2023年12月31日日曜日

1年の終わりに思うこと


2023年が終わろうとしています。

1年間、お疲れ様でした。



このブログを書き始めて14年になります。

当初は、ある日突然出現したヒーリングの力を、多くの人に知ってもらいたくて書き始めました。

ヒーリングの力は、病を癒すことを通して、霊的真理を広めるために存在しています。

地上に生まれると、生命(魂)、想い、法則の働きなど、霊的なものが視えなくなってしまいます。

目に視えるものが全てで、死んだら終わりと思っている人がたくさんいます。

ヒーリングにより、目に視えない力が存在していることを実感し、霊的に目覚める人がいます。

目覚めることにより、真理を受け入れる土壌ができます。



あれから、どれくらいの人をヒーリングをしたのか覚えていません。

残念ながらヒーリングにより、霊的に目覚めたかどうかを知ることはできません。

もし、生き方や考え方が変わったのなら、内面でも変化が起きていると考えています。



ヒーリングの力が出現した時に、思いもよらぬ出来事が降りかかりました。

その出来事により、徹底的に追い詰められました。

救いとなったのは霊的真理です。



ブログを書き始めてしばらくすると、コメントを下さる方がちらほらと出て来ました。

中には、悲痛な経験を吐露されて、かける言葉が見つからない人もいました。

そんな中で、霊的真理によって、慰めたり、勇気付けられる人がいることを知りました。

私が救われたように、真理により救われる人がいるので、求めている人たちの目に触れることを強く望みました。



これからブログ等を通して真理を伝えようとしている人は、観ている人からコメントを送ってもらえるようにして下さい。

コメント送って下さる人の貴重な経験や意見から、多くのことを学ぶことができ、あなたが伝える真理により、魂が癒されたり、救われる人がいるでしょう。

コメントに答えると、私自身にも学びが得られました。

自分が答えているつもりで、霊界が答えている時があることに気付きました。

その時に得られた学びが、霊的な財産になっていると考えています。



小さな学びが、積み重なって行きました。

いくつかの学びを土台にして、その上に新たな学びを得ることができるようです。

足し算ができて、初めて掛け算ができるようになるのと同じような気がします。



自分が得た学びを、たくさんの人に共有してもらいたくて、ブログ上に書いて来ました。

最初は躊躇しましたが、霊界の意図かもしれないと思いました。

どんな内容を書くのかは、まず自分で決めなければいけません。

書いていくうちに、頭ではない部分が働き出すのが分かります。

心の中に言葉が浮かんで来て、自然に文章になって行きます。

考えるのではなく、浮かんで来た言葉を書いて、あとは文章を整えて行けば大丈夫です。



不思議なことに、ある人のことを思い出しながら書くと、その方からコメントが届くことが多いです。

その人が、必要な内容だったのかもしれません。

霊界が察知して、私に書かせていたような気がしています。



真理の普及は、霊界主導と言われます。

目に見えないところで、全てが準備されているように思います。

霊界の人は、真理を必要としている人と伝える人をつなげています。

いかにすればつながるのかを、常に腐心しているように思います。



今年になって、電子書籍を出版しました。

まだ真理を知らない人との間に、接点を増やそうと思ったからです。

タイトルは「亡くなった愛する人とつながる」で、このブログの内容を編集したものです。

大切な人を亡くした人が目にして、真実に気付いてくれることを願っています。



私が時々利用しているヴィーガンカフェをお借りして、「霊的真理のお話とヒーリングの集い」を月1回のペースで開くことにしました。

限られた人ではありましたが、「シルバーバーチの霊訓」の存在を直接伝えられ、ヒーリングをすることができたので、有意義だったと思っています。



