2020年10月25日日曜日

難しい方を選ぶ

 

人生は、選択の連続です。

小さなことでは、着る服を選んだり、ご飯を選んだり、読む本を選んだりしています。

大きなことでは、学校を選んだり、職業を選んだり、結婚相手も選んでいます。



こんな選択もあると思います。

思いもよらぬ役回りが巡って来た時に、引き受けるのか、辞退するのか。

壁が立ちはだかった時に、乗り越えて行こうとするのか、避けるのか。



そんな時に、相反する自分がいることに気付きます。

失敗を怖れ、無難で安全な選択をしようとする自分と、難しいけど挑戦してみようとする自分がいます。

両者のせめぎ合いがしばらくあり、最終的に優った方の行動を取ることになります。



失敗を怖れているのは、「地上的な自我」と考えています。

一方、挑戦しようとしているのは「霊的な自我」と考えています。

地上的な自我は、本当の自分である霊的自我と表現媒体である肉体との間に介在していて、霊的な自我から生まれた思念を、表現するべきかどうか、どう表現すれば良いのかを、頭を使って考えています。



「失敗したらどうしよう」と心配しているのは、地上的な自我です。

地上の自我は、自分の立場が悪くなったり、人から非難されるを嫌うので、挑戦を避けようとします。

「どうせ~だから」と言い訳を考えて、霊的な自我から生じている本当の自分の想いを否定しようとします。



そんな時に取るべき態度について、シルバーバーチの霊訓にはこんなことが書かれています。

「困難との闘いを前にして逃げ出すよりも堂々と戦って負ける方が立派です。」

判っていても、進むのをためらう時はありますが、後悔しないために挑戦した方が良さそうです。




この世に生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

困難を乗り越えることで、成長するようになっています。

負荷がかかり、緊張を強いられ、苦しいのに決まっていますが、成長するためには挑戦する方を選んだ方が良いのです。




失敗したり、挫折したり、期待したほどの成果が得られない時もあります。

たとえ、結果が出なかったとしても、奮闘努力する中で霊的な成長が得られます。

地上的な結果よりも、霊的な成長の方が永続的な価値があります。




人一倍奮闘努力して挑戦しても、自分の望んでいる結果が得られない人もいます。

しかし、その姿を見て、勇気付けられ、元気をもらった人は、たくさんいます。

多くの魂に生きる力が与えられたので、努力以上に霊的な成長が得られていると思います。
ソチ五輪の浅田真央選手



私たちには、例外なく守護霊が付いています。

その目的は、地上の人が予定されていた人生を歩んで、学び成長するためです。

様々な手法を用いて、訴えかけ、時に警告を発して、導こうとしています。




ひとりぼっちで生きているように思えますが、それは大きな間違いです。

霊界から無形の援助を受けながら、私たちは生きています。

守護霊と二人三脚で、この世界を生きていると言っても過言ではありません。




人には自由意思が与えられています。

自由に決めることが出来ますが、その代わりに結果責任を取らなければなりません。

全責任は地上の人にあるので、守護霊は決定に干渉出来ないと考えられます。




地上の人の目の前に困難が生じた時、乗り越える方向に進んで行くことを、守護霊は切望しています。

乗り越えられないことは、この世で起きないことを知っているからです。

避けないで前に進むように、意念を送り促しているのですが、最終的に決めるのは地上の人です。




固唾を飲んで、地上の人の決定を見守っています。

もし、避ける方向に進んでしまったのなら、学びや成長の機会を失ったことになり、残念に思っているでしょう。

首尾よく、挑戦する方向、乗り越える方向に進んで行ったのなら、大いに喜んでいるでしょう。




難しい方を選んだ瞬間から、地上の人に意念という力を送り続けていると思います。

その意念を地上の人が受け取ると、内から力が湧き出て来て、前に進んで行けるような感覚になると考えられます。

挑戦しようとする意志が鮮明になると思います。




