2021年1月31日日曜日

人生は挑戦の連続


生まれた時、人はただ泣き叫ぶことしか出来ません。 

それから1年位経ってからでしょうか、つかまり立ちをするようになります。

しばらくすると、ふらつきながらも、最初の1歩を踏み出します。



小学生に上がる頃になると、自転車に乗ろうとします。

最初は、バランスを崩して転んでしまいます。

何回も転びながら、練習して行く内に、上手く乗れるようになります。



初めて何かをする時、その人にとっては挑戦です。

挑戦には失敗はつきものです。

時に痛い思いをしながら、少しずつ出来るようになって行きます。



いつからでしょうか。

失敗を恐れる様になったのは。

小さな頃は恐れることなく挑戦して、色々なことを覚えて行ったのに、大人になると失敗を怖れて挑戦をためらってしまいます。



誰でも失敗は嫌です。

失敗すると、気落ちします。

責任を取らなければならない時もあり、人から非難されることもあります。



挑戦とは、失敗のリスクを背負うことです。

それでも挑戦しなければならないのは、自らが進歩するためです。

挑戦なしに、進歩もありません。



挑戦する時に必要なものは何でしょう?

それは勇気です。

自分を信じることで、挑戦する勇気が生まれます。



ところで、自分を信じるとは、どんなことでしょう?