霊界が求めているのは、深く真理を学ぶことよりも、伝えようとする強い想いのような気がしています。

どんなことをして来たかよりも、どれくらい伝えようとしているのか、「今」を見ていると思います。

伝えようとする地上の想いに、霊界の人の想いが同調することで、インスピレーション等の霊力を伝えることができると思います。

知識がいくらあっても、伝えようとする想いがなければ、霊界と同調することはできません。



霊的真理と出会い、救われた時の想いを忘れてはいけないと思っています。

しかし、十数年も経過すると、あの時の想いはどうしても薄れて来ます。

そんな時は、霊界に真理を伝えさせて下さいと、祈ることが必要です。

その想いは霊界に届き、直ちに導かれて来る人もいます。



霊界の人たちは、地上の人の心が視えています。

問われているのは、伝えようとする想いがあるかどうかです。

その想いさえあれば、必要としている人が導かれて来て、インスピレーションなどの適切な力が与えられるはずです。

霊界からの援助があるので何とかなります。

もっとたくさんの人に、自由に伝えて欲しいはずです。



1年を終えるに当たり、神と霊界の人たちに、改めて感謝します。

そして、戦争が早く終わり、穏やかな世界になることを祈ります。






2023年12月24日日曜日

魂の成長とは


世界1美しい絵と言われているのが、言わずと知れた「モナリザ」です。

確かに美しいとは思うのですが、どこが、どう美しいの?と聞かれても、返答に困ってしまいます。



そもそも、「美」とは何でしょう?

はっきりと答えられる人はいないのかもしれません。



ところで、幸せとは何でしょうか?

悦びを感じている状態と言う人もいるかもしれません。



それでは、悦びとは何でしょうか?

答えられなくなってしまいます。



愛は大切だと考える人は少なくありません。

けれども、何で大切なの?と聞かれると、直ぐには答えられません。



「美」、「幸せ」、「悦び」、「愛」、全て目に視えないものです。

目に視えなくても、私たちはそれらが存在していることを実感しています。



どこで実感しているのでしょうか?

脳と答える人が多いと思います。

例えば「悦び」ですが、脳内で神経伝達物質であるドーパミンが放出されることによって感じていると科学者は説明するでしょう。



それでは、何が悦びを感じているのでしょう?

自分に決まっているだろうと言われそうですが、その自分とは何なのでしょう?



「自分」も脳が作りだしている、そして多種多様な「個性」も脳が作り出していると、科学者は答えるでしょう。

それを証明した人は、誰一人としていません。

証明できるわけがありません。

肝心な部分が欠落しているからです。



地上の人間は、「肉体」「精神」「魂」の複合体です。

真の「自分」とは魂です。

脳を含む肉体は、その表現媒体に過ぎません。



もちろん、「個性」も脳で作り出されるものではありません。

肉体とは異なる精神的次元に、魂の反映として個性が形成されます。



「美」を感じているのは、脳ではなく魂です。

魂は霊的次元の存在です。

美は霊的な感覚なので、物質的次元の言葉で説明するのは極めて困難になります。



モナリザに、この世のものとは思えない美を感じるのは、霊的な感覚を刺激しているからです。

作者のレオナルド・ダヴィンチは霊界から送られて来るインスピレーションを正確に受け取り、忠実に描写できる、類まれな才能があったと考えられます。



精神とは、魂と肉体の間に介在する媒体です。

魂が肉体に宿ると同時に、地上的な自我(精神)が生まれます。

地上的な自我は、肉体(五感)を通して外部からの情報を受け取ると同時に、肉体を使って外部に自己表現しています。

死んで肉体を失うと、霊的な自我で自己表現するようになります。(但し、死を認識していない人はその限りではありません。)