霊界から届く意念によって、地上の人の意志は強固で、新たなものになります。

「大丈夫だろうか?」と言う気持ちが、「何とかなる」と前向きな気持ちになります。

視界がパッと明るくなったり、心が急に軽くなって、前に進んで行こうとする気持ちになるのは、霊界から意念と言う力が届いたせいかもしれません。




せっかくの霊界からの援助の力を妨げてしまうものがあります。

それは、怖れであり、不安であり、心配であり、取り越し苦労です。

そんな気持ちが地上の人を支配してしまうと、援助の力が届き難くなってしまいます。




挑戦しようとする時に、どうしても不安や心配が生じてしまいます。

そんな時は、自分一人ではなく、霊界にいる人たちと一緒に挑戦していると思うことが大切です。

そうすることで、両者のつながりが再び強くなり、援助の力が届きやすくなります。




落ち込んでいる時に、人から励まされたり、勇気づけられたりすると元気になったり、気持ちが前向きになったりします。

それは、言葉や行動を介して、目に視えない力を人からもらっているためと考えられます。

励まそう、勇気付けようとする気持ちの根底にあるのは愛であり、それが相手に伝わると生きる力に変わると考えられます。




霊界にいる人も、地上にいる人と同じことが出来ます。

言葉や行動を介さずとも、意念という力を、地上にいる人の魂に伝えることが出来ます。

伝わった意念は、地上の人に生きる力を与え、気持ちを変容させます。




魂の存在を信じていない人でも、霊界の援助を受けています。

ふと思い付いて行動したり、無意識の内に行動したりする時は、霊界からの意念に促されていることが多いと思います。

逆に、何となく気が進まない、やってはいけないと胸騒ぎがする時は、霊界から止めさせるような意念が届いている可能性があります。




霊界からの援助は、明確な線引きがされていると考えられます。

地上の人が予定通りに学び、成長をしていくために守護霊が付いています。

守護霊が、無闇に助けてしまえば、その人の成長を妨げてしまうことになりますので、何にもなりません。




そうであれば、何かあった時に「助けて下さい」と祈るよりも、「乗り越えるための力を与えて下さい」と祈った方が効力があるはずです。

もちろん、お金や地位を手に入れるような、地上的な願望実現のための祈りは聞き届けられることはありません。

自らの学びや成長を望む祈りが霊界に届くのは、それがこの世に生まれていた目的そのものだからです。




全ての起点が、思念です。

思念から肉体的表現が生まれます。

動機が神の摂理に適っている、または成長させるものであれば、その時から霊界からの働きかけが始まり、表現するための援助が得られます。




人や動物や社会のためになることであれば、迷わずにやる方を選んで下さい。

地上的な努力と、霊界の援助によって、良い結果が必ず生まれます。

直ぐに結果が得られなかったとしても、当初の想いを持ち続けていれば、最終的に目的は成就されます。




1人で成し遂げようとするのではなく、霊界との共同作業と思って下さい。

難しく思えても、霊界からの援助があるので、そちらに進んで行けば大丈夫です。

想いを持ち続け、霊界とのつながりを信じていれば、それで良いのです。




振り返ってみると、どうなるだろうかと案じていたことが、何とかなっていることに気付きます。

自分を信じて取り組んだ時は上手く行き、失敗した時は決まって不安や心配が先行し、自分を信じられなかった時のようです。

それは、霊界からの援助を上手く受け取れたかどうかの、差なのかもしれません






2020年10月18日日曜日

美しい光(思念)を放つために


世の中の意識が、少しずつ変わっているのを感じています。

まだまだなところもありますが、総じて生命を尊重をするようになって来ていると、私は思っています。

社会的弱者に対する配慮が、以前よりもされるようになって来ました。

アフリカの子供への支援(ユニセフの㏋より)

人の権利や差別に対して、敏感になって来ました。
人種差別抗議デモ(時事通信)

毛皮のコートを着ている人は、めっきり少なくなりました。(牛革はまだまだですが・・)

