2019年8月18日日曜日

神は法則として顕現している


私の人生を大きく変えた書籍は「シルバーバーチの霊訓」です。

10数年前にその存在を教えていただき、直ぐに本屋に行きましたが、私の住む街では売っておらず、東京で手に入れました。

それから月日が経つのに従い、地元の本屋や図書館にも置かれるようなり、一人喜んでいました。

そんな矢先、出版元が廃業してしまい、シルバーバーチの霊訓本屋から姿を消しましたが、スピリチュアリズム普及会さんが再版されたので、ホッとしています。

この書籍を超えるものが出ていないか、いつも探しているのですが、未だに見つけることは出来ません。



本屋に行くと、表題に「神」の文字が入っている書籍を良く見かけます。

しかし、手に取って読む気にはなれません。

神は軽々しく書けるようなものではなく、知っているように書くこと自体、知らないことを証明しているように思えるからです。



イスラム教では神の大きさをこの様に例えています。

「地上の全ての木がペンで、海が墨でその外に7つの海をそれに差し添えても、アッラー(神)の言葉は書き尽くすことは出来ない。本当にアッラー(神)は偉大であり、英明である。」

小さな人間には想像も及ばないほど、途轍もなく大きな存在であるのは間違いありません。



昔の人は、神は外部に存在して、上から人間を見下ろしているような構図を思い描いていたようです。

雷が鳴ったり、火山が噴火したり、地震が起きたりすると、神の怒りに触れていると考え、生贄を差し出す時もありました。

しかし、そんな感情的な存在ではないようです。



シルバーバーチは、神は法則であると言っています。

初めはその意味が良く判りませんでしたが、今は、神=法則ではなく、法則は神の一側面であり、神の心が法則となって顕現していると考えています。



ところで、飛び上がるほど嬉しいことがあれば、どうするでしょう?

