きます。

大変な思いをしてまで挑戦しようとするのは、本当の自分(魂)が成長することを望んでいるからです。



魂には、神が内在しています。

自分を信じるとは、自分(魂)の中にいる神を信じることだと思います。

信じることで、内在している神の力が発揮されるようになります。



神の力は無限です。

信じるほど、より多くの神の力が発揮されます、

目的が成就されて行くことになります。



挑戦するものが、人や動物や社会のためになるものであれば、何も迷うことはありません。

自然法則の働きに合致しており、祝福されているからです。

最初は上手く行かなくても、最後には必ず目的は成就されます。



挑戦しても、予期した結果が得られない時があります。

挑戦する目的は、結果を得るためではなく、自分が成長するためです。

地上的な結果を残すよりも、霊的に成長した方が、はるかに価値があります。



もし、挑戦の意味が結果を出すことであれば、不公平が生じます。

同じ労力を注いでも、結果が出る人もいれば、出ない人もいるからです。

挑戦していることに意味があり、その過程で魂が成長することによって、完璧な公平が保たれています。



挑戦を後押ししている存在がいます。

私たちには、目に視えない霊界の存在が、生涯に渡り付いています。

地上の人の成長を願い、挑戦する方向に導いています。



挑戦するのか、止めるのかを決めるのは、あくまでも地上の人です。

霊界の存在は干渉出来ません。

固唾を飲んで、一歩を踏み出すのを見守っています。



挑戦することを決め、一歩を踏み出した時から、目的を成就させるように働きかけます。

力付ける、勇気が出る思念を送って、地上の人を前進させようとしています。

それが付いている、最大の目的です。



挫折するための挑戦、無理な挑戦はありません。

目の前にやって来るのは、自分を成長させる挑戦です。

挑戦することは、自然法則の働きによって生じていて、成長させることが目的だからです。



どちらか迷ったら、挑戦する方を選んで下さい。

そして、自分を信じて、背後にいる霊的な存在を信じて、進んで行けば良いのです。

目に視えない力が働いて、成就する方向に進んで行きます。



挑戦には、不安や怖れが付きものです。

自分を守ろうとしている、自我から生じています。

不安や怖れは成就させる力の流入を妨げてしまうので、心の中から排除するために、自分の中に神がいる、背後の存在から援助があると、強く信じて下さい。



信じることによって霊界とのつながりが強くなり、挑戦を成就させる力が流入して来ます。

その力によって、不安や怖れが押し流されるのを、実感できるかもしれません。

自我から生じる不安や怖れよりも、その力の方がはるかに強いのです。



死んでこの世の人生を振り返った時に、挑戦するか、止めるかの岐路に立っている自分を見ます。

挑戦する方を選んだ自分を見て喜び、止めた自分を見て悔しがるでしょう。

成長の機会をものにしたのか、生まれて来た意味を成就しているのかが、かかっているからです。





2021年1月24日日曜日

生まれる前に決めていたこと②


私がまだ小さい時、世間を大きく騒がせた事件がありました。

府中(東京都)刑務所近くの路上を走っていた現金輸送車が、白バイに乗った偽の警官に留められ、車に爆弾が仕掛けられていると言われたため、乗車していた人が慌てて避難したところ、車ごと乗って逃げられてしまいました。

盗まれた金額が3億円なので、その後「3億円事件」と呼ばれることになります。

現在の金額で30億円に相当すると言われていますが、大金を手にした犯人は、その後豪遊したのか、それとも怪しまれないようにひっそりと暮らしていたのか、知る由もありません。