自分が秘めている力を信じることだと思います。

その力は、想像している以上に大きなものと考えられます。



本当の自分は魂です。

地上では、魂から生じた思念(想い)が、肉体によって表現されています。

その間に介在しているのが精神であり、肉体や地上の環境の影響を強く受けながら、絶えず変化しています。




本当の自分は、自らを成長させるために挑戦しようとします。

しかし、精神上に作られた地上的な自我(以下自我)の制約を受けることになります。

自我は、頭脳を駆使してリスクや損益を計算し、その挑戦が妥当であるかを吟味します。



リスクが高く、益が少ないようであれば、その挑戦を止めさせようとします。

挑戦しようとする自分(魂)と止めさせようとしている自分(自我)の間で、葛藤が生じます。

どちらが優勢になったかで、どうするのかが決まります。



挑戦を止めるのは簡単です。

自我によって理由はいくらでも拵えられるからです。

後付された理由によって、挑戦しようとしている自分の想いが封印された瞬間、挑戦を止めることになります。



挑戦の先に待ち受けているのは、未経験の困難や障害です。

楽な道ではありませんが、その困難や障害を乗り越えて行く中で、自分が成長して行きます。

大変な思いをしてまで挑戦しようとするのは、本当の自分(魂)が成長することを望んでいるからです。



魂には、神が内在しています。

自分を信じるとは、自分(魂)の中にいる神を信じることだと思います。

信じることで、内在している神の力が発揮されるようになります。



神の力は無限です。

信じるほど、より多くの神の力が発揮されます、

目的が成就されて行くことになります。



挑戦するものが、人や動物や社会のためになるものであれば、何も迷うことはありません。

自然法則の働きに合致しており、祝福されているからです。

最初は上手く行かなくても、最後には必ず目的は成就されます。



挑戦しても、予期した結果が得られない時があります。

挑戦する目的は、結果を得るためではなく、自分が成長するためです。

地上的な結果を残すよりも、霊的に成長した方が、はるかに価値があります。



もし、挑戦の意味が結果を出すことであれば、不公平が生じます。

同じ労力を注いでも、結果が出る人もいれば、出ない人もいるからです。

挑戦していることに意味があり、その過程で魂が成長することによって、完璧な公平が保たれています。



挑戦を後押ししている存在がいます。

私たちには、目に視えない霊界の存在が、生涯に渡り付いています。

地上の人の成長を願い、挑戦する方向に導いています。



挑戦するのか、止めるのかを決めるのは、あくまでも地上の人です。

霊界の存在は干渉出来ません。

固唾を飲んで、一歩を踏み出すのを見守っています。



挑戦することを決め、一歩を踏み出した時から、目的を成就させるように働きかけます。

力付ける、勇気が出る思念を送って、地上の人を前進させようとしています。

それが付いている、最大の目的です。



挫折するための挑戦、無理な挑戦はありません。

目の前にやって来るのは、自分を成長させる挑戦です。

挑戦することは、自然法則の働きによって生じていて、成長させることが目的だからです。



どちらか迷ったら、挑戦する方を選んで下さい。

そして、自分を信じて、背後にいる霊的な存在を信じて、進んで行けば良いのです。

目に視えない力が働いて、成就する方向に進んで行きます。



挑戦には、不安や怖れが付きものです。

自分を守ろうとしている、自我から生じています。

不安や怖れは成就させる力の流入を妨げてしまうので、心の中から排除するために、自分の中に神がいる、背後の存在から援助があると、強く信じて下さい。



信じることによって霊界とのつながりが強くなり、挑戦を成就させる力が流入して来ます。

その力によって、不安や怖れが押し流されるのを、実感できるかもしれません。

自我から生じる不安や怖れよりも、その力の方がはるかに強いのです。



死んでこの世の人生を振り返った時に、挑戦するか、止めるかの岐路に立っている自分を見ます。

挑戦する方を選んだ自分を見て喜び、止めた自分を見て悔しがるでしょう。

成長の機会をものにしたのか、生まれて来た意味を成就しているのかが、かかっているからです。





2021年1月24日日曜日

生まれる前に決めていたこと②


私がまだ小さい時、世間を大きく騒がせた事件がありました。

府中(東京都)刑務所近くの路上を走っていた現金輸送車が、白バイに乗った偽の警官に留められ、車に爆弾が仕掛けられていると言われたため、乗車していた人が慌てて避難したところ、車ごと乗って逃げられてしまいました。

盗まれた金額が3億円なので、その後「3億円事件」と呼ばれることになります。

現在の金額で30億円に相当すると言われていますが、大金を手にした犯人は、その後豪遊したのか、それとも怪しまれないようにひっそりと暮らしていたのか、知る由もありません。