思わず、神に向かって感謝してしまいます。

しかし、つらい出来事が起きて感謝する人はいません。

何で自分だけがこんな思いをしなければならないと、神を恨んでしまう人もいるでしょう。



避けて通りたかった出来事であっても、法則が働いた結果によって生じています。

神が無限の愛であるならば、神が創造した法則も愛を帯びているはずです。

不幸や不運にしか思えなくても、法則によって生じた出来事なので、神の愛が行き渡っているはずですが、そこまで理解が及ばないので、とてもそうは思えません。



人は肉体を携えた魂です。

多くの人は目に視える肉体が自分だと思っていますが、本当の自分は目に視えない魂です。

肉体は魂の表現媒体に過ぎず、司令塔である魂が存在しなければ肉体は全く動きません。



魂は霊的な存在であるため、私たちは物的な世界にいると同時に、霊的な世界に生きていると言えます。

けれども、五感を通して入る情報と、霊的な感覚を通して入る情報では、その量に圧倒的な差があるため、霊的な世界に生きている実感は極めて希薄になってしまいます。



物的な世界には物質(理)的な法則が霊的な世界には霊的な法則が、それぞれ支配しています。

物質的な法則は、万有引力の法則を初めいくつも発見され、科学的に証明されています。

一方、霊的な法則は客観的に証明するのは不可能なので、信じることが必要になります。



霊的な法則の根幹を成しているのは「因果律」です。

結果には必ず原因があり、原因があれば必ず結果が生じる、それが因果律です。



この世では、結果だけが見えていることが多いです。

そのために、出来事が突発的あるいは偶然起きたと思ってしまいます。

今、起きている出来事は、もしかしたら、これまでの想いや言葉や行動、言い方を変えれば生き方や考え方が原因となっているのかもしれません。

不運を嘆いたり、憤りを覚える前に、思い当たることがないかを、検証する必要があります。

当然のように思っていたことが、実は法則に反していて、それが積もって閾値に達し、因果律の働きによって、見える形になったのかもしれません。



これは私が身を持って経験したことです。

法則(摂理)に反した行いをしようとする時に、良心の声がして止めさせようとします。

良心とは、魂に内在している神です。

それを無視して実行に移し、繰り返されると、良心の声はほとんど聞こえなくなってしまいます。

法則に反した罪は、確実に蓄積されて行きます。

絶妙のタイミングで因果律が作動して、相応の苦痛を伴う結果(出来事)が生じます。



結果だけを見れば、突発的な凶事にしか思えなかったでしょう。

しかし、霊的真理を知り、原因が自分にあったことに気付きました。

苦しみを通して過ち(原因)に気付き、生き方や考え方を変えるために、出来事が生じていました。

良心の声を遮っていた(この世の)自我は小さくなり、本来の自分(魂)が前面に出て来ました。



いくら探しても、思い当たらないのであれば、原因はこの世に存在しないのかもしれません。

その場合は、過去生にあると考えられますが、残念ながら具体的に知ることは出来ません。



生まれながらの病気になったとします。

受胎した瞬間、病気になることが決まっていたのであれば、原因は受胎前にあるはずです。

もしそうであれば、物質的次元(この世)に原因が存在するはずはなく、霊的元にあると考えられます。

霊的次元の原因として、2通り考えられます。

過去生のどこかで過ちを犯しているか、大切なこと学び成長するために病気になることを選択しているか、そのどちらかと考えられます。

いづれにせよ、明確な目的があって病気になったのであり、生まれる前の自分は承知していたはずです。



私がボランティアで通っていた障害者施設には、病気により身体の自由がほぼ失われている人がいました。

生まれてから死ぬまで、一生をベッドの上で過ごす人を見て、以前の私でしたら可哀想に思ったでしょう。

しかし、真理を知った今は、それぞれに目的があって、この人生を選択したと考えるようになりました。



身体の自由が失われた状態は、苦痛以外の何者でもありません。

その苦痛を通して、過去生の過ちを償っているのかもしれません。

人の自由に関わる過ちを犯していたのか、過った自己表現していたのか判りませんが、償いを通して何かを学んでいるはずです。



身体の自由が失われたならば、周りの人の助けがなければ、数日も生きて行くことは出来ません。

