2019年11月24日日曜日

健やかに生きるために



世の中は、健康食品、健康グッズで溢れ、メディアを通して健康に関する情報が流れない日はありません。

年々、健康に対する意識は高まって来ていますが、病気になる人の数は一向に減らないどころか、むしろ増えている様に感じられます。

身体に良い食品を摂り、適度な運動をするのは、健康を維持するのに大切なことですが、それだけで病気を防げるわけではありません。



健康に関して得られる情報は、身体(肉体)を対象にしたものがほとんどです。

けれども、人間は肉体だけの存在ではありません。

目に視えない精神が存在しています。

ご承知の様に、肉体は精神の働きによって動いています。


全ての病気には原因があります。

感染症はウィルスや細菌など、目に視える物質(肉体)的次元に原因があって生じます。

胃に穴が開いてしまう胃潰瘍は、目に視えない精神的次元に原因があって生じることが多いです。

胃潰瘍にならなくても、ストレスが加わると胃が痛くなったり、頭が痛くなったり、身体に不調が生じるのは、ほとんどの人が経験しています。

精神と肉体は密接に関係しているのは確かなようです。



精神が活動するきっかけとなる思念は、精神より高い次元に存在している魂から生じています。

しかしながら、魂の存在は科学的に証明されていないため、公に認められていません。

目に視えないもの、証明されないものは、存在しないと誰が決めたのでしょうか?