北極狐の毛皮

100年前の日本の女性には、選挙権はありませんでした。

約80年前、600万人ものユダヤ人がナチスドイツによって殺されました。

今から、そんな時代に逆戻りするようなことはありません。

許されない世の中になっています。

これは、一時的な傾向ではありません。

一方方向に進んでいます。



人間は経験を通して学びながら、少しずつ進化しています。

進化とは、環境に適応するための肉体上の変化や、知性の発達を指しているように思えますが、そうではありません。

人間の本質は霊です。

進化とは霊性が向上することです。



霊性とは神性であり、神の心です。

私たちは、生まれながらにして神の心を持っています。

神の心が表現されている人ほど進化している人であり、自分ではなく周り(全体)に意識が向いています。

困っている人がいれば助けたくなり、社会のために何かをしようとします。

駅のホームから転落した人を、自分の命を犠牲にして、救おうとした人がいました。

神の心が発揮されるほど、我を忘れて、より次元の高い愛が表現されます。



散歩をしていると、レジ袋を片手に犬の散歩をしながら、ごみ拾いをしている女性に良く会います。

1日で拾うごみは、それほど多くはないでしょう。

しかし、それを何十年も続けていれば、すごい量になっていると思います。

車に道を譲ったり、電車で席を譲るのも、小さな親切です。

人を慰めたり、勇気付けたりするのも、優しさの表れです。

毎日のように、私たちは仕事や家事をしています。

社会や家族のために、何かしらの役に立っていることになります。

地味だけれども、長い間続けていれば、想像している以上に大きな奉仕となっていると思います。

日々の生活の中で、さまざまな形の奉仕をしながら、少しずつ霊性を高めています。



時に、災難や不幸と言われるようなことが起きます。

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「地上生活の目的はきわめて簡単なことです。死後に待ちうける次の生活に備えて、本来のあなたであるところの霊性を強固にするのです。身支度を整えるのです。開発するのです。となれば、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の成長の糧となるのです。その一つ一つが神の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も―暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが―克服できないほど強烈なものはありません。」

そして、こうも言っています。

解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。

苦しく、つらい日々が続いて、逃げ出したくなることがありますが、そんな時ほど魂は大きく成長して、神性が高められていると考えられます。



もし、死後に待ち受けている世界がないとすれば、苦しみは人生において全く不要なものです。

暗い体験は不幸でしかありません。

この世界は、余りにも不公平で不平等です。



死後の世界を、客観的に証明することは出来ません。

少なくても私の中では証明されていることであり、全く疑念はありません。



死後に待ち受けている世界こそが、真実の世界です。

この世界で表現されているものは、全て真実とは限りません。

嘘もあります。

虚飾もあります。

本音と建て前があります。

裏と表があります。



死後の世界では、肉体がありません。

魂が露わになり、白日の下にさらされます。

隠し立ての出来ない、ありのままが表現されてしまう、真実の世界です。



真実の想い(思念)が光となって、魂から放たれています。

肉眼で視えなかった思念が、霊的な眼によって視えるようになります。

美しい思念を放っているのか、醜い思念を放っているのか、その色彩によって一目瞭然です。

霊界に行くと、美の感覚はさらに鋭敏になると考えられます。

地上では、美しい外見の人に憧れる人が多いでしょう。

外見(肉体)がなくなる霊界では、露わになった魂が美の全てになります。



どんな思念が生じるのかは、霊の持っている資質によって決まります。

「慈悲」「慈愛」「寛容心」「協調的精神」「奉仕的精神」が、霊の持っている資質と言われます。

霊の資質が発揮された時、美しい思念が生じます。

美しい思念とは、大きな意味での「愛」と考えられます。



それでは、どの様にすれば霊的な資質が身に付くのでしょうか?