その現実を通して、人の援助のありがたさ、大きな意味で愛を学んでいるのかもしれません。

この世の人生は、次の世界で奉仕をするための資質を身に付けるためにあると言われています。

一生涯に渡り、人に助けられて生きて来た経験は、次の世界で他者に奉仕をするための強力な動機付けになるのは間違いありません。



肉体が朽ち果てた時、人生が終わるのであれば、何のために生まれて来たのか、その意味を見出せない人もいるでしょう。

記憶がなくても、魂の奥深くでは、この人生の目的が判っています。

過酷な状況にじっと耐えているのは、生まれて来た目的を果たそうとしているからです。


肉体が朽ち果てた後も、魂(生命)は変わりなく存続しています。

次の世界で、この世で起きた出来事の原因(目的)が、はっきりと判ります。

全ての出来事は、法則が働いた結果として生じていて、原因に対して寸分の狂いもなく結果がもたらされています。

視えない原因があって、それが視える形の結果として現れただけであり、偶然や運が入る余地は全くありません。



不公平で不公正に思えるのは、結果しか視えないからです。

後で原因(目的)が判ると、誰もが納得し、不平不満を言う人はいなくなるようです。

法則が、全ての人に、同じように働くことによって、完全な公平、公正が保たれています



神に特別愛されている人も、憎まれている人もいません。

あるのは法則の働きだけです。

法則に適った行いをすれば悦びを、反した行いをすれば苦痛を味わうことで、神性が顕現するように導いています。

則の働きを学ぶのに従い、人は成長し、苦痛から解放されて行くはずです。

何故なら、法則の働き(叡智)を学ぶために、神はこの世に苦痛を創造したと思うからです。




死んだら神の元に帰ると言われています。

しかし、それは間違いだと思います。

死とは、物質的次元からの離脱です。

地上で学ぶことが残っていれば、再び戻って来ます。



地上で学ぶことがなくなれば、霊界で向上進化するようになります。

霊界には無限の界層があり、そこで学び成長することで、上の界層へと移行して行きます。

上の界層に行くほど、より多くの神性が発揮されるようになります。



神は、無限なる叡智であり、愛です。

学ぶこと、成長する余地が限りなく残されているために、私たちに永遠の生命が与えられたと考られます。










2019年8月4日日曜日

この世も思念の世界


人はトランシーバーのようなものです。

送受信しているのは電波ではなく、思念です。

思念は五感によって感じられないので、この世の人は肉体を媒体に言葉や表情や行動に変換して、相手に伝えています。

怒りの思念が生じると、目を吊り上げ、眉間にしわを寄せ、顔が紅潮することで、それを見た人は怒っているのが判ります。

涙が頬を伝って流れているのを見れば、その人は悲しんでいることが判ります。

想っているだけでは伝わらないのがこの世であり、言葉などを使って思念を表現しなければいけません。

しかし、言葉は思念の代用品に過ぎません。

完全に伝えられないもどかしさは、誰もが感じているところです。



一方、あの世では魂から放たれた思念は、魂へとダイレクトに伝わります。

言葉などを介さないので、伝えた思念と受け取った思念の間に差異はありません。

ありのままの想いが、そのまま相手に伝わります。



魂からは、さまざまな思念が生じています。

思念とは一種の振動であり、それぞれ固有の波長があると考えられます。

憎しみの念と、慈しみの念では波長は違うので、互いがすれ違い、通じ合うことはありません。

悲しみの念と悦びの念も、波長が違います。

悲しみの念を抱いている人は、同じ悲しみの念を抱いている人に同調しますが、悦びの念を抱いている人と同調することはありません。

けれども、自らが過去に同様の経験をしていれば、その時の想いが蘇り、同調することは可能です。



人の想いなど、本来はどうでも良いのかもしれません。

それでも、人は同調しようとします。

水に溺れている人を見ていられないのは、溺れている人の苦しみに同調しているからです。

命の危険を冒してまで、溺れている人を助けようとするのは、人は神性を宿しているからです。

泣いている人を見ると、心配になり声をかけてやりたくなるのも、同調しようとしているからであり、放っておけないのは、個々の人は独立しているように見えて、霊的につながっていて、他人ごとには思えないからです。