懸命な捜査にもかかわらず、7年後に刑事上の時効が成立し、捕まることはなくなりました。

20年後には、民事上の時効が成立し、賠償責任もなくなりました。

法律的に咎められることはなくなりましたが、犯人の罪が消滅したわけではありません。

犯人のモンタージュ写真


誰にも知られなかったことでも、自分自身は知っています。

ずっと前であれば、頭の記憶から忘れてしまうこともあるでしょう。

しかし、魂に刻まれた過去の記録が消されることはありません。



宇宙には、目に視えない自然法則が働いています。

自然法則に反した行いには、自動的に罪が生じます。



法律に触れることだけが、自然法則に反しているとは限りません。

人の心を傷つけたり、苦しめたり、虐めたり、貶めたり、騙したりたりするのも、罪なことです。

動物たちの生命を尊重しないのも、罪なことです。

自分がされたくないことを他者にすれば、それは自然法則に反した行いと言って良いと思います。



法律では、行動に移した時点で罪が成立します。

しかし、自然法則は心の中で思ったことにも働いています。

たとえ行動に移さなくても、心の中で法則に反したことを、思い描くのもいけないことです。

思念は、霊的に実体があるからです。

何を思うのも自由ですが、自由には責任を伴うことを忘れてはいけません。



事件から53年経ちます。

犯人は、もう死んでいるかもしれません。

肉体はなくなっても、生命の本質である魂は生き続けています。



人は死んだ後に、この世の人生を振り返る時が必ず来ます。

生まれてから死ぬまでの間に、思ったこと、言ったこと、行ったことの全てが魂(オーラ)に記録されていてます。

もちろん、事件のことも記録されています。



その事件と正面から向き合うことになります。

子供の頃にちょっとした嘘で人を欺き、咎められなかった経験が全ての始まりだったのかもしれません。

それから、巧妙に人を欺くことを覚えて行ったのかもしれません。

世間を見返してやりたい、そんな思いもあったのもしれません。

いろいろな要因が重なって、事件を起こすのに至ったことが判ります。



自然法則に反した行いをすると、因果律の働きにより苦痛を伴う事象が起きて、その罪が償われます。

もし、犯人が捕まって刑務所に入ったのならば、その経験は苦痛を伴うものなので、霊的な償いも同時に行われていると考えられます。

捕まらないで死んだとしたら、罪はそのまま残ることになります。



この世にいる時は、上手く逃げられたと思ったでしょう。

しかし、死んだ後に自然法則に照らし合わされて、裁かれることになります。

裁かれると言っても、判事のような人物がいて、判決が下されるわけではありません。

自然法則に反した行いを初めてしようとする時、心の中で「してはいけない」と声がしていたはずです。

その声が良心であり、自分の中にいる神です。

自分の中にいる神によって、自分自身が裁かれます。



あの世に行ったら、自分を隠すことも、偽ることも出来ません。

真実が露わになり、自然法則に反した行いが突き付けられます。

いかに世の中に悪い影響を与え、多大な迷惑をかけたかを知ることになります。



生まれて来たのは、他者のために役に立ち、成長するためです。

そのことをすっかり忘れてしまい、道を踏み外してしまったことを知ります。

強い後悔の念が生じるようになります。

その念は、苦しみとして感じられます。

自分のしたことに、自分が苦しむようになります。

全て自然法則の働きによるものであり、それが神の裁きです。



人間には、成長したい根源的な欲求があります。

しかし、苦痛による償いをして、過ちを正さない限り、成長は許されないようになっています。

成長が許されない、魂の苦しみを味わいます。

それは、自由が許されないよりも、はるかにつらいものなのかもしれません。



この苦しみから、何としても逃れたいと思います。

しかし、今いる世界は、肉体がないため病気もありません。

周囲に苦痛を生み出すような人間もいません。

地上にいる時に感じていた、苦しみや痛みが取り払われた世界なので、罪を償うのは難しいようです。



もう1度、地上に生まれる必要があるようです。

地上でした過ちを地上で償うのは、自然の成り行きなのかもしれません。

汚れた魂を浄化し、神の摂理を学ぶための人生が計画され、提示されます。

その人生を了承し、最適な環境に生まれることになります。



こんな人生になるかもしれません。

これから先に起きることなどすっかり忘れて、大きくなって行きます。

前生から引き継いだ、人を欺く性分が、人生のどこかで顕れます。

同じ様に、それがエスカレートして行きます。

欺くことを何とも思わなくなり、罪を犯しながら、大金を得て行きます。

地位や財産を手に入れて、人生の頂点と思っている時に、今までして来た悪行の数々が暴露されるような出来事が、降って湧いたように起こります。

今度はあっけなく捕まり、予想していた以上の刑が科されます。

地位や財産の全てを失った上に、償い切れないほどの賠償も課されます。

人からは怒号を浴び、信じてくれる人、助けてくれる人は誰もいなくなります。

耐え難い苦痛を味わいながら償いをすると共に、人を欺くことが、いかに自然法則に反しているかを身を持って学びます。



幸いにも、犯人は人を殺したり、傷つけたりはしていません。

もし、そんなことをしていたら、霊的な罪はさらに大きくなります。

同等の苦痛を味わって償うとしたら、どの様な人生になるのか想像も付きません。

生まれる前に決めていた人生を知っていたら、まともな精神状態で生きていられなくなるでしょう。



人には、知らなくても良いことと、知っておくべきことがあります。

知っておくべきことは、死んだらお終いではないことです。

間違った思い込みから、取り返しのつかない過ちを起こしてしまう可能性があるからです。

そして、因果律の働きも知っておくべきです。

もし知っていたならば、過ちを犯す気は一気に失せるでしょう。



平和で穏やかな世界にするため、そして人生で無用な遠回りをしないための特効薬が、霊的真理と考えられます。



2021年1月17日日曜日

生まれる前に決めていたこと①


今年、東京でオリンピックが開催されます。

世界中で新型コロナウィルスの流行が拡大している昨今の状況では、正直なところ開催は難しいのかもしれません。

けれども、出場する選手たちにとっては集大成の場です。

厳しい練習に逃げ出したくなる時もあったでしょうが、耐えて来たのはこの場で最高の結果を出すためです。

なくなってしまったら、練習の熱意は大きく失われてしまうでしょう。



生きていると、つらくて、苦しくて逃げ出したい時があります。

何でこんな思いをしなければならないのかと思う時もあります。



この世に生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

降りかかる困難や障害を乗り越えて行く中で、人は成長するようになっています。



いくら成長したとしても、死んでしまったらお終いじゃないかと思う人もいるでしょう。

死んだ後も、生命は続いています。

肉体はなくなりますが、別の媒体で自己表現をするようになり、生命は変わりなく存続しています。



何を証拠にと思う人もいるでしょう。

生命の存続は、あくまでも主観的な証拠によって、個々が確信するものです。

もし、誰もが納得するような客観的な証拠が示されたのなら、この世と決別してしまう人が続出してしまうと考えられます。



私たちは、寿命が来るまで、生きなければいけません。

目に視えない自然法則が働いているからです。

自分の意思でこの世と決別するのは、自然法則に反しているので、許されることではありません。

ほとんどの人は、自然法則の働きを知らないので、先のことがはっきりと判らないようになっていると考えられます。



つらい練習にも選手が耐えられるのは、その先にオリンピックが待っているからです。

しかしながら、人生でつらい出来事が起きても、何の意味があるのか全く判らず、理不尽さに耐えるしかありません。

生き抜いた先に待っていることが判ったのならば、きっと気持ちが和らぐと思います。



寿命が来たら行く世界とはどんなところでしょうか?

肉体がないので、食べるために働く必要はありません。

言葉を介さず、思念でコミュニケーションをしています。

自分(魂)を隠すものがなくなり、ありのままの思念が放たれています。

嘘も偽りも存在し得ない、真実の世界と言えます。

そして、この世と大きく違うところは、因果の関係がはっきりと判ることです。



煩わしい肉体が無くなると、関心は外に向かうようです。

この世にいる時よりも、ずっと周りのことが気になります。

周りのために何かをすることによって、自分の存在意義を見い出すようになります。

お互いのために、生きている世界と言えます。



周りのために何かをしようとする時、自分に足りない資質を自覚するようになります。

足りない資質を手に入れたくなりますが、快適な今いる世界にいては難しいようです。

価値あるものには、それなりの対価を払わなければいけません。

闘争があり、困難や障害のある、この世に生まれて、魂にまで響く深甚な出来事を経験して、手に入れることになります。



選手が試合で良い結果を出すためには、どうすれば良いのでしょうか?

現状を把握し、それに応じた練習の計画を立てて、実行して行くのが効率的です。



足りない資質を効率的に手に入れるために、この世の人生の計画が立てられます。

生まれる前の自分は承知していますが、いざ生まれるとすっかり忘れてしまいます。

計画されていた通りに人生が展開し、何の前触れもなく、降ってわいたように、予定されていた出来事が起こります。

予め決まっていたことであれば、起きた理由など見つけられるはずはありません。



予定された出来事は、苦難や災難や凶事と言われる、不幸として感じられるものが少なくありません。

もし、覚えていたとしら、回避しようと躍起になったり、人によっては生きる気力を失ってしまうでしょう。

神の配慮により、表に出ないようになっていると考えられます。



生まれて来た目的を果たすために、この世の人には守護霊が付いています。

自分以上に自分を知り尽くしていて、考えていることも判っています。

道を外れそうになったら、警告を発しています。

挫けそうになった時には、心を奮い立たせてくれます。

無事に出来事を乗り越えた時には、大きな喜びを感じています。



予定されていた人生が済むと、死を迎えます。

死とは、本来の住処へ帰ることです。

親愛の想いで結ばれていた、先に逝った人が真っ先に出迎えてくれます。

その後で、守護霊と対面することになります。

ずっと傍にいたので、何とも言えない懐かしさや親しみを感じるかもしれません。



どれ位経ってからでしょうか、守護霊と一緒にこの世の人生を振り返る時が来ます。

楽しかったこと、うれしかったことが回想され、思わず微笑みます。

そして、最悪と思えた出来事が起きた時の自分の姿が映し出されます。

なぜ? 