眠っている間も、霊的な自我が活動しています。



シルバーバーチの霊訓に書かれている「魂」とは、霊的な自我と考えています。

魂の本質は、神そのものであり完全であると考えています。

魂の成長とは、魂そのものではなく、霊体と言う不完全な媒体が完全に近づいて行く過程を指すと考えています。



普段、私たちは地上的な自我で自己表現をしています。

危機的な状況に陥った時や窮地に追い込まれた時などに、地上的な自我の陰に隠れていた霊的な自我が前面に出て来ます。

魂が目覚めるとは、地上的な自我に代わり、霊的な自我が主導権を握ることだと考えています。

真の自分とは、もちろん霊的な自我です。



それぞれの自我が存在する次元は異なります。

電波は波動であり、振動数があります。

人間から出される思念(感情)も波動であり、それぞれの思念に振動数があります。

怒りの感情は低い振動数であり、憎しみになるとさらに低くなりますが、それらは地上的な自我から生じていると考えられます。



一方、悦びや愛はレンジが広く、地上的な自我から霊的な自我にまたがって生じていると考えられます。

例えば、宝くじが当たったなど世俗的な悦びは低い振動数であり、地上的な自我から生じていると考えられます。

役に立った時の悦びは、振動数が高く、霊的な自我から生じていると考えられます。

利己性を帯びた愛は地上的な自我から、利他性を帯びた愛は霊的な自我からが発せられていると考えられます。

イエス・キリストが言う「敵を愛する」想いは、最も振動数が高い思念の1つであり、極めて成長進化した霊的な自我から生じていると考えられます。



怒りや悲しみや怖れなどの感情は、地上的な自我から生まれているので、肉体がなくなったと同時に消滅するはずです。

しかしながら、地上的な自我しか表に出ていなかった人や、死んだと思っていない人は、霊的な自我がなかなか目覚めずに、その感情から抜け出せません。



私たちは、完全(神)には程遠い存在です。

それでも、私たちには神性があります。

宇宙全体が神であり、宇宙を構成している一部だからです。



駅のホームに落ちた人を、電車が迫って来ているのにも関わらず、助けようとする人がいます。

聖書には「全き愛は恐れを締め出す」と書かれています。

神性から生じている愛によって、地上的な自我から生じている怖れが打ち消されたので、そのような行動ができると考えられます。



地上的な自我の要求に従うのか、それとも霊的な自我の要求に従うのかを、決めるのは自分です。

霊的な自我の要求は、得てして困難や苦労や危険を伴うものです。

両者の間で、しばしば葛藤が生じますが、霊的な自我の要求に従って行動に移した時に、成長進化が得られます。



生まれて来た目的は、地上的な自我(エゴ)に打ち克ち、神性を発揮することで、魂を成長させるためです。

魂が成長進化し、ふんだんに神性が発揮されるようになると、怖れだけでなく、怒りなどの感情からも解放されて、悦びのみが感じられるようになります。

その境涯に至ると、地上を生きる必要はもうなくなり、霊界で成長進化して行けるようになります。


NASAの公開画像より

モナリザの絵よりも宇宙の方が、私には美しく感じられます。

自然法則の働き(神の心)によって、完全な調和が表現されているからです。



個々が全体のために存在していることで、調和が生まれます。

それぞれの人が、全体のために寄与することで、この世界は美しくなって行くはずです。


2023年12月17日日曜日

覚悟を決めて生まれて来た

全ての自然現象は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則の根幹を為しているのが「因果律」です。