お金を払えば、身に付くものではありません。

学問の様に、本を読んだり、誰かに教えてもらって、身に付けられるものでもありません。

自らの経験を通して、身に付けるしかありません。



私たちは、霊的な資質を身に付けるために、志願してこの世に生まれて来ています。

そのために、さまざまな経験をしています。

うれしい経験もあれば、楽しい経験もあります。

苦しい経験もあれば、悲しい経験もあります。



うれしい経験や楽しい経験をすれば、喜びとなります。

同じ経験をしている人たちと、想いを分かち合えます。

誰もが望んでいる経験ですが、それだけでは霊的な資質は身に付きません。



苦しみや悲しみを伴う出来事は、誰も経験したくありません。

それでも経験しなければならないのは、経験しなければ決して判らない、言葉では伝えられない想いがあるからです。

経験をした人は、経験をしている人の、想いを窺い知れるようになります。

想いが共有された時に、他者に対して「慈悲」の心が生まれます。

経験したくないことを、経験することによって、霊的な資質を身に付けられ、神性を発揮することが出来ます。



許せない様な事象が起きると、怒りが生まれる人もいれば、哀れみが生まれる人もいます。

どちらが生れるのかは、個々の霊の資質によって決まります。

怒りが生れると、平穏さが失われ、内に秘めると苦しみとして感じられます。

怒りが生まれないためには、「寛容心」を身に付けるしかありません。

地上でいろいろな人と交わり、さまざまな経験を通して、怒りに苦しみながらも、自らが成長することによって、寛容心が身に付けられると考えられます。



死後の世界では、肉体はなくなり、周りには自分と良く似た人しかいなくなります。

そのために、病気の苦しみも、争いによる痛みもありません。

あらゆるストレスから解放された世界です。

そんな居心地の良い世界であれば、ずっといたいような気がします。



魂には、完全に向けて成長したい欲求があります。

そのために、自分に足りない資質を、どうしても身に付けたくなります。

シルバーバーチはこう語っています。

「何もかもがうまくいき、鼻歌まじりののん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。」



水で溺れて苦しい思いをした人は、真剣に泳ぎ方を覚えようとします。

快適な霊界にいるよりも、危機的な状況、追い詰められる状況になる地上に身を置いた方が、霊的な資質を身に付けるのには都合が良いと考えられます。

自分に欠けている資質に気付いて、それを身に付けたいと願う人は、苦しみや悲しみのある地上に生まれて、試練を経験することを望むようになります。

その記憶は生まれたと同時に封印されてしまうので、予定されていた試練の最中にいる時は、何で自分がこんな苦しい思いをしなければならないのかと思うばかりです。

過ぎ去ってみると、以前の自分と何か変わっています。

その変化こそが、霊的な資質を身に付けた証です。



霊界に行くと、望みを叶えるために、最適な経験であったことが判ります。

神の計らいの完璧さに感嘆して、感謝するようです。

この世で果たすべき目的を果たし、欠けていた資質を身に付けて、より美しい思念を放つようになっています。

究極の美である神へと続く無限の階段を、1つ上ったことになります。





2020年10月11日日曜日

愛は癒しの力


今も、やっている人がいるのでしょうか?

子供が怪我をすると、お母さんが手を当てて「ちちんぷいぷい~」と、お呪いをしていました。

そんなの効くはずはないと思っていましたが、中には痛みが確かに引いたと言う人もいました。

動揺した子供が、そうやってもらうと心が落ち着いて、痛みを感じにくくなるのかもしれません。



怪我や病気になった時に、「手当て」をすると言います。

一般的に、消毒して薬を塗るなど医学的処置のことを指します。

それ以外に、昔の人は、人の手から未知の力が出ていて、当てると傷の治りが早くなったり、痛みが少なくなるのを経験的に知っていたと考えています。

人は痛いところに無意識に手を当てますが、そのためかもしれません。


そう考えると、お母さんが傷口に手を当てながらお呪いを言うのは迷信でななく、実際に効力があるのかもしれません。




ところで、怪我や病気が治るのはどうしてでしょう?

自然治癒力と言う、身体を元通りにする力が働いているからです。

もし、その力が存在しなかったとしたら、細菌やウィルスに感染しても免疫機能が働かないために死んでしまうかもしれません。

傷口が塞がることはなく、医者は身体にメスを入れることは出来ません。




自然治癒力とは生命力の一種です。

その力は大始源である神から発せられていると考えられます。




人間や動物を含め、宇宙のあらゆる生命は、神によって創造されています。

それぞれの生命は物質的に独立した存在ですが、神を通して霊的につながっています。

神とのつながりを通して生命力が流れ込み、私たちは生かされています。

生命が永遠と言われるのは、神を構成する一部であり、つながりが断たれることがないからです。




しかしながら、神とのつながりが強くなる時もあれば、弱くなる時もあります。

それでは、どんな時に神とのつながりが強くなるのでしょうか?

