2019年2月17日日曜日

この世で終わりだと思っている人へ



人間の死亡率は100%です。

死んだ後に、別の世界が存在し、そこで生き続けるのか?

それとも、意識は消失して無になってしまうのか?

そのどちらが、現実のものとなります。



以前、このブログに書きましたが、「パスカルの賭け」というものがあります。

フランスの著名な物理学者であり哲学者であるパスカルは、誰もが、神がいるのか、それともいないのか、どちらかに賭けなければならないと言っています。

神がいる方に賭けるのは、目に見えない存在や世界を肯定し、人は死んでも別の世界で生き続ける方に賭けることを意味しています。

神がいない方に賭けるのは、人は死んだら無になる方に賭けることになります。

パスカル(1623-1662)
出典:philosophy.hix05.com
スカルは、神がいる方に賭けるのが得策だと言っています。

その理由はこうです。

神がいる方に賭けていて、その賭けに勝てば、別の世界で永遠に続く生命の悦びを味わい、この世の人生は意義あるものになり、たとえ賭けに負けたとしても、無になるのだから、失うものは何もなく、後悔も存在しないからです。

一方、神がいない方に賭けて、勝ったとしても、ただ無になるだけであり、後には何も残りません。

問題は、神がいない方に賭けていて、無にならずに生き続けていた場合です。

死ねば終わりになると思っていたわけですから、刹那的な日々を過ごしてしまい、意義のある人生を送れなかったと、悔やんでしまうかもしれません。

どちらに賭けるのかは個人の自由ですが、神がいる方、死後の世界がある方に賭けていれば、少なくても後悔することはないと考えられます。



もし、この世で終わりであれば、どう生きるのでしょうか?

お金をたくさん儲けて、好きなものを買い、好きなことをして生きたいと思う人は多いかもしれません。

苦しみや悲しみは、人生を不幸にする以外の何物でもなく、忌み嫌ってしまうでしょう。

苦労を避けて、楽をして暮らしたいと考える人も少なくないと思います。



ところが、好きな物を買っても、好きなことをしても、一時的に欲求が満たされているだけで、幸せになれるとは限りません。

自らが苦しみや悲しみを知らなければ、他の人に対して同情や慈しみの想いが湧くこともありません。

楽をして暮らすだけでは、物足りなさを感じてしまうのは、私だけではないと思います。

この世で終わりだと思って生きると、いろいろな矛盾や問題が生じてしまい、何か違うのではないかと思ってしまいます。



一方、この世で終わりでないとすれば、どう生きるのでしょうか?

