子供の頃、長いトレーラーにたくさんの牛たちが乗せられて運ばれていくのを、時々目にしました。
牛たちは、身動きもせず、じっとしています。
トレーラーが信号待ちで止まり、1頭の牛と目が合いました。
何とも言えない、とても悲しそうな目をしていました。
今にも涙を流しそうな、潤んだ目で、何かを私に訴えているような気がしました。
幼い時は、動物と同じように、魂が前面に出ていたので、牛たちの悲しみの想いを、敏感に感じ取っていたのかもしれません。
私の実家の近くに、比較的規模の大きい食肉工場がありました。
近くに住んでいても、その中で何をしているのか全く知りませんでした。
小学6年生くらいの時のことです。
近所の友達と、その工場に隣接した公園で遊んでいました。
しばらく遊んでいるうちに、隣にある工場の中がどうなっているのか気になり、中を覗いて見ようという話になり、友達とともに背丈よりも高いブロック壁をよじ登りました。
よじ登ってみると、目の前に工場の窓がありました。
その窓は半分位壊れていて、建物の中の様子を覗くことができました。
そこには、数人の男性がいました。
しばらくすると、一頭の黒白模様の大きな牛が、男性たちの中に牽かれてやってきました。
当時の私は、これから何が起こるのか分かりませんでしたが、少し興味があり、友達と一緒に、しばらく見ていることにしました。
牛は、身動きも、抵抗もしていません。
鳴き声ひとつ、上げていません。
一人の男性が、何かを持っているのが目に留まりました。
つるはしの両刃が10センチ位に短くなったような道具です。
先は尖っていました。
何に使うのか考えている暇もなく、男性はその道具を振り上げて、力いっぱい、牛の眉間の少し上の部分に、振り下ろしました。
刃先が頭蓋骨を打ち破る、鈍い音が響き渡りました。
直後に、大きな牛はコンクリートの地面に倒れて、頭蓋骨の穿孔部から、どくどくと真っ赤な血が溢れ出てきました。
男性の一人が、倒れた牛の額の穿孔部に針金のようなものを入れていきます。
すると、牛の後ろ足がピクピクと痙れんしました。
他の男性たちは、刃物で皮を引き裂いて、はがしていき、あっという間に、皮膚のない牛が、フックみたいな金属につるされました。
今まで元気に生きていた牛が、人間の手で殺されて、ものの5分もかからないうちに肉の塊になりました。
あまりに衝撃的な光景を目の当たりにして、言葉をなくしたまま、家に帰りました。
そんな出来事があったなど家族は知るはずもなく、いつものように食卓には肉を使った料理が出されます。
子供として、出されたものは食べないわけにはいけません。
罪悪感、後ろめたさみたいなものを感じながら、食べてしまいました。
時と共に、そんな記憶も徐々に薄れていき、いつも通りに肉を食べるようになり、思い出すこともなくなりました。
それから、数十年を経て、子供の時に感じた牛や豚たちの悲しみや恐怖に、再び想いを巡らすようになりました。
今は、人に食べられるために殺される動物たちがいることを、苦痛に感じます。
人は他の動物たちを殺して、肉を食べなくて良い生き物だと思うようになりました。
ところが、昔の私がそうであったように、多くの人は肉を食べないと、栄養の摂取が不十分になると考えています。
人間はもともと、肉も食べるように出来ていると言う人もいます。
果たして人間は、もともと肉を食べるように出来ているのでしょうか?
