2018年9月30日日曜日

人生を総括する時が必ず訪れる



10年以上前ですが、今までに経験したことのない苦難が私に訪れました。

ほぼ同時に、シルバーバーチの霊訓と出会い、救われて人生が変わりました。



この世で終わりではなく、死んだ後も人生は続いているのを知らなければ、どうなっていたのでしょうか?

仕事で成功して、好きなことをして一生を過ごすのが幸せな人生だと、多分思い続けていたでしょう。

多少悪いことをしても、ばれなければいいやと、平気で思っていたかもしれません。



霊訓を読んでいて、少し怖くなったことがあります。

それは、死んであの世に行った後に、この世の人生を「総括」する時が必ず来ると言うことです。

思ったこと、言ったこと、行ったことの全ては、目に視えないオーラに刻み込まれています。

生まれた時から死ぬまでの全人生が、スクリーンのようなものに映し出されて、それを見させられるようです。



思わずうれしくなる場面もあれば、正視したくない場面もあるでしょう。

事件や事故に遭った時のことを見るのは、誰でもいやなものです。

しかし、それとは比較にならないほど見たくないものがあります。

それは、人を傷つけたり、迷惑をかけたり、嘘をついたり、隠れて悪いことをしている自分の姿です。



人生で犯した過ちは、数多くあるでしょう。

えていることもあれば、忘れてしまっていることもあります。

そして、その過ちによっていかなる結果が生じていたのかを、追跡されて見させられるようです。

それを見るは、本当につらいものがあると、今から想像しています。



例えば、学校で誰かをいじめて、その子が不登校になったとします。

卒業してしまえば、どうなったのか知る由もありませんが、「総括」の時に、その子の後の様子が映し出されて、見ることになると考えられます。

もし、自分のせいで予定されていた人生が送れなかったとしたらどうでしょう。

事実に愕然として、その後に後悔や罪悪感に苛まれることになると思います。



この世で悪いことをしても、社会的な責任から逃れることは可能かもしれません。

しかし、霊的な責任から逃れることは不可能です。

自分が原因を作ったのであれば、その結果責任を必ず負わなければなりません。

自分のせいで相手の成長が損なわれたならば、将来、自分が成長が出来なくなるような事象が生じると考えられます。

成長出来ない苦痛を、自らが味わうことになります。

それが罪の償いであり、後悔や罪悪感という苦しみから解放されるための、唯一の手段と考えられます。


人を傷つけたり、悲しませたり、迷惑をかけていけないのは、道徳的、倫理的、法律的以上に霊的な意味があるからです。

自分のしたことは、神の摂理の働きにより、全て自分に返って来くるからです。



また、過ちは犯していなくても、怠けていたり、臆病な自分の姿を視て、大きな後悔をするようです。

夏休みに遊んでばかりいて、宿題をやらないで新学期が始まればどうでしょう。

教室で宿題を提出する時には、きっとその場から逃げ出したくなるでしょう。

人生で為すべきことが為されなかったのなら、それとは比較にならないほど大きな後悔を味わうことになると思います。

この世に生まれた目的が、為すべきことを為して自分を成長させることであり、その絶好の機会を逸したことを知るからです。

自分を成長させる機会は、前途に逃げ出したくなるような状況、リスクを背負う状況が待ち受けていることが多いです。

けれども必ず訪れる「総括」の時に後悔しないためにも、勇気を持って一歩を踏みだなければいけません。



「総括」の時に、裁判官のような第3者がいて、判決を告げられるような構図を想像するのは誤りのようです。

自然法則の働きにより、自分で自分が裁かれるようです。

いじめをしたのならば、最初の時に「良心の声」がして、止めるように促していたはずです。

しかし、その声を無視してしまったのであり、常態化してしまえば次第聞こえなくなって行きます。

その声こそが、自分に内在する神であり、同じ声によって今度はこの世の人生を裁かれることになります。

心の中で良心の声が大きくなって迫って来て、責め立てられるような気持ちになり、思わず「やめてくれ」と叫びたくなるかもしれません。

深く傷つけてしまったのならば、後悔と罪悪感という針の筵(むしろ)の上に座らされているような心境になると予想されます。

自分の行いは自分が一番良く知っていますので、言い逃れや言い訳、誤魔化しは一切できません。



それでは、「総括」の時に後悔しないためには、どうすれば良いのでしょうか?

まず、神の摂理の働きを知っておく必要があります。

正しく知るために、「シルバーバーチの霊訓」を読むことをお勧めします。

神の摂理は正確無比に作動しています。

神の摂理(愛)に反した言葉や行いには苦痛が、適ったものであれば悦びが生まれます。

「総括」の時に悦びを感じるためには、ひたすら摂理に適った人生を送るしか方法はありません。

神の摂理は愛を基調としています。

人や動物に優しく、世の中のために生きて、後悔することは絶対にありません。

その行いは苦しくても、次に行く世界で悦びが待っています。



ところで、慈善団体などに多額の寄付をすれば、神の摂理に適っているので、その先で悦びが待っているのでしょうか?