どうして? 

そんな問いかけが、繰り返されています。

絶望の淵に叩き落され、目の前が真っ暗になり、生きる気力が失われています。



助けてくれる人は、どこにもいません。

精神的に追い詰められた時、真の自分(魂)が目覚めていたのが判ります。

目覚めた魂が、本当に大切なものを見つけています。



現実は変えられません。

耐え難い苦しみから抜け出すためには、自分自身が変わるしかありません。

もがき苦しみながら変わって行く中で、足りなかった資質が身に付けられているのが判ります。

苦しかったけど、逃げ出さなくて良かったと、ホッと胸を撫で下ろします。



何でこんな思いをしなければならないのか? 

自分が成長するために、どうしても必要な出来事だったことが判ります。

何で生きなければならないのか?

魂(生命)は永遠であり、絶え間なく成長して行くように定められていることが判ります。

どうしても逃げ出せなかったのは、自分自身が成長するために決めていたことだからです。



生まれる前にいた、本来の住処に戻ります。

そこで、地上の経験を通して身に付けた資質が活かされるようになります。

周りのために、より一層自分が役に立てるようになり、これまでにない悦びを感じます。

この世での苦しみは、この悦びのためにあったことを知ります。

大いなる存在の完全な愛、完全な叡智の働きに、感謝せずにはいられません。



本来の住処には、自分と同類の人たちしかいません。

争いもなく、穏やかで快適な世界です。

そんな世界で過ごしている内に、もっと自分を役に立てて、大きく成長したい欲求が生まれて来ます。

相応しい資質を身に付けるために、もう1度、この世に生まれる計画が立てられます。

過酷な人生になりそうですが、これまでの経験で魂は成長し、乗り越えられる出来事しか起きないことは判っています。

その人生を了承して、意を決して、地上の母体に宿ります。


「おしゃべりな胎児⑨」より







2021年1月10日日曜日

神の摂理を学んでいる


学生の時は、テストがあり嫌でした。

何でこんなことを覚えなければならないの?と疑問に思うことも度々でした。

必死になって九九も漢字も覚えましたが、日常生活に活かされているので、良かったと感じています。

学校で習ったこと全てが、生きて行く上で役に立つとは限りませんが、今になってみると身に付けておいて損はなかったと思います。



これまでに人間が蓄えて来た知識を吸収するのが、学びと言えます。

その多くは、本を読んだり、人から教えてもらったりします。



私たちが学んでいるのは、言葉にされた、客観的な知識だけではありません。

目に視えないこと、言葉に出来ないことを学んでいます。

それらの学びは、自らが経験して得るしかありません。



小さい時、自分勝手な行動をして、仲間外れにされたことはないでしょうか。

嘘を付いて、それがばれてしまえば、人に信じてもらえなくなります。

世界中どこに行っても、そのような行動をすると、同じような対応をされます。

ほとんどの人は嫌な思いをして、以後、気を付ける様になります。



自分勝手な行動をして仲間外れにされるのも、嘘を付くと信じてもらえなくなるのも、自然法則の働きによるもです。

苦痛を感じることで、その行為が過っていることを学んでいます。

私たちは経験を通して、目に視えない自然法則の働きを学びながら生きています。



自分勝手な行動をしたり、嘘を付くのは、何故いけないのでしょうか?

周囲との調和を乱してしまうからです。

自然法則は、全体に調和を生み出すために働いていて、乱すような行動をすると、苦痛を伴う結果となって返って来ます。

自然法則は、私たちが生きている地球だけに働いているのではありません。

はるか彼方の銀河にある惑星に住んでいる生命にも、同じ法則は働いています。




138億年前、宇宙は生まれました。

その後、いたるところに生命は誕生しました。

神は生命に、弛まない進化の過程を与えました。

ばらばらになった生命が進化しながら、再び1つになって行く、それが神の構想と考えています。

不完全な個が、進化して霊的に1つになった時、完全になります。



生命を引き付け合う力が愛です。

個々の生命が、愛を表現することにより、1つになって行きます。

進化とは、霊性の向上です。

進化した惑星では、全ての生命が助け合い、調和をしながら、平和に暮らしていると想像されます。



私たちの地球はどうなのでしょう?

どこかで戦争が起きています。

他の生命が虐待されたり、搾取されています。

環境は破壊され、汚染されています。

「アッツ島玉砕」藤田嗣治1943年

毛皮にされるミンク

失われる森林(アマゾン)
      

調和を乱しているのは人間です。

進化した生命ほど神性が発揮されるはずですが、代わりに利己性が発揮されています。

多くの人が唯物的になり、神性が萎んでしまっています。



人間同士で争っていて、地球全体に調和が生まれるはずなどありません。

傷つけ合うことで生じる苦痛を通して、神の摂理を学ぶしかないのでしょうか。

互いを認め合い、許し合うこと、大きな意味で他者に愛を表現することで、争いはなくなります。

極めて単純なことですが、自我が肥大し、感情や利害に捉われてしまい、そのことに気付くことが難しくなっています。



あらゆる生命が同等に持っている健やかに生きる権利を著しく侵害し、虐げていることに何も感じなくなってしまっています。

他の生命を尊重し、愛を表現することで、地球に調和が生まれます。

率先してするのが人間の役割です。



唯物的な考えを見直す時期に来ています。

しかしながら、唯物的な考えに馴染んだ人間は、聞く耳を持ちません。

人間の意思で変わることが出来なければ、神の摂理の働きにより、抗うことの出来ない自然現象が起きることで変わって行くしかないのかもしれません。



シルバーバーチの霊訓には、こんなことが書かれています。

「魂が目覚めるのは苦しみの中です。

人生をうわべだけで生きている人は、魂が自己開発する機会がありません。

地上的な方策が尽き、八方塞がりに思えた時、魂が目覚めるのです。」



今、人類全体が同じ苦難を経験しています。

私の知る限り、人類がこれほど追い詰められるのは初めてです。

人類のみが被る苦しみなので、人類の負債を清算しているのかもしれません。

この苦難により、今までになく、多くの魂が目覚めているような気がします。

それに伴って、全体の意識に何かしらの変化が生じるかもしれません。



魂が目覚めると、唯物的な考え方から解放されます。

お金や物よりも、生命や自然に関心が向かいます。

本当に大切なものは、視えるものにはないことが判ります。



神性が発揮されると、傷つけ合うのではなく、慈しみ合います。

他の生命たちが愛されます。

他者に喜びを与えるようになります。




宇宙から見れば、地球は1つのユニットです。

美しい惑星ですが、良く見ると病んでいる部分があります。

病んでいる部分を浄化するために、惜しみなく神の摂理は働いています。


神の摂理は、愛を深く学び、それを表現して、生命が1つになるために働いています。




2021年1月3日日曜日

不安や恐怖を感じたら

 