悦びや悲しみは目に視えず、証明もされていません。

愛も目に視えず、証明もされていません。

けれども、その存在を認めていない人はいません。



魂とは、生命の本質です。

意識の中枢はそこにあります。

魂から生じた思念は、精神によって具象化されます。

具象化されたものが、肉体によって具現化されています。

その連鎖が繰り返されて、地上の人生は紡がれて行きます。

うれしいことがあれば笑顔になるのも、悲しいことがあれば涙が出るのも、思念が肉体によって具現化される自然現象の1つです。



地上で精神は、自我となって顕現しています。

自我には個性があり、性格や気質として認識されています。

思念はそのまま具現化されるのではありません。

自我の働きによって勘案された後、肉体に指令が出されて、言葉や行動となって具現化されています。



映画には、原作があります。

それが脚本化されて、映像となります。

原作で伝えたいことが、脚本によって具体的な言葉や動きとなり、映像によって表現されています。

もし、脚本によって手が加えられ過ぎてしまったなら、原作との間に隔たりが生まれてしまい、原作者の伝えたかったことは伝えられていません。



魂が原作者とすると、自我は脚本家です。

そして肉体は演じる俳優になります。

脚本家がいなければ俳優は演じることは出来ないように、思念は自我と言う脚本家を通さなければ、肉体で表現されることはありません。

脚本家は、映画が大衆受けをしてヒットするように、原作を変える時があります。

自我も、置かれている環境や状況に合わせて、思念を変えて表現する時があります。



自我(精神)は肉体と密接に関係しています。

そのため自己保存的でありより安全で快適な方向を志向します。

そして、性別、年齢、職業、その他の地上的な属性から構成されている多面的な存在であり、成功、報酬、地位などを志向する傾向があります。

そんな志向性が自我にあるため、思念の通りに、肉体で表現されるとは限りません。



原作者にとって望ましいのは、自分が伝えたいことが、忠実に表現されている映画です。

たとえ興行的に成功しても、脚本により原作が大きく変えられてしまえば、良い映画とは思いません。

自分(魂)にとっても、自分の想い(思念)が忠実に表現されるのが望ましく、健全な状態です。

社会的に成功したとしても、満たされているのは自我であり、自分の想いが表現されていなければ、魂が満たされることはありません



自分の想いが、自我の働きによって、変えられて表現されてしまうことがあります。

健康になってもらおうと、農家の人が心を込めて野菜を作っていたとします。

しかし、(自我の働きにより)利益を優先して農薬を使い過ぎたとしたら、自分の想いが変えられて表現されていることになります。

国民の幸福のために働くと言う、志を持って政治家になった人がいたとします。

しかし、志を忘れ、(自我の働きにより)名誉や地位や富に目がくらんで追い求めてしまえば、本来の自分を見失ってしまったと言えます。

このような例は、世の中にいくらでも見つけられます。

本当の自分の想いが表現された時、その人の成長につながります。

けれども、自我が優先されてしまうと、せっかくの成長の機会を逸してしまうことになります。



自分の想いが、自我の働きにより大きく変えられ表現され続けると、個の健全さが失われてしまう可能性があります。

私は動物が大好きです。

もし私が公務員になり、保健所にいる保護された動物を殺処分する仕事を、上司に命じられたとしたらどうでしょう。

本当の自分(魂)は、そんなことは絶対にしたくありません。

しかし、自我は仕事を遂行しなければならないと考えます。

両者の間で、激しい葛藤が生じるのは間違いありません。

仕事をしなければクビになり、生活ができなくなるので、ガス室のスイッチを泣く泣く押します。

自分の想いを裏切り続けて、そんな生活を続けていれば、病気になってしまうでしょう。



2011年3月、大地震が起こりました。

巨大な津波が原発を襲い、原子炉の冷却装置は停止しました。

冷却装置が停止すれば、原子炉は異常な高温となり、メルトダウン(炉心融解)が起こり、深刻な放射能汚染が発生します。

冷却装置が停止したら、海水を注入して炉心を冷却するしかありませんが、そうすれば原子炉は二度と使えなくなります。

責任者であった所長は自らの良心に従い、海水を注入することを決断しました。

ところが、本社からは注入を直ちに中止するようにと命令が来ました。

所長の自我は、会社の命令を遵守するように強く働きかけていたと考えられます。

一社員が、政府と会社の命令に背くのは大変なことです。

それでも自分の良心に従い、命令を無視して注入を続けました。



所長は、その数か月後にガンを発症し、翌々年の7月に亡くなりました。

原因は被曝ではなく、極度のストレスによるものとされています。

本当の自分(魂)と自我(精神)の間で、極限的な葛藤があったと想像されます。

魂と精神の調和は著しく乱されて、その結果として肉体が病気になったと考えられます

これは極端な例ですが、私たちの日々の生活の中でも葛藤は生じていると考えられます。



「健やか」とは、(魂から生じている)思念が、自我により妨げられず、肉体でスムーズに表現されている状態を指すと考えられます。

従って、やりたいことをやり、言いたいことを言っている人は、病気になり難くいと考えられます。

その逆に、やりたいことがやれず、言いたいことが言えない人は、病気になり易いと思います。

自分の想いを抑圧している人ほど、魂と精神と肉体の連携が上手く行かずに、調和が乱されて、病気になる可能性が高いと考えられます。



想い(思念)は表現の起点となる、創造的なエネルギーです。

精神(自我)を経て、肉体で表現されることによって、外に向かってエネルギーは放散されます。

自我の働きにより、肉体で表現されなかった想いと言うエネルギーは、消えてなくなってしまうわけではありません。

内部に蓄積されて行きます。



蓄積されたエネルギーが閾値に達すると、因果律の働きにより、肉体に変化を生じさせる力に変換されます。

表現されなかった想いは、形を変えて肉体上に病気として、表現されることになります。



病気には苦痛が伴います。

苦痛により、それまで優位だった自我の働きは著しく弱められ、代わって魂が前面に出て来ます

自我の働きにより隠されていた、本当の自分の想いに気付き、その想いに従って生きられるようになります。

病気は、魂を目覚めさせ、本当の自分の想いに忠実に生きるために生じると言えます。

本当の自分の想いに忠実に生きることで、予定されていた人生を送ることが出来ます。

そして、予期していた学びや成長が得られるようになります。



真の健やかさとは、心身に異常がないことではなく、ありのままの自分が表現されていることです。




健やかに生きるために

・本当の自分(魂)の存在に気付く

・そこから生じている想いに気付く

・その想いを素直に表現する

・自我の働きを鎮める(瞑想や座禅も良い)