懸命な捜査にもかかわらず、7年後に刑事上の時効が成立し、捕まることはなくなりました。

20年後には、民事上の時効が成立し、賠償責任もなくなりました。

法律的に咎められることはなくなりましたが、犯人の罪が消滅したわけではありません。

犯人のモンタージュ写真


誰にも知られなかったことでも、自分自身は知っています。

ずっと前であれば、頭の記憶から忘れてしまうこともあるでしょう。

しかし、魂に刻まれた過去の記録が消されることはありません。



宇宙には、目に視えない自然法則が働いています。

自然法則に反した行いには、自動的に罪が生じます。



法律に触れることだけが、自然法則に反しているとは限りません。

人の心を傷つけたり、苦しめたり、虐めたり、貶めたり、騙したりたりするのも、罪なことです。

動物たちの生命を尊重しないのも、罪なことです。

自分がされたくないことを他者にすれば、それは自然法則に反した行いと言って良いと思います。



法律では、行動に移した時点で罪が成立します。

しかし、自然法則は心の中で思ったことにも働いています。

たとえ行動に移さなくても、心の中で法則に反したことを、思い描くのもいけないことです。

思念は、霊的に実体があるからです。

何を思うのも自由ですが、自由には責任を伴うことを忘れてはいけません。



事件から53年経ちます。

犯人は、もう死んでいるかもしれません。

肉体はなくなっても、生命の本質である魂は生き続けています。



人は死んだ後に、この世の人生を振り返る時が必ず来ます。

生まれてから死ぬまでの間に、思ったこと、言ったこと、行ったことの全てが魂(オーラ)に記録されていてます。

もちろん、事件のことも記録されています。



その事件と正面から向き合うことになります。

子供の頃にちょっとした嘘で人を欺き、咎められなかった経験が全ての始まりだったのかもしれません。

それから、巧妙に人を欺くことを覚えて行ったのかもしれません。

世間を見返してやりたい、そんな思いもあったのもしれません。

いろいろな要因が重なって、事件を起こすのに至ったことが判ります。



自然法則に反した行いをすると、因果律の働きにより苦痛を伴う事象が起きて、その罪が償われます。

もし、犯人が捕まって刑務所に入ったのならば、その経験は苦痛を伴うものなので、霊的な償いも同時に行われていると考えられます。

捕まらないで死んだとしたら、罪はそのまま残ることになります。



この世にいる時は、上手く逃げられたと思ったでしょう。

しかし、死んだ後に自然法則に照らし合わされて、裁かれることになります。

裁かれると言っても、判事のような人物がいて、判決が下されるわけではありません。

自然法則に反した行いを初めてしようとする時、心の中で「してはいけない」と声がしていたはずです。

その声が良心であり、自分の中にいる神です。

自分の中にいる神によって、自分自身が裁かれます。



あの世に行ったら、自分を隠すことも、偽ることも出来ません。

真実が露わになり、自然法則に反した行いが突き付けられます。

いかに世の中に悪い影響を与え、多大な迷惑をかけたかを知ることになります。



生まれて来たのは、他者のために役に立ち、成長するためです。

そのことをすっかり忘れてしまい、道を踏み外してしまったことを知ります。

強い後悔の念が生じるようになります。

その念は、苦しみとして感じられます。

自分のしたことに、自分が苦しむようになります。

全て自然法則の働きによるものであり、それが神の裁きです。



人間には、成長したい根源的な欲求があります。

しかし、苦痛による償いをして、過ちを正さない限り、成長は許されないようになっています。

成長が許されない、魂の苦しみを味わいます。

それは、自由が許されないよりも、はるかにつらいものなのかもしれません。



この苦しみから、何としても逃れたいと思います。

しかし、今いる世界は、肉体がないため病気もありません。

周囲に苦痛を生み出すような人間もいません。

地上にいる時に感じていた、苦しみや痛みが取り払われた世界なので、罪を償うのは難しいようです。



もう1度、地上に生まれる必要があるようです。

地上でした過ちを地上で償うのは、自然の成り行きなのかもしれません。

汚れた魂を浄化し、神の摂理を学ぶための人生が計画され、提示されます。

その人生を了承し、最適な環境に生まれることになります。



こんな人生になるかもしれません。

これから先に起きることなどすっかり忘れて、大きくなって行きます。

前生から引き継いだ、人を欺く性分が、人生のどこかで顕れます。

同じ様に、それがエスカレートして行きます。

欺くことを何とも思わなくなり、罪を犯しながら、大金を得て行きます。

地位や財産を手に入れて、人生の頂点と思っている時に、今までして来た悪行の数々が暴露されるような出来事が、降って湧いたように起こります。

今度はあっけなく捕まり、予想していた以上の刑が科されます。

地位や財産の全てを失った上に、償い切れないほどの賠償も課されます。

人からは怒号を浴び、信じてくれる人、助けてくれる人は誰もいなくなります。

耐え難い苦痛を味わいながら償いをすると共に、人を欺くことが、いかに自然法則に反しているかを身を持って学びます。



幸いにも、犯人は人を殺したり、傷つけたりはしていません。

もし、そんなことをしていたら、霊的な罪はさらに大きくなります。

同等の苦痛を味わって償うとしたら、どの様な人生になるのか想像も付きません。