私の職業である、歯医者という立場から考察してみました。
人には上下、左右7本ずつ、合計28本歯があります(親知らずは除く)。
人の上あごの歯 |
人の下あごの歯 |
前に並んでいる薄い歯は前歯(ゼンシ)と呼ばれて、物を噛み切る役目をしています。
奥に並んでいる丸く見える歯は臼歯(キュウシ)と呼ばれ、物を噛み砕く役目をしています。
臼歯を良く観察すると、文字通り、臼のように中央にくぼんでいる部分があります。
下の臼歯:中央部が臼状にくぼんでいます |
下の歯と噛み合わさる上の臼歯には、杵に当たる豊隆した部分があります。
上の臼歯:豊隆部があります |
上下の歯が噛み合わさった状態 |
牛や馬などの草食動物の歯は磨耗も認められますが、人の臼歯より平らであり、草や葉を磨り潰すのに適しています。
牛の臼歯:噛む面は平らです。 |
一方、肉食動物であるライオンの臼歯は鋭くとがっていて、骨を噛み砕いたり、肉を噛み切るのに適しています。
ライオンの下あご標本:臼歯は鋭く尖っています |
歯の形態を観察すると、人間は穀物や木の実を噛み砕くため、牛は草や葉をすりつぶすため、ライオンは肉を噛み切るために適していると考えられます。
試しに、肉と、アーモンドと、薄い菜っぱを、奥歯を使って食べ比べてみると良く判ります。
どれが、一番噛みやすいでしょう?
どれが、しっかりと噛めるでしょうか?
きっとアーモンドが噛み応えがあり、食べやすく感じると思います。
ナイフやフォークなどの食器なしで、人は肉を上手く食べられません。
前歯で噛み切って、奥歯で細かく粉砕が出来るでしょうか?
かなり、難しいと思います。
人の歯は、米、雑穀、豆類、木の実、果実などを食べるのに適した形態をしていると考えられます。
食べるべきものが、食べやすいように、歯の形態が創られていると思います。
下あごの動きにも注目してみました。
ライオンや猫など、肉食系の動物の下あごは、関節の構造から、口を開いたり閉じたりする動き(蝶番運動)しかできません。
獲物をくわえて、肉を引き裂くために好都合な、上下の歯がハサミのように噛み合わさるように、下あごが動きます。
それに対して、牛や馬など、草食系の動物のあごの動きは、口の開閉に加えて、閉じた後にモゴモゴと横に下あごを動かせます(側方滑走運動)。
これは、草や葉っぱなどを、臼歯ですりつぶすのに好都合な、下あごの動きです。
雑食性と言われるクマはどうでしょうか?
咀嚼している時に、下あごを横に動かしているようです。
多くのクマは山で木の実などを食べるのに適した歯の形態と、下あごの動きをしていると思われます。
さて、私たち人間はどうでしょうか?
上下の歯が合わさった後に、左右に下あごをずらす動きができます。
これは物を噛み砕き、すりつぶすためのものです。
肉を食べるのではなく、米や雑穀、木の実、豆などの穀物を噛み砕き、すりつぶして食べるのに適した下あごの動きを、人間はしています。
クマの犬歯は大きく発達していますが、動物の中では人に近いようです。
人もクマも、雑穀や木の実などを下の歯の上に乗せて、上の歯で砕きながら、下あごを横に動かしてすり潰しながら食べるのに適した、歯や下あごの動きをしています。
クマは人を襲って食べる、怖い動物と思っている人もいますが、クマにとって人は見つかれば殺されてしまうかもしれない怖い存在あり、自分を守るための行動を取っているだけと思います。
生息する地域によって食性は大きく違いますが、多くのクマは森のベジタリアンと呼ばれるほど草食系の動物であり、人と食性が類似した動物と言えるのかもしれません。
以上より、歯の形態、下あごの動きから考察すると、人の身体の構造と機能は、肉を食べるよりも穀物などを食べるように出来ていると考えられます。
では、人は、なぜ肉を食べているのでしょうか?
近年、世界中で牧畜が盛んに行われ、肉も容易に手に入るようになりました。
そのままでは食べにくい肉も、加工や調理をすることで、簡単に食べられる様になりました。
肉を食べるようになった大きな要因は、労せずして、簡単に食べられるようになったからだと思います。
本来、人間が食べなくても良いものを、文明の発展とともに、好んで食べるようになっていったと考えられます。
そして、肉が貴重な時代があり、肉を食べないと栄養失調になる、元気が出ないなど、誤った常識が作られたのも、消費が増える一因となっているのに違いありません。
本来、食べなくても良いものを、たくさん食べるようになったため、過去にないほど、さまざまな病気を現代人は抱えていったのもかもしれません。
世界中の多くの人は肉を食べていますが、自分の手で殺生してまで、食べようとする人が、どれほどいるでしょうか?