神の心を表現している時と考えられます。




神の心とは愛です。

愛を表現しようとする時、神の心と同調し、生命力が流れ込みます。

人や動物を助けたり、社会のために奉仕するなど、他者のために何かをしている時に、生命力が流れ込み、目的を成就させて行きます。

予期した以上の結果がもたらされた時には、神との同調が成立し、より多くの力を授かっていたのかもしれません。

反対に、神の心に反した行いをしている時、つながりは弱くなります。

人や動物に危害を与える行為をしたり、世の中の平穏や秩序を乱している時に、神とのつながりは弱くなります。




そして、精神状態にも大きく影響されます。

自分を信じている時に、つながりは強くなります。

逆に、恐怖や不安を感じている時に、弱くなります。

生きていると、恐怖や不安を感じることがあります。

恐怖や不安を克服して、自分を信じることが、地上に生きている私たちに求められていると思います。




神の心に反した、悪と言われる行為をする時も、神の力は流れています。

何故と思ってしまいますが、私たちには自由意思が授けられていて、神の心を表現するのも、反した行いをするのも許されているからです。

ただし、自由には責任が伴います。

自分の行いの1つ1つに、自然法則が働いています。

神の心を表現すれば、自分が成長して、霊的な悦びを感じます。

反した行いをすれば、負の成長をして、苦痛を味わいます。

人は苦痛ではなく、悦びの中を生きたいものです。

結局は、神の心を表現するようになり、成長する方向に進んで行くことになります。




地上に生きていると、心が傷つけられてしまう時があります。

深い傷を負ったとしても、目に視えるものではないので、他の人には判りません。




その傷は、一生治らないのでしょうか?

シルバーバーチはこう言っています。

「自分と言う永遠の霊に傷を負わせる出来事も、害を及ぼす出来事も起こらないことを忘れてはいけません。」

「物的世界には自分を傷つけるもの、自分に影響を及ぼすものは何一つ存在しないことを魂が悟れば、真実、この世に克服できない困難は何一つありません。」

表現媒体である肉体は傷ついて、元に戻らないこともあるでしょう。

しかし、自分の本質である魂が、取り返しのつかない傷を負うことはなく、その出来事によって生きて行けなくなることもありません。




精神で対応できないほどの出来事であれば、その影響は魂にまで及ぶと考えられます。

肉体が侵襲を受けると血が出るように、魂が侵襲を受けると何らかの想いが生じます。

その多くは、怖れや不安、怒りや憎しみなどの感情となりますが、侵襲が強烈になるほど表現するのが困難になります。

表現されなかった想いは、精神下に滞ってしまうと考えられます。

成長を妨げるような想いであれば、それを苦痛として感じ、心の傷(トラウマ)として認識されると考えられます。




肉体の傷は、自然治癒力によって治って行きます。

心の傷にも、同じように自然治癒力が働いています。

時間の経過ではなく、神の力によって心の傷は癒され、苦痛が和らぎ、元に戻って行くはずです。




「完全なる愛は恐怖心を駆逐します」とシルバーバーチは言っています。

また「全き愛は怖れを締め出します」とイエス・キリストは言っています。

完全なる愛、全き愛とは神の愛ではないでしょうか。

自分の中にいる神を信じることが出来れば、怖れや不安は生じないと思われます。

そして、心の傷となっている、怖れや不安、怒りや憎しみなどの想いは、自らの愛によって、解放することが出来ると考えられます。




表現されなかった想いは、別の形となって表現されて、解放されます。

迷子になった子供は必死になってお母さんを探し、その姿を見つけたとたん泣き出すことがあります。

内に溜まっていた怖れや不安が、涙となって解放されたと考えられます。

迷子の子供を見つけたお母さんも、怖れや不安に隠されていた想いが、安堵して表に出て来て急に叱ったり、高じると涙となって表現されることもあります。

涙によって、想いが物質に昇華され、解放されています。




地上には様々な人がいます。

傷つける人もいれば、傷ついて助けを必要としている人、癒やしを求めている人もいます。

神性を発揮する機会に溢れ、成長する機会に恵まれているのが、地上と言えます。




全宇宙を動かしているのは、神的なエネルギーです。

私たちにも、神的なエネルギーが流れています。

良心あるいは道義心とは、何でしょうか?