原因があって、その結果として現象(出来事)が起きています。

そこに偶然は存在しません。



地上の人生は、受胎の時から始まります。

受胎とは、卵子と精子が結合した瞬間に、魂が宿る自然現象です。

この現象も、何かしらの原因があって起きています。



受胎前に、私たちは霊界にいます。

居心地の良い霊界を離れて地上に生まれて来たのは、明確な原因(目的)があったからです。



シルバーバーチの霊訓には、地上でしか支払えない借りがあれば、また地上に戻って来ると書かれています。

地上でしか支払えない借りと考えられるのがカルマです。

記憶にはありませんが、前の人生で自然法則に反する行いがあり、その罪を償うために、地上に生まれて来る人は少なくないようです。



例えば、人を貶めて、人生を狂わせてしまった人がいたとします。

そんなことなどすっかり忘れて死んだとしても、地上での行状を思い出す時が来ます。

自分の行いで、その人が長い間苦しみを味わい、予定されていた人生を歩めなかったのを知ることになります。

その法則に反した行いに対して、因果律が働きます。

無限の叡智により、罪を償うためのプログラムが立案され、それを了承して再び地上に生まれて来ます。



人を貶めたのなら、自分が貶められる経験をするのが妥当な気がしますが、実際はそんな単純なものではないのかもしれません。

予定されていた成長を妨げてしまったのなら、自分の成長が妨げられる出来事が起きると考えられます。

失敗するのではなく、逆に地上的な成功を手に入れ慢心してしまい、成長できない、そんな償いの人生を歩む人もいるかもしれません。

起きた出来事から何も学ぶことができずに、苦しさから解放されない年月が続く、そんな償いもあると考えられます。



貶めた人に対する、贖罪の想いが強ければ、その人に直接借りを返すことを望むかもしれません。

そんな人は、対象となる人が地上に生まれる時に、その周辺で生まれることによって、関わり合いを持つことになるでしょう。

その人が窮地に陥った時に、助けなければいけない、強い衝動に駆られるかもしれません。

前生で貶めてしまった人を現生で助ける、そんな償い方もあると考えています。



神が創る計画は、私が想像するような底が浅いものではないような気がします。

全ての人に、非の打ちどころのない完璧な計画が立てられて、それぞれの目的が絡み合いながら、果たされるようになっているはずです。

完璧だからこそ、あらゆることにつじつまが合っていて、不自然さはどこにも感じられません。

コンピューターにデータを入力すると、計算処理されて答えが出力されるように、私たちの想いや言葉や行いに対して自然法則が働いて、機械的に結果が出されます。

全ての物そして事象に対して、同じ自然法則が平等かつ完全に働いていることで、公正は保たれています。



カルマがある限り、その人は霊的に成長はできません。

償いのための出来事は苦痛を伴います。

一見すると罰のように感じられますが、公正を保ちながら、その魂が早く成長して行けるようになるための神の配慮です。

地上の人はピンと来ないでしょうが、霊界に行くと成長ができないのは自由を奪われるのと同じくらい、苦しみを感じるものと想像しています。

成長したい欲求が強い人ほど、苦しみが大きく感じられ、早く地上に生まれて償いたくなると考えられます。



けた外れのカルマを作り出してしまうのが戦争です。

戦争を始めた人の多くは、死んだら終わりになると思っています。

死んでも意識は失われず、自分が始めた行為が招いた結果を目の当たりにして、愕然とするでしょう。

死んだ後に赴くのは思念の世界です。

数え切れないほどの怒りや恨みや憎しみや悲しみの思念が、地上霊界を問わず自分に向かって来るのを感じるようになり、恐れおののき、耐えられなくなると思います。

それから逃れるように地上に生まれたとしても、耐え難い苦痛を感じる人生が待っていると考えられます。

そんな人生を、何回生まれて償わなければならないのか、想像も付きません。

無知とは、本当に恐ろしいものです。



大きなカルマがないのであれば、生まれて来た目的は、より自分を成長させるためです。

地上でしか経験できないことを通して、自分にないもの、足りないものを手に入れるためです。



カルマを清算するため、あるいはより自分を成長させるため、そのどちらでもあっても、求めれば直ぐに地上に生まれることができるわけではないと考えています。

目的を果たすための条件が整うまで、霊界で待つことになると考えています。

国や地域、人種に関係なく、条件が整った環境に生まれると考えています。



アルピニストは、危険を冒してでも、より高い山に挑戦したくなります。

地上に生まれる前の魂も同じです。

大変なのは分かっていても、より一層、自分を高めたいという欲求があったので生まれて来たのです。



霊的な負債を早く返したい、あるいは大きく成長することを望んでいる人ほど、厳しい人生になると考えられます。

険しい山を見上げながら、第一歩を踏み出すアルピニストのように、厳しい人生になると覚悟して、魂は母体に宿ります。



そんな記憶など、一切ないと言う人もいるでしょう。

もし記憶しているとしたら、将来起きる出来事が気になってしまい、まともな精神状態ではいられません。

生きるのを放棄してしまったり、何とかして逃れようと躍起になる人もいるでしょう。

人はそれほど強くないので、神の配慮(愛)により、記憶が失われると考えられます。



今、こうして生きているのは、偶然ではありません。

目的を果たす機会が巡って来たと考えられます。



全ての出来事は、自然法則の働きにより起きています。

神の管理下で起きているので、ぎりぎりまで追い詰められたとしても、必ず乗り越えられます。



覚悟を決めて生まれて来たのですから、覚悟を決めて生き抜くしかありません。