年が明けても、新型コロナウィルスの感染拡大の勢いは増すばかりです。

約100年前にスペイン風邪が世界中で流行し、多くの人が亡くなりました。

第3波まであったそうですが、第2波が最も強毒であり、今回の流行と大きく違うところは、若年者ほど致死率が高かった点です。

いつ変異するとも限らないので、若い人も注意が必要です。

当時(大正9年)のポスター

未知の経験に対して、不安や恐怖を抱くのは、今も昔も変わりありません。



不安や恐怖は、地上に生きる人にとって、元々必要なものです。

崖の上に立つと恐怖を感じるからこそ、誤って落ちないように気を付けます。

もし、恐怖を感じなければ、肉体を護ろうとする動機が失われ、死んでしまう人が続出してしまうでしょう。

当然のことながら、ウィルスに対して恐怖を感じない人は、感染のリスクが高くなります。



肉体を護り、安全に生きて行くために、不安や恐怖と言う情動が地上の人に与えられたと考えられます。

しかし、それが強すぎると理性を萎ませ、問題を解決しようとする力を奪ってしまいます。

不安で一杯になり、恐怖で縮み上がってしまうと、何も出来ません。

不安や恐怖を克服して行くのは、地上に生まれた人の宿命なのかもしれません。



しかしながら、不安や恐怖は自己保存欲求と深く関わっているので、克服するのは容易ではありません。

人間は、先のことを考える生き物です。

「〇〇したらどうしよう」、「〇〇してしまうかもしれない」と、先のことをつい考えてしまい、その度に不安や恐怖が生じてしまいます。



それを取り越し苦労と呼びますが、シルバーバーチは「無知の産物」と言って、強く戒めています。

どうして、無知から取り越し苦労が生まれるのか考えてみました。



この宇宙は、神の法則の働きによって経綸されています。

あらゆる出来事は、何らかの法則の働きによって生じているので、偶然は存在しません。

ウィルスの発生や感染も自然現象の一環であり、神の法則の働きによって起きます。



神によって創られた法則が、神によって運用されています。

従って、全ての現象の最終的な責任を負っているのは神と考えられます。

神の法則に反したことをしておいて、神の責任にすることは許されませんが、何の落ち度もないのにも関わらず起きた現象には、埋め合わせの原理が働くと思います。



神の創った法則には、神の心が包摂されています。

神の心は愛です。

どんな悲惨なことが起ころうとも、根底には愛があるので、必ず良い方向に向かうはずです。



それでは、ウィルスに感染して死んでしまったらどうでしょう?

ほとんどの人は不幸な出来事だと思います。

死は終焉ではありません。

別の世界へ移行する現象です。

地上の人生は終わりますが、本来の住処に戻って、新たな人生が始まります。

そこでは、肉体があるが故の情動は存在しません。

煩わしい肉体や人間関係はなく、不安や恐怖から解放されて、平穏無事な世界に行くことが、不幸なのでしょうか?

知らないと、不安や恐怖を感じてしまうのは確かなようです。



ウィルスに感染すると、苦しんでしまう可能性はあります。

そのことを考えると、死が怖くないとしても、不安や恐怖を感じます。

耐えられない、痛みや苦しみはありません。

痛みや苦しみも、自然法則の働きによって生じているからです。

神の管轄下で起きているので、痛みや苦しみも枠内から外れることは決してありません。

未知の経験に不安や恐怖を感じたら、全ての出来事は神の摂理の働きによって起きているので、最終的に良きに計られている、乗り越えられないほどつらいことは絶対に起きないと、強く信じるようにして下さい。