行為に先立っている動機(想い)が問われるようです。

自分のために寄付をするのか、人や社会のために寄付をするのかによって、大きく違って来るようです。

同じ行為をしても、どんな想いが込められているのか、自己を犠牲にしているのかが問われるようです。

賞賛を受けるために1億円を寄付する大金持ちよりも、役立つことを願ってわずかなお小遣いを少しずつ溜めて、千円を寄付する子供の方が摂理に適っていて、成長した悦びが待っていると考えられます。



神の摂理は極めてシンプルです。

人に喜ばれることをすれば、自分に悦びとして返って来ます。

しかし、それがなかなか出来ないのが、肉体を持つ人間の弱さであり、それを克服して行くことが、この世に生まれた大きな意味と考えられます。

ほとんどの人が神の摂理の働きを知りません。

そのために、人や動物が傷つき、環境が破壊されて、全体の成長を遅らせる事象が起きています。

突き詰めれば、欲が深かったり、自分のことしか考えないことから生じています。



人生はこの世だけではありません。

この世の人生を「総括」する時が来ます。

そして、神の摂理に反した行いには償いが生じます。

この3つの事実を知っていれば、これほどまで目を覆いたくなるような事象は起きないでしょう。

欲が深かったり、自分のことしか考えなかった人は、「総括」の時にとても惨めな思いをして、大切なものを学び直さなければいけません。



神の摂理霊的真理)ほど重要な知識はありません。

しかし、残念なことに魂に受け入れる準備ができていなければ、その価値が判りません。

0数年前の私であれば、それこそ「豚に真珠」でした。

存在に気付きもしなかった真理は、暗闇の中で宝石のように光輝き出しました



暗闇の中にいる人に、理のありかを提示することは、知っている者の務めです。

霊的な感度が高く、背後にいる存在との間に良好な関係が築かれている人は、導かれて辿り着くかもしれませんが、多くの人はさまよい続けています。

光を求めて、ある人は宗教に引き寄せられます。

これぞ真理なりと、多くの宗教が声高々に叫んでいますが、どれも真実であることを証明する決定的な根拠は示してくれません。

それどころか、求めているのは真実だけなのに、それ以外のものまで信じるように求められます。

喉がカラカラに乾いた人に、食べ物はいりません。

苦しみの意味、悲しみの意味、生きることの意味、死とは何か?真実を知りたがっている人に、それ以外のものはどうでも良いはずです。



真実は宗教に教えてもらうものではなく、自分自身が見出すものだと思います。

暗闇の苦しみから抜け出させてくれるものが、求めている真実です。

それを手にすることが、生まれて来た意味の1つです。

出来事が起きて真実を見出しているようですが、本当は真実を見出すために、計画した通りに出来事が起きているのかもしれません。



必要なものが、最適な時期に与えられるはずです。

心の中で反発するものがなく、すんなりと入って来るものを素直に受け入れれば良いのかもしれません。

ただし、少しでも疑問が生じたり、おかしいと感じたのなら、それを信じてはいけません。

藁をもすがる思いで信じたものが真実でなければ、間違った生き方をしてしまい、取り返しのつかないことになります。

「総括」の時に、人生を無駄にしてしまったことを知り、大きな後悔が生じてしまいます。



人生では、思いもよらぬ出来事が起きます。

何で自分だけがこんな思いをしなければならないのか?