人間は、他の動物を殺すことに、罪悪感を感じるようになっているので、ほとんどの人は殺してまで食べようとはしないと思います。
しかし、社会が細分化され、動物を自らが殺さなくても、肉は食べられるようになりました。
何気なく食べている肉が、動物を殺して提供されているという事実が、完全に隠蔽されてしまっています。
それが、肉食をやめない、大きな要因になっていると思います。
大手ハンバーガーチェーンに提供されるパテの材料となる牛たちは、営利を優先するため、生き物としてではなく、物として扱われているようです。
過酷な環境で生まれ、単に体を大きくされて、人間の手により殺され、肉片と化します。
そこには、同じ動物としての尊厳は、微塵も感じられません。
店舗からは、非人間的とも言える行為を動物たちに強いた上で、ハンバーガーが作られている現実は綺麗に払拭され、多くの人たちが今日も利用しています。
私には、牛たちの悲しみや恐怖が染み込んだ肉を食べているように見え、心身に良いはずがないと真剣に思っています。
ほとんどの日本人は、毎日肉を食べていて、調査結果では、1年間に平均、牛肉6.9Kg、豚肉11.5Kgを食べていると報告されてます。
体重800Kgの牛からは、200Kgくらいの食肉ができるそうです。
体重90Kgの豚から、44Kgの食肉ができるそうです。
あまりしたくない計算ですが、一人の日本人が20数年間で1頭の牛、4年間で1頭の豚、そしてたくさんの鶏の命を、間接的に奪っていることになります。
栄養学的に、肉を食べなければ身体を維持できないという考えは、食べようとする人間の勝手な言い訳に過ぎないのかもしれません。
中央アフリカに生息するマウンテンゴリラは、果実や葉っぱを食べて生きていますが(時々、昆虫も食べているようです)、たんぱく質が不足するどころか、400㎏を超える握力を発揮するほどの筋肉量を維持しています。
同じ霊長類である人間も、肉を食べなくて良いように創られていて、そのための知恵も与えられているはずです。
こんなことを書いている私も、少し前まで肉を食べていましたから、今になって他の人にやめろと言うのは身勝手だと思います。
なので、お伝えしたいと思います。
1匹の動物には、1つの魂が宿っています。
当然のことながら、食肉となる牛、豚たちにも、魂が宿っています。
魂からは、人間と同じ様に、喜びや悲しみの想いも生まれ、しっかりと恐怖も感じています。
しかし、人間は動物の想いに、きわめて鈍感になってしまっています。
工場で殺される前の、牛や豚たちの想いがどんなものなのか?
想像すると、言葉を失います。
動物の気持ちなど、判らないのであれば、想像して下さい。
もし、自分が別の生き物に捕らえられ、囲まれて、殺されてしまうとしたらどうでしょう?
想像もできないような恐怖を感じ、必死に助けを求めるでしょう。
牛たちには、助けを求める言葉もありません。
強者である人間のなすがままです。
今、思うと、私が子供の時に工場内で見た牛は、恐怖を通り越し、観念していたように思えます。
自分の運命を受け入れ、その時を静かに待っていたような気がしてなりません。
それを考えると、いたたまれなくなります。
人間から餌をもらい信頼して育った牛が、大きな恐怖を味わいながら、同じ人間の手によって殺され、心に深い傷を負ったまま霊界に強制的に移るため、可哀想なことに、しばらくは錯乱状態が続いてしまうようです。
殺されるために、この世に生まれて来たはずがありません。
感謝して食べれば良いと言う人がいますが、それは詭弁に過ぎないと思います。
ところで、ライオンなどの肉食獣は、動物を殺して食べて生きていますが、どう考えれば良いのでしょうか?