不安や恐怖は、霊力が流れるのを妨げると言われています。

霊力とは生命力です。

生きる力、乗り越える力を奪ってしまいますので、不断の努力で振り払うようにしなければいけません。



地上に生きている私たちには、親愛の想いで結ばれた霊的な存在が付いています。

無用な災難や危害が降りかからぬように、地上の人にインスピレーションを送り、守り導いています。

ところが、不安や恐怖を抱いてしまうと、送られて来る援助の力を受け取る際の、障害物となってしまいます。

1人ではない、霊界にいる人たちと一緒に生きていると、強く信じるようにして下さい。

そうすれば、両者のつながりが強くなり、援助の力が届いて、不安や恐怖は和らいで来ると思います。



人間の本質は魂です。

地上に生まれた魂は、肉体と言う媒体を得ます。

魂は霊的な世界の存在であり、精神を介して、物質的な世界の存在である肉体によって自己表現をしています。

不安や恐怖を感じたら、目に視える物質的な世界ではなく、目に視えない霊的な世界に意識の焦点を向けるようにして下さい。

頭から地上的な考えや感情を消し去るのに従い、心の中に霊的な世界が広がって行き、平穏さを取り戻すことが出来ます。

その世界には、危害を加えるものは何も存在しないからです。



この世界には、ウィルスなど危害を加えるものが存在します。

けれども、危害が加わる可能性があるのは肉体です。

本質である魂にまで、危害が加わることはありません。

本当の自分は、何者にも侵されないと、強く意識しましょう。

私たちは地上に生きていますが、霊(神)的な存在であることを忘れないで下さい。



一人ぼっちで生きている、死ねば終わりだと思うと、どうしても不安や恐怖に襲われてしまいます。

真実はそうでありません。

片時も離れることなく、守り導いている存在が付いています。

万が一死んだとしても、それは肉体の話です。

本当の自分である魂は、別の世界に移行し、健やかに生き続けます。







2020年12月27日日曜日

今年1年を振り返って


今年は、新型コロナウィルスの流行に始まり、収束しないまま終わろうとしている1年だと思います。

世界中が同時に危機に見舞われるのを、私は初めて経験します。

既に全世界で175万人もの人が亡くなっています。

早く収束することを、ただ願うばかりです。



世の中で起きる出来事は、全て因果律の働きによるものです。

今回のウィルスの流行も、偶発的なものではなく原因が存在します。

同じことを繰り返さないためにも、原因を突き止めなければいけません。



前にも書きましたが、流行が広がったのは、元を質せば人間の利己心が原因だと思います。

人間が最初にウィルスに感染したのも、本来、接触するはずのない動物たちと接触したためです。

未開の土地に入って行くのも、そこに住む動物たちを侵害するのも、利己的な動機からです。

資源開発と言えば聞こえが良いのですが、地球全体から見れば侵略行為であり略奪行為です。

人間中心に物事を考えているので、そのことが判らなくなっています。



人から人に感染するリスクが大きいのは、生きて行く上でどうしても必要な行為以外の時が多いようです。

(海外)旅行や飲食等はリスクが高い行動です。

特にアルコールが入ると理性が失われて、感染のリスクはさらに高まります。

地上的な欲求を満たす行動に乗じて、ウィルスは伝搬されて行くように感じられます。



それらの行動を否定してしまうと、仕事にしている人の生活が成り立たなくなり、面白味のない人生になるような気がします。

しかしながら、この世界には飢えた人たちがたくさんいます。

ほとんどの人はそのことを承知しています。

飢えた人が多い、貧しい国々ほど、紛争が起きています。

誰かがこんなことを言っていました。

「野蛮だからではなく、お腹が空いていると、イライラして争いが起きるんだ」

全くその通りだと思います。

世界平和を願うのであれば、まず飢えている人たちを何とかしなければいけません。



霊界の人たちは、そんな地上の光景を見て憂いています。

「同じ世界に住んでいて、見て見ぬふりをして、自分たちだけそんな楽しい思いをして良いの」と。

ウィルスが動物から人間に感染するのも、人から人に感染するのも、利己心と欲を満たすための行動が原因になっているように思います。

感染が急速に拡がっている国は、貧富の差が大きく、差別など多くの問題を抱えているようです。

ウィルスの流行と言う自然現象を通して、犯している過ちに気付かせ、正そうとしている気がしてなりません。



欧米では、ワクチン接種が始まったようです。

性急に作ったために、有効性や副反応に対する評価が不十分なところがあるのは否めませんが、流行を収束させるために最も確実な手段がワクチン接種であることは、過去の事例から見ても明らかです。

たとえ感染したとしても重症化しないために、亡くなる人は劇的に減るでしょう。

そんなこともあり、経済的に豊かな国々が、先を競ってワクチンを確保しているようです。

その行為は、国民を守ると言う観点から見れば当然です。



しかし、世界には自国でワクチンを作ることも、他国から買うことも出来ない国がたくさんあります。

一定の割合以上の国民がワクチン接種を受けたのなら、ウィルスの流行は収束に向かうはずです。

日本や欧米などの経済的に豊かな国々では、近い将来普通の生活に戻れる可能性は高いと考えられます。

しかし、貧しい国々では、一部の特権階級のみがワクチンを接種して、多くの国民はそのままにされてしまうと思います。

「民衆のワクチン連盟(People's Vaccine Alliance)」という組織が、「現状では経済力に劣る70近い国では、国民の1割ほどしかワクチン接種を受けられない」と警鐘を鳴らしています。

経済的に貧しい国の人たちほど、感染して症状が悪化しても、適切な医療を受けることが困難です。

本来は、そんな人たちほど早く受けて、ウィルスから守らなければなりません。



普通の生活を取り戻した国々は、ウィルスの流行は過去のものとなります。

経済的に貧しい国々でウィルスの流行が続いていたとしても、遠いところで起きている対岸の火事になります。

今までもそうであったように。



そんな状態が続く中で、ウィルスの突然変異が起きない保障はどこにもありません。

より強い感染力、毒性を持ったウィルスに変異して、既存のワクチンが効力を失い、獲得した免疫が働かなくなる可能性は十分にあります。

そうなれば、世界は振り出しに戻ります。



ウィルスの変異は、偶発的なものではありません。

自然法則の働きによるものであり、変異の中にも神の意図が隠されています。

同胞意識が欠如し、利己的になっている、人間が犯している過ちに気付き改めない限り、流行が止むことはないのかもしれません。



自分や自国のことだけでなく、人類全体でどうすれば良いのかを考えれば、自ずと方向が決まり、問題は解決されて行きます。

地球を1つの運命共同体と捉えて、対応しなければいけません。

それが、この自然現象を通して、人間が学ぶことだと考えています。



地球を身体に例えてみます。

地球に住んでいる多種多様な生命は、身体を構成している細胞1つ1つに当たります。

それぞれの細胞には役割があります。

脳細胞には脳細胞の、肺の細胞には肺の細胞の、皮膚の細胞には皮膚の細胞の役割があって、それが協調的に働くことによって調和が生まれ、身体の健全さが維持され、活動することが出来ます。

いかなる細胞も、身体にとって必要な存在であり、優劣などありません。

同じ様に、地球上の生命にはそれぞれ果たすべき役割があります。

名もない道端の雑草であっても、日を浴びて酸素を作りだし、動物たちが生きて行くために必要な営みをしています。

絶妙の調和の中で、地球上の生命は生きています。



足先にばい菌が入り、腫れ上がったとしたらどうでしょう?

きれいに消毒をして、抗生物質を飲むと思います。

「これは足先で起きていることだから、放っておいても構わない」と思う人はほとんどいません。

もしそんなことをすれば、全身にばい菌が回って、死んでしまうかもしれないからです。

当然ですが、足先も自分の一部です。



話は少しそれますが、この宇宙にはどれ位の星があるのでしょうか?

地球が属している銀河系には、約2000億個の星があるそうです。

そんな銀河が、宇宙にはどれ位あるのでしょうか?

最新の研究では、何と2兆個存在すると言われています。

130億光年の彼方にある無数の銀河

目眩がするほど宇宙は広大です。

無限大とも言える宇宙では、地球は極小の星の1つに過ぎません。

極小の星の中の、極小の存在が、私たち人間です。



宇宙を創ったのは神です。

神は広大な宇宙の中で、1つのユニットとして、地球を創ったと考えられます。

その中に多種多様な生命を散りばめたのは、お互いが協調し、調和しながら生きて行く過程で、霊的な成長を促す意図があったと考えられます。



1つのユニットとして創られた星の中で、同胞であるべき人間同士が争いをして、傷つけ合っています。

想定されていたことでしょうが、神の意図に反したことをして苦痛を感じながら、改めて行かざるを得ないのは虚しい限りです。

無用な苦痛を地上からなくすために、霊界から真理が降ろされました。



あらゆる生命は霊的につながっています。

しかし、そんな重要なことが、唯物的になり過ぎたために、全く判らなくなっています。

進化の頂点に立つ人間が、自分たちのことしか考えなくなったために、地球全体に悪い影響を与えています。

利己的な行動に対して、因果律が働き、苦痛を伴う現象が起きていると考えられます。



もしそうであるのならば、他者のこと、地球全体で考えることによって、健全さが取り戻されるはずです。

全ての人に、ワクチンを行き渡らせなければならないのは、そのためです。



良くなったこともあります。

地球全体のCO₂の排出量が約7%減ったそうです。

ウィルスの流行により、強制的に温暖化に歯止めがかかった形です。

命の危機にさらされている、罪もない動物たちにとって、ウィルスの流行は歓迎すべきことなのかもしれません。




ウィルスの流行は災いではなく、地球全体を良い方向に向かわせるために起きていると考えられます。

大きな苦痛を伴いながらも、私たちは神の意図している方向に変わって行きます。

今年は、大きく変わり始めた1年なのかもしれません。




2020年12月20日日曜日

霊的な能力は何のためにあるのか?