私たちに内在している神です。

神的なエネルギーが、内在している神を通して流れているのです。

その力は愛を帯びているので、人を癒すことが出来ます。

傷ついている時に、慰めの言葉をかけられると心の痛みが和らぐ時があります。

それは言葉を通して愛が伝わって、魂が癒やされたからです。




内在する神は、しきりに愛を表現しようとします。

しかし、地上を生きている私たちには(地上的な)自我が存在し、その働きによって抑えられてしまいます。

溺れている人がいれば、内在している神(良心)は助けようとしますが、自我は自分が溺れてしまうと考えるために、それに負けると動けなくなります。

神の愛が流れているのですが、自我のために歪められて表現されてしまうのが地上です。




因果律の働きは正確無比であり、人を傷つければ、償いが生じます。

自らが傷つくような出来事が起こり、その苦痛によって過ちを知ることになります。

傷つけられた人には、埋め合わせがあります。

傷ついた心を癒すのは、愛しかありません。

他者に癒されることで、愛の存在を実感し、その意味を深く知ることになります。

誰にも癒されることはなかったとしても、その苦しみの中で魂の成長が促されます。

苦しみが触媒となり、魂が目覚めれば、より多くの神の力が流れ込むようになり、癒されると思います。




神の心は愛です。

神によって創られた自然法則を貫いているのも愛です。

不公正、不公平、不平等は一切ありません。

見捨てられることもありません。

見捨てられたと思えば、自らが見捨てたことになり、神とのつながりを弱めてしまいます。

信じて、つながりを強めた者が、その恩恵を享受することになります。





2020年10月4日日曜日

この世は怒りが生じる世界



以前は、人生は楽しむものと考えていました。

世界中を旅して、素晴らしい景色を眺めたいと思っていました。

行ってみたい場所が、いくつかありました。

1つはエベレストです。

もちろん登るわけではありませんが、間近でその雄姿を眺めてみたいと思いました。




もう1つはオーロラです。

北極圏に行って、心行くまで眺めてみたいと思いました。




霊的な事実を知ってから、その願望はだいぶ少なくなって来ました。

霊界に思いを馳せると、地上のいかなる絶景も色あせてしまうような気がするからです。

地上にない色彩や音が、霊界には存在するようです。

地上の枠から外れた、美が存在するようです。

表現が難しいですが、生命エネルギーに満ち溢れ、光輝いている世界のようです。

そこには、地上の何十倍、いや何百倍の神々しさを感じる光景が拡がっていると思うので、今から楽しみにしています。




霊界に行くと、肉体がなくなります。

肉眼はなくなり、霊的な眼で視るようになります。

生命(霊)が視えるようになります。

霊から思念が光となって放たれ、その色彩によって何を想っているのかが判ります。

電光石火で、ありのままが伝わります。




一方、地上の人に視えるのは肉体であり、思念は視えません。

そのために、思念を肉体によって言葉や行動に変換して、相手に伝えなければいけません。

当たり前の様に使っている言葉は、思念(想い)を伝えるための代替品です。

肉体によって思念を表現すると言う、煩わしい行程を繰り返しながら、私たちは生活をしています。




地上では、思念は正確に相手に伝わりません。

「赤い色」と言われても、トマトの赤を思い浮かべる人もいれば、夕日の赤を思い浮かべる人もいます。



涙を流している人がいれば、悲しみの涙なのか、うれし涙なのか、悔し涙なのかはっきりと判りません。




地上では、表現をした人と受け取った人の間に、どうしても齟齬が生じます。

齟齬から誤解が生まれ、誤解から諍いに発展することもあります。

今までに起きた戦争のいくつかも、齟齬から発展したと考えられます。




諍いにならないためには、どうすれば良いのでしょうか?