理不尽、不公正、不平等だと思えば、行き場のない怒りや憎しみが生じてしまいます。

その出来事の意味も、「総括」の時に明らかになると考えられます。

理不尽に思えた出来事は、実は自分自身が原因を作っていて、因果律の働きにより起きていたことを知るかもしれません。

苦しめられた出来事は、成長するために約束していたことだと知るかもしれません。

邪な思念によって引き起こされた出来事も、罪の償いと魂の成長という報いによって、完璧な公正が保たれているのを知ると思います。



霊界に行くと、自分は地上で不当に扱われたと文句を言う者は一人もいないそうです。

それは、宇宙の隅々まで自然法則が働いていて、その結果として出来事が起きているのを知るからです。

運不運や偶然という曖昧な概念が入り込む余地は全くなく、あるのは原因と結果の連鎖だけなのを知るからです。



霊界に行けば、原因に対して結果が立ちどころに生じるので、自然法則の働きを疑う余地はありません。

地上では物質(肉体)を通して自己表現をしています。

そのために、誤った表現、曖昧な表現をしてしまうために、予期しなかった結果(出来事)が返って来ることがあります。

また、物質が介在しているので、時間をおいてから結果が生じることも多いと考えられ、因果関係が判りにくくなってしまいます。

そして、記憶からは消されていますが、過去の人生(過去生)に原因があった可能性もあります。

理不尽や不当に思えてしまうのは、原因が判らずに、結果しか見えないためと考えられます。



苦痛を伴う出来事であれば、それが償いであると同時に、2度と同じ過ちを起こさないための学びになっているのかもしれません。

あるいは、より成長するため、自分にない資質を手に入れるために必要だったのかもしれません。

もしそうであれば、この出来事が起こる人生を選んだのは、間違いなく自分自身です。



この世では、因果関係は目に見えず、客観的に証明される類のものでもありません。

しかし、「総括」の時にはっきりと認識されて、この世の全ての出来事の意味が判るはずです。

神の摂理の働きの完璧さに驚嘆し、理不尽さや不当だと感じていたことに恥かしさを覚えるかもしれません。











2018年9月16日日曜日

怖れや不安から解放させるもの 



数年前のことですが、赤城山麓を車で走っている時に、道路の端に首輪のない大きな犬が2匹いるのを見つけました。

その場で車を停めて、降りて近づきましたが逃げてしまいます。

雄と雌のラブラドールレトリバーで、以前はブリーダーに飼われていて、繁殖の用が済んだのか、飼い切れなくなったのか判りませんが、山の中に捨てられたと推察されます。

そこでコンビニでドッグフードを買ってきて与えると、お腹が空いていたのかムシャムシャと食べましたが、体を触ろうとすると、こちらを威嚇しながら逃げてしまいます。

人を信用していませんでしたが、元々人懐っこい犬種のためか、たちには興味があるように見えました。

数週間、そこに妻が通って食べ物を与えて慣らして、どうにか2匹を捕まえることが出来ました。

そのうちの雄の1匹をジョン君と名付け、家の居間に大きなゲージを設けてその中で飼って、迎え入れてくれる家族を探すことにしました。

家に来たジョン君
私の家には、当時5匹の犬がいました。

ゲージの中からジョン君は、飼い犬たちが私たちに話しかけられたり、一緒に遊んでいるのを、不思議そうに見ていました。

ジョン君の体重は35キロを超え、堂々たる体格です。

私が飼っている犬は20キロにも満たないので、もしケンカになれば勝負は目に見えています。



ある日、庭に全部の犬を放した時のことです。

飼っている雌犬の1匹が、二回り以上大きいジョン君の首根っこに噛みつこう(ケンカではありません)としていました。

体の大きなジョン君が必死に逃げ回っていて、とても不思議な光景に映りました。



先住犬の強みもあったのでしょうが、ジョン君は寂しそうで、どこか自信がなさそうに見えました。

何故、自信がないのか考えてみると、ジョン君には決定的に不足していたものがあるような気がしました。

それは、人から受けた愛情です。

繁殖犬として飼われていたので、金儲けの道具として扱われ、人から愛情を受けていなかったのでしょう。

捨てられて保護された犬は、怯えたり不安なそぶりを見せることが多いのですが、それは絶対的な愛情が不足している上に、人に裏切られたためと考えられます。



地上で最も進化している動物は人間です。

次に進化している動物はではなく犬と、シルバーバーチは言っています。

進化とは知性ではなく霊性が発達することであり、愛情を受けることによって動物は進化し、人間のそばでより多くの愛情を受けた犬が猿を抜き去ったようです。

動物の魂に(個的)意識を芽生えさせるのも、霊界に戻った時に類魂全体の進化させるのも地上で受けた愛と言われています。



あらゆる生物を生かしている力、それは目に見えない生命力です。

生命力とは霊的な力であり、神を始源として魂に流れ込んでいます

そして、愛も霊的な力です。

愛を受けることにより魂は賦活化され、より多くの生命力が流れ込んで来ると考えています。

人から受ける愛によって動物のオーラは輝いて、それが自信のようなものに見えるのかもしれません。

体は大きくても、普段から愛情を受けている自分より小さな犬のオーラに、ジョン君は圧倒されてしまったのかもしれません。



人間の子供たちも、全く同じだと思います。

輝いて自信のあるように見える子供と、何となく暗くて自信のなさそうな子供がいます。