今から30年前位でしょうか、目の細い中年の主婦らしき女性がテレビに出ていました。

出演していた芸能人の背後をじっと見つめながら、その人が抱えている悩みや将来の起きるかもしれない問題などを話していました。

自分しか知らないことを言い当てられたようで、本人はとても驚いていました。




世の中には、霊的な能力を持った人がいます。

何故、そんな人たちが存在しているのでしょうか?

悲しんでいる人が、故人からのメッセージを受け取ったら、大きな慰めとなります。

病気に苦しんでいた人が癒されたとしたら、大きな喜びになります。



霊的な能力は、人に慰めや喜びや癒やしを与える他に、秘められた目的があります。

それは、霊的に覚醒させるためです。



人間は肉体を超えた存在です。

しかし、私たちは五感に頼り切った生活をしているので、そのことに気付くことが出来ません。

気付くためには、肉体(物質)以外のものに、意識が向かなければいけません。



夢物語のように感じるかもしれませんが、霊的な覚醒を促す計画が霊界で立てられました。

私はもちろん事実と認識しています。

何故、そのような計画が立てられたかと言えば、地上に唯物的な考えが蔓延したことによって弊害が生じ、それが看過できないほど大きくなってしまったからと考えられます。



唯物的な人は、死ねば終わりだと信じています。

生きている時に、せいぜい楽しい思いをしようとします。

(この世の)自分の人生に執着してしまうと、他人のことに関心がなくなります。

それが高じると利己的になってしまいます。

利己的な人同士がぶつかると、争いになります。

利己的な国家が台頭すると、戦争になります。

悪いことをしても、死ぬまでばれなければ良いと思う人も出て来るでしょう。

唯物的になるほど、物質的に豊かになろうとする欲が強くなります。

その結果、富が片寄り貧困が生まれ、環境が破壊されます。

動物たちは虐げられ、地球全体の平和や調和が乱されます。

そんな悲惨な状況を、霊界は大いに憂いています。



霊的な覚醒を促す計画が、初めて実行に移されたのは、19世紀半ばのアメリカです。

ラップ音による死者との交信であり、後に「フォックス家事件」と呼ばれています。

その後、イギリスにおいて様々な霊的な現象が起きました。

中でも、エクトプラズムは驚異的な現象でした。

霊媒の口や鼻から煙の様なものが現れて、かつて地上にいた人物に形を変える時があります。

現れた人物は、半物質化したものであり、触れると人間と同じような感触があったそうです。



それらの現象の検証に、著明な科学者らが立ち会いました。

その中に、蛍光灯の原理やタリウム原子を発見したクルックスがいました。

当初、彼はトリックだと思っていたのでしょうが、エクトプラズムなど自分の理解をはるかに超えた現象を何度も目の当たりにして、すっかり参ってしまいました。

周囲の人は、トリックをあばいてくれると思っていたのに、逆に霊の存在を完全に肯定したので、大変驚くと共に失望したと思います。

その後、科学者仲間からは異端児扱いされましたが、終生、自分の主張を変えることはありませんでした。

クルックスは生命の真実を知り、唯物的な考えを改めたのです。

他にも多くの人が、科学者は万能と言う考えに見切りをつけました。



日本においても、目を見張るような霊的な現象が明治から昭和初期にかけて起きていました。

世界各地でこのような霊的な現象が起きていたのは偶然ではありません。

霊界で立てられた計画が実行に移されていたのです。

この時期に集中したのは、唯物的な考えから引き起こされる、後の2つの世界大戦を霊界が予見してのことなのかもしれません。



現代において、その時の様な世間を賑わす派手な霊的な現象は起きていません。

それでも計画は着々と進んでいます。



魂は、知性を刺激することによって目覚めるものではありません。

さまざまな出来事を経験する中で、自然に目覚めると考えられます。

絶望的な状況に陥った時ほど、その好機と言われています。

私もそうでした。

精神的に追い込まれ、思考が停止状態になった時、それまで奥で眠っていた魂が目覚めます。



霊的な能力は、魂を目覚めさせる引き金になると考えられます。

大切な人を亡くし、生きる希望を失い、悲嘆に暮れる日々を送っている人がいたとします。

導かれるようにして霊媒に会い、メッセージを伝えられ、それが故人からのものと確信します。

肉体はなくなっても生命は存続していると言う事実に気付くと同時に、唯物的な考えは吹き飛び、魂が目覚める人がいます。

病気になり医者から見放されて、途方に暮れている人がいたとします。

縁あってヒーリングを受けて病気が癒されたとします。

この世のものではない力が存在しているのを認めると同時に、魂が目覚める人がいます。

自我に覆い隠されていた本当の自分(魂)が表に出て来て、人生の主導権を握ります。



人の本質は、肉体ではなく魂です。

唯物的な考えの人は、肉体しか目に入りません。

そのため、肌の色、容姿、肩書きなどの外面が気になります。

魂が目覚めると、意識の焦点が大きく変わり、人の外面よりも、内面を視るようになります。



しかし、魂が目覚めて終わりではありません。

霊界が望んでいるのは、地上の人に霊的真理を受け入れてもらうことです。



地上に大いなる恩恵をもたらすものが霊的真理です。

大切なことを要約すると「生命は永遠であり、互いにつながっているので、慈しみ合うべし」と私は思います。

慈しみ合うことよりも大切なことは存在しません。

戦争や貧困や差別などの問題が立ちどころに解決されます。

恥ずべき動物の虐待もなくなります。



もう1つ大切な真理があります。

それは「因果律」です。

起きていることには必ず原因があります。

原因を作れば、必ず結果が生じます。

神の摂理に反した行いには苦痛が、適った行いには悦びがもたらされます。

真理を知れば、経験しなくても良い、地上の苦しみや痛みが避けられます。



個々の人間はれぞれ違う形態をして、ばらばらに存在しています。

それは肉体の話です。

肉体を動かしているのが魂です。

魂は生命そのものです。



神によって創られた魂には、神性が宿っています。

全ての生命は、同じ神性でつながっています。

ばらばらに存在している個々が、魂に目覚め、神性を発揮して慈しみ合うことで、1つになって行きます。

慈しみ合う力は、魂と魂を引き付け合う力だからです。



全ての生命は霊的に1つです。

それが神です。



霊的な能力は、唯物主義を打ち砕きます。

打ち砕かれた後に、魂が目覚めます。

目覚めた魂が、真理を見つけます。

真理を受け入れて、実践することにより、神や霊界の望む世界になって行きます。

生命の進化を促し、1つになるためにあると思います。


2020年12月13日日曜日

ある双子の兄弟を通して感じたこと


世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るっています。

感染した人は7150万人を超え、160万人が亡くなっています。(2020年12月13日現在)