生まれる前に決めていた人生を知っていたら、まともな精神状態で生きていられなくなるでしょう。



人には、知らなくても良いことと、知っておくべきことがあります。

知っておくべきことは、死んだらお終いではないことです。

間違った思い込みから、取り返しのつかない過ちを起こしてしまう可能性があるからです。

そして、因果律の働きも知っておくべきです。

もし知っていたならば、過ちを犯す気は一気に失せるでしょう。



平和で穏やかな世界にするため、そして人生で無用な遠回りをしないための特効薬が、霊的真理と考えられます。



2021年1月17日日曜日

生まれる前に決めていたこと①


今年、東京でオリンピックが開催されます。

世界中で新型コロナウィルスの流行が拡大している昨今の状況では、正直なところ開催は難しいのかもしれません。

けれども、出場する選手たちにとっては集大成の場です。

厳しい練習に逃げ出したくなる時もあったでしょうが、耐えて来たのはこの場で最高の結果を出すためです。

なくなってしまったら、練習の熱意は大きく失われてしまうでしょう。



生きていると、つらくて、苦しくて逃げ出したい時があります。

何でこんな思いをしなければならないのかと思う時もあります。



この世に生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

降りかかる困難や障害を乗り越えて行く中で、人は成長するようになっています。



いくら成長したとしても、死んでしまったらお終いじゃないかと思う人もいるでしょう。

死んだ後も、生命は続いています。

肉体はなくなりますが、別の媒体で自己表現をするようになり、生命は変わりなく存続しています。



何を証拠にと思う人もいるでしょう。

生命の存続は、あくまでも主観的な証拠によって、個々が確信するものです。

もし、誰もが納得するような客観的な証拠が示されたのなら、この世と決別してしまう人が続出してしまうと考えられます。



私たちは、寿命が来るまで、生きなければいけません。

目に視えない自然法則が働いているからです。

自分の意思でこの世と決別するのは、自然法則に反しているので、許されることではありません。

ほとんどの人は、自然法則の働きを知らないので、先のことがはっきりと判らないようになっていると考えられます。



つらい練習にも選手が耐えられるのは、その先にオリンピックが待っているからです。

しかしながら、人生でつらい出来事が起きても、何の意味があるのか全く判らず、理不尽さに耐えるしかありません。

生き抜いた先に待っていることが判ったのならば、きっと気持ちが和らぐと思います。



寿命が来たら行く世界とはどんなところでしょうか?

肉体がないので、食べるために働く必要はありません。

言葉を介さず、思念でコミュニケーションをしています。

自分(魂)を隠すものがなくなり、ありのままの思念が放たれています。

嘘も偽りも存在し得ない、真実の世界と言えます。

そして、この世と大きく違うところは、因果の関係がはっきりと判ることです。



煩わしい肉体が無くなると、関心は外に向かうようです。

この世にいる時よりも、ずっと周りのことが気になります。

周りのために何かをすることによって、自分の存在意義を見い出すようになります。

お互いのために、生きている世界と言えます。



周りのために何かをしようとする時、自分に足りない資質を自覚するようになります。

足りない資質を手に入れたくなりますが、快適な今いる世界にいては難しいようです。

価値あるものには、それなりの対価を払わなければいけません。

闘争があり、困難や障害のある、この世に生まれて、魂にまで響く深甚な出来事を経験して、手に入れることになります。



選手が試合で良い結果を出すためには、どうすれば良いのでしょうか?

現状を把握し、それに応じた練習の計画を立てて、実行して行くのが効率的です。



足りない資質を効率的に手に入れるために、この世の人生の計画が立てられます。

生まれる前の自分は承知していますが、いざ生まれるとすっかり忘れてしまいます。

計画されていた通りに人生が展開し、何の前触れもなく、降ってわいたように、予定されていた出来事が起こります。

予め決まっていたことであれば、起きた理由など見つけられるはずはありません。



予定された出来事は、苦難や災難や凶事と言われる、不幸として感じられるものが少なくありません。

もし、覚えていたとしら、回避しようと躍起になったり、人によっては生きる気力を失ってしまうでしょう。

神の配慮により、表に出ないようになっていると考えられます。



生まれて来た目的を果たすために、この世の人には守護霊が付いています。

自分以上に自分を知り尽くしていて、考えていることも判っています。

道を外れそうになったら、警告を発しています。

挫けそうになった時には、心を奮い立たせてくれます。

無事に出来事を乗り越えた時には、大きな喜びを感じています。



予定されていた人生が済むと、死を迎えます。

死とは、本来の住処へ帰ることです。

親愛の想いで結ばれていた、先に逝った人が真っ先に出迎えてくれます。

その後で、守護霊と対面することになります。

ずっと傍にいたので、何とも言えない懐かしさや親しみを感じるかもしれません。



どれ位経ってからでしょうか、守護霊と一緒にこの世の人生を振り返る時が来ます。

楽しかったこと、うれしかったことが回想され、思わず微笑みます。

そして、最悪と思えた出来事が起きた時の自分の姿が映し出されます。

なぜ? 

どうして? 