当然のことながら、性格や生活環境、それまでの個人的な経験にも左右されるでしょうが、受けている愛情が強く反映されているように思えてなりません。

輝いている子供は、親たちから愛と言う霊力を十分に受け取っているように思います。

暗そうな子供は、絶対的な愛情が不足していたり、心に傷があるために、オーラ(生命力)の輝きが損なわれているように見えます。



ジョン君の話に戻ります。

来た時は人を信用していませんでしたが、十分な食べ物を与え、声かけをしている内に、他の犬と同じ様に散歩をしたり、ボール遊びもしたがるようになりました。

山で捨てられて、守ってもらう存在がいなかったジョン君は、自分の身は自分でを守るしかなく、周りを警戒しながら生きていました。

人と一緒に暮らして、愛情を受けることで、次第に恐怖心や不安感から解放されて行き、心を開いてくれたと思いました。



人間も同じだと思います。

親たちから愛情を受けることで、子供たちは守られていると言う安心感を抱きながら、自信を持って生きることが出来ると考えられます。

愛情が不足すると、どうしても怖れや不安が生じて、周りを警戒するようになってしまいます。

そんな子供は、自分を無意識に守ろうとして、心に高い壁をめぐらし外部と交流を断ったり、つい攻撃的な態度を取ってしまうことがあります。

不良と呼ばれるような子供たちの多くは、愛情が不足しているために、守られていない怖れや不安から、自分を守ろうとして虚勢を張っていることが少なくないと思います。



そんな子供たちに必要なのは、外部の人間は安心できる存在で、自分にとって有益であるのを知ってもらうことです。

親でなくても、そばに愛情を注いでくれる人が、たった一人でもいたのならば、それだけで安心できるはずです。

信じられる人が一人でもいれば、この世界は違って見えるはずです。



まず、信じてもらえなければ、どんなに愛情があっても伝わりません。

なぜなら、信じることによって両者の魂はつながり、初めて愛情が伝わるからです。

信じてもらうには、まず相手が周囲に張り巡らしている自我と言う壁を崩さなければいけません。

その壁を崩すのも、やはり愛の力しかありません。

人を信じられない子供が、本気で叱ってくれる人に心を開くことがありますが、それはその人から愛を感じ取り、壁の一部が崩されたからだと思います。



植物にとって必要なものは太陽の光であり、光がなくなれば枯れてしまいます。

人は水と食べ物があれば生きて行けるような気がしますが、それは肉体の話であり、魂には愛が必要です。

魂にとって、植物の光に相当するものが愛です。

植物は枝を伸ばし葉を広げることで、より多くの光を受け取れるようになりますが、人も魂が成長するのに従って、神からの愛を受け取れるようになると考えられます。



全ての生物を生かしている生命力は、その始源が神であるために、愛を帯びていると考えられます。

そのことに気付かないのは、地上の人は神の愛を感じるまで進化していないからであり、進化の階段を上がって行けば、生命力そのものが愛であることに気付くようになると考えられます。

生命力を通して愛が表現され、宇宙の隅々まで愛が行き渡るようになるのが、神の意図だと思います。



生命力により魂で思念(想い)が生まれ、地上の人はそれを肉体で表現しています。

生命力は愛を帯びているので、生じる想いも愛のはずですが、人は進化の過程にあるため、それ以外の想いも生じてしまいます。

神の心に反した怒りや憎しみの想いが生まれ、それを表現したのならば、自然法則(因果律)の働きにより、苦痛を伴う結果が生じてしまいます。

もし愛が表現されたなら、悦びが生じます。

苦痛ではなく悦びを、誰しも味わいたいのに決まっています。

自然法則の働きにより、私たちは愛を表現するように導かれていると考えられます。



愛情を受けていない子供は、大きなハンディを背負って生きているようであり、それでは不公平に思えます。

誰からも愛されていなかったとしても、人は生命力を通して神とつながり、神の愛を受けています。

また、地上の人を守り導いている存在がいて、その存在を通して愛を受けています。

少なくても、その両者から私たちは愛されていますが、その実感は極めて乏しいために、この世にいる人から愛されていないと孤独や寂しさを感じてしまいます。



人から愛されていない経験は、その孤独や寂しさの中で、安心させてくれるもの、心を癒してくれるもの、生きる力を与えてくれるものが、最も価値のあるものであることに気付くことにつながるので、決して無駄にはなっていません。

初めから享受している人たちが気付いていない、本当に大切なものを、対極的な経験を通して身に付けていると考えられます。

大切なものを身に付け、魂を成長させることにより、神の公平は完全に保たれていると考えられます。



以前のブログに、愛することによって怒りから解放されると書きました。

怖れや不安の想いから解放させるのも、やはり愛の力です。

人を苦しめている、成長を妨げている、さまざまな想いは、愛すること、愛されることによって解放されます。



この世のさまざまな経験を通して、目に見えない愛を魂で感じ取っています。

私たちは何度も生まれ変わりながら愛を深く学び、それを表現するようになって行き、神に少しずつ近づいていると考えられます。






その後のジョン君ですが、若いご夫婦が家族として迎え入れてくれました。

お2人の愛情をたっぷりと受けて、怖れや不安は完全に取り除かれて、これまでが嘘のように安心して暮らしています。

今のジョン君