一刻も早い収束を願うばかりです。



この感染症は、原因がはっきりしています。

ウィルスの侵入さえ防げれば、病気になることはありません。

しかしながら、世の中にはこれと言った原因も見当たらずに、病気になる人がいます。

「何で私が?」と、戸惑いや憤りを感じている人もいます。



人は、肉体と精神と魂(霊)の3者から成り立っています。

3者はそれぞれ次元が異なり、そのどこかに病気の原因が存在しています。

感染症は、物的なウィルスや細菌の増殖が原因なので、肉体(物質)的次元の病気と言えます。

胃潰瘍は、主にストレスが原因なので、精神的次元の病気と考えられます。

精神と肉体は密接に関係していますが、物質を超えた精神的次元は医学の対象外であり、踏み込んだ研究はされていません。



原因不明の病気は数多くあります。

多くの人を苦しめているガンや膠原病も、残念ながら根本的な原因は解明されていません。

悪いところがあれば切り取ったり、薬で症状や痛みを抑えたりするしか方法はありません。



肉体、精神の上位にあるのが魂(霊)です。

魂から指令が出され、精神を介して、肉体で表現されています。

しかし、魂(霊)の存在は医学的に認められていません。

そのために、霊的次元に原因が存在する病気は、医学的に原因不明とされます。



解明されてない病気の1つに、遺伝性疾患があります。

遺伝性疾患は、生まれつきの病気です。

親の遺伝子に異常がなければ、突然変異とされてしまいます。



発病は、精子と卵子が結合した瞬間です。

病気は結果であり、必ず原因が存在します。

発病が結果ならば、原因は受精時以前にあることになります。

身体(受精卵)が誕生するより前に、私たちは存在していなければなりません。



記憶には昇って来ませんが、ほとんどの人は過去に地上を生きた経験があります。

そこで、何らかの原因が生じていたと考えれば、突然変異として片付けられることはありません。



数年前になりますが、ある障がい者施設にボランティアに行っていました。

そこに重度の身体障がいを持つ20代の一卵性の双子の兄弟がいました。

この兄弟と接して、病気や障がいの意味について、思いを巡らすことになりました。



2人には脊椎に遺伝性疾患(奇形)があり、手足の自由が利きません。

背骨が曲がったままであり、食事も排せつも入浴も着替えも介助が必要です。

知性は正常であり、普通に会話が出来ます。

幸いにも、わずかに指を動かせるので、電動車いすに乗っての移動が可能でした。



2人の性格は対称的でした。

お兄さんと話をする機会が多かったのですが、今の自分の境遇に大きな不満を抱いているようでした。

集まりにも参加しないで、部屋でテレビを観ていました。

いつも不機嫌そうで、愚痴や不満ばかり言っているので、周りにいる人が少なくなり、ベッドの上で一人ぼっちで過ごしていることが多かったです。



一方、弟さんは明るく快活です。

車椅子スポーツにも参加していて、不平不満を言っているのを聞いたことがありません。

時々、お兄さんの所に顔を見せては、励ましていました。

お兄さん思いの、心優しい青年です。



同じ遺伝子を持ち、同じ障がいを持ち、同じ環境で育ち、顔もそっくりなのに、これほどまで性格が違うのには驚きました。

性格は大脳を超えたものによって形作られている、そんな思いを強くしました。



人間の本質は魂です。

一卵性で肉体は同じ作りであっても、別々の魂が宿っています。

性格の違いは、宿っている魂が違うことに起因していると思いました。



因果律の働きによって、全宇宙は経綸されています。

従って、世の中に偶然起きる出来事はありません。

病気を抱えて生まれて来たのも、何かしらの原因が存在していたはずです。



私たちの人生には、計画があります。

オリジナルな計画であり、目的は自分(魂)を成長させるためですが、地上にいる私たちは窺い知ることは出来ません。



前々回のブログで、計画された出来事には「償い」と「挑戦」があると書きました。

お兄さんは、ため息をつき、嘆いて、いつも精神的に苦しそうです。

憶測になりますが、自分の運命を呪い、周囲を手こずらせ、辛そうに生きている姿を見ていて、ついこんなことを思ってしまいました。

過去生で何かしらの過ちを犯して、その償いのために、この身体を選ばざるを得なかったのではないかと。



弟さんは、ため息をつくことも、嘆くこともありません。

自分に起きていることを受け入れていて、精神的に苦しくなさそうです。

その前向きな姿から、償いのためではなく、より大きな成長を促すために、この身体で生きることに挑戦しているように感じました。

同じ病気(障がい)を持っているにも関わらず、生き方が違うのは、そのためだと思いました。

双子として生まれて来たのは、お互いの成長のために必要だったと考えられます。



ところで、お兄さんの苦しみは、死ぬまで続くのでしょうか?

そうとは限らないと思います。



肉体の病気(障がい)は不変であり、生涯付き合わなければ行けません。

けれども、苦しみを感じているのは、肉体ではなく精神です。

自分の病気(障がい)をどう捉えるのかで、苦しみの感じ方は大きく違って来ます。

そのことが、2人を見ていてはっきりと判りました。



不幸、不運として捉えれば、苦しみは付いて回ります。

自分の運命を呪っている限り、苦しみから逃れられません。

人を妬んだり、怒りを覚えれば、余計苦しくなってしまいます。

それらの想いは、自然法則(神の摂理)に反しているからです。

成長を妨げてしまう、それらの想いに対して因果律が働いて、苦しみが生じてしまいます。



もし、過去生で何らかの過ちを犯していたのならば、怒りや憎しみや恨みや嫉妬など自然法則に反する想いが生じやすい性分が原因になっている可能性が高いと考えられます。

苦痛は、過ちに対する償いの一環であると同時に、自然法則に反した性分を改めるために存在すると思います。

生まれる前、今生の計画が立案される時、身体的な病気(障がい)を抱えて生きることが、性分を改めるために最善と判断されたと思いました。



苦痛を感じなくなるには、結局は自分が変わるしかありません。

自分の意思で変えるのが難しいのであれば、自然法則の働きによって、強制的に変えられて行くと考えられます。

変わったのならば、苦痛が存在する理由がなくなり、解放されるはずです。

解放された時点で、償いは終わっていると思います。

たとえ肉体上に病気や障がいは残ったとしても、霊的な負債が返済されたならば、精神的な苦しみはなくなると考えられます。

妨げているものがなくなり、それからは伸びやかに成長して行くでしょう。



自分を苦しめているのは、自分なのかもしれません。

原因を作っていたのは、自分だったのかもしれません。

自分に必要なことが、起きているだけなのかもしれません。

地上に生きていると、そんなことが全く判らなくなってしまいます。



お兄さんの償いが終わったらどうなるでしょうか?