そんな問いかけが、繰り返されています。

絶望の淵に叩き落され、目の前が真っ暗になり、生きる気力が失われています。



助けてくれる人は、どこにもいません。

精神的に追い詰められた時、真の自分(魂)が目覚めていたのが判ります。

目覚めた魂が、本当に大切なものを見つけています。



現実は変えられません。

耐え難い苦しみから抜け出すためには、自分自身が変わるしかありません。

もがき苦しみながら変わって行く中で、足りなかった資質が身に付けられているのが判ります。

苦しかったけど、逃げ出さなくて良かったと、ホッと胸を撫で下ろします。



何でこんな思いをしなければならないのか? 

自分が成長するために、どうしても必要な出来事だったことが判ります。

何で生きなければならないのか?

魂(生命)は永遠であり、絶え間なく成長して行くように定められていることが判ります。

どうしても逃げ出せなかったのは、自分自身が成長するために決めていたことだからです。



生まれる前にいた、本来の住処に戻ります。

そこで、地上の経験を通して身に付けた資質が活かされるようになります。

周りのために、より一層自分が役に立てるようになり、これまでにない悦びを感じます。

この世での苦しみは、この悦びのためにあったことを知ります。

大いなる存在の完全な愛、完全な叡智の働きに、感謝せずにはいられません。



本来の住処には、自分と同類の人たちしかいません。

争いもなく、穏やかで快適な世界です。

そんな世界で過ごしている内に、もっと自分を役に立てて、大きく成長したい欲求が生まれて来ます。

相応しい資質を身に付けるために、もう1度、この世に生まれる計画が立てられます。

過酷な人生になりそうですが、これまでの経験で魂は成長し、乗り越えられる出来事しか起きないことは判っています。

その人生を了承して、意を決して、地上の母体に宿ります。


「おしゃべりな胎児⑨」より







2021年1月10日日曜日

神の摂理を学んでいる


学生の時は、テストがあり嫌でした。

何でこんなことを覚えなければならないの?と疑問に思うことも度々でした。

必死になって九九も漢字も覚えましたが、日常生活に活かされているので、良かったと感じています。

学校で習ったこと全てが、生きて行く上で役に立つとは限りませんが、今になってみると身に付けておいて損はなかったと思います。



これまでに人間が蓄えて来た知識を吸収するのが、学びと言えます。

その多くは、本を読んだり、人から教えてもらったりします。



私たちが学んでいるのは、言葉にされた、客観的な知識だけではありません。

目に視えないこと、言葉に出来ないことを学んでいます。

それらの学びは、自らが経験して得るしかありません。



小さい時、自分勝手な行動をして、仲間外れにされたことはないでしょうか。

嘘を付いて、それがばれてしまえば、人に信じてもらえなくなります。

世界中どこに行っても、そのような行動をすると、同じような対応をされます。

ほとんどの人は嫌な思いをして、以後、気を付ける様になります。



自分勝手な行動をして仲間外れにされるのも、嘘を付くと信じてもらえなくなるのも、自然法則の働きによるもです。

苦痛を感じることで、その行為が過っていることを学んでいます。

私たちは経験を通して、目に視えない自然法則の働きを学びながら生きています。



自分勝手な行動をしたり、嘘を付くのは、何故いけないのでしょうか?

周囲との調和を乱してしまうからです。

自然法則は、全体に調和を生み出すために働いていて、乱すような行動をすると、苦痛を伴う結果となって返って来ます。

自然法則は、私たちが生きている地球だけに働いているのではありません。

はるか彼方の銀河にある惑星に住んでいる生命にも、同じ法則は働いています。




138億年前、宇宙は生まれました。

その後、いたるところに生命は誕生しました。

神は生命に、弛まない進化の過程を与えました。

ばらばらになった生命が進化しながら、再び1つになって行く、それが神の構想と考えています。

不完全な個が、進化して霊的に1つになった時、完全になります。



生命を引き付け合う力が愛です。

個々の生命が、愛を表現することにより、1つになって行きます。

進化とは、霊性の向上です。

進化した惑星では、全ての生命が助け合い、調和をしながら、平和に暮らしていると想像されます。



私たちの地球はどうなのでしょう?