・本当の自分(魂)と自我の間で葛藤が起きたら、迷わず本当の自分の想いに従う


無邪気な子供のように生きることかもしれません。








2019年11月10日日曜日

信じる



日本では1年間で63万組が結婚し、22万組が離婚をしているそうです。

この数字から単純に計算をすると、3組に1組以上が離婚していることになり、思っていたより多いのに驚きました。



離婚をする当事者から、相手のことが信じられなくなったと言う話を良く聞きます。

信じることで、お互いの距離は縮まり、人と人は結び付くことが出来ます。

信じられなくなれば、気持ちは通じ合わなくなり、離れて行くのは当然かもしれません。



信じる対象は人とは限りません。

神の存在を信じている人もいれば、信じていない人もいます。

どちらを選択するのかは個人の自由ですが、信じていないからと言って罰が当たることはなく、信じているからと言って特別な計らいがあるわけでもありません。



神は、高いところから見下ろして、私たちを監視しているような存在ではありません。

自然法則として顕現しています。

自然法則とは、目に視えない「決まり」です。

信じる信じないに関わらず、「決まり」公平に働いていて、私たちを意図する方向に導いています。



神によって創造された私たちの中にも、神が存在しています。

赤ちゃんを見て可愛く感じたり、弱いものを助けようとしたり、嘘を付きたくないのは、生まれながらにして自分の中に神が存在しているからです。



話は変わりますが、スポーツ選手が表彰台の上で「自分を信じて頑張って来た」と答えているのを見かけます。

良く考えてみると、自分が自分を信じることになり、おかしな気もしますが、そこに大切な事実が隠されていると思います



人間には、2つの自分がいると考えられます。

1つは外部に顕在している自分であり、もう1つは内部に潜在している自分です。

外部に顕在している自分とは「地上的な自我」(以下自我)であり、内部に潜在している自分とは、本当の自分である「魂」と考えられます。




人間は、魂(霊)、精神、肉体により構成されています。

ちょっと強引ですが、人間を会社組織に例えてみると、社長が魂で、社員が精神(自我)で、肉体が会社になります。

社長が指令を出して、それに従い社員が動いて、会社が運営されています。

もし、社長が指令を伝えても、社員が従わなかったとしたら、会社組織として健全な運営は出来ません。



最上位に位置する魂から生じた想い(思念)は、精神上に形成された自我を経て、肉体により具現化されています。

魂と自我が協調的に働いている時には、本来の自分が表現されています。

しかし、自我の働きが強くなり過ぎると、魂から生じた思念(想い)は、肉体で具現化されにくくなります。

道端で捨てられて、鳴いている子猫がいたとします。


可哀想だから何とかしてやろうとする想いは、魂から生じています。


世話が大変で、餌代もかかるし、旅行にも出かけられなくなると、自我は瞬時に思考をします。


両者の間でせめぎ合いが生じ、内面的な葛藤として認識されます


子供の頃は自我の働きが弱いので、魂から生じた想いに素直に従って、猫を家に連れて帰ってしまいます。

大人になるのに従い、自我の働きが強くなり、見て見ぬふりをするようになります。



溺れている人がいれば、助けようとする想いが、魂から生じます。

助けに行ったら自分も溺れてしまうと、自我は計算し予測します。

魂から生じた思念をそのまま肉体で表現したら、自分に危険が及んだり、不利益を被ることに対して、自我は抑制的に働いています。

この世を、安全に効率良く、快適に生きようと思考をしているのが自我であり、そのため自己保存的、防御的、利己的、打算的な性質を帯びていると考えられます。



困難な状況に置かれると、「もうだめだ」と諦めようとしている自分がいます。

それとは別に、何とかして乗り越えようとしている自分もいます。

諦めようとしているのが自我であり、乗り越えようとしているのが魂です。

「自分を信じる」とは、顕在している自我が思考を止めて、潜在している自分(魂)を信じることと考えられます。



潜在している自分(魂)には神が内在しています。

従って、自分を信じるとは内在している神を信じることに通じます。