目的を果たして、向こうに行きましょう。






2023年12月10日日曜日

ゴールに向けて走り続ける


今、男子マラソン選手の世界記録が、2時間を切ろうとしています。

1964年の東京オリンピックで、金メダルを取ったエチオピアのアベベの記録が2時間12分台ですから、随分と短縮したものです。


マラソンは42.195㎞走ると、ゴールを迎えます。

地上の人は、予定された年月(寿命)を生きると、死と言うゴールを迎えます。



マラソン選手は、タイムを1秒でも縮めることを目標にして走っています。

全ての人間は、自分を成長させることを目的として生きています。

自分(魂)があからさまになる霊界において、足りない部分、不完全な部分を自覚します。

地上での経験を通して、足りない部分を補うため、不完全な部分を完全に近づけるために生まれて来ます。



マラソンは決められたコースを走ります。

人生のコースも、予め決められています。

自分を成長させるのに適したコースを、私たちは生まれる前に選んでいます。

もし、コースが決められていなかったとしたら、成長とは関係ない出来事ばかりを経験することになり、いつまで経っても必要な学びが得られません。



人生のコース(シナリオ)は、完全なる叡智により立案され、私たちはそれを了承して生まれて来ています。

予定されていた出来事が、因果律の働きによって、人生のどこかで生じます。


人生のコースは予め決められていますが、人間には自由意志が与えられています。

そのために、決められていたコースとは違う方向に進んでしまう時があります。

そのまま進んで行くと、誤った方向に進んでいることに気付かせるような出来事(失敗や頓挫)が起こり、決められていたコースに戻ることもあるでしょう。

気付かないまま一生を終えたのなら、予定された学びや成長が得られずに、もう1度地上に生まれて来ることになります。

そうならないように、1人ひとりに守護霊が付いていて、決められたコースを進んで行くように導いています。



マラソンでは、前半は体力が残っていて比較的に楽に走れます。

けれども、後半になると疲れが出て来ます。

ゴールが近くなると体力は限界に近づき、テープを切った瞬間に倒れ込む選手もいます。



人生も同じかもしれません。

年を取るのに従い、知力体力が衰えて来ます。

精も根も尽き果てた時に、死と言うゴールが待っているような気がします。



マラソン選手はゴールすると、走り切った歓びを感じるでしょう。

しばらくの間休息し、回復したら次の試合に向けて練習を始めます。

少しでも良いタイムを出したいと思う限り、それが繰り返されます。



人は死と言うゴールを迎えると、圧倒的な解放感を感じながら、この世を生き抜いた悦びを感じます。

そして、これが最終的なゴールではないことを自覚します。

霊界でしばらく過ごした後に、再び地上という修練の場に生まれます。

少しでも成長したいと思う限り、それが繰り返されます。



マラソンの大会には、たくさんの選手が参加します。

1人で走るよりも、競い合う中で、タイムは向上します。


地上には、自分と違う人がたくさんいます。

周りに同質の人しかいない霊界よりも、違う人たちに囲まれながら暮らす方が、寛容や自己犠牲の精神が身に付けられ、霊的に成長します。



なぜ、マラソン選手は走り続けるのでしょう?

自分を向上させ、試合で良い結果を出すためです。

それでも、体力の衰えには抗えないので、現役を引退する日がやって来ます。



なぜ、永遠に生き続けるのでしょうか?

生命の本質は魂です。

進化して行くように定められていて、ゴール(完全)に到達するのには、無限の過程を必要とするからです。



マラソン選手は目的があって走っています。

けれども、地上の人は誕生すると同時に、生きる目的が分からなくなってしまいます。

そのため、目的を果たすための出来事が起きたとしても、何で自分がこんなつらい思いをしなければならないんだと、憤りを覚えることさえあります。



宇宙の隅々まで自然法則が働いています。

厳しい練習を積むことでタイムが縮まるように、苦しみを伴う出来事を乗り越える過程において魂は成長します。

マラソン選手の中には、月に1000km以上走る人もいるそうです。

走った距離は裏切らないと言われますが、地上は不確実な世界のため、努力しても必ずしも結果として報われるとは限りません。

自然法則は働きは完璧です。

次の世界に行くと、霊的に報われていたこと、公正が完全に保たれていたことを実感します。



長い距離を走り、肉体に負荷がかかり続けると、選手は苦しみを感じます。

そんな時に、脳内にβ‐エンドルフィンという神経伝達物質が放出されることがあります。

この現象が起きることにより、苦しみは和らぎ、幸福感や高揚感が得られます。

俗に言う、ランナーズハイと呼ばれるものがこれに当たります。

怪我などで、極度の苦痛を感じた時にも、同じ現象が起きると言われています。



20年近く前、それまで味わったことのない屈辱的で挫折的な出来事を、私は経験しました。

解決する手段は見つけられず、精神的に追い詰められて行きました。

先の見えない暗闇の中にいた時に、それまで気にも留めていなかった霊的真理の言葉が光り輝き出しました。

関心は、地上的なものから霊的なものに移りました。

目に視えない「魂」や「愛」や「想い」を、強く意識するようになりました。

苦しみや悲しみは、眠っている魂を目覚めさせ、真理を受け入れるための触媒です。

魂が目覚めることで、出来事を乗り越えようとする力が生まれました。



肉体に負荷がかかり続けると、苦しみを和らげる物質が脳内に放出される現象が起きるように、精神に大きな負荷がかると、魂が目覚めるという現象が起きて、苦しみから解放されることがあります。