どこかで戦争が起きています。

他の生命が虐待されたり、搾取されています。

環境は破壊され、汚染されています。

「アッツ島玉砕」藤田嗣治1943年

毛皮にされるミンク

失われる森林(アマゾン)
      

調和を乱しているのは人間です。

進化した生命ほど神性が発揮されるはずですが、代わりに利己性が発揮されています。

多くの人が唯物的になり、神性が萎んでしまっています。



人間同士で争っていて、地球全体に調和が生まれるはずなどありません。

傷つけ合うことで生じる苦痛を通して、神の摂理を学ぶしかないのでしょうか。

互いを認め合い、許し合うこと、大きな意味で他者に愛を表現することで、争いはなくなります。

極めて単純なことですが、自我が肥大し、感情や利害に捉われてしまい、そのことに気付くことが難しくなっています。



あらゆる生命が同等に持っている健やかに生きる権利を著しく侵害し、虐げていることに何も感じなくなってしまっています。

他の生命を尊重し、愛を表現することで、地球に調和が生まれます。

率先してするのが人間の役割です。



唯物的な考えを見直す時期に来ています。

しかしながら、唯物的な考えに馴染んだ人間は、聞く耳を持ちません。

人間の意思で変わることが出来なければ、神の摂理の働きにより、抗うことの出来ない自然現象が起きることで変わって行くしかないのかもしれません。



シルバーバーチの霊訓には、こんなことが書かれています。

「魂が目覚めるのは苦しみの中です。

人生をうわべだけで生きている人は、魂が自己開発する機会がありません。

地上的な方策が尽き、八方塞がりに思えた時、魂が目覚めるのです。」



今、人類全体が同じ苦難を経験しています。

私の知る限り、人類がこれほど追い詰められるのは初めてです。

人類のみが被る苦しみなので、人類の負債を清算しているのかもしれません。

この苦難により、今までになく、多くの魂が目覚めているような気がします。

それに伴って、全体の意識に何かしらの変化が生じるかもしれません。



魂が目覚めると、唯物的な考え方から解放されます。

お金や物よりも、生命や自然に関心が向かいます。

本当に大切なものは、視えるものにはないことが判ります。



神性が発揮されると、傷つけ合うのではなく、慈しみ合います。

他の生命たちが愛されます。

他者に喜びを与えるようになります。




宇宙から見れば、地球は1つのユニットです。

美しい惑星ですが、良く見ると病んでいる部分があります。

病んでいる部分を浄化するために、惜しみなく神の摂理は働いています。


神の摂理は、愛を深く学び、それを表現して、生命が1つになるために働いています。




2021年1月3日日曜日

不安や恐怖を感じたら

 