音叉は固有の振動数(波長)を持っています。

同じ振動数の音叉であれば、離れていても共鳴して、振動を始めます。

地上からは、あらゆる波長の思念が放たれています。

同じ波長の思念であれば同調し、魂と魂は同調して、共鳴します。

東日本大震災が起こり、多くの人が亡くなりました。

短い期間でしたが、日本中が犠牲者を悼む想いによって同調していたように感じています。

それとは逆に、怒りや憎しみの念によって同調し、暴力として表現しているのがテロ集団と考えられます。

は友を呼ぶと言いますが、同じ思念を抱いている者同士は親和力が働き、引き寄せられます。

人と人は同じ思念によって共鳴し、個々の思念が増幅されて行くと考えられます。



思念は目に視えませんが、霊的次元では光となって周囲に放たれています。

地上の人は、肉体を携えた霊的な存在なので、放たれている思念を、5感を超えて感じ取っている時があります。

それを第6感と呼ぶのかもしれませんが、自分に危害を加えそうな人の思念を瞬時に感じ取って、危険を回避する行動に移している時もあると思います



電波と同じ様に、思念にも高い低いがあります。

高い波長の思念とは愛を伴ったものであり、対極にある憎しみや恨み、嫉妬の思念は低い波長と考えられます。

愛を伴った思念にもさまざまあり、自分を犠牲にして他者を想うほど、その波長は高くなると考えられます。

魂が向上するほど、高い波長の思念を出すようになり、低い波長の思念とは噛み合わなくなって行くと考えられます。




何十億の人が、地上と言う同じ平面に住んでいます。

どの様な波長の思念を抱いているかによって、関心が向けられるものも、目に留まるものも、生き方も違って来ます。

従って、それぞれが異なった波長の世界に生きていると言えるのかもしれません。

地上において思念は、精神を経由して、肉体によって表現されています。

思念は、精神上に形成されている(この世の)自我によって、表現の制約を受けています。

水に溺れている人を助けようとする思念が生じても、自我は肉体を危険から守ろうとするために、行動に移すのを抑制しています。

助けてやりたいと思っても、それを止めさせようとしている、もう1つの自分がいます。



地上では、様々な思念が放たれています。

悲しんで泣いている人が傍にいると、つられて泣いてしまうことも、面白くて笑っている人が傍にいると、つられて笑ってしまうこともあります。

放たれている思念を、無意識の内に受け取って、同様の思念が喚起されていると考えられます。

朱に交われば赤くなると言いますが、他者からの思念を受け続ける環境にいると、その影響を受けて、同化する傾向があると考えられます。



放たれている思念を、魂が直接受けてしまうのをブロックしているのが自我と言えます。

従って、自我の働きが強い人は、周りの思念の影響を受けにくくなりますが、それは他者の思念に鈍感になることを意味しています。

一方、自我の働きが弱い人は、周りからの思念の影響を受けやすいのですが、ありのままの思念が表現されやすいと考えられます。



もし、波長の高い、愛を伴う思念だけが生まれているのであれば、この世界は平和で愛に満ちているはずです。

しかし、波長の低い怒りや憎しみの思念も生まれているので、不穏な空気になり、争いが起きています。

自然法則に適った、高い波長の思念を表現すれば、因果律の働きによって、悦びがもたらされます。

自然法則(神の摂理)に反した、低い波長の思念を表現すれば、苦痛がもたらされます。

苦痛と悦びを通して、自然法則の働きを学びながら、より高い波長の思念が生まれるようになって行きます。



全ての言動には、思念が先行しています。

正しい言動には正しい思念が、過った言動には過った思念が必ず伴っています。

しかし、人は過ちと知っていながら行動に移してしまうことがあります。

過ちと判断しているのは、良心です。

良心とは、魂に内在している神であり、過ちを犯さないように私たちを監視しています。

過ちと判っていても、行動に移してしまうのは、もう1つの自分である自我が適当な理由を付けて、言動を促しているからです。



過った言動をすると、良心の呵責が生じて苦しい思いをしますが、繰り返しているうちに、何も感じなくなってしまいます。

嘘を付くのが当たり前になってしまうと、終いには何も感じなくなります。

自然法則に反した行いをすると霊性が低下して、生じる思念の波長も低くなります。

行くところまで行くと、因果律が働いて相応の苦痛を伴った事象が生じて、過ちを償うことになります。

苦痛によって自我は吹き飛び、良心(魂)が目を覚まし、元の自分を取り戻します。



生じた思念を表現しながら、人生は紡がれて行きます。

愛を伴った波長の高い思念を表現すれば、人生は豊かになり、悦びを感じながら生きることが出来ます。

霊性が高まるのに従い、より高い波長の思念が生じるようになります。

人や動物や社会のために自分を活かすことにより、霊性は高まって行きます。

特別に何かをしなくても、日々の仕事や家事、子育てを精一杯行い、人に優しく親切にして、寛容の心を忘れずにいれば、自然に高まって行くと考えられます。



高い波長の思念であっても、表現されなければ意味がありません。

失敗を恐れてしまうのは、自我の働きが強くなっている証拠です。

自我に打ち克って、思い切って表現をしてしまえば、必ず上手く行きます。

挑戦することで魂が成長し、より次元の高い奉仕の機会が訪れ、波長はさらに高くなって行きます。





人は死んで、それまで抱いていた思念が急に変わるわけではありません。

しばらくすると、思念の波長に見合った世界に引き付けられ、赴くことになります。

そこには同じ波長の者がいます。

同調し、想いが通じ合う、極めて快適な世界です。



けれども、人には向上したい欲求があります。

その世界に満足しなくなります。

もう1度地上に生まれて、様々な経験をしながら学び成長し、より高い波長の世界を目指します。

その過程の真っ只中にいるのが、現在の自分かもしれません。