次があるので、あくせくせず、もう少しゆっくりと生きられるような気がします。

死の恐怖を感じずに、先に逝った人との再会を楽しみにして、生きることが出来ると思います。



死んだら無になるのか、それとも生き続けるのか、残念ながら、どちらも客観的に証明することは出来ません。

私は生き続けると確信し、一人でも多くの人にその厳粛な事実を受け容れてもらいたいと、心から願っています。



もし、この世とは別の世界があり、そこで生き続けるとすれば、生命は肉体以外に存在していることになります。

目に見えない何かが生命であり、多くの人はその何かを「魂」と呼んでいます。

受胎の瞬間、生命(魂)が肉体に宿り、精神を介して自己表現している、それがこの世の人と考えています。

そのことを前提に、このブログを書いて行きます。



私たちが生きている目的は明確です。

真の自分である魂を成長させるためです。



この世で起きる出来事は、何一つ無駄なものはありません。

それが苦しく、悲しいことであっても、そこから大切な教訓を学んでいて、乗り越えて行く過程で、魂は成長しています。

地上の経験を通して身に付けた教訓は、魂の永遠の財産となり、死の後に待ち受けている世界で全て活かされます。



この世界の隅々まで、自然法則が働いています。

空に向かって石を投げると地面に落ちて来るのは、万有引力という物理的(物質的)法則が働いているからです。

肉体は物質的次元の存在であり、魂は霊的次元の存在です。

そのどちらの次元にも自然法則が働いています。



自然法則は、霊的な成長を促すように働いています。

人や社会のために役に立てば、自らの悦びとなり、成長がもたらされます。

人を傷つけたり、社会に損失を与えれば、痛みを伴う報いがあり、成長が妨げられます。

自分の想ったこと、言ったこと、行ったこと全てに自然法則(因果律)が働いていて、機械的に結果が生じています。

これは最も大切な霊的次元の自然法則の働きと考えています。



この世は1つです。

けれども、死後に行く世界は1つではありません。

次元の違う界層が重なって存在し、どの界層に行くのかは、この世をどう生きたかによって変わってきます。

自然法則の働きにより、霊性の高い人ほど、上の界層に行くことになります。

霊性の高い人とは、より高い愛を表現できる人、より奉仕的精神に富んだ人のことです。

従って、この世で自分のためだけに生きて来た人と、人や社会のために役に立って生きて来た人では、自ずと霊性に大きな差が生じてしまい、死後に赴く世界は違って来ます。



人(魂)には、より高い界層に行きたい根源的な欲求があります。

小学生から中学生に進学した時に、新鮮な悦びを感じますが、魂の住処が1つ上の界層に上がる時にも、成長した悦びや、新しい世界に住まう悦びを感じるのかもしれません。

もし、小学生なのに、いきなり中学生の集団に入ったならば、どうでしょう?

体格や学力の差があり、周囲との違いを感じて、いずらくなってしまいます。

死後に行く世界も同じであり、自分より高い霊性の人たちといても、居心地が良くないようです。

上の界層に住まうためには、そこにふさわしい霊性を身に付けなければなりません。



そこで、さまざまな経験の出来る地上にもう1度生まれてふさわしい霊性を身に付けようとします。

分に足りないものを補うため、弱いところを強くするために、最適なシナリオが創案されます。

全てのシナリオを承知した上で、自らの意志でこの世に生まれて来ているのですが、神の配慮により、思い出すことは出来ません。



この世しかないと思えば、自分のことだけを考えがちになります。

限られた年月を幸せに暮らそうとするあまりに、人を押しのけたり、蹴落としたりする人がいるかもしれません。

また、悪いことをしてもばれたり、罪を問われなければ、構わないと考える人もいるかもしれません。

利己的な言動や、摂理に反した言動は、自らの霊性を下げています。

より高い界層に行くために、この世に生まれて来たのに、自然法則の働きを知らずに、自分のことしか考えない生き方をしていれば、低い界層に行くことになってしまうかもしれません。

その失地を取り戻すために、より困難で苦痛の多い人生を選択して、また地上に生まれて来ることになるでしょう。



人生を根底から変えてしまう、不幸や凶事と言われる出来事が起きて、この世しかないと思えばどうでしょうか?

自分の人生はもうお終いだと思い、自暴自棄になったり、投げてしまったりするかもしれません。

大切な教訓を学んで、成長するために自らが承知していた出来事が起きているのに、予定していた通りに行かなくなってしまいます。



この世が終わると同時に、次の世界での生活が始まります。

しばらくすると、地上の人生を振り返る時が訪れます。

その時に、この世で終わりと言う事実誤認が、多大な損失を与えていたことに気付くでしょう。

学ぶべき教訓が学べなかったこと、予定通りに成長出来なかったことに、愕然としてしまうでしょう。

後悔の念が大きければ、それを晴らすために、もう1度この世に生まれて、同じ様な出来事を経験することになると考えられます



多くの人は、打ちのめされるような出来事が起きても、どうにか立ち上がって、前に進んで行こうとします。

壁が、目の前に立ちはだかっても、それを何とかして乗り越えようとします。

何故でしょうか?

それは、真の自分(魂)に成長しようとする欲求があるからです。

乗り越えられない出来事は起こらない、つらく苦しくてもそう生きなければならないことを、奥深くにいる、普段は意識することのない自分は判っているからです。



人を傷つけてはいけない、正直でいようと思うのは、どうしてでしょうか?

魂に内在する良心(神)が、そう訴えているからです。

この世で終わりではなく、1つ1つの行いが次の世界に反映されることを、奥深くにいる自分は判っているからです。



つらい出来事が起きたとしても、嘆く必要はありません。

その出来事を通してでしか得られない教訓があり、それを得ようとしているからです。

次に行く世界で、より深い悦びを感じながら生きるために、苦しくても乗り越えて行くことを、自らが誓っているからです。

本当に大切なもの、どう生きるべきか、言葉にならない数々の教訓を刻み込みながら、魂は大きく成長し、地上に生まれて来た目的を成就しているからです。




死んでから、そのことに気付くのでは遅すぎます。

たとえ確証が得られなくても、この世が終わっても次の世界があることを信じて生きなければいけません。