年が明けても、新型コロナウィルスの感染拡大の勢いは増すばかりです。

約100年前にスペイン風邪が世界中で流行し、多くの人が亡くなりました。

第3波まであったそうですが、第2波が最も強毒であり、今回の流行と大きく違うところは、若年者ほど致死率が高かった点です。

いつ変異するとも限らないので、若い人も注意が必要です。

当時(大正9年)のポスター

未知の経験に対して、不安や恐怖を抱くのは、今も昔も変わりありません。



不安や恐怖は、地上に生きる人にとって、元々必要なものです。

崖の上に立つと恐怖を感じるからこそ、誤って落ちないように気を付けます。

もし、恐怖を感じなければ、肉体を護ろうとする動機が失われ、死んでしまう人が続出してしまうでしょう。

当然のことながら、ウィルスに対して恐怖を感じない人は、感染のリスクが高くなります。



肉体を護り、安全に生きて行くために、不安や恐怖と言う情動が地上の人に与えられたと考えられます。

しかし、それが強すぎると理性を萎ませ、問題を解決しようとする力を奪ってしまいます。

不安で一杯になり、恐怖で縮み上がってしまうと、何も出来ません。

不安や恐怖を克服して行くのは、地上に生まれた人の宿命なのかもしれません。



しかしながら、不安や恐怖は自己保存欲求と深く関わっているので、克服するのは容易ではありません。

人間は、先のことを考える生き物です。

「〇〇したらどうしよう」、「〇〇してしまうかもしれない」と、先のことをつい考えてしまい、その度に不安や恐怖が生じてしまいます。



それを取り越し苦労と呼びますが、シルバーバーチは「無知の産物」と言って、強く戒めています。

どうして、無知から取り越し苦労が生まれるのか考えてみました。



この宇宙は、神の法則の働きによって経綸されています。

あらゆる出来事は、何らかの法則の働きによって生じているので、偶然は存在しません。

ウィルスの発生や感染も自然現象の一環であり、神の法則の働きによって起きます。



神によって創られた法則が、神によって運用されています。

従って、全ての現象の最終的な責任を負っているのは神と考えられます。

神の法則に反したことをしておいて、神の責任にすることは許されませんが、何の落ち度もないのにも関わらず起きた現象には、埋め合わせの原理が働くと思います。



神の創った法則には、神の心が包摂されています。

神の心は愛です。

どんな悲惨なことが起ころうとも、根底には愛があるので、必ず良い方向に向かうはずです。



それでは、ウィルスに感染して死んでしまったらどうでしょう?

ほとんどの人は不幸な出来事だと思います。

死は終焉ではありません。

別の世界へ移行する現象です。

地上の人生は終わりますが、本来の住処に戻って、新たな人生が始まります。

そこでは、肉体があるが故の情動は存在しません。

煩わしい肉体や人間関係はなく、不安や恐怖から解放されて、平穏無事な世界に行くことが、不幸なのでしょうか?

知らないと、不安や恐怖を感じてしまうのは確かなようです。



ウィルスに感染すると、苦しんでしまう可能性はあります。

そのことを考えると、死が怖くないとしても、不安や恐怖を感じます。

耐えられない、痛みや苦しみはありません。

痛みや苦しみも、自然法則の働きによって生じているからです。

神の管轄下で起きているので、痛みや苦しみも枠内から外れることは決してありません。

未知の経験に不安や恐怖を感じたら、全ての出来事は神の摂理の働きによって起きているので、最終的に良きに計られている、乗り越えられないほどつらいことは絶対に起きないと、強く信じるようにして下さい。



不安や恐怖は、霊力が流れるのを妨げると言われています。

霊力とは生命力です。

生きる力、乗り越える力を奪ってしまいますので、不断の努力で振り払うようにしなければいけません。



地上に生きている私たちには、親愛の想いで結ばれた霊的な存在が付いています。

無用な災難や危害が降りかからぬように、地上の人にインスピレーションを送り、守り導いています。

ところが、不安や恐怖を抱いてしまうと、送られて来る援助の力を受け取る際の、障害物となってしまいます。

1人ではない、霊界にいる人たちと一緒に生きていると、強く信じるようにして下さい。

そうすれば、両者のつながりが強くなり、援助の力が届いて、不安や恐怖は和らいで来ると思います。



人間の本質は魂です。

地上に生まれた魂は、肉体と言う媒体を得ます。

魂は霊的な世界の存在であり、精神を介して、物質的な世界の存在である肉体によって自己表現をしています。

不安や恐怖を感じたら、目に視える物質的な世界ではなく、目に視えない霊的な世界に意識の焦点を向けるようにして下さい。

頭から地上的な考えや感情を消し去るのに従い、心の中に霊的な世界が広がって行き、平穏さを取り戻すことが出来ます。

その世界には、危害を加えるものは何も存在しないからです。



この世界には、ウィルスなど危害を加えるものが存在します。

けれども、危害が加わる可能性があるのは肉体です。

本質である魂にまで、危害が加わることはありません。

本当の自分は、何者にも侵されないと、強く意識しましょう。

私たちは地上に生きていますが、霊(神)的な存在であることを忘れないで下さい。



一人ぼっちで生きている、死ねば終わりだと思うと、どうしても不安や恐怖に襲われてしまいます。

真実はそうでありません。

片時も離れることなく、守り導いている存在が付いています。

万が一死んだとしても、それは肉体の話です。

本当の自分である魂は、別の世界に移行し、健やかに生き続けます。