神のエネルギーは無尽蔵です。

どんな困難な状況下にあっても、自分の中に神がいることを強く信じることが出来れば、内から力が湧き出して、必ず乗り越えられるはずです。



自分を信じようしないのも自我の働きです。

「もうだめだ」とか、「無理だ」とか、「失敗する」とか、勝手な理由付けをして、安全な方向、無難な方向に進んで行こうとしています。

弱気な自我の囁きに打ち克って、自分を信じて困難な方向に進んで行けば、乗り越える力が与えられます。

成長する方向に進んで行く人に、神そして霊界は、惜しみない援助の力を与えてくれます。



しかし、自分を信じて頑張っても、必ずしも良い結果が出るとは限りません。

人が生まれて来たのは、大切なことを学びながら、魂を成長させるためです。

奮闘努力する中で、自らの成長と言う報酬を得ています。

目に視える結果は地上的なものであり、経験を通して学びや成長することの方がはるかに大切です。



自分を信じている人は、内部に潜在している自分を信じているのであって、神を信じているわけでは限りません。

自分を強く信じて臨むと、予期した以上の結果が生まれる時があります。

それは、信じることによって、神との結びつきが強くなり、内部からの力が湧き出し、持っている以上の力が発揮されたからと考えられます。

自分の力ではないものが発揮されたと感じた時、人は思わず何かに向かって感謝をします。

その対象が神です。



多くの人は、努力すれば報われると信じています。

それは因果律の働きを信じていることになります。

因果律を創ったのは神であるので、結局は神を信じていることになります。



信じる対象は、自分以外に他者があります。

地上は、自分とは異なる人間(魂)が同じ平面に暮らす、巨大な学校です。

異なる人間(魂)との間には意見の相違があるのは当然であり、そのため軋轢や反発や争いが生じる時があります。

を信じないのは、自我の働きによるものであり、自分を守ろうとする防御反応の一種です。

従って、自分を守ろうとする自我の働きが強くなり過ぎると人が信じられなくなってしまいます。



幼い子供が、親に心身を傷つけられる、痛ましい事件が起きています。

どんなに傷つけられても、子供は親のことを信じているように見えます。

他に頼るものがないので、そうせざるを得ないと思ってしまいますが、自我の働きが未発達なために、信じることしか出来ないと考えられます。

信じない選択肢がないのです。

大人でも自我の働きが弱い人がいます。

そんな人は子供のように信じてしまうために、裏切られたり、騙されたりして、傷つくことが多くなると考えられます。



周りに同類の魂しかいない霊界では、何の努力もなしに、お互いにつながることが出来ますが、地上では信じることなしに、つながることは出来ません。

信じることから全てが始まります。

過去の経験は忘れることは出来ませんが、この世に生きて成長して行くためには、自分を守ろうとしている自我の働きに打ち克たなければいけません



信じるためには、お互いを良く知り、認め合う必要があります。

言葉はそのために創造されたので、積極的に活用しなければいけません。

しかし、その言葉によって、隔たりや憤りを感じてしまうことがあります。

冷静になって振り返ると、過去の自分の言動の中に原因が見つけられ、因果律の働きにより、自分に返って来ていることに気付く時があります。

世界中で起きている戦争も、相手を非難している当事者自らが原因を作っていることが少なくありません。

絶対に自分は正しい、間違っていないと主張している限り、自らの中に原因を見つけようとはしません。

苦痛の原因が自分にもあることに気付いたのならば、怒りは鎮まり、相手を認め、再び信じ合えるようになると思います。



それでも、どうしても信じられない人はいるかもしれません。

そんな人は霊的に無知なことが多いです。

自分の言動に対して全責任を取ること過ちを犯せば償わなければならないことを知りません。

無知なまま生きているのは、哀れむべきことです



そんな人の中にも神はいます。

神がいるので、憎んだり恨んだりしてはいけないのです。

顕在している自我は信じられないとしても、その人の中にも自分と同じ神がいることは信じなければいけません。