周りで自由に動いている人を見て、妬ましく思うことはなくなるはずです。

支えてくれている人と思えるようになり、感謝の気持ちが湧いて来るはずです。

出来ないことを嘆くのではなく、今の自分に出来ることを見つけて、挑戦するようになると思います。

その時のために、弟さんがいるような気がしました。



苦しみを少しでも和らげるために必要なのは、やはり霊的真理です。

「この世で終わりなんかじゃないよ。」

「今の体から解放されて自由になる時が来るんだよ」等々、ベッドサイドで伝えました。

神妙に聞いていた横顔が、今も印象に残っています。



ウェザーニュース(weathernews.jp)より

2020年12月6日日曜日

誰かのために生きている



早朝、犬の散歩に行った時、まだうす暗い空に満月が光っていました。

月は地球の引力によって、地上から37万km離れたところを回っています

私自身は極小の存在です。

しかし、宇宙から見れば地球の一部には違いありません。

ほんのわずかであっても、月との間に引き付け合う力が働いています。

月は、自分とは全く関係のない存在ではないようです。



私たちは、多くの人に囲まれながら暮らしています。

時に、人間関係が煩わしく感じ、1人になりたいと思う時もあるでしょう。

地球でたった一人になったらどうでしょうか?

生きて行くためには、食料は欠かせません。

しかし、毎日食べている米も、自分で作ることは出来ません。

電気やガスも使えなくなれば、真冬の寒さには耐えられないでしょう。

とても生きて行けるようには思えません。



私たちが普通に生活が出来ているのは、自分のために働いてくれる人たちがいるからです。

私自身も、周りの人のために働いている1人です。

ひとり1人は独立して生きているように見えますが、密接に関係しています。



人間だけではありません。

植物がなくなれば、ガス交換が出来なくなり、動物は窒息して死んでしまいます。

地球上の生物は、お互いがお互いのために生きていていると言えます。



SFみたいな話ですが、インフラはそのままで、食料も調達されて、今と変わらぬ環境で、自分一人だけだとしたらどうでしょう?

全てが自分のものなので、好きなことをし放題になります。

遊園地に行って大好きなアトラクションを待たずに乗ったり、デパートに行けば好きな物がいくらでも手に入ります。

誰に煩わされることも、干渉されることもありません。

自由気ままに、好きなことが出来るので、楽しくて仕方がありません。

しかしながら、それは一時だけかもしれません。



無人島や周囲から隔絶された環境で、誰とも接触しないで一人で暮らしている人がいます。

そんな人たちは、それほど孤独を感じているように見えません。

人から離れた生活を敢えて選んだのであり、その場所を離れれば、また人に会えることが保証されているからだと思います。



もし、地球に自分だけしかいなかったらどうでしょう?

絶望的な孤独感に襲われると思います。

自分と言う存在が、良く判らなくなってしまうと思います。

何故なら、人は人との関係の中で、自分を認識していると思うからです。



朝日が昇るころ、小鳥たちの鳴く声で目覚めることが多いです。

お互いが呼応して、存在を確認し合い、生きている歓びを伝え合っているように聴こえます。

人間も同じであり、他者と関りを持ち、自分を分かってもらえることで、歓びを感じていると思います。



人間とは上手く言ったものです。

生物としての「人」は食料さえあれば1人で生きて行けますが、「人間」は他の人がいることで生きて行けると思います。

人がいることで、人間として成立していると考えられます。

人間は、物的にも精神的にも、1人では生きて行けないと考えられます。



人がこの世に生まれて来た目的は、人間として成長するためです。

困難や障害に直面した時に、それを乗り越えて行く中で成長します。

また、他者のために奉仕をすることで成長します。



地球上で、たった1人で生きているとしたら、誰に対しても、何もしてやることが出来ません。

他者に奉仕することが出来なければ、人間として成長することもままならなくなります。

人間には成長したいと言う欲求がありますが、それが満たされなくなります。

そのために、生きているのが苦しくなってしまうかもしれません。



そんな世界に置かれ、何をすることもなく生きていたとしたら、自分が生きている意味、存在する価値を見い出せなくなってしまいます。

そんな時に、地面にヒマワリの芽が出ているのを見つけたとします。

気になって、水を与えると思います。


自力では生きて行けない子猫がいたとします。

何もしなければ死んでしまうので、食べ物を与えると思います。


そのうちに、成長して行く様子を見るのが楽しみになります。

そして、生きがいとなるような気がします。

他者のために何かをすることが、この世界に自分が存在する、確かな意味になるからです。

ささやかな喜びを感じながら、生きていられると思います。

どんな物を手に入れたとしても、同じような喜びを感じることはありません。

物的な喜びは束の間であり、際限がありませんが、他者のために何かをすることで得られる喜びは霊的なものであり、永続性があります。



私たちは、労働することによって、お金を得て生活しています。

家事もお金を介さない労働です。

人や社会や家族のために、何かしら奉仕をしないと生きて行けないようになっていると言えます。

生きるために必要なことをする中で、知らずに成長が得られているのが地上と考えられます。



死んだ後の世界では、肉体はなくなります。

生きて行くために、労働する必要はなくなります。

自分の好きなことが、いくらでも出来るようになります。



死んだ後の世界においても、生きる目的は全く変わりません。

自分を成長させるためです。

自分の好きなことをいくらしていても、他者のために何かをしなければ、神の摂理により成長は叶いません。

従って、他者のために何かをしようとする気持ちが起きない限り、同じ場所に留まったままです。



地上に生まれるのは、他者のために何かをする習慣を身に付けるためと考えられます。

その中に悦びを見い出すことも、大きな目的の1つと考えられます。

地上にいる時に悦びを見い出せれば、霊界に行って自発的に成長して行くことが可能になります。



多くの人は、他者のために何かをすることは良いことだと、漠然と思っています。

それは道徳的に良いと言う以上のものであり、全宇宙を貫いている大原則(神の摂理)に適った行為です。

適った行いをしている時に人は成長し、生きていることを実感し、満たされた気持ちになります。

自分のためだけに生きていると、どうしても虚しさを感じてしまうのはそのためです。



生きる目的を見い出せずに苦しい思いをしている人は、自分以外に目を向けて、何か出来ることを見つけるのも大切かもしれません。

大きなことをする必要はなく、身の回りで、自分に出来る範囲ですれば良いはずです。

実行に移すことで、苦しみは和らぐと考えられます。

人間は成長していない状態を苦しみとして感じ、成長することに悦びを感じるようになっていると思うからです。