そのどちらもが自然現象です。

偶然ではなく、自然法則の働きによって起きています。

法則を創った存在は、苦しみの最中にいる人を、乗り越えさせようとしていると推察されます。

深遠な愛を感じずにはいられません。



出来事は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則の働きは、愛に裏打ちされています。

挫折させるためでも、苦しめるためでもなく、成長させるために起きているので、乗り越えることができるのです。



私たちはゴールに向けて走り続けています。

いつの日か歓喜の瞬間がやって来ます。






2023年12月3日日曜日

亡くなった親友宅を訪ねて


お疲れかと思いましたが、少しでも早く家族に真実を知ってもらいたかったので、告別式の翌日に友人宅にお伺いしました。

まず、何とも言えない良い表情をしている友人の遺影に向かって手を合わせました。

隣のリビングには、家族が集まっていました。

長男、長女、三男、奥さんがテーブルを囲んで座っていて、友人のいつもの席は空けられていました。

何を話しに来たのだろう? 皆さんそんな顔をしていました。



まず、私が霊的真理と関わるようになったこれまでのいきさつを話しました。

望んでもいないのにヒーリングの力が出たこと、これから話すことを受け入れてもらうために、その力が与えられたことを話ました。

そして、単刀直入に「姿は見えなくなったけれども○○は生きているよ。」と伝えました。

突然そんなことを言われても、信じられないでしょう。

そこで「お父さんから、今まで受けてきた愛情は信じられるよね。」と言いました。

頷いていました。

「愛情は目に視える?」と尋ねました。

もちろん視えません。

「それと同じで、目に視えないけれど魂は存在しているんだよ。」

そして「魂から愛は生まれているんだよ」と続けました。

「ないのは肉体だけ。意識もあり、記憶もあり、性格もそのままだよ。」と言いました。

家族を思う気持ちも、当然のことながら、そのままです。



20数年前、先妻が突然亡くなった時、双子の長男と次男は幼稚園児で、3男は1歳でした。

友人は建築会社の経営者であり、いつも現場に出向いていました。

3人の子育てと仕事の両立は無理だろうと、周りからは子供を施設に預けるように勧められましたが、それを断りました。

子供たちの弁当も、早起きして自分で作っていました。

他の友人にはない強さが、この時身に付けられたような気がします。

「自分にはとてもできないことを、お父さんはしてして来たんだ。深い愛情があったからだ。」と言いました。



死によって、その愛情が途切れてしまうわけがありません。

目に視える肉体は、やがて朽ち果てます。

目に視えない魂は、不滅の素材(非物質)でできています。

魂が不滅であれば、そこから生まれている愛情も不滅です。



友人の肉体はもうありません。

従って、これまでのように自分の想いを、言葉や行動で表現することはできません。

前回のブログにも書きましたが、残して来た人を守り導くことで、愛情を表現して行くことになります。



悩んだ時、問題に突き当たった時、友人に尋ねてみてはどうかと言いました。

友人は責任感の強い人間です。

直ぐにではなくても、タイミングを見計らって、必ず応えてくれるはずです。

けれども、頼り過ぎてはいけない、決めるのはあくまで自分だと付け加えておきました。



地上の人は、想像している以上に、霊界の人に守り導かれています。

そのことに気付いていないだけです。

いや、頼ると成長しないので、気付かれないようにしているだけかもしれません。



霊界の人は、想い(思念)と言う「力」を地上の人の心に送っています。

想いが伝わると、地上の人の心に変化が生じます。

それにより、行動が促されたり、抑えられたりすることがあります。

暗い心が、パッと明るくなることもあるでしょう。

生きる勇気が湧くこともあるでしょう。

難題を解決する、ヒントを見つけることもあるでしょう。



良く作曲家が音が降ってきたと表現します。

地上の人に同調している霊界の人が、メロディーをインスピレーションとして伝えた来たと考えられます。

特別なことではなく、守護霊をはじめとする霊界の人は、頻繁にインスピレーションを伝えていると考えられます。