両者の間にある隔たりを埋めるのには、相手を信じることが必要です。

信じられなければ、誤解がさらに増してしまいます。




私たちは、自分とは違う人たちに囲まれて生きています。

それぞれの人に、それぞれの生き方や考え方があります。

そのために、交わると互いの相違から反発や軋轢が生じることがあります。




宗教や文化の違いから、今も世界では戦争が起きています。

争いに発展しないためには、相手の違いを認めることが必要です。

想いが正しく伝わらず、違う人間と生きているこの世界で、平穏無事に暮らして行くためには、信じること、認めることがどうしても必要です。




この世に生まれたのは、自分(魂)を成長させるためです。

他者に奉仕すること、困難や障害を乗り越えることで成長して行きます。

もし、相手を信じられず、認められなかったとしたら、人とのつながりは希薄となります。

助け合いながら、成長して行こうとしても叶いません。




想いを伝えるのは、誤解が生じたり、認められないかもしれず、勇気が要ります。

それでも、伝えなければ何も始まらない世界に生きています。

伝えられた方も、何を伝えたいのか推し量らなければいけません。

思惑があって、言葉や行動と想いが一致していない時があります。

嘘もあれば、社交辞令もあり、真に受けると、思わぬ事態に発展することがあります。

外国人が日本人から別れ際に「いつでも遊びに来てね」と言われて、実際に遊びに行くと怪訝な顔をされて困惑したと聞きます。

真意が伝わらない、真意が判らないために起こる事象に苦悩しながら、それでもお互いを理解しようとするところに、地上に生きている意味があります。




違う人たちと交われば、時に軋轢が生じます。

軋轢が、怒りとなって表れることもあります。

アンガーマネージメントと言う心理療法プログラムがあり、要約すると次の3つになるそうです。

1.怒りが生じた時のピークは6秒までで、やり過ごすように努める。

2.自分がするべきと思っていることと、相手がするべきと思っていることの間のギャップを自覚する。

3.自分で解決できないことを怒らないようにする。

この様な対処法も有効と考えられます。

しかし、大きな打撃や損害を受けたら、怒りは収まりません。

高じると憎しみや恨みに発展して行くでしょう。




事象が赦せないと、怒りは生じます。

しかし、いくら赦そうと思っても、赦せるものでもありません。

明らかな過ちであればなおさらです。




怒りが生じると、心の平穏が失われます。

その想いは、摂理に反した想いであるために、苦しみとなります。

苦しみから逃れるために、対象に向かって想いを表現したくなりますが、いざ表現してしまうと、因果律の働きによって、別の形となって苦しみが返って来ます。




同じ事象が起きても、怒りが生まれる人と、生まれない人がいます。

寛容心は、不滅の霊性です。

霊性が発揮されている人ほど、寛容心に富み、怒りが生まれにくいと考えられます。

大きな意味においての愛があれば、怒りは生まれないと考えられます。




どんな出来事であっても、克服できないことはありません。

「神性は自発的に表現を求めます。それが、あらゆる種類の美徳と善行、つまり、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛となって表現されます。」と、シルバーバーチは言っています。

赦そうとしないのは、(地上的な)自我の働きによるものと考えられます。

魂に内在する神性は、事象を赦そうとしています。

怒りが生じたら、赦そうとしない自分(自我)ではなく、赦そうとしている自分を意識した方が良いと思います。

怒りを鎮められるのは、自らの中にある神性しかありません。

内在する神から溢れ出ている霊力(愛)によって、怒りから解放され、事象は赦されるはずです。




怒りが生じなくなるのは、一朝一夕にとは行きません。

因果律の働きに委ねられるところが大きいと考えられます。

苦しみは無意味ではありません。

魂を成長させ、目覚めさせ、神性が発揮されます。

怒りの苦しみが、怒りから解放させる触媒になっています。




次に行く世界(霊界)では、周りに自分と類似した人しかいません。

そのため、自分と違うことで、怒りが生じることはありません。

怒りに苦しむことはありませんが、そこから学ぶこともありません。

霊界で学ぶことが出来ないことを学ぶために、自分と違う人がいる地上に生まれて、さまざまな経験をしています。

違う人たちを認められ、赦すことが出来るようになるほど、より次元の高い愛が表現されるようになります。

霊界において、互いを深く理解し、周囲との調和を増すことにつながると思います。




もし、全てを認められ、赦せるようになったとしたら、地上に生きる意味はなくなり、霊界において向上進化して行くようになると思います。