肉食獣にとって、捕食は本能に支配された行動であり、殺しているという概念は持ち合わせていないように思えます。
もしそうならば、良心の呵責など存在しません。
ところが、人間には「殺す」と言う概念が、明確に存在しています。
殺すのは、良心に反する行いなので、実行すれば罪悪感が生まれますが、ほとんどの人は、動物たちを自分の手で殺して、食べている訳ではないので、罪悪感はほとんど感じていません。
しかし、食べている肉は、動物が殺されて作られるのは、間違いなく知っています。
それでも食べてしまうのは、食用の動物は人間より下と考え、豊かな感情を持ち合わせている事実を、見て見ぬふりをしているだけかもしれません。
人間には、動物を食べないでも生きていける選択肢があります。
それでも食べてしまうのは、動物の命を尊重するよりも、食べたいという自己の嗜好的欲求が勝っているからだと思います。
肉を食べるのは、愛を基調とした自然法則に反していると考えられ、魂の成長の妨げとなると共に、心身の病気などを通して、相応の償いが生じているのかもしれません。
牛や豚の目を良く見ると、かわいらしく、優しい目をしています。
牛や豚は肉である前に、豊かな感情を持ったかわいい動物であり、生き物としての威厳も感じます。
生まれた仔牛と母牛は、深い愛情で結ばれています。
母牛から引き離され、大きくならないうちに殺され、仔牛の肉として、人に食べられるのでは、あまりにむごすぎます。
それを、柔らかくておいしいと言って、食べる人の気持ちが、私には判らなくなりました。
悲劇は、他者の想いが判らないために生まれてしまいます。
動物たちの想いを知らないから、食べることができます。
それは、人の想いが判らないために、争いが起きてしまうのと同じです。
もし人が、動物たちの本当の想いを知ることができたならば、こんな悲劇は生まれないでしょう。
牛や豚は人に食べられるためではなく、人間が窺い知れない目的や役割があって存在していて、同じ地球に生きる、対等な仲間だと思います。
もし、人間が地球上で1番進化した動物であるのならば、他の動物に対して1番優しくなければいけません。
地球上が、人間の独裁社会のように見えてしまうのは、私だけでしょうか?
独裁社会になっているために、環境破壊が進み、動物虐待が横行しています。
あの時の牛の命を奪った、骨を砕く鈍い音は、40年経った今も耳から離れることはありません。
物言わぬ動物たちは、今も、声なき悲鳴を上げています。
肉食をやめるのは、決して簡単なことではありません。
しかし、人間は肉を食べなくても、生きて行けるように創られていると思います。
世の中が唯物的になるほど、肉を食べるようになり、霊性(魂)に目覚めるほど、肉を食べなくなり、人間本来の食生活に戻って行くと思います。
動物には、人と同じように想いがあります。
人は、動物を食べなくても生きていけます。
もし、迷っているのであれば、思い切って今日から、肉をやめましょう!
食べないでね |
参考ページ: 「かわいい動物たち」
参考ブログ:「ヴィーガンと動物愛護、そして時々、霊的真理」胸が痛くなりますが、これが現実です。是非見て下さい。
9 件のコメント:
イクミ様 ご無沙汰しています
先日もありがとうございました
相変わらず心が折れていて助けてーと思い書き込みに来たのですが
この記事を読んでしまいました
とてもいい事を書いてくださりありがとうございます
私はかなり前からベジタリアンです
肉は絶対に食べれません
動物と関わってる事もあり肉は全く受け付けない 見るのも嫌です
その私の影響もあり彼も肉食をやめました
闘病中に 結局食事を取ることは最後までなかったのですが
栄養をつけないとダメだから、せめて入院中は肉が出ても食べないといけないよと言ったら
彼は顔をしかめて首を横に振りました
そんな優しい彼です
昨夜初めて夢をみました
彼は一言も発せず 火葬されたあとでした
もちろん私は拒否されてたのでお骨上げしたわけではないのに
何故そんな夢をみたのか
しかも一番初めに見た夢が…
顔も見てないのに骨だけで彼とわかりました
やっぱり私は狂ってしまったのでしょうか
今日で42日です
ただただ早く逢いたいです
恋しくて愛おしくて ふたたび恋をしています
こんにちは。山本様
ブログをほめていただき、ありがとうございます。
ベジタリアンは今は少数派ですが、これから徐々に増えてくると思います。
山本様のように動物愛護活動に携わっている人たちは、牛も豚も同じ動物なのですから、肉を食べないように努力するべきだと思います。
殺処分0は、犬や猫だけでなく、これから先は、牛や豚たちにも広げて行くべきではないでしょうか。
亡くなって42日経ちましたか。
山本様にとって、彼はとても大きな存在であり、しっかりと支えてもらっていたので、心が折れてしまうのも仕方ありません。
悲しすぎて、苦しいでしょう。
私がお伝えできるのは、彼はいなくなってしまったのではないことです。
生命とは、荼毘の炎ともに完全に消えてなくなる、そんなはかないものではありません。
死とは、形を変えて生きるためにある、自然現象の1つに過ぎません。
彼の魂は不滅です。
魂から生まれている、あなたへの愛も、同じく不滅です。
初めて見た彼の夢が、火葬された後の骨であり、顔を見ていないのに、彼のものだとわかったと言うことですが、この世の最後のお別れが出来なかったことを、あなたがとても無念に思っているので、霊界の計らいで、あなたに見せたのではないかと思います。
彼は、あなたへの愛を、この様な形で表現しているのではないかと思います。
もし、そうであれば、彼は本当にやさしい人です。
これからも、生活上のささいな出来事の中に、彼の想いが込められているかもしれません。
この世とは、想いの表現の仕方が違いますので、どうぞ見過ごさないようにして下さい。
生きていた時とは、別の形で、しっかりと支えてくれていると思います。
初めまして、浦上と申します。お忙しい中、失礼します。
現在19才で、某大学医学部2年生です。
私も、外から見ると順風満帆の人生を歩んできたかに思われるのですが、中学・高校時代と様々な困難や試練に遭いました。その頃から精神世界には何となく惹かれてはいたのですが、つい3ヶ月ほど前、ある霊能者の方に出逢ってから、精神世界を本格的に学ぶようになりました。
特にシルバーバーチの霊訓には、もう自分を本当に救ってくれるものはないだろうと思っていただけに、とてつもない感銘を受けました。
私の紹介はこれくらいにして。。
イクミ様のメッセージ、とても勉強になります。シルバーバーチの霊訓を読んでもよく分からなかった部分のつかえが取れて、どのように生きてゆけばよいのか、理解がまた深まっていくように感じています。文章もとても分かりやすく、言葉の使い方も素晴らしいなと思います。
”本当の自分”と”もうひとつの自我”の存在について、書かれていて、”本当の自分”とは何なのかよく分かりました。
初めまして、浦上様。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
まだ、お若いのにシルバーバーチの霊訓に出会い、感銘を受けたのは、とても幸運で、すばらしいことだと思います。
精神世界の奥にあるのが霊的世界であり、その世界について広く正確に知るのに、シルバーバーチの霊訓以上の書籍は、少なくても日本には存在しないと思っています。
困難な状況の時に、私を救ってくれたのがシルバーバーチの霊訓であり、これぞ普遍の真理と確信しましたが、それから10年経った現在は、確信がさらに深まっています。
矛盾点や疑問点を見出したことは今までになく、経験則からその真実性が裏打ちされ続けています。
ブログを読んで、シルバーバーチの霊訓を読んでも分らなかった部分のつかえが取れたとしたら、うれしい限りです。
大切なのは、本当の自分の想いに忠実に生きることであり、もう一つの自我の考えに惑わされないことです。
進むべき方向を、本当の自分は瞬時に指し示しますが、もう一つに自分が後からさまざまな理由を付けて阻もうとします。
そこに葛藤が生まれますが、最初に指し示されものが、自分を成長させる方向ですので、迷わず進んで下さい。
その方向に進んでいくと、困難や試練が待ち受けていると思いますが、全て自分(魂)を成長させる糧と考えて、乗り越えて下さい。
浦上様は理系なので、客観的に証明されないものは信じなかったのかもしれませんが、霊能者と出逢い、証明されないものでも実在する事実を、受け入れられたと思います。
魂の存在を、頑なに否定する人は多く、特にお医者さんは唯物的な考え方をする傾向にあると感じています。
数年後に医師となるわけですが、患者さんの肉体だけではなく、精神そして魂まで診れるようになって欲しいと個人的に望むところです。
人は、肉体、精神、魂(霊)の複合体であり、病気の原因は、それぞれの次元に存在すると考えるからです。
肉体だけでなく、魂も癒せる医師になって欲しいです。
医師となって、患者さんのために働けるのは、とても幸せなことです。
患者さんの悦びを通して、自分をより成長させることができるからです。
ちょっと先のことを話し過ぎたようですが、まずは、国家試験に備えて、勉強に励んで下さい。
最後に、少し大変ですが、シルバーバーチの霊訓全12巻を読むことをお勧めします。
多面的に、真理を捉えることができるからです。
今、理解できないことがあったとしても、これから人生経験を積むうちに、腑に落ちてくるでしょう。
また感想などを、コメントしていただければ幸いです。
おっしゃるとおりです。これ以上動物を殺す加勢をしたくないです。いったいどこまで人間は傲慢なのでしょうか?
匿名様
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
傲慢さは、霊的な無知から生まれます。
動物には魂があり、感情を持っている、そのことに一人でも多くの人が気付いて欲しいです。
赤ちゃんです。
アラン・カルデックの【霊の書】では肉食を肯定しておりますが、何故でしょうか?
高級霊と繋がるだけの人格がありながら、肉食を肯定しているのには、矛盾があります。アラン・カルデック氏が肉食をしていなくて、それを説くのならば、心には法があります。当時の人々が懸念に満ちて葛藤が恐れをなす為に、そのよう問いがあるにしかりです。
しかし、高橋信次といえども、肉食がいけないのではなく、感謝して食すると説いています。
高橋氏自身も肉食をしていました。
高橋信次のような霊力と人格に優れた霊能者なら、肉食について肯定しているとならば、矛盾しているように思います。
霊界の全てがわかるはずもないですが、肉食の問題について意見が異なるのは、霊性が高いのならば、間違えるはずはないと思うのですが。どう思いますか?
赤ちゃん様
こんばんは。
アラン・カルデックの「霊の書」の中に、肉食を肯定している一文があるようですね。
高級霊界で肉食を肯定する霊はいないでしょうが、霊の書が書かれたのは1857年で、シルバーバーチの霊訓より100年位前であり、当時の人に肉食を禁じるのは無理があると判断したのかもしれません。
それでも、努力目標として、肉食を戒めて欲しかったです。
結局は、個々の良心の問題でしょう。
高橋信次氏もそうですが、人や社会のために尽くし、霊性が高いと思われる人ても、肉食に良心の呵責を感じない人はいくらでもいます。
普段は懸命に人の命を救っていても、動物実験に罪の意識を感じないドクターもたくさんいます。
動物愛護活動をしている人をたくさん知っていますが、その中でヴィーガンの人を私は知りません。
すごく矛盾を感じるのですが、それとこれとは別なようです。
人の良心は、いろいろな側面を持っているのかもしれません。
少なくても、魂の存在を信じている人、霊的真理を受け入れた人は、動物の生命を尊重するべきです。
動物にも恐怖の感情があるのは明白です。
多大な恐怖を感じさせてまで肉を食べようとするのは、肉を食べたいと思うエゴに負けてしまっているとしか思えません。
エゴに良心が負けてはいけません。
それでも、毛皮のコートを着る人がめっきり少なくなったように、肉を食べる人も少しずつ減って行きます。
まだ肉を食べているの?と言われる時代が(ずっと先でしょうが)必ず来ます。
そうだと思います。高橋信次氏は、仏教に傾倒していたし、高級霊と繋がっても、ビジョンや高級霊の指導を、間違えて解釈したのでしょう。高橋信次氏は、人間の霊であるには違いありません。
将来、霊媒よりも、超霊感能力で、直接、高級霊と繋がれる方々が増えれば、肉食の愚かさに、人々は気づくでしょうね。
牛の画像を見たら、直接、神様が、全てをご存知だと感じました。牛が、神に見えました。それは、動物の類魂の主であろうと、牛が主の御使いのように、純粋で輝いていました。
ありがとうございました。
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