それとは気付かなくても、妙案を思い付いたり、発想を転換させたりして、意図した行動を取らせることで、地上の人を導いていると考えられます。



心に思い浮かんだものは、霊界から届いた思念(想い)かもしれません。

気のせいにしてはいけない、見過ごしてはいけないと、家族に伝えました。

霊界から思念が届くなど、SF映画の話と思ったかもしれません。

それでも「言葉を交わさなくても、相手が何を想っているか分かった時はないですか?」と尋ねたところ、あるあると言うように奥さんは何回も頷いていました。

もし、その相手が友人であれば、肉体がない今でも想いを感じ取れるはずです。



言葉は地上だけに存在する媒体です。

友人がいる霊界では、言葉を介さずに直接思念のやり取りをして、コミュニケーションをしています。

霊界から届いた思念を、地上の人は思い付きや気のせいと片付けて、どれほど無視しているのか分かりません。

次元を超えて想いを伝えるのが難しいことを、霊界にいる人たちは重々承知しているでしょうが、その度に歯がゆい思いをしているのに違いありません。



これから人生を歩んで行くに当たって、私なりにアドバイスをしました。

事業を継承している長男には、双子の次男と同じ方向を向いて力を合わせれば発展して行くこと、自分を超えることを友人は望んでいると伝えました。

三男は優柔不断なところがあるように感じましたので、どちらか迷ったら難しい方向、挑戦する方向を選ぶように伝えました。

娘さんの方を見た瞬間、友人が亡くなった時に心の中に浮かび上がった、黒い服を着ている男性と腕を組んでいる女性の姿を思い出しました。

浮かび上がったイメージは、下の写真に近いものでした。


そのイメージから、娘さんと腕を組んでバージンロードを歩く友人を連想しました。

娘さんに、そのことを伝えると、直ぐに自分のスマホを取り出しました。

待ち受け画面を見せてくれましたが、そこには着物姿の娘さんと腕を組んでいる友人の姿がありました。

これだと思いました。



霊媒現象を否定する人もいます。

その理由の1つとして、霊媒によって言うことが違うことがあげられます。

霊界の人は、写真のようなイメージをショットで地上の人に伝えて来ることが多いです。

受け取ったイメージから、私は友人は娘さんとバージンロードを歩きたかったと解釈しました。



同じイメージを見せられても、人によって違う解釈をします。

娘さんが恋人と腕を組んで歩いていると解釈する人もいるでしょう。

イメージに対する解釈は、受け取った人のパーソナリティーに多分に影響を受けてしまうと考えられます。

言うことが違って来るのは、嘘を言っているわけではなく、パーソナリティーによって解釈が異なり、その上に脚色が加えられてしまうためと考えられます。



スマホの写真は、娘さんの成人式の時に撮ったものでした。

親子で腕を組んだのは、この時が最初で最後のようです。

友人にとって感慨深かったシーンのはずです。

霊界の人は、娘さんのスマホの待ち受けにこのシーンが使われていることを知っていて、私にイメージを送って来たと考えられます。

何でも知っていること、うれしかったことを、皆さんに伝えたかったと思います。



告別式でお坊さんがお経を上げている時のことです。

友人が今、何を想っているのか知りたくなりました。

焦点を合わせたところ、浮かんで来たのは「すっげー気持いい」という言葉でした。

沈痛な表情で座っている家族とは対称的な、この脳天気とも言える言葉に、ちょっと吹き出してしまいました。

長い間、不自由な肉体の中にいて、解放された時の快感は、私が想像している以上のものかもしれません。

不謹慎に思われるかもしれないので、伝えるのを止めようかと思いましたが、やっぱり伝えました。

もう苦しんでいないことを、知ってもらいたいはずだからです。



遺影の顔写真ですが、実は娘さんと腕を組んだ時の写真をトリミングしたものでした。

そう言われてみれば、友人の表情は少し照れ臭くさそうでした。



いろいろな話をしているうちに、1時間以上経っていました。

最後に、これからも友人は、父親であり、夫であり続けることを伝えました。



話したことは慰めでも何でもありません。

生きていること、守り導いてくれることを、家族は少しは分かってくれたと信じています。

真理を伝えるのは知っている者の責務ですが、今